はてなキーワード: 考察とは
ように見えるけど、実は結構好き。
Mっけがある。
高校くらいの時は結構な潔癖さで、普通の異性からの好意もちょっと苦手であった。
大学は女子大だったので、ほぼ異性の交流はなく、ただ、今の旦那と付き合ってた。(ええと、高校の時、先輩(女)の彼の遊び仲間だった感じ【表向きの説明】 実際は、高校の時、オタ部で、先輩(女)がTPRGやってて、誘われて、一回もセッションせずに、チャットばっかやってたっていう。)
その時も相当な潔癖さで、しょっちゅうその辺でケンカしてた。というか、今でも、ケンカの原因はだいたいその辺くらいしかない。
『男女間の性欲差』
当時はぷち遠距離恋愛だったので、会うのは、大体月1くらい。
旦那の方からすれば、やるもんだと思って会うわけじゃん? けど、生理とかだったりすると、ちょっと戸惑うわけよー。布団も汚れるしさー。みたいな感じだとさー 帰りの車はちょー相手無言で怒ってるのよー。怒ってる? って聞いても、別に、みたいな。そのうち、だんだん、こっちもイライラするわけよー。しょーがないじゃん! って。
以上の例から「する愛」と「しない愛」があるということが言えると思う。
求める時にするのも愛だけど、我慢してもらうのも愛だと思う。
当時はしない方が愛だと思ってたのよね…。そういう時は、する愛を強要されるのはなんてひどいやつだー と思ってたわけさ。
きっと逆の立場で、全く同じことを思ってたんだと思うけど。
今はこっちからしよーとすることもある。
というか、そういう逃げ道を作ってくれたのかもなぁと。
向こうがしたい時でも、こっちからみたいな風に見せてくれて、
欲がある自分を見つけてくれた的な?
どっちからかなんてわかんないよね的な?
ただ、今もちょっと潔癖さもあって
そういう自分でいたいのもあって
エロいヤツ読むのもこっそり読んでたりするみたいな
でも認めてもらえるかなぁと思うのも半分。
こんな面倒な自分を認めてくれるのも愛だし、
するべきとかするべきでないとか、やりたいとかしたくないとか決めつけずに、
しよーよ! やだよー! ってお互いのわがままを言い合うのがまた愛なのかもと。
10回のうち5回は聞くから、10回のうち7回はわがまま聞いて!
いっぱい聞いて! 大好き!
https://togetter.com/li/1119341
UK総選挙での労働党躍進から議論が始まっているわけですが、そりゃUK保守党ぐらいの緊縮策に対してなら、日本でも反緊縮が主流になるでしょう。しかし日本では、そこまでの緊縮になっているわけじゃあない。ブレイディみかこ氏について、「左派」が地べた云々ばっかりを取り上げてと批判するクラスタだって、自分らがいう反緊縮とコービンの反緊縮の程度(あるいは、UK保守党の緊縮と日本の緊縮の程度)が違うことを取り上げてないじゃんか(ま、そもそもそこから無意識に目をそらしてるんだろうけど)。というわけで、UKと日本が違う理由を言うなら、日本は緊縮がぬるいから、で終わり。
相手の非をあげつらうだけでは同じレベルになってしまうので、もう少し議論を続けてみよう。日本で「反緊縮」とか言っている人たち(以下本稿では「反緊縮論者」と表記)のほとんどは、フローの話をしている。端的には、消費税増税への賛否だ。消費税を上げたら緊縮、下げたら反緊縮。しかし、批判対象となっている人々の認識では、自らを緊縮だなんて思っていない。自分が緊縮だと認識している人が緊縮だと批判されたらリアクションもするだろうけど、緊縮だと思っていない人に対して、お前は緊縮派だ、などと批判してみたところで、謂れのないイチャモンをふっかけられたようにしか思わないはず。
他方、世の中で消費税増税に理解を示す人たち(以下本稿では「反「反緊縮」論者」と表記)ってのは、基本的にはストックを見て危機感を持っているわけだ。今後、団塊の世代が後期高齢者になっていく中、今のストック増のペースでは問題だと。この人たちは、ストックの増は、たぶん許容してる。ただそのペースを何とかしなきゃと。もちろん、ストック増のペースを落とす=フロー収支のマイナスを減らすことは、反緊縮論者の定義に従えば緊縮なんだけど、反「反緊縮」論者の定義では緊縮ではない。ストック増を認めないとか、むしろストックを減らせとか、そういうことを言っているなら、緊縮だと言われれば自分のことだと思うだろうけど、反「反緊縮」論者は自らを緊縮側と位置付けておらず、ニュートラルだと自任しているのだから、緊縮派呼ばわりされても響くはずがない。
反「反緊縮」論者がそうであるには、基本的にはそれぞれの思いがあって、社会保障支出が削られないよう安定財源がほしいとか、会社負担保険料をこれ以上上げられたくないとか、結局のところ、反「反緊縮」論者を説得して反緊縮論者に改めさせたいなら、そうした個々の不安によりそって、その解決を示さなきゃいけない。にもかかわらず、反緊縮論者の多くは、あたかもマクロがすべてであるかのような議論をふっかけ、自分らの議論にかみ合わないと財務省の回し者呼ばわりなんだから、理解の輪が広がるはずもないよね。ちょっと前の駒崎弘樹氏関連の流れをみて、昔の本田由紀氏をめぐる似たような流れを思い出しましたよ。
まったく成長してないなぁ。
今をときめくトランプ大統領のTwitterでの発言にて誤字があったそうで。
アメリカだけでなく日本でも話題になり夕方のニュースでも取り上げられてました。
「これは暗号だ!」とか「この単語の意味は○○だ!」とか「真面目に考察するに~」とかそんな発言がいくつか。
こんなんただのイジメじゃん。嫌いな人の間違いをコケにして揚げ足とって。
ユーモアに富んでる?これを笑えないのは学が無い?
これが子供の間で起きたらどう思うんだよ。それでも同じこと言えるのかよ。
こんなんじゃ一生イジメは無くなりませんね^^
まぁ間違えたやつをボロクソに叩いて、楽しく生きていきましょーね。
増田へ
良いレビューを読ませてくれてありがとうございます。初増田なので無作法あったらすみません。
お勧め漫画の情報は他の方が既に沢山書いているので、お嫁さんとの新生活でいかに漫画を保持するか、漫画好きのオババが思ったことをメインにツラツラと書きます。
◆◆まず最初に、お嫁さんが漫画の趣味を受け入れられない理由を考察してみる◆◆
(1)重量
紙の漫画は重いです。読書家の家では本棚の重みで二階の床が抜けたなんて話も聞きます。
沢山の書籍を持ち込み床が軋んだり、凹んだりするのを避けたいのかもしれません。
(2)人に見られる
本棚が目に入ったとき、増田の親なら「また、こんなものを買って!」と怒るだろうし、お嫁さんのお友達は後で「旦那さん、漫画が趣味なの?」と聞いてくるかもしれません。
(3)お金がかかる
賃貸やレンタルスペースの場合、書籍が占有する面積当たり月々の賃料が発生するという考え方もあります。
これからの新生活、それぞれのライフステージで沢山お金がいります。堅実な女性なら、将来の備えのため節約に意識が行きます。
そんな時、自分の理解できない趣味が目の前に並べられ、増え、賃料が発生しているのを可視化されるとイラっとするかもしれません。
独身時代と同じノリで漫画が増えると「将来のこと考えてる?」と思う可能性もあります。
漫画を集中して読んでいる時、生返事したりしてませんか?
そんなことをしていると、漫画を読んでいるときの増田のことが嫌いになっちゃったりします。
ましてや、集中のあまりご飯の時間がずれたり、お嫁さんが一緒に楽しみたい何かの時間が邪魔されたら、悲しみは増します。
(5)とにかく大人が漫画を嗜むことを理解できない、何となく気に入らない
昔より、だいぶ漫画は市民権を得ましたが、それでも「漫画=子供のもの」という人も多いです。
(2)と同様ですが、結婚してこれからのライフステージをクリアしていくにあたり、子供っぽいままでは困る、と思っているかもしれません。
※長々と書きましたが、上記は「自分に理解できないものに場所、お金、時間を取られたくない」「これからの生活の事をもっと考えてほしい」に集約されると思います。
(1)(2)であれば、レンタルスペース、自炊、電子書籍である程度解決できます。
(3)の場合は電子書籍や自炊でないと厳しいです。レンタルスペースに継続してお金がかかるのは賛同を得られない可能性があります。
(4)は、お嫁さん/家族の事が他のことよりも大事である、という態度を示せれば解決します。
(5)だと、お嫁さんの視界から漫画を消して、漫画にお金を掛けていることは公にしないことです。
でも、月々の収支が明らかになると必ず突込みが入ります。
◆◆2人の妥協点を探す◆◆
お嫁さんがなぜ、増田の漫画趣味が気に入らないのかは私は知りません。上記の(1)~(5)も全くの的外れである可能性もあります。
なので、一度はやめに話し合って二人の妥協点、価値観を探った方が良いと思います。
「これからの2人の生活の話」という位置づけで聞き出せば、お嫁さんも色々話してくれるのではないでしょうか?
・漫画はお嫁さんの中でどういう印象なのか?(子供っぽい?オタクで暗い?)
・そもそも、大人の趣味について、お嫁さんはどう考えているのか?
・逆にお嫁さんの方がこれからの新生活のために早々に諦めている趣味や私物は無いか? (堅実にしようとするあまり、先んじて自身に節制を課してしまう人もいます)
・お嫁さんの価値観で、家の中に置ける漫画の量、月々いくらまで漫画/趣味に掛けて良いのか?
※まずは、お嫁さんが"趣味に掛けても良いと考えているライン"を探るのが良いと思います。
・増田の、漫画から得ることができる楽しみ、費用対効果等を説明する。
最近の若い女性は人生設計とお金に堅実である傾向が強いと感じます。
結婚前から、保育園の場所、子供の小学校の学区、親の介護、老後の資金について考えている人もいます。
なので、漫画趣味の悩みというよりは、お金、これからのライフスタイルの話なのでは?とオババは感じました。
お嫁さんも「これからの事を真剣に考えてくれている」「自分/家族を大事にしてくれる」と分かれば、安心して歩み寄る余裕もできるかもしれません。
帰宅したとき、大好きな人が「お帰り」や「ただいま」を言ってくれる生活は大変良いものだと思います。
その生活に自分の好きなものも一緒に置けると、きっともっと幸せです。応援しています。
上記の通り。
けものフレンズ自体をどう考えてもいいのだが、まるでイナゴのように流行に乗っかり、「コーサツ」(考察にもならない与太話なのでこう書く)しまくっては湧き上がる、まるで言葉は悪いがウジ虫のような連中に自律を語る資格などあるのだろうか。自律とは自分で、自分らしく生きることだ。そもそもけものフレンズなんかが出る以前にきちんと自律している人間であればけものフレンズで盛り上がったりはしないはずだ。あくまで静かに、自分の好きなものを見るはず。もちろんその中にけものフレンズが、そのようなスタンスであるのならばあってもいいと思う。
しかし「みんなが見ているから」「応援を頼まれたから」という理由でけものフレンズを見始めた奴らに、自律も、その前提として必要な自我もないだろう。そしてそういうやつらは「見る気しない」というものに対してえらく強くあたる。
まるでこれってファシズムと同じではないだろうか。
筒井康隆が「禁煙ファシズム」ということばを広めたが、僕は「けものファシズム」と名付けたい。
ちなみにここには「まどかファシズム」、「ポケモンファシズム」なんて流行語を入れてもいいかもしれない。
とにかくあまり乗る気になれない人、面白いと思えない人々をつぶしにかかるのだ。
そんな輩が「フレンズにはいろんな…」だったか、そういったことを言うのは戯言という以外言葉がない。
ただ単に笑えない。
またそんな奴らはきっと作品を愛さないだろうし、数年後「懐かしい」といって流行にはまった自分自身を懐かしむのだろう。
はっきり言ってそういうやつらに愛される作品が哀れで仕方ない。
そしてそういうやつらの語る多様性、自律、といったテーマには薄っぺらさを感じるし、そんなファンに憐憫すら感じる。
日本人にとって、直訳という言葉は「機械的に文法に沿って訳語を並べて、意味不明の訳文を作ること」といった印象が強い。意味が通じる翻訳をするには、意訳、つまり元の文を理解した上でその内容を自分の言葉で書き直す必要があると考えられている。
しかし英語で直訳を表わす"literal translation"は、そういった言葉ではない。もちろん、機械的に置き換えて意味の通じない文を作ってしまうことも言うのだが、"literal translation"は「原文に忠実である」というポジティブな側面を持っていて、formalで立派な翻訳という感覚を伴う。
それはつまり、「意訳」に良い印象がないということでもある。それは「意訳」に当たる適切な英語表現がないことでも分かる。
https://www.onehourtranslation.com/translation/blog/literal-translation-vs-conveying-sense-text
ここでは"literal translation vs. conveying the sense of the text"(直訳 vs. テキストの意味を伝えること)というタイトルになっている。日本人から見ると「"直訳 vs."と来たら『意訳』が来るに決まっているだろう」と言いたくなる。しかし、英語で意訳という言葉は、直訳とvs.出来るほどの市民権を得ていない。
英語の翻訳はフランス語やラテン語といったヨーロッパ圏の言語から知識を取り入れるために行われることが多く、ヨーロッパ圏の近縁語同士では直訳は有効な方法論だ。結果として、"literal translation"は立派でフォーマルな翻訳という意味合いが生じた。
対して、訳者が勝手に自分なりの表現を加えてしまうと、fidelity(原文に対する忠実さ)が欠けているという批判の対象になる。
たとえば、私は素人ながらアニメの英語翻訳に関わったことがあるのだが、海外のアニメオタクは意訳を嫌う。佐藤さんはSatou-san,斎藤先輩はSaitou-senpaiだし、学校の先生の敬称は英語だとMr.なのだが、犬塚先生はInuzuka-senseiだ。
たとえば、アニメのセリフに「ありえなくね?」と出てきたら、文字通り"That's impossible, right?"と訳すのが好まれ、意味を汲み取って"Are you kidding?"と訳したりすると、"over-translation"とか"liberal translation"などと言われて叩かれてしまう。日本人の私から見ると、とても理不尽に感じるが、彼らの感性はそうなっている。
この問題についてググっていたら「literal translationが良いというのは神話だ」という海外の人の意見を見つけた。これを言っているのが日本語の英訳をしている人だというのも示唆的だ。
日本では英語文献を翻訳するのが主なので、literal translation、直訳はほとんど役に立たず、ひどい翻訳の代名詞のようになっている。英語話者にとっての日本語の英訳でも同じだろう。
基本的に、英語圏でTranslationと呼ばれているものと、日本で翻訳と呼ばれているものは、行為としては似ているが、内実は全く異なっている。
英語圏で行われているのは直訳であり、我々がやっているのは意訳だ。英語圏でやっているのは文法ルールと訳語を覚えて他言語に当てはめ、原文を出来るだけ変えずに英語に直すことであるが、我々がやっているのは「他言語を(何らかの方法で)理解し、その内容を自分なりに日本語で作文する」という行為である
直訳が役に立たないということは、つまり文法ルールを覚え、日本語の訳語を覚えて適用しても、英語を理解することは出来ないということだ。
これは残酷な現実であるが、「いくつの文法ルールを覚え、何万の訳語を覚えても、英語を理解することは出来ない」
これは文法や訳語が不必要だと言っているのではない。文法や訳語はヒントにはなる。だが、答えにはならない。
はっきりいえば、ヒントを一生懸命集めて暗記しても、意味がない。文法ルールをいくつ暗記しようと、英単語の訳語をいくつ暗記しようと、それは英語力ではない。
身も蓋もない言い方になってしまうが、法則化出来ないなんらかのプロセスによって、英語を直接理解する能力。それが英語力だ。
そして直訳が出来ない、つまり英語を日本語に変換して理解するための法則が導けないという事実から分かるのは、日本語を理解している我々の脳をどういじくっても、それを英語に適用することは出来ないということだ。
それはつまり、「英語を理解するための脳の回路を、日本語とは別にゼロから構築する必要がある」ということに他ならない。赤ん坊が新しい言語を習得するときのように、何年もかけて、少しずつ脳を開発していき、英語を理解できる脳を構築していくしかないのである。
どこかの英語学習体験記で読んだことがあるのだが、「留学に行った所、フィンランドの学習者と同部屋になった。フィンランドの学習者はひたすら単語帳を眺め、英単語だけをひたすら覚えていたが、それによってあっという間に英語が出来るようになっていた。だから、私も一生懸命単語帳を眺めることにした」といったものだ。
これがつまり、直訳が可能な言語を使用している脳と、直訳できない言語を使用している脳の違いだ。欧州の人々は基本的に、母国語を理解するために使っている脳を英語向けにアレンジするだけで、英語ができるようになる。我々はそうではない。
たしかその体験記の終わりは、「一生懸命英単語を覚えた結果、留学を終える頃にはかなり英語ができるようになっていた」となっていたように思う。しかし私が声を大にして言いたいのは「それは英単語を覚えたおかげではない」
日本の英語学習界には、留学神話がある。「留学さえすれば英語は出来るようになる。留学しないといつまでたっても英語ができるようにはならない」というものだ。
もちろん留学さえすれば英語ができるようになるというのは嘘だ。それはもちろん神話でしかない。「留学して、英語を使わざるを得ない環境に自分を追い込み、一生懸命英語に取り組めば英語は出来るようになる」というのは正しいが、「留学はしたものの、日本人同士で固まって遊んでいただけで、勉強はしていない」といった生活で英語ができるようになるはずもない。実はそういう日本人留学生は数多い。
しかし「留学しなければ英語ができるようにはならない」というのは真実を突いている。
日本の英語教育に従って、文法ルールを覚え、訳語を覚え、どんなに努力を続けても、英語ができるようにはならない。留学して、日本の英語教育から離れ、ただがむしゃらに英語と格闘すれば、それだけで英語は出来るようになる。
そして「がむしゃらに英語と格闘する」ためには、留学は別に必須ではない。がむしゃらに英語の本を読む事もできるし、映画を見てもいい。海外英語フォーラムに書き込んでもいいし、Lang-8で英語で日記をつけてネイティブに添削してもらうのも、アジア圏のネイティブとスカイプ英会話をやるのも良いだろう。
がむしゃらに英語と格闘することが必要なだけだ。そしてそれ以外に英語ができるようになる方法はない。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG25H1M_V20C15A5CR0000/
全国の公立中学・高校の英語教員のうち、英検準1級以上かそれに相当する資格を取得しているのは中学で28.8%、高校で55.4%だったことが25日、文部科学省の2014年度英語教育調査で分かった。政府の教育振興基本計画は17年度までに中学で50%、高校で75%との目標を掲げている。英語教員のいっそうのレベルアップが必要な状況が浮かんだ。
高校の英語教師で英検準一級が55%、半分近くが英検準一級を持っていないということだ。準一級を持ってないということは、日本の文法・単語の暗記中心の教育をする能力すら疑問符がつく。
準一級の問題は、日本の英語教育で教えられたとおりに暗記した単語を当てはめ、文法ルールにそって直訳すれば理解出来る、日本人向けの英語もどきでしかない。それが分からないということは、英語もどきを教える資格もないということだ。
もちろん教師は聖職として尊敬されるべき存在であり、それを指揮するのは霞が関文部科学省のエリート官僚であるから、自分たちが教えているのが「実際には役に立たない英語もどきです」とは言えない。「私たちは英語がよく分かりませんし、『生徒をちゃんと英語が出来るようにしろ』と言われても出来るわけありませんよ。むしろ、そんなやり方を知っているなら教えて下さいよ」などと口が裂けても言えるはずがない。
それに対して一方では「聞き流すだけで英語がペラペラに!」とか「たった100語で英語は出来る!」とか「頻出フレーズを暗記すれば日常会話はバッチリ!」とか、英語教育界はオカルトだらけである。
もちろん商売でやってるのであるから、「がむしゃらに英語と格闘しろ、それ以外ない」などと言えるはずもないのだが、そんなことを言っていても誰も英語が出来るようにならない。なんとかならないものだろうか。
私が実践してきた、オススメの、実際はがむしゃらにやるだけの英語学習法を紹介しておく。
http://anond.hatelabo.jp/20170526220542
http://anond.hatelabo.jp/20170524213622
http://anond.hatelabo.jp/20170522214348
コメントを頂いた。本を読んでもTOEIC3000語が覚えられない、ということだった。
TOEICのリーディングは結構速読が必要なので、その実力が身につくまで、100万語ぐらい、500ページのペーパーバックを12冊分程度読まないと、普通は最後までたどり着かないんじゃないかと思う。12冊分を辞書を引きながら、単語や表現の感覚を感じ取りながら舐めるように読めば、どうやっても8000語程度の単語を感覚的に理解できる、生きた語彙力が身についてるはずだ。必要なのは暗記力ではなく、文を深く読み、英語表現の意味を感じとる力だ。記憶は忘れるけれど、感覚は忘れない。忘れたと思っていても残っていて、何度か同じ表現を見かければ、その都度感覚は強化され磨かれていく。
単語を覚えるというのは読書の途中で自動的についてくるもので、ピクニックの途中で摘める野イチゴのようなものだ。しかし英語学習者は読書というピクニックには出かけず、ピクニックの準備だけを念入りに行っているように感じている。「自分にはピクニックも難しい。ピクニックに出かけたらヤマで遭難するかもしれない。その時のために食料を買い込んでおこう」と言いながら、辛い奴隷労働をして腐りかけのイチゴを買い込んでいるように見える。ヤマに出ればいくらでもおいしい野イチゴが摘めるのに、ヤマに行っても腐ってて使い物にならない表面だけの単語知識を必死で暗記しているように感じている。これは本当によくないことだと思う。
もう一つコメントを頂いた。学習者は英英辞典はオックスフォードでなく、ロングマンをやるべき、というご意見だ。
辞書から得られるものは単語の理解ではなく、ヒントでしかない。ヒントを英語で貰っても基本的に英語学習者にはわかりにくい。英英辞典自体を読み物として楽しめないなら、英英辞典を見ても英和より効率が悪いと考えている。もちろんロングマンが読み物として楽しい、読んで頭に入りやすいという方がいるならその方が良いと思う。私はオックスフォードが読み物として楽しいので使っているが、面倒な時はウェブリオに走っている。
この記事は長文すぎて最後が切れていたので、二つに分割したものの後半部分だ。前半部分はこの記事と繋がりがあるようでないのだが、いろいろと書いた。 http://anond.hatelabo.jp/20170529095534
ネタがなくなったので、多分この増田で吠える英語考察は今回でしばらく休止するかと思います。今まで長文をご覧いただいた方、コメントを頂いた方、ありがとうございました。
そもそもこの論文はネット上での猥褻表現のフィルタリングが主題なので、出版物についてははじめから考慮に入っていないと思います。猥褻ドメインのフィルタリングにAIの学習能力を利用するのが目的かと。
なのでそもそも「小説」という形式の文章のみをサンプルにすること自体に違和感がありますね。猥褻ドメインならではの広告文句や説明文、利用者の書き込みなどのデータも相当数持ってくるべきなのでは?
前文の段階で、有害情報の確認できるドメインとして2ch、pixivのふたつだけが例として並べられていて、その後その選定理由について触れられているわけでもありません。それ以外は注釈にハピメくらい。「なぜそこでpixiv?」と読んでるこちらが面食らいました。
わたしもAIに興味があるだけの門外漢なのですが、追記のとおり、あるドメインの傾向に特化したAIがフィルタリングに利用されるのはとても有意義だと思いますし、ゆくゆくはそういったAIをつくるための参考となるようにこの論文は書かれていると理解しました。なのでその前段階としてこの論文では猥褻表現の分類と考察がなされているんですが、その考察方法がいろいろな意味で非常に稚拙なのが問題になっている。
24日の夜には一部で騒ぎになっていたしその頃はあの論文も普通に見られた。そのときにダウンロードしといた人ってどのくらいいるんだろう。あれよあれよと大騒ぎになっていて、今日ようやく読んでみた。こういう分野はまったくの門外漢なのでただの感想。
今は非公表になってるらしいけど、内容の書き写しをするつもりはないので問題はないですよね?
無学なものでいまいち理解できている自信がないんですが、つまりは従来の猥褻な単語そのものをフィルタリングするのではなく、なんら猥褻な意味を含まない単語がある文脈において猥褻な暗喩表現として用いられたとしても猥褻表現として判断できるAIによるフィルタリングの実現を検討するために、巷の猥褻な文章を持ってきて考察しました、ってことでいいでしょうか。
意義は理解できます。悪用されて文章の検閲として利用されるところまで妄想できました。さすがAI。
で、これがpixivのある時期のR18ランキングからトップテン持ってきて公表して考察していて炎上したと。トップテンの8割がBLという特殊な状況下で学習させたら、AIはどんなフィルタリングするんだろうなあというのはたしかに気になります。気にはなるんですが、まずそこなのか?とも思います。
猥褻な表現のあるドメインとして、なんでまずpixivを選択したんでしょうか?いっぱいあると思うんだ、猥褻ドメイン。なんでpixiv狙い撃ち。
そもそもこの論文の時点では結局猥褻表現の分類と考察しかしてない。AIに学習させる以前の段階。そこで8割BL、しかも素人小説というサンプルははたして適当なのか。
BLを含む女性向けの猥褻表現を扱うドメインもたしかに巷にはだいぶ多いことでしょう。でも、それは男性向けを大きく凌駕するほどのものなのか。そして、女性向けにおける猥褻表現と男性向けとでは大きく差があると思う。
BLを含む女性向けはとにかく婉曲表現が多い。下品は嫌い、雰囲気重視。男性向けは直接表現が多い。わかりやすさが第一、伏字になっても淫語は使いたい。おおまかにこういうイメージです。間違ってますかね?
実際、前文では特定のドメインにおける猥褻表現の例としてハピメでの「*交」とかも上げていて、伏字による淫語表現を研究者は認識しているはずなんですが、これらのサンプルではそんな表現出てこないでしょう。考察すべき対象の足りていない考察ってなんの意味があるのだろうか。
若手はすごく色々なことを考えているのに、すごくいい考察をしてる。
能動的に、周囲と上司の理解を得て、事を進めるチカラが欲しい。
単純に売り上げと負債額の問題だけでなく、原価率は高いし、コンプライアンスなどに対する脇が甘いし、今を乗り切っても先は厳しい。
将来ある業種と思われ、大企業に買い取られて子会社になったが、当初の目論見のように明るい未来は待っていなかった。
国家戦略としても社会的にも意義があるので、親会社は債務が膨らむたびに親会社の増資してくれている。
テコ入れのために、あるいは要らない人材の収容先として、親会社から出向者がわんさかやってくる。
可及的速やかに対処しなくてはいけない業務がわんさとわいている。
リスクが顕在化する前に、自発的にリスク抽出をして報告をあげて、そこからさらに上にあげて、業務として認められ、その後に関係者が集まって方針を決めて、タスク抽出して、同じ手続きを取り、適任者がアサインされ、マネージャーが進捗管理をする。
そういう流れを作りたいようだ。
気持ちはわかる。
しかし、計画を立てられるのもタスク抽出出来るのも実行出来るのも私しかいないのだ。
法令手続きであれば、その法令を熟知していて、実際に手続きしたことがあるのは私だけなのだ。
実験デザインするのも、実験するのも、データ分析できるのも、私だけなのだ。
「全部任せる!文句を言ってくるやつがいたら俺に言え!官庁と揉めたら俺に言え!ヤクザと揉めたら俺に言え!俺がケツは拭いてやる」
と言ってくれれば最高なのだが、当然そんなことはなく、社内手続きや社内の根回しをしてるうちに(なにせ課長級以上はみな、現場や業界はわからないがマネジメントは得意!みたいな人達で、説明を理解してもらうのに時間がかかる)、手続き期限は切れてコンプライアンス違反になり、生産トラブルは放置され、出荷シーズンになり何億も損失が確定して初めて経営層が問題の大きさを気づく。
その事態に至っても、親会社への報告資料作りに駆り出され、それが終わるまで私は問題対応に回れない。
中堅社員である自分は黒子であり、名前は上への報告には出てこないので、私は責任を負わされることはないので、気を揉む必要はないのかもしれない。
そんなわけで、話を戻すと、リスクを未然に防ぎたいし迅速に対処したいし、そのためには私を含め若手が成長して欲しいということである。
繰り返しになるが、気持ちはわかる。
でもごめん、転職したいんだ。
ZOZOTOWN(請求業務はGMOペイメントサービス)から、知らない人(おそらく前居者)宛てに請求書と弁護士事務所からの通知書が届きました。
ZOZOTOWNの対応が微妙だったのと、バックレ巻き込まれ被害に遭ってる人が他にもいそうな感じがするのでここにメモしておきます。
面倒なことになると思っていなかったのでちゃんと記録を残していません。
時系列に関しては怪しいところがあるかも。
※参考: 他人あての郵便物が届きましたが、どうしたらいいのでしょうか? - 日本郵便
こちらからの問い合わせ・ZOZOTOWNからの返信を、個人情報やサポート者がわからないように引用するとこんな感じ。
問い合わせ①
「○○○○」という人宛てに、身に覚えのない請求書が何度も届いています。
届く度に返送していたのですが、ついに「弁護士法人 ○○○○」という方から通知書が届きました。
(通知書は2枚届いており、「GMXXXXXXXXX」と「GMXXXXXXXXX」という番号が印字されています)
大変迷惑しているのですが、なんとかしていただけませんか?
ご連絡いただいたなか、大変恐れ入りますが
たびたび、ご面倒おかけし本当に申し訳ございませんが
※名前で検索するか、自社の責任で弁護士事務所に問い合わせたらわかるでしょ……と思いつつ
問い合わせ②
請求書については、全て転居で返送していますので手元にはありません。そちらに届いているかと思います。
また、通知書に関しては他人宛の郵便物ですのでこちらで開封することはできませんし、こちらも返送するかするつもりです。
以上、よろしくお願いします。
大変恐縮ではございますが
弊社でご注文者様を確認するためには弊社ご注文番号(#からはじまる9桁の数字)
該当がない状況でございました。
問い合わせ③
情報を確認できない件、わかりました。(始めにお送りした名前でも検索できないのでしょうか?)
会員でもない会社に個人情報を渡すのは抵抗がありますが、早く解決していただきたいのでお伝えします。
「○○○○○○○○○○」
以上、よろしくお願いします。
そのため、大変恐縮ではございますが
下記へお問い合わせいただけますでしょうか。
【ツケ払い(GMO後払い)お問い合わせ先】
■メールでのお問合せ
http://www.gmo-ps.com/customer_zt/contactform-zt/
■電話でのお問合せ
0570-666-948(受付時間:平日10:00~17:00)
せっかくお問い合わせいただいたにもかかわらず
何卒よろしくお願いいたします。
とばっちりなので、893が来たり何度も何度も関係ない書類が来たりしなけりゃもうそれでいいや……
本当に迷惑。
好意的なコメントばかりいただきありがとうございます。とても励みになりました。
今回は律儀にZOZOTOWNに連絡しちゃいましたが、最初から放置でもよかったのかもしれませんね……会社も会社ですし。
あのあと少しやりとりして、住所から注文の特定はできたとのことでした。
レンタルDVDをよく借りて映画を見るのだけれども、自分の場合一本の映画を一週間に何回か分けて視聴する見方が好きだ。(例えば90分の映画だったら月・水・金曜日にだいたい30分ごとに分けて視聴したりする。キリが悪い場面ならキリのいいカットまで見たりもする。)
しかしこの事を知り合いに話したら、「映画なんて一気に見ないと面白さが伝わってこないでしょ!?」「一回見るのを止めてしまうと映画の世界に入り込むのが難しくなるじゃん!?」
とか言われた。
確かに一理はあると思うが、自分は毎週放送のドラマやアニメのように間隔をあけて一本の映画を見るのも楽しみ方の一つだと思う。
年に数百本も見る映画ファンからしたら邪道なのかもしれないが、分けて見ることでその間の時間に映画の内容を考察しながら続きを楽しめるし、まとまった時間が取れない身としては1日30分程度に分けて見ることで一気見よりも手軽に映画を楽しめるのもすごく良い。
個人的にはこの分割映画視聴方法は、一気見よりも手軽にじっくり考えながら楽しめる見方だと思うのだが、やっぱり映画は見始めたらエンディングまで見続けなきゃいけないコンテンツという決まりがあるのかな。
自転車上だといざ転んだりした場合怪我の度合いがひどいだろうから
ただし、この間、ババアが自転車を降りるまで彼女のそばには近寄ることができず
彼女の一連の行動を減速し見守る以外のことはできない。
もちろん原則として追い抜き禁止などと法律的なことをいえばババアに理があるのだろうが
そのまま真っすぐ進んでいればこちらのほうが十分な距離をあけて速やかに追い抜くのであるが
その降りるモーションが邪魔でそれもできなくなる。
自転車を降りて追い抜こうとするこちらを「まあこわい」という顔でみる。
どのような意図を持っているのか。被害者となったのでこちらには非がないということか。
いずれにせよモノゴコロついてからずっとこうなのでババアになると身につく習性なんだろうな。
そしてふとプリキュアに変身する間の悪役ってこういう気分で変身を待っているのかと思った。
ああ変身はじめたよ。あの色の付いた全身タイツ状態に攻撃したらイチコロだけど変身が終わるまで待つべきなんだろうな。
待ってるのかったりーなんて思ってぼーっとみてるのかなと。
と、要約できるような発言をしている男性を見るととてもゲンナリしますね。
自分のアイデンティティは自分個人で持つべきものであって、他の物事に依存していては駄目だと思います。
作品に対して考察や意見の交換を行っている場所ですぐにヒートアップして「違う!この作品は間違っていない!間違っているのはお前だ!」と叫び始めてしまう癖がついてしまっているようで見ていて不安になります。
「とある作品そのもの」と「その作品に対する自分の主観」がまずゴチャゴチャになっていて、更には「作品に対する主観」と「自分の価値観全て」が同一視され、最後には「自分の脳内にあるその作品のイメージ」と「自分のアイデンティティ」がピッタリと重なってしまい、それとは違う意見が出てくると「自分という人間」が批判されたように感じてしまう傾向にあるみたいなのです。
そういう人、たまにいますよね。
私、そういう人がとても駄目なんですよね。
何を考えたらそういう思考になるのかをここまで論理的に整理してもなお、何だか腑に落ちないような気持ちになってしまうんです。
頭で何となく理解可能だけど、心では完全に理解不能とでも言いましょうか。
もしかしたらこういった方々はパーソナリティ等において何らかの障害があるのでしょうか。
もしもそうなら私は謝らなければいけないのかも知れません。
ですが気持ち悪いという感情が生まれてしまう事を止めろと言うのも理不尽なのではないかとも感じます。
私は彼らとどう接すればいいのでしょうか。
無視するという行為は人間に深刻なダメージを与えるという研究成果がある以上は関わらないようにするというのも決して正しい選択とは思えませんし。
難しいことを考えていたら頭がパンクしそうになってきました。
この長さの怪文書を投稿することにためらいはあるけれども。
偶には、言いたい事を思い切り言ってもいいかなと思う。
まず自分のことを書くと、稀にしか更新しない覚え書きのようなブログをやっている。あと好きな文章を書く人は結構な頻度でチェックしているくらい。
自分も新参だけれど、新しいタイプのブロガーの人が使う、押しが強めの手法がじゃっかん苦手である。
新規にブログを始めた際、こちらのブログは全く読まずに(本人には割と分かるものです)、宣伝のためにスターを付けてくる人が一定数いる。まあ当然、興味を持たれる文章を書けないこちらに非があるわけですが、「貴方のことは気にならないけど私の書いた文章はぜひ読んでくれ」と受け取ることもできる。
露出を求めて「記事お題」を引用し、全く関係のないことを書く人も多い。例えば「雨の日グッズ」というお題を引用しておいて、いつもの調子で日記を書く。露出したいのは分かるけれども、そのばあい読者が読みたいのは傘や長靴の話であって、職場の愚痴とか趣味の紹介とかではない。
あと、リクルートの適職診断、またはリクナビNEXTのグッドポイント診断を薦めるエントリ。MIIDASの適正年収診断、dTVの紹介。日常会話みたいな感じでお勧めされるんだけれど、あれは紹介料が入るからやっているのだそうで。道理で数が多いと思った。…あれはステマにはあたらないのだろうか。「PR記事」とかの表記がない分、「選挙前にさりげなく電話をかけてくる友達」みたいな感じがして、個人的には警戒してしまう。
CGMは、そのコンテンツの持つ価値の判断が難しい、とは思う。それは人によって違うし、ネットでの人気には「親しみ」も大きな要素である。
ただ分かりやすい基準として、例えば、寄稿や出版の話が来る人にはそれだけの実力と、その人固有のブランドがあるわけで。
なので余計に、「とりあえず100記事書きましょう」「SEOを勉強しましょう」「PVを稼ぎましょう」と、クリックしてもらうことに血道を上げる風潮がどうもよくわからない。読み手に客観的な価値を提供できているのかな?と、不安になることはないんだろうか、と。(言うまでもないことだけど、価値がある/ない、という話ではない。「価値のものさしはどこにあるのか」という話)
はてなの人なら、自分なんかよりよほど熟知されていることと思うけれど。執筆され、編集の手が入り、校正されてデータが印刷所に渡り、取次を経て本屋に巡ってきたり電子書籍になる、それだけの手がかかった、色々な「出版物」は本当に凄いなと思う。
個人がもっている「有益な情報」には限界がある。取材して一次情報にあたるプロに、正確性や量で比肩するのは正直、むずかしいのではないだろうか。
比肩しなくてもいいけれど、そこから発生する「収益」は最大限にしたい、というなら、それはインターネットが役に立たなくなるわけだと思う。
媒体が紙でもネットでも同じことで、例えばキッコーマンのサイトを見ると、料理の基本から旬の料理から詳しく載っている。歯の健康について知りたいときは、クリニカ辺りのサイトが役に立つ。商品の紹介記事にしろエッセイにしろ、企業がやっている媒体に掲載されている文章をみると、何歳ぐらいのどんな経歴の人が書いているんだろうと思う。
コードや料理が商品になるように、文章もまた商品として存在することは確かだ。ただ、コードを個人がお金にするにはそれなりの手順が必要だと思うけれど、文章はなぜか、個人がネットに上げるだけでも「儲かる」。
他にも、ネットにアップするだけで儲かるものは色々あるけれど、合法かつ元手がかからず、特に技術の習得をしなくてもできる「稼ぎ方」として、「文章を書く」というのは確かに適しているのだろうとは思う。
ここまでを踏まえて。「商業のクオリティや情報量には敵わないが(※ケースバイケース)、読んだ人に満足を与えるような文章を書き、お小遣い程度の利益を得られる、Win-Winの取引(読者が読む時間によって「収益」を発生させるなら取引みたいなものではと思う)」を考えてみる。(ものすごく飛躍しているような気がするけど気にせず進めます)
商業ではなく、市井の個人が書くことに意味がある文章とは何か。
それは、「その人にしか書けない文章を書く」ということではないだろうか。
別に、個人情報を晒せということではない。出身地や職業、家族構成は確かに、その人を知る大事な情報だけれど、同じような属性を持った人が世の中にはごまんといる。
「他者から客観的に見た自分」と、「自分の演出したいキャラクター」には、往々にして懸隔がある場合が多いと思う。シニカルに渋く決めているかと思えば、愚痴や悪口を書いてしまったり。写真にお洒落な加工をしていても、背景がどうも決まっていなかったり。「本当の自分らしさ」は、他者からの反応や自省によって得られるもので、見たくもない自分を見せられることも多いし、自分の評価されたい項目と他者から評価される項目が違ったりもする。
それでも。「自分の良いところ、推せるところ」を見つけて、「それによって他の人を満足させ、楽しませる」ことが、「個人としてメディアをやること」の強みなのではと思う。
その人にしか言えない言葉、できない話。培ってきた価値観、文章のテンポや言い回し。自分なりの軸による知見や考察。人によってはイラストや作品。例えブログ名や使っているテーマを変えても、文章ならば増田に書いても、「ああ、あの人だ」と分かってもらえるかどうか。
「その人にしか書けないブログ」こそが、個人ブログの存在意義なんじゃないだろうか、と。
「商業に出来なくて個人ブログならできること」は多くある。言及合戦、ボールの打ち合いもそうだし、商業の連載や肩書を背負ったブログと違って、思ったことを好きなように、題材も自由に書ける。
日記を見ると、今日したこと、最近興味のあること、生活や感情の移り変わりを感じることができる。例えば料理や写真のブログであっても、書いている人のキャラクターが違えば、受ける印象は全く違う。
「その人らしさ」が感じられるなら、面白くないブログなんてひとつもない。どんな個性でも、ネットに上げれば一人くらい、それを楽しんで、好きになってくれる人がいる。それがCGMの良いところで、インターネットが普及した利点であると思う。
さらに言えば。有名ブロガーの人たちを見ていると、やっぱり「読者を楽しませること」にとても力を入れているなと感じる。
スタイルは人によって様々だけれど、重い段落がつづくとその人のやり方で空きを入れたり、ボケてみる。自分の愛されている分野以外のことはあまり書かない。反応がよかったらまた掘り下げる。とか。(まあ、こうやって分析されるのも嬉しくないのかもしれないけれども。)
当たり前に、お互いがWinWinになっている関係で。それは愛されるよなあ、と感心したりする。
「互助会」という言葉について書くにあたり、ブログをやっている人を便宜的にタイプに分けます。
A)古参。はてダ時代からやっているような人。総じて文章が上手い。更新頻度は低め。交流はあまりしない。
B)新参。好きなことを書いてあわよくば若干の収入を得たい感じ。更新頻度が高い。交流が好き。
C)アフィリエイター。以下のようなタイプがあるように見える。
・ガチのアフィの人。それなりの戦略があるタイプ。「かわいい猫画像!」とか「速報・芸能ニュース」とかそういうやつ。よくダッシュボードの右に載っている。他にも色々やっていると思われる。
・何を考えているのかよく分からないタイプ。ほぼ中身のない記事にひたすら広告を貼る。偏狭そうな人が多い。
・「ブロガーとして」明確に互助を目指し、ブクマ不正している、らしい。偶に増田で告発されているけど割とスルーされている印象(興味がないのでよく知らない)。
よく見かける「互助会」という言葉は、B)に向けて使われる。「お互いのブクマコメントでブクマ数を稼いでいるんだろう!」というやつ。
でも、実際のところ。「当たり障りのない敬語のコメント」は、「相手に好意をもっていて話しかけたいから」「交流が楽しくて」やっているのだと思う。
その証拠に、「スター・ブクマ・フォローしたけど返してくれなかった!PVが伸びない!」なんて愚痴を書いている人は誰もいない。(このクラスタは素直な人が多いので、そういう気持ちがあったらたぶん正直にそういう記事が書かれ、誰かの目に留まるのではないかと思う)
「ブクマしてほしい」という気持ちももちろん多分にあるだろうけれど、自分がリアクションするにあたっては、利益を期待してやっているんじゃない、と思う。
嘘だと思ったらそのへんの、自分が「互助会」と呼んでいるブロガーに聞いてみたらいい。相手に言葉をなげかけるのが楽しいから。相手のことが好きだから。たぶん、思うより多くの人が、そう答えるのではないだろうか。
そうはいっても、はてブ的には馴れ合いコメントは確かに鬱陶しいだろうと思う。では、コメント欄を使えば解決する話ではないのか、とも。
そう考える人はもちろんブログを書いている側にもいて、読者に向けて「ブクマでなくコメントで交流しませんか」という提案をするブロガーもいる。読者が何百人レベルになってくると、はてブ側に気を遣ってのことだと思われる。
Twitterとの連動など、利点はあるようだれど。言葉をかけたいだけなら、ブロガー本人が「互助会」と叩かれるリスクをとる必要もないのではないか。コメント欄をもっと気軽に使っても良いように思う。
もうひとつ。別にお互いに便宜を図っているわけでもないのに、「互助会」と呼ばれるのは何だかおかしい気がする。「交流会」「ひつじ会」とかのほうが実態を表しているのではないだろうか。(「ひよこ会」とかでもいい。何かかわいい名前がいい)
で、じゃあ「スター・ブクマ・フォローで利益を得ることを目的とした行為」はないのか!というと、うんざりするほどある。
C)のアフィリエイター系。これが本当にしつこい。見るからに書いていて楽しくなさそうな、NAVERまとめ的なブログからのリアクションがそこそこの頻度で来る。凄かったのは、同じ記事に2度3度つけてくる人。無言でそれをやられても、ただ気味が悪いだけで、何かを返したいとは思えないのだけれど。
相手の人格や思いを無視して、金銭のためにブクマをつけて何が楽しいのか、と。他人の顔が札束にしか見えていないような、うわべだけの文章を読みたいとは個人的には思わない。まして広告をクリックなんてしない。
これは自分に矛先が向くことを恐れているとか、好きな人を擁護したいとかでもなく、単純にクラスタの分類として。交流勢よりも、こういった「機械的な無言のリアクションによって、露出や返報を期待する」アフィリエイター勢のほうが、真に「互助会」と呼ばれるに相応しいのではと思うのだけど、どうだろうか。
ネット上で、文章で稼ぎたいのは勿論、悪いことではない。でも、個人的に読みたいのは、誰でも書ける情報のまとめとかではない。
アフィリエイトをやっている人であれば、どうしてそれを始めたかとか。情報収集はどうやってしているかとか。ライバルはいるかとか、作業するときにかけている音楽とか。その人にしか言えない言葉、面白い話。そういう文章が読んでみたい。
とはいえど。面白かったり為になる文章が無料で読みたい、というのもある意味、何というか難しい話だとは思う。
医学辞典なんて手元にないからネットでいいや、とか。先述のように、企業が宣伝のために作成しているページを利用する、とか。「ネット」と書いたけれど内訳は、キュレーションサイト・個人がアフィ目的で作ったサイト・質問投稿サイト・個人ブログのどれかが引っかかることが多いのではないだろうか。
それが確実な情報源でないことは、もちろん周知の事実である。それでも取り敢えず適当な情報がほしくて検索する人がいるから、それにあわせて少ない労力で情報を供給し、利益を得ようという流れが自然に出てくる。
「分かりやすく出所の確実な情報」ならば、上述のように、出版業界の商品に頼るのが却って近道ではないかと思うことが最近増えている。「集合知」は確かに無料だけれども、「文章」にクオリティを求めるならば、書籍を買うか図書館に行けばいい。紙が面倒ならデータの形で入手すればいい。
商業としての出版を信頼しているから、例えば某警察官やめたブログで暴露されていたように、CGMのふりをして売名する商業があるとしたら個人的には少し悲しい。プロとして作り上げたもの、プロモーションされたものに、正当な敬意を払いたい。
…ここまで書いてきて心配になったのだけれど、出版業界の回し者ではなく、ごく普通の読書好きのオタクが書いています。信じて欲しい、としか言えないけれども。
逆に言えば、ネットで、商業ではなく個人が発信するとき、それは受け取る側となんら変わらない、「普通の人」なわけで。文章を発信する側は全ての責任とリスクを負うべきで、受信側は何を言っても良い、ノーリスクハイリターンな立場である、とは自分には思えない。
ネットを使っている人であれば誰でも、ある程度の文章は書けると思う。たまには「発信側」になってみるのも、悪くはないんじゃないかと思ったりする。
同じ人間が一人としていないならば、誰にでも、「その人にしか書けない文章」があるはずで。私はそれが読みたい。
色々書いてきたけれども、これが正しい見方であるとは自分で思っていない。誤りや偏りの指摘も含めて、議論の一助になればと思う。
皆、プリウス増田と呼んでるが、この記事自体が他の所に載ってた文章のコピーだろ?
増田が見付けて、元のブログから文章を一部改訂してここに転載しただけ。
今時のCD録音について苦言を言ってる奴らがいるけど、他人がどんな手段で音楽を聞こうがそいつの勝手じゃね?
少なくともトヨタがその機能を使えると表明してるなら、ちゃんとサポートできなきゃ会社として無責任。
どこまで本当の話か分からんけど、この内容が全て事実なら会社として謝罪文を掲載しなきゃいけないレベル。
でも、そういうところをとぼける会社だから、今回みたいな問題になってるんだろ。
あと、CDコピーを違法だって騒いでる奴がいるけど、そういう馬鹿は著作権法を読み直した方がいいぞ。
レンタルCDのコピーは合法だって政府広報オンラインの著作権法ページにも書いてあるから。
通信機器を作ってる中の人が考察してるけど、ちゃんと本文を読まずに予測で適当な事を書いてるから、かえって読む人が混乱してる。
なんで売れない在宅女漫画家って定期的にこういうの書くんだろうな
PixivとかHPとかでちまちま二次創作小説を書いている者の視点からで良ければ。
わりと同意します。私の場合は自分の情熱や考察がテキストを生成させる感覚であり、誰かの期待に沿うために書いているわけではないので、まったくお付き合いのない方から「この方がいい(変更してほしいという意味で)」「これ嫌い(公開停止してほしいという意味で)」とか言われても「お門違いでは……」となります。ではなぜネットで公開するかというと、「趣味が合う」「考えが合う」人とマッチしたらいいなというささやかな期待と、自分が自分のために書いたものでも、誰かが面白く読んだら幸福が増えるんじゃないかな、と思うから。
・アニメとかの公式には「耳に痛い話も聞け」と言っておいて、自分の作品には「二次創作で同人で趣味だし読み手と書き手は元々の意味で対等なんだからネガティブ反応出さないで!」というのはちゃんちゃらおかしい
ここは疑問です。アニメなどの制作側と視聴者(消費者)と、同人作品の作り手と受け手では、結んでいる関係の形が違うと思っているので。オリジナルの同人作品が商業化していく例があるように、きっちりとした境界は引けなくて、グラデーション的につながっているとは思うけど、動いている金額の規模や関わっている人数などの差は大きいと思います。組織対個人と、個人対個人という点も作用するかと。
いていいんじゃないでしょうか。読んでくれる方がいたことは慰めになりました(私の場合、読んでくださった方は常に過去に存在します。未来にはいません)。私にとってはあくまで慰めですけど、どなたかにとっては未来に対する大きな勢いを与えて下さる存在でもあると思います。
作品を受け取った時に、こちらが意図したものをくみとって、それに対して建設的かつ友好的なコミュニケーションで応じてくれる方が理想ですね。読み専の方の好意や称賛ももちろん嬉しいんですが、「そういう考えならこういう場面設定はどう?」などのアイデアや、こちらの想像に対するさらに深いイメージを寄せてくれたり、自分なりに組み立てた工夫に「これって仕組んだ?」と技術面での反応もしてくれたのはやはり同じく作り手側の人ばかりでした。
ネガティブな感想だとか作り手の未熟が生んでしまう疑問だとか、そういう内容はある意味どうでもよくて、「唐突に、一方的に暗闇から飛んでくるコミュニケーションの質が友好的か、攻撃的か」ということのほうが個人的には大きい要素だと思います。ネット経由の感想ってマジで暗黒から出し抜けに飛んでくる感じなので、攻撃的な質のものだとめちゃくちゃダメージが大きいんですよね…… そちらはこちらのことを知ってるかもしれませんが、こちらはあなたのことはまったく知らないのですよ!
ほとんどの同人コンテンツは個人対個人の規模だと思うので、単純に「(初対面の)人間として」対等に、ていねいかつ友好的なコミュニケーションで向き合ってくださいますと助かります。
なお、個人的には下品な口調もノーサンキューです(これはちょっと厳しい基準だと思います)。初コンタクトで大草原を生やしてコメントしてきてくださった方がいまして、内容自体は嬉しかったんですが、その口調はちょっと、初対面の方としては受け付けない……となり、ためらっているうちにコメ返しのタイミングを逃しちゃいました。