はてなキーワード: 講談社とは
人類の好みは多様で素晴らしいなぁという話。
学生時代の友人が出版社で働きたい、やれ講談社だ、小学館だ、と言っていて、いままで自分の人生で出版社で働きたいなぁと思ったことがないのに、人気あるんだなぁと思った。
ほかにも、JRや航空会社などの運輸系。人気あるけど、みんなすごいなぁとみてた。
よくわからないのが商社。世界を股にかけるといって飛び回ってるけど、実際何してるのかよくわからない。
そういうところで働きたいって思えるってすごいなぁ、みんな物知りだなぁって思ってた。
もちろんこれらの会社が自分の生活のインフラだったり、物流だったりを支えてるのは頭でわかるけど、接点ないからそこで働きたいって自分には思えなかったんだよね。
結局、自分はプログラミングくらいしかできることがなかったので、今はIT系にいる。
Googleにしろ、Microsoftにしろ、Amazonにしろ、楽天にしろ、メルカリにしろ、
どういうサービスを提供してて、ソフトウェアエンジニアとして何をすべきで、どう解決することで、
社会に貢献するのか(もちろん、お賃金を頂くのか)が自分には想像しやすかった。
自分とは別の思考回路で、そこで働く姿が想像でき、どうやって社会とつながりつつ、自分の生計を立てていくのかが見えてるという意味で、
100票もらえるどころか議員をくじで選ぶ国がある
不法残留か 複数の外国人逃走|NHK 岩手県のニュース https://www3.nhk.or.jp/lnews/morioka/20190718/6040004711.html
”18日午後、岩手県宮古市のアパートで、警察官が巡回に訪れた際、ベトナム国籍とみられる5、6人の外国人が逃げ出しました。
警察では、部屋にいた28歳のベトナム人の男を不法残留の疑いで逮捕するとともに、逃走した人物も不法残留の疑いがあるとみて、行方を追っています。”
なんで不法在留が起こるか背景説明せずに、こういう報道するのはフェアじゃないと思うなぁ
参考:日本が「都合のいい外国人」を求め続けてきた30年を振り返る(荻上 チキ,山口 元一) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/63300
「安倍やめろ!」と野次を飛ばしたら強制排除。とても民主主義とは思えない。アベ政治の恐ろしさ! - Togetter
演説妨害って公選法違反だから、そりゃ排除されるんじゃねえの?と思ったら合ってた。/ソースなしでデマ吐いてるアベニクシーがいるので最高裁判例貼っておきますね。>https://togetter.com/li/1125783
tikuwa_oreのコメント 2019/07/16 21:27 https://b.hatena.ne.jp/entry/4671640350066770722/comment/tikuwa_ore
池田小事件・宅間守の女性蔑視と大量殺人を生んだ「男らしさ」の呪縛(森田 ゆり) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
女性犯罪者は増加傾向にあり、窃盗・覚せい剤・詐欺に関しては女性の方が比率が高い。それを理由に「犯罪者のプロファイルの唯一の特徴的な事は、それが女性だという事」と書けば炎上必死だろうに。アホか氏ね。
tikuwa_oreのコメント 2019/06/09 03:57 https://b.hatena.ne.jp/entry/4669861753363949218/comment/tikuwa_ore
コミックDAYS…月額960円。講談社系の漫画雑誌13誌。直近の数号分は読める。
マガジンWALKER…月額500円。角川系を中心に他社もふくめて漫画雑誌数十誌と一般誌多数。今号と前号のみ読める。
ジャンプ…月額900円。週刊少年ジャンプと月刊のジャンプGIGA。定期購読開始後のバックナンバーはいつでも読める。
ヤンジャン…月額1300円。週刊ヤングジャンプのみ。過去一年分のバックナンバーのみ読める。
集英社は早急に「集英社の漫画雑誌ぜんぶ読める+バックナンバーは前号まで」で月額1980円のサービスを作れ。
そして角川は講談社に頭を下げてコミックDAYSのアプリUIをマガジンWALKERでも使わせてもらえ。
いったいいつになったら集英社講談社小学館秋田書店角川で合同の漫画雑誌定額プラットフォームができるんだろうな。永遠に無理か。
『BLUE』(ブルー)は、千葉コズエによる日本の漫画。『Sho-Comi』(小学館)にて、2009年19号から[1]2011年19号まで掲載された。単行本は全8巻。
『BLUE』(ブルー)は、山本直樹による日本の短編漫画、および同作を収録した単行本のタイトル。作中の性描写が問題となり、東京都により不健全図書の指定を受け、版元回収となったことで話題になった。
『Blue Gender』(ブルージェンダー)は、1999年10月7日から2000年3月30日まで毎週木曜日25時50分から26時20分にTBSで放送されたテレビアニメ作品。月刊コミックドラゴンにおいて加崎善彦の作画で漫画連載もしていた。
『BLUE SEED』(ブルーシード)は、高田裕三の漫画作品、および1994年放映のテレビアニメ。1992年『コミックガンマ』に連載され、看板作品だった。
『Blue Heaven』(ブルーヘヴン)は、髙橋ツトムの漫画作品。『週刊ヤングジャンプ』(集英社)にて2002年から2003年に連載された。単行本全3巻発売。
『BLUE MOON』(ブルー・ムーン)(英一&英二シリーズ)は、森脇真末味による日本の漫画。読み切りシリーズとして、小学館『プチフラワー』に発表された。「緑茶夢」・「おんなのこ物語」と並ぶ作者の代表作の一つ。
『BLUE DRAGON ラルΩグラド』(ブルードラゴン ラル・グラド)は、『週刊少年ジャンプ』(集英社)2007年1号から2007年32号まで連載された原作・鷹野常雄、漫画・小畑健によるファンタジー漫画作品。単行本は全4巻が出版されている。
『BLUE DRAGON ST』(ブルードラゴン シークレットトリック)
2006年12月4日から2007年6月6日まで、『月刊少年ジャンプ』にて連載されていた。漫画は柴田亜美。Xbox 360版から4年後という設定であり、ゲーム版のキャラクターも登場する。ギャグが主。掲載誌休刊の際に連載終了。後に単行本化されている。
Vジャンプ2008年7月号から2009年6月号に連載。原作はアニメのシリーズ構成の大和屋暁、漫画は作画監督の大竹紀子。アニメ『天界の七竜』22話と23話の間に当たる物語。後に単行本化されている。
『BLUE DROP』(ブルー ドロップ)は、吉富昭仁の漫画『電撃コミックガオ!』にて連作読み切りとして連載された後、『チャンピオンRED』にて『BLUE DROP 〜天使の僕ら〜』が連載された。『BLUE DROP 〜天使達の戯曲〜』としてテレビアニメ化され、2007年10月から同年12月に放送された。
『BLUE ROSES 〜妖精と青い瞳の戦士たち〜』(ブルー ローゼス ようせいとあおいひとみのせんしたち)は、2010年9月16日に日本一ソフトウェアから発売されたPlayStation Portable用シミュレーションRPG。 漫画版は『電撃「マ)王』にて2010年11月号から2011年8月号まで連載。作画は中村煌。
『ブルーシティー』は、星野之宣による日本のSF漫画作品。星野の「出世作」とも呼ばれる[1]。『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて、1976年2号から同年21号まで連載された。全18話。
『ブルーホール』は、星野之宣によるSF漫画。1991年から1992年まで『ミスターマガジン』(講談社)に連載された。1992年から1993年にかけてKCDX(講談社)から全2巻が刊行され、その後も2度にわたり文庫化された。中国語・フランス語に翻訳されている。 続編にあたる『ブルー・ワールド』は、1995年から1998年まで『月刊アフタヌーン』(講談社)に連載された。1996年から1998年にかけてKCDXから全4巻が刊行され、2001年には文庫化もされた。
『ブルーフレンド』は、えばんふみによる日本の漫画作品。 少女漫画雑誌『りぼん』(集英社)にて連載された百合漫画であり、作者にとって4回目の連載作である。
『ブルーイッシュ』は梅田阿比による日本の漫画。『プリンセスGOLD』(秋田書店刊)2011年1月号から2012年3月号まで不定期連載された。単行本は秋田書店から全2巻。
『ブルートレイン』は、高橋はるまさによる日本の漫画。集英社の漫画雑誌で連載され、電子文庫化を経て、100円ショップダイソーで再文庫化されている。
『ぶるうピーター』は、小山田いくによる日本の漫画作品。1982年から1983年にかけて、秋田書店の『週刊少年チャンピオン』に掲載された。
『B.B.フィッシュ』(ブルーバタフライフィッシュ)は、きたがわ翔による日本の漫画。 1990年末から約3年にわたり、『週刊ヤングジャンプ』(集英社)に連載された。
原ちえこ
ヤマダ
ブルーゲイル 伊藤明弘版権物作品集 (大都社、単巻) - アニメ『戦闘メカ ザブングル』の後日譚(ラグを主人公にした作品)の他、『ARIEL』『勇者王ガオガイガー』の外伝・パロディを収録。
斉藤倫
川本コオ
柿崎普美
近未来の海上を舞台に、水素燃料プラントを狙う謎の軍隊と、国連軍空母部隊との、ステルス戦闘機同士の戦いを描いたSF作品。『サイバーコミックス』連載。休刊により未完。
obsidianswd こういう老人には一人で死ねとは言わないのですか。
obsidianswd 嫌ならやめろ。非正規の搾取の上に成り立っているくせに。
obsidianswd 自分たちがいじめた人間が反撃してきたら、大げさに被害者ぶるお前らってクズでしょ。
obsidianswd 一人で死ぬな。家庭内殺人で終わらせるな。社会に復讐しよう。今まで受けた屈辱と絶望を再分配するんだ。
obsidianswd 夜の仕事で大金稼げる女のどこが貧困なのか。男性の貧困のほうがはるかに過酷なのに、注目されるのはイージーモードの女ばかり。
obsidianswd 他人を踏みにじっておいて何もやり返されないと思っているのがおめでたい。
obsidianswd こんなものいくら書いても無駄。絶望しろ。自分たちを助けない社会に従う必要はない。復讐だ。
obsidianswd ことほどさように、男性の人権ばかりがないがしろにされている男性差別社会なのに、フェミはどうして見当違いのことを言っているのだろう。
obsidianswd 犯人をひきこもりにさせたのはこの社会だろ。ひきこもったから絶望したんじゃないんだよ。絶望したからひきこもったんだ。
obsidianswd 好きでそういう人間と付き合っているのだから自己責任。一人で死ね。
obsidianswd 女だから助けてもらえる。これが男性だったら「一人で死ね」。
女に対しては軽々「一人で死ね」と言う。
言葉の端々からそれが読み取れる。そして、それを煽るような書き方をしている。
とにかく自分より上手く行ってるのがウザいんだろうな。
こっわ。
なんかFGOのシナリオが『探偵映画』っぽいとか噂になっているようなのでついでに宣伝しようと思ったが、中古でも新書版しかないってどういうこと? 講談社文庫も文春文庫もあるはずなのに…まあせめてKindleでどうぞ。 https://t.co/jejAX1otKs @amazonJPさんから— あびこ (@sukiyapotes) May 17, 2019
「惑う鳴鳳荘の考察」と探偵映画が似ているという、我孫子武丸氏のこの指摘を読んで、私は訝しみました。
ですが、京大ミス研出身で、講談社からデビューして、麻耶雄嵩に受肉させられたような人間が、こんなベタな作品とネタを被らせるでしょうか?
そこで私は、思い出してしまったのです。
数年前、同じように探偵映画の盗作をして話題になった「ホタエナッ!!」という演劇のことを……
これは、伊福部崇さんが「ホタエナッ!!」を盗作として断罪されてしまったことのリベンジとして「惑う鳴鳳荘の考察」を書いた。
そう考えれば、すべてのパズルのピースが綺麗にハマるのです!!!!
なお、この理論により、辻村深月とかかずゆみが同一人物になりますが、どちらもドラえもんに関係しているのだから、同一人物に決まっています。
放送作家が何をする仕事かわからないけど、どちらも作家とついているのだから、違うはずがない。
なお、この理論により、森見登美彦とふかわげんきが同一人物になりますが、この二人はどちらも「よく可愛い女の子に囲まれてて羨ましい」という、逃れようのない事実としての共通項があるため、同一人物です。
下二桁目と下一桁目が同じ「3」である。
これは偽名を名乗るときに自分の名前から取ってしまうのと同じ現象。
なお、この理論で、似鳥鶏(38歳)と田村ゆかり(43歳)が同一人物になりますが、この場合どちらも「世界一可愛い」という共通点があるため、証明不要です、世界一は一人だけです。
どちらも関西にある変人があつまる大学なので、大阪芸大に入れる人間は京大にも入れるに決まっている。
なお、この理論により、梶井基次郎と庵野秀明が同一人物になりますが、偏食の庵野秀明と檸檬大好き梶井基次郎が同一人物のはずがありません。
奈良には鹿がいて、北海道には熊がいる、どちらも音が二文字で漢字が一文字と非常に似ている、おそらく同一の生き物の別の呼び方にちがいない。
同じ生き物が住んでいるのだから、これらは同じ場所に決まっている。
なお、この理論により、森見登美彦(奈良県出身)と田中理恵(北海道出身)が同一人物になりますが、二人とも配偶者が可愛いという疑いようのない真実が合致しているため、この理論を適応しなくてもよいです。
逆転裁判 時間旅行者の逆転は巧舟のモノマネで、ブルコンのテーマには神谷明や小野坂昌也などのモノマネをするパートがある、モノマネなんて聞いたことも見たいこともない芸を披露できるのは同一人物だから。
なお、この理論により、北村薫(女子大生のモノマネをしていた)と青木佑磨(鷲崎健のモノマネをしている)が同一人物になりますが、どちらも学生時代への強い憧れがあるという気持ちを抱えているので、同一人物なのは一目瞭然。
谷川ニコは作画と原作の二人組で人間は二人いると必ずセックスをするし、天使もえはセックスをするのが仕事なので、同一人物。
なお、この理論により、岡嶋二人とみくちゃんが同一人物になりますが、クラインの壺も素人図鑑File-07も同じ胡蝶の夢をテーマにした作品なので、この理論によらずとも、同一人物です。
青崎有吾は「青がつくミステリ作家のじゃないほう」で、天津向は「天津のじゃないほう」で、どちらもじゃないほうなので同一人物。
なお、青がつくミステリ作家こと青柳碧人と、天津こと木村卓寛は、多作の売れっ子作家と一発屋芸人なので同一人物ではありません。
「うゆーさん」だの「うゆうさん」だのなんて表現は、ライトノベル以外の何物でもない。
すべてのライトノベル作家はあかほりさとるなので、麻耶雄嵩も同様にあかほりさとるである。
松屋にも辛いものは置いてあるが、伊福部崇が満足するほど辛いものは置いていない。
好きな食べ物がまったく違うのに、二人を同一人物として扱うなんて狂っています。
なお、そもそも、別に「惑う鳴鳳荘の考察」は探偵映画のパクりではありません。
また、我孫子武丸と関智一は怪盗不思議紳士という作品などで交流があり、あの件は終わっています。
なので、もう良い加減に「探偵映画」という言葉を見かけるたびに「伊福部さんがパクったやつだ!!!」とテンションを上げて、このような駄文をしたためるのはやめたほうがいいのです。
以上です。
ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます。
この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料そのものを調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?
歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます。
これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学と哲学と社会学と人類学と歴史学と言語学とでは使う資料がぜんぜん違います。
で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います。近現代史を扱う人たちは、
を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います。
これらの史料の特色とは何か……それは、
ことです。
公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通の文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家の場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家の場合は)体制が崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代の領収書なんかをロシアの公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。
当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者は
などの手段で史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館は結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。
昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌のバックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線が必要な距離だったりパスポートと航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者の研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館でカメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近はスキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。
なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白な研究者であったとしても、一次史料の原本なんてふつうは手元にないわけですから。
しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分の論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?
もちろん分野によります。心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。
私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料をノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通の研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通のノートです。最近はノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。
なぜか? と言われれば、
です。
つまり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分の実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。
理系の学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分の実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しかし文系の場合は、少なくともここまで説明した近現代史の場合は、オリジナル資料はどこかの政府が管理している公文書館とかどこかの大学の図書館とかに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国のベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトルの史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。
なので、別にどんな方法でノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけだから。
ゆえに、歴史学の論文や著書には膨大な注がつけられます。引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。
なかには、史料が自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料で捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系の世界、基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料を典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島の方言を研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄りが自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋で歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料が研究者個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから今所属してる大学の図書館に寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……
さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文を調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会はドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。
しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料がそもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。
注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本の出版事情が絡んでいるのです。
今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系のあいだでも問題視されていることなのです。
文系の学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります。第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性とかに逐一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。
そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています。
あなたが読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店や青弓社や社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。
これらのレーベルで真面目な学術書を出版する人もいます。講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベルを一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的なタイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方を提唱したりする人もいます。学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます(最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。
さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます。「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」
こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。
もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストではてな太郎が書いた『増田の研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。
これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります。研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求に妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学か国会図書館に行くほかなく出版して書店で流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学がリポジトリを持っていていくらでもディジタルに研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米の出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードやケンブリッジやハーバードやコーネルといった有名どころのUniversity Pressは学術書を出版しまくってます。学術書が研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。
一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本の出版社やジャーナリスト、ノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードがトランプ大統領についてのルポルタージュを出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家や記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。
とはいえこれは一朝一夕にはいきません。そもそも知の折り詰めである「新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般と学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というものを鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックスや岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。
さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、
これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなたが捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料の実在を証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなたの研究の誠実性を証明できるのは、人文系の学問においては、注だけなのだ。
以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。
意外と反応があって嬉しい。いくつか返信を。
ダッシュエックス文庫は口絵で乳首券発行してたり、ノクターンノベルから文庫化したりしてるからそういう印象もわかる(でも9割はない)けど講談社ラノベ文庫が9割エロ……? エロいのが特別多い印象ないぞ。そりゃまあやりすぎた~とかあるけど。
Wikiにはいっぱいあるけどそれ網羅しないっていうことは主要じゃないって思ってるから(´・_・`)知らんけど https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ライトノベル系レーベル一覧
女性向けレーベルは読んでないのでよくわからない(女性向けはライトノベルじゃないとかいう史観ではないです)。
ブレイブ文庫とノベルゼロはまあ新興なのと月1冊の新刊もでないことあるので。
オーバラップ文庫:ほぼほぼなろう系のファンタジーと十文字青。たまにラブコメ。いぶそうとありふれが人気なイメージ。正直忘れてたくらいなのでよくわかんにゃい。
電撃文庫:最大手の体力を活かしたバラエティの豊かさが強み。最近青春ものはメディアワークス文庫に行きがちだけどそれでもそれなりの数はある。
ファンタジア文庫:王道を以て良しとする。挑戦作は少ない印象。逆に安心感はある。
MF文庫J:俺達が流行を作り上げると言わんばかりに変わり種を定期的にプッシュする。電撃は売れたのが流行とばかりに静観する感じだけど、MF文庫はレーベル側が積極的に動くイメージ。
角川スニーカー文庫:変化球変化球アンド変化球。変わり種のラブコメとエロとなろう系が強い。このすば文庫と呼ばれない程度には頑張ってる。
GA文庫:ファンタジア文庫と同じく王道が多めで挑戦作は少なめ。ただメディアミックスや宣伝は比べ物にならないくらいうまい。
ファミ通文庫:なろう系とノベライズ、たまに青春もの。昔は青春ものが強かったけど、いまや影くらいしか見えぬ。
ガガガ文庫:変化球と見せかけて直球勝負。たまに魔球も混ざるけど。どの作品も概ね青春ものの雰囲気に溢れている。
講談社ラノベ文庫:青春ものとバトルものが多め。ときおり挑戦してるなと思う作品も。規模の小さいGA文庫な印象。
ダッシュエックス文庫:なろう系なろう系アンドなろう系。入れるかどうか悩んだけど小学館と講談社があって集英社がないのもなんだし入れておく。
HJ文庫:割となろう系は少なめ。ファンタジーが多めだけどラブコメから戦記まで幅広い。それなりに売れれば長く続けてくれるので印象は割といい。
これとかひどくない?
#講談社ラノベ文庫 [試し読み]5月新刊4月30日(火)発売!
「やりすぎた魔神殲滅者の七大罪遊戯(ニューゲーム)2 最強究極(オメガ)の七大罪使いは不死なる吸血鬼を殺し滅ぼす」
著: 上栖綴人 イラスト:GoHandshttps://t.co/xro9VA6S9Vhttps://t.co/sLgcDPH67x
公式サイト:https://t.co/UNmwTHxSFu pic.twitter.com/GcfYKITEX3— 講談社ラノベ文庫 (@K_lanove_bunko) 2019年4月18日
こんなんどう見てもエロ本じゃん。
大手なのにこんなの出すとか終わってるわ。
タイトル通り、いまの出版界はマジでつらいという話をしたい。僕は数年前からある出版社で書籍の編集者として働いている。
出版社はかなりの高倍率で、「人気業界」だとされている。講談社や集英社などは、就活生の入りたい会社ランキング上位に来ていることもある。ただ、これほど「人気」なのに、「不景気」な業界もないだろうなと思う。
出版物の販売額は1996年をピークに年々減少を続け、ピークの半分以下にまで減っている。しかも、昔から本を読んでいる人ならわかると思うが、20年前と比べて書籍の定価は大分値上がりしている。にもかかわらず、販売額は半減しているのだから、「どれだけ本は売れなくなってるの…」という感じだ。
データからすでに悲惨さは伝わってくるが、現場で聞く話は「人の顔」が思い浮かぶ分よりつらい。どこどこが倒産したとか、誰々が転職して田舎に帰ったとか、「限界」を迎えて出版社から姿を消してしまう人がたくさんいる。こうした話を何度も見聞きすると、本当に出版界は限界なんだなと思う。
これからさらに業界の再編が進んでいくだろう。一部の体力のある出版社以外は「足切り」され、淘汰されていくかもしれない。最近はんこ業界が、印鑑廃止に対する国への補償を求めたことが話題になったが、そのニュースを見たとき、出版界だって数年後似たようなことをやらかすかもしれないと思ってしまった。
僕の今いる出版社は、そして僕自身はこれからこの世界で生き残っていけるんだろうか。忙しい毎日を過ごしながらも、その不安が頭の片隅にずっとこびりついている。
ネガティブなことをつらつら書き連ねてしまったが、僕は「この業界から逃げ出そう」とはどうしても思えない。企画を考えるのは楽しいし、著者への取材は刺激をもらえるし、一冊完成したときの達成感はものすごい。それが売れちゃったりしたら脳汁がドバドバ出る。
仕事は楽しいし、本は好きだし、できればずっと続けていたい。でも将来は心配。同じような思いを抱えている人はこの業界には、きっと大勢いるはず。つらくて、おもしろくなかったらこんな悩みを抱えることもなかったのに、なんとも罪深い仕事だなと思う。
4月に入って、街でリクルートスーツを着た就活生を見かけることも多くなってきた。もし、出版社を志望している人がいたら、こう伝えたい。
<承前>
https://anond.hatelabo.jp/20190216024920
そして2018年現在、百合ジャンルはその定義をやっと安定したものとして確立し、内部で属性の細分化が進行している。「少女小説」にルーツを持つ「正統派百合」や「セーラームーン」にルーツを持つ「戦闘美少女」もの、多数のメディアミックス作品からなる「アイドル」もの、「アイカツ!」や「プリパラ」の代表的な女児向けアニメ本編での百合的な描写など、ひとことに百合といっても多岐にわたる作風や絵柄、対象層の想定の下で日々多くの作品が創作されている。この流れを示唆するのが、2017年頃からみられるようになった細分化された特定の百合ジャンルの作品を掲載したアンソロジーの発刊である。例としては、おねロリ(お姉さん×少女のカップリングに限定したアンソロジー)、社会人百合(学生設定の多い中、ヒロイン二人の年齢を成人以降に限定したアンソロジー)、夢(一人称視点でストーリーが進行し、主人公としての読者とヒロインの恋愛が描かれるアンソロジー)などがある。また、少年誌で連載されていた百合マンガのアニメ化が続々と決定し、各書店で百合特設コーナーが作られるなど、確実にやおい/BLコンテンツと肩を並べられるまでの規模に成長しつつある。さらに、「ユリイカ」「ダ・ヴィンチ」といったオタク向けでない雑誌においても、「百合」が特集されて取り上げられることもあった。これらによって百合ジャンルは読者層をどんどん広げ、境界線の明確なものではなく、あらゆる作品にエッセンスとして取り入れられるように変化してきているといえる。
つまり、2000年初頭にみられた「百合」論争とファン同士の対立とは逆に、ジャンルの細分化によっていい方向に百合という概念が拡散してきているといえよう。女性と男性が議論を重ねながら平等に構成している百合ジャンルは、マンガジャンルの中でも特異な体質のものだ。しかし、やおい/BLジャンルに関する研究は数多くみられたが、百合/GL ジャンルに関する研究は現在ユリイカに掲載されたもののみである。今後、さらに百合ジャンルが広まっていくにあたり、読者分析や内容分析によってさらに細かい分析をするに値する分野だと考えられる。特に、マンガという表現形態だけに限らず、各時代を代表する百合作品を時代背景を踏まえ、ジェンダーやフェミニズムといった視点からのより詳細な分析の必要性を感じた。
<参考文献>
川崎賢子, 2014,「半壊のシンボル――吉屋信子と百合的欲望の共同体」『ユリイカ』12月号:42-49
上田麻由子,2014「内なる少女を救い出すこと――『シムーン』の孤独と連帯」『ユリイカ』12月号:190-198
藤本由香里「『百合』の来し方――『女同士の愛』をマンガはどう描いてきたか?」『ユリイカ』12月号:101-109
アライ=ヒロユキ, 2015,「オタ文化からサブカルへ――ナラティヴへ誘うキャラクター」繊研新聞社
山岸涼子, 1971,「白い部屋のふたり」集英社 『りぼんコミック』掲載
池田理代子, 1972-73,「ベルサイユのばら」集英社 『週刊マーガレット』掲載
池田理代子, 1974,「おにいさまへ…」集英社 『週刊マーガレット』掲載
武内直子, 1992-97,「美少女戦士セーラームーン」講談社 『なかよし』掲載
さいとうちほ, 1996-98,「少女革命ウテナ」小学館 『ちゃおフラワーコミックス』掲載
介錯, 2004-05,「神無月の巫女」角川書店 『月間少年エース』掲載
サンライズ・佐藤健悦, 2004-05,「舞-HIME-」秋田書店 『週刊少年チャンピオン』掲載
なもり, 2008-「ゆるゆり」一迅社 『コミック百合姫S』・『コミック百合姫』掲載
えばんふみ, 2010-2011,「ブルーフレンド」集英社 『りぼん』掲載
白沢まりも, 2011,「野ばらの森の乙女たち」講談社 『なかよし』掲載
<アンソロジー>
2018,「あの娘と目が合うたび私は 社会人百合アンソロジー」KADOKAWA
2018,「百合+カノジョ」ふゅーじょんぷろだくと
<雑誌>
2007-2011,「コミック百合姫Wildrose」一迅社
<テレビアニメ>
2011,「魔法少女まどか☆マギカ」
2012-2016,「アイカツ!」 サンライズ、バンダイナムコピクチャーズ
2014-2017,「プリパラ」タカラトミーアーツ、シンソフィア
<あとがき>
これを書いたときはやが君アニメ化前だったので取り上げなかったな~と思うと感慨深い。あとファン考察が雑で本当に申し訳ございません。いつかしっかりやろうと思います。