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2015-10-20

http://anond.hatelabo.jp/20151018215156

やぁやぁ、どうもお疲れさま。

id,敬称略

narwhal 妊婦なんかどうでもいい。転部準備がんばれ。増田増田のために生きればいい。

koiyaro 「これからかわいい笑顔出会える幸せいっぱいのお前が、おれみたいな生まれてこのかた女っけのないブサイククズ野郎に席を譲られるなんて屈辱だろ?」

って思いながら上から目線で席を譲るといいよ。おれみたいに。

d-ff コンビニ店員が釣銭を投げ落とさないだけで幸福を感じる男になろう。特権妊娠中に電車に乗らないとか、多大なガソリン生活享受しながら石油危機だと経済的徴兵を進める連中だと考え、リヴ・タイラーを愛そう。

kutabirehateko 生病老死のサイクルのひとつじゃなくてステイタスみたいに思っているんだね。その考え方だとてっぺんにいけない限りずっとみじめだよ。


Nihonjin 完全に乗り遅れた。/「勃起したら席を譲る」というのは、ルールとして面白いかもしれない。


saavedra 妊婦や老人にはよく席は譲っているが、それはそういう人物が目の前にいるとある種の圧迫感を感じてしまうからで、善意からではない。


hidex7777 全人類が敵に回ってもぼくは増田の味方をする。


kyousuke104 他人に優しさを要求する行為自体がすでに優しくない。他人に優しくすることはマナーであってルールではない。

ルール特に法律)は人を強要することがあるが、マナー強要すると不幸になる。


tomiyai 優しくする必要はない。内心どう思っていようと実際に攻撃しなければ何も問題ない。

そもそもマタニティマークは優しくされるためにつけてるんじゃないっていう話なわけだし。


siomaruko 世の大半は自分が好感を持てる相手にのみ優しい。妊婦弱者からではなく「おめでた」が道徳的に好感を抱く事象から気遣われている。

気持ちいい事や相手しか視野に入れない偽善者ほど増田を毛嫌いするんだろうな


kanenooto7248 キャプテンルサンチマン文句をいうのは「優しくない社会」であって、「妊婦」ではないよね。

なんというか、障害を抱えた人間中二病みたいなもので、精神障害者の俺にはよく分かる。


kuroihikari ブコメ欄に理解のない意見もあって悲しくなるが、俺はおまえを全力で応援したい。がんばって生きてくれ。


wdnsdy とりあえず増田文章を読む限りでは、他人に席を譲れるほど心身共に健康状態であるとは言いがたいから別に無理に譲る必要はないと思う。

席を立つことができないほど傷ついてるんだし(心が)


toksato 他人に優しくするには、自分でいっぱいいっぱいになってちゃできないってだけの話。

この人はだから優しくできない。でもそうなったのにも原因があるのかもしれないし、ないのかもしれない。そんなのわからない。

ahomakotom 女の子が大好きで優しくしているのに、ただただ傷つけられる日常がここにある。


aniram-czech そういうふうに考えてしま気持ちはわからなくはないので、そういうふうに考えなくて済む方法はなんかないのかと考えてしまう。


zyzy 不細工に優しくないのはこの人であって、妊婦じゃないよね、というシンプルな話。

要は自分の行動がくずなのを、容姿のせいにした結果、自縄自縛に陥ったというね。しかもそれを回りに撒き散らすんだから既に加害者


toronei 露悪的なことを賞賛すると、知的快感をもたらすアドレナリンみたいなのが出るってやっぱり本当なんかなあと思うわ。


sdtrd こじらせて世の中を憎悪する人はどうしたって一定数いる。犯罪にさえ走らなきゃまあ別にいいんじゃね。

でも呪詛を撒き散らしても本人含め誰も得しないと思うよ。溜め込むのも良くないけど発散するなら適切に。


citron_908 これ妊婦案件じゃなくて非モテ案件だよね / 一昔前の喪男板まとめの「夏の葬列」を思い出したのってもしかして自分だけ?時は流れた


houjiT 筆者が優しさを希求してるなら考慮するが、自分を守りつつ他人幸せ否定しか使ってない以上、境遇を気に入ってると思うので放っておいていいかなと。

優しさなんて起点にするつもりもないし、やってればとしか


marony0109 自分幸せでないと他人幸せを分けてあげることはできない。逆に、幸せを分け与えることで、自分幸せにする方法もある。

不幸の拡大再生産を止めるためにも増田には幸せになってほしい。気楽に楽しく生きろよ


htnmiki 一見クズっぽいけど実はこれ世間にありふれたナチュラル容姿差別問題孕んでるからどうコメントしていいかわからないな


kuzumaji インターネッツの闇の妖精っぽい。人間は誰かに与え続けた人と、与えられ続けた人が居て、それが年齢とともにはっきりしてくるんだな。

と、最近色んな人に会って思う事が増えてきた。


sardine11 増田鬱屈はどうでもいいんだが、差別的なことは心の中に留めておけよ。

全く個人的感情を無節操に振り回せばそれで傷つく人がいることくらい、病気患者として気持ち悪がられた増田ならわかるだろーが


kyonishi333 優しくせずとも危害を加えなきゃ、何の問題もない。優しくしないことと、危害を加えることにはそれだけ大きな隔たりがある



nerimarina よし、じゃあわたしが君の分も立つ!いろいろ気にすんな!


Sion96 いいんじゃね?暴力とか振るうのはダメだが、優しくしたくないならする必要はない。


douzokun ●●だから優しくしろ!って強制される社会は息がつまる。した方が良いと思う人はすれば良いし、必要ないと思う人はしなければ良い。

お互い強制するのやめれば、争いがなくなる


u-account ブコメ理解度が絶望的だな。自己の生を根本肯定できるのでなければ道徳は成立しないんだよ。

増田社会防衛を説くならまず社会増田にとって守るに値するものにならねばならない。この順序は決して逆転しない。





camellow 社会はいろんな人がいるのだ。積極的に害をなさない限り法にも触れないし。

みんなが(妊婦に限らず)みんなにやさしくできるのが理想だと思うけど、全員同じ考えを強要するのも気持ち悪いし不健全だ。




mellow_px 優しさは等価交換ではない。それを学ぶことができなかったのは、親の愛情不足かな。優しくしなくていいから、害は加えないでほしい。たのむ。






deneb-y これだけのドロドロを抱えていながら「優しくしない」「席譲らない」程度で済む増田内面がどうあろうが殴るジジイよりよっぽど出来てる。

容姿は上を見るとスパイラルに陥る。容姿ネガは止める練習を。






kuwa-naiki 人に優しくってのはそのときそのときで出来る人がやればいいって『いいひと。』で言ってたけどそれで良いと思う/この増田もそう思えるときがくればやればいい





shinonomen 幸せな人が妬ましい気持ちは分かるし、環境性格に影響を与えるのはその通りだと思うが、増田の書き方だと人間自由意思がないみたいじゃないか。

開き直っていると本当に性格が悪くなってしまうよ。





ninjaripaipan 妊婦かと思って席を譲ったらただのデブでお互い不快気持ちになったことがあったので、デブは逆マタニティマークをつけてほしい。

妊婦デブかは話しかけるまでわからないことがある。シュレディンガーデブ




teebeetee ギブアンドテイクの文脈に乗せていいものとそうじゃないもの区別がつくのって大事だよね。何か他のことで頭をいっぱいにできるといいと思う。




kamayan1980 「席を譲った」なら立派だと思うけど、「席を譲るべし!譲る気持ちになるべし!」には疑問が浮かぶ。増田増田のまま、幸せになればよい。




Ri-fie 読み違えてる。妊婦に優しくしないものは死んだほうがよい、ではなく、妊婦に優しくない社会はいずれ死ぬ、だ。

/あなたが優しくせずとも、今ならまだ、他の誰かが妊婦に優しく接する。どうぞあなたのよきように






aatoku 大前提として自分にやさしくできるひとであってほしい。それ以上に社会が求めることを無理に気にする必要はない。




white_cake 正直、読んだ瞬間はいらっとするのだけど、増田幸せでないこと、だからこそ生まれた文であることはわかるので、どんどん悲しくなってくる。

増田幸せに穏やかに生きられる日がくることを願う。



feita んー赤ん坊母親に寛容な世界たれとは思うが、今のところ人間善意に寄りかかったもんだとは思うし、そこが行き過ぎて「妊婦にやさしくしない奴は死ね」は言い過ぎだわな。




You-me 増田が母ちゃんのお腹いたころに優しくされたはずなんやで/マタニティマーク必要性は「妊婦なんで優しくしてあげて」という話以前のところにありますので。

意識なく病院に運ばれたとき必要性



spacefrontier 妊婦さんとか関係なく、自分に余裕が無いと他人に優しくなんてできないよね。

満員電車でのベビーカーと同じ。社会的庇護されるべき対象自分より恵まれていると感じた瞬間、どす黒い感情生まれる。



mogmognya 自分妊婦にはできるだけ優しくするつもりだが、増田押し付ける気はない。

増田はとにかく自分大事にしてあげよう。そして他者故意に傷つけるようなことさえしなければ上出来だ。増田に幸あれ



GROOVY こういう人もいるって事。別に妊婦危害加えないならいいんじゃないの。危害加える奴は最低だけど、こんな人は結構いると思うわ



a8888 障がい者などに優しい社会では全くないのに、妊婦にだけ優しくしろというのも無理な話だとは思っている。少しづつ全体的に改善していくしかなかろう。




ite この問題妊婦ではなく、こう思ってしまう人がでてきてしまうほどに、容姿以外の努力が認められない社会であること。




akimaruworks きみが優しくしたい人に優しくすればいい。報われない境遇を人への怒りにすりかえる人は優しくしてもらえないよ(経験談)



miki3k 席を譲るのは、やさしさの問題ではなく、社会要請だ。




underd 性別や年齢、仕事プライベートに関わらず体調を理由に予定をキャンセルする人は無条件で許す事にしているが正解だった。

ドライな言い方をすればそれで感謝されて利を得る事もあるのでおすすめ幸せスパイラル



eri_pico 暗いと不平を言うよりも進んで明かりをつけましょう/

Twitterにも書いたのだけど、身体的(物理的)弱者社会的弱者を一緒に語るのはおかしいと思う。妊婦、赤子は身体的弱者じゃないですか



sanam 別に席譲らなくてもいいけど、妊婦は恵まれてる教はインチキカルトだという事と、ブコメにも見られる通り教義暴行の推奨が含まれてる事は覚えとけよ。

自分けが苦労してるって思い込みメンヘラの初期症状だから




anigoka 社会的互助って奴がそーゆー単相の一対一だけで成立してるわけじゃないことぐらい分かれや お前は性格ルックスが悪いんじゃない、アタマが悪い



kash06 私は相互にどうこうではなく、単純に、今現在辛い人には保護が割り当てられるべきだと考えている。

から、これを読んで当時のあなたにも与えてあげたかった。いや、私の自分勝手感傷に巻き込んですまないが。






たっぷりブコメ引用したところで、要点をまとめると、

増田感情は間違ってない、ルッキズムによる所の被害者意識が強いのである。実際に被害者であるし、仕方がない。

増田の悩みに妊婦云々はあんまり関係がないが、「マタニティマーク必要性は一般に大いに勘違いされて認知されている。」

別にみんな増田に死んでほしいわけではない。かと言って喧嘩したいほど興味はない。そりゃ誰でも誰にだってそうだ。(しねって書いてる人もいるがな)

とりあえず、みんな頑張れって言ってる。増田とっては「死ね」って言われてるのと変わらないかもしれないけどな。

2015-10-18

http://anond.hatelabo.jp/20151018001835

のかって分かりかねるよね。分かりかねるってのはアレだ。今俺が見ている景色がそれはそれはまったく何だ・・・非実在的な差・こkれをよみがえらせるのは、真の知っていうかでしかないわけで、結局人間馬鹿なんだ、馬鹿から場にぬなるだぶるすたんだーとって言葉を知ってるけれど、ソレに十雨中にしにして近いこごいn、、・・・・・あ。あ、わかりはじめた。今俺がいるアパートの一室、でもさ、それは結局この世に生を受ける、また人間の創りだす価値しかこの世は判定さんでい出来ないわけで、オレの幼少期を思い返してみると。。。そうだな、オレが他人を省みているようで顧みなくなったきっかけは、やっぱり家庭環境なんだろうな。価値観、俺の家庭が持つ価値観価値観もまた遺伝子のように伝承されるものの一つであり、それは俺も例外ではなく、そう価値観を育まれた。内向的だったなあ、幼少期の頃から、幼少期の頃から、人の顔色ばっかり伺っていた気がする。人の顔色を伺ってさ、両親の顔色、今日喧嘩してないかな?とか?祖父母との軋轢はないだろうか?とかさ、子供の頃から気をつかっていたね。幼少期からまれた性根なんだよ、。結局。三つ子の魂百までっていうけどまさにアレだ。俺ははみ出せなくなったんだよ。自分のカラから。何をやるにも、周りの顔がちらつく、両親や親類の顔がちらつく、。俺は俺が俺を俺たら占めていると思っていたけど、違うんだ。俺は結局、自分がないんのではないか・・・・・自分を足らしめるための自我が芽生えていないのではないかという気がしてならない。本当は実現したいこともあった。でもできなかった、ソレは俺の怠惰が産んだ結果かもしれないと同時に俺の心を縛る何かが、また。何かがあったんだ。俺の俺の心情には、幼少期から学生時代に成長して、思ったよ。俺は俺をさ、俺たら占めている、そんな気がして無かった。人の顔色が、社会の目が俺を狭くしているんだった。俺一人がこの社会にいられたら、どんなに楽だろうかと、何度となく考えた。それは馬鹿らしい考えだったけどだs。俺は、俺を俺であるために俺から俺を俺から開放する、そんな時分の中のアクションgあ必要だと、何度となく思ったよ。俺は俺を俺たらしめるものが何もない、てって、社会的にも精神的にも肉体的にもまたはそういう実存的な概念でもってしても、俺って一体俺なんだろうか。俺は俺であるからなのだろうか。俺は俺であるのは本当に俺が俺である証拠なのだろうか。俺が俺を俺たらしめる俺の部分は俺の中のどこのb俺を俺にしているのだろうか。俺が俺らしくらしくsらいく、俺がおれがgrで俺gであるための俺であるためにのおレレの俺rの己が己に打ち勝つための、でもソレは俺が俺であることが前提条件であり、俺が俺であるための俺でゃkぉ俺で俺は実に俺であるとのは誤認であって俺が実阿おrでhなく、俺が己を打ち勝つ俺は俺ではない、俺はが俺でなく俺であるための俺が俺を俺に俺たらしめる、俺たらしめるための俺が折れたら占めていなかった。結論的にはどうなんだろう、社会で生きていても、思う子男が多い、俺は何のために、こんなぼんやりと生きているんだろう、ぼんやりぼんやり働いて、ぼんやりぼんやりと金を稼いて出ぼんやりぼんやりぼんやりぼんやり、何をするでもなく、何をするのでも、あk、何が必要なのだろう、承認欲求承認欲求なのではなあk、て思ったこともあるが、そんな気がしない。社会的成功社会的な欲求が満たされれば、俺はこんな気持ちにならないのかと言われれば、そうだと言えない、もっと根源的な、本能的な欲求が満たされれば俺はこんな気持にならないのかと言われればそうだと思わない。オレhのなかのもっと、、、人間の核の部分が満たされていないように感じる、そしてそれは人間社会では決して手に入るようなものではなさそうなのだ非実在的な創作物からえられるものに、それは近いのかもしれない、、、もうすでに思考が、脳が、もうすでに、一元的な欲求では満たされなくなっていsル、気がする。3大欲求や、社会的な欲求、それではもう俺は満たされる気がしない。もっと根源的な、k,、というか、、次元を上げたもの必要だ。。宗教家の求めるソレに近いのかもしれない。宗教家が求めるものが、l超次元的な欲求を満たすものだとすれば、おあお俺が求めているもののに近いのもはそれだ。。超次元的な欲求というのは、、。ソレを言語化するすべは持ち合わせていないgあ、。、超次元的な欲求とは、まさに、現在認識されている次元を超越したものであり、超越するための、、その生きる方法がかるあお確率されていあない。ようにおもれえる。確率必要な物は、、その、。ちょウ自然的な、もっと、脳髄を脳髄を根本的に揺るがすようあん、心、精神的ん欲求とは、ソレの角の部分を揺るがすような、そうういうも野にちかい。オレhがものも求めるものがもはやそこにしかないのだはないあk.。労働しても高リュうしても3大欲求を満たしても何をしても満たされることがない。。もっと欲求が湧いてくる根源、源泉がそこにはあるのではないか。。。姓名を維持すること、それによてって生じる姓名の根源、は一次的庵ものではあり、ソレを満たすには、また別のソレを満たさなければならない。それを満たすことはソレおwみたすことにつながり、まさに無限回廊のものだl,満たすことが満たすものを呼び、満たすことがまた別の満たすおmのを呼ぶ、よって、人は、苦心してしまう。ではどうするべきなのかといえば、それはヒットつしかなく、その欲求が生じる、源泉を絶つ、欲求が湧いてくる源泉を満たせばよいのである。。。そしてソレを満たす方法を我々あh本来ならば探さなければならない。kもはや現代社会において、求められる命題はそれしかない。欲求が湧いてくる源泉あh、それは生命維持のための欲求や、社会的な、人間的な欲求とは確実に異なるものだ。欲求の源泉を、源泉が根源的に存在するのは何故か。それすら我々は理解できてイナイのだ。まだ。それが宗教家の言うような、超常的な存在、神や仏、、だと考える、当てはめっるlそういう認識に落とすことあh実に容易なことであるが、それは一種の逃避でしかない。超常的な存在によって、欲求や自身のまた雑然的な現象説明させるノアh安易であり、もっと断罪されるべき施工方法なのだ本来、これから、我々あh、原初にもどって、、考えなおさなければならないことは、人間的な、生物的な欲求、それの解消法ではなく、そんな全時代的な方法唾棄されるべきだ。。我々がこれから求めるべきあ、欲求雨の源泉、精神的、と呼ばれるものに近いものの源泉を求め、そこを絶つべなのだ。源泉が欲求を生み出しmその生み出した欲求がさらに欲求を生み出していく。源泉が生み出す欲求うは実に一元的もので、一元的ものがもたらす欲求は欲求を解消されても、所詮一元的ものに、一元的な解消にとどまる、一元的な解消は一元的な解消でしかなく、多次元的な、根源的な、源泉をm,超時限的な源泉を解消するニアh所詮いたらない、。超時限的な源泉を解消するための、その方法は、人打つぃかなく、一つしか存在せず、根源的な、根源的な欲求を解消するための、夜急を解消するための、根源的、源泉的、超次元的、多次元的、超常的、超自然的な、その何かを解消するしか無い、のではある。一次元的な欲求をかいしょうするための現代メソッド、法本論、それ自体すでに、前時代的、原初的な、人間実態に沿うようなものではなくなってしまっている。一次元的欲求が社会人間社会事物ym出来事などによって実現されたとしても、それは所詮一次元的なものしかなく、一次元的なもの一次元たら占めているにすぎない、。一次元的な欲求を愚かにも何百回、何千回、何万回とk気の遠くなるほどに実現させようとしている、人間社会、それ自体が誤りにすぎず、我々が目指すべき、自己実現、実現はまさに、一次元的なものを生じさせているものおの根源である。根源は源泉であり、一次元的欲求が生じる、その源泉を我々が、一次元的に解消してしまっていては、所詮一次元的でしか無いことは明確。発送をかえるための、発想をかえる、それすなわち、欲求の源泉への対処法なのである。欲求の源泉といっても我々あh、未だかつて、それを言語化したり、ましてや認知したりすることはいまだかつて実現せしめたことはない。一次元的な自己実現が生み出す、一次元的ん自己実現あhは逆説的に一次元的な欲求をまた、同時に生み出すことも行っている。一次元的な欲求を解消し、一次元的な欲求を一次元的に解消せしめても、我々人間構造的には、その一次元的な欲求を認知してしまうことにもつながってしまう。それを潜在的な意識下で我々あh一次元的案欲求のwパターンをmた、また認知してしまうことにもつながってしまう、。つまり一次元的な欲求を煩雑にし、雑然にし、永久うに沸かし続ける源泉あh、根源的欲求のみならず、我々人間構造的に、一次元的な欲求を認知し、解消することで、さら一次元的な欲求のヴァリエーションを増やすことにもつながってしまうことで、一次元的な欲求が生じやすくなってしまっているために起きる、また一次元的な欲求の再生を我々は生きている間に繰り返すに至っている。一次元的よっキュうを我々が解消することがいかに愚かで、前時代的で、後進的な人間のための方法論なのか。。割れ和れはまだ完全に認知するに至っていない。。ソレは我々が現代社会最適化された人間線を含有してしまっているからであり、人間性がまたは、一次元的な欲求を満たすために最適化されているための弊害、そしてソレは根源的ンは、間違いでしか無いのである。根源的に行って、一次元的な欲求を解消し続ける人間社会は変革が、根本的な土台から変革することが必要なのである一次元的な欲求を解消し続けても一次元的な欲求は湧き続け、我々が頭を悩まし続けるに過ぎない。一次元的な欲求が生み出し続けリる一次元的な欲求の連鎖一次元的な欲求を、解消してもまた一次元的な欲求を生み続けるにしか足り得ないことであり、そして自らが生み出す、一次元的な欲求を満たすべくして見たっす、一次元的な欲求はそれ自体が、我々に意味を附さず、一次元的な欲求は我々の認知限界たくみに利用した、いわゆる、無限切ろうてきにな、欲求の連鎖しか無いため、一次元的な欲求を解消し続けいることの無為さが我々は十分に認知しかしそれもまた、しかしそれおっもまた。、一次元的な認知しか我々が認知できる一次元的なものしかないkが、我々は一次元的んことへの唾棄進歩性を持つべフェーズに我々あは、ネクストフェーズ差し掛かっているのである。で、だがしかし、だsしがかし、そうはいっても、我々はまだ、全時限的、根源的ん欲求を解消するためのメソッドを持たない。根源的な欲求を解消するメソッドを持たない我々が出来ることは、そろそろ根源的な事象への認知を働かせることが必要なのである。根源的なよっキュうはそれ自体、本当に今現在、後進的な我々が認知できるかどうかは、我々はまだ分からない、根源的な欲求が生じる原因を突き止めることが出来るのは我々には不可能かもしれない。古代より、人間が、アミニズムであったり、様々な超常的な事象への畏怖から生じさせる、神であったり仏であったり、今日宗教家が言うような、そのような超常的な存在は、我々はいまだかつて認知できていない、。そのような超常的な存在認知し、逃げこむこと、ある種の逃避行動は容易であるが、我々は次のフェーズに来ている。次のステージは、フェーズあh、根源的な事象の解決だ。一次元的な欲求を解消して、そして、無限回廊に迷い込んでいる時代を捨て去れうべきkなのだ。根源的な、源泉的な欲求は、我々が認知できないだけで、それは、また、三大欲求や、つまらない、人間的、社会的事物から生じる、一次元的な欲求ではない。一次元tねきな欲求が満たされたとこrであh、、我々が出来ることはただの堂々巡りしかない。我々が真に、取り組むべきことは、源泉を、欲望の源泉を認知し、ソレを満たすことなである。我々が必要であり、今後、必要である、そう、必要になる、ものもの実物、出来事は、源泉を掌握し、我々を次のフェーズへ導くためのメソッドなのである。根源的、厳選的案事象は我々はソレを解消するに至っていない。根源的なよっキュ、う、それはまだ我々の認知科に及ぶに至ってはいないが、、しかいsk,、根源的にはソレをほっ知っている。割れ我が、欲望との闘争歴史におおいて、必要であるノアh、根源的な欲求をいかに、認知するか。それにつきる。それを仮に、精神的、こころが我々の根源的な欲求の源泉であるとしようl.こころはまさに実態がない、我々の認知科に及んでいない。。こころを満たすものあh、今現在流通している欲望では案あんあい、ない、先程述べた容易、に一次元的な欲望を満たすことは現代人間社会で容易なことである。、それは3大欲求や社会的な、精神tねき充足に近いだろう。。そのようなつまらない、後進的で、憎むべき、唾棄すべき、事象はもうすでいnに我々あh手放すフェーズを迎えている。こころを満たすべき事象こころを満たすべき事象は何に依るのだるか、だろうか。それは一時的な充足をすべて捨て去った。現代宗教家が実行しているもののさきにあるといえるかもしれない。または、一時的な欲求を解消し続けた先に、いつかおとずれる、根源的な欲求を絶つフェーズへ我々あh訪れることができるのかもしれない。あるいは、もっとなにか、脳髄を揺さぶるような、脳幹をぶん殴るような、そんな衝撃が、精神的とも、身体的とも違う、そういうインパクトを我々あhどうにかして体験する必要があるのかそもしれない。そして、それは天啓に似た、それは気づき、根源的な、もっと、なにか、、。気づくことが必要なのかもしれない。。我々が持っている視点認知では認知で起案い。。出来ない。認知を超える、あるいは認知を広げる、または認知の裏側にある、ソレを我々は認知することで、それこそ、根源的な、源泉的な、欲求、あるいはそれともまた違う、なにか、現代、現状、人間にhにはい認知でないん、何かを認知するに至るのかもしれない。進歩的な、その知を我々が獲得するために派、現代を捨てる、執着を捨てる、そうsれは知のカタストロフィーである。それが、革命必要なのだ現代我々が、論じる、認知するっもの、知は、真の知へとは至っていない。としかいいようがない。。物量的観念的な充足、それはもう満たすことが可能なのであり、。それを我々はもう100年い所以上、、異常く、以上繰り返してしまっている。本来必要なのは、次のフェーズへ行くことダリ、次の知、知覚、認知は我々が1000年先の人類、10000年先の人類が獲得しているものを、我々h日進月歩で獲得しようとしている。真の知、というものは確実にそんな良い、、お、存在し、ソレは、現代社会、我々が、唾棄すべき、人間一次元的なもの、そrは1000年後の人間にとてじゃは、非常に視野の狭いもおの、認知に至っていない、あらゆる観念が、我々あh100年後1000年ご10000年後「のために、認知に至るための準備をはじめなければならない。一次元的な欲求、認知は我々がすでに、うんざりするほど、まとわりついている一次元的な欲求は、早々に放棄するべきものであるそれからまず、認知し、日進月歩的に個人個人が、一次元的な欲求を捨て、根源的な欲求、根源的な、源泉的な欲求をそうそうに突き止める必要がある。。。それは100年後、またh1000年後の人間にはアタリマエに認知されているもの、そう私が信じているものnにほかならにあない、人間なh、科学技術のみで進歩的人間的な充足を得られるというのは、ある種の現代社会蔓延する嘘でしかなく、本来我々が求めるものは、科学産業技術にはない。それらが我々に与えるもの、我々を救うものは、しょせん一次元的案欲求をでしかなく、それは今現在語られるつまらない愚かな、欲求のためのツールしかない。我々が、本来求めるべきは、現代社会、に最適化されることではなく、現代社会最適化された、欲求、身体的、精神的欲求ではなく、本来我々が求めるべきものは、それを超えた、ソレの下に埋まっている、またhあ、。ソレの裏側に潜む、または、それに内包されている、我々があいまだ認知下におくことができない、根源t気、源泉的な、欲求、または欲求とはまた何かの概念的な観念のを我々は更生のために、更生のために後世ために残すべきものであり、それは個人個人の意識ないから進歩、進捗が行われるべきものにほかならない。一次元的な欲求は100年、1000年後の人間コミュニティでは、それhあ、それはすでに実にチープな概念へと堕落していると私は確信を持って言いたい。。100年後1000年後、我々が途方も無い科学ギジュつを手に入れるか、それは、現代社会病理のひとうつで一つである一次元的な考え方であるが、我々が本来、欲するべきものは、必要とするべきものは、ほんr内は、本来は根源的な欲求、源泉的な内面人間という存在認知で規ていない、認知へ踏み出すことであり、それは100年後1000年後にはアタリマエになっている認知なのである、。我々あhまだ、それを見ることhおろあか、認知することができていない。それは我々の目の前にあるかもしれないし、考えもつかない、超次元的な認知下にあるものかもしれない、あるいは、常識認知、知を混ぜっ返した裏に潜むような、今世では手に入れられない、真の知ともいえるだろう。宗教家が言うような概念偶像化、は。教義化は我々の頭皮だ、逃避だ敗北なのだ。100年後、10000年後の人類、とも呼ぶべき我々の次のフェーズである存在が見れば、まさに嘲笑に附さずにはいられないような、後進的で全時代的な、そんな概念、我々が本来追い求めるべきもの放棄して、自ら目をそむけるような、そおようlそのような社会のあり方では、我々に待っているものあh破滅、あるいは、なにかもっと恐ろしい物がわれわれに待っているだろう。一次元的な欲求が我々に与えているもの本質は、破滅破壊終焉なのだ。。k我々が闘争するべきあh、経済的な、社会的な、政治的な、科学的な、技術的な、創造的な、文化的な、対人的な、そんな、ものではない。それらはすべて、現代社会をこうせいしている一次元的な事象しかない、我々を惑わすものの一つでしか無い、100年後1000年後の人間がそのようなものには、おそらくkく、精神的な肉体的な充足を放棄しているだろう。超常的な存在超自然的案存在、それらが存在するのかというう愚問、我々が、我々人類の中にこそ、認知の次のフェーズへの全身こそが、我々を真の人間、真の知へと導くものにほかならない。」l。人間との闘争人間内の闘争を諦めることは非常に危険であり、我々が漸進的ことを及ぼす必要がある。。 Permalink | 記事への反応(1) | 01:45

2015-09-13

おしえてもんじゃ

イスラム教女性蔑視していない理由という記事があって要約するとこういうものだった。

1.イスラム教は成立当時の社会において極端な男性支配から女性を救う革命的な考え方を持っていた。

2.しかコーラン記述には、現代において普遍的人権等の概念にそぐわない部分があることも事実である

3.そうした記述についてイスラム教徒フェミニスト等は、再解釈に取り組んでいる。

4.性差別イスラム教教義じゃないからイスラム社会においてこれから改善していくだろう。

2はわかる、ムハンマドは昔の人なので世界人権宣言に着想を得てコーラン執筆したということはありえない。齟齬はたくさん出るだろう。

3がわからない、それはアップデートして使うものなの?

コーラン文字通り読んでいくのは理解できる。ISは異教徒女性に対する蔑視所与のものとしてイスラム的に振舞っている。

でもコーランに対して、現代イスラム世界規範に基づいて、執筆当時決して存在し得なかった解釈を試みるというのは意味がわからない。

コーラン記述は神の啓示を書きとめたものから価値があるんじゃないの?現代社会学者による創造的な再解釈は何がその価値担保しているの?

これ当のムスリムに受け入れてもらえるの?世俗的な地域ならいけるけど、そこ以外は仕方ないという考えなの?

あと現代における人権概念も日々変質し拡張してるわけで、それとの差異が広がるその都度再解釈を試みていく予定なの?コーランってそういう性質のものなの?捨てたらダメなの?

誰か詳しい人おしえてもんじゃ

2015-08-29

∴゜°\(゚∀゚ *)ハラッタマ!キヨッタマ!(* ゚∀゚)/°゜∵

anond:20150829085753

国立競技場建設する。地鎮祭やるよな?旧国立競技場取り壊すときにやってるかな。

穢れたものは、お祓いをして、清めなくてはならない。

これ神道の考え方。教義じゃないぞ。日本人感性と言ってもよい。

けちがついたものはお焚き上げして供養しよう。禊ぎがいる。

祓いは気休めかもしれんが、理屈じゃなくて、気持ち悪い。

2015-08-18

http://anond.hatelabo.jp/20150818102240

お前の発言根底にある「会話をする必要がある」という概念理解できないんだが。

そういう教義がある宗教でも信仰しているのか?

2015-08-08

http://anond.hatelabo.jp/20150808112314

信じるとは、その語義にあるとおり、疑わずに受け入れるということだろ。

論理展開などは、綻びがあるかないかだけであって、そもそも「信じる」対象にはならん。

宗教学のような学問と、信仰のもの混同してるんじゃないか?

なるべく少数の超自然的な前提を置くことで後は論理的教義を導出するようにできていると思うんだけど

それは、信じなくてはならないことが少ない方が教義として納得させやすいという教義を広める上での都合からであって、

すべてを「信じる」という形で丸のみできる人間にとっては、超自然的な前提の数など問題にはならないからだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20150808110927

仏教はそれなりにロジック通ってるだろう…。日本宗教と言えるか微妙だけど。

ともかくこの人の場合宗教が原因で論理崩壊してるんじゃなくて、教義解釈することもしてないし「なぜそうなのかについて話をする」とか言いながら「おちんちんびろーんしか言ってないに等しくてそもそも論理という概念が全く無いか、論理とは「おちんちんびろーん」と言うことであると思ってるっぽい。

こういう人が宗教を信じるというのがどういうことなのかわからない。どうしたって解釈とか論理展開とかの要素が入ってくるからそれを受け止めることができないはずなんだけど。

http://anond.hatelabo.jp/20150807200157

doksenseiとかいアカウントブコメがすごかったから公開されてるウェブサイト見てみたらこである

http://d.hatena.ne.jp/doksensei/20150507

宗教どうこうではなくて、純粋論理性というものが一切皆無なのがすごい。

その割に「ですから」とか、論理的な展開を意図してるっぽい接続詞を使っているので本人は論理展開だと思って書いてるっぽいのがすごい。

「俺はこう思う。あびゃばばばばばばこう思う。sdrftyぐひじょkplこう思う。」と字面通りに置き換えても文章論理が全く変わらない。

一体どのように生きると40を過ぎてこういう文章を素で書くようになるのだろう。

宗教やってる人のマジョリティはこんなものなんだろうか。多くの宗教自体は、なるべく少数の超自然的な前提を置くことで後は論理的教義を導出するようにできていると思うんだけど。

2015-07-15

ミニマリスト批判を違う角度から展開してみる

はてブは手斧を持ったモヒカンが背景全無視で「行為」を断罪する論理荒野パラダイスだが、

手斧を投げつける手法が「個人攻撃」に見えることが多くのドラマを生み出しているとも言える。

平たく言えば「オマエの主義は知らんが、その論理展開の主張は気に入らん」という投擲だ。

「オレの生き方サイコー」なら良いが、それに「他の生き方ダメだ」と続けてクサスのが良くないってのを観て

なんかそれもまた違くね?と思ったのが、この批判を書くに至った理由だ。

自分の主張を補強するつもりで、他の論を持ってくるなんてことは、良くある。

論文は大抵「過去研究ではこう言ってる」「が、俺は違うと証明した」「が、俺は新たに良い手法を見つけた」みたいなのばっかりだ。

まり比較することそのものは、別に批判対象になるようなことじゃない。

比較が雑だったり、優位を主張する部分に誤りがあるから批判対象になるわけだ。

コレは結局のところ「スタート立ち位置が変だから、組み立てが変」なんじゃなかろうか。

思想を持たない「主義」への違和感

例えば、「菜食主義者」の「菜食主義」そのものは、「手段」だ。

宗教上の理由から「肉食を避ける」菜食主義者と、健康上の理由から「肉食を避ける」菜食主義者とは、

外側から見える行動そのものは変わらなくても、その思想的な背景である目的」は、大きく異る。

例えばミニマルアート(Minimal Art)は、視覚芸術におけるミニマリズムだが、これは縛りプレイと呼んで良い。

徹底的に削ぎ落としたその先にも表現はあるはずだという、抽象美術の一つの縛りプレイの形といえる。

これも目的は「アート」の追求であり、色数を減らすのは手段の一つにすぎない。

手塚治虫ブッダで覚えている人も居るだろうが、コーサラ国にスダッタという富豪が居た。

ブッダの説法を聞いて感動し、ハコモノを建ててブッダを誘致しようとした人だ。

ジェータ太子土地を譲ってもらう条件の「土地を金貨で敷き詰めたら」を素で実行しようとした人だ。

必要最低限のモノだけを残して全ての財を金貨に変えて土地に敷き詰めまだ足りないと実行し続けた奉仕の人だ。

目的」が明確で、「手段」としてミニマリズム実践した人、とも言える。

最近はてブを騒がす「ミニマリスト」達には「目的」が見えない。

目的」が明確なら、その「手段」は様々である

知り合いのヒンドゥー教徒は、結構ユルイヤツが多い。日本に来てる時なら酒は飲む、とか。

手段である「主義」は、厳格な人間でなければ、そう厳密に守ることでもない。

(もちろん厳格な人が、厳格でない人を批判する事は、ままある)

まあ、どんな主義であれ、基本的には尊重されるべきだろうし、

本人の主義に関してアレコレ言うことは(同じ主義を持つ集団でなければ)、無意味干渉しかならないだろう。

ただし、それは「相手もまたそうであろう」という暗黙の了解に基づくから、そう言える。

ヒンドゥー教徒の知人は、仏教徒仏教戒律に関して「バカげている」という話はしない。

当然、仏教徒の知人も、ヒンドゥー教徒に対して「その食の制限意味が無い」という話はしない。

お互いに違う宗教を信じていても、相手のことを尊重しているからだ。

(敬意を持った上で、教義上の疑問点を話す、なんてことはある)

最近はてブを騒がす「ミニマリスト」達には「他者の主義に対する敬意」が見えない。

自分の主義に無頓着から他人の主義もぞんざいに扱えるのでは?

結局のところ、目的も無く、自覚的自身の主義を捉えることもないので、想像力が無いのだろう。

そうした場合、「自分もそうだから、相手もそうだろう」と想像してしまっても、無理はない。

というよりも、想像することそのものが出来ないのだろう、と想像できる。

全く知らない宗教団体と事前知識無く出会うことになった時に、何がタブーかなんて想像も付かない。

自分以外に配慮出来ないのは、何も「最近はてブを騒がすミニマリスト達」に限った話では無いと思う。

あれは「症状」みたいなもので、クシャミと同じたぐいの「結果が目に見える形になっただけ」では無いか。

それは「自身立ち位置無自覚」で「他人思想的背景を理解しようとしない」という、結構怖い人達なんではないか。

まりインド人ベジタリアンに向かって「夏バテなら肉を食べれば元気が付くじゃない」と無邪気に言える怖さだ。

きっとその個々の無自覚さは、ソコココで小さな軋轢を生み、全体としてその母集団の信頼が失われていく。

最近はてブを騒がす「ミニマリスト」達には「自分の主義に対する思い入れ」が見えない。

他者に敬意を払えない恐ろしさ

自分の正しさを証明するために、他人の主義を引き合いに出すのは、それそのもの別に悪く無い。

他者に敬意を持っていれば、引き合いに出す際にぞんざいに嘲ったりすることは、出来ないだろう。

他者に敬意を持ってさえいれば、間違いがあっても、論理構成が変でも、ちゃんと「比較」しようとするはずだ。

最近はてブを騒がす「ミニマリスト」達は、きっと想像以上に恐ろしい存在なのだと思う。

2015-06-11

http://anond.hatelabo.jp/20150611010546

誰も、人の気持ちを完全に知ることはできません。

ですが、「社会あなたに死んで欲しいと思っている」と自分自身で信じるように努力することは可能です。

それが確信に至れば、教義を守り殉教した人々のように、死ぬことはたやすいことです。幸運を。

2015-06-10

http://anond.hatelabo.jp/touch/20150610001311

元増田。結局、信者の人って、そうやって、我々を親や医師への感謝がないような不敬な人間しか、捉えないんだよね。

我々、病気だった当事者立場からしてみれば、医学科学進歩のために自分の命を犠牲にして実験台になった、という自負があるんだよ。

それを、神の意志だと言ってのけることは、私と同じ病気を持って生まれ、手術に失敗して死んでいった子らは無駄死にだった、と言っているように聞こえるわけ。命をかけて実験台になる意味はなかった、神の意志から、と言っているように聞こえる。神学的にはどう解釈するのか知らないけど、少なくとも、当事者の我々からすれば、そう聞こえる。

私は、死んだ子らに代わって、彼らの死が無駄死にでなかった事を後世に残す義務があると思ってる。が、あなた方、キリスト者は、私の考えを不敬だの厨二だのと言って切り捨てるわけだ。

当たり前だけど、結局、キリスト教も、その他のほとんどの宗教も、大多数の普通人間のための教えなんだよ。私のような、自然には生きられない体を持って生まれてきた存在は、圧倒的に少数派だからぶっちゃけどうだっていいわけ。我々に都合の良い教義にしたところで、信者は増えないからね。ただ、他の大多数の普通人間には責任はない、そういう特殊な人たちが生まれたのは神の意志です、という事にしておけばいい。そして、私のような特殊人間は、とにかく、なだめすかして、普通人間文句言うな、と言っているようにしか聞こえない。

誰かが、我々が命をかけて参加した実験には価値があり、死んだ子はただかわいそうなだけではなく、実験という大義のために死んだのだ、と認めてやらなければならない。誰かが、死んだ子らに対して、「君の死には価値があったのだよ、死んでくれてありがとう」と言ってやらねばならない。

宗教なら、そういうことが出来る人がいるかと思ったが、結局、大多数の普通にまれてきた人間を弁護して、我々特殊に生まれてきた人間おかしい、なだめすかしてやるから文句わずに生きとけ、というだけだった。

死ぬはずの体で生まれてきて生き残った私には、死んだ子らには、死ぬ価値があったと世間喧伝して生きる義務があると信じている。

サイボウズとかのクソみたいなライフハックブクマ沢山ついてる

はてなもう駄目だな。

何が良くて何が悪いかを見極められない人間ばかりになってしまった。

ただブックマークしておけばなんとなく自分が立派になった気がするような記事コレクションして放棄するだけの阿呆巣窟だ。

お前らに一度聞きたいんだが、そういうのが役に立ったことってあるか?

ブクマを読みなおしたことすらないぜって話じゃなくてな、はてな以外の世界でいいからライフハックに関する情報を仕入れてそれが何か自分人生の糧になったことある

ないだろ。

もしもあるって奴がいるならそいつは今までよっぽど歪んだ風習が伝わるど田舎に住んでいたか親が嵌っていたカルト教義に従っていたかじゃん。

普通に人生送っていれば当然身につくことをちょっと斜めから言って見せて特別に見せかけてるだけじゃんか。

小学校上がるまでに「宿題は早めに済ませた方が精神的にいいな」「早寝早起きリズムの方が身体の調子がいいよね」「勇気と無謀を履き違えないようにしながら勇気を持って行動したほうが展望がひらけるね」そういった事が自然と身につくはずだよな?

なんでそれを今更他人言葉再確認してるんだよ。

もう全部お前の中にあるから

お前の人生の中に必要ものは全部あるから

あの時ああしておけばよかったなーを次からちゃんと実行していくだけでいいんだよ。

ただやればいい、それだけなんだ。

そこに胡散臭い奴らの言葉必要ねぇよ。

10000000000記事ライフハックよりも1つの行動なんだよマジで

それなのにどうしてそこまでライフハックを読みたがる。

あんなものよりニャロメロンの漫画ミサワのウザキャラの方がまだ見る価値あるよ。

1000000000000000000000000000000000倍は見る価値あるよ。

お前らな、そんなゴミブクマするのはやめろ。

タイトルに目を通すことすらやめろ。

自分人生大事しろ

金儲けと自己顕示欲のことしか考えてねぇ奴らのキレイ事なんていくら脳みそに詰め込んでも頭の肥やしにはならねぇよ。

あんなもん栄養価ゼロの雑菌だ。

お前の脳みそが上辺の意識だけ高い大腸菌に食い尽くされるぞ。

からもうやめろ。

2015-06-08

http://anond.hatelabo.jp/20150607042

前提として、衆生馬鹿なんです。なので、深い教義レベルでその時点での一般常識からエキセントリック思考の転換を論理として理解はできない。だからね、布教するときに、布教師は考えるわけです。あ、布教師っていうのは造語ですけど、要するに信者数を極大化することをミッションとしてしまった人です。で、布教師は考えるわけです。馬鹿には理屈は通らない。馬鹿にもわかる教えの偉大さってなんだ?と。そうすると、開祖教義によってもたらされる利益を説こうということになるわけです。要するに、ユーザーメリットの訴求です。あるいはインサイトへの訴求。ですが、考え方を変えることで毎日暮らしの中でやんわり心が軽くなる、程度では、競合の神様と大差ないわけですよ。従来通り古式ゆかしい神殿で古来信仰を集める神様にかしづいておけば、似たような体験はできるわけですから。そこで必要なのがインパクトです。マジそんなことありえんの?!みたいな逸話です。そやったら今年からうちの麦はそっちの神殿に納めますわと言わしめるようなのです。つまり奇跡です。そこで、今やこの世にいない教祖ですよ。なにせ布教師自身奇跡を起こせないわけですからだって人間なんだもの。そういうわけで開祖神格化が始まります。そもそもの開祖の行いに尾ひれが付き、付きまくり、えらいことになって、なり続けて、そのあげくにまとめられたら、教祖が触れたおかげで歩けなかったおっさんが歩けるようになったとか、教祖自身が死んだはずなのに数日後に生き返ってたとか、いやもうそれ神だろみたいなことになっていくわけです。そんで、衆生馬鹿から、マジかよすげーな!と、その年以降の麦をその教団に納めるようになるわけです。


要約…色々苦しんでる馬鹿衆生が、「苦しくなくなるよ、だって奇跡が起こるんだもの」と口八丁で訴求されて、それに乗っかったから。

2015-05-27

フェミニズム女性以外の属性弱者を救うことはできない。

→の記事なんだけどかなり醜い状況になってる。 http://d.hatena.ne.jp/font-da/20150526/1432612495

当事者である弱者男性不在でフェミがいつもの手口で中傷的な人物像を作り問題を書き換えて、しかフェミ仲間がケアとか処方とか言ってホルホルしとる。

 

あのなあ、お前らのやってることはカルト宗教が救済と言って信仰を押して付けるのと変わらんからな。

いや、カルト宗教を悪く言いすぎか。救済を目的とした宗教なら少なくともネット上で見えない相手を糾弾するようなことはしない。リアルに会って悩みを聞いたりする。

そもそも弱者男性はてなにいる可能性は低いだろうに、そこで論じても被疑者不在で魔女裁判してるという状況にしかならない。

 

それから、間違ってほしくないんで言うけど、フェミ弱者男性を救えると思わない方が良い。

フェミ女性の救済のために男性社会と戦う教義とか理論武装を磨いてきたんだから、それに侵された頭で弱者男性問題を扱えばどうなることか。

弱者像がフェミ教義によって陳腐化されたり別の物へすり替えられたり存在しないことにされる。フェミ脳では弱者男性を救えない。

そして今回のように無自覚傲慢正義を振り回して反感を買う。

 

差別問題界隈にも言えることなんだけど、自分たち教義を振りかざして精神分析まがいのことまでして対象を裁いても意味ないどころか逆効果だと思うよ。

ファンには痛快だと喜ばれるだろうが、同時に醜いリンチを見せられた多くの人の信頼を失うことになる。

 

それとジェンダーフリー理想共感してフェミを応援してきた男は可哀想だけど残念ながら騙されたいうことで、他の方法を考えるしかいね

 

反論の機会のためのコール→元記事著者id:font-daケアの人id:c_shiika 、処方の人id:sofa220

この記事存在を教えたものの、自分文章書くのが苦手だし根比べをする気もないんで、反論書かれてもよほどのことじゃない限り放置すると思ってほしい。

2015-05-12

宗教は人を変える

から危険という発想は、間違った理屈

宗教は平たく言えば、精神性を向上させようとする自己啓発な訳だから自己を成長させれば、そりゃあ、ある程度変わるのは当然なわけ。

変わらない自己啓発なんて、言ってるだけ、口だけな効果無しの

教義なわけで、変わるならば誉め言葉な訳。

それに人を変えるのは、なにも宗教だけではない。

結婚して子供を産めば、考え方が変わっていく人もいるし、

仕事出世or落ちこぼれていけば、変わっていく人もいる。

学生の時のまま変わらない人間の方がむしろ珍しい。

変わるということ事態危険なのではなく、(あたりまえだけど…)

良い風に変わるか、悪い風に変わるかが問題なわけ。

しろ子供のまま変わらない人間って、逆にどうなのよって思うんだけど…

世の中は、一時停止している訳じゃない。

肉体だって、成長し老化する。

外的環境もどんどん変わるのに、それに合わせて変化できない人間こそ、はっきりいって破滅する。

なぜなら、変わらないことは怠惰であり、

決して誉められる行動じゃないから

2015-05-04

俺、親鸞共感しまくり。

 生まれてきて、大人になって、暮らしを営んでいることに幸あれと本当に思う。碌でもない出来事が日々石ころのように転がっていて、それを道から除けるか、避けて通るか、人それぞれなんだけど、なんというかその、道があることが愛おしい。僕らはみんな生きている。生きているからすごいんだ。

 世を苦行だと捉えるのが一般的仏教根本原理だ。聖なき衆生が業のもとに救いなく永久に続く苦行を生きる煩悩の有様を目に見える世界だとする。解脱とはメタ世界への移行でその業の世界から脱出意味してそれを神聖視するわけだけど、そもそもの動機は業からの逃避な訳で。ものを食って、うんこしてる身で。要は、苦行してるお坊さん方は、世の中から逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。だから糞下流には混じり合わず、己の世界の内でしんどいことをやり続ければ報われる、というのが原始仏教。こいつらくだらねぇな、つきあってられねぇな、なんて、分かりやすエリート意識

 しかし、苦しい世だからこそ、そこに生きることが尊いのではないか。そこで泥水をすすり、愛欲に溺れ、駆け引きを駆使しながら己と子を護り、肉を喰らって、眠りと朝日保障する。おい、ねえ、すごくない?俺できないし。というのを愚直に見つめた男がいる。それが親鸞だ。

 教義としてのオリジナリティ法然にあるのかもしれないが、親鸞事実、泥水をすすりセックスをし、酒を飲み肉を喰らいながら、そんな俺が信じてるよ、と阿弥陀の救いを説いた。私が知る、あなたたちをこそ救わずして、何が仏か、と。

 ここからは俺の独自解釈。かつて僧という「形」のために頭を剃った愚行を「愚禿」と表わし、今現に業を一身に背負うこと=菩薩行を積んでいる目の前の人々をこそ、哀れまず慈しまず尊んで、己より行を達した者とし、敢えて同じことをした。世は、かき集めた金をつぎ込んで寺を建て、加持祈祷をさせれば徳=得の時代。そのような儀式、「計らい」は要はショートカットであり邪であるとし、業に直面しながら苦しみ生きることこそ解脱の道であり尊い行いだと、己の身をそこに投じた上で彼は知って、そして説いた。

 生きよ、生きよ、生きよ。あなたたちは尊い。何が何でも生きて生き抜く中で、だからこそ届く念がある=救いがある。「南無阿弥陀仏」とは、何者をも超越した阿弥陀仏帰依いたします、という意味だけど、きっと多分なんでもよくて、怒られるかもだけどアーメンでもきっと全然良かった。念仏なんて要するにお題目しかない。生きよ、あなたたちは間違っていないと、そのためになんか支えが要るならとりあえず南無阿弥陀仏っていっとけ、それを親鸞は言いたかったのだと俺は思う。


 結果いろいろあったんだけどね。親鸞だって所詮エリートだ。パンピーとは頭の出来が違うし、思想の落としどころも多分違う。阿弥陀の前に人は平等まではいいけど、衆を集めて暴力的人権運動が起こせまでは多分思ってなかったろうし。いやまあ、どうなんだろうそこのところはまだ腑に落ちてないんだけれども。

 ああ、酔っぱらって書いてるから面倒くさくなってきた。誰か、増田にも真宗門徒いんだろ。西でも東でもいいや、門外漢のお説に捕捉してくれ。

2015-04-16

http://anond.hatelabo.jp/20150416075604

逆でもどっちでもいいけどさあ、そのブログのキチ女なんかこわくねえ?

自分のつくったマジキチ教義にふりまわされてる教祖みたい。

2015-04-10

http://anond.hatelabo.jp/20150410105533

イスラーム世界の性文化 - Wikipedia

イスラーム教義における性

婚外セックスレイプ

一般的シャリーア解釈では、同意の上での婚外セックスを犯した男女は、既婚者の場合投石による死刑、未婚者の場合100回の鞭打ちである。またレイプに対しては、加害者は投石刑に処される。

実際のイスラーム世界における性文化

婚外セックス

(略)

上に挙げたとおり、同意の上での婚外セックスへの刑罰は、シャリーア規定上は男女平等であるが、実際はこのような場合男性の側は『女が誘惑した』と言い逃れをするのが常道であり、司法部もかなりの事例においてこれを認めるので、男女ともに死刑になるべき事例であっても、実際は男性の側は酌量により鞭打ち100回、女性のみ死刑となることが少なくない。

(略)

それに加え、上記にあげたレイプ被害者に対して求められるイスラーム教徒男性4人の証人の確保も現実男性中心的な社会では難しく、意を決して性的被害を訴えても、同意の上での婚外セックスであるにもかかわらず、男性を落としいれようとしたとして、逆に姦通罪や偽証罪に問われ投石刑で処刑される事例が少なくない。

(略)

また国法での罰則とは別に、未婚者の女性の婚外セックスは、同意レイプわず家族名誉を穢した汚らわしい行為として見られ、私刑として殺されてしまう事例が少なくない。

というわけでイスラム法を厳格に適用するなら加害者は投石で死刑

2015-04-01

http://anond.hatelabo.jp/20150331161003

それは違うにゃ

連中は「可愛いねー」って誰かが言ったら「可愛いねー」って同調しないと戦争になるにゃ

そんなに言葉を細分化したら戦争火種が表面化しまくるにゃ

語彙を減らすことによりコミュニティ内での意見の相違をなかっとことにしているのにゃ

俗人は宗教教義解釈の違いで血みどろの殺し合いやっちゃったりするけど「GOD is 可愛い」で済ませれば戦争は起きないのにゃ

2015-03-31

http://anond.hatelabo.jp/20150331101559

しろ宗教」の定義次第かな。しっかりした教義やそれを実践する場所が決まっている宗教ばかりじゃないよ。というよりそういうもの必要とされたのは、既にある素朴な宗教を塗り替えるための手段だったわけだし。

素朴な宗教ってのは、生まれときから自分も周囲もずっと浸かってて信じてると意識しないくらいのもの。でもそれに反する行動をしようとしたり見たりすることに強い抵抗を覚える。

仏壇先祖供養して教会結婚式」は形式だけみればちゃんぽん特定宗教信仰していないようだけど、「そういうものだと思って疑いもせずやっている」かつ「特に合理的理由は無いからやめてもいいよね、と言われると止めるのに抵抗がある」のなら、それは自分認識ひとつ宗教観に根ざしているということだ。

それが良いとか悪いとかじゃないし、別にそんなこと考えないで生きてたって全然構わない。でも、他の宗教言及するなら、自分が参照している宗教観自覚してからじゃないと、あまり意味のある話にならないと思う。

死と無宗教

http://anond.hatelabo.jp/20150330001506

この増田増田Aとしよう)に対して、

http://anond.hatelabo.jp/20150330162001

という反論を書いた増田がいるわけだが。うーん、なんかめんどくさい。僕は最初記事に割と近い考えを持っている。反論の方は「真の無宗教とはなんぞや、本当に宗教信仰を知れば選ぶのは難しくない」と言って批判してるわけだけど、それはどうだろう。

増田Aのような考えはそもそも宗教人間発明であるという前提がある。歴史上幾多の宗教があり、それらは神の性格教義もバラバである。つまり世界のものや、人間存在理不尽運命などを説明し、安心するために人が創りだしたものであろうと考える。もちろんそれこそ死の恐怖などに対しても多くの宗教は解決策、あるいは恐怖を幾らかでもやわらげる答えを出している。従ってそれらを「信仰」すれば死の恐怖を和らげることはできるだろうことは無宗教人間にも理解できる。しかしそのためには、本当にその答えが正しいと信じなければならない。

「昔の人が考えた事で、なんの証拠もないけど死んだらあの世に行けるってよ」とか「昔の人が考えたことで何の証拠もないけど死んだら生まれ変われるってよ」と考えたとしてもそれは信仰たりえず、死の恐怖を和らげることもできないだろう。

もちろん、強い意志で「昔の人が考えた根拠ない仮説ではない!真実だ!」と思い込むことが可能なら真の信仰に辿り着けるのかもしれないが、それは増田Aにも僕にも無理だと思う。

初詣冠婚葬祭宗教の手を借りるのは、まるで信じていなくても別にできるし、例えば特定宗教の聖域でしてはいけないことなどは、信じてる人をいたずらに刺激しても何もいいことはないと思うのでやらない。盆に墓参りをするのは親や親戚に対して喧嘩売りたくはないからで、手を合わせている時も別に南無阿弥陀仏と唱えれば死者が成仏するともなんとも思ってはいない。こういうのはたとえ寺の檀家人間であってもシンプル無宗教と言ってもいいのではないだろうか。

無宗教者にとって死とは文字通自分の消滅でしかないので、これを恐怖するかどうかはその人次第としか言い様がない。人が死を恐れるのは、自分の死というものが、思考上どこまで近づいても超えられない壁の向こうにあるからだ。必死に死について考えている自分自分という存在思考し行動するモノが、死というものをまたぐと永遠に存在しなくなる。考えれば考えるほど「永久に考えない状態」が怖くなるのだろう。

でも実は「見も聞きも考えもしない状態」を人間ほとんど毎日経験している。寝るとき人は意識を失う。眠りが深くなれば夢も見ない。その状態を恐れる人はあまりいない。睡眠中に突然死する人も結構いるが、そういう人も寝るときに恐怖に震えたわけではあるまい。ということは、死というのは当人にとって、眠りから目覚めないこととあんまし変わらないのだと思う。もちろん「永遠に目覚めない眠り」というのも怖いと思う気持ちはあるだろうが、「いつものアレと意識の有り様は変わらない」と思えばそう怖がる必要もないんじゃないかなあ。通常の眠りでも、眠ってしまった後は起きるか起きないか心配する「意識」「自我」は機能しなくなるわけだし。死ぬのも寝るのも似たようなものだと思う。

そう思うようになって、僕は「死ぬ前にエロ動画フォルダ処分しなければ」みたいなことも考えなくていいと思うようになった。死後それがバレて家族軽蔑されたり、よしんば世間に公表されてより多くの人の笑いものになったりした所で、それが「僕にとって問題になる」ためには僕が存在していないといけない。恥じたり怒ったりする自分がその時もういないのなら、どーでもいいことだ。

もちろん死に至る事故暴力、重病でひどい苦痛を味わうのは嫌だけど、それは「死」そのものへの恐怖とはまた別の問題だよね。

http://anond.hatelabo.jp/20150330162001

こういう人に限って、新年初詣に行き、盆には墓に手を合わせ、

食事時にはいただきますと手を合わせて、よくわからないまま親の葬儀仏式で挙げたりするんだ。

現に「結婚式の下見で教会に・・・」って。本当に無宗教ならなぜ教会で挙式をするのか。

>>これは単なる慣習でしょ。

他は大体同意見。 

神社自然的雰囲気教会美術賛美歌寺院仏像やお経など感覚的に信仰を持つこともできるし、

哲学なり宗教教義などザッと本読めば大体自分にしっくりする考え方が一つはあるはず。

なければ足してくなり作り上げればいいんだよ。

2015-03-22

http://anond.hatelabo.jp/20150322170437

宗教教祖仕事と考えると結構大変だよ

それなりに説得力のある教義を書いて

大人数の前で堂々と公演し成功させる胆力と

カウンセリング技術

団体運営や金周りの管理だって必要となるだろう

ちょっとした手品も覚える必要があるかもしれない。

2015-02-21

ハッキング極意3】ブラックハッカーになれ。そして世界を変えろ

アノニマスの坊や達、こんばんは

僕だよ。

前回の記事

【ハッキング極意2】武器を持て

ハッカーになりたい君たちの要望に応えるべく再び黄泉の国から舞い戻ってきたよ。

ハッカー…素晴らしい響きだ。

皆それになりたいと思う。

ハッカーになりたいという若い子は恐らくクラッカーみたいなのになりたがっているだろう。

そう裏の世界活躍するブラックハッカーだ。

中高生くらいならばなりたいと思っても、どうなるのか誰も教えてくれない。

親切な人たちが教えてくれるYahoo知恵袋などで『ハッカーになりたいです』とか書くとどうだ?

貴方のいっているのはクラッカーですね?ハッカーとは別物ですよ」

違法なことはいけません。通報しました。」

など、どうでもいい説教をされてしまう。

清く正しい中学生がなんだか気を利かせて、「ホワイトハッカーになりたいです」とか「ハッカーになりたいです違法行為しません」

などなど、変に気を使っている。

若いんだから夢見させろや。

ブラックハッカーになろう!!

そうだ!なろう!!裏の世界人間になろう!!そして世界を変えるんだ!!

ハッカーの種類。

ハッカーと言っても色々居るわけだ。

撮り鉄とか葬式鉄とか、ウィルスをばらまくハッカーとか、脆弱性を見つけて小銭稼ぐハッカーとか、OS作るハッカーとか、セキュリティポリシー精読して炎上させるハッカーとかね。

おっと…ウィルスかい専門用語つかってしまったね。

一般人には聞き慣れない言葉だろう。

ウィルスというのは細胞を持たないが遺伝子をもつ最小の生物なのだが、細胞を持たないため非生物とも言われている構造体だ。非生物らしく結晶化もできる。

宿主となる細胞に増殖をしていく。

そのウィルスコンピュータ世界に入り込み進化したものコンピュータウィルスと言われていて、生命の謎を握る存在なのだ

こう言われてもピンとこないだろうから、君たちにわかやすいモノで表現するとすると

まり電光超人グリッドマン』に出てくる怪獣のようなものだと思ってくれればいい。

ブラックハッカー

ハッカーと言われている人たちは大体ブラックハッカーだ。

ブラック、そう闇と言われるハッカーたちは自分自分所属する集団のために違法行為を厭わない連中だ。

ダースベーダーのようなアンチヒーローだ!

プログラマスキルによってその仕事スピード20倍にも40倍にも開きが出ると言われている。

その特A級ハッカーウィザードと言われるが、そのとおり魔導士のような不思議な力を使う。

ブラックハッカー魔法

ブラックハッカー特に魔法が得意と言われている。

工数が3人月だとしよう。3人ハッカーがいる。

しかし謎の力の仕様変更により納期は変わらず工数が9人月になった。

にもかかわらずだ納期は間に合い、しかも!稼働時間も3人月しか計上されていない。

これは何処かのタイミングで時を止めていると言われている。

たまに勤務管理システム上は有休になっているが、入館ログには出勤の形跡があることがある。

これは休み仕事の状態が重なり合っている量子力学的な状態を不思議な力で作り出しているのだ。

量子コンピュータは0の状態と1の状態が一つのビットで同時に表現できると言われているが、ブラックハッカーはすでに人間の身でありながら実現しているのだ。

事実量子コンピュータブラックハッカーの脳を再現する形で実現しようとしている。

量子コンピュータを作っている企業下請けに大量のブラックハッカーが居るのもそういうわけだ。

ウィルスをばらまくハッカーもいると言ったがブラックハッカーもその能力を持っている。

例えばインフルエンザエボラ出血熱などを持って出勤するのも彼ら得意技の一つだ。

また、違法行為も厭わない。

どんな違法行為をやっているかは良い子の皆が真似をしてしまっては困るのでとてもここでは言えないがね…

ブラックハッカーたちの活躍

ブラックハッカーたちは暗黒の存在とは言え我々の社会には無くてはならないものになってしまっている。

闇が深い金融業界や、日本国政府もこのブラックハッカーに頼らざるえなくなっているのだ。

おそらくマイナンバーではブラックハッカーのそうそうたる面々が集うことになるだろう。

ブラックハッカーになるには

どうだろう。

ブラックハッカーになりたくなったか

なる方法は簡単だ。

僕はブラックハッカーだと宣言し、入社をすればすぐになれる。

読者から質問コーナー

さて、今日は前回のコメントに付いていた

「神はXをつかうのか?」という質問について答えようと思う。

良い質問だ。

これは教義に関わるかなりナイーブ問題なんだ。

でも、いつだったか1000年位前の公会議で神はXを使うという事になったんだよ。

なぜXを使うことになったのか

裏の人間は黒い画面を好み、黒い画面でいろいろやろうと思っていた。

だが、次第に艦これもやりたくなってきた。

そのうち艦これやりたさに信仰を捨てWindowsに走るものや、過激派組織APPLEに見を投じる者も出てきた。

しか信仰心の篤い者達は我慢したBashでなんとかやろうと我慢した。

VimTwitterをやったり、Wgetテキストサイトを見たりしていた。

だが、XVIDEOSの誘惑には勝てなかったのだ。

その当時のハッカーたちはLinuxでもXVIDEOSを見るシステムを開発しようとした。

それが『XVIDEOS Window System』つまりXだ。

Xは黒い画面とXVIDEOSの間から妥協として生まれたが、そのうちそれでも良いかという空気になりXは流行った。

Xを使うものは我慢していた艦これもやり始めたのだが、

なんとDMMに登録するとAV動画も見れるサービスがあることをしることになった。

Linuxでは艦これは出来てもDMM動画を見ることは出来ない。

悪しきWMVで公開されてDRMがかかっているし、ストリーミングも何故か映らないのだ!!

XVIDEOSの細切れで続きが何処にあるかわからないAVよりも、有料だけども安心して見れるDMMのほうが良いというものが増え

Windowsに逃げてしまう者が増えてしまった。

そうやってLinux信者数を減らしてしまい今では生きる場所裏社会のみになってしまったのさ。

そういう経緯があるので、神はXを使っていることになっている。

新作

http://anond.hatelabo.jp/20150224002209

2015-01-27

http://anond.hatelabo.jp/20150127144457

斬首奴隷が野蛮なものとして扱われるようになったのは、たかだか100年200年以内のこと。

イスラム法は1500年前の法律なので捕虜奴隷にしたりするのは当たり前の話。

教義的には、イスラム法は神が定めたものであり、絶対に改変してはならないので、

現代に合わせていわば解釈改憲を繰り返しているのが大多数のムスリム

元どおりのイスラム法に従って生きようとしているのが原理主義者。

から敬虔信者であるほど危険になってしまうのがイスラム教なんだけど、

それが「危険」だと感じられるのは、

斬首奴隷を野蛮なものとする西洋道徳が広がっちゃったからではある。

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