はてなキーワード: 芸能人声優とは
ほかは素晴らしいのに演者の質だけが見劣りする作品ってなぜか「(演技以外の)全部が素晴らしいから名作」って評価が意外とある
ドラマでもなんでもそうだけど、本来俳優・声優の演技力って滅茶苦茶大事だし、何なら作品の根幹といってもいいくらいなんじゃない?
キャスティングの段階から重要だし、現場でも演技指導はする。そうしないと作品として成立しないなんてのは子供でも分かる
けれど、なぜか俳優や声優の演技がイモなのに、他がよいからという理由で謎の高評価ってのはちょっと納得がいかない
もちろん俳優が完璧である理由はないが、全く無知な視聴者からしても「こいつは素人だな」という人がキャスティングされているのに、そこをあえて無視するのはどうなの?
そんなの俳優の価値って低いの?棒読みとキャラクターを全無視しているのを許容してまで評価できるものなの?
芸能人声優が嫌われるのは、そこに重点がおかれていない、ってことでもあるんだよ?
作品全体が「俳優や声優なんて誰でもいいんじゃね?」っていう立ち位置なんだよ?ひどいと思うよ
もちろん、棒読みのド下手な人でも意味がある状況は存在する、と俺は思ってる
例えば本人出演とかね
コナン映画で実際のサッカー選手が本人役で出演したけど、それは本人だから意味があるし、酷い演技も笑ってやり過ごしてあげるのが吉だと思う
サッカーがテーマならやはり実在のサッカー選手が出た方が話題性もあるし、意外な一面が見れるからね(純粋なコナンファンには不評だが)
あるいは、映画の中で歌手が演技しているという場合も意味があると思うし、漫才の映画で実在の大物落語家を出演させるのもありだろう
ようは、その人がそこにいる理由が明確なら俺は許せる
けれど、無意味なキャスティングやその人を起用するために無理やり作ったキャラクターとかはいらないし、その人たちの棒演技で作品が台無しにされたら目も当てられない
天気の子を見た。2回見た。
結論から言うと、ガッカリした。面白くなかった。つまらなかった。
冒頭のバニラから始まり、チキンラーメン、CCレモン、プレモル、カップヌードルetc…
挙げればキリがないが特定企業の商品の描写がまー詳しい詳しい。
穂高は女の子の部屋に行くのに何故かチキラーとポテチを手土産に持っていくし(いくら高校生でも普通ケーキとかじゃない?)、陽菜がそれを使ってアレンジ料理作るところでは思わず苦笑いしてしまった。YouTuberかよ。
乾杯のシーンではこれみよがしにスクリーンに大写しされたほろよいとCCレモンとプレモル!
カップヌードルは2分が美味しいだとかキャラに言わせるのは興醒めだった。
公開前のタイアップCMが俗っぽくて心配だったが、本編はそれに相応しいCM映画だった。
2. 本田翼いる?
ネットでは本田翼の演技が酷いとか言われてたけど、自分はあまり違和感を感じなかった。アニメ映画の芸能人声優ってこんなもんでしょ、という感想。
そのくせやたら出番がある。
もっと「子供と大人の中間」みたいな役割を強調してもよかったし、お色気枠ならもっと性愛的に穂高を導く役割でもよかったと思う。
特に穂高のことなんだけど、あまりに身勝手すぎて感情移入できなかった。
家出の理由が不明なところとか、ご都合的に拳銃を拾うのとかは別にいい。
思春期の閉塞感から逃げ出したのは分かるし手に余る力を手に入れるのはなんとなく陽菜と対になってる。
でも陽菜にサイテーって言われて捨てた拳銃をまた拾ってぶっぱなすのはどうよ?
後で追記する
ネットのインタビュー記事でこういう内容の事を言っているのを見た。
衝撃的だった。コナンといえば、すでに国民的知名度があり、資金潤沢なアニメだから邦画最高峰と言えるレベルのド派手アクション演出ができる。ミステリ要素、わかりやすくてキャッチーなキャラクターのバランスも良いし、国民的な人気もある。
こんだけ材料揃ってるのに、ストーリーとか舞台設定とか、そういういわば映画らしい部分では客を惹きつけられないと思ってるんだ……ってめちゃくちゃショックだったんだよね。ドラゴンボールはつまらないからそれ自体は宣伝に使えない。男たちの戦いもアクションも独特の世界観もキャラクターの知名度も宣伝には使えない。芸能人声優を使おうみたいな。それくらいの衝撃……
未来のミライのストーリーを聞いた時、「絶対2人目が産まれたんだろ」と思った。
そのとおりだった。
つまり彼のアニメはプライベートフィルムであり、アニメエッセイなんだ。
彼は今や自分の外の世界に対して何らテーマや興味を持っていないから、
自分の身に起きた出来事を通してでしかアニメを、いや作品を作れないんだよ。
これは、まさに20年前に庵野秀明がエヴァでやっていたことだ。
ただテレビは他の人が書いた物語の中での仕事ではあるんだけど、
それに対して細田守は自分の物語を確固として持っていて、時に元の物語から逸脱すらしていた。
ハウルの動く城の監督に抜擢され、宮﨑駿の王国たるジブリでズタボロにされて
それまでの人間関係まで失ってしまって、彼は変わってしまった。
その後に手がけたワンピースの映画では、ジブリでズタボロになった自分をルフィに重ねて、陰鬱な映画を作った。
そしてその後時かけが評価され、彼は宮﨑駿の後継者を日テレから背負わされてしまった。
観客のために家族愛を説き、オタクのためにケモショタ大好きキャラを演じ、
金持ち共のために芸能人声優を起用し(おジャ魔女で原田知世を呼んだ慧眼はもう無い)、家族のために自分で脚本を書くようにまでなった。
自分の情念を失ってしまったから、日々の家族のことを淡々と題材にせざるを得なくなった。
彼は家では良い父親なのかもしれない。
少なくとも息子に作品の中で殺されてしまった宮﨑駿よりは良い父親なんだろう。
だが彼はだからこそ宮﨑駿に離れない。
下積み時代はアルバイトを掛け持ちしながら暮らしていたそうだ。
上京して最初に住んだのは築55年のアパートで、日当たりが悪く、虫が多かったらしい。
そこを引っ越してからも金欠状態が続き、よく電気、ガス、水道を止められたし、
ウォーターボーイズで一躍脚光を浴びてからも生活は楽にはならず、
朝ドラ『こころ』に出演するまでバイト生活を続けていたそうだ。
「先輩方を見ていると経験した者勝ちな気がするんです。この方はこんな経験をして
今があるんだなとか。それが存在感や余裕につながると思うんです」
「自分で触れて初めてものが見える。常に刺激を求めていますね」
これを見て、芸能人声優について考えてみた。
ハングリーな芸能人は、声優のオファーがあったときも、自分に向いているかどうかを
迷うことなどないのであろう。初めてのことなら、何でもとにかくやってみるのだ。
玉木氏は「嫌なことでも続けていれば、ふとした瞬間に楽しくなる」とも言っている。
洋画の芸能人吹替に文句を言うと「字幕で見ろよ」と言われがちだが、字幕だとセリフがどうしても圧縮されるのが嫌だし、原語話者同志では伝わる息遣いに込めたニュアンスが日本語しか話せないと理解できないことも多かろうと思うので吹替で見たいという考え方があり、この投稿もそういう吹替派が書いている。
さて、下手な芸能人声優を使うんじゃねーよ、という意見に対して、芸能人を使うのはそれで元来興味ないはずの客も寄せないといけないくらい儲かってないからで、だから批判するより粛々と映画見に行こう、友達も誘おう、叩くより映画を応援しよう、って話がある。
それはそれで一理あるような気がする。
でも現状の芸能人声優使ってる状態の映画にで収益上がったら、「やっぱこの方法が正解なんだな!」と思われてますます芸能人声優が増えるんじゃないだろうか?
理想で言えば、一時的には芸能人声優がさらに増えたとしても、もっと儲かり続ければ、芸能人で客寄せする必要もないなと映画会社の人が思うくらい儲かれば、変な吹替は減るという話である。
でもそれっていったいどれくらい先の話なんだろう?
っていうかそもそも、そこまでもうけが出るなんてのが現実的なのか? とても現実的には思えない。
かと言って映画会社も辛い経営状態なんだから叩いたって仕方がないのは分かる。見なくなったらもっと芸能人の知名度に頼るようになってしまうだろうことも。
じゃあ一体どうすればいいんだ?
まるで何の希望もない。
違う違う。宮崎駿が芸能人声優を使うようになったのは盟友・高畑勲の影響。
で、高畑勲がなぜ芸能人声優を使うようになったかというと、元々は高畑は声優でない声優がアテレコするのを嫌っていた。
が、ジブリ設立前、フリーのアニメ監督時代に請け負ったアニメ映画の仕事で、制作側の関係で予め声優陣がほぼすべて芸能人声優で固められていた。
本人は嫌がりつつも作ってみたらこれが驚くほどいい。
後にテレビ放送版も作ることになり監督を依頼された際に、条件として最低主演二人に関しては映画版と同じ声優を使うことを要求している。
この時に体験した化学反応が忘れられないんだろうね。
ちなみにそのアニメというのは「じゃりン子チエ」。そりゃテツの西川のりおの演技体験したらそういう考えに至っても仕方がない。