2019-12-02

努力も才能という言葉

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20191201/1575181566


俺はこの件について最近よく考える。

きっかけは増田なんかで「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」というようなことを言うと、激しい人格攻撃を受けることが数度あったことだ。

それはどう言うことなんだろう、と考えていて、全く別件の個人的かつ趣味的な勉強で、自己効力理論動機付け研究の本を読んで、ある程度「こうではないだろうか」「こうとらえ直したほうが、自己人生をやや豊かにできるのではないだろうか」という自分なりの捉え方をできたので言ってみる。


自己効力理論というのは、ある行為に当たる際に、「できるかもしれない」と漠然と思う感覚、「自己効力感」についての理論だ。

まずある行為が失敗におよんだとき、あらかじめ自己効力感が高い人と低い人では、「何に原因があったか」に対する捉え方が違いがちだという。

高い人は概ね「努力が足りなかった」「思慮が足りなかった」「状況が悪かった」など、「その時点の自己選択」や「自分の外」に結果を求める。

対して、低い人は「自分能力がなかった」「才能がなかった」と、「自分本質」や「自己の内側」に結果を求めがちだ。


大きく違うのは、高い人の理解というのは、「自己が違う選択をしたり、違う状況なら結果は変わる」と考えていることで、低い人の理解は「自己自己である限り簡単に結果は変わらない」と考えているということだ。


思わしくない結果に直面した時、自己自尊心を守るために状況に働きかけることが「一時コントロール」、自己の捉え方を変えて受け入れるのが「二時コントロール」という。

自己の内側」に結果を求め、「仕方ない」と自尊心を守るのは「二時コントロール戦略といえる。


さて、動機付け研究においては、自分が状況に働きかけて、状況を変えうるというのは「有能感」とよばれ、この「有能感」に関連して、有能さがどのようなものかの信念に個人差があるとされている。

知能に関してある信念である「暗黙の知能観」での個人差が「固定理論」と「増大理論」と呼ばれるもので、「固定理論」が「知能や有能さというのは生まれつきのもので、一生を通じて大きく変わらない」という信念で、「増大理論」が「知能や有能さというのは個人選択で変わりうる」というものだ。

大人になって人間は大きくは成長しないし性格も変わらない」と何度も何度もいうような人は「固定理論」をかなり強固に信じていると言える。


これらを振り返って「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」と言ったら激しい攻撃を受けるというのはどういうことなのだろうと考える。

仮説はこうだ。

この言葉カウンターの一撃を食らわせたい人は、いつかかけられるかもしれない、この言葉自己への脅威だと感じている。

なぜ脅威なのか、自尊心を脅かすからだ、自尊心を守りたい。

なぜ自尊心が傷つくのか、かつてうまく状況をコントロールできなかったからだ。

状況をコントロールできなかったのは、自分努力できなかったという認識記憶があるからだ。

ではなぜ努力できなかったのか。

この言葉に傷つく人は、「固定理論」を信じ、「自己効力感」も低い状態にあり、失敗した原因を「遥か昔から変わらない、これからも大きく変わらない自分が故に失敗した」と思っているからだ。


そこに「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」という奴が実際にあらわれる。

その言葉をかけてきた人は、自分の中にある「固定理論」に基づき、「努力がもともとできた人」「努力の才能を与えられた人」だ。

そして、「自分が勝ち取ったわけでもない与えられたギフトの結果で成功しているのに、それを無自覚で、ギフトを与えられてない自分に対して無理を強いてくる、そしていつか平気で自分尊厳を踏みつけるだろう」「与えられたものであるお前にはその資格がない」「そんな不公平な言説がはびこる世は正義に反する」と考える。

から大いなる怒りと正義感をもって攻撃する。

攻撃する正当な理由資格大義自分にはある。


ここで話を変えて、俺が「固定理論」と「増大理論」のどちらを信じているかというのをいうと、IQなんかは遺伝性質が大きいことは知っている。

性格もある程度遺伝やすく、性格の一つの「誠実性」というのは、「物事をコツコツやるのを好む性質」をさしていて、となると、ある程度「固定理論」も信じていると言える。

でも、行動を積み上げることで自己の知能や誠実性はもっと引き出せる、まだ自分の知らない自分はたくさんあると考えており、「増大理論」も信じていると言える。


でさあ、「努力」に対してどういう態度でのほうがいい気分でいられるかなんだけどさあ、「努力の才能」ってことをあんまり「間違いない世界観」として捉えるってさあ、まああると思うよ、そういうやついるもん。

でもね、それってもし状況が整わず自分努力できずに失敗した時に、「遥か昔から変わらない、これからも大きく変わらない努力できない自分が故に失敗した」「そんな自分からこれから先も努力不足故に失敗する」ってことになるじゃん。

あんま気分よくなくない?それ?

それに「努力の才能」っていう「固定理論」をあまりに強固に信じてると、失敗も怖くなんのよ。

なんでかっていうとさ、失敗しちゃった時その失敗をどう捉えるかでさ、「自分能力性質も大きく変わらない」って思うと、「失敗は自分が失敗してしまうことを知った」「自分無能証明された」ってことになんのね。

そうすると、誰でも自尊心は守りたいからさ、やんなくなんのね、いろんなこと。

そうすると、自分生活ってあんまり変わらない、外の状況が変わる以外で自分人生変わんないってなるじゃん。

状況の力は強いけど、自分が動くことどんどん少なくなっていったら、変わる可能性減るじゃん。

そこは「増大理論」だと失敗しても「今日は失敗したな、失敗するやり方がわかったか成功ちょっと近づいたかもな」ってなるのよ。


別に努力の才能」が実際あっても構わないけどさ、それはそれとして、「今日は結果が出なかったけど、まあ別の方法ならいけるかもな」って思ってさ、ちょっとの1日5分とかの努力ならしてみようぜ、ちょっとだけ明日自分生活がよくなるかもしれないじゃん。

失敗しても、そういう時もあるしさ、だいたい、隣の奴が努力の才能に恵まれてて、自分がそうじゃなかったとして、他人努力成功してもお前の人生が下がるわけじゃないじゃん、他人成功なんかどうでもいいよ、お前はお前の人生だけちょっとよくすること考えればいいじゃん。


ってね、そう思うの。

から、「努力の才能」って言葉あんま使いすぎるの自分を追い詰めるんじゃないの?

って、思うよ、俺。

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