はてなキーワード: 必然性とは
二ノ国の方は映画を見たわけではないのでキレてる人がどのあたりにキレてるのか感想を見た結果の判断にはなるけど
面白い、つまらないはおいといて腹を立ててる、怒ってる人の話ね
ユア・ストーリーはキレてる人はおおむねラスト10分にキレてるし、二ノ国でキレてる人は障害者(車椅子)の人の扱いとそれに付随したもろもろあたりが大きな怒りポイントなんだと思う
そもそも顧客が本当に必要だったものではないってところでキレる人を増やしてる。客が何が見たいかを考えずにギミックだけ仕込むのがもうその時点で雑
ドラクエVの映画を見に行ったらそうではない何かを見せられた、って時点で楽しい楽しくないとかじゃなくてもう裏切られた感があるのよ
今日の晩御飯はカレーね!って言われて楽しみにしてたらハヤシライスが出てきたらさ、そのハヤシライスがおいしいかおいしくないかじゃなくて「カレーだって言ったじゃん!」ってなるじゃん
うまけりゃいいとかそういう話じゃないんですよ。今カレーの口なの。あんたがカレーの口にしたの。ハヤシライス出すならそう言えよ。百歩譲って驚かせたいならごちそうってぼかせばよかったんだよ
まあ広告詐欺な面については監督だけの問題じゃないからそこは百歩譲るとしてもまだ雑が残ってるんだよね
ラスト10分までの伏線ってか必然性がないんだよね。確かに主人公がやけにヘタレだったり唐突な現代用語?とかあったりはしたけど、それがあるから何?
そうじゃなくて「なんでラスボスがどっかの天才ハカー()が作ったウイルス」である必要があったわけ?
うんうん、ラストで主人公にゲームを肯定させたかったのね、ふーん。
でもさ、感情移入もできない自分とはかけ離れたチャラいどっかのニーサンに「ゲームは素晴らしいんだぞぅ!」って言われても心にひびかないの。おわかりですかね
そういうのはちゃんと感情移入できてまともなヒーローが言うから心に響くんであってやることやってないヘタレに言われても薄っぺらいっていうか
そもそも別にそんなクソみたいな奴らに囲まれて育ったわけでもない普通の若者からするとずれた肯定されたってはぁ?ってなるだけなんだよなあ
「そうだそうだ!」って気持ちになるためのキャラの作りこみができてない。感情移入できない、記号みたいな主人公になっちゃってんの
CGばっかり綺麗でキャラの作りこみがほんとできてない、そういう雑さがラストで突き放されっぱなしになって怒る人が増えた原因じゃないっすかね
要はメインキャラに障害を与えておきながらそこの意味がないってことみたいなんだよね
別に車椅子の少年じゃなくても話が成立するよね?コンプレックス作るなら典型的なスポーツ型と頭脳型にしておけばよかっただけで、運動音痴にすりゃいいだけで、障害とか天涯孤独の意味ある?っていう
しかもそんな障害を抱えた少年が序盤で辛い思いをしつつ、最後はそういうの全部なくなって健康体になれる二ノ国に残りました、現実からはさよならだ!ってことらしく
さらに二ノ国と現実世界の一ノ国とを行き来するには自殺、というか命の危機に陥る必要があると
子供向けの映画に「死んだら(死ぬような思いをしたら)二ノ国に行って障害がなくなるよ!幸せになれるよ!」って意味を持たせてしまったと
心の機微がまだ理解できない小さな子供が障害者に向かって無邪気に「死ねば(二ノ国に行って)幸せになれるかもよ!」と言わせてしまう可能性を作ったと
それに対して考えすぎだろと思うかそりゃヤバイと思うかは人それぞれかもしれないけどさ
実際主人公に対して羨ましいわーみたいな感想言ってる人もいたらしいし(伝聞だから確定じゃないけど)
そういうの最初から変な障害つけずに普通の体動かすの苦手なモヤシ少年にしときゃそんな批判は生まれなかったとか
あっちとこっちを行き来する方法を死にかけることにしなきゃそんな批判は生まれなかったとか
そういうほんの些細な配慮で誰もが幸せになれたのにそれをしてないんだからそりゃ雑と言わざるを得ない
車椅子の少年である意味があったのならまだ表現として議論の余地があっただろうけどみた人が「いや、車椅子じゃなくていいわこれ」って言ってるんだよね
あるいは単なる端役だったらそこまで言われなかったかもしれないけどこれ主人公なんだよ
メインのキャラのはずなのに抱えた障害に対して特に向き合ってなくてただ損だけして投げっぱなしジャーマンされてしかも最後は「異世界行きゃ幸せになれるよ」て
監督自身が元から雑だっていうのもあるかもしれないけど、ユア・ストーリーはアルキメデスの対戦と平行で作ったりとか、二ノ国は脚本を一度最初から書き直したとか
そうやってカッツカツにするから細かいところが雑になるんじゃないのかって感じはする
キレられポイントって別に内容に影響を与えずに修正できる部分もあるはずで
それを私はあるアニメに学んだ。
アドベンチャータイムという、世界中で愛されている冒険や友情、愛情を通して道徳を学ぶアニメだ。
鮮やかな絵と優しいストーリー、さらには仕掛けられていた世界観。成長する主人公。
その繊細で緻密なストーリーが話題を呼び、ファンを生み、大ヒットした。
けものフレンズが流行った時に、誰かが言った。これは日本版アドベンチャータイムではないかと。そんな感じだ。
主人公(♂・人間)には想い人がいた。1話から登場しているお姫様だ。
明らかに主人公が好いていて、ヒロインもそれを受け止めているように見えた。
しかし途中でヒロインに主人公がフラれてしまう。落ち込んだ主人公は別の女に走ったりもしたが、やはり振られる。
そして主人公はまたヒロインにアタックをするも…進展はしない。
しかし誰が何を言おうと彼女はヒロインだ。ジェイクがヒロインとかうるせぇ黙ってろ。
そんなこと言っても主人公とヒロインがくっつくだろうと思っていた。
その間にある女性キャラの人気があがった。その女性キャラは、ヒロインと友人だった。
二人の人気は高かった。ファンによってコンビでのイラストもたくさん描かれたし、アニメ制作スタッフたちも気に入っていた。
詳細は省くが、ヒロインは主人公ではなくその女性キャラとくっついた。
詳細を省いたために唐突に見られるかもしれないが、伏線ははっきりあった。しかしまさか。まさかといった感じは否めない。
でもそれでいいと視聴後強く思った。これでよかった。これでよかったのだと。有無を言わせない必然性がそこにはあった。
そこで一つの提案なのだが、Wヒロイン同士を、くっつけてみるのも結末の一つだと思う。
荒れるか荒れないかと言えば、荒れるかもしれない。しかしそこまでの経緯を描けば普通の「主人公が片方を選びました」よりも強い説得力を生むと思う。
主人公が選択するのはもう時代の波に乗っていないのだ。ヒロインに、選ばせよう。
天気の子を見た。2回見た。
結論から言うと、ガッカリした。面白くなかった。つまらなかった。
冒頭のバニラから始まり、チキンラーメン、CCレモン、プレモル、カップヌードルetc…
挙げればキリがないが特定企業の商品の描写がまー詳しい詳しい。
穂高は女の子の部屋に行くのに何故かチキラーとポテチを手土産に持っていくし(いくら高校生でも普通ケーキとかじゃない?)、陽菜がそれを使ってアレンジ料理作るところでは思わず苦笑いしてしまった。YouTuberかよ。
乾杯のシーンではこれみよがしにスクリーンに大写しされたほろよいとCCレモンとプレモル!
カップヌードルは2分が美味しいだとかキャラに言わせるのは興醒めだった。
公開前のタイアップCMが俗っぽくて心配だったが、本編はそれに相応しいCM映画だった。
2. 本田翼いる?
ネットでは本田翼の演技が酷いとか言われてたけど、自分はあまり違和感を感じなかった。アニメ映画の芸能人声優ってこんなもんでしょ、という感想。
そのくせやたら出番がある。
もっと「子供と大人の中間」みたいな役割を強調してもよかったし、お色気枠ならもっと性愛的に穂高を導く役割でもよかったと思う。
特に穂高のことなんだけど、あまりに身勝手すぎて感情移入できなかった。
家出の理由が不明なところとか、ご都合的に拳銃を拾うのとかは別にいい。
思春期の閉塞感から逃げ出したのは分かるし手に余る力を手に入れるのはなんとなく陽菜と対になってる。
でも陽菜にサイテーって言われて捨てた拳銃をまた拾ってぶっぱなすのはどうよ?
後で追記する
今話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。
クソ長い。
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最初に断っておくと、今話題になっている「表現の不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。
と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現の不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情で説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃんと理由もある。
他の人は知らないが、個人的には「表現の不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄のデスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ。
話が変わるが我々ボランティアが研修で何をやっているかと言うと、作品の知識を蓄えるのではなく、自身の感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義は微妙に違うのだが)と呼ばれているものを実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て
「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局を予兆しているのでは?」
などとそれぞれの感性や経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスでオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。
だがそういった観点から見ると、「表現の不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現の不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味「企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。
そんなわけで「表現の不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレの第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。
さて「表現の不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦と昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的にインパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。
「表現の不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像」なのだ。
ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されたとき、メディアはこぞって大使館と慰安婦像が一緒に映った映像を放送したと思うが、あの報道に対して「不快だから映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合も制作サイドの意図は別にあるのだが)。
今回の展示ではそこのコンテクストがおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報で事態が拡大してしまった感がある。
また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的なコンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。
そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。
しかし、詳細については諸説あるが、そういうものが存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国の見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。
負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑やモニュメントがある、ドイツやカンボジアには国内の虐殺を記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。
場所によって反応も変わる、オバマは広島の原爆資料館に行ったが、アメリカでスミソニアンがエノラ・ゲイ展示をやろうとしたときは退役軍人たちから大バッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史の意味に影響を与え得るのか、得ないのか。
そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性と日本人女性が慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。
話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかったかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ。
勿論コンテクストには政治性だって含まれる。慰安婦像が純粋に歴史的なモニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あんな一触即発なもの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。
ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディアの報道を見ていると日韓で政治的な同意が得られれば慰安婦像は撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋なプロパガンダだったって言っているようなものだからやめろ。
像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である。
批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。
それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。
アメリカでコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺や奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。
個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場のモニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。
つまり慰安婦像を撤去したいのなら何らかの方法で歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。
トリエンナーレ運営が「表現の不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家に許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督や大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。
第一に展示施設自体の問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現の不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本は災害が多いだけあって美術館や博物館といった文化施設の安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策、防火設備、さらには盗難や破壊防止のための監視員や監視カメラが多くの施設で導入されている。
しかしテロや大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外の博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。
第二に運営側の問題。最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。
確かに税金から拠出の予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティストを100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度はルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。
よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。
これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。
最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。
運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営と作家が一体となって特定のテーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいうぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。
「表現の不自由展・その後」だって別に運営が企画した訳ではなく、かつて行われた「表現の不自由展」を招待しただけだ。
展示施設の職員に至ってはそれを公務員の業務として受け入れているだけである。
よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ、施設や関連団体のスタッフ、さらに作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNSで関係者に絡んで「トリエンナーレの見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。
そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。
それらを踏まえてトリエンナーレ運営の対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。
先述の通り、施設や組織の問題でテロや脅迫に対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現の不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。
しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体・個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手の総本山とかか?結構な大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。
暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。
最初に特定されたら困るから匿名で意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体がおかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。
また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。
抗議の電話でまず事務局の回線がパンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員が罵声を浴びせられる、しかも公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂「電突」と呼ばれるものだ。
ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。
確かに組織には説明責任がある、取材と報道の自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手が不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。
誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。
表現の自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。
話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいかに物理的な暴力を伴わず決められたルールの範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明の指標なのだと思う。
抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアートを作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名やデモでも良い。そして表現の自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪、侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権、著作権…憲法に定められた公共の福祉の概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。
pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分の解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人の意見だから忘れてくれ。
じゃあこの場合どうしたらいいのか。
少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現の自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。
何故ならあくまでコンビニは民間の営利団体だからだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本を撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。
抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。
コンビニで18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性はネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界が Permalink | 記事への反応(15) | 22:16
・まずゲーム中にキャラの尻を注意して見ることはない。これは増田が女キャラの尻ばっか見てゲームしている自白でしかない。
・女キャラ用のファッションの方が充実していることは多いが、じゃあ増田のクローゼットにはリアルに女並みにたくさんの服が入っているのか?そんなにオシャレさんなら理解は示せる。
・女キャラでしかできない遊び方をすると決めてるなら仕方ないので理解を示せる。今度はキャラ選択じゃなくてその遊び方がキモいと思うけど。
・他の男プレイヤーの心を掴むためにゲームやってるおっさんはガチゲイでキモい。
・ランダムで決める必然性のない要素なので理解できない。キャラでストーリーが変わるなら理解できる。
・バージョンで男女分ける必然性がないので理解できない。キモい。
・要するにキモい。
よし、これでどうだ?
監督のやりたい事とうまくマッチさせるにはどうしたらいいのかずっと妄想してる。
やりたいこと自体は悪くないんだけど、見せ方がすごい陳腐なだけだったと思うんだよな。
唐突に出てきたウイルスにテクスチャはがされた後でビアンカとアルスをどう見たらいいんだよって感じで。
で、考えた。
・PRでもなんでも、事前に「ドラクエ5(の映画)」と一切言わないことで「あれ?なんかおかしくね?」と身構えさせる。
・あんな共感できないアニメの一般プレーヤーじゃなくて、「ここまでのぼうけんをきろくしますか?」とインタールードさせ
・ラスボスはウイルスじゃなくて開発者などで、出てくる必然性を物語に乗せる。
(逆に、ゲームに夢中になりすぎない処置の保護プログラムとか)
佐藤健には一回現実に戻らせた上で葛藤させて、「それでもいいんだよ、俺の人生はここなんだよ」と倒させる。
・上のを描くためにちゃんと尺を取る。
内容にかんするきちんとした反論であったので、言及する必要を感じた。
ちなみに意見としてはこの三行が要旨であろう。
> 奈須作品は主人公の生き様を見てヒロインが主人公に惚れるケースの方が圧倒的に多い。
> そこを、分かり易い恋愛スイッチでキモ男にコロリと落ちるチョロインと勘違いしないように。
> 増田に女性の主体性って視点がない。何かしてもらったからじゃなくて、何かしているのを見て恋をするんだよ。
おそらくだが、ほぼほぼこれは衛宮士郎、岸波白野、藤丸立香を指して言っているのだろうと思う。こいつらの特徴は、生き方や人生に対する向き合い方=人格的な部分を評価されているエピソードが多いところである。これはwikipedia見るだけでも一目瞭然である。だが、その上であえて言おう。それは間違っている。なぜならば
その証拠に、型月の主人公はただのむっつりスケベである。彼らは純朴・朴念仁・お人好しという格好を装っているだけで、実はメチャクチャむっつりである。これはFate/Extra、Extellaのストーリーを追っかけていればわかる。こいつら、実はかなりヒロインに対してセクハラしてる。ただ同じくらいヒロインたちが主人公に対してセクハラをする。ただ、重要なのはセクハラがどうとか主人公がむっつりである、とかそういうところではない。要するにここから那須きのこ氏の作風が透けて見えるのである。つまりキャラクターがシナリオに追従している、という作風である。
本当はこいつらメチャクチャむっつりのドスケベ野郎なのに、ストーリーやエピソード全体で語られる人格は「公明正大で忍耐強く、極端なまでに懐が広くて朴念仁でお人好し」なんだぜ?なんでこういうキャラ付けがなされるのかというと、これまた単純な話で、要するにこいつら性癖を隠すためにこういうキャラ付けがされているだけなのだ。で、特にこれが言いたいのだけれど、本当に主人公たちがマジで性癖があってエロくて人間的に駄目なやつなら全然問題ないのだ。それは単にキャラクターの人物像を掘り進めた結果としての個性になる。だが那須きのこの場合は違う。那須きのこは自分自身の性癖や変態性を隠すために主人公に「人格者」というキャラ付けをする。つまりキャラクターからストーリーを生んでいるわけではないのだ。こいつの性的嗜好を満たすストーリーのためにキャラクターを配置しているだけなのだ。これがキャラクターが描けていない所以だ。
したがって、“女性の恋への主体性という観点が抜けている”という指摘があったが、これも違うと言えよう。何度も言うが、Fateのヒロインは基本恋愛スイッチを押されているだけだ。主体性に似たものをエピソードの中でときたま見せるときもあるが、これをもってしてFateヒロインに恋に落ちる主体性があると考えるのは間違いだ。単にストーリーのつじつま合わせを狙っているだけに過ぎず、これを持って「きちんと好きになった理由がありますよ」とエクスキューズする逃げ道を作ってるだけにしか見えない。そしてそれを成立させるための男性のキャラクターを逆算で考えるため、追従的に男性キャラクターを没個性的なくせに妙に正義感を使命感あふれて包容力がある実はムッツリスケベな男性像ばかりにしてしまうのである。
この代表格は型月ヒロインの代表格:セイバーさんと衛宮士郎くんの関係である。
これは有名な話だと思うが、セイバーはもともと男で衛宮士郎が女という設定だったことを知っているだろうか。Fate/Prototypeで描かれている関係こそが、fate/Staynightのもともとの形だったのである。これがキャラデザ担当の意向とエロゲ売り前提事情から何故かセイバーを女にしてシナリオ改訂しなければならくなった、という逸話は有名だ。(没個性型主人公というのもエロゲによくある話なので、型月主人公の妙な没個性性の源流をここに求めることも可能だろうとは思う。が、私としては前述にも述べたようにきのこ氏の作品発表系列として「空の境界」の黒桐くんを源流と考察しているし、これは間違いないと思っている)
さてここで問いたいのだが、元英国騎士王が現代高校生の落ちこぼれ魔術師もどき男子のところに召喚されてきて恋に落ちる主体性ってなんだろう???
そんなもんあるわけねーだろ。初っ端からシナリオが無理筋じゃねえか。こんなもんまともなストーリーになるわけない。よくてギャグにしかならん。衛宮士郎の人格的な闇?英国騎士王セイバーさんの聖人君主たるがゆえの騎士王としての悩み?アホかそのどこに恋愛につながる要素があるんだよ。シナリオを読めば分かるけど、終始衛宮士郎はセイバーさんを女の子扱いするために謎の頑張りを続け、デートをして現代日本の遊楽街を引っ張り回したリ飯食わせてみたりいろいろデートイベントらしきものを作ってはいる作ってはいるが(ry あれこれシナリオの中で理由らしきものは語られてはいる、語られてはいるがどれもこれも取ってつけたようなよくわからんエピソードばかり。
結局このひとことで終わっちまう気がしてならん。だってエロゲですもん。でもこの言葉で終わらせてしまったら思考停止。言葉に出した時点でシナリオに対する分析する意味自体なくなっちまうパワーワード。でもある意味では結局この言葉に行き着く気がする。要するに、Fate自体最初からつじつま合わせのためにシナリオが存在してきたようなものだ。恋に落ちて人間性を取り戻す英国騎士王という文学をエロゲにするためには、きちんと主人公とセックスするために英国騎士王を女にして、彼女とデートする必要があったんだろううん。果たしてエロゲを描くために英国騎士王を出してくる意味があったのかどうかは置いても、だ。そう、Fate/StayNightはもともとエロゲだったのだ。だからしょうがないのだ。人間性を描けていなくても、女性の恋に落ちる主体性にいまいち説得力がなくても、主人公が単にライターの性癖を隠すためだけに没個性的で奇妙なくらいに人格者でありながら実は内面は単なるむっつりスケベでも、しょうがないのだ。
そんなわけねーだろ。エロゲならキャラクターを描けてなくてもいいのかよ。そんなわけあるか。そんなこと言ったら虚淵さんだってエロゲライターだぞ。しかも割とストーリー性も評価されてるタイプのエロゲライターなのである。なのにこの作品の完成度の違いは一体なんなのだ?というもっともな指摘を那須きのこ氏は逃れられない。元がエロゲだから、元々無理筋なシナリオだから、こじつけっぽいのはしょうがない?それは単なる言い訳だろう。
少々反論もあった衛宮士郎についても言及しておこう。すなわち衛宮士郎とは、やりたいシナリオのためにキャラクターの人間像に説得力のあるエピソードを加えていく奈須きのこ氏の作風の中でも顕著な失敗例、である。主人公が没個性的な理由かつ妙なヲタノリをするのは間違いなく主人公たちが奈須きのこ氏のアバターとしても機能しているからだと私は睨んでいる。それを踏まえて何度も言うが、基本的に奈須きのこ氏はむっつりスケベなので、むっつりスケベなエピソードを書くために女の子が存在している。そしてその女の子と対比させる形で男性キャラクターを反存在的に生み出している。つまり男の子は所詮反射的にいなきゃいけない存在だから生まれてくるキャタクターに過ぎない。そしてむっつりエピソードを成立させるためには女の子がそれなりに異常でなければならないが故に、その異常な女の子に好かれてかつ包容できる男は同様にまた異常でなければならない。つまりシナリオの必然性のためにキャラクターのすべてがつじつま合わせのプロフィールを持っているに過ぎず、衛宮士郎くんの場合は元英国騎士王でありながら実は女の子という異常性を持つセイバーというキャラクターが、魔術適正がありながらほぼ無力の男子高校生である士郎くんとの恋愛を成立させ、恋愛における主体性を持って最終的に結ばれるエンディングを迎えるためには衛宮士郎くんにもそれなりに異常であり傷がなければならない、というシナリオライター的バランス感覚から逆算して生み出されたつじつま合わせのキャラクタだからだ。
そろそろ言いたいことが分かってきてもいいんじゃないだろうか?厨二病という自意識過剰な男性像が自尊心を失わずに英国騎士女王のような格上の女性とデートを成立するために必要な自意識過剰さを支えるために異常性というプロフィールが用意されている。まさにシナリオ追従でキャタクターを配置していることで起こる典型的な弊害だ。
ちなみに青セイバー・アルトリア・ペンドラゴンの過去と元英国騎士王という過去がある女を落とすために主人公(男)もまた異常でなければならない、という等式は単に奈須きのこ氏の脳内にある思い込みであって、実際にはシナリオライターの技量次第でまったくそうではないと思うし、そもそも衛宮士郎くんが男子高校生である必要もまったくなかったと思うが(※例えば虚淵氏が描く衛宮切嗣氏とセイバーの関係の方がよっぽどドラマティックな恋愛シナリオが書けたのではないかと思うくらいだ)そこは突っ込んではいけないらしい。(※これは単に奈須きのこ氏が衛宮切嗣のような男性像を描けなかったからであり、これは彼のキャラクター像が描けないというシナリオライターとしての欠陥からくるものだ。これがいかに病理的であるかは全開語った通りなので割愛するし、この原因は彼のむっつりスケベからくるものだと私は主張してはばからない。そしてこれを乗り越えて、魅力的な男性キャラクター像をきちんと描けるようになることが、奈須きのこ氏の課題だと筆者は思う)
わりと上記のような指摘があったような記憶するので、一応代表的な脚本家をあげてみる
シナリオライターのタイプにはいろいろあるが、実力の高い作者がよく言うこととして「キャラクターが勝手に動いて言うことを聞いてくれないことがある」。これはキャラクターを掘り下げて書くことが得意なタイプによくある特徴で、稀代の脚本家でいえば特撮系の脚本家として有名な小林靖子氏などがそうだろう。氏は脚本を書いていて、シナリオがキャラクターにらしくない行為を強いている場合に、躊躇なくキャラクターにシナリオを追従させる。つまりシナリオをキャラクターに合わせて改変させてしまうのだ。これはキャラクターをシナリオの駒と考えるシナリオライティングとは真逆のアプローチだが、結果としてこれが人間像をきちんと描くことからシナリオ自体の評価につながる事が多い。
また同じようにキャラクターが持つ人間像から醸し出される雰囲気や空気感を出すことにかけては吉田玲子氏の名前を出さないわけにいかない。氏の名前を検索すればすぐにでも代表的な作品がいくらでも出てくるはずだ。この人も脚本賞を二度受賞している。このひとの名前を出すと、すぐにガルパンとかけいおんが出てくるのだが、私としては「デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム」とか最近の作品では「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」や「夜明け告げるルーの歌」などを上げたい。他にも「猫の恩返し」「若女将は小学生」キャラクターを描けている、とはこういう作品のことを言うのではなかろうか。特に氏の作品はシナリオの安定感が抜群で評価できる。バランスがよく、それでいて繊細で、何気ない日常の何気ない動作の中に登場人物の感情を表現する手腕には舌を巻く。
女性ばっかりなので、男性も上げておこう。他でもない筆者は虚淵さん大好きである。Fateの中で唯一好きといえるシナリオはFate//Zeroと豪語するくらい虚淵押しである。当然PsychoPassも押さえている。ちなみに筆者を女性と指摘する声もあったが、残念ながら私は男性である。「まどマギ」はもちろん「楽園追放」「沙耶の唄」も消化済である。氏のシナリオの面白いところは、なんだかんだ言って社会風刺を含めたメッセージ性をきちんとエンタメシナリオの中に押し込めることが出来ているところである。しかもこの辺を、いわゆる世間の「反戦」だとかいうご教育主義的で説教臭い作品ではなく、エンターテインメントという作品の中で行えているところがすばらしいと思う。あくまでこれはエンタメなのだ、という前提を忘れてしまえば、主義主張の強いプロパガンダのような作品になってしまう。こういう哲学ばかりするアニメーションではなく、きちんとエンタメをやっていながら、そのエンタメに深みを与える要素として社会風刺がきちんと出来ているところがとても良い。氏の脚本のハードボイルドな側面には魅了されるばかりだ。
若いときはPMSや生理前後の精神症状で月に半分くらいは不安定というのと、
受診したものの診断はおりなかったが、まちがいなくボーダーラインで酷い有様だった。
その原因は、生来の精神的な弱さにあるのだろうと思っていたが、どうももっといろいろな背景があるのではと気がつき始めた。
中年にさしかかったところで、女性ホルモンの分泌が減ってきて、
それとともに、すがすがしい気分でいられることも増えてきたのだ。
すごく晴れ晴れとした気分。
もともと、心は男だなあ……
とうすうす感じていたのだが、おばさんになって、心から納得したという次第。
当時は私は、自分が女性だということは好ましいとは思わなかったが、
Mちゃんは違った。
いつも男の子がはく半ズボン(当時はとても短い丈)だし、ベリーショート。
先日久しぶりに彼女と再会した。
中年期を目然に、彼女は彼女なりに、アイデンティティを模索していた。
「生まれて初めて、髪をのばしてるんだ」。
知り合っているような感じがある。
ああそうだ、
わたしはしぶしぶ、婚姻関係を結んだが、抵抗に次ぐ抵抗の末であり、いまでも破棄したいと思っているくらいだ。
夫とも当然、仲は悪い。
長男の夫は当然、家事はするものの自分の仕事だとは思っておらず、私の至らない点に説教するのが趣味。
「俺の方が何もかも上。だまってはいと言えば良い!」というとうてい理解できない思考で凝り固まっている。
と気がついた。
このアニメを半年くらい前に見始めて、一旦見るのを辞めて最近また見始めて最後まで見たのでメモしておく。書いておかないと見たこと忘れちゃうしね。
感想としては伊藤静の黒髪姫カットのお姉さんは目当てに最終回まで見ることができた。正直言うと2回くらい視聴を中断して、もういいかなと思っていたんだけれど、貴重な黒髪ロング伊藤静キャラから逃げてはいけない。しかし、ストーリーとしては納得感が足りないと感じた。櫻子さんの語りが大げさすぎたんじゃないかな。
基本的なストーリーの流れは櫻子さんが少年に事件の解決を依頼され、やれやれと櫻子さんが出向いていくと、専門である骨を通じて手掛かりを見つける。そして、「そうか、骨が繋がったぞ」という決め台詞とともに解説を始める。推理小説のいいところって、事件を解決していく過程のロジックを追っていくことじゃないのかな。それなのに、トリックのネタ晴らしで基本的になぜ櫻子さんがその結論に至ったのか必然性がわからなかった。
結果として、お姉さんと少年という素晴らしい布陣、日常の裏に隠された「骨」というものが暴かれることによって表現された非日常という素晴らしい材料を持っていた。だけれども、話がうまくまとまってないな。原作小説は読んでいないのでアニメ化の過程でこうなったのかわからないけど、もっとちりばめられた事件解決へのヒントを追っていけるようにしてくれればよかったのに。まあ、凡作かな。
レペゼンが炎上して乗っかった人たちも炎上してるのは自業自得だなとしか思わないけれど、落合とかいうあの人が表現の自由というワードを持ち出してきたから馬鹿馬鹿しくて匿名ダイアリーなんか書いてしまっている。
表現の自由を声高に叫ぶ人って自由と野放しをはき違えてないかと思うことが最近多い。犯罪行為みたいにわかりやすいものじゃないからなのかもしれないけど、表現の自由とやったらいけないことは別の話なのでああいう話題で表現の自由とか言い出すのはナンセンス以外の何物でもない。大体品性ってものはないのか、ないんだろうな。
カンディンスキーの著作で「表現には必然性がないといけないし、それがない表現は二流。表現の自由は表現の可能性を制限しないために必要だけど表現は良心に基づいて行われるべき」みたいなことが書いてあって全くその通りだなあと思って以来座右の銘です。カンディンスキーに詳しいわけではないのでうろ覚えだし造形上の問題の話かもしれないけど、あらゆる表現に通じるものだと思う。
法律で表現の内容を縛ることは絶対にやってはいけないが、社会が倫理観に欠ける表現を認めていいのかといったら良くないしそもそもそんな表現はされないほうが良いに決まっている。自由と好き勝手の違いもわからない奴が表現の自由とか言ってんじゃねえよ笑っちゃうから。
あれがなんで地上波でやらないかってくだらなくてつまらないからだ。ネットだから世の中に発信されてしまったけれど、本当なら発信される前に切り捨てられていたはずのものだ。
東京なんかに観光に行っても楽しくないよ。上海やニューヨーク、シンガポールと同じようにただ都市の生活があるだけだよ。
ショッピングやグルメに興味なければ行く意味ないよ。服なんか見ても買う気起きないし、混んでるだけで行ってもつまらないよ。
同上
というか、そういう公園なところ普段行かないじゃん。東京観光だからって無理していくことないよ。
ただの寺があるだけだよ。普段寺に興味がないのに無理して浅草行くこと無いよ
あそこ全体がショッピングモールみたいなところだよ。東京でしかやっていない企画展? 科学展? それ東京である必然性なくない?
それ東京である必然性なくない? ヨーロッパあたりの絵画を持ってきているだけだから、それならヨーロッパ行ったほうが良くない?
ショッピング興味ないのに無理していくことないよね。そもそも普段スーパーとかで乾物や魚買うのに無理して変なところで買う必要なくない?