はてなキーワード: 特質とは
今週のハンタで再確認された事実(前から分かってはいたけど公式で改めて整理されたもの)
①具現化系で分身作成+放出系でワープは特質系でもない限り無理
③補助具無しでのワープだと特定の場所を事前にターゲットにする地雷式が妥当
④敵を強制的にワープさせる行為は味方に了解を得てのワープより難しい
これ全部ゴレイヌさんに当てはまってないんですよね
①ゴリラを分身させて自分や他人をワープさせられる→特質系でもないなら幻影旅団をして想像を超えた存在
②何もない空間から発生させたゴリラを使用→補助具一切未使用で実現
③敵地だろうと発動可能でありゴリラも自由に動き回る→地雷系の条件からも外れる
④戦闘モードのレイザーと場所を入れ替える→強制力としては「ほぼ無条件」と言ってもいい領域
特質系だとしてもぶっ壊れてるとしか言いようがない性能してる。
対象が1回に1人までという条件はあれど、ゴリラと対象の距離が10m以内(下手すればもっと)であればどこでも誰でも出し入れ可能って……。
異次元マンションの圧倒的利便性の前でワープ系2番手に落ちた感じはあるけど、「強制力」という点で考えるとやはりおかしい。
なにより単純にゴリラの性能が割と高い。
ソロプレイをしつつパーティーの優位性を得つつ不意打ちと緊急離脱を可能にする無駄のない能力。
強いて問題を上げるとすれば脳みそや意識が一つしか無いことだが、これは逆に無能な味方に足を引っ張られないという優位性になる。
そもそも「えげつねぇな……」に代表されるようにゴレイヌ自体は普通に賢く森の賢者の名に相応しい人物である。
本当なんだったんだこのゴリラは……。
下手すると幻影旅団よりも強いのでは?
“朝鮮人扱った映像作品” 東京都が上映認めず 制作者らが批判
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html
こいつが検閲になるんじゃないかということでニュースになっていたわけだけど、
最初は自分も検閲になるんじゃ、とは思っていたが考え直して検閲には当てはまらんような気がしてきた。
ただ自分の記憶もあいまいなので、識者の意見を聞きたいと思ってここにメモを残しておく。
「検閲」とは「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるもの」
を意味し、今回は東京都という行政権が主体となって、発表前に内容を審査したうえで、不適当と認めるものの発表を禁止したといえるので、検閲なんじゃないかと思ったわけだ。
ただ、そこでない記憶を振り絞って思い出したのが家永訴訟で、探し出してみたら
「本件検定は、前記のとおり、一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲に当たらず、憲法二一条二項前段の規定に違反するものではない。」
となっていて、検閲でいう発表の禁止は今後一切の発表ができなくなるような性質に思えるな、というわけで
22日、都議会の議会棟で、昭和初期に精神科の病院に入院していた朝鮮人を扱った映像作品の上映会が開かれ、制作したアーティストの飯山由貴さんらのグループと都議会議員7人らが参加しました。
飯山さんは、東京 港区の「東京都人権プラザ」で開かれている精神障害者の理解促進を図る企画展で都に展示内容の委託を受け、イベントの1つとしてこの作品を上映しようとしましたが、認められませんでした。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html
すでに対象作品は上映で来ていて、今後も別の機会でも上映できるだろうから検閲ではないんじゃないかと思うんだが、どうだろう。
ついでに言えば、東京都が作品内容について判断をして拒否をできるかについては、拒否ができる場合もあるとは思う。
例えば、ジェンダーについての作品を依頼してTERFバリバリの作品が出てきたら困るだろうし、
女性支援の作品でHPVワクチンは薬害をもたらした、なんてやられたら問題としか言えないし。
https://news.yahoo.co.jp/articles/02b7817b866ffd531d0fd4c1125f2ec3413b6055
ただし、そういった上映の拒否権も完全に自由とはならず、ある程度の裁量権の範囲にはなるかと思う。
教科書訴訟でも検定の正当性は認めつつも、裁量権を逸脱した部分については違法性を認定しているわけで。
「生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界において否定するものはないほどに定説化していたものというべきであり……文部大臣が、七三一部隊に関する事柄を教科書に記述することは時期尚早として、原稿記述を全部削除する必要がある旨の修正意見を付したことには、その判断の過程に、検定当時の学説状況の認識及び旧検定基準に違反するとの評価に看過し難い過誤があり、裁量権の範囲を逸脱した違法がある」
「行政庁に大幅な裁量権を認めたものではなく、裁判所は行政庁の判断が相当の根拠資料に基づいてなされた合理的なものであるか否かを審査すべき」
そういった意味で
毎年行われる関東大震災の朝鮮人犠牲者への追悼式典に小池知事が追悼文を送っていないことを挙げたうえで、「都知事がこうした立場を取っているにもかかわらず、朝鮮人大虐殺を『事実』と発言する動画を使用する事に懸念があります」と指摘しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html
知事の歴史認識と異なるから拒否をするというのは裁量権の範囲とは認められにくい、とは思うがいかがなものだろう。
そんなわけで、検閲ではないが違法性が認められる余地はある、という感想を抱いているんだが、どんなもんだろう。
あと東京都側の主張についてだけど
「メールは、殺傷事件があったかどうかというより、殺害された人数など、内容にさまざまな見解があり、その部分を確認したかった。展示しないように求めたのは、事件が事実と描かれているからではなく、障害者と人権というテーマから作品がずれているからだ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html
1980年代とかの作品語りは、オタク的な視点が盛られ過ぎな気がする
押井さんは好きな人はすごい好きなんだろうし、そういう他人にない特質があるのは分かる
けど、うる星やつらの話で
それは別に「うる星やつら」という他人が心血注いだIPである必要はなかったはずだ
もちろん、事情はあるのだろう
時間がない
人手がない
金がない
etcetc
それ自体はクソみたいなアニメ業界として当時から腐っていたって事なんだろう
なんでか、人気出たんだから許されろ、面白いは正義、当時みたいに自由にできないから最近のアニメはつまらない
みたいなウジ虫が湧く
結果論として「受けた」のだからと、過去にさかのぼって「好き勝手やった」という工程を許容しろと言うのおかしくね?
許せという奴は、それがクソ詰らなくても、許すべきだよな
「好き勝手やった」のは結果が出る前なんだからさ、どんな結果だとしても肯定されなきゃいけないだろ
たまさか受けないという結果になったら、同じ手段なのに、ぼろくそに否定されるの?
「他人が心血注いだIP」で、金貰ってやる仕事で、そんなクソみたいな倫理を語るのか?
自由なメカデザインがすごい、自由な動きがすごい、自由な脚本がすごいとキモオタがはしゃぐ部分は
そのどれもこれもが、うる星やつらの原作と全然関係ない部分だからな
オリジナルでやれよ
すげぇんだろ?
なんで他人の褌でやるんだよ?
でまぁ、稀有で奇跡的な成功例だから、スタッフが嬉々として話すんだよな
勘違いすんなよって思うんだよ
うる星やつらは業界の成長のために生み出されたわけでもなければ
お前らが遊ぶために連載されてたわけでもねぇよ
この辺の話、麻宮騎亜の「Colors side-A」掲載のアニメーターの話でもイラつくんよ
「あの作品は好き勝手やることが許された」みたいな(明らかにうる星やつらだと思われる話)
それは、誰が誰に許したんだよって思うんだよね、原作者が?違うだろ?
「お前らが」「勝手に」そうと決めた、だけだろって
気が利くかどうかって話もあって、気が利くのを求められる経験が女性の方に多いってこともあるんだろうね。
たとえば「刺身のパックを冷蔵庫から出して」って言ったら、息子(中学生)はまんまパック出してテーブルに置くだけ。
同じ男でも(まあこっちは大人だけど)夫の方は、刺身皿、醤油、わさびを準備して、パックのふた開けてすぐ食べられるようにしてる。
この「刺身のパックを冷蔵庫から出して」って言われて、「刺身皿、醤油、わさびを用意して、パックのふた開けて準備」ってとこが雑用できるかどうかの話。
「正確に指示されたことだけしかできない」って特質ならまあこっちもそれなりの対応するけど、息子はそうじゃないからね。単に気が利かないだけ。気づいてても面倒なだけ。
エスパーじゃないんだからって言われそうだけど、家で刺身を食べるのなんて初めてじゃないんだし、どういう準備が必要か想像すりゃわかる。
書いた主です。
BLの特質上、性描写がある場合、登場人物が入れる人と入れられる人とに分けられます。この2人なら、こっちが入れる側でこっちが入れられる側かなぁというそれぞれの腐女子ごとの解釈があり、逆は解釈違いを起こし不快になる人もいます。
直接的な性描写がない作品でも、匂わせていたり、今後そういう関係になったらこっちが攻めでこっちが受けになるだろうというものもあります。
受け攻めが明確になっていないと、自分が見たくない描写を見てしまう可能性があり、中には自分と解釈違いだとBLや二次創作の作者に噛み付くマナーの悪い人もいるので(こういう人はごくごく少数です)明確になっているのではないかと個人的には思っています。
占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3,500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[8]。
その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51、暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校4年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[9]。
日本占領後、多くの市民は連合国軍の上陸によって日本女性が強姦されることを恐れていた。こうした懸念から、内務省警保局をはじめ各省庁および都道府県庁は、女性らに自宅待機、避難、日本人男性から離れずいるようにとの注意喚起、また米兵との接触を回避するよう勧告をしている。
米軍が最初に上陸するものと推測された神奈川県では、県警は若い女性や少女に避難勧告をしている[10]。内務省警保局の情報にも「神奈川県ハソノ特質上敵ノ最初ノ上陸地点タルベシトノ想像モアリ「敵ハ十八日ニ神奈川ニ上陸スル」ノ流言多シ」とあり、戦争関連の諸文書が一斉に焼却廃棄されるなか、行政機関当局にも相当の混乱があったことが窺える。主要港湾を擁する横浜市では、幹部職員の全員逮捕処刑を前提として、緊急措置として市民のうちの婦女子の疎開避難、女子職員の全員解雇などを決定し、これをきっかけとして丹沢方面への疎開騒ぎが広まっていた。
これに呼応し、政府は内務省警保局長名で特殊慰安施設協会(RAA)の設立について全国都道府県に打診し、東京都下の料理飲食業組合、芸子置屋同盟、待合業組合連合会など7団体代表者により、特殊慰安施設協会が急きょ設立され、協会を通し「性の防波堤」となる志願女性を募集した[11]。これにより、各所に「進駐軍将兵慰安施設」が設置され、一例として横浜の大阪商船ビル、日本造船大丸谷寮、箱根、江ノ島の新設施設などがこれに利用された。GHQ当局は1946年1月に、「非民主的であり、女性への人権侵害である」との理由から施設の閉鎖と公娼の禁止を宣言したが、占領軍兵士を相手とする「私的」売春は継続され、兵士たちの間で性病が蔓延した[12]。
ジョン・ダワーによれば、特殊慰安施設協会設置の効果もあり、占領軍の規模と比較すると日本政府の想定よりは強姦の発生率は低かったが、同時に性病の集団感染も引き起こした。一例としては、検査の結果1個師団の70%が梅毒、50%が淋病の陽性反応を示したため、これを主因として売春施設は閉鎖されることとなった[12]。
公娼施設の廃止後、強姦の発生率は約8倍に増加し、ダワーの調査によるとRAAが活動終了した1946年以降、日本人女性に対する占領軍将兵による強姦件数は一日平均40件から一日平均330件に急増した[13]。これに対してブルマは、「毎日40件以上の強姦が行われた可能性があるが、ほとんどの日本人は、アメリカ人は恐れていたよりも規律的だと認識していただろう」と述べている[14]。
テレーズ・スヴォボダは、慰安施設閉鎖後に強姦の報告件数が急増した事から、兵士に対する慰安婦の提供が強姦事件抑制に一定の効果があった事を認めている。スヴォボダはまた、一例として慰安施設の営業開始前に、待ちきれなくなった数百人の米軍兵士が二棟の施設に乱入し、そこにいたすべての女性を強姦した事件についても言及している[15]。 また、スヴォボダによると特殊慰安施設協会の廃止後少なくとも二件の大規模な集団強姦事件が発生している。
東京都の事例
スヴォボダおよび田中の調査によれば、1946年4月4日の深夜、3台の軍用トラックに便乗した米兵50人が東京都大森区(現・大田区)の中村病院に侵入し、号令の笛とともに約一時間の間に女性患者40人、女性職員37人を回姦凌辱した[16]。被害者のうち、2歳の幼女は事後床にたたきつけられ死亡したほか、止めに入った男性職員一名が殺害された[16]。
名古屋市の事例
また、田中によると、同1946年4月11日に名古屋市の住宅街に侵入した30人から60人の米軍兵士が地域内の電話回線を切断後、各家屋に同時に侵入し、10歳から55歳の女性を強姦している[17]。
マイケル・S・モラスキー(日本文学、日本語学研究者)によると、日本の警察の報告を読むかぎり、強姦やその他の重大犯罪は海軍を中心に広まっており、横須賀基地と横浜周辺における占領後最初の数週間の犯罪件数が突出しているが、日本本土全体では一般的ではなかった[18][19]。
上述のように、駐留米軍兵士による拉致、強姦、殺人は日本全体には波及していないものの、警察記録と報道記録が示している通り、凶悪犯罪を犯す兵士の多くが、1945年に日本に上陸し、最初の数週間の間に記録的件数の犯罪行為をおこなっており、占領最初の10日間だけで1336件の強姦事件が報告され、その後も9月一か月間の横浜市内での強姦事件は119件にのぼっている[20]。ダワーによれば、被害者が数人以内の場合には警察に報告すらされなかった。[21]
北海道の事例
歴史家の竹前栄治、ロバート・リケッツらは、米空挺部隊が上陸後、札幌市内において略奪、強姦、酔ったうえでの日本人への暴行などを働くことはまれではなく、強姦被害者の中には自殺した者も少なからずいたと述べている[22]。
ロバート・アイケルバーガー第8軍司令官は、非番の兵士から女性を保護するために日本人が自警団を組織した際、第8軍の装甲車に協力を命じ、事件の首謀者を逮捕したことを記録している。しかしダワーによれば、一方で強姦事件の中には警察に報告されないものもあった。
竹前とリケッツらによると、オーストラリア、英国、インド、ニュージーランド軍の一部によって構成され、中国及び四国の9県を占領していたイギリス連邦占領軍 (BCOF)も、また多くの強姦に関与していた。
オーストラリア軍は1946年に広島県呉市に上陸するとすぐジープで若い女性を拉致し強姦していた。被害者がほぼ毎晩助けを求めて泣き叫ぶのを聞いていたが、占領軍による犯罪行為の報道は封殺されていた[22]。中には、一人の少女が20人以上の兵士に回姦される事件もあった[23]。
イギリス連邦占領軍の公式報告では軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦を犯し、有罪判決を受けたされる。しかしながら、1946年2月から4月にかけての英連邦占領軍による占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない[24]。オーストラリアの歴史家ロビン・ゲルスターによれば、イギリス連邦占領軍の重犯罪公式統計は米国と同様に過小評価されているが、これには日本の警察が被害報告を占領軍に提出していない場合があり、これにより英憲兵隊が調査を行わなかった事も少なからず影響していると述べている[25]。
ジョン・ダワーによれば、GHQ当局は1945年9月から1952年の占領終了までの間、幅広い検閲(プレスコード)を日本のメディアに対して実施しており、開始当初には左翼活動や軍国主義、超国家主義的な思想といった思想分野が差し止め対象となっていたが、占領開始から数か月後にはこの範囲を大きく逸脱し、占領軍による強姦などの重大犯罪や社会問題も幅広く検閲の対象となっていた[26]。
竹前栄治とロバート・リケッツによると、占領軍は、1945年9月10日付連合国軍最高司令官総司令部令「占領活動に敵対的な全ての報告・統計発行物の違法化にむけた報道発表と事前検閲に係る規則」を定め、強姦などの重大犯罪に関する報道を統制していた。占領終了後、一部の日本の雑誌はアメリカの軍人が犯した強姦件数を発表している[22]。
無敵の人は私
本性的特質と環境との状態にきっかけが重なった結果、万が一の偶然に私は加害者になりうる。
無敵の人に殺されるのは私
宝くじは買わないと当たらないわけじゃない、拾っても当たる。換金しなければ意味はない。何をいってるか分からないがそんな理由で被害者になりうる。
無敵の人は不運
加害者がその立場に立つのは偶然であり人格の瑕疵欠損を意味しない。
私は殺されたくないし殺したくない。避けるべき悲劇だ。悲劇的偶然をどう避けるべきか。
貧困、傷病、規範意識、暴言、暴力、恐怖、窒息、嘔吐、処方薬、ロープ、ネクタイ、怒号、ペン、社用車、その他
ひとり旅。
覚えた現地語ははい、いいえ、おはよう、こんにちは、ありがとうだけ。生存本能を刺激して社会的孤独に恐怖感を刷り込むことが目的だった。助けを求め、それに答え助けてもらえる体験が、帰属社会への防衛的攻撃性を軟化させた。
遺書。
自分からも質問をしながら家事育児をするつもりがない・しないASD男性は結婚すべきでない。
ASD男性が夫となったとき、育った環境が父親が家事育児をしない家庭だった場合、結婚したら家事育児をまったくしない上に、家族との感情の交流がごく薄く、思いやっても思いやられる事がない、妻にとって負担ばかりが大きく心身しんどくて報われない何の罰だろうかという生活になる可能性が高い。
家事育児しなくても妻や子供とのコミュニケーションを試行錯誤する人もいる、(家事育児をするしコミュニケーションを工夫する余力もある人は今回関係ないですね…)ことは知っているが、大抵は男尊女卑ベースの慣れ親しんだ環境を再現し、母親は家庭のことを皆やるものだしそれが仕事だからと妻に丸投げして当然で相手の負担は意識もしない。相手への労りも家族皆を心配することもない。もし自分の世界観にそぐわない事、聞きたくないこと、自分の知らないことを聞かされたときはヒステリックに拒否反応を起こして、反応自体が激烈でなくとも相手への恨み怒りを持って悪感情を態度に表す。
妻はまだ育っていない子供と体と知識は育っているのに金をいれる(ほとんどいれない場合もあるようだ)もののある意味通行人より頼りにできない気難しい同居人と化した夫の機嫌伺いと世話に追われる。その機嫌にふりまわされる生活の中での赤子でもない成人にけかる余計な手間暇、その手間暇は報われないし馬鹿にされたり機嫌次第で罵詈雑言を受ける、物を壊される、暴力すらある。
隣にいる大人が家庭内で一緒に子供を監護する大人としての振る舞いをしない、出来ないのは、子供を監護する立場として、家族として同じ空間にいることが非常に大きなストレスだ。その振る舞いには悪意を感じたりするし、安心出来ないし、一応は大人で父親であるのに不甲斐なさにがっかりし通しで始終傷付き回復しない。
妻がその様子を晒せば選んだ責任がある、自業自得と冷ややかに嘲笑される。
おまけに子供にはその夫からの遺伝での気難しさなどの特質から苦労もごく多く、そうでない場合は少数派かと思われる。
家事育児の作業を日常として分担するならば物理的に妻の負担が減る。
妻は夫に心寄せて精神面で頼れはしないながらも、同志としての信頼と並走者がいる生活をある程度の安心をもって回すことができるはずだ。
日々の心身の負担が大きいだけではなく心の交流がない、労ってもほとんど何も返ってこない、却って更に心遣いを奪われる生活は心が荒廃する。自己肯定感は擂り潰されて、何時なら死んで逃げても迷惑が最小限か、あまり責められないだろうかばかりを妻は考えるようになる。
そっとしておいてほしいと感じるのはもっともだけど、今の日本でかつてに比べてセクマイが生きやすくなってるのは事実だ。かつて声を上げた先人の力があってこそ、多様性を提唱する、過ごしやすくも気色悪い時代になった。私たちはそれに乗っかって過ごしている。
敢えて言うけど、いまや大多数の人はセクマイに対して特別な感情なんかない。他人のどうでもいい特質のうちの1つになりつつある。
増田こそLGBTを特別扱いしていないか。君が傷つくような発言をしたその人が不躾な人だっただけなのに、どうして世の中がLGBTを特別扱いしてるように思い込んでるんだろう。世間と自分は違うと思い込んでないか?
数年交際していた彼女と別れることになった。大好きな人だった。
出会いがあれば別れもあることでありそれ自体は仕方のないことなのだが、そこに至るまでの経緯が最悪で、浮気の方がマシだったかもしれない。事情や背景に色々あるのだろうが、現状何が何だか分からないまま音信不通となっている。
それからのこと、トドメの一撃とでもいうか、元来自分の中に抱えていた女性嫌悪が最悪の状態になっている。イラスト作者が表現したい「女の子のエモさ」が受け付けなくなったのだろうか、女キャラクターのイラストでさえ気持ち悪く思ってしまう。
「男はみんなうっすら女が好きで、女はみんなうっすら男が嫌い」というのは男女の性欲の性差を表した言葉だと思う。実際自分は男で、やはりうっすら女が好きなのだ。
…散々言われているだろうが正確には女体がである。内面に目を向けた時にはモテる男もモテない男もうっすらみんなミソジニーを抱えている、と思っている。
そのミソジニーを持ちながらも男はセックスがしたいし、子孫を残したい。だから女と関係を持とうとする(気持ちがスタートになることが大半だ)し、甘やかすし媚びへつらうし、女の身勝手さをある程度までは許容できてしまう。
さて、自分は誰かのパートナーとなるべきではない、まして遺伝子を残すことなどあってはならないと思い続けてきた欠陥人間である。仮に子供を作ったとして自分の特質が子供に引き継がれた時に子の恨みを引き受ける自信がないのだ。
私の親とは違い、「これ」が生む苦しみを一番知っている自分が、子に同じ道を歩ませるようなことなど万が一にも許されるわけがないのだ。夫として親として健在である時間も限られているだろう。
だから家庭を持ち子孫を残したいという積極的意思を持つことができない。
そして自分はセックスが満足にできない。性欲はあるし女体は好きだが、セックスに必要な運動能力が致命的に欠けている。そういう身体なのだ。苦手意識と劣等感と、行為を成立させなければというプレッシャーからEDにもなった。別れた後に別の女性と行為を試みたが、それで解決するような問題でもなかった。
(実は別れた元恋人と次に行為に及ぶ際はED治療に向かおう、と決めていた。まあちょうど別れることになったのだが、遅かった。色々申し訳なかったと後悔している)
セックスは自分にとっては「一般的な人間が持つ運動能力」が必要とされる行為の一つであり、劣等感が刺激されずにはいられない行為なのだ。
今自分が大切に思っている恋人ならまだED治療をしつつ頑張ってみようとも頑張ってみたいとも思うが、そのセックスのためにあえて恋人を作りたいとは思えない。
家庭を作る、子供を作る、性愛を求める、といった多くの男(それだけ書くと女もか?)がミソジニーを抱えつつも原動力としているモチベーションを自分は全く持つことができていない。
「もくりで痴漢被害にあった」という旨のツイートがタイムラインに流れてきた
https://twitter.com/0shiya/status/1434281696719867904
これがずっと心の中に引っかかっている。
mocriというのは、主に同人作家の中で流行っている通話アプリだ。その性質上、非常に女性ユーザーが多い。それに目につけたか、たまたま知ったかはさておき、そういった場に性を求めてしまう男性が発生し、女性がそれを嫌がるという、典型的なセクシュアルハラスメントが発生しているようだ。実際問題として都会にはずっとナンパしてる謎の生き物がいるし、こういった問題は根深く枚挙にいとまがないなとおもう。
だが、「この漫画」の話は少し違うような気もする。痴漢に見られる嫌がらせやスリル、または性欲の押しつけというより、毛色としてはむしろ「喋りすぎてしまうコミュ障」に種類が近いような気がする。知らない人と話してみたい、通話で面白いことに出会うかもしれないという期待をいだく人間はやはり一定いて(自分には理解できないけど)、それがディスコミュニケーションを起こすと「ナンパ」「チカン」「いやがらせ」と区別がつかないという事例に感じる。
スマートフォンの普及、通信環境の向上、様々なゲーム機の台頭により、「特定・不特定関わらず話しながら何かをする」機会が増えた結果、そして社会の大きな動きも相まって、この「喋りすぎてしまうコミュ障」の問題は鮮明に可視化され、より深刻にとらえられるようになった。
言ってしまえば、コミュニケーションが下手くそであるために痴漢呼ばわりされる世界がもうすでに到来している。我々は深刻にコミュニケーションの仕方について1からきちんと勉強しなければならない。コミュニケーションとは心の動きだけで行う動物的なものではなく、技術によって行われる理性的なものではならないというのを、もっと大きな声で警告していかなければならない。
■コミュ障側に向けての話
実際問題、「喋りすぎてしまうコミュ障」の被害は、残念ながら少なくなく、深刻である。「Among us」のプレイヤーたちなどは身近な話題じゃないだろうかと思う。特にこのゲームは制限時間内に話をまとめて人狼と思われる人を探し当てなければならない(人狼は必死にごまかさないといけない)という性質上「喋りすぎるコミュ障」が強い。したがって一方的に、「集団」や「会」の意図を汲まず、喋りたいだけ喋ってしまう人間がどうしても紛れ込んでしまい、時には誰かの胃をキリキリと痛めてしまう。「自分コミュ障なんで」と自虐できたのは残念ながら10年前のインターネットまでで、今後は確実に敬遠されていくことだろう。それだけネットワークは開かれたものとなってしまった。
コミュニケーションというのは料理における味付けの様なものだ。最初は薄味で出して、「好きな様にしてください」といってトッピングを持ってきてもらうのが無難だ。一口にカレーといっても、人の好みのからさはばらばら。だが我々コミュ障はここを見間違えてしまう。「私はなんでもいけますよ!」といって自分好みにめちゃくちゃ辛く味付けしたり、「自分は料理のこと全然わからないです!」といってレシピを無視して作ってしまえば、基本的には大変な事故を起こるのだ。
特にネットワークを介したコミュニケーションはその場にいる全ての人間に開示されてしまう特質があり、これはオフラインで行われる「会合」とはまた異なる。この点にも留意し、基本的には「発言に気をつけなければ」ならない。
第二に、とりわけインターネットで呼びかけられる「募集」に関していえば、そのお題目を厳格に守ることが求められるだろう。不安であればどういった主題に基づいて人を集めようとしているのか、それについてよく確認したほうがいい(後述するが、募集する側も極力明確にしておいたほうがいい)。そこに来る他の人々も「募集をする人」や「募集文」を中心にして集まってくるのだ。「建前」や「目的」というのはコミュニケーションにおいて一番上のレイヤーにあるべき便利アイテムだ。
これはゲームに例えると簡単で、「リオレウスから出る逆鱗が欲しくて出るまで行きたいのであと三人きてください」という募集に入ってきたのに、自分が行きたいのでといって別のモンスターのクエストを貼ったら、どうだろうか。募集主が気を使って「別に一度くらいならいいですよ」といってもその募集文をよんできた人は「別にリオレウスにしか用事なくてそのモンスターに行く義理はぜんぜんないんだけど」と思っているかもしれない。人が立てている募集で出しゃばるというのはそういうことだ。考えられないことかもしれないが、喋りすぎるコミュ障というのはこういうことをしてしまう。
あくまでも募集している人間が主役であり、自分が主役になりたければ自分で募集をかけなければならない。
■募集する側の話
インターネットというのはまさに「有象無象」と「玉石混淆」の象徴だ。悪意の有無を問わず、様々な人間がいる。知らない人が勝手にめちゃくちゃなコミュニケーションをふっかけてくる時もあるし、なんなら知ってる人間がその場合だって全然ある。嫌がらせだと思っていた行動がADHDの性質だった、悪意だと思っていたら単純に能力が低いだけだった、馬鹿にされていると思っていたら単純に生活レベルの違いだった。この様なことが平然と存在する(逆にいうと日常生活ではそういうものと自然と境界を置いていると思うとヒトの社会性ってすごい)。そしてもっと言えば、これらの事情が大衆の面前で明らかになってしまうことをが往々にして存在するのが、インターネットの恐ろしいところだ。「遅い!なにをやってるんだ!」と怒鳴りつけたら「すみません、実は生まれた時から足が不自由で…」と義足を見せられる様なクリティカルな状況を人がめちゃくちゃいる交差点でやる、みたいな現実ではあり得ないことをワンチャンやりかねないのがインターネットだ。
くだんの漫画で言うならば、「もくりは男性が使っているイメージがなかった」「知らない人が入ってくるとは思っていなかった」が正直に言えば甘い。運転免許の問題みたいなことを言うが、相手がボイチェンしている可能性もあるし、自分のフォロワーのコミュニケーション能力が最悪の場合もあるからだ。多様化する社会事情を鑑みれば、当然「性的被害は異性間に限る」という無意識も捨てたほうがどのみち安全だ。
正直に言えば、喋りすぎるコミュ障に対しての対処法は無に等しいと思う。基本的にこっちが強く出るしかないのに、彼らは出しゃばってくるからだ。
だが対処法といて、「建前を強く使うこと」と、それのために「建前をきちんと用意すること」は非常に大切だと思う。友達の主催するAmong usにいったときはギチギチに組まれたローカルルールのおかげですごく快適に遊べてびっくりした。これももちろん「ゲーム歴も付き合う歴もばらばらな人間と一緒に一つのゲームを楽しく正しく遊んでもらう」という強固な建前の上に成り立ったルールであり、その説明があるから納得がいくのだ。
この人の様に、自分のフォロワーがくるかもしれないという気持ちで待っていたら全然知らない人がきたというのであれば「初めて見る名前ですけど、ツイッターのフォロワーさんですか?」(ちがうなら)「ごめんなさい、フォロワーさんとやろうとおもってたので……」「これってフォロワー限定とかにできないんですかね、次からわかりやすくしますね」といかなんとかいってまず素直に追い出すべきだった(たとえ相手がチカンじゃないにしろ、男が入ってくるとは思っていなかったのだから)。それで食い下がってきてやっと「キック」というのが、やはり順序としても正しい。
当然だが、世にはきちんと「悪意」が存在している。この相手にすべきでない悪意を排除したい時に「悪意ではなかったケース」が邪魔するのが、最も避けるべきことである。また相手に悪意がないにしろ、自分が不快に思ったその感情自体はかわらない。そのためにはやはり「強固な建前」が必要だと感じる。「目的や趣旨と異なるため」「ルールに反するため」もちろん「私が主役の会なので私を不快にさせるなんて意味わからんでしょ」でもいい(言えるなら)。必ず作ったほうがいい。
作業通話相手や一緒にゲームをする相手を募りたいという簡単なことなのにそこまで覚悟しないといけないのか?と言われれば……「そうです!」としか言いようがない。なぜなら気の合う友達とわいわい話しながら何かをすると言うのは、通常ほとんどの人間にとっては難易度が高く尊いものなのだ。新しく得ようとすれば難しいし、すでにあるなら必死に抱きしめて大事にしなければならない。「知らない人とのやりとりがおもろかった」みたいな話は、当人、もしくは相手のコミュニケーション能力の上で成り立っている。この二つをどうかゆめゆめわすれてはならない。
ひたすら同じことを繰り返すのが苦にならない、もしくは言うことがコロコロ変わる場合の苦痛が死ぬほどデカイ場合に◎。
ただし全ての適応障害に向いているわけではなく
・独特の閉塞感からイジメが多発するような環境だと真っ先に狙われるかも
等のマイナス面もあるため、結局は単純労働には単純労働の能力が求められ結局はコミュ力だが大事に。
パワー系適応障害に向いていると一部では噂されている。
とにかく身体能力が高ければそれだけで優遇されるという点は適正が分かりやすくて◎。
ただし
パワー系と同じでとにかく知力が高ければそれだけである程度やっていける部分はある。
ただし
・適応能力の低さを知能の低さと見做されると低知能者差別が自分に飛んでくる
といった要素があるのでこれも案外△。
とにかく手に職さえつければ多少の適応障害は無関係と言われている。
実際のところは
・専門技能が同レベルの場合は査定や就活で定型発達者に対しかなり不利
・専門性を持った上で非専門者に説明するタイプの仕事の場合コミュ力が重要
・専門技能を高める過程で質問や師事が必要になると結局は個人間のコミュニケーションに
などなどの「結局はコミュ力」な部分が意外と多くなる。
独学のみでも学習がしやすく、仕事内容に一貫性が高いという条件を満たす専門的業務は意外と少ない説。
もう顔さえ良ければどうにかなるだろという暴論。
実際の所、相性のいい相手を見つけてヒモにでもなっとけばある程度はどうにかなるとも。
問題点としては
・なんだかんだコミュ力
・裏社会の変な所と変に関わると詰む
などがある。
まあブラック企業で職歴にならない激務して無駄な時間過ごすのと大差ないと言われるとそうなのかも。
専門技能という域すら超えた持って生まれた異質さで食っていくスタイル。
・売れなくなった時の分析が困難
いっそやってみろと安易に勧められがちな気もするけど難易度がキチガイ的に高いすぎると思う。
ナマポ、親のスネ、親戚に飼ってもらう。
・潰しの最終地点なのでこの先がほぼない
・復帰するためのハードルが意外と高い
やめろ