はてなキーワード: 教義とは
だから教義と合わない逆意見は「自作自演」という念仏を唱え続けた結果、教団以外は「本人」ただひとりという狂った世界認識w 説明念仏を100回唱えてるのはこいつら精神異常者だけだっつーのw
30年位前、中学生のころムーに量子力学と仏教哲学の共通点みたいな記事が載っていてワクワクしたことがあったんだわ。
でもその後、バチカンがビッグバンの最初の一撃は神が与えたみたいな話をしたとか、宮崎哲也が仏教の考えと現代物理が共通してるとか言ったりしたりして「おいおい大丈夫かよ」って感じになってきたわ。
科学って、主流の学説を否定するような学説がでてきても、より確実性のある証拠があったら、それまでの学説を捨ててもなんら問題ないじゃん。むしろそうしないといけない。
でも宗教の教義はそういうわけにはいかないから「科学が今ごろ到達したような思想は、うちらは昔から言ってたわ」みたいな自慢をしていて、ビッグバンとか、その現代物理が否定されたらどうするんだろうね。
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160125/1453679534
星回り、天運、を言い換えれば運命・宿命であり、保守・仏教畑では前々から語られていたし、論壇畑でも「運命と宿命は違う」とか「最強の運命論(決定論)」として語れていたし、スピ・オカルト畑でも1つのテーマになっていると思う。
運命を受け入れないことの何がまずいかといえば、適応拒否とそれによって起こるメンタル面の不利という点だろうと思う。
運命を受け入れたと思えるために便利なのは「たとえその状況でもどうにこうにか生きていけるかも」「どうしても死にたくなれば死んでもいい」という安心と「自分より悲惨な状況はいくらでもある」という優越感と「それでも価値がないわけではないかもしれない」という満足感だと思う。
無理があるといえば無理がかもしれないし、つらいと言えばつらいかもしれないが、いつの時代のどんな人の人生そんなものであり、ニコニコニッコリ大満足をもって運命を受け入れている状態だとするべきではないと思う。「無理している。悪しき防衛機制だ」「現実逃避だ」等の言説はやはり邪魔である。
雨宮処凛によればつらい生活を送っている右翼仲間が「特攻隊の人のことを考えれば平気」であると、特攻隊を自分の境遇を受け入れるためのツールに使っていたらしいが、その特攻隊もやはり枕を濡らしていたのだ。「公平であるべきという観念」は出アフリカ以降の人類の脳の特性であり、運命、不公平を受け入れるとはやはりどこかで無理をすることなのではないか。
「毒親」「文化資本」が鬱憤晴らしに使われ適応戦略としてというなら、その背景である「親の適切な愛情が必要」「適切な環境・教育が必要」という現代の(絶対に必要であると言ってしまう)教義も叩かねばならないだろう(社会関係資本についても同様である)。これは近代の正常な心理状態を想定する精神医学には無理だし、反人種主義・反優生学の左翼やポモにも無理だろうからそれらに期待するべきではない。かと言って劣等種を数値化する科学もカルマや汚れた魂を想定するスピ・オカルトも自分の境遇をニコニコニッコリ全肯定できてしまう危険なものである。イエや身分を想定する保守も使えない。自律と運命許容を両立させるためには、ここはハードルを下げて、無理はしているかもしれないがそれなりに満足しようとしている状況をもってよしとするべきだと思う。
俺の感想。
あの日
読んだ。
STAP細胞の話はよく分からなかった。俺にはSTAP細胞の知識が無く、またこの本にその解説がそれほど書かれていない。
小保方さんは歯車教の科学者として失格だろうけど、いかにも人間的であった。
今日も歯車教の報道部が正義の報道を要求する事は予想されるし、世の中の歯車もそれを喜んで観るだろう。小保方さんもそれは予想していると思う。
俺は歯車になるつもりがなくて、歯車になる努力すらしなかった人間だけど、歯車の人たちに挑戦状を叩きつける小保方さんを凄いと思った。
小保方さんが歯車教の教義を遵守しなかったために、歯車教の信者たちが正義のリンチをして、小保方さんの人権を侵害して、取り返しがつかなくなった時に一部の歯車が反省するだけである。そして歯車はそれを忘れてまた回る。
●歯車教の原理原則に逆らったために謝罪会見をしたSMAPについて
俺の感想。
アイドルの歯車を辞めようとしたために、その他の歯車が大騒ぎして、
もはやアイドルとしての歯車機能があるかどうかわからないSMAPを、まだ歯車として使いたいのだろう。
SMAPがアイドルでなければならない理由は無いし、それを続ける義務は無い。
俺はSMAPが解散してもいいと思う。
SMAPは何も悪くない。
SMAPが歯車教の教義を遵守しなかったために、歯車教の信者たちが正義のリンチをして、SMAPのメンバーの人権を侵害して、取り返しがつかなくなった時に一部の歯車が反省するだけである。そして歯車はそれを忘れてまた回る。
俺の感想。
ベッキーは歯車なのだが、それは不倫が許されない歯車なのである。
ベッキーが歯車教の教義を遵守しなかったために、歯車教の信者たちが正義のリンチをして、ベッキーの人権を侵害して、取り返しがつかなくなった時に一部の歯車が反省するだけである。そして歯車はそれを忘れてまた回る。
http://anond.hatelabo.jp/20160125135604
いろいろあった。
廃仏毀釈はいろいろ言われているが、理由の一つに明治政府が戸籍管理を寺社から奪いたかったいうのがある。
これと王政復古を背景とした天皇の権威向上もあって、神仏分離令から国家神道の成立となる。
国家神道は大日本帝国の実質的な国教だったわけだが、建前として、神道は宗教ではない、ということにされた。
これまたいろいろな理由があるのだが、外国との通商条約を改正するにあたり、キリスト教の排斥をしていると交渉の場に立つことすらできなかったとかがある。
初詣などが宗教行事ではなく、日本の慣習・習俗であるなどの論法はこのころに広まった。
GHQにより国家神道は解体された。昭和天皇の人間宣言が象徴的やね。教育勅語も墨塗りされた。
ただでさえ、宗教行事が単なる慣習に過ぎないとされていたうえで、宗教的な教義は完全に破壊された。
地縁から切り離された人間の拠り所として、本来なら宗教に大事な役割があったはずなのだが、前述のとおり破壊されてなにもない。
こういう拠り所を求める人間を鴨として新興宗教が猛威を振るったわけで。そうかそうか。
あらゆる宗教的な儀式は、外装だけを奪われて、商業的なマーケティング材料になっている。
心の拠り所を求める人は、多いが、それを宗教に求めることは少ない。
夫婦同姓の強制が合憲だという、にわかに信じられないような最高裁判決が出ました。
「夫婦同姓」という制度は、江戸時代の武家文化が、とりわけ明治期以降に広められたものであり、古来の文化ではありません。氏は職業の家柄を表しているわけで、武士ならば武家の氏、商家ならば屋号、職人も師弟で名を世襲し、農家はその土地を表していたものです。江戸時代は、公的には氏を名乗ることは武士の特権でしたが、既に姓の通称が一般的には広まっていたようだと思われます。
江戸時代の段階でも武家の特権に憧れる人々は多かったでしょうが、明治維新で「四民平等」が施行されたのを機に、皆が「武家並み」を目指したものであることは想像に容易いでしょう。
江戸時代の政治、社会統制は、武家一般の信仰である儒教に基づいて行われてきました。儒教では、男尊女卑ですし、年長者を敬えだとか、先祖を尊べだとか、そういった「道徳」があります。こうした儒教の教義も、江戸時代以降には社会に浸透させられ、それが未だに「日本文化」だと信じこまれてしまっています。
氏は職業柄を表しているものです。ですから、現代の、「夫婦共働き」や、職業のいわば個人主義化の時代にあっては、夫婦同姓の強制というのは江戸時代からの儒教信仰の帰結でしかなく、合理性を欠いています。また言うまでもなく、「信仰の自由」に反しています。日本の、いわゆる「ガラパゴス」「鎖国」、閉じ籠り根性の表れだといえましょう。
「女性の活躍」などと誰かさんが言っていますけれど、まったくもって口ばっかりで、言行不一致ですよね。これからはとくに、労働者の実人口の減少を少しでも抑える必要があるはずなのに、結婚や妊娠や出産といったできごとのたびに就労から疎外されるような社会慣行が根強いのが現実です。
「日本古来の文化」と声高に叫ぶ人がいるようですが、そのほとんどは信仰です。しかも江戸時代以降の、ながくて数百年程度のものでしかありません。誇りが無いから、こうしたプロパガンダ、信仰にすがるのでしょうね。到底目覚めそうにないようですから、私は哀しいし、絶望的です。
形式的には「妻の姓にも合わせられる」といっても、それは養子婿のような形態に合わせた制度です。実際にはほとんどの事例で、夫の姓に合わせられています。
氏名というのは根源的なアイデンティティですが、そのアイデンティティを奪うということが未だに正当化されているわけです。そして、奪う側に「差別している」「加害している」という自覚が無いことがほとんどですし、さらには奪われる側にまで喜んで差別される人がいるというのも残念ながら事実です。
「選択的夫婦別姓」という案は極めて light な案です。「奪いたくない」「奪われたくない」という意思のある人だけが改姓を避けるのですから。
自分の根源的な快楽を禁じて、信仰の強さを我慢することで実感するのが喜びって言うマゾ性と、
その教義や倫理の名のもとに他者を容赦なく裁くっていうサド性が両方強い。
このサド嗜好とマゾ嗜好は、結局正義への偏愛ってことにまとめられるのかもしれない。
あいつら正義っていう旗印が大好きすぎて、潰れそうになりながら旗印を支えることも、その旗印で他人を完膚なきまでに叩きのめすことも異常に好んでる。
なんでそんなに正義を求め、その元に集い、その名のもとに行動したがるのかはわからんけど……。
ありがちな考察だと、過剰に正義たらんとするのは、劣等感や不安が強いことの裏返しである、つまり劣等感が強いから正義の一員になることでマトモな自分というのを得たくなるし、不安が強いから正義という確固とした道標に従いたくなる、なんてのは言えるかなあ。
イエスは律法学者とガチバトルして抹殺されたが、イエスの信徒たちの作った教団にも、聖職者階級が出来て、彼らのものになった。
建て前では出家在家の区別はなく、聖職者という存在はないことになっているが、イスラム法学者が幅をきかせている。
教皇もカリフも、代理人という微妙な位置付けから始まっているが、権威であることは皆が知る通り。
教皇やカリフがいなかったら、組織として成り立たずに歴史の中に消えていっただろうし、リーダーを持つ組織をつくれば、その下に側近、その部下という階級が出来上がり、信徒の平等は実現できない。
イエスはムハンマドの教えは、精神面では教義に原点回帰しつつ(あるいはしたつもり)でも、当時なりに当時の社会情勢にチューニングしていた。
「律法とローマ法でダブスタのところは、ローマ法を優先したっていいよん」
とイエス
「ダブスタがないように世俗の法も宗教の戒律も擦り合わせて一本化しとけ」
とムハンマド。
現代だと問題はアリアリでも、当時はそれなりに柔軟な解釈で改革したつもりだったわけで。
ISも当然だが、S県の顕正会、まじヤバ。
こないだ勧誘を受けたのだが。
日蓮の教えは一語一句正しい!
中国(元)が攻めてくるから天皇を帰依させて国立戒壇をつくって国を守れ。
政教一致は必達!
ちなみに、
日蓮宗から原点回帰を強めて過激すぎて破門されたのが日蓮正宗。
日蓮正宗から原点回帰を強めて過激すぎて破門されたのが創価学会と立正佼成会。
この両会は在家たちの、つまり下からの宗教改革だったが、知っての通り王国を作ってる。