はてなキーワード: 動機付けとは
> プログラミングスクールで教えることはものづくりの楽しさだったりするのだが
> そういったモノは動機や動機付けにはなっても実際の能力を向上させることはない。
むしろ、ここを安易に就職できるだの稼げるだのしか教えてないから向上しないのだと思う。
そもそも作りたいものがなければ、プログラミングなんて向上しない。
アルゴリズムを勉強して知識だけ蓄えても使う機会がなければモチベなんて上がらないし。
まあ、プログラミングスクールごときが現場レベルのものを教えられてないことが問題なんだけどな。講師のレベルが総じて低い、それに尽きるだろう。
まず、プログラミングとは以下の2つの要素から成り立っていることが理解されていない。
ただ、これは勉強すれば得られる。得られないなら諦めるしか無い。
そして最悪得られなくてもプログラミングはできる。
プログラミングの大半はこっちだということが理解されていない。
数学的要素が生かされるのはプログラムの1割程度だが、残り9割は整理学的要素だ。
みたいなことをしっかり考えて実行できるかどうかという能力が求められる。
加えて
というようなことまで考えが及ぶかどうか、といったことが最終的にはプログラミングで求められる
プログラミングの文法やfor文、if文なんて教えてもしょうがない。
物事の繰り返し構造や条件分岐のタイミングを教えなければツールはあっても使うことはできない。
プログラミングスクールで教えることはものづくりの楽しさだったりするのだが
そういったモノは動機や動機付けにはなっても実際の能力を向上させることはない。
これは元増田さんへの返信というより、私の抱えている「腐女子」全般への偏見の告白なんだけど、「夢」への抵抗感は、自己評価の低さが鍵になっているんじゃないかな、と。もっと言えば心理的安全性に関する事柄にも思える。
すでにブコメでid:kemononekoさんがそれに類することを述べているので当該箇所を引用しておく。
私もこのブコメと同じような見解を抱いており、以下はそれに基づいて綴る。強い言い方をするなら「下衆の勘繰り」なので不快にさせかねないことをあらかじめ申し添えておく。
元増田さんは二次創作において主人公としてふるまうオリジナルキャラクターについて、
一見もっともな理由だ。しかし腐女子向けの二次創作ではしばしば公式には明示されていない、「特定のキャラクター同士の関係性」が描写される。厳密に言えば、これも完成された世界に介入する異物といえそうだ。もちろん「新しいキャラクター」と「新しい関係性」は別物だ。ここではむしろ、前者に強い抵抗感を示しつつ、後者は受容している点に注目するべきだろう。大仰に述べたが、新しいキャラクターは当然その人物自体が評価の対象になるが、新しい関係性の導入にはその恐れがない、ということだ。
と述べる。
これらはすべて、自分自身が評価の対象となることを避けようとする傾向の表れに見える。
であると述べる。その見解を否定したいわけではない。むしろ同意する。これはその背景にあるものについての見解、というより偏見の告白だ。
さらに続けると、「本題」は、元増田さんの友人の親子のエピソードであるという。これも自己評価や心理的安全性にかかわる事柄にみえる。小学生である子供が「オリジナルのセリフ」を考えることを拒否した理由は、
というものだった。もしこの子供の言葉を課題を避けるための言い訳ではなく真に心からのそれであると仮定し、その心情をやや大げさに解釈するなら、「すでに親友がなぐさめているにもかかわらずさして仲が良いわけでもないのにしゃしゃり出てわかったような口をきいて二人の間に入り込む」ことを恥じている、といえそうだ。これは「物語を外から見ている」のではなく、むしろ自分自身を「物語の中に置いている」視点だ。
では逆に、課題を避けるための言い訳としてみるとどうだろうか。これは親子間の心理的安全性が担保されておらず、「自分の考えたセリフが評価の対象になること」を恐れているように見える。親の望む答を用意できない、あるいは、自身の答えが親から評価されなかったとき、子は自尊心を傷つけられたと感じるだろう。そのリスクが不当に大きく感じられている、つまり心理的安全性が低い、とも、そのリスクを冒してでも答えようと決意する動機付けがなかったとも言えるだろう。
ここまで遠慮なくつらつらと書いてきたが、元増田には他者の心の中の在りようを断定できるほどの要素は含まれていないと思う。結局のところ、「腐女子には自信がないんだろう」という偏見の告白であり、私の心理を元増田さんやその友人の子供に投影したものだ。
最初にうちは雑談とかyoutuber的なノリで投げ銭程度で健全だった。
俺も谷間のある服とか色っぽい発言ができたら動機付けのために投げ銭する程度だったんだけど、運営側が途中から味を占めたのか個室チャットサービスも始めた。
○○ちゃんはサービスがいいとかXXは愛想だけで金払う価値ないとかがツイッターや掲示板で書かれるようになった。
メイドといったって結局風俗嬢なのは理解してたけどこんなにあからさまなのはちょっとひいた。
コロナ云々以前に汚い世界に通ってたんだなってことが可視化されたのと、かわいい素直な子たちだと思ってたのを裏切られた気持ちで悔しくて仕方ない。
COVID-19という嫌らしい感染症は、ワクチンを使った集団免疫に頼らないと抑え込むことは難しいようだ。関連する科学者たちは全力を挙げてワクチン開発に取り組んでいることだろう。「SARSやMERSですらまだ有効なワクチンがないのにそう簡単にできるわけがない」という悲観論もあるが、CRYSPR-Cas9などの遺伝子編集技術といった、当時は確立していなかったツールもあることだし、ワクチンの近い将来の開発・実用化には楽観的見通しを私は持っている。
SARSやMERSは抑え込みに概ね成功したこともあり、ワクチン開発にリソースをつぎ込み続ける動機付けにはならなかったと想像するが、現時点でCOVID-19ワクチン開発に多くのリソースを注ぎ込む動機があり、しかも実際そのリソースがあり、対象とする検体を最も保有するところはどこかというと、言うまでもなく中国である。ワクチン開発には人体への影響を調べるための多段階の試験が必要となるが、武漢で不足するインフラ労働者としてウィグル人を送り込んでいるという不確定情報もあり、中国なら彼らを使った人体実験もやりかねない。そもそもCRYSPR-Cas9を世界で初めて人体実験した国である。ワクチン開発加速のためのとんでもないリソースを持っているのである。
さて、COVID-19ワクチンを中国が世界に先駆けて開発・実用化するとどうなるか。その化学構造と製造方法を世界各国で特許取得すれば、中国で製造したワクチン(またはライセンス製造させたワクチン)を、中国の意向に逆らう国に使わせないようにすることは、法治主義に則る西側諸国で実施することは簡単だ。つまり、中国に逆らうとワクチンが使えないのだ。想像するだけで恐ろしい未来ではないか。
数日前、「オランダの科学者が世界で初めてCOVID-19の抗体を分離識別した」とのニュースが流れたが、なんだか白々しいと思わないか。武漢であれだけ多くの症例を経験した中国の科学者たちが、まだ抗体を見つけていないはずがない。発表が禁じられているだけだ。ワクチン開発も、二歩も三歩も進んでいるはずだが、中国にとっては軍事機密と同じ扱いなのだ。決して明るみに出ることはあるまい。
愚かな私は今朝になってようやくこのことに気づいたが、このことに気づいた世界の賢人たちは既にたくさんいることだろう。ビル・ゲイツがマイクロソフトを放り出して自身の財団業務に専念するのも、おそらくワクチン開発で中国に西側の特許を取らせないために違いない。
これは戦争だ。人類の未来のために、中国に支配される暗い未来から逃れるために、西側のワクチン開発の科学者たちには全力で頑張ってもらいたい。たとえワクチン開発では先を越されても、せめて特許だけは回避できるよう、一矢報いてほしい。
もしかして、人体実験で得られた知見では特許は認めないという条項があるのか?詳しい人がいたら教えてほしい。一条の光となるかも。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20191201/1575181566
俺はこの件について最近よく考える。
きっかけは増田なんかで「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」というようなことを言うと、激しい人格攻撃を受けることが数度あったことだ。
それはどう言うことなんだろう、と考えていて、全く別件の個人的かつ趣味的な勉強で、自己効力理論と動機付け研究の本を読んで、ある程度「こうではないだろうか」「こうとらえ直したほうが、自己の人生をやや豊かにできるのではないだろうか」という自分なりの捉え方をできたので言ってみる。
自己効力理論というのは、ある行為に当たる際に、「できるかもしれない」と漠然と思う感覚、「自己効力感」についての理論だ。
まずある行為が失敗におよんだとき、あらかじめ自己効力感が高い人と低い人では、「何に原因があったか」に対する捉え方が違いがちだという。
高い人は概ね「努力が足りなかった」「思慮が足りなかった」「状況が悪かった」など、「その時点の自己の選択」や「自分の外」に結果を求める。
対して、低い人は「自分に能力がなかった」「才能がなかった」と、「自分の本質」や「自己の内側」に結果を求めがちだ。
大きく違うのは、高い人の理解というのは、「自己が違う選択をしたり、違う状況なら結果は変わる」と考えていることで、低い人の理解は「自己が自己である限り簡単に結果は変わらない」と考えているということだ。
思わしくない結果に直面した時、自己の自尊心を守るために状況に働きかけることが「一時コントロール」、自己の捉え方を変えて受け入れるのが「二時コントロール」という。
「自己の内側」に結果を求め、「仕方ない」と自尊心を守るのは「二時コントロール」戦略といえる。
さて、動機付け研究においては、自分が状況に働きかけて、状況を変えうるというのは「有能感」とよばれ、この「有能感」に関連して、有能さがどのようなものかの信念に個人差があるとされている。
知能に関してある信念である「暗黙の知能観」での個人差が「固定理論」と「増大理論」と呼ばれるもので、「固定理論」が「知能や有能さというのは生まれつきのもので、一生を通じて大きく変わらない」という信念で、「増大理論」が「知能や有能さというのは個人の選択で変わりうる」というものだ。
「大人になって人間は大きくは成長しないし性格も変わらない」と何度も何度もいうような人は「固定理論」をかなり強固に信じていると言える。
これらを振り返って「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」と言ったら激しい攻撃を受けるというのはどういうことなのだろうと考える。
仮説はこうだ。
この言葉にカウンターの一撃を食らわせたい人は、いつかかけられるかもしれない、この言葉を自己への脅威だと感じている。
なぜ自尊心が傷つくのか、かつてうまく状況をコントロールできなかったからだ。
状況をコントロールできなかったのは、自分が努力できなかったという認識と記憶があるからだ。
ではなぜ努力できなかったのか。
この言葉に傷つく人は、「固定理論」を信じ、「自己効力感」も低い状態にあり、失敗した原因を「遥か昔から変わらない、これからも大きく変わらない自分が故に失敗した」と思っているからだ。
そこに「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」という奴が実際にあらわれる。
その言葉をかけてきた人は、自分の中にある「固定理論」に基づき、「努力がもともとできた人」「努力の才能を与えられた人」だ。
そして、「自分が勝ち取ったわけでもない与えられたギフトの結果で成功しているのに、それを無自覚で、ギフトを与えられてない自分に対して無理を強いてくる、そしていつか平気で自分の尊厳を踏みつけるだろう」「与えられたものであるお前にはその資格がない」「そんな不公平な言説がはびこる世は正義に反する」と考える。
ここで話を変えて、俺が「固定理論」と「増大理論」のどちらを信じているかというのをいうと、IQなんかは遺伝の性質が大きいことは知っている。
性格もある程度遺伝しやすく、性格の一つの「誠実性」というのは、「物事をコツコツやるのを好む性質」をさしていて、となると、ある程度「固定理論」も信じていると言える。
でも、行動を積み上げることで自己の知能や誠実性はもっと引き出せる、まだ自分の知らない自分はたくさんあると考えており、「増大理論」も信じていると言える。
でさあ、「努力」に対してどういう態度でのほうがいい気分でいられるかなんだけどさあ、「努力の才能」ってことをあんまり「間違いない世界観」として捉えるってさあ、まああると思うよ、そういうやついるもん。
でもね、それってもし状況が整わずに自分が努力できずに失敗した時に、「遥か昔から変わらない、これからも大きく変わらない努力できない自分が故に失敗した」「そんな自分だからこれから先も努力不足故に失敗する」ってことになるじゃん。
あんま気分よくなくない?それ?
それに「努力の才能」っていう「固定理論」をあまりに強固に信じてると、失敗も怖くなんのよ。
なんでかっていうとさ、失敗しちゃった時その失敗をどう捉えるかでさ、「自分の能力も性質も大きく変わらない」って思うと、「失敗は自分が失敗してしまうことを知った」「自分の無能が証明された」ってことになんのね。
そうすると、誰でも自尊心は守りたいからさ、やんなくなんのね、いろんなこと。
そうすると、自分の生活ってあんまり変わらない、外の状況が変わる以外で自分の人生変わんないってなるじゃん。
状況の力は強いけど、自分が動くことどんどん少なくなっていったら、変わる可能性減るじゃん。
そこは「増大理論」だと失敗しても「今日は失敗したな、失敗するやり方がわかったから成功にちょっと近づいたかもな」ってなるのよ。
別に「努力の才能」が実際あっても構わないけどさ、それはそれとして、「今日は結果が出なかったけど、まあ別の方法ならいけるかもな」って思ってさ、ちょっとの1日5分とかの努力ならしてみようぜ、ちょっとだけ明日の自分の生活がよくなるかもしれないじゃん。
失敗しても、そういう時もあるしさ、だいたい、隣の奴が努力の才能に恵まれてて、自分がそうじゃなかったとして、他人が努力で成功してもお前の人生が下がるわけじゃないじゃん、他人の成功なんかどうでもいいよ、お前はお前の人生だけちょっとよくすること考えればいいじゃん。
ってね、そう思うの。
だから、「努力の才能」って言葉、あんま使いすぎるの自分を追い詰めるんじゃないの?
って、思うよ、俺。
https://anond.hatelabo.jp/20190815122152
https://www.youtube.com/watch?v=VGsay2fmw50
語学学習を目的としたyoutuberは山ほどいるが、ときとして彼らは本音を語る。
一体なぜ、私たちは、自分の国以外の言葉を学ぼうとするんだろうと。
このyoutuberは、イタリア語との私というテーマで熱く語っているのだが、共感してやまない。
自分のことを思い出していた。
タイ駐在時代に、タイ語の日常会話があっという間に身についたのは
そして10年たち、今に至るまでタイ語を忘れずにいるのは、それが彼女との思い出の一部だからだ。
その国の言葉がわかることの喜びだ。
これは間違いない。
https://anond.hatelabo.jp/20191105010524 の記事を書いた増田です。
たくさんの方に読んでもらえて驚きました。ちょいと遅いですが追記です。
一度は途中投稿してしまい恥ずかしくて投稿を消そうと躍起になったのですが、編集方法を教えてくれた優しい人がいたので頑張って続きを書かねばという気持ちになれました。
恥ずかしがらずに最後まで書いてよかったです。
わりに笑わせるつもりで書いたのに泣いたとおっしゃる方がいたことに驚きました。
みんなゲーム大好きなんだな。
いくつか返信が必要そうなブコメがあったので追記させていただきます。
釣ってしまったならごめん。
主目的は(トップブコメにあるように)ゲームのナラティブ性について語りたかったんだ。
元増田に対して「ゲーム」がその後、業界にまで入ろうとした強い動機付けを起こさせてるんだぜっていう本文の補強のつもりだったんだけど、
入った会社はクーロンズゲートやコンシューマーとは関連の弱いところだったからそれを書くと主軸がぶれるし内容が個人的なものになりすぎると思ったんで省いてしまった。
そこからめくるめく是空(クーロンズゲートを作ったところ)のスタッフになった話でもかけたらよかったんだけど、
私が就活をする頃には当時のスタッフはみなゲーム開発から離れてしまっていた。
とはいえクーロンズゲートが発売して1~2年くらいはスタッフが公式サイトのチャットによくログインしていて、私とよく話をしてくれた。(古き良きインターネッツ)
当時のハンドルを書けば誰か私を覚えていてくれる人がいるんじゃないかと期待してしまうが、きっと覚えてもらえてないだろう。
■妄人増田
シテ…コロシテ……
■「○○が信じられない」みたいな人はわかる気がないので無駄
そうだろうか?
理解する気はないけど、ほんとに少しでも私を説得できるならしてみろよという気持ちを感じた。
みんなが楽しんでるものを理解できないつらさってあるとおもう。
■CSゲーマーがソシャゲのことを「ゲームじゃない」と思いがちな理由のひとつかもなと思った
そう思う人がいるなら残念だ。
プレイヤーがアクションを起こすことで微々たることでも自分だけの世界(もしくは思い入れというもの)が構築されるのであればそれはゲームだと個人的には思う。
でもあえて言うならソシャゲ黎明期のころ、ほとんどのソシャゲ会社がゲームが好きだからではなくお金が儲かるから参入した所が多かったのが残念に思う。
ゲームのゲの字も通過してきていない、それこそ時間の無駄と思ってるデザイナーが
なんとなく居場所を求めてたどり着いた先のソシャゲ会社で怒鳴り散らしているを見てきたけど、とても下に就きたいとは思わなかったな。
特に、内心ユーザーを馬鹿・金づるだと思ってる開発者の下にはね。
終わりの見えない泥沼化になっており本当に残念だ。
九龍城塞をはじめ、香港は歴史的にずっと領土争い自治権争いの先端にいる。気の毒だ。
香港はそこに住んでいる人たちのものだ。どうかなるべく怪我人が出ませんように……。
■兄です。
オトンの補聴器の金を出してくれ。
クーロンズゲートはアドベンチャーゲーム(公式)だよ
あと、やはりというかクーロンズゲートを知っている人がほんとに少なくて笑いました。
そうかぁ。残念。
もはやあれをプレイできる環境にいる人も少ないと思うので、プレイ実況を探してみてください。
本当は実際にやってほしいけどね。プレイすることでアレを「構築」してしまったメタ的な絶望感を知ってほしい。
おっとこれ以上はネタバレか。
お互いの気持ちを曇らせるために。
いろいろなものを捨てた。電話番号も写真ももらった手縫いのマフラーも。
ただ彼女のためにつくったSNSのアカウントだけは最後に残った。
開くまいと思いながら、数か月に一度、開いてしまう。
溢れるばかりのメッセージが目に飛び込む。
やがて彼女のメッセージの頻度は減っていった。そして返信もやめた。
あれから7年になる。
元気?
たったそれだけだ。恐らく彼女は、ときおりオンラインになっている俺をみつけては、
ひたすら返信を待ち、オフラインになって三日、一週間と経つのを眺めているんだろう。
俺が彼女にとって最後の男になってしまっているのだとすれば本当に切ないことだ。
しかし、俺にとってもまた、セックスが特別なものになってしまっていることにうすうす気が付いていた。
見つめ合い、肩を抱き合うだけで浮遊する感覚になった。
彼女と長い時間かけて重ねた唇、時には激しく駅弁スタイルでしたときの滑る汗、あの日々を上回るセックスはもう人生で経験することはできないだろう。
その通りだった。
村西が愛した黒木香は今、一体どこで何をしているんだろう。
NETFLIXの「全裸監督」で描かれた黒木香は、虚実交えているだろうが、
ものすごいリアリティがあった。黒木の母親役を演じた小雪の存在感も鳥肌ものだ。
・・せっかくしんみりとしたことを書こうと思っていたのに、だんだんズレてきた。
駅弁といえば。。
「全裸監督」は、今少しずつさまざなまレビューが出てきているが、
近年まれにみる傑作だ。
あの同世代を一歩遅れて歩んできた俺は、社会に出たときにはすでにバブルは崩壊していた。
学生の頃に、友人が苦労して入手した流出裏ビデオがどういう経緯で世に出ていたのか、ドラマでは虚実交えて克明に描いていた。
また、ビデ倫の仕掛け、ヤクザの関わり方を生々しく描いており、80年代のアダルトビデオの黎明期をここまでねちっこく映像化した作品は今まで存在しなかっただろう。
当時、やたらとモザイクが濃いものと薄消しのものがあって、なぜなのか、疑問にすら思わなかったが、「全裸監督」には、その答えが暗示されていた。
また、この作品で再現された、当時の歌舞伎町の舞台セットが素晴らしい。
とりわけ、村西率いる「サファイア映像」のスタッフ軍団が集うスタジオが興味深い。
スタジオの前に目に入ってくる、カレーの店タバサの看板。大量に麺類をつくっては、中華の回転円卓を囲んでスタッフ全員で豪快に食らうシーン。てんこ盛りのポテトサラダ。実にセンスがある。
昭和と平成のはざまの昭和63年暮れから昭和64年1月の冬の雰囲気。
当時、警視庁がわいせつ物の取り締まりを強化する流れに大きく動いていた。
日々の天皇の病状の深刻化が取り締まり強化の動機付けとして、象徴的に語られているのが技巧的だ。
彼は業界の大物を通じて、すでにヤクザとズブズブになっていたが、警察幹部からは、ガサ入れの方針が打ち出される。
一方、黒木香は、こうして業界の闇が描かれながらも、後方馬群でひっそりと控えている差し馬のような存在感で、ドラマ前半で静かに描かれていた。
横浜国大に在学していた彼女は、イタリア留学を夢見ながら、母親から抑圧された存在として、じわりじわりとエネルギーをためてゆく。
この見せ方も圧巻だ。村西とおるへの思いがあって、あのパフォーマンスが生まれた、というのは、このドラマの村西と黒木に対する解釈であって、本当のところはわからない。
しかし、村西と黒木の関係を物語るものとして、ものすごい説得力を感じた。セックスは一期一会といった村上の原点がここにあるんだろう。
ガチンコのセックスに対するこだわりは、売れるからという動機を覆い隠してしまうほどに、リアリズムへの情熱であふれている。
"通例では、多国籍企業が国境を越えて地球規模で経済活動を展開する行為や、自由貿易および市場主義経済を全地球上に拡大させる思想などを表す。" wikipediaに寄付金を!
これだけでは資本主義社会の拡大でしかなく、国民を無視しておりグローバリズムとは言えない
人の移動が自由化され、国家が再定義されて初めてグローバリズムは実現するのだ
さいていげんひつようなもの
食べ物、住むところ、着るもの、現物でも金でもいいから保障してね、主食がイモだけ?移住しよ
2 国は住む人が移動しやすいように努めましょう
移動には手間と時間がかかるので、お金くらいはタダにならないと
3 国は住む人が好きなところで過ごせるようにしましょう
国籍が選べない?変えるのが難しい?二つ三つなんてケチ臭い、100も0も可能にしよう
国家運営は、権力を行使して富を集め、拡大や保全に充てるのが目的。
ともすれば、国民をギリギリまで虐げて搾取することで、運営に有利になる。
そこで、国が国民を資産として保全する動機付けが必要になるが、司法が独立しなければ憲法だけでは不十分で、市場経済の概念を導入する必要がある。
つまり、人々にとってより良い国への移動を自由化しグローバリズムを実現することで、国家を抑制し、世界中の虐げられる国民がいなくなるのだ。
EU「それな」
知識だけではない何か
現時点のコンピテンシーで何ができるかを考える。
目指すべきキャパシティ水準とその能力強化の道筋を構造化し、プログラムをつくる。
その水準についていけない人に対しては、追加の強化プログラムとしてフォローする。
プロジェクトのコンセプトは演繹的につくられるが、それは既存の戦略とほぼ完全に合致していなければ衝突してしまう。
合致したものを目指そうとすればするほど、それはすでに構想された計画ということになり、プロジェクトの意味が失われる。
なによりも進捗具合や新たな事情によって、プロジェクトのコンセプトに修正が必要になったときに、概念図に影響が及ぶ。
https://www.green.gifu-u.ac.jp/~bhdlab/?p=1391
今月は、古代ローマからスペイン中世までの歴史をふりかえる月間。
(ただし自分だけ)
それは、概して、彼らはいともたやすく不信感に陥って急に敵意をむき出しにし出すかと思えば、
ほんのちょっとしたことがきっかけで、すっかり水に流してまた仲良くなったりする、ある種の単純さ。
コツをつかめば、コントロールしやすい人たち(小馬鹿にしているわけではないが。)
基本的に対等で、自分にとって契約違反となるような理不尽なことに黙って従う感覚は乏しい。
会社に対する帰属意識(うち)ではなく、契約(見返り)が重要である。
こういうのって、中世の封建領主の文化からきているのかもしれないし
感情の起伏の在り様は、あちこち離合集散を繰り返して戦争を繰り返し、
土地の支配者が目まぐるしく入れ替わった歴史にさかのぼるのかな、とふと思ったりした。
日本のロイヤルファミリーは、どこの国とも一切交わらずに千年以上も続いているが、
国家の安全保障と王室の婚姻が密接に結びついたヨーロッパでは、過去を水に流す(アムネスティ)というのはもっとも基本的な作法なんだろう。
昔、そこそこ仲の良かった男子が結構くだらない事でめちゃくちゃ叱られてグレてしまった
グレたと言っても、自習時間に机をドンドコしたり、補習をサボってバッセンに行く程度だったけど、まあうちの学校ではグレてる部類だった
彼はそのうち課題を出さなくなり、その事で他の先生にもしょっちゅう叱られるようになり、余計態度を硬化させる負のスパイラルに陥って
もともと下がっていた成績もガタ落ち、結局3浪して消息不明になった。f欄に行ったという噂も聞いたが、謎だ。
彼を叱った先生とついこの間お話しした際に、彼についての話も出たのだが、「怒りすぎちゃったなあ」と後悔していた。他にも彼の没落の原因はあったのだろうが、アレがキッカケになったのは確かだった
「宿題やったの!?」「今やろうと思ってたのに!」みたいなの、大人になってもずーっとあるよね。あんまり叱られすぎると反感や怒りが先行してしまって、なかなか自分を省みることが出来なくなる
叱られて伸びないタイプの人は、やんわりと諭してあげるのが一番良いのだと思うが、叱る側に立つと結構難しい
「叱る」とはどうあるべきなのだろう
鬼の生活指導に叱られて、不登校になってしまった女の子が中学時代いたが、彼女にとっての「叱られる」は、しょっちゅう叱られている剽軽な男子にとっての「叱られる」とは同じ叱られ具合でも全く違うものだったろう
クラスメイトの前で「ちゃんとやれよ!」と一言言う事だっておとなしく真面目な子と活発で不真面目な子とでは受け取り方が全く違う
前者の場合「先生にみんなの前で怒られた」という羞恥を引き起こす、精神的苦痛は絶大だ
本人のタイプに合わせて指導法をきめ細かく変えてやるのが一番人を伸ばす叱り方だと思うが、「人によって叱り方が違う」というのは集団に不公平感を生む
教室のような閉じた、それでいて壁のないオープンな集団の中で人によって態度を変えながら叱るのは難しい
そう考えると、何か悪いことをした子はそっと別室に連れて行き叱るのが適切なようにも思える
しかし、自分自身小学校のころよく知らない先生と二人きりの教室で隣に座って密着されながら委員会資料の作成をさせられたのは軽くトラウマなのでそれはそれで問題があるように思う
一対一での指導、は多分ロリコン教師を欲情させるシュチュエーションになってしまうし、閉鎖的な空間で上下関係が残るのも監獄実験のような状態になって「叱りすぎ」を誘発しそうだ
職員室で叱るという手もあるが、他の先生の前で叱られるというのも精神的な負荷が大きいだろう(忘れ物が酷くて何度やられたことか)
保健室で「厳しい担任の先生」と話をそばで聞くだけの「優しい保健室の先生」という二対一のお説教が思いつく限り一番良いように思う
仕事量を考えると養護教諭ではなく、昼休みだけ来る外部カウンセラー数人で回すのが風通しが良く現実的な形になるだろう
これが家庭の場合「厳しいお母さん」と「優しいお父さん」のような役回りでの叱り方になるのだろう
しかし、甘やかすだけ甘やかす父(母)に子供がなつき、損な役回りをさせられる母(父)の言う事を子供がきかなくなる、というようなケースも聞くので、適宜「厳しい」と「優しい」は交換しながらやっていく必要がある筈だ
「叱る」一つの手前でも、どちらがどちらの役割をするのか話し合う必要があるのはやや面倒だが、子供の糧になる「叱る」のためにはそのぐらいの手間は必要ではないだろうか
職場で叱るケースでも、教育係を一人に一任せず「直属の厳しい教育係」と「見守る優しい先輩」というロールで叱ってみるのも一つの手なのではないだろうか
我々は普段から「叱る」と「怒る」を混同し、ただ感情を発露させるだけの行為を目下の相手にしてしまう事が多いが、効率的に人を成長させるためには「叱る戦略」をきちんと考えて叱るべきだ
個人的に、教育現場における「叱る=怒鳴る」は論外である。怒鳴る事によって相手を萎縮させ、内省させる間も与えない行動が反省を促すとは到底思えない。
生徒、部下の立場は怒鳴られても怒鳴り返すことの出来ない立場である。おずおずと返答をしても「言い訳をするな」と一蹴される恐れがある。怒鳴る行動は対話の機会を奪うのだ。
勿論、いじめや命を落としかねない悪ふざけには少なからず「怒鳴る」のコマンドが必要かもしれない。事の重大さに気づかずヘラヘラと対話による説教を聞き流すような生徒もいる。なぜ「怒鳴る」が必要になるのだろうか。この場合「怒鳴る」はどのような効果を発揮しているのだろうか。
主観的かつブラッシュアップの足りない考えではあるが、一つの仮説がある。「怒鳴るとは上下関係をわからせる手段ではないか」という仮説だ。そもそも、動物としての観点で見ると大声とは威嚇の手段の一つである。動物のように大声を上げることで、相手を威嚇し、上下関係を再確認させるのだ。プラスして、感情をあえて大袈裟に表現することで「自分は真剣だ」と伝える意味もあるだろう。(しかし演者時点が自身の演技に呑まれる可能性はかの有名な監獄実験で示されている通りであるので、十分な精神力と慎重さが求められるだろう)
社会性動物である我々は猿山の猿のように、狼の群れのように序列に弱い。だから不真面目な相手を前にした場合、この「怒鳴る」という行為はある程度有効なのだろう。怒鳴るは相手の「話を聞く真剣さ」を+5するというようなコマンドなのかもしれない。
人間の感情は複雑なように見えて案外単純だ。悲しい時に怒る、傷ついた時に傷つける、というような行動も一見ブラックボックスを抜け出たものに見えるが、案外類型的なものである。それはピンボールの玉がピンに当たって跳ね返りながら、最終的にはいくつかの穴に収束していくのに似ている。無限の可能性を持ちながらも、個々のピンでの跳ね返り方はある程度の予測がつく。我々の行動自体が、大したパターンを持たないからこそ、我々は相手の気持ちを思いやり、共感できるのだ。
「宿題やったの!?」という言葉が子供時代の私たちにもたらしてきた感情は「後ろめたさ」「反省」「反感」である。この感情のパターンが類型的だからこそ、私たちに「先に言われるとやる気なくすよね〜」という共感をもてる。
というように、人間の感情がある程度パターンとして把握できる以上「叱る」のマニュアル化は可能ではないだろうか。
「優しく諭す」というコマンドは相手の「真剣さ」には効果が薄いかわりに「反感」の数値はあまりあげない。だが「真剣さ」の数値が低いと「反省」には至れない。
「怒鳴る」というコマンドは逆に「真剣さ」には絶大な効果を持つ、が、「反感」のポイントを高めてしまう。「反感」の数値が一定を超すと「反省」への道は閉ざされる。
前述の優しい医者と怖い医者戦略も、数値化で説明してみよう。怖い医者は「真剣さ」「内省を促す」方面に強いキャラクターであり、優しい医者は「反感」という感情に共感し、怒りを和らげ「落ち着き」を取り戻させるヒーラーのような役割のキャラクターである。
「叱る方と叱られる方」という絶対的な上下関係に、そのどちらでもない第三者を加える事で、叱り手の感情の暴走を抑えるとともに、第三者による「共感」で叱られる側の精神的負担を減らし、自分を省みる余裕を与える。
無論、感情の数値の動き方には個人差があるので、叱り手は自分のコマンドが相手にどんな影響をどの程度与えるのかを考えながら叱り具合を調節していく必要がある。 と言っても、その個人差もある程度はパターンに当てはまるように思う。不真面目だが誠実な子、真面目だが反抗的な子、結局は要素の集合体である。実際に「元気な子(そして剽軽で悪戯っ子)」「明るい子(そして優しくてポジティブな子)」「大人しい子(繊細で真面目な子)」という安易なパターン化はあらゆる人間関係において常に行われている※。タイプに応じてコマンド駆使の仕方のマニュアルがあれば、どんなボンクラでも効果的な「叱る」ができるだろう。
※これには幾らか問題がある。私のように「大人しい子(割合図太く不真面目で陰険な子)」という相反するイメージの要素を持つ人間は取りこぼされる。そして不理解な大人に失望し私は余計陰険になった。教室のような大人数を把握すべき空間では、雑なラベリングが横行して、かえって正確な人格の把握の障害となるかもしれない。ここにもいくつかの心理検査を用いた人格のパターン化による把握が必要かもしれない。
このように数値化して考える方法を主張すると必ず人の心が通っていない、愛がないという人が現れる、が、なんの考えもなしに相手の叱られた後の情動を予測せずに感情をぶちまける事の方がよっぽど動物的で、「人の脳味噌」という回路を通わない非効率不合理なくだらぬ行動だと私は思うのだが。
(だいたい愛の鞭なんて言うが、恐怖政治よりインセンティブによる動機付けの方が効果がある事なんかもう数十年前から言われているのだからいい加減卒業してほしい。)
叱る、は上手くいけばとてもポジティブな効果を発揮する。しかし下手にやればかえって人から反省の機会を奪う。説教や正論は気持ちが良すぎるので、叱り手側は容易に権力を振りかざす楽しさに呑まれてしまう。だから、叱る前に一呼吸置いて、叱る戦略を立ててみるのはどうだろう。戦略という言葉は大袈裟かもしれない。叱る前に叱られた相手の気持ちを考える、それだけの事だ。
人材育成、教育現場、家庭での指導法においては、「叱り方マニュアル」の作成も試みとして楽しそうだ。心理テストで振り分けられた生徒や人材ごとに診断チャートを作成し、それを参考に叱り方戦略を立てる。大規模に実験し調査結果を取り続ければ有効性を立証できるかもしれない。最終的にはAIが掛けるべき言葉を演算し、叱り手という演者がそれに従うようなディストピア教育が出来上がるかもしれない。AIの愛のない教育、は痛烈にこき下ろされそうだが、「データを集め、型に当てはめ、パターン化された指導をする」という一連の行動は学習行動として常日頃個々人が行なっている事であるし、そこに統計処理がより得意なAIを解すのはそれほど不自然でないように思う。
教育者には当たり外れが多すぎる。一生涯呪い殺したいようなクソもいれば、人生の節目のたびにあって感謝の意を述べたくなるような聖者もいる。マニュアルさえあればどんなクソにも一定ラインを超えた指導ができるようになる筈なのに……!と思うと悔しいばかりだ。しかし、こうなると今度は「マニュアル一辺倒の叱り方」という批判が生まれてくるだろうか。教師のマニュアル依存、なんてニュースが流れるようになるのも嫌な話である。優しい医者と怖い医者も何も知らずに信じ込めるとステキな装置ではあるが、そんなプログラムだと言われてしまうと薄っぺらさにがっかりしてしまう。マニュアル化した叱り方は叱られる側に不信感をもたらす逆効果となるかもしれない。うーん、難しい(そこまで進んだ未来だと生徒もプログラムが組まれたのをわかった上で乗れるほど慣れるかもしれない、AIカウンセリラーを利用したマインドセットが人生の基本になるのだ!←楽しそう)
まあ、今のところは感情的に怒る前に、相手の情動を予測しながら諭してあげるというのがいいと提案してみることにします。つまるところは思い遣り。プラスして、叱るときは座って目線を合わせるっていうのも提唱してみる。叱り手側も怒りをセーブしやすいし、叱られ側も対等な立場での対話であると感じやすい、と思うから。(座って足組んでる奴から立たされて叱られるのも、立った状態で目の合わない相手を見上げながら叱られるかもつまらないもの。)それと、誰かが厳しく叱られていたら、優しい第三者として「反感」や「落ち込み」に共感してあげたりね。まあ普通のことです。しかし実践はクソムズイ。人生手強いね!
(思い出話あるあるを書こうと思っていたのに、思いのほか筆が乗って長文増田になってしまった。noteにでも貼るべきだったかな、図解しながら書き直したくなってきた。ところで、25件を無限リロード中の増田様方には大変ご迷惑をおかけします、すまない。途中送信しちゃっただけなので再投稿の甘えではないんだよ!)
パラリンピックの「障害者でもがんばれば健常者並になれる」というお涙頂戴の筋書きが気に食わない。ハイテク義足で健常者の世界記録をなぎ倒して行くのが見たい。みたいなツイットを1か月前くらいに見かけた。
あと増田で2週間前くらいに「なんで障害者をかわいそうと思ってはいけないのですか?と大学の講義で質問が出たら静まり返った」ってのも見かけたんけども。
かわいそうと思われるのってそんなにイヤか?
ていうか、かわいそうと思われるおかげで補助金もらえてハンディキャップを穴埋めして健常者並に近付くことができる(合理的配慮)のであって、かわいそうと思われたほうがオトクじゃね?って思うんだが、違うのかな。
ハンディキャップがあるにも関わらず、見た目が健常者なのでかわいそうと思われないせいで穴埋めされることなく、しかも見た目のまま健常者並を求められてキツい思いをする軽度精神疾患系の障害者とか、内科系持病持ちとかなんかも、たぶんそう思うんじゃないのかなぁ。
自覚症状のない精神疾患だと「病気を疑って医者に行く」という動機付けにもならなかったりもして、治療・改善されないままになり、ますます孤立する。社会的地位が高くて普段の生活で注意や進言を受ける機会が無い人間とかね。
と、発達障害者の端くれから、かわいそうランキング低みの見物をする増田であった。
障害は、客観的に短時間で判断が付くものばかりではないですからね。
足が無い、腕が無い、というのは分かりやすいから、すぐにかわいそうと思われやすいんですよ。
警察ですら補聴器つけて自転車に乗ってる人を「イヤホン外せ」と捕まえて、説明すると逆ギレする事件が絶えないようですが。これ何年も前から問題になってるのに全く改善しないですね。全国の都道府県警どうなってるんだ?
視覚障害で杖を持っていても全盲だけが視覚障害でなく、「部分的に見えないエリアがある」「部分的なエリアしか見えない」とかマチマチだそうです。杖もってて全盲をイメージするのに「見えてんじゃねーか」ってキレられたりするケースがあるようです。いや、知らんがな。
「かわいそうと思われない」ならマシなほうで、むしろ「私の気分を害したお前のキモさが悪だ」と毎日disられ指さされるのがデフォというか。不随意運動、チック症とか、吃音、統合失調症(独り言)とかは。
そら当事者は疲弊して、誰かとコミュニケーションしたくなくなるし、苦手になるし、下手になる。
すでにかわいそうと思われていて十分に支援を受けている人はそれが維持されて行ってほしいと思うし、かわいそうの享受が足りてない人のために、目に見えないものを知り、想定の範囲が拡大されていってほしい。
たぶんアレだよね、マズローの欲求段階そのものをなぞっているのだと思う。
補助金が出たり支援者がいる程度のかわいそうランキングの高さがある身体障害者は、埋め合わせによって健常者並の暮らしに近付くことができる。なので生存欲求の次の段階「承認欲求」を求め始めて、それが欲求不満なのかと思う。
しかし受けられる支援が少ない障害者は、承認欲求よりも根源的な生存欲求、安全欲求すら満たされていない人がボリュームゾーンなのではないか?
だから「かわいそうと思われたほうがオトク」と考えるんじゃないかな。
「障害は見た目が9割」という話なのでは
日本人の無意識に抱えている、ネイティブスピーカーへのあこがれは
ときには、動機付けになるが、多方、語学学習の阻害要因にもなりうる。
とくに、ネイティブ並みのコミュニケーション能力を目指す考え方は
恥ずかしい発音をしたくない、文法含め、間違ったことをいって恥をかきたくない、という心理が
どれだけ機会損失につながっているか、実践訓練を妨げているかわからない。
特に日本人同士では顕著だ。日本人同士で「あのさ、お前何言ってんの?」とは絶対に思われたくない心理。
なので、例えば、自分よりも会話能力が上回っていると感じた日本人とは自然と会話自体を控えるようになってしまう。
一方、留学したり海外旅行では、日本人の視線を感じないことも多いため、堂々と間違えることができる。
留学時、なるべく、日本人と接しないようにした、と告白する人が語学を身に着けていくのはそれなりの理由がある。
最近、フィリピン留学などが流行しているようだが、これは、非ネイティブという利点を有効に活用できてよいと思う。
ネイティブ並みを目指しているひとにとって、未熟な言葉をネイティブと会話するよりも恥ずかしさは少ないはずだ。
そのうちに、経験や機会を阻害していた自分自身のネイティブ並みへのこだわりも消えていくかもしれない。
忍者ハットリくんやマンガ道などで知られる藤子不二雄A。そのなかに「添乗さん」という作品がある。
これは1970年代、高度成長期を上り詰め、一般の日本人が海外ツアー旅行に行き始めた時代を背景に
添乗員の悲哀を通じて、人々の海外旅行観をコミカルに映しとったた名作だ。
この作品は、個人的には同氏の最高傑作のひとつだと思っている。
見開き2ページで構成された、この小噺集のなかに、とあるエピソードで
ネイティブ英語を鍛えてきたと自負するおっさんがハワイ行の機内でドリンクを注文する場面が登場する。
添乗員に対して「キミィ。英語のわかるスチュワーデスを呼んできてくれたまえ」といって、やってきたのは
しかし「スカッチャンドワーラー、プリーズ」と話しかけるものの、
見かねた添乗員さんが、スコッチを欲しいと言っています、とコソっと耳打ちすると
「オー、スコッチ・アンド・ウォーター!オーケー」といって、おっさん語をようやく理解できてスッキリした表情。
その他のエピソードでも藤子不二雄Aの観察眼はいろいろと鋭い。
当時は、「百万人の英語」のハイディ矢野などを通じて、リエゾンの重要性を洗脳されていた時代である。
試しにネイティブの発音をマネしてかっこつけて話そうとすると、通じないことが多かった。
恐らく、ニューヨーカーの発音、南部なまり、西海岸の英語、オセアニア系、ブリティッシュ英語、これらをジョークとして使い分けられる程度の能力があれば
相手に応じて、発音のコントロールができて、通じるようになるような気がしている。
えてして、ネイティブの多様性を理解できず、山形弁をマネしようとして失敗しちゃってる奴が大阪で話をしているようなものである。
しかし、それはあたかも大阪弁と山形弁を使い分ける変なガイジンなんであって、何を目指しているのか、という自問自答になるだろう。
[B! ひきこもり] News Up 56歳 ひきこもり衰弱死 | NHKニュース
一体何に対してかたくなになっていたのだろうか、と思うと、ね。
人から助けられて動くとか、人から自立を促されて動くというのは、
本人からすると、外部の指摘がきっかけで今何かを始めさせられるんだと認識した瞬間に、
「宿題やったの?今やろうと思ってたのに!!やる気なくした!」問題と少し通じるところがある。
もうひとつ、あるべき自分に近づこうとする、いわゆる「自分探し」も問題だと思った。
これは婚活でも同じことがいえそうなんだけど、実現可能なロードマップを描けてないのに
夢に向けて頑張る自分に満足してしまう、という生活を続けてしまうことがある。
でもセルフマネジメントができないもんだから、いきなり高難度な資格に挑戦し始めたりして、
はたからみると、ものすごく斜め上の努力をしていて、当然挫折する。
そうすると、空虚感がますます増幅され、これは本来の自分じゃない、という思いが一層刷り込まれ
第三者から見ると、そのあたりで妥協しといたほうがいいんじゃない、と思うところでも頑なに拒否してしまう。
現実の自分が、夢からほど遠い空虚な存在であればあるほど、それが悲しすぎて、
ほんのちょっと現実的なところで手を打つという考えがなくなり、反動で
夢が大きくなってしまうのだろう。アラフォー独身、でも、まだまだいけるはず!とかね。