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2020-07-09

国家公務員に対する贈賄を行うJARL執行部を徹頭徹尾擁護する低脳ネトウヨJR1LHL

問題となっている広島の河井や東京菅原と同じ事をやっているJARL会長の行いを認める低脳が居た事に驚いている

問題の内容は下記リンクをご覧頂いた上でこちらをお読み戴きたい

ttps://jarl2020.wordpress.com/2020/07/09/miura/

そもそもこの手の行為法律違反である事を知らないで、JARL執行部を支持しているのだろうか

詳細はリンク先をご参照戴きたい

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281130242547912709

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281130474572677120

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281131901219028995

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281133076983083011

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281133492869316608

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281135716949348353

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281142710993207297

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281148468925325314

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281149237376348165

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281165159512240129

ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281165243184377856

如何であろうか

JARL執行部はこの様な順法意識がまるで皆無な連中から支持されている事がお分かりになっただろうか

はっきり言って、恥ずかしいとは思わないのだろうか

少なくとも、個人的にはこいつと交信したいとさえ思わない

こんなのが1アマだとは恐れ入った

世の中終わっているとしか言い様がない

各局に於いては、もしこいつと交信される様な事があったとしたら、徹底的に追い遣る事を望むばかりである

2020-07-03

ノクチルのイベントコミュを見た感想

=====

~ふふっ、ごめん。内容無いわ~

 内容的には特筆する事の無いコミュでしたがキャラを引き立てるという点では成功していたとも思うので、背景である話を地味に書いてメインとなるキャラを目立たせる手法だったのかな。終わり。

 と言う訳で以降はPSSRとイベコミュが出揃ったのでノクチルそのものと各キャラに対する感想を記していきます

~ノクチル全体を通して~

 幼馴染での空気感とでも言うか身内的で排他的な印象を受けました。恐らく「他との人間関係」にアイデンティティの多くが割かれたキャラ作りになっているからだと思います

~硝子のように透き通った透明な器~

 透は一見掴みどころの無いある種超然的な性格と同時に高い感受性も備わっているように思います一見傍若無人とも言える振る舞いも取ります必要フォロー直感的に出来るタイプなのでしょうか。逆に自分自身に対する認識というか他者から視線という感性は低いようにも見えます。硝子が自身の姿を写せないように、他者との関係という点に於いてこそ輝きを持ち中心に立つカリスマなのだと思います

~他者に写る自身の姿を追い求める~

 小糸は育成ゲーム的にはユニット内で1番王道的なキャラだと思います。周りの期待に答えようと努力し、挫折経験しながらも進んでいく単純明快さと同時に、他者との関係にある種病的に強く依存するキャラでもあります。幼馴染という枠に強い執着を持つようになった経緯が解ればまた印象が変わるかもしれません。

~鏡自身の輝きを求めて~

 透が居なければアイドルに関心すら無さそうなキャラNo.1の雛菜。

当初から強い軸を持ち安定したメンタリティの持ち主です。自身を素直に表現出来る快活さというか透とは別ベクトルで爽やかな性格だと思いました。透と同じく一見傍若無人でも周りへの気配りは出来るタイプです。単純に透への憧れがアイドルをする原動力という印象ですが、自身の輝きの中に原動力を見出すようになって欲しいなとも思います。 

2020-06-20

陰茎記

https://anond.hatelabo.jp/20200620144901

漏精の怒張は陰茎巨大、珍宝の末年、若くして根を虎棒に連ね、ついで自慰に補せられたが、性、豪快、自ら慰むところ頗る多く、我慢汁に甘んじるを潔しとしなかった。いくばくもなく陰茎を扱いた後は、故山、珍湖に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら自慰に耽った。下吏となって長い男根を俗悪な粗陰茎の前に屈するよりは、巨根家としての名を死後百年に遺そうとしたのであるしかし、性名は容易に揚らず、陰茎は日を逐うて小さくなる。怒張は漸く焦躁に駆られて来た。この頃からその肉棒も峭刻となり、肉落ち亀頭秀で、睾丸のみ徒らに丸々として、曾て壮絶に勃起した頃の最強の逸物の俤は、何処に求めようもない。数年の後、貧窮に堪えず、陰茎の衣食のために遂に竿を屈して、再び東へ赴き、一地方根吏の男根をせんずることになった。一方、これは、己の陰茎に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か巨大に勃起し、彼が昔、粗根として歯牙にもかけなかったその連中の陰茎を拝さねばならぬことが、往年の性豪怒張の海綿体を如何に傷つけたかは、想像に硬くない。陰茎は萎々として勃たず、異常の性癖は愈々抑え難くなった。一年の後、公用で旅に出、精水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或夜半、急に竿色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま巨根をとび出させて、闇の中へ出した。彼は二度と戻って来なかった。附近山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後怒張がどうなったかを知る者は、誰もなかった。

 翌年、珍擦御史、陳々郡の鎮沈という者、男根を奉じて嶺姦に使し、途に精汚の地に宿った。次の朝未だ暗い中に射精しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に巨大陰茎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと。鎮沈は、しかし、供廻りの巨根なのを恃み、駅吏の言葉を斥けて、出発した。淫月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一本の猛竿が叢の中から躍り出た。男根は、あわや鎮沈に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。その声に鎮沈は聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、肉棒を取り出した。「その陰茎は、我が友、怒張子ではないか?」鎮沈は怒張と同年に巨根の第に登り、精液の少かった怒張にとっては、最も親しい竿友であった。温和な鎮沈の陰茎が、峻峭な怒張男根と衝突しなかったためであろう。

叢の中からは、暫く返事が無かった。喘ぎ声かと思われる微かな音が時々漏れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は漏精の怒張である」と。鎮沈は自慰を忘れ、馬並みから降りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。そして、なぜ叢から出てこないのかと問うた。怒張の声が答えて言う。自分は今や下半身のみとなっている。どうして、おめおめと竿友の前にわびしい姿をさらせようか。かつ股、自分が姿を現せば、必ず君に侮蔑嫌悪の情を勃させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも竿友に遇うことを得て、亀頭の念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が短小な今の外径を厭わず、曾て君の竿友怒張であったこ自分と竿を交してくれないだろうか。後で考えれば不思議だったが、その時、鎮沈は、この超自然怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪もうとしなかった。彼は馬並みに命じて行列の珍行を停め、自分は叢の傍に勃って、萎えざる声と対談した。都の巨根、巨友の消息、鎮沈が現在の鎮、それに対する怒張の祝鎮。精年時代に親しかったもの同志の、あの中折れのない語調で、それ等が語られた後、鎮沈は、怒張がどうして今の絶頂となるに至ったかを訊ねた。自慰中の声は次のように語った。今から一年程前、自分が旅に出て精水のほとしりに宿った夜のこと、一回してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出してみると、声は闇の中から擦りに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて先走りを出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は中心の手で地を掴んで這っていた。何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を飛び越えて行った。気が付くと、手先や肘の辺りに陰毛を生じているらしい。少し明るくなってから谷川に臨んで姿を映して見ると、既に陰茎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは淫夢に違いないと考えた。淫夢の中で、これは淫夢だぞと知っているような淫夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても淫夢でないと悟らねばならなかった時、自分射精した。そうして萎えた。全く、どんな物でも勃り得るのだと思うて、深く萎えた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も折れ折れには分からぬ。理由も分らずに押付けられたものを大きくして、理由も分からずに勃てて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分は直ぐに扱きを想うた。しごき、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分中の人間は忽ち姿を消した。再び自分中の人間が目を覚ました時、自分自身は兎の愛液に塗れ、辺りには兎の毛が散らばっていた。これが陰茎としての最初経験であった。それ以来今までにどんな野合をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、淫語も操れれば、複雑な性行にも堪え得るし、性書の章句を誦んずることも出来る。その人間の心で、陰茎としての己の淫虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も精無く、嫌らしく、逝きどおろしい。しかし、その、人間かえる時間も、日を経るに従って次第に短小になって行く。今までは、どうして陰茎などになったかと怪しんでいたのに、この間ぴゅっと気が付いてみたら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これはいやらしいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、陰茎としての青姦の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。ちょうど、古い男の陰茎が次第に穴に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分過去を忘れ果て、一本の陰茎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても竿友と認めることなく、君を掘り喰ろうて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れてしまい、初めから今の形の棒だったと思い込んでいるのではないか?いや、そんなことはどうでもいい。己の中の人間の精がすっかり出てしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なくいやらしく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、いやらしく、硬く、切なく思っているだろう!己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ珍長になった者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了うまえに、一つ頼んで置きたいことがある。鎮沈はじめ一物は、息をのんで、自慰中の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。他でもない。自分は元来巨根として名を成す積りでいた。しかも、業未だ抜かざるに、この運命に勃ち至った。曾て作るところの男根数百本、硬より、まだ世に行われておらぬ。逝こうの所在悶々早判らなくなっていよう。ところで、その中、今もなお射精せるものが数十ある。これを我が為に伝録して戴きたいのだ。何も、これによって一人前の巨根人面をしたいのではない。棒の大小は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも睾丸に伝えないでは、ちんでもちにきれないのだ。鎮沈は股下に命じ、筆を執って自慰中の声に随って掻き取らせた。怒張の声は叢の中から淫々と響いた。長短凡そ三十本、豪快高雅、淫汁逸物、一見して搾精の才の非凡を思わせるものばかりであるしかし、鎮沈は吐精しながらも漠然と次のように感じていた。成程、搾精の素質が第一流に俗するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)萎えるところがあるのではないか、と。精液を吐き終った怒張の声は、突然調子を変え、自らを慰めるか如くに言った。羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の珍集が超淫蕩精子の机の上に置かれている様を、淫夢に見ることがあるのだ。蒟蒻の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。巨根家になりそこなって陰茎になった哀れな男を。(鎮沈は昔の精年怒張自慰癖を思い出しながら、哀しこしこ聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐を即席の陰茎に伸べてみようか。この陰茎の中に、まだ、曾ての怒張が生きているしるしに。鎮沈は又股下に命じてこれを掻き取らせた。その棒に言う。

 偶因萎疾成殊類 精根相仍不可逃

 今日早漏誰敢敵 当時声棒共相高

 我為異物陰毛下 君已乗馬気勢豪

 此夕淫山対性月 不成長大但成姦

時に、淫月、光冷やかに、白濁は地に滋く、珍間を渡る冷風は已に暁の近きを告げていた。

2020-06-19

https://anond.hatelabo.jp/20200619115808

児童虐待於いて最も難しいプロセスは、児童本人に「自分虐待されているのだ」ということを認めさせることだと言います

虐待というのは、客観的証明が難しく、畢竟当人がどう感じるかが全てという側面がありますので、裏を返せば、思い込もうと思えばいくらでも思い込めるのです。「自分虐待などされていない」と。

「愛されていなかった訳ではない」「自分の態度が悪かったのだからある程度は仕方がない」「こんなことはよくあることだし、もっと酷い事例と比べれば大したことではない」などなど。

そうやって思い込むことで、自分精神を守ろうとするのは已む無きことです。

そう思い込めれば幸いな誤解の中で生きることも可能ですが、自分虐待されていたという事実直視するのは、猛烈な惨めさに襲われるだけで、何の救いにもならず解決もないからです。

しかし、そのような自己欺瞞は往々にして精神の失調という形で現れることがありますあなた場合フラッシュバックなどでしょうか。


あなたは、聡明なるかな、そのような己の認知に疑問を抱き、他人に己の状況を客観的説明してみせました、その解決法として「父を許す必要があるだろう」という憶測を交えて。

まりあなたには現状を変化させようという意志があるということです、他人に頼ってまで。これはポジティブなことです。

また、ところどころ自虐的ながらも己の過去客観的記述出来るようになるまでには、それなりの月日が経っているのだろうと憶測します。つまりあなた精神的にも大人であるということです。

以上を踏まえて申し上げますが、あなた必要なことは、まず父を許すことの前に、自分虐待されていたということをお認めになることなのです。

気づきしょうがあなたのお父様が幼き日のあなたにした仕打ちは、それはそれは酷いことです。

そして幼いあなたは、何も悪くありません。

あの日トイレで壁をジッと見つめて涙を目に溜めていたあなた。その子を受容してあげてください。手を差し伸べてください。「あなた(私)は何も悪くなかったんだ」と。

それが出来るのは、あなたしかいないのです。大人になって見聞を広げ、社会性を身に着け、自分のことを客観視出来るようになりつつあるあなたしか

お辛いでしょうが、それが唯一の解決策と思います

信頼できる友人、恋人などいれば、助けを求めるのも良いでしょう。カウンセリングも良いかもしれません。

あなたの頼れるものを総動員しても、どうぞ戦ってください。

それさえ出来れば、その後お父様を許そうが許すまいが、それはどうでも良いことです。

吾輩はホモである彼氏はまだない。

それを自覚して認めたのはそう最近のことではない。

また、現代於いてSNSで同志を見つけることは難しくない。

から彼氏ができないことに悩むことはあれど、「LGBT当事者からよく聞く「自分おかしいのではないかと悩む」という声に共感できないでいる。

周りと違って特別であることを好む性格が幸いしたのかもしれない。

周りには積極的公言することはないが必死に隠しているわけでもないので、そこまで生きづらくもない。

私が好意を抱いている友人の男の子がいる。

彼には自分ホモであることを言っているし、好意もふんわり伝えたことがある。向こうがそれに気づいているか別にして。

その彼が今日椅子に座る私の膝の上に座ってきたのだ。

彼の椅子占領していたのは私なので、友達同士ならまあ普通のじゃれ合いだろう。多分。

間違いなく幸せ時間だった。本当に幸せ時間だった。

こっちがホモだと知った上でそういうことを普通にしてくる彼に感謝すればいいのか戸惑えばいいのかわからないが、今回は置いておこう。

席を離れてそのしばらく後、股間違和感を感じた。

濡れていた。

具体的に言うと、先っぽから粘度のある液体が少量だが出ていたのだ。

私はそのことに割とショックを受けていた。

自分が男が好きで、男に欲情することなんて今に始まったことではないにも関わらず。

それから今日一日、ショックを引きずりながら考えた。

私はこれまで「ホモであること」を精神的な世界で完結させていたのではないか

あるいは、これまでは能動的にしかホモであっ」ていなかったのではないか。(例えば夜のビデオ選びとか)

体がどうしようもなくホモであることを今日初めて受動的に実感したとしたら、このショックも理解できないこともない。

まり、これまでの私はホモであると同時に「ファッションホモ」だったのである

ウケる

2020-06-16

カラパイアのコメント欄

http://karapaia.com/

ここのコメント欄に書き込もうとしてもIP指定ではねられているようだ。

カラパイアはまとめサイトとしてはネタも優良なので日参している。

しかし、コメント欄思想統制が目に余る。

うつ病発達障害に関して擁護治療可能性の姿勢を示しているのに

パーソナリティ障害であるサイコパスに関しては非常に恣意的攻撃する記事

また宗教関連の問題於いて日本人立場からの率直な意見はしばしば非表示とされ

当事者に寄り添っていれば法的・道徳的にどうなの?という内容に賛同の嵐。

パルモのアンテナの張り方は尊敬しているが、議論を呼ぶものが多い。

それに対して意見を述べたいと思った時にコメント欄が正しく機能しないのは問題

2020-05-13

新型コロナ時代適応したコメンテーターを見た

3月30日(月)から日本テレビ番組ニュースワイドショー於いてソーシャルディスタンスが導入された。

スタジオ出演者を減らし出演者間の距離をとり、従来スタジオにいた出演者の一部をリモート出演に。

画面構成にも苦労が見て取れた。

最初テレビと同じ16:9の画面にリモート出演者を映す。リモート演者の背景は白。

これだと余白が多く絵面が間延びして見える。

次に、リモート演者を映す画面を縦配置に。これで余白は減った。

更に、リモート演者スタジオ出演者サイズを合わせ、並んでるように見せたり。

リモート演者の背景も飾り立てたり。

等々、日々変化していった。

   

そして今日、その究極進化形態を見た。

TBSの「ひるおび」にリモート出演している八代弁護士

隣に座ってる(ように見せてる)田崎シローのほうを向いて話しかけていた。

これは新しい。

   

https://pbs.twimg.com/media/EXd-tPaU8AAm7a0.jpg

https://pbs.twimg.com/media/EXyfvleUcAAP6qX.jpg

   

ツイッターで調べるとどうやら5月頭頃から始まっていたようだ。

八代弁護士個人で思いついた?

それとも番組制作陣のアイデアなんだろうか?だとしたら、それを受け入れ演じてみせる八代弁護士、器用だな。

2020-05-12

これだという奴が挙げられない以上、固定票がついてる奴に適うわけがないという単純な話も分からないのがアレ

誰でもいいは票集めに於いてお話にならないのだよ

2020-05-10

anond:20200510195654

その書き方だとネトウヨかつ法改正の良い点を言える奴以外犯罪者からネトウヨ以外は生き残れないな

もうちょっと日本語勉強した方が増田於いてTwitter於いても良いと思うよ

2020-05-05

コロナ時代に自らゲシュタポへ志願するみんなへ

コロナ陽性判明後に、保健所に嘘をついた上で山梨から帰京した人がはてブ匿名掲示板等でぶっ叩かれている。

Twitterでは「山梨20代女性」なんていうワードトレンドになっているらしい。検索してみれば、早くも特定しようという動きがでているのが垣間見える。

今朝TVをつけたときにやっていたワイドショーでも、この女性の行動の「身勝手ぶり」について逐一「報道」していた。

個人的に見れば、この人の行動は徹頭徹尾、愚かな判断だと思う。東京へ帰るという選択がまず百害あって一利なしに思えるし、そもそも保健所に嘘をついたってバレるのは時間問題だ。10秒くらい考えればわかりそうなことがわからなかったのは、賢明ではなかったと言わざるを得ない。

でも私たち人間はそういうものだ。不安なことがあると衝動的に愚かな判断をしてしまう。子供の頃、同級生がどうして先生に「宿題はもうやった」「ほうきを折ったのは僕じゃない」とすぐバレるウソを付くのかさっぱり理解できなかったが、いざ親に「メガネを壊したのはお前か」と聞かれて、なるほど追い詰められた人間は愚かな選択をしてしまものだと合点がいった記憶がある(そのあとどうなったかは、あまり思い出したくない)。

実際、同じ人であっても、金銭的に不安定な状態にあるときは、そうでないときに比べてIQが大きく下がることが研究でわかっている。お金の不足は自らの先行きに対する不安に直結する。コロナへの感染もまた、社会自分生活がどうなるかわからない、という不安に直結するものだろう。

先行きへの不安は、衝動的で、非論理的な行動を招いてしまうのだ。

もちろん、この女性が一体どういう心境でこの判断に至ったのか私にはわからない。もしかすると一片の不安のかけらもなかったのかもしれない。でもそんなことは実はどうでもいい。なぜなら、社会人間ほとんどは衝動的で非論理的判断をし、「失敗」するものからだ(そうでなかったら、今ごろ人種差別とか性差別とか、もっとマシな状態になっているはずだ)。多くの場合それは、友人に窘められたり、上司に叱られたりする程度で済む。でも中には、人生を大きく変えてしまうような「失敗」もある。スピリチュアル100万円の壺を買ってしまったり、消費者金融につられてしまったり、交通事故に巻き込まれしまったりといったたぐいの「失敗」だ。

でもそうやって「失敗」してしまう人を救うために、行政社会システム存在している。バカな買い物をしてしまった人のためにクーリングオフ制度や、財政的「失敗」をしてしまった人のための(あるいは多くの場合、「失敗」した家庭にうまれてきた人のための)生活保護、そして事故って骨を折っても破産してしまわないための健康保険、というように、社会システムには「失敗」した人のためのセーフティネットが組み込まれていて、それを行政運営している。健康保険がないとどうなってしまうのかは、米国を見れば明らかだ。

また、「失敗」がある種意図的ものであったり、他の人の人権侵害したりしかねないものに対しては、法律によって罰則が設けられている。たとえ「失敗」でも人を殺してしまえばそれ相応の罰則を受け入れる必要があることに(罰則の程度について議論があるのは当然として)今更異議を唱える人はあまりいないだろう。

「失敗」の種類によっては、これら「救済」と「罰則」両方の性格を併せ持つ対応をするのが必要なこともある。例えば違法薬物使用などは、周囲への影響を考慮して法的な罰則が設けられているが、実際に必要なのは依存症治療であるという点で、その顕著な例だろう。

こういったシステムは、非論理的で愚かな私たちが、一つの失敗で社会的・物理的に死んでしまうようなことなく、円滑に生活していくための、社会の「バッファ」としてそこに存在している。「バッファ」のないシステムは、すぐバランスを失って崩れてしまう。人類が長きに渡ってありえない量の二酸化炭素大気排出し続けて炭素サイクルをめちゃくちゃにしても、地球生態系がまだ大量絶滅経験していないのは「バッファ」のおかげだ(それも、サンゴの大量白化を見れば分かる通り、もう崩れつつあるのだが)。

はてブ匿名掲示板で「山梨20代女性」を叩き、特定して吊るし上げようとしている人々は、衝動的な判断をしているという点に於いて本質的に「山梨20代女性」と全く変わらない、オロカモノだ。あなたいくら懸命に彼女の行動を叩き、牽制したところで、「失敗」する人は絶対に出てくる。それどころか、「失敗」するのはあなたである可能性もある。それでも叩くのは、叩けば「失敗」をする人はいなくなるだろうという誤認か、あるいは自らの先行きの不安を叩くことに向けたいという欲求によるもので、どちらにせよ非論理的で愚かな選択といえる。

ただ一つ違うのは、「山梨20代女性」の行動が、既に感染してしまった彼女自身への悪影響はあまりないのに対し、「山梨20代女性」を叩く人々の行為は、自らの首を絞めているということだ。

考えてみて欲しい。感染経路を把握して感染拡大を防ぐのは行政役割であって我々には特に何もできないのに、この「山梨20代女性」の行動を逐一報道させ世間に知らしめることに一体何の目的があるのか?

その「目的」は、はてブ匿名掲示板で「山梨20代女性」を吊し上げ、特定しようとするみんなの動きが、雄弁に物語っている。

私たちが「山梨20代女性」を叩くとき、そこには「行政対応に落ち度はなかったのか」という疑問は存在していない。

この女性は陽性が発覚したあとなぜ移動できたのか?感染者の隔離行政仕事ではないのか?最初から検診・検査が迅速にできていればこうはならなかったのではないか?症状が出てから4日放置するという検査要件自体感染の機会を大きく広げていないか?症状が出ていても、生活が苦しくて実家に帰らなければならないような人は、一体どうしろというのか?そもそも日本では大きく広がらない」「4、5月頃には収束している」なんて言って対策を怠っていた人が、本当は一番無責任ではないのか?

こういったシステムとそれを運営する行政に対する正当な疑問は、「身勝手な行動をしたオロカモノがいました」という行政からの発表とそれを広報するメディア、そしてそれに乗せられてオロカモノを断罪する人々によって、巧妙に隠蔽される。

この一件だけではない。自粛を「要請」されても、明日生きていくために店を開け続けたり、満員電車に乗り続けたりしなければならない人に対して、「人殺し」と吐き捨てたり張り紙を貼ったりして自粛しない者たちをリンチする社会は、生活補償保障なく自粛を「要請」されるという構造欺瞞に気づくことができない。

愚かな我々を、救済にしろ罰則しろ本来受け止めるかべきバッファ機能していないという問題は、愚かな行動をしてしまう我々個人問題還元され、それに対し我々は反発するどころか自ら自警団へ志願して、我々自身の首を絞めている。

それを知った上で、みんなは「山梨20代女性」を吊るし上げる勇気があるのだろうか。自らの知性に絶対の自信を持てるのだろうか。

私は持つことができない。

社会の中からオロカモノ」を探し出しリンチする一方で、何も考えずに愚か者為政者として選出し、その愚か者扇動されまた「オロカモノ」を探しだしまリンチする……というループを繰り返す社会にしたいなら、好きにすれば良いと思う。個を喪失し、考えることをやめた日本社会に、ある意味お似合いの帰結だ。

ただ、私は参加したくない。私は時々オロカモノになってしまうことが許される社会に住みたい。

それは今のうちに、はっきり言っておこうと思う。

2020-05-04

日本語圏の不自由について考える

「いつかの休日、野山を散策していたら大きな栗を抱えた一匹のリスを目撃した。」という事実があったとして、果たしてその話題は日の目を見ることがあるだろうか、という事を思案する。

「栗の実をほおばる栗鼠の姿を描いた絵画」は果たして公開されることが許されうるのか。「栗と栗鼠」という題を避けたとしても、コンテクスト批評から果たして逃れうるものなのだろうか。

リスは「栗鼠」の音読である。栗とリスはかように関連性の高い語句であって、栗とリスの語句は決して忌避されうるものである筈がないのであるしかしながら、この「陰核」なるものを想起される

事を回避する手段が完全に奪われて久しい令和の世に於いては、この栗とリスはもはや暴力であるかのように我々日本語話者の脳細胞に直接作用せしめ、思想とは無関係女陰のある一点

イメージを否応なく上書き破壊脱構築してゆく。嗚呼このおぞましき精神的DVたるや、何故に大きな栗の木の下で遊んでいるのは二匹の可愛らしい栗鼠であってはならないのか。何故に

この詩的かつ純粋空間於いて栗と栗鼠が存在すら許されず原罪を抱えたままで楽園追放されうるか

試論 風俗嬢カツオの話 差別の話

https://anond.hatelabo.jp/20200503121929

https://anond.hatelabo.jp/20200503204026

風俗嬢カツオ比喩がよく話題に挙がっているが、話がなかなか深まらないのでずばりいいたいと思う。

風俗業とカツオ漁師の端的な差は、賤業かそうではないかです。

先ず、カツオ漁師需要減に依って不利益を被る中で価格の低下を喜ぶことは悪なのか?ということについてですが、私達の社会における自由競争の中では、誰かの損益と誰かの利益がつながっているというのは当たり前の話です。

何処かの会社画期的な新商品を開発して売上を大きく伸ばせば、同業他社不利益を被ります廃業ということもあるかもしれません。

からといって、その事に心を痛めて利益の追求をやめるという選択馬鹿げた話でしょう。需給ギャップによる価格の低廉化というのも極当たり前の市場原理であり、いち消費者倫理的問題として考えるのは馬鹿げています

ただ、この新型コロナウィルス禍に於いては少し事情特殊で、そのような不利益配分が単なる損失というだけでは済まず、数多くの人が経済的困窮に陥り生活破綻する恐れがあるという事を皆が漠として思い描いているのでしょう。

その結果として多くの人が「健康で文化的な最低限度の生活」をすら保てなくなるのではないか?という問題ですが、それは憲法保障された国民権利問題になります

民主主義国家於いて主権者国民ですから、その範囲では国民には国家に対してそのような自体に陥らぬようにさせる政治的責任があるとは思いますが、

市場活動の中での商取引一つ一つに於いてその倫理に基づいて感傷的になるべきだ、というのはかなり筋違いの話であると考えます


では本題ですが、性風俗業についても上述のカツオの話と同等にただの自由競争の中の話と言えるのかということですが、これは言えないと多くの人間が思っています

なぜなら性風俗業が賤業だからです。

性風俗業は賤業です、理由は多岐にわたりますがいくつか挙げてみましょう。

性風俗業は性倫理に反する

地域時代ごとに文化は異なると思いますが、現代本国於いて不特定多数人間に体を委ねる女性というのは性倫理に反すると思われています

そのような考えは女性差別で前時代的な産物だという考えもあるとは思いますが、そうは言ってもそのような倫理性が各人に植え付けられているというのも一つの事実ですから

業としてそのような行為を行うことには躊躇があって当然でしょう。

性風俗業は被差別的な職業である

1つ目の理由と地続きですが、そのような反道徳的な行いに身をやつすことは被差別的な眼差しを向けられることにも繋がります

そもそも風俗業というもの自体管理売春であり、法律的にも限りなく黒に近い灰色と言っても良い業種です。

そういった業に就いている事実は、通常あまり公にして得のあることではありませんから、そのような業への就業が寿がれることはないでしょう。

性風俗業は就業者の心身に対するリスクが多大である

性風俗業には健康リスクがあります不特定多数の客と粘膜的に接触することはエイズに始まって多種多様病気への感染リスクを齎します。

業態に依っては妊娠というリスクもあるでしょう。そういった身体的なリスクがまずある上に、精神的なリスクもあります

個人差はありますが、汎く言って不特定多数と望まず性的関係を持つという事は当人精神に負の影響を与えるものです。

そのような統計があるのかは知りませんが、多くの風俗嬢が何らかの精神的な問題を抱えているものと私は感覚的に思っていますし、そう大きくは外れていないでしょう。


このようなリスク性風俗特有リスクであって、カツオ漁師とは比較にならないことです。それを理由として皆は岡村隆史氏の発言に憤りを感じました。

ですが、前段で挙げたような種々のリスクというのは風俗嬢に対して差別的なんじゃないか?という疑問があると思います

はい差別だと思います

どれも事実として存する事柄ですが、別に風俗嬢個人還元して良い話ではありません。

倫理なんてもの自体絶対ではないし、それを破ろうがどうしようが他人がとやかく言う話ではありません。望まず性倫理を破らなければならないのならそれは貧困問題です。別の手当が必要でしょう。

また、その当人差別的に扱うなんてことは言語道断であってはならないことです。法的にグレーだというのならきちんとそれを整えるべきなのであって、当人非行のように言うのは欺瞞です。

心身のリスクについても出来る限り低減させるような取り組みがもっとあって然るべきだし、当人健康リスクがあることを以て当人忌避されなければならない謂れは全くありません。

この社会では、差別は許されないということになっていますが、差別を語らないことが差別を許さないことになったと誤解している人が多いように感じられます

本来差別が許されないことであるのと、差別存在することは両立します。

差別は許されないが、差別現存しており、被差別的な扱いを受け(させ)たくないという感情もあるので、人は差別を遠ざけようとする為、差別再生産されます

カツオ風俗比較という話に対するレスポンスの多くが、体表を撫で回しているだけで終わるような表面的な話に終始し、風俗業の被差別性という本質に全く切り込まないことの理由がこれで、でもそれでは駄目なのです。

この社会性風俗というものをどう位置づけるかを考える良い機会ではないですか?単に岡村隆史バッシングしていればいいという話でもないと思うのですが。

2020-04-26

まりは、選択肢式のエロゲプロトコル

はいつもこう思っている

自分が選ばなかった選択肢の、隣の世界が常にあるんだ」と

今この瞬間にも、隣に無限世界が作られていく

ほんの少しの違いが、多世界を作っていく

今この場の自分の恥でそれを選べないくらいなら、そんな感情なんて蓋をしてしま

今この場の労力を厭いそれを選べないくらいなら、そんな倦怠なんて無にしてしま

しか選べないこの選択肢の視座に於いて、それをできるのが今だけなのであれば

跳躍一つで届く距離に、次の瞬間には那由他距離に遠ざかる浄土があるのであれば

2020-04-23

anond:20200422160753

生殖しないまま死ぬ個体や巣立たずに終わる個体」は進化に何の影響も全くこれっぽっちも及ぼさな


  って、本当? 蟻や蜂を見ていると、生殖しない個体遺伝子の生き残りに影響を及ぼしているように思えるんだけど.... (もちろん蟻や蜂など以外の社会的生物於いても同様ではないかと)

2020-04-19

anond:20200419160004

データサイエンス学位を持ってるわけでもないのにPythonで何すんの?

(日本於いては)Webでは使われてないよ

医療崩壊は防げたのか

政府がよくやってるとは思わない。

豪華客船への対応、お肉券にお魚券に旅行券、突然の休校要請、かと思いきやなかなか出さな緊急事態宣言10万円配る配らないのゴタゴタ、そして虫入りマスク

政府がよくやってるとは全く思わない。

しかしそれを一旦於いてみたとしても、果たしてこの何ヶ月かで医療崩壊は防げたのか?

そもそもの、5年計画の病床削減。

足掛け5年という長期計画で病床を削って来たという時点で、今回医療崩壊することはもはや避けがたかったのでは?

高齢化を見据えてカネのかかる高度急性期及び急性期病棟を削り、ついでに療養病棟も絞って医療費削減を、というのがコロナ前までの地域医療構想であり、病床再編計画だった。合理的妥当性があると判断された方針だった。

誰もこんなことになると思っていなかった。

いや、たぶん専門家は「こうなったらどうする」という警鐘を鳴らし続けていたはずだが、それを聞いた上で、「そうなったらその時だ」式に、目の前の高齢化に備える選択を取ってきたのだ。

まり普通に賭けに出て、負けた。それだけだ。

東京都23区内某所在住だが、ここのところ毎日救急車サイレンを聞いている。

毎日必ず最低1回。朝も昼も夜も聞く日もある。早朝、深夜、関係なしに。

現に今も鳴っている。

たらい回しの立ち往生なんだろうなあ、と思う。

せめて医療マスクとか感染制御アイテムはさっさと増産したれや、と強く思う。

あと肉の壁になってる方々、マジで逃げた方がいいよって言いたいけど、もう今更逃げ場もないだろって言われたらそうかもねとしか返せないので言えない。

頑張れる範囲で、頑張ってください。

元肉の壁より。

2020-03-29

オタクと女オタク二次元推しに対する違い

いや、いわゆる観測範囲問題の域を出ない話かもしれないんだが。

オタクって「顔が良い」って言わない傾向強くね?

「ああーー顔が良いーーー」っていう悶え方をあんまりしないというか。「その人物人格言動の美醜を一旦於いて、見目の良さのあまり肯定と感嘆に暮れ過ぎて語彙を失う」みたいな状態にならないというか。

そもそもオタク二次元の(異性の)推しの良さを語彙を尽くして語ろうとしてるの自体あんまり見ない気もしているが。(オタクかどうかはともかく風俗レポで文豪になってるのはよく見る)

なんかちょっと不思議だな。

言動クズまたはダメ人間または一歩間違えば他害に達するタイプヤバいやつ、だけど顔が良い(顔「は」良い)」という評価の仕方があんまりメジャーでないよね。

言い換えると、「(プラスの)評価」というのは常に人格言動への評価であって、見目のある程度の麗しさは備わっていて当然の足切りラインしかないような、そういう感じに見える。

興味深いのは、「見目のある程度の麗しさはあって当然」であって、言動人格の美が見目の醜を覆すことが基本無いこと。

どころか、言動人格が見目の美の引き立て役的スパイスとして期待されてる節があること。

逆に女オタク言動人格や一瞬の感情の美を引き出し表現するために、絵柄捏造解釈こねまわしは当たり前にやるってところがある。結果的に「読み応えのある」表現物が出やすくなってる感がある。キャラ解像度を上げる、というやつ。

何が言いたいかっていうと、引きこもりサンデーで暇だからキャラ解像度を上げようと試みてるような読み応えのある表現物が読みたいんだけど、みんなどうやって探してるの、という話です。

オタクは探しやすいとこあるじゃん……語ってるの見つけやすいじゃん……男オタ、エロ方面は充実してるけどどうも非エロが見当たらないんスよ……そしてエロエロスの解像度こそ高いけどエロいだけというか、「エロを通して関係性が変わった」とかそういうのが見えないのが多いんですよ……!

っていうかここまで書いてて気がついたけどそれこそ二次とかじゃなくて商業漫画のがいいか青年誌モノっぽい感じか?BEASTARSとか宝石の国とかあそこらへんか?

なんかないっすかねー。

2020-03-25

今年も始まって3ヶ月が過ぎようとしている。

酷く憂鬱な始まりの年ではあったが、この後はもうちょっとマシな生き方をしようと思う。

先ず、昔普通にやっていた文化的生活っぽいものを復活させたい。

本屋映画館美術館動物園水族館

そういったところに行こうと思う。

動物園水族館に一人で行くのはちょっと腰が引けるが。

きっと癒やしがぼっち感を上回る筈だ。

私は車に乗らないので、e-bikeでも買ってポタリングがてら遠くまで行こう。

日帰りでもいいから、寺なんかがあるところへ旅行へ行くのもいい。

それからストレスで肥って行く気にならなくなった大きいお風呂へ行こう

(なんなら週イチくらいで行こう)

あと、夏になったらちゃん花火を見に行こう。毎年職場から見るのは嫌だ。

職場から花火を見る…か。

そもそもこの職場を去るべきなのだ

勤めて丸3年は経っていないが。

この後の短くはない人生於いて、この職場に居ることによる肉体的精神的損失は計り知れない。

そもそも、「人に尽くす様な仕事」というのに向いていなかったのだ。

「もしかしたら」という淡い期待によって奉職してみたが、矢張り私の「人間に対する愛情の薄さ」は並大抵ではなかった。

そして、「仕事」と割り切ってやるには内容が過酷過ぎる。

こんな「仕事」に就いていながら、得られる報酬は僅かである

同僚は「バイトした方が楽だし稼げる」と言っている

(この片田舎ではダブルワークでもしないと私が現在得ている微々たる月収にすら届かないと思うが。それか夜職でもしない限りは)

ボーナスだって夏冬合わせても貧乏腰弁の月給に届かない程度だ。

ボーナスがあるだけマシ?月給がそれなりなのならボーナス無しでも構わないのだがな

(ところで、これから始まる同一労働同一賃金について世の正社員はどう考えているのだろうか。

普通企業なら賞与額で差を付けるのだろうが、正社員で居る意味が無くなる様な人も出てくるだろう。

あと、この法のせいで馘首される非正規も)

なんにせよ、この惨めな人生を更に生き続けるのならば

少しでも楽で満足出来る様なものを目指すべきだ。

自分自身も、人生も、コントロールしているのは己なのだから

2020-03-23

約束のネバーランド鬼滅の刃,HELLSING,そして人の尊厳矜持について

可哀そうに あなたはなぜ そんなにもひもじく飢えているの?

誰より豊かで何だって手に入るあなた

何かと思えば…妾がひもじい?飢えている?

「ええ あなたは飢えている」

いくら食べてもいくら手に入れてもいくら上りつめても満たされない

可哀そうに 哀れだわ 本当は何が欲しかったの? 何を恐れているの?

足りていると感じることさえできたなら 別の未来もあったでしょうに

際限のない欲望に囚われて 神への敬意も忘れ 世界をむさぼり

結果自らを破滅に導いてきたのだとあなたは気づいていないのよ

(中略)

いいわねムジカ あなたはずっとあなたもの

鬼は何者にもなれるが何者でもない

飢えが怖い 退化が怖ろしい

長く生きてさえたまにわからなくなる

どこまでが自分なのか 自分が何者なのか 何者になりたいのか

――白井カイウ/出水ぽすか約束のネバーランド


殺し続けていた

私の中で 私の命を

三百四二万四千八百六十七 一匹以外は 全員殺して殺し尽くしてきた

もう私はここにいる

もう私はどこにもにいるし どこにでもいれる

からここにいる

――平野耕太HELLSING

私にはね インテグラ

吸血鬼が あの恐ろしい 夜の世界を統べる不死身の化け物が

ひどく哀れな 哀れな弱々しく泣き伏せる童に見える」

――平野耕太HELLSING

「おまえはおれだ!!」

「お ま え は お れ だ !!」

「おれもこの通りの有様だった 俺もこの通りの様だったんだ!!」

「カッ カハ… カハッ… カハ…ッ カハハ…ッ カハッ」

「鬼が泣くなよ 童に追われたか

鬼が泣くな 泣きたくないから鬼になったのだろう

人は泣いて涙が枯れて果てるから

鬼になり化け物に成り果て 成って果てるのだ

ならば笑え 傲岸に不遜に笑え いつもの様に

はいく お前はいつまで生きるのだ

哀れなお前はいつまで生きねばならぬ?

膨大な私の過去を 膨大な私の未来が粉砕するまでだ

なに 直ぐだ 宿敵よ いずれ地獄

――平野耕太HELLSING

きっと吸血鬼になれば素晴らしいのだろう

無限永久に生きて 無限永久戦い続けられれば

それはきっと歓喜なのだろう

だが私はそれはできない それだけはけっして

不死は素晴らしい 能力は眩しい

血液通貨とした魂の命の同化

失 せ ろ !!

俺の心も魂も命も 俺だけのもの

他者との命の共合 生命(いのち)の融合

精神統合 吸血鬼本質

何と素晴らしい それはきっと素晴らしいのだろう

きっとそれは歓喜に違いない

だが冗談じゃない 真 っ 平 御 免 だ ね

のものは俺のものだ 毛筋一本 血液一滴

私は私だ

私は私だ

私は私だ!!

うらやましいね

眩しい 美しい

からこそ愛しく だからこそ憎む

からこそお前は私の敵だ 敵に値する

遂に私は宿敵を見つけたぞ

私の戦争

そして我々はそのための準備を営々とはじめた

50年かけて

――平野耕太HELLSING

私は永遠が何かを知っている

永遠というのは人の思いだ 人の思いこそが永遠であり不滅なんだよ

――吾峠呼世晴鬼滅の刃

「これきりなのね…………」

「手術が終わったらこの気持もかき消えてしまうのね」

「いや そうじゃない」

「この瞬間は永遠なんだ」

――手塚治虫ブラックジャック

やろうと思えば刑務所くらい俺も出られる。

ただ俺は今たいした不自由を感じちゃいないんでね。外出する必要もない

さ、戻ろうや所長。バカバカしい…

世界自由でなければ自由を感じられないなんて

なんて不自由な男だい

板垣恵介範馬刃牙

ノミっているよなあちっぽけな虫ケラのノミじゃよ!

あの虫は我我巨大で頭のいい人間にところかまわず攻撃を仕掛けて 戦いを挑んでくるなあ!

巨大な敵に立ち向かうノミ…これは『勇気』と呼べるだろうかねェ

ノミものは「勇気」とは呼べんなあ

それではジョジョ!「勇気」とはいったい何か!?

勇気」とは「怖さ」を知ることッ!「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!

人間讃歌は「勇気」の讃歌ッ!!

人間のすばらしさは勇気のすばらしさ!!

いくら強くてもこいつら屍生人は「勇気」を知らん!

ノミ同類よォーッ!!

――荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険:ファントムブラッド




タイトル引用だけで9割が伝わる人もいるだろうから、これ以後はもはや蛇足である

約束のネバーランド18巻を読んでから連想感想

冒頭で引用した、鬼の女王レグラヴァリマのとの会話が印象的だった

まり、これは「主観的地獄」についての話なのだ、と思った

 餓鬼は、三途・五趣(五道)・六趣(六道)の一つ。餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる

 「正法念処経」では36種類の餓鬼がいると説かれている。

 鑊身:私利私欲動物を殺し、少しも悔いなかった者がなる。眼と口がなく、身体人間の二倍ほども大きい。手足が非常に細く、常に火の中で焼かれている。

――wikipedia餓鬼


誰が地獄を作るか、それはまさに仏教的な意味での「縁起」や「十二因縁である

現代的かつ限定的に例を出せば、基本的信頼感とも言える

人は足るを知らなければならない

人を知る者は智、自ら知る者は明なり

人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し

足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り

その所を失わざる者は久し

死して而も亡びざる者は寿し

――老子

逆説的というか、皮肉にもというか

「欲しい」と思い込んでいるものを求め、望み、手に入れれば入れるほどそこから遠くなっていく

それが物質であれ、行為であれ、関係性であれ

現代於いて、それは「依存症」という形で結実している

依存症を救うのは、常に人間関係であるという

詳しい解説松本俊彦の著書でも引用すれば良いが、そうなのである

そも、依存を引き起こすのは何か、何を求めてそれだけの執着になるか

冒頭で引用したセリフにあるように、「何を求めているのか」が掏り替わっているのだ

掏り替わり続け、世界と擦れ違い続けた結果、その主体者の主観的世界地獄に生まれ変わる

潔癖症人間が、自らの認識作用を総動員してその主観的世界汚物で席巻するように

それは、人間というシステム原理的に持ち得てしまうある種のエラーである

その救いとして、この世界では「自分意思」というものを一つの解答とすることが多い

恐怖や不安直視し、良いものも悪い物も等しく自分の中に置き、「曇りなき眼」で見続ける

倒すことはできない、消すこともできない、「ただそこに在るだけ」をそのままにしておくこと

これは、ACTの考え方とも同義である

ACTは従来型のCBTと異なり、クライアント自分自身の思考感情感覚記憶など私的出来事のよりよいコントロール方法を教えるということはしない。むしろACTクライアントに教示されるのは、「ただ気づいていること」、受容すること、私的出来事を思ったままにすることである特に、自らにとって望ましくない事柄についてそうすることが求められる。

――Wikipediaアクセタンス&コミットメントセラピー

 最後に、くり返しになってしまうがまとめておこう。他者はいつでも私にとっては「理解きぬ不気味な存在」でありえる。その不気味さが同じチームのなかで突然浮かび上がることがあるし、理解という手法でそれを解決することはできない。むしろ、その「理解できなさ」こそが、一種の救いなのだ他人の心に踏み込んでいったり、他人自分を同じ存在だと思ってしまったりすると、正常な距離は失われることになってしまう。

 だから、互いに「理解できない不気味な他者」として関わり、そしてそれゆえに「共にいる」こと。わたしたちはそうした関係に満足しているべきだし、そうした関係にこそ価値がある。

――ティッシュ専用ゴミ箱2 「女児向けアニメで描かれる「他者の理解できなさ」について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか。-『プリティーリズム』『プリパラ』を一例にして」

の子を解き放て!あの子人間だぞ!

黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか?

森を侵した人間が、我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ!人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ!お前にサンを救えるか!?

からぬ……だが共に生きることはできる!

ハハハ!どうやって生きるのだ?サンと共に人間と戦うと言うのか?

違う!それでは憎しみを増やすだけだ!

――宮崎駿もののけ姫」

ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものにしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。

――アーシュラ・K・ル=グウィンゲド戦記影との戦い

2020-03-09

運命に従わなかったものの末路(その1)

これが運命、という啓示が予めあったにも関わらず、それに従わなかったパターン


まず、その運命に反する行動をとるときに、ものすごい抵抗がある。

その後、しばらくはもやもやと抱えたまま生きる。

本来運命ではないことが起こったことをはっきりと自覚してからは、死にたくなる。大うつ病がやってくる。

その後は、よくある受容が起こる。

ただ、受容の程度がえげつない

記憶が抜け落ちる。解離性健忘が起こる。

私の場合は、なにかから接続がぷっつりと切れ、糸が抜かれるような感覚があるときがあった。

それからの感じ方というのは、感覚でいうと、時計じかけのオレンジアレックス状態

ルドヴィコ療法の如く、目を見開かされながら、自分のいない世界線を、ずっと見る感じ。

ただ、自分のいない世界線といっても、自分という登場人物はいて、あくま世界線の一部として存在している感じ。

それまであった主人公感は完全に抜け落ちる。

自分時間は与えられるが、自分本来やりたいことは手に付かない。

でも、自分のいない世界線は、自分の在不在に関わらず、本来進むべき脚本に従って続いていく。

自分場合他人との関わりに於いてだったので、その他人の演じる分まで演じている感じ。

時折、現実世界を見ていると、本来世界線映像が出てくる。

夢にも本来世界線が出てくる感じ。

なんであんなことしたんやろ。

運命には従ったほうがよい。

2020-02-16

内藤一成『三条実美』を読んで

内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書2019年2月)読了

面白い三条理解できたことで、この時期の政権本質についても理解が深まった。三条を「有徳の為政者」と位置づけ、最後にそれを「知の政治家」(瀧井一博の伊藤評)とつなげるのは見事だなあ。

封建制社会儒教道徳徳治属人的」→「近代社会議会制原理法治/属制的」。高貴な出自なのに革新志向、清廉無私の人柄、この二つの特徴を持った三条実美という人物が当該期の政権運営には必要だったということだ。

興味深いのは、手腕でなく徳で政府を治める太政官制(あるいはそのような政治文化)とその後に樹立された明治憲法体制比較すれば、前者がより属人的後者がより属制的といえるが、さらにその後の昭和戦前期と比較すれば初期の明治憲法体制属人的要素に頼る所が大きかったことだ。伊藤らの意図は立憲制度確立、つまり天皇閣僚が入れ替わっても立憲政治の根幹が失われないよう制度化することにある。言い換えれば属人から属制への転換を図ることだ。(ちなみに、神棚に祀ることで天皇政治勢力を接近させずまた天皇権力事実上制限したのが、まさに伊藤(井上伊東)の深謀遠慮というものだ。この賢察を思うにつけ、天皇機関説排撃とかバカジャネーノとしか言えん。天皇機関にするのが憲法だろ!)。

しかしそれでも、憲法に明記されない微妙問題、あるいは高度な政治判断が求められる局面になると、個人パーソナリティーや個人間の特別関係ものを言うことが多い。要するに、当面の政敵でも共に維新回天の荒波を潜り抜けてきたという同志的な感覚とそれに基づく信頼・敬意・連帯感があり、最後最後ではその琴線に訴えかけることで複雑な問題の調整が図られているように思える。制度に足りない部分を人情が補っている、草創期ならではの危うい立憲制。

そして明治元勲が皆世を去ってしまうと、憲法は輝かしいけれど文字になり、制度要塞になり、縦割り・現場無視党利党略・悪い意味での官僚的態度等々が前面に出てしまい、それが政権運営不安定さや政党政治機能不全につながった……のではないか日中戦争前後政府官僚・軍・政党を見ていて感じるのは、よく「彼は調整型の人物で…」というが、政治的調整とは調整役が何とかしてくれるということではなく、また調整役とは八方美人意味であるはずがない。

三条近代立憲政治にふさわしいリーダーではないが、ある時期には彼のような調整役が必要で、それは彼が出自人徳という計画的習得できるようなものではない要素を備えていたからで、そういう意味で代えのきかない存在だった(武器として装備しました、ではなく、元々そういう人だ(あるいはそのように見える)という点こそが重要)。その後の政府現代組織於いて三条人物三条のような高い地位を占めるべきかと言われれば疑問だが、組織運営(特に責任者の周囲)に於いて三条的な役割不要成る事は決してない。三条合理的積極的存在意義を見出すという著者の意図は十分成功しているし、その存在意義はそのようなことをも示唆しているのではないか

2020-02-13

映像研の感想

酔っ払っている。

映像研。

今、アニメ6話まで見たところ。

原作漫画アニメを本格的に見る前に5巻まで読んだ。

で、原作を踏まえてアニメを見た感想

こんなに「愛」に溢れたアニメはないんじゃないか

作中で3人の少女は、アニメを作ろうと奮闘する。

設定を作り、動画を割り、資金環境をかき集めて、なんとか作品を形にしようとする。

で、その作品は、原作作中いくつか「その時点での最善」に過ぎないながら完成する。

しかし悲しいか漫画作品。完成した作品を、読者は「アニメとして」鑑賞することができない。

そこで今回のアニメである

完成したアニメを、アニメとして、そしてアニメならではの感受性表現(ex.予算審議委員会)をもって魅せてくれる。

それだけじゃない。

アニメ制作する過程の部分も、「現実ならこうだぜ」「俺らならこうするぜ」と、実際の現場感覚アニメの作り手自身が持ち込んで足している。

決して「現実をナメるなよ」というニヒリズムや諦念ではない。

強いて言うなら、現れているのは「おじさんをナメるなよ」というプロとしての矜持だ。

映像研の3人の少女は、歓迎を以てアニメプロのおじさんたちに受け入れられたのだ。

「実際作るならこうだろ」「この方が画としていいぜ」「あーそこで苦労するよな。わかるわかる」

粗削りで、未熟で、それでも熱意だけはある3人娘は、アニメを作るおじさんたちにとってほっておけない存在なのだ

祝福をもって、受け入れられたのだ。

そして、アニメプロたちに笑顔で迎えられた人がもうひとりいる。

他でもない、原作者・大童澄瞳氏、その人である

エンディングアニメーターとして参加したことがその証左だろう。

原作映像研は、アニメーターに憧れて挫折した大童澄瞳による、アニメ業界へのファンレター…というかラブレターだと思う。特濃の。

で、このアニメは、アニメからの、湯浅政明監督からの愛に溢れたアンサーだと思う。

エンディング動画を見ると、大童澄瞳は現時点ではやっぱりアニメーターとしては並以下だと思う。

(おそらく、浅草氏に近い画的資質を持つ人なのだろう)

それでも、毎回必ず流れるエンディングで、メインアニメーターとしてクレジットされている。

これが、業界の先輩の愛でなくて何なのか。

原作映像研という「アニメって/アニメーターってすげえんだぜ!」というラブレターに、

「お前が思ってるよりもっとすごいぜ!」あるいは「そうまで言われちゃやるしかあんめぇ」と粋な回答を示す。

それでいて、そのラブレター勇気づけられたことに感謝も示す。

偶然かもしれないけど、サイエンスSARU(制作会社)と映像研のロゴの重ねっぷりなんか、愛と愛の応酬しかないでしょ。

アニメの作り手は原作に、原作の描き手はアニメの作り手に、

お互い元気をもらい、お互い感謝しあって、お互い認めあって。

その結晶が、このアニメ作品なのだとしたら。

それが傑作に、ならないわけがない。

余談

それを於いても、特に浅草氏のイメージ段階の画は、コンテのまま見せる、動画を割らなくていい、等作り手として楽できるポイントでもある。

そういうところを衒いなく取り込んで悪びれないのはやはりプロだと思うし、鑑賞者もスケルトン的に楽しい。図解というか。「アニメのできるまで」みたいな。

アニメを作るおじさんたちの「親心」「兄貴ヅラ」「若者を見守る目」。

そういったものが、何より愛おしく可愛く見える。

アニメ映像研は、そういう作品だと思う。

映像研の感想

酔っ払っている。

映像研。

今、アニメ6話まで見たところ。

原作漫画アニメを本格的に見る前に5巻まで読んだ。

で、原作を踏まえてアニメを見た感想

こんなに「愛」に溢れたアニメはないんじゃないか

作中で3人の少女は、アニメを作ろうと奮闘する。

設定を作り、動画を割り、資金環境をかき集めて、なんとか作品を形にしようとする。

で、その作品は、原作作中いくつか「その時点での最善」に過ぎないながら完成する。

しかし悲しいか漫画作品。完成した作品を、読者は「アニメとして」鑑賞することができない。

そこで今回のアニメである

完成したアニメを、アニメとして、そしてアニメならではの感受性表現(ex.予算審議委員会)をもって魅せてくれる。

それだけじゃない。

アニメ制作する過程の部分も、「現実ならこうだぜ」「俺らならこうするぜ」と、実際の現場感覚アニメの作り手自身が持ち込んで足している。

決して「現実をナメるなよ」というニヒリズムや諦念ではない。

強いて言うなら、現れているのは「おじさんをナメるなよ」というプロとしての矜持だ。

映像研の3人の少女は、歓迎を以てアニメプロのおじさんたちに受け入れられたのだ。

「実際作るならこうだろ」「この方が画としていいぜ」「あーそこで苦労するよな。わかるわかる」

粗削りで、未熟で、それでも熱意だけはある3人娘は、アニメを作るおじさんたちにとってほっておけない存在なのだ

祝福をもって、受け入れられたのだ。

そして、アニメプロたちに笑顔で迎えられた人がもうひとりいる。

他でもない、原作者・大童澄瞳氏、その人である

エンディングアニメーターとして参加したことがその証左だろう。

原作映像研は、アニメーターに憧れて挫折した大童澄瞳による、アニメ業界へのファンレター…というかラブレターだと思う。特濃の。

で、このアニメは、アニメからの、湯浅政明監督からの愛に溢れたアンサーだと思う。

エンディング動画を見ると、大童澄瞳は現時点ではやっぱりアニメーターとしては並以下だと思う。

(おそらく、浅草氏に近い画的資質を持つ人なのだろう)

それでも、毎回必ず流れるエンディングで、メインアニメーターとしてクレジットされている。

これが、業界の先輩の愛でなくて何なのか。

原作映像研という「アニメって/アニメーターってすげえんだぜ!」というラブレターに、

「お前が思ってるよりもっとすごいぜ!」あるいは「そうまで言われちゃやるしかあんめぇ」と粋な回答を示す。

それでいて、そのラブレター勇気づけられたことに感謝も示す。

偶然かもしれないけど、サイエンスSARU(制作会社)と映像研のロゴの重ねっぷりなんか、愛と愛の応酬しかないでしょ。

アニメの作り手は原作に、原作の描き手はアニメの作り手に、

お互い元気をもらい、お互い感謝しあって、お互い認めあって。

その結晶が、このアニメ作品なのだとしたら。

それが傑作に、ならないわけがない。

余談

それを於いても、特に浅草氏のイメージ段階の画は、コンテのまま見せる、動画を割らなくていい、等作り手として楽できるポイントでもある。

そういうところを衒いなく取り込んで悪びれないのはやはりプロだと思うし、鑑賞者もスケルトン的に楽しい。図解というか。「アニメのできるまで」みたいな。

アニメを作るおじさんたちの「親心」「兄貴ヅラ」「若者を見守る目」。

そういったものが、何より愛おしく可愛く見える。

アニメ映像研は、そういう作品だと思う。

2020-01-27

文章の終わりを()だけで終わらせる人

()の中に(白目)とか言葉が入ってるのは分かる。

たまに語尾に()だけ書く人がいる限り日本於いて空気を読め文化はなくならないと思う。

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