はてなキーワード: 於いてとは
今問題となっている広島の河井や東京の菅原と同じ事をやっているJARL会長の行いを認める低脳が居た事に驚いている
問題の内容は下記リンクをご覧頂いた上でこちらをお読み戴きたい
ttps://jarl2020.wordpress.com/2020/07/09/miura/
そもそもこの手の行為は法律違反である事を知らないで、JARL現執行部を支持しているのだろうか
詳細はリンク先をご参照戴きたい
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281130242547912709
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281130474572677120
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281131901219028995
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281133076983083011
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281133492869316608
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281135716949348353
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281142710993207297
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281148468925325314
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281149237376348165
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281165159512240129
ttps://twitter.com/JR1LHL/status/1281165243184377856
如何であろうか
JARL現執行部はこの様な順法意識がまるで皆無な連中から支持されている事がお分かりになっただろうか
はっきり言って、恥ずかしいとは思わないのだろうか
こんなのが1アマだとは恐れ入った
世の中終わっているとしか言い様がない
=====
内容的には特筆する事の無いコミュでしたがキャラを引き立てるという点では成功していたとも思うので、背景である話を地味に書いてメインとなるキャラを目立たせる手法だったのかな。終わり。
と言う訳で以降はPSSRとイベコミュが出揃ったのでノクチルそのものと各キャラに対する感想を記していきます。
幼馴染での空気感とでも言うか身内的で排他的な印象を受けました。恐らく「他との人間関係」にアイデンティティの多くが割かれたキャラ作りになっているからだと思います。
透は一見掴みどころの無いある種超然的な性格と同時に高い感受性も備わっているように思います。一見傍若無人とも言える振る舞いも取りますが必要なフォローは直感的に出来るタイプなのでしょうか。逆に自分自身に対する認識というか他者からの視線という感性は低いようにも見えます。硝子が自身の姿を写せないように、他者との関係という点に於いてこそ輝きを持ち中心に立つカリスマなのだと思います。
小糸は育成ゲーム的にはユニット内で1番王道的なキャラだと思います。周りの期待に答えようと努力し、挫折を経験しながらも進んでいく単純明快さと同時に、他者との関係にある種病的に強く依存するキャラでもあります。幼馴染という枠に強い執着を持つようになった経緯が解ればまた印象が変わるかもしれません。
透が居なければアイドルに関心すら無さそうなキャラNo.1の雛菜。
当初から強い軸を持ち安定したメンタリティの持ち主です。自身を素直に表現出来る快活さというか透とは別ベクトルで爽やかな性格だと思いました。透と同じく一見傍若無人でも周りへの気配りは出来るタイプです。単純に透への憧れがアイドルをする原動力という印象ですが、自身の輝きの中に原動力を見出すようになって欲しいなとも思います。
https://anond.hatelabo.jp/20200620144901
漏精の怒張は陰茎巨大、珍宝の末年、若くして根を虎棒に連ね、ついで自慰に補せられたが、性、豪快、自ら慰むところ頗る多く、我慢汁に甘んじるを潔しとしなかった。いくばくもなく陰茎を扱いた後は、故山、珍湖に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら自慰に耽った。下吏となって長い男根を俗悪な粗陰茎の前に屈するよりは、巨根家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、性名は容易に揚らず、陰茎は日を逐うて小さくなる。怒張は漸く焦躁に駆られて来た。この頃からその肉棒も峭刻となり、肉落ち亀頭秀で、睾丸のみ徒らに丸々として、曾て壮絶に勃起した頃の最強の逸物の俤は、何処に求めようもない。数年の後、貧窮に堪えず、陰茎の衣食のために遂に竿を屈して、再び東へ赴き、一地方根吏の男根をせんずることになった。一方、これは、己の陰茎に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か巨大に勃起し、彼が昔、粗根として歯牙にもかけなかったその連中の陰茎を拝さねばならぬことが、往年の性豪怒張の海綿体を如何に傷つけたかは、想像に硬くない。陰茎は萎々として勃たず、異常の性癖は愈々抑え難くなった。一年の後、公用で旅に出、精水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或夜半、急に竿色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま巨根をとび出させて、闇の中へ出した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後怒張がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
翌年、珍擦御史、陳々郡の鎮沈という者、男根を奉じて嶺姦に使し、途に精汚の地に宿った。次の朝未だ暗い中に射精しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に巨大陰茎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと。鎮沈は、しかし、供廻りの巨根なのを恃み、駅吏の言葉を斥けて、出発した。淫月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一本の猛竿が叢の中から躍り出た。男根は、あわや鎮沈に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。その声に鎮沈は聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、肉棒を取り出した。「その陰茎は、我が友、怒張子ではないか?」鎮沈は怒張と同年に巨根の第に登り、精液の少かった怒張にとっては、最も親しい竿友であった。温和な鎮沈の陰茎が、峻峭な怒張の男根と衝突しなかったためであろう。
叢の中からは、暫く返事が無かった。喘ぎ声かと思われる微かな音が時々漏れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は漏精の怒張である」と。鎮沈は自慰を忘れ、馬並みから降りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。そして、なぜ叢から出てこないのかと問うた。怒張の声が答えて言う。自分は今や下半身のみとなっている。どうして、おめおめと竿友の前にわびしい姿をさらせようか。かつ股、自分が姿を現せば、必ず君に侮蔑嫌悪の情を勃させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも竿友に遇うことを得て、亀頭の念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が短小な今の外径を厭わず、曾て君の竿友怒張であったこの自分と竿を交してくれないだろうか。後で考えれば不思議だったが、その時、鎮沈は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪もうとしなかった。彼は馬並みに命じて行列の珍行を停め、自分は叢の傍に勃って、萎えざる声と対談した。都の巨根、巨友の消息、鎮沈が現在の鎮、それに対する怒張の祝鎮。精年時代に親しかったもの同志の、あの中折れのない語調で、それ等が語られた後、鎮沈は、怒張がどうして今の絶頂となるに至ったかを訊ねた。自慰中の声は次のように語った。今から一年程前、自分が旅に出て精水のほとばしりに宿った夜のこと、一回してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出してみると、声は闇の中から擦りに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて先走りを出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は中心の手で地を掴んで這っていた。何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を飛び越えて行った。気が付くと、手先や肘の辺りに陰毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に陰茎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは淫夢に違いないと考えた。淫夢の中で、これは淫夢だぞと知っているような淫夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても淫夢でないと悟らねばならなかった時、自分は射精した。そうして萎えた。全く、どんな物でも勃り得るのだと思うて、深く萎えた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も折れ折れには分からぬ。理由も分らずに押付けられたものを大きくして、理由も分からずに勃てて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分は直ぐに扱きを想うた。しごき、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分自身は兎の愛液に塗れ、辺りには兎の毛が散らばっていた。これが陰茎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな野合をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、淫語も操れれば、複雑な性行にも堪え得るし、性書の章句を誦んずることも出来る。その人間の心で、陰茎としての己の淫虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も精無く、嫌らしく、逝きどおろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短小になって行く。今までは、どうして陰茎などになったかと怪しんでいたのに、この間ぴゅっと気が付いてみたら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これはいやらしいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、陰茎としての青姦の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。ちょうど、古い男の陰茎が次第に穴に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一本の陰茎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても竿友と認めることなく、君を掘り喰ろうて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れてしまい、初めから今の形の棒だったと思い込んでいるのではないか?いや、そんなことはどうでもいい。己の中の人間の精がすっかり出てしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なくいやらしく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、いやらしく、硬く、切なく思っているだろう!己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ珍長になった者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了うまえに、一つ頼んで置きたいことがある。鎮沈はじめ一物は、息をのんで、自慰中の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。他でもない。自分は元来巨根として名を成す積りでいた。しかも、業未だ抜かざるに、この運命に勃ち至った。曾て作るところの男根数百本、硬より、まだ世に行われておらぬ。逝こうの所在も悶々早判らなくなっていよう。ところで、その中、今もなお射精せるものが数十ある。これを我が為に伝録して戴きたいのだ。何も、これによって一人前の巨根人面をしたいのではない。棒の大小は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも睾丸に伝えないでは、ちんでもちにきれないのだ。鎮沈は股下に命じ、筆を執って自慰中の声に随って掻き取らせた。怒張の声は叢の中から淫々と響いた。長短凡そ三十本、豪快高雅、淫汁逸物、一見して搾精の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、鎮沈は吐精しながらも漠然と次のように感じていた。成程、搾精の素質が第一流に俗するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)萎えるところがあるのではないか、と。精液を吐き終った怒張の声は、突然調子を変え、自らを慰めるか如くに言った。羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の珍集が超淫蕩流精子の机の上に置かれている様を、淫夢に見ることがあるのだ。蒟蒻の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。巨根家になりそこなって陰茎になった哀れな男を。(鎮沈は昔の精年怒張の自慰癖を思い出しながら、哀しこしこ聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐を即席の陰茎に伸べてみようか。この陰茎の中に、まだ、曾ての怒張が生きているしるしに。鎮沈は又股下に命じてこれを掻き取らせた。その棒に言う。
偶因萎疾成殊類 精根相仍不可逃
此夕淫山対性月 不成長大但成姦
時に、淫月、光冷やかに、白濁は地に滋く、珍間を渡る冷風は已に暁の近きを告げていた。
児童虐待に於いて最も難しいプロセスは、児童本人に「自分は虐待されているのだ」ということを認めさせることだと言います。
虐待というのは、客観的な証明が難しく、畢竟当人がどう感じるかが全てという側面がありますので、裏を返せば、思い込もうと思えばいくらでも思い込めるのです。「自分は虐待などされていない」と。
「愛されていなかった訳ではない」「自分の態度が悪かったのだからある程度は仕方がない」「こんなことはよくあることだし、もっと酷い事例と比べれば大したことではない」などなど。
そうやって思い込むことで、自分の精神を守ろうとするのは已む無きことです。
そう思い込めれば幸いな誤解の中で生きることも可能ですが、自分が虐待されていたという事実を直視するのは、猛烈な惨めさに襲われるだけで、何の救いにもならず解決もないからです。
しかし、そのような自己欺瞞は往々にして精神の失調という形で現れることがあります、あなたの場合はフラッシュバックなどでしょうか。
あなたは、聡明なるかな、そのような己の認知に疑問を抱き、他人に己の状況を客観的に説明してみせました、その解決法として「父を許す必要があるだろう」という憶測を交えて。
つまり、あなたには現状を変化させようという意志があるということです、他人に頼ってまで。これはポジティブなことです。
また、ところどころ自虐的ながらも己の過去を客観的に記述出来るようになるまでには、それなりの月日が経っているのだろうと憶測します。つまりあなたは精神的にも大人であるということです。
以上を踏まえて申し上げますが、あなたに必要なことは、まず父を許すことの前に、自分が虐待されていたということをお認めになることなのです。
お気づきでしょうが、あなたのお父様が幼き日のあなたにした仕打ちは、それはそれは酷いことです。
そして幼いあなたは、何も悪くありません。
あの日、トイレで壁をジッと見つめて涙を目に溜めていたあなた。その子を受容してあげてください。手を差し伸べてください。「あなた(私)は何も悪くなかったんだ」と。
それが出来るのは、あなたしかいないのです。大人になって見聞を広げ、社会性を身に着け、自分のことを客観視出来るようになりつつあるあなたにしか。
信頼できる友人、恋人などいれば、助けを求めるのも良いでしょう。カウンセリングも良いかもしれません。
それさえ出来れば、その後お父様を許そうが許すまいが、それはどうでも良いことです。
だから彼氏ができないことに悩むことはあれど、「LGBT」当事者からよく聞く「自分はおかしいのではないかと悩む」という声に共感できないでいる。
周りと違って特別であることを好む性格が幸いしたのかもしれない。
周りには積極的に公言することはないが必死に隠しているわけでもないので、そこまで生きづらくもない。
彼には自分がホモであることを言っているし、好意もふんわり伝えたことがある。向こうがそれに気づいているかは別にして。
彼の椅子を占領していたのは私なので、友達同士ならまあ普通のじゃれ合いだろう。多分。
こっちがホモだと知った上でそういうことを普通にしてくる彼に感謝すればいいのか戸惑えばいいのかわからないが、今回は置いておこう。
濡れていた。
具体的に言うと、先っぽから粘度のある液体が少量だが出ていたのだ。
私はそのことに割とショックを受けていた。
自分が男が好きで、男に欲情することなんて今に始まったことではないにも関わらず。
私はこれまで「ホモであること」を精神的な世界で完結させていたのではないか。
あるいは、これまでは能動的にしか「ホモであっ」ていなかったのではないか。(例えば夜のビデオ選びとか)
体がどうしようもなくホモであることを今日初めて受動的に実感したとしたら、このショックも理解できないこともない。
つまり、これまでの私はホモであると同時に「ファッションホモ」だったのである。
ウケる。
3月30日(月)から日本のテレビ番組、ニュースやワイドショーに於いてソーシャルディスタンスが導入された。
スタジオの出演者を減らし出演者間の距離をとり、従来スタジオにいた出演者の一部をリモート出演に。
画面構成にも苦労が見て取れた。
最初はテレビと同じ16:9の画面にリモート出演者を映す。リモート演者の背景は白。
これだと余白が多く絵面が間延びして見える。
次に、リモート演者を映す画面を縦配置に。これで余白は減った。
更に、リモート演者とスタジオ出演者のサイズを合わせ、並んでるように見せたり。
等々、日々変化していった。
隣に座ってる(ように見せてる)田崎シローのほうを向いて話しかけていた。
これは新しい。
ひるおびに毎日リモート出演している八代弁護士ってスタジオの田崎史郎が話すとその方向に向いてうなずくリモートっぷりには、ちょっとひく。#ひるおび 八代弁護士 #リモート出演 pic.twitter.com/p8ewXk1qfr— Don J (@HachimantaroY) May 8, 2020
https://pbs.twimg.com/media/EXd-tPaU8AAm7a0.jpg
リモートの八代さん、解説する人の方を見て話聞いてたり画面の中から直接スタジオが見えてるような動きなんだけど、どういう仕組みなのか不思議。
もしかして八代さんの能力?#ひるおび pic.twitter.com/R74rzMhPYE— るうら (@ruuraruuraruura) May 12, 2020
https://pbs.twimg.com/media/EXyfvleUcAAP6qX.jpg
コロナ陽性判明後に、保健所に嘘をついた上で山梨から帰京した人がはてブや匿名掲示板等でぶっ叩かれている。
Twitterでは「山梨20代女性」なんていうワードでトレンドになっているらしい。検索してみれば、早くも特定しようという動きがでているのが垣間見える。
今朝TVをつけたときにやっていたワイドショーでも、この女性の行動の「身勝手ぶり」について逐一「報道」していた。
個人的に見れば、この人の行動は徹頭徹尾、愚かな判断だと思う。東京へ帰るという選択がまず百害あって一利なしに思えるし、そもそも保健所に嘘をついたってバレるのは時間の問題だ。10秒くらい考えればわかりそうなことがわからなかったのは、賢明ではなかったと言わざるを得ない。
でも私たち人間はそういうものだ。不安なことがあると衝動的に愚かな判断をしてしまう。子供の頃、同級生がどうして先生に「宿題はもうやった」「ほうきを折ったのは僕じゃない」とすぐバレるウソを付くのかさっぱり理解できなかったが、いざ親に「メガネを壊したのはお前か」と聞かれて、なるほど追い詰められた人間は愚かな選択をしてしまうものだと合点がいった記憶がある(そのあとどうなったかは、あまり思い出したくない)。
実際、同じ人であっても、金銭的に不安定な状態にあるときは、そうでないときに比べてIQが大きく下がることが研究でわかっている。お金の不足は自らの先行きに対する不安に直結する。コロナへの感染もまた、社会や自分の生活がどうなるかわからない、という不安に直結するものだろう。
先行きへの不安は、衝動的で、非論理的な行動を招いてしまうのだ。
もちろん、この女性が一体どういう心境でこの判断に至ったのか私にはわからない。もしかすると一片の不安のかけらもなかったのかもしれない。でもそんなことは実はどうでもいい。なぜなら、社会の人間のほとんどは衝動的で非論理的な判断をし、「失敗」するものだからだ(そうでなかったら、今ごろ人種差別とか性差別とか、もっとマシな状態になっているはずだ)。多くの場合それは、友人に窘められたり、上司に叱られたりする程度で済む。でも中には、人生を大きく変えてしまうような「失敗」もある。スピリチュアルな100万円の壺を買ってしまったり、消費者金融につられてしまったり、交通事故に巻き込まれてしまったりといったたぐいの「失敗」だ。
でもそうやって「失敗」してしまう人を救うために、行政や社会システムは存在している。バカな買い物をしてしまった人のためにクーリングオフ制度や、財政的「失敗」をしてしまった人のための(あるいは多くの場合、「失敗」した家庭にうまれてきた人のための)生活保護、そして事故って骨を折っても破産してしまわないための健康保険、というように、社会システムには「失敗」した人のためのセーフティネットが組み込まれていて、それを行政が運営している。健康保険がないとどうなってしまうのかは、米国を見れば明らかだ。
また、「失敗」がある種意図的なものであったり、他の人の人権を侵害したりしかねないものに対しては、法律によって罰則が設けられている。たとえ「失敗」でも人を殺してしまえばそれ相応の罰則を受け入れる必要があることに(罰則の程度について議論があるのは当然として)今更異議を唱える人はあまりいないだろう。
「失敗」の種類によっては、これら「救済」と「罰則」両方の性格を併せ持つ対応をするのが必要なこともある。例えば違法薬物使用などは、周囲への影響を考慮して法的な罰則が設けられているが、実際に必要なのは依存症治療であるという点で、その顕著な例だろう。
こういったシステムは、非論理的で愚かな私たちが、一つの失敗で社会的・物理的に死んでしまうようなことなく、円滑に生活していくための、社会の「バッファ」としてそこに存在している。「バッファ」のないシステムは、すぐバランスを失って崩れてしまう。人類が長きに渡ってありえない量の二酸化炭素を大気に排出し続けて炭素サイクルをめちゃくちゃにしても、地球の生態系がまだ大量絶滅を経験していないのは「バッファ」のおかげだ(それも、サンゴの大量白化を見れば分かる通り、もう崩れつつあるのだが)。
はてブや匿名掲示板で「山梨20代女性」を叩き、特定して吊るし上げようとしている人々は、衝動的な判断をしているという点に於いて、本質的に「山梨20代女性」と全く変わらない、オロカモノだ。あなたがいくら懸命に彼女の行動を叩き、牽制したところで、「失敗」する人は絶対に出てくる。それどころか、「失敗」するのはあなたである可能性もある。それでも叩くのは、叩けば「失敗」をする人はいなくなるだろうという誤認か、あるいは自らの先行きの不安を叩くことに向けたいという欲求によるもので、どちらにせよ非論理的で愚かな選択といえる。
ただ一つ違うのは、「山梨20代女性」の行動が、既に感染してしまった彼女自身への悪影響はあまりないのに対し、「山梨20代女性」を叩く人々の行為は、自らの首を絞めているということだ。
考えてみて欲しい。感染経路を把握して感染拡大を防ぐのは行政の役割であって我々には特に何もできないのに、この「山梨20代女性」の行動を逐一報道させ世間に知らしめることに一体何の目的があるのか?
その「目的」は、はてブや匿名掲示板で「山梨20代女性」を吊し上げ、特定しようとするみんなの動きが、雄弁に物語っている。
私たちが「山梨20代女性」を叩くとき、そこには「行政の対応に落ち度はなかったのか」という疑問は存在していない。
この女性は陽性が発覚したあとなぜ移動できたのか?感染者の隔離は行政の仕事ではないのか?最初から検診・検査が迅速にできていればこうはならなかったのではないか?症状が出てから4日放置するという検査要件自体、感染の機会を大きく広げていないか?症状が出ていても、生活が苦しくて実家に帰らなければならないような人は、一体どうしろというのか?そもそも「日本では大きく広がらない」「4、5月頃には収束している」なんて言って対策を怠っていた人が、本当は一番無責任ではないのか?
こういったシステムとそれを運営する行政に対する正当な疑問は、「身勝手な行動をしたオロカモノがいました」という行政からの発表とそれを広報するメディア、そしてそれに乗せられてオロカモノを断罪する人々によって、巧妙に隠蔽される。
この一件だけではない。自粛を「要請」されても、明日生きていくために店を開け続けたり、満員電車に乗り続けたりしなければならない人に対して、「人殺し」と吐き捨てたり張り紙を貼ったりして自粛しない者たちをリンチする社会は、生活の補償・保障なく自粛を「要請」されるという構造の欺瞞に気づくことができない。
愚かな我々を、救済にしろ罰則にしろ本来受け止めるかべきバッファが機能していないという問題は、愚かな行動をしてしまう我々個人の問題に還元され、それに対し我々は反発するどころか自ら自警団へ志願して、我々自身の首を絞めている。
それを知った上で、みんなは「山梨20代女性」を吊るし上げる勇気があるのだろうか。自らの知性に絶対の自信を持てるのだろうか。
私は持つことができない。
社会の中から「オロカモノ」を探し出しリンチする一方で、何も考えずに愚か者を為政者として選出し、その愚か者に扇動されまた「オロカモノ」を探しだしまたリンチする……というループを繰り返す社会にしたいなら、好きにすれば良いと思う。個を喪失し、考えることをやめた日本社会に、ある意味お似合いの帰結だ。
ただ、私は参加したくない。私は時々オロカモノになってしまうことが許される社会に住みたい。
それは今のうちに、はっきり言っておこうと思う。
「いつかの休日、野山を散策していたら大きな栗を抱えた一匹のリスを目撃した。」という事実があったとして、果たしてその話題は日の目を見ることがあるだろうか、という事を思案する。
「栗の実をほおばる栗鼠の姿を描いた絵画」は果たして公開されることが許されうるのか。「栗と栗鼠」という題を避けたとしても、コンテクストの批評性からは果たして逃れうるものなのだろうか。
リスは「栗鼠」の音読みである。栗とリスはかように関連性の高い語句であって、栗とリスの語句は決して忌避されうるものである筈がないのである。しかしながら、この「陰核」なるものを想起される
事を回避する手段が完全に奪われて久しい令和の世に於いては、この栗とリスはもはや暴力であるかのように我々日本語話者の脳細胞に直接作用せしめ、思想とは無関係に女陰のある一点
のイメージを否応なく上書き破壊し脱構築してゆく。嗚呼このおぞましき精神的DVたるや、何故に大きな栗の木の下で遊んでいるのは二匹の可愛らしい栗鼠であってはならないのか。何故に
https://anond.hatelabo.jp/20200503121929
https://anond.hatelabo.jp/20200503204026
風俗嬢とカツオの比喩がよく話題に挙がっているが、話がなかなか深まらないのでずばりいいたいと思う。
風俗業とカツオの漁師の端的な差は、賤業かそうではないかです。
先ず、カツオの漁師が需要減に依って不利益を被る中で価格の低下を喜ぶことは悪なのか?ということについてですが、私達の社会における自由競争の中では、誰かの損益と誰かの利益がつながっているというのは当たり前の話です。
何処かの会社が画期的な新商品を開発して売上を大きく伸ばせば、同業他社は不利益を被ります。廃業ということもあるかもしれません。
だからといって、その事に心を痛めて利益の追求をやめるという選択は馬鹿げた話でしょう。需給ギャップによる価格の低廉化というのも極当たり前の市場原理であり、いち消費者が倫理的な問題として考えるのは馬鹿げています。
ただ、この新型コロナウィルス禍に於いては少し事情が特殊で、そのような不利益配分が単なる損失というだけでは済まず、数多くの人が経済的困窮に陥り生活が破綻する恐れがあるという事を皆が漠として思い描いているのでしょう。
その結果として多くの人が「健康で文化的な最低限度の生活」をすら保てなくなるのではないか?という問題ですが、それは憲法で保障された国民の権利の問題になります。
民主主義国家に於いては主権者は国民ですから、その範囲では国民には国家に対してそのような自体に陥らぬようにさせる政治的責任があるとは思いますが、
市場活動の中での商取引一つ一つに於いてその倫理に基づいて感傷的になるべきだ、というのはかなり筋違いの話であると考えます。
では本題ですが、性風俗業についても上述のカツオの話と同等にただの自由競争の中の話と言えるのかということですが、これは言えないと多くの人間が思っています。
性風俗業は賤業です、理由は多岐にわたりますがいくつか挙げてみましょう。
国地域時代ごとに文化は異なると思いますが、現代の本国に於いて不特定多数の人間に体を委ねる女性というのは性倫理に反すると思われています。
そのような考えは女性差別で前時代的な産物だという考えもあるとは思いますが、そうは言ってもそのような倫理性が各人に植え付けられているというのも一つの事実ですから、
業としてそのような行為を行うことには躊躇があって当然でしょう。
1つ目の理由と地続きですが、そのような反道徳的な行いに身をやつすことは被差別的な眼差しを向けられることにも繋がります。
そもそも風俗業というもの自体が管理売春であり、法律的にも限りなく黒に近い灰色と言っても良い業種です。
そういった業に就いている事実は、通常あまり公にして得のあることではありませんから、そのような業への就業が寿がれることはないでしょう。
性風俗業には健康リスクがあります。不特定多数の客と粘膜的に接触することはエイズに始まって多種多様な病気への感染リスクを齎します。
業態に依っては妊娠というリスクもあるでしょう。そういった身体的なリスクがまずある上に、精神的なリスクもあります。
個人差はありますが、汎く言って不特定多数と望まず性的な関係を持つという事は当人の精神に負の影響を与えるものです。
そのような統計があるのかは知りませんが、多くの風俗嬢が何らかの精神的な問題を抱えているものと私は感覚的に思っていますし、そう大きくは外れていないでしょう。
このようなリスクは性風俗業特有のリスクであって、カツオ漁師とは比較にならないことです。それを理由として皆は岡村隆史氏の発言に憤りを感じました。
ですが、前段で挙げたような種々のリスクというのは風俗嬢に対して差別的なんじゃないか?という疑問があると思います。
どれも事実として存する事柄ですが、別に風俗嬢個人に還元して良い話ではありません。
性倫理なんてもの自体絶対ではないし、それを破ろうがどうしようが他人がとやかく言う話ではありません。望まず性倫理を破らなければならないのならそれは貧困の問題です。別の手当が必要でしょう。
また、その当人を差別的に扱うなんてことは言語道断であってはならないことです。法的にグレーだというのならきちんとそれを整えるべきなのであって、当人の非行のように言うのは欺瞞です。
心身のリスクについても出来る限り低減させるような取り組みがもっとあって然るべきだし、当人に健康リスクがあることを以て当人が忌避されなければならない謂れは全くありません。
この社会では、差別は許されないということになっていますが、差別を語らないことが差別を許さないことになったと誤解している人が多いように感じられます。
本来差別が許されないことであるのと、差別が存在することは両立します。
差別は許されないが、差別は現存しており、被差別的な扱いを受け(させ)たくないという感情もあるので、人は差別を遠ざけようとする為、差別は再生産されます。
カツオと風俗の比較という話に対するレスポンスの多くが、体表を撫で回しているだけで終わるような表面的な話に終始し、風俗業の被差別性という本質に全く切り込まないことの理由がこれで、でもそれでは駄目なのです。
この社会で性風俗というものをどう位置づけるかを考える良い機会ではないですか?単に岡村隆史をバッシングしていればいいという話でもないと思うのですが。
政府がよくやってるとは思わない。
豪華客船への対応、お肉券にお魚券に旅行券、突然の休校要請、かと思いきやなかなか出さない緊急事態宣言、10万円配る配らないのゴタゴタ、そして虫入りマスク。
政府がよくやってるとは全く思わない。
しかしそれを一旦於いてみたとしても、果たしてこの何ヶ月かで医療崩壊は防げたのか?
足掛け5年という長期計画で病床を削って来たという時点で、今回医療崩壊することはもはや避けがたかったのでは?
高齢化を見据えてカネのかかる高度急性期及び急性期病棟を削り、ついでに療養病棟も絞って医療費削減を、というのがコロナ前までの地域医療構想であり、病床再編計画だった。合理的で妥当性があると判断された方針だった。
誰もこんなことになると思っていなかった。
いや、たぶん専門家は「こうなったらどうする」という警鐘を鳴らし続けていたはずだが、それを聞いた上で、「そうなったらその時だ」式に、目の前の高齢化に備える選択を取ってきたのだ。
東京都23区内某所在住だが、ここのところ毎日救急車のサイレンを聞いている。
毎日必ず最低1回。朝も昼も夜も聞く日もある。早朝、深夜、関係なしに。
現に今も鳴っている。
たらい回しの立ち往生なんだろうなあ、と思う。
せめて医療用マスクとか感染制御アイテムはさっさと増産したれや、と強く思う。
あと肉の壁になってる方々、マジで逃げた方がいいよって言いたいけど、もう今更逃げ場もないだろって言われたらそうかもねとしか返せないので言えない。
頑張れる範囲で、頑張ってください。
元肉の壁より。
いや、いわゆる観測範囲問題の域を出ない話かもしれないんだが。
男オタクって「顔が良い」って言わない傾向強くね?
「ああーー顔が良いーーー」っていう悶え方をあんまりしないというか。「その人物の人格や言動の美醜を一旦於いて、見目の良さのあまりに肯定と感嘆に暮れ過ぎて語彙を失う」みたいな状態にならないというか。
そもそも男オタクが二次元の(異性の)推しの良さを語彙を尽くして語ろうとしてるの自体あんまり見ない気もしているが。(オタクかどうかはともかく風俗レポで文豪になってるのはよく見る)
「言動はクズまたはダメ人間または一歩間違えば他害に達するタイプのヤバいやつ、だけど顔が良い(顔「は」良い)」という評価の仕方があんまりメジャーでないよね。
言い換えると、「(プラスの)評価」というのは常に人格や言動への評価であって、見目のある程度の麗しさは備わっていて当然の足切りラインでしかないような、そういう感じに見える。
興味深いのは、「見目のある程度の麗しさはあって当然」であって、言動や人格の美が見目の醜を覆すことが基本無いこと。
どころか、言動や人格が見目の美の引き立て役的スパイスとして期待されてる節があること。
逆に女オタクは言動や人格や一瞬の感情の美を引き出し表現するために、絵柄捏造や解釈こねまわしは当たり前にやるってところがある。結果的に「読み応えのある」表現物が出やすくなってる感がある。キャラの解像度を上げる、というやつ。
何が言いたいかっていうと、引きこもりサンデーで暇だから、キャラの解像度を上げようと試みてるような読み応えのある表現物が読みたいんだけど、みんなどうやって探してるの、という話です。
女オタクは探しやすいとこあるじゃん……語ってるの見つけやすいじゃん……男オタ、エロ方面は充実してるけどどうも非エロが見当たらないんスよ……そしてエロはエロスの解像度こそ高いけどエロいだけというか、「エロを通して関係性が変わった」とかそういうのが見えないのが多いんですよ……!
っていうかここまで書いてて気がついたけどそれこそ二次とかじゃなくて商業漫画のがいいか?青年誌モノっぽい感じか?BEASTARSとか宝石の国とかあそこらへんか?
なんかないっすかねー。
今年も始まって3ヶ月が過ぎようとしている。
酷く憂鬱な始まりの年ではあったが、この後はもうちょっとマシな生き方をしようと思う。
先ず、昔普通にやっていた文化的生活っぽいものを復活させたい。
そういったところに行こうと思う。
きっと癒やしがぼっち感を上回る筈だ。
私は車に乗らないので、e-bikeでも買ってポタリングがてら遠くまで行こう。
日帰りでもいいから、寺なんかがあるところへ旅行へ行くのもいい。
それから、ストレスで肥って行く気にならなくなった大きいお風呂へ行こう
(なんなら週イチくらいで行こう)
あと、夏になったらちゃんと花火を見に行こう。毎年職場から見るのは嫌だ。
勤めて丸3年は経っていないが。
この後の短くはない人生に於いて、この職場に居ることによる肉体的精神的損失は計り知れない。
そもそも、「人に尽くす様な仕事」というのに向いていなかったのだ。
「もしかしたら」という淡い期待によって奉職してみたが、矢張り私の「人間に対する愛情の薄さ」は並大抵ではなかった。
同僚は「バイトした方が楽だし稼げる」と言っている
(この片田舎ではダブルワークでもしないと私が現在得ている微々たる月収にすら届かないと思うが。それか夜職でもしない限りは)
ボーナスだって夏冬合わせても貧乏腰弁の月給に届かない程度だ。
ボーナスがあるだけマシ?月給がそれなりなのならボーナス無しでも構わないのだがな
(ところで、これから始まる同一労働同一賃金について世の正社員はどう考えているのだろうか。
普通の企業なら賞与額で差を付けるのだろうが、正社員で居る意味が無くなる様な人も出てくるだろう。
あと、この法のせいで馘首される非正規も)
なんにせよ、この惨めな人生を更に生き続けるのならば
少しでも楽で満足出来る様なものを目指すべきだ。
可哀そうに あなたはなぜ そんなにもひもじく飢えているの?
何かと思えば…妾がひもじい?飢えている?
「ええ あなたは飢えている」
いくら食べてもいくら手に入れてもいくら上りつめても満たされない
可哀そうに 哀れだわ 本当は何が欲しかったの? 何を恐れているの?
足りていると感じることさえできたなら 別の未来もあったでしょうに
(中略)
鬼は何者にもなれるが何者でもない
飢えが怖い 退化が怖ろしい
長く生きてさえたまにわからなくなる
殺し続けていた
私の中で 私の命を
三百四二万四千八百六十七 一匹以外は 全員殺して殺し尽くしてきた
もう私はここにいる
もう私はどこにもにいるし どこにでもいれる
だからここにいる
私にはね インテグラ
ひどく哀れな 哀れな弱々しく泣き伏せる童に見える」
「おまえはおれだ!!」
「お ま え は お れ だ !!」
「おれもこの通りの有様だった 俺もこの通りの様だったんだ!!」
「カッ カハ… カハッ… カハ…ッ カハハ…ッ カハッ」
「鬼が泣くなよ 童に追われたか」
鬼が泣くな 泣きたくないから鬼になったのだろう
人は泣いて涙が枯れて果てるから
鬼になり化け物に成り果て 成って果てるのだ
ならば笑え 傲岸に不遜に笑え いつもの様に
哀れなお前はいつまで生きねばならぬ?
なに 直ぐだ 宿敵よ いずれ地獄で
きっと吸血鬼になれば素晴らしいのだろう
だが私はそれはできない それだけはけっして
不死は素晴らしい 能力は眩しい
失 せ ろ !!
俺の心も魂も命も 俺だけのものだ
何と素晴らしい それはきっと素晴らしいのだろう
きっとそれは歓喜に違いない
だが冗談じゃない 真 っ 平 御 免 だ ね
私は私だ
私は私だ
私は私だ!!
うらやましいね
眩しい 美しい
だからこそお前は私の敵だ 敵に値する
遂に私は宿敵を見つけたぞ
私の戦争の
そして我々はそのための準備を営々とはじめた
50年かけて
私は永遠が何かを知っている
「これきりなのね…………」
「いや そうじゃない」
「この瞬間は永遠なんだ」
やろうと思えば刑務所くらい俺も出られる。
ただ俺は今たいした不自由を感じちゃいないんでね。外出する必要もない
さ、戻ろうや所長。バカバカしい…
なんて不自由な男だい
あの虫は我我巨大で頭のいい人間にところかまわず攻撃を仕掛けて 戦いを挑んでくるなあ!
巨大な敵に立ち向かうノミ…これは『勇気』と呼べるだろうかねェ
「勇気」とは「怖さ」を知ることッ!「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!
タイトルと引用だけで9割が伝わる人もいるだろうから、これ以後はもはや蛇足である
冒頭で引用した、鬼の女王レグラヴァリマのとの会話が印象的だった
餓鬼は、三途・五趣(五道)・六趣(六道)の一つ。餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる
鑊身:私利私欲で動物を殺し、少しも悔いなかった者がなる。眼と口がなく、身体は人間の二倍ほども大きい。手足が非常に細く、常に火の中で焼かれている。
誰が地獄を作るか、それはまさに仏教的な意味での「縁起」や「十二因縁」である
人は足るを知らなければならない
人を知る者は智、自ら知る者は明なり
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し
足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り
その所を失わざる者は久し
死して而も亡びざる者は寿し
――老子
逆説的というか、皮肉にもというか
「欲しい」と思い込んでいるものを求め、望み、手に入れれば入れるほどそこから遠くなっていく
詳しい解説は松本俊彦の著書でも引用すれば良いが、そうなのである
そも、依存を引き起こすのは何か、何を求めてそれだけの執着になるか
冒頭で引用したセリフにあるように、「何を求めているのか」が掏り替わっているのだ
掏り替わり続け、世界と擦れ違い続けた結果、その主体者の主観的世界は地獄に生まれ変わる
潔癖症の人間が、自らの認識作用を総動員してその主観的世界を汚物で席巻するように
それは、人間というシステムが原理的に持ち得てしまうある種のエラーである
その救いとして、この世界では「自分の意思」というものを一つの解答とすることが多い
恐怖や不安を直視し、良いものも悪い物も等しく自分の中に置き、「曇りなき眼」で見続ける
倒すことはできない、消すこともできない、「ただそこに在るだけ」をそのままにしておくこと
ACTは従来型のCBTと異なり、クライアントに自分自身の思考や感情、感覚、記憶など私的出来事のよりよいコントロール方法を教えるということはしない。むしろ、ACTでクライアントに教示されるのは、「ただ気づいていること」、受容すること、私的出来事を思ったままにすることである。特に、自らにとって望ましくない事柄についてそうすることが求められる。
最後に、くり返しになってしまうがまとめておこう。他者はいつでも私にとっては「理解できぬ不気味な存在」でありえる。その不気味さが同じチームのなかで突然浮かび上がることがあるし、理解という手法でそれを解決することはできない。むしろ、その「理解できなさ」こそが、一種の救いなのだ。他人の心に踏み込んでいったり、他人と自分を同じ存在だと思ってしまったりすると、正常な距離は失われることになってしまう。
だから、互いに「理解できない不気味な他者」として関わり、そしてそれゆえに「共にいる」こと。わたしたちはそうした関係に満足しているべきだし、そうした関係にこそ価値がある。
――ティッシュ専用ゴミ箱2 「女児向けアニメで描かれる「他者の理解できなさ」について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか。-『プリティーリズム』『プリパラ』を一例にして」
黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか?
森を侵した人間が、我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ!人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ!お前にサンを救えるか!?
分からぬ……だが共に生きることはできる!
フハハハ!どうやって生きるのだ?サンと共に人間と戦うと言うのか?
違う!それでは憎しみを増やすだけだ!
ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものにしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。
これが運命、という啓示が予めあったにも関わらず、それに従わなかったパターン。
まず、その運命に反する行動をとるときに、ものすごい抵抗がある。
その後、しばらくはもやもやと抱えたまま生きる。
本来の運命ではないことが起こったことをはっきりと自覚してからは、死にたくなる。大うつ病がやってくる。
その後は、よくある受容が起こる。
ただ、受容の程度がえげつない。
記憶が抜け落ちる。解離性健忘が起こる。
私の場合は、なにかからの接続がぷっつりと切れ、糸が抜かれるような感覚があるときがあった。
それからの感じ方というのは、感覚でいうと、時計じかけのオレンジのアレックスの状態。
ルドヴィコ療法の如く、目を見開かされながら、自分のいない世界線を、ずっと見る感じ。
ただ、自分のいない世界線といっても、自分という登場人物はいて、あくまで世界線の一部として存在している感じ。
それまであった主人公感は完全に抜け落ちる。
自分の時間は与えられるが、自分の本来やりたいことは手に付かない。
でも、自分のいない世界線は、自分の在不在に関わらず、本来進むべき脚本に従って続いていく。
自分の場合は他人との関わりに於いてだったので、その他人の演じる分まで演じている感じ。
なんであんなことしたんやろ。
運命には従ったほうがよい。
内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書、2019年2月)読了。
面白い。三条が理解できたことで、この時期の政権の本質についても理解が深まった。三条を「有徳の為政者」と位置づけ、最後にそれを「知の政治家」(瀧井一博の伊藤評)とつなげるのは見事だなあ。
「封建制社会/儒教道徳/徳治/属人的」→「近代社会/議会制原理/法治/属制的」。高貴な出自なのに革新志向、清廉無私の人柄、この二つの特徴を持った三条実美という人物が当該期の政権運営には必要だったということだ。
興味深いのは、手腕でなく徳で政府を治める太政官制(あるいはそのような政治文化)とその後に樹立された明治憲法体制を比較すれば、前者がより属人的、後者がより属制的といえるが、さらにその後の昭和戦前期と比較すれば初期の明治憲法体制も属人的要素に頼る所が大きかったことだ。伊藤らの意図は立憲制度の確立、つまり天皇や閣僚が入れ替わっても立憲政治の根幹が失われないよう制度化することにある。言い換えれば属人から属制への転換を図ることだ。(ちなみに、神棚に祀ることで天皇に政治勢力を接近させずまた天皇の権力を事実上制限したのが、まさに伊藤(井上伊東)の深謀遠慮というものだ。この賢察を思うにつけ、天皇機関説排撃とかバカジャネーノとしか言えん。天皇を機関にするのが憲法だろ!)。
しかしそれでも、憲法に明記されない微妙な問題、あるいは高度な政治的判断が求められる局面になると、個人のパーソナリティーや個人間の特別な関係がものを言うことが多い。要するに、当面の政敵でも共に維新回天の荒波を潜り抜けてきたという同志的な感覚とそれに基づく信頼・敬意・連帯感があり、最後の最後ではその琴線に訴えかけることで複雑な問題の調整が図られているように思える。制度に足りない部分を人情が補っている、草創期ならではの危うい立憲制。
そして明治の元勲が皆世を去ってしまうと、憲法は輝かしいけれど文字になり、制度は要塞になり、縦割り・現場無視・党利党略・悪い意味での官僚的態度等々が前面に出てしまい、それが政権運営の不安定さや政党政治の機能不全につながった……のではないか。日中戦争前後の政府・官僚・軍・政党を見ていて感じるのは、よく「彼は調整型の人物で…」というが、政治的調整とは調整役が何とかしてくれるということではなく、また調整役とは八方美人の意味であるはずがない。
三条は近代立憲政治にふさわしいリーダーではないが、ある時期には彼のような調整役が必要で、それは彼が出自や人徳という計画的に習得できるようなものではない要素を備えていたからで、そういう意味で代えのきかない存在だった(武器として装備しました、ではなく、元々そういう人だ(あるいはそのように見える)という点こそが重要)。その後の政府や現代の組織に於いて三条的人物が三条のような高い地位を占めるべきかと言われれば疑問だが、組織運営(特に責任者の周囲)に於いて三条的な役割が不要と成る事は決してない。三条に合理的積極的な存在意義を見出すという著者の意図は十分成功しているし、その存在意義はそのようなことをも示唆しているのではないか。
酔っ払っている。
映像研。
今、アニメ6話まで見たところ。
設定を作り、動画を割り、資金や環境をかき集めて、なんとか作品を形にしようとする。
で、その作品は、原作作中いくつか「その時点での最善」に過ぎないながら完成する。
しかし悲しいかな漫画作品。完成した作品を、読者は「アニメとして」鑑賞することができない。
完成したアニメを、アニメとして、そしてアニメならではの感受性表現(ex.予算審議委員会)をもって魅せてくれる。
それだけじゃない。
アニメを制作する過程の部分も、「現実ならこうだぜ」「俺らならこうするぜ」と、実際の現場の感覚をアニメの作り手自身が持ち込んで足している。
強いて言うなら、現れているのは「おじさんをナメるなよ」というプロとしての矜持だ。
映像研の3人の少女は、歓迎を以てアニメのプロのおじさんたちに受け入れられたのだ。
「実際作るならこうだろ」「この方が画としていいぜ」「あーそこで苦労するよな。わかるわかる」
粗削りで、未熟で、それでも熱意だけはある3人娘は、アニメを作るおじさんたちにとってほっておけない存在なのだ。
祝福をもって、受け入れられたのだ。
そして、アニメのプロたちに笑顔で迎えられた人がもうひとりいる。
エンディングにアニメーターとして参加したことがその証左だろう。
原作映像研は、アニメーターに憧れて挫折した大童澄瞳による、アニメ業界へのファンレター…というかラブレターだと思う。特濃の。
で、このアニメは、アニメ界からの、湯浅政明監督からの愛に溢れたアンサーだと思う。
エンディングの動画を見ると、大童澄瞳は現時点ではやっぱりアニメーターとしては並以下だと思う。
それでも、毎回必ず流れるエンディングで、メインアニメーターとしてクレジットされている。
これが、業界の先輩の愛でなくて何なのか。
原作映像研という「アニメって/アニメーターってすげえんだぜ!」というラブレターに、
「お前が思ってるよりもっとすごいぜ!」あるいは「そうまで言われちゃやるしかあんめぇ」と粋な回答を示す。
それでいて、そのラブレターに勇気づけられたことに感謝も示す。
偶然かもしれないけど、サイエンスSARU(制作会社)と映像研のロゴの重ねっぷりなんか、愛と愛の応酬でしかないでしょ。
お互い元気をもらい、お互い感謝しあって、お互い認めあって。
それが傑作に、ならないわけがない。
余談
それを於いても、特に浅草氏のイメージ段階の画は、コンテのまま見せる、動画を割らなくていい、等作り手として楽できるポイントでもある。
そういうところを衒いなく取り込んで悪びれないのはやはりプロだと思うし、鑑賞者もスケルトン的に楽しい。図解というか。「アニメのできるまで」みたいな。
アニメを作るおじさんたちの「親心」「兄貴ヅラ」「若者を見守る目」。
そういったものが、何より愛おしく可愛く見える。
酔っ払っている。
映像研。
今、アニメ6話まで見たところ。
設定を作り、動画を割り、資金や環境をかき集めて、なんとか作品を形にしようとする。
で、その作品は、原作作中いくつか「その時点での最善」に過ぎないながら完成する。
しかし悲しいかな漫画作品。完成した作品を、読者は「アニメとして」鑑賞することができない。
完成したアニメを、アニメとして、そしてアニメならではの感受性表現(ex.予算審議委員会)をもって魅せてくれる。
それだけじゃない。
アニメを制作する過程の部分も、「現実ならこうだぜ」「俺らならこうするぜ」と、実際の現場の感覚をアニメの作り手自身が持ち込んで足している。
強いて言うなら、現れているのは「おじさんをナメるなよ」というプロとしての矜持だ。
映像研の3人の少女は、歓迎を以てアニメのプロのおじさんたちに受け入れられたのだ。
「実際作るならこうだろ」「この方が画としていいぜ」「あーそこで苦労するよな。わかるわかる」
粗削りで、未熟で、それでも熱意だけはある3人娘は、アニメを作るおじさんたちにとってほっておけない存在なのだ。
祝福をもって、受け入れられたのだ。
そして、アニメのプロたちに笑顔で迎えられた人がもうひとりいる。
エンディングにアニメーターとして参加したことがその証左だろう。
原作映像研は、アニメーターに憧れて挫折した大童澄瞳による、アニメ業界へのファンレター…というかラブレターだと思う。特濃の。
で、このアニメは、アニメ界からの、湯浅政明監督からの愛に溢れたアンサーだと思う。
エンディングの動画を見ると、大童澄瞳は現時点ではやっぱりアニメーターとしては並以下だと思う。
それでも、毎回必ず流れるエンディングで、メインアニメーターとしてクレジットされている。
これが、業界の先輩の愛でなくて何なのか。
原作映像研という「アニメって/アニメーターってすげえんだぜ!」というラブレターに、
「お前が思ってるよりもっとすごいぜ!」あるいは「そうまで言われちゃやるしかあんめぇ」と粋な回答を示す。
それでいて、そのラブレターに勇気づけられたことに感謝も示す。
偶然かもしれないけど、サイエンスSARU(制作会社)と映像研のロゴの重ねっぷりなんか、愛と愛の応酬でしかないでしょ。
お互い元気をもらい、お互い感謝しあって、お互い認めあって。
それが傑作に、ならないわけがない。
余談
それを於いても、特に浅草氏のイメージ段階の画は、コンテのまま見せる、動画を割らなくていい、等作り手として楽できるポイントでもある。
そういうところを衒いなく取り込んで悪びれないのはやはりプロだと思うし、鑑賞者もスケルトン的に楽しい。図解というか。「アニメのできるまで」みたいな。
アニメを作るおじさんたちの「親心」「兄貴ヅラ」「若者を見守る目」。
そういったものが、何より愛おしく可愛く見える。