はてなキーワード: 教義とは
最近の韓国批判は酷いもので、ネットも書籍もとりあえず韓国を批判しときゃいいだろみたな風潮である。
そんな中ふと、このネトウヨの嫌韓はいわば宗教みないなもののように思ったので書き出してみる。
「私、K-POPが好きです。」という書き込みをネットで見かけた。しかしその後のネットの反応たるや誹謗中傷の嵐である。
「頭おかしいんですか?」
「奴らはクソだ。奴らを肯定するお前もクソだ。」
しかし日本では個々人の趣味趣向は自由のハズ。なんで好みを言っただけで、国民であることや彼女(多分女性)自身が否定されなきゃならないんだろうか。
そしてふと何かに似ているような気がした。
そうだ「イスラム国」だ。
ご存じの通りイスラム教はアッラーを唯一神とし、教えはコーランに準ずる。そしてイスラム国は自分たちの思想以外は認めない。思想が違えば「悪魔(異教徒)の手先」として殺される。十字架を持っている?悪だ。殺すべし。
ネトウヨにとっての思想・教義は「韓国は敵だ」ということだろう。それに従わない場合は容赦なく攻撃する。それが趣味や好みの範疇だろうが関係ない。教義に反したのだ。それはつまり悪であるということだ。悪なら攻撃して問題ない。キムチが好きだ?悪だ。死んだ方が良い。
宗教全般にそうだが、人生や生活への不安を神と共にあると信じることで和らげ、心の拠り所にする。
ネトウヨは韓国を批判することで、心の平穏を保つ。例え自分が将来に何の可能性を感じない底辺な存在だろうが、自分は日本国人、彼らはそれより下。そう信じることで自尊心やアイデンティティを維持する。
イスラム教では日々神に祈りを捧げることにより、神を身近に感じ、心の平安を得ている。
ネトウヨは日々韓国の悪口を書くことで、ストレスを発散し、仲間の同意を得て教義を再確認し、心の平安を得ている。
イスラム国の戦闘員たちに、いくら「神様なんていないんだ」と説明しても通じない。科学や論理など意味をなさない。彼らにとってコーランが世界の法則であり、その歪曲解釈が正義なのである。
ネトウヨにとって「韓国が敵」であることが世界の法則で、韓国の批判こそが彼らの正義。彼らは根拠のない根拠や出所不明なデータ、使い方を誤った統計データ、そして完全な主観を繰り広げ韓国を批判するが、しかしそんな内容など実はどうでもいいのだ。教義に準じていればそれで良い。客観性やソースへの批判?それは教義に反する悪だから無視して良いのだ。
イスラム教には「異教徒を殺しても良い」という教えは含まれていない。しかし過激派は教育を受けていないので本が読めず、勝手な解釈をして乱暴な手段を講ずる。
韓国政府のやり方は褒められない点も多いが、イコール韓国全体・韓国人全体の批判には結びつかないハズだ。しかしネトウヨは無知なので、嫌韓の教えを無抵抗に信じ歪曲解釈をして乱暴な手段を講じる。
そのうちどこかでテロが起きるんじゃないだろうか。
この記事に感じ入った。
http://fladdict.net/blog/2014/11/nihonkeizai.html
後半に書かれている、「自尊心だろうがエンドルフィンやアドレナリンなどの脳内麻薬の大半だろうが、ほぼゼロコストで自給自足できる。」これ。これですよこれ。
幸せって何だろうっていう「末端の答え」は、脳内で幸せを感じる化学反応が起きていること、だと思うのです。これ以上の「奥は無く」、これが最終点。末端。だからその化学反応を起こすための、コストが、限りなく安くつく人間、それは勝ち組だと思うのですよ。
ガソリンあんまり使わなくても、長距離走れる自動車が良いものだ、ってのは分かりますよね。それと同じ、より低コストで幸せを感じるなら、それに越したことはない。
特にお年寄りに多いんですけど、(若い人にも居るけど)、ちょっと美味しいものが出てくるだけで、おいしいおいしいと大袈裟に喜び、ちょっと親切にされるだけで、ありがとう有難うと、大袈裟に感謝するような人というのが、居るわけです。
そういう人たちって、上のブログの「自尊心だろうがエンドルフィンやアドレナリンなどの脳内麻薬の大半だろうが、ほぼゼロコストで自給自足できる」境地にある(境地に近い)のではないのかと。
カネを使って消費をすると、幸せになりますというのは、結局は「資本主義教」の教義でしかなく、そもそも資本主義というのが、カネの流通と消費の上に成り立ってるので、そのシステム、そして好景気を維持するために、消費を促すために、消費=幸せ、という考え方を常識化して定着させるという「手法」が必要だったんでしょう。
実のところ、女性の解放以前のずっと昔、今の男性上位社会を作り出した「男性の解放運動」があったと見ていいと思う。
原始社会は「母系集団を中心としていた」というのはよく聞く話で、ある種女性が人類のメイン種だったと思われる。
原始社会における文明の全て、すなわち火の管理、家の管理、衣服の製造、主食となる植物性たんぱく質の確保、全部女性の仕事だ。
男性はおまけというか、傍流に近い仕事(摂取しなくても生きていける動物性淡白の確保、及び他部族と居住範囲がかぶった際の交渉)しかしていなかった。
ところが人口密度が高くなってくると、他部族との交渉という本来はおまけにすぎない役割を負っていた男性が、大きな権力を握れるようになってくる。
そして母系社会を完全に覆す思想系統が、釈迦の時代~キリストの時代くらいに生まれてくる。
というか、そもそも仏教やキリスト教のベースであるユダヤ教は、まさしく母系社会からの解放を教義に組み込んでいる。
それは「自然やそこから生まれる常識が押し付けてくる条理から自由になろう」というもので、「母から子に継がれる『自然』や『常識』」を管理していた母系の力を完全に断つ力となった。
で、「男らしさ」っていうのは、まさしくここに定義されている。
もともと女性中心社会だった頃の支配方法『自然』に立ち向かうための発明だったので、「意思は女性にもある。世界を切り開ける」という事実は長らく絶対に受け入れられないものだった。
それを認めてしまうと、また女性性に負けてしまうのではないか、という恐れが社会の中心となった男性たちにあったからだと思う。
でも実際は「意思は性に関係なくある。誰でも世界を切り開ける」のが事実で、後に個人主義社会、すなわち基本的に「誰もが自分の意思で世界を切り開かなければならない」という思想が生まれると、こちらが世界を席巻するようになる。
フェミニズムもこの個人主義思想に含まれるのが始まりで、今でも多分メインの派閥。
ただ世の中「自然」的なものに支配されていたい、という人間もいて、実はフェミニズムにはこちらを尊いとする一派もある(こちらは後から出た一派)。母系社会の頃の自然志向に帰ろう的なもの。
女性的とされて貶されたものこそ、尊いのではないか? という派閥。
ただこれは、社会活動自体とあまり食い合わせがよくないと言うか、そもそも社会的な活動自体が「意思によって自然を打破する活動」なので、自然派とは対立する。
さて、で、一番大事なところだけれど、「男でかつこの自然に支配されたい派」ってのが「自称弱者男性」の正体なんだと思う。
「女性的な尊さとされている『自然に支配される存在』でありたい。ただし男だけど」派というか。
この派閥は確かに現状色々と行き詰ってる。
ただでさえ社会的活動という反自然な行動に出られない思想で、自然に、つまり過去の慣習で押し付けてもらわないと納得できないんだけれど、「男性とは反自然派」というのが「自然な慣習」になっているので、根本的に矛盾している状態。
まったく教義や根拠の違うものを同じだと言い張る方が頭がおかしいとしか。
無駄に知識の無い信徒を使って勧誘しまくるエホ証を正統派だと思うの?すごい神経。
キリスト教伝統クラッシャーとして有名で、自分たちで勝手に翻訳し(もうこの時点で「キリスト教」じゃない)
内容を改変した聖書を片手に「今のキリスト教は全部邪教だ」と言いまくるのが普通だと?
新世界訳の聖書は出版物として日本聖書協会ですら販売できないよ。
受け入れてほしいなら受け入れてほしいなりの動き方がもっとできないのかって思うね。
同じことをした日蓮宗から追い出されたあの創価学会だって丸くなったのに、エホ証は全然変わらない。
異端と呼ばれる団体の方が、主流派よりずっと閉鎖的だし攻撃的。
なんでうちのカトリックにあんなに噛み付くのかわからないね。それにしちゃ正教も知らないし。
主流派の方がはっきり言ってまだ個人に寛容だし、当然人が受け入れやすいようにできている。
もう他の団体に迫害をしませんって言ったの知らない?知らないんだろうね。
自分で調べてね。
戦争は起きないよ、エホ証が来る来るって騒いでる世の終わりを自分たちで再現しようとしなければね。
まあ、それ以前に元エホ証がたくさんうちを含めた主流派に逃げ込んできてるから、空中分解しそうになってるよ。
きっと知られていないだろうけど。聞いたけど集まりの回数を増やして、お互いがお互いを見張ってるんだってね。
平日の午前中にみんなで集まって見張り会。ごくろうさんって感じですね。
おたくの教会が信者の生活に口出ししないことが他の教会もそうだという担保にはならないって話。
「だからよく調べろよ、そこでありがちな反論はこういうのだよ」って話しだろ?
全教会がそうだって書いてるか?決めつけてるのは誰だか考えてみなよ。
それが聖書と一致してるかどうかはまた別の話。
おたくの牧師だか神父だか長老だかがなんて言ってるかじゃなくね。
「他の誰もしていない」とか「決めつける」とか「誰それに失礼」とか
相手の主張は無視して感情的に攻撃してうんざりさせてるだけで反論になってない。
このやりとり見てキリスト教はさすがに穏やかで忍耐強くて愛があるわーとは思われないだろうね。
歴史と伝統があるとされている「ちゃんとした宗教」、特にそれがキリスト教なら当然ある。
気が向いたときに顔を出して、年に何度か行事だけ参加する幽霊部員の部活動みたいなものじゃないならね。
でも何ら教義を教えず、あるいは口当たりのいいところだけ漠然と話して
チャペルで結婚式を執り行ったり、クリスマスにコンサート開いてそれを資金にしている「世俗化された宗教」もあるわけ。
あー、キリスト教って、頼り過ぎるとろくなことにならんので、宗教以外のいろいろな本読んで、賢くなりつつ(社会スキルを積みつつ)、キリスト教の付き合い方を常に考えて付き合うようにするのがコツだと思います。
何百年も前にすでにあったような教えが、現代でそのまま役に立つという事自体、実際には相当無理ありますし、また、教義には暗喩的表現が多いので、どうとでも取れる事が多いというところに罠があります。自分のおかれた状況により、役に立つ教えと、実はそうじゃないという教えを自律的に取捨選択できるようになって、はじめて正しいキリスト教とのつきあいかたとなると考えてます。結局、自分が主体で、常に賢くなっている事が前提でないと、どんな宗教もうまく付き合えないと考えてます。盲信と依存(キリスト教だけ勉強するとかね)は絶対に避けた方がよいです。
おめでとう。
宗教の教義を学び始めることができて、まともな人間の仲間入りだね。
それを学ばないというのは、逆に、野蛮なことなんだよ。
宗教は悪というのは、
悪徳リフォーム会社があるから、リフォーム会社は全て悪、というようなもので、
リフォームしないで新築の家購入していたら金かかり過ぎるやろ。
リフォームというサービスを始めて使って、こんな便利なものだったの!って驚いてるようなもの。
独学で本で学ぶのもいいし、
ある程度、知識が増えてきたら、ここなら学びのレベル高いぞ(本物だぞ)と思う所に教えを学びにいってもいいと思うよ。
宗教は哲学だし、教義の内容は奥は深いからね。独学でやってたら時間が掛かりすぎるよ。
大学でMBAを学ようなものだから、学校に行くにはお金かかるよね。。
私がキリスト教徒に対していつも不思議に思っているのは、会ったことのないイエスという存在をどうしてキリストだと信じられるのだろうか、ということだ。
神を信じるということであれば、まだ出会う(もしくは感じる)体験を通して達成されるということが想像できる。でも、イエスは歴史上のある特定の時代に生きていた人物であって、その人に出会うことはできない。
さらにいえば、その一般的なキリストの視覚的イメージはヨーロッパで生み出されたもので、本来のイエスその人の姿とは大きく異る可能性が高い。キリスト教徒がイエスに出会えるのはただ聖書の中でしかない。
まずイエスという人をイメージできなければ、三位一体を信じることはできない。それならば神を信じるということもキリスト教の教義的にはできないということになる。
イエスをキリストとして信じ、神の位格のひとつであることを信じるというこの凄まじく難しい行為をキリスト教徒はどのようにして達成したのだろうか。私はそれが不思議でならないし、その困難さゆえにキリスト教の教えに感嘆するもののキリスト教徒にはなれない理由でもある。
追記:
トラックバックを読むとどうも誤解されているようなので補足すると、私はキリスト教徒の信仰を嘘だと思ったり、現在のキリスト教が形骸化していると考えているわけではない。どちらかといえば私は、程度の差はあるだろうけれどもキリスト教徒が本当に、真剣にイエスをキリストだと信じているのだと考えている。
おそらく彼らは個々人のやり方でイエス・キリストを信じる強い根拠を手に入れたからこそ、キリスト教徒でいられるのではないかと思う。私はその個々人がその強い根拠を得て、信じることができた、その人が真にキリスト者になれた過程を知りたい。
うん、それにはちゃんと答えよう。
簡単に語ろうとすると齟齬が発生するので、宗教と冠婚葬祭、仏教教義の遷移なんかは一度調べて見てくれ。それはとてもおもしろいから。
・
なぜ恥になるか。
君は坊さんの説教を聞いて少なくない額の金を払うことに疑問があるんだ。
しかし、そうは言っても坊さんは別にお経の押し売りをしてきたわけではない。
マンションや化粧品ではあるまいし、墓や念仏に営業なんかは来ない。
きちんと学を修めた(修行を積んだ)お坊様にお越しいただいて、形式に則って供養する訳だ。
お布施はそのお礼であって、技術料、車代、日当なども含んでいる。もっといえばブランド料だ。
葬儀や法要を執り行う人物が死人に意思はない、と思えば故人の供養は必要ないのだ。
死体も、防疫の観点から火葬し、人間の死体の保存が許されたしかるべき場所に放置すればいい。社会の目を気にしなければ。
ただし、増田がそうでも大抵の人は大切だった人への手向けとして葬儀をしたい。
この時点でも、坊さんを呼ばずに身内だけで坊主もお経もない、そんな式をすることも出来る。
それでも、わざわざ坊さんを呼ぶのは増田の親御さんが坊さんに来て貰いたいからだ。
坊さんは葬儀屋と組んで式を滞りなく進めてくれるし、式も立派になる。
一緒に故人を偲ぶ親族友人に対しても、増田の親御さんは格好が付けられたはずだ。
・
つまり、きちんとした葬儀や法要を自分で行うのは知識面からも物理面からも難しい。
そして、故人の縁者、あるいは自分の知人に対して格好が付かない。
そこにお礼が発生する理由は先述したように技術料等とブランド料だ。ちなみに坊さんの徳が高いと相場も跳ね上がる。
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だから。
①自分や他の縁者が全員気にしない。
この二つを満たせば、法事をしなければ良いのだ。
・
ところが元増田は、自分たちで呼んで、おそらくきちんと要求を果たしたであろう相手へ金を払うことに対して納得が言っていないのだ。
来て貰って、サービスを受けたならそこでぐちぐち言うのはやはり筋違いなのだ。
・
未だ溶け込んでいない私をご飯に誘ってくれて、お友達ができるかも!と喜んだのも束の間、目的は勧誘だった。
でも、私の「お友達ができるかも!私と仲良くなりたいって思ってくれたのかも!」というwktkを裏切られて大変に凹んでいる。
普段宗教の話なんてしないしね。
私は可愛い教信者で、筋肉信仰を持っていて、カレン本信者で、テイルズ信者。あと海馬コーポレーション社員(志望)。それなのに最近は全く教義に従わず、仕事や習い事に時間を費やしていた。
それに気付いて、連休は可愛い格好をして筋トレをし、ガラクタを捨てた部屋で「ドロー!5巻!!こいつは社長がマインドクラッシュしていまう巻だ……おのれ遊戯ィ!」とかやりつつ遊戯王を読んだ。読み終わってからエクシリアの3週目を始めた。
今、とても幸せな気持ちだ。
そうか。顕正会に勧誘されて凹んだのは、自分の信じる宗教に反して生活していたからだったんだ。
罰があたった。ただそれだけのこと。
やはり神は私を見ていてくださる。
信じる者は救われる。本当だよ。
書いてある教義から同じ宗教で育ったと思われるのをみて、どうにも見ているだけでいられなくて初めて書く。
私も自分が小さいころに母親がその宗教に入り、物心ついたときには誕生日の祝いもクリスマスもなかった。その宗教が定めている行事以外はすべて「いけないこと」であった。例えば母の日に学校で配られたカーネーションの造花に、手書きのカードをつけてプレゼントしたらひどく怒られたよ。それは神の定めたことではなく、人間が欲のためにつくった記念日だから。
元増田同様、学校で部活動はできなかった。週に何度か行われる集会に参加できなくなるし、週末の奉仕活動に差し障るからだ。門限も小学校のときは16:30だったな。クラスメイトと遊んでいても、ぜったい途中で先に帰ることになる。当然、遊んでくれる友達は減るし、そのうちいじめの対象にもなった。今でも友達は少ない。
部活、やりたかったなあーと、中高生が主人公の漫画なんか読んじゃうとすっごく思う。ああいう経験したかったー。
同宗教外の人と結婚するなんてとんでもないと言われていた。だが、集会に行って同世代の男の子をみても誰も魅力的には見えず、そもそも男子はほとんどいなかった。信仰を持たない男の子は好きになっちゃいけない、ということならば、「私は結婚しちゃいけなくて、ずっと奉仕活動をするのだ」と強く自分に暗示をかけてしまったらしい結果、りっぱなひとり身になっちゃった。……いや、たんに非モテなだけなんだけですかね。
さて元増田は、幸いにも辞めて、結婚もして、子どもにも恵まれている。
それはすてきなことだと思う!
でも誕生会や楽しい園の様子を憂鬱に思ったりするのは当然だとも思う。だってそう育って来ちゃったんだもん。私も子どもがいて、お誕生日会なんか開いちゃって、周囲がお祝いの言葉や品物をプレゼントしてくれたら複雑な気持ちになっちゃうだろうなー。嫉妬しちゃうなーー。
だけど育ちに関しては分かってもらえる方が特殊だと思うんだよ。元増田だって、だんなさんの「男子校だから〜」は意味わかんないんでしょ。そういうことだ。
でもさ元増田はそういう教義はよくないなーってことを知ってるから、その辺は他の人よりも上手に子どもたちを導いてあげられるんじゃないかな。宗教に限らず、狭い世界や思想はいけないってことを知ってるから。
あなたの授かった子どもたちは、そうしたことにならぬようにできる経験があなたにはある。
チームワークについても、これから学んだっていいじゃん。学べることがあるのはラッキーだと思うし、それに気づけてるのもいいことだと思う。
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さて、同じ宗教で育った子どもが、辞めてどういうおとなになるのか気になってはいたので、今日この文章が読めたことは私にとっては幸いだ。
ちなみに私は20歳ぐらいで辞めて、今はひとりで、人とのコミュニケーションが苦手で、子どもなんぞ望めない年齢になって、手も顔もしわしわで、世間的評価としてはダメな部類だろうけど、子どものころにできなかった夜更かしとか、夜の散歩とか、漫画を読むとか、映画を見るとかできて、今の方がしあわせだ。(でも老後は心配だー)
あと最近、宗教に関する本をちょいちょい読んで、子どもの頃のアレはなんだったのかなーって考えられるようになった。ベタだけど、ミルチア・エリアーデの「世界宗教史」は読んでよかった。J.G.フレイザーの「金枝篇」とか、末木文美士の「日本宗教史」とかも。
なんにせよ子どものころ受けたものって根が深い濃いし離れない。「三つ子の魂百まで」ってほんとだねー。また、宗教の話って日常でするのは難しいから、発散もしにくいよなーって思ってる。
そして長くてごめん。
実験室で専門的な設備を使って行うことのみを科学的、とでも思ってるのではないでしょうか?
今回の件に関しては、件の漫画は議論をする壇上にすら上がってない、しょうもない内容でしかありません。
そこを少なくとも議論の壇上に挙げてみようか、という比較的中立的な視点の人たちが求めているのが
もちろん、議論する義務はないというのであれば、今回の話は与太話としか受け取られませんし、
今後デマ扱いされ続けても誰も擁護されないでしょう、というだけです。
今回の件で少なくともやるべきだったのは
長期にわたって取材をした、というのであれば、現地での調査において適切な観察、観測を行いデータを取ることです。
その際、「データを取る、観察をする」ということに関してはどうやってとったか、どのような基準でとったかを明らかにする、きちんと記録に取らなければなりません。
その次に関連性を探りたいものに関して、統計データから相関関係の有無を探るなどすべkぢえしょう
このあたりなんて単なるデータ集計から簡単な統計処理とか算数に毛の生えた程度のことでいいはずです。
科学的な態度に求められる客観性、論理性をきちんと担保して初めて議論になります。
よくある化学批判として、その際とられたデータというものが都合良いものばかり採用される可能性がある、都合よく解釈される可能性があることです。
だからこそ、その批判に耐えられるよう、データの観測には、その測定方法、基準をを明らかにする必要があるわけです。
文章から垣間見えるのは、自分と意見の異なる批判者を科学教の信者ととらえ、それを批判しているつもりになっているのでは、ということだけです。
かつてアメリカにアニメを輸出するとき問題になったのが銃表現であった。
銃社会アメリカでは、銃は日本以上に身近で、生死にかかわる感覚がずっとリアルだった。
よって銃表現を前にした大人たちのいう「子供に悪影響」という言葉の重みは、日本とアメリカでかなり違うこととなった。
日本側の理屈としては、銃表現じゃなく銃規制しろよとなるわけだが、アメリカの知識人は銃協会からいくらか貰っているようでなかなか規制に踏み切れず、手っ取り早くアニメ業界を規制することになった。
ゲームも近年銃表現の規制が議論されているが、レーティングという自主規制でどうにか乗り切っているところだが、今後どうなるかはわからない。にしても今のところうまくいっているようだ
銃社会では銃表現に神経を尖らせているように、同性愛が問題になっている国では同性愛表現も、神経を尖らせているのだ。
しかし同性愛が問題になっているといっても、銃の問題と違い、同性愛者が被害者側なので勝手が違う事に注意してほしい。
アメリカをはじめキリスト教の文化圏では同性愛は教義に反することから、忌み嫌われる存在であり、結果同性愛者が殺される事件まで起こっている。
こういった歴史的経緯から、それらの国の文化人や一流企業といわれるところは、先鋭化したり、そこまでいかないまでもカウンターとして戦う姿勢を示すことが文化人、そして企業としての礼儀となったわけだ。
彼らは戦うしかないのである。だからパレードし鼓舞し、同性愛差別に対して戦うのである。そして文化人はかれらをめいかくに支持する姿勢を示すのである。
そんな戦場に任天堂は日本ののほほん文化とともに飛び込んでしまったのだ。
修道文化がそうであるように、とくに弾圧されることもなくのほほんと生きてしまっているように思う。
むしろ明治になって欧米に合わせるために捨てざるをえなかった経緯すらあるわけだが
そうはいっても今日、テレビではおかまキャラを見ない日はなく、ちまたの本屋ではBLだ百合だとコーナーが設けられるまでになっている。
欧米に足並み合わせて一流国になるんだ的なコンプレックスはもうなくなったのだろう。むしろ何か問題でも?くらいな
(個人的には、BLとか百合って同性愛の人から見たらどうなんだろうと思う。コンテンツとして消費されることに対してとか)
個人レベルで気持ち悪がられることがあるにせよ、欧米に比べるとずいぶんのんびりまったりである。
そんな日本の文化をひっさげた平和ボケてき同性愛文化の任天堂が欧米で人生観察ゲームを発売してしまったのである。
戦士たちから「戦う意思はあるのか?(同性恋愛要素盛り込むことであいつらとたたかうよな?)」と質問され
そして任天堂は「ないよ(マイノリティ要素は最初から想定してないよ)」と答えてしまったのだ。
日本の感覚としては、フラットで平等に意識しないこともアリだとは思うが
欧米はすでに戦争状態なのだ。無関心は罪なのだ。明確に意思表示を示さない企業は足手まといになるのだ。
以下の捕鯨に関するページを読んでおもったこと。
http://www.e-kujira.or.jp/whaletheory/morishita/1/
かくして水産省は、結果として、今までも、そしてこれからも、痛ましく、国益を損ね続ける。良かれと思って。
それによって生じる日本人に対する悪評と軽侮、憎悪に見合うような、必要性もなく、得るものもなく「こっちの方に理が有る」と唱え続けて。
たしかに理はあるのだろう。そこは否定しない。しかし、それを問う人は(日本以外には滅多に)いない。