はてなキーワード: 地の文とは
がどうしても苦手で最後まで読めないんだけど、増田やブクマカはそういうのあまり気にしないよね。
例えば以下の記事。
『5,000円から始められる!? バーチャルYouTuberになるためのお金の話(マシーナリーとも子)』
https://hikakujoho.com/work/62874800012376
あと「おっさんだけど美少女っぽい声を出したい!」って人はボイスチェンジャーも必要ですね。これもいろいろあって(中略)手頃な選択肢も結構ある。予算や用途に応じていろいろ試してみるといいよ。
さて、上記のような方法で、あなたは晴れてバーチャルYouTuberとしての肉体を得ることができました。各々いろいろと楽しむ目的はあるだろうけど、それとは別に脳内にチラつくのは「バーチャルYouTuberって儲かるのかな!?」ってことじゃないかな。
例えば、バーチャルYouTuberになれば、自分のグッズを作って売ることもできるのよ。現に私は「BOOTH」(pixivと連携して、創作物の売買ができるサービス)で「マシーナリーとも子のキーホルダー」や「LINE STORE」で「LINEスタンプ」を作って売っています。
コロコロ変わるにしても、地の文や独り言はフランクな言葉遣い、読者に話しかける部分は丁寧語という感じで
ある程度法則にのっとって使い分けられているならまだ分かる。でも上記記事は完全に混ざっている(最後の引用箇所が顕著)。
たぶん自分は気にしすぎなのだと思う。上記記事は300以上もブクマがついているけど、
誰も文末表現の不統一について突っ込んでいない。日本語として内容が伝わればそれでよいのだ。
ただ、それまで断定形で書かれた文章が途中からですます形になると
フランクな物言いだった友人が急に「僕はこう思います」なんて言い出したら混乱しませんか。
段落単位で変化しても混乱するのに、それが2~3文単位でコロコロ変わられると読んでいてすごく引っかかるんです。
今思い出したのですが、小学校の先生が文末表現の統一に結構こだわる人でした。
その影響が少なからずあるかもしれませんね。
他に同じ人いないかな。
著作権32は「引用は無罪(公正さや目的ももとめてるが基準なし)」っていってるだけで、さっき書いたような「出典かけ」とかの具体的要件はなんとこれもインフォーマルにも「判例法」によって定められている業界慣行のようなもの。ちなみに、正しくは「引用元出典を書く(区分が明瞭)」「一字一句かえない(正当目的性、著作物改変の罪が別条に存在するため)」のほか、「主客逆転しない=地の文の方が多く引用部分を超える主張やオリジナリティがある」の全部で3つの要件があるとまとめられることが多い
https://pf.bunka.go.jp/chosaku/chosakuken/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000304 著作権の大元じめ文化庁
なお法学者に引用を説明させると判例もってくるからとにかく長い(しかも判決文以上のオリジナリティがない)・・
著作権32の中(またはそこで引用する政令などの中)でもっとわかりやすく
「文章の著作物で引用するときは出典をしっかりかけ、一字一句かえるな」とか
「タイトルなどの恣意的でない要約は著作物の引用ではないのでもともとやってよい(タイトルは著作物でない判例あり)」ってこれからみんなで決めたらそれが新しい正義になるよね
現状はバカが「引用無罪」を拡大解釈して改変でもいいとこどりの趣旨改変でも何でもやりたい放題やる(「判例法?しったことか!」)から問題のタネにしかなっていない条文
だから論文かくひともわざわざ32条なんか調べたりしないのもある意味正しいよね、同じ無法者として
いつ自分も他人もうっかり著作権侵害するかわからない世の中でよくみんな平気で「執筆」してるなぁって思いますわ
最近またよく同人を辞めた理由〜創作を辞めた理由〜みたいな記事をちらほら見る。
なんだ、また流行りか?定期的に見るよな?とか思うが、まぁ流れに乗って私からも一つ。
同人書く(描く)人間、ネット上でも創作物を載せる人間。匿名でメッセージを送れるツールを連携するな。
私も、匿名だからとツイッターHN有りでつらつら何千字もある感想とか送りたくない。
私はツイッター上でだいぶアッパラパーな感じで、真面目なことなどほぼ言わない。
だから、真面目くさった恋文と呼べるような感想とかめちゃくちゃ恥ずかしい。だから匿名で送れるツールというのは、とても助かる。
私のような、「自分」を隠してそう言ったメッセージを送りたい人間が多いのはわかる。
しかしだ、匿名性を生かして、マシュマロの悪意を弾くフィルターをかいくぐり、悪意を送る輩がいると、知らないのか?
もちろん知っているはずだ。それなのに、匿名を置き続けている人間。聞きたい。お前はもし、その匿名ツールで悪意を送られてきて、
大丈夫か?
もう既に結構前だが、ネット上でもそれなりに知名度がある創作者が創作の畑を発った。
感想などが貰えるのは、創作者にとって舞い上がるような事だろう。
事実、私も感想をもらってとても元気になる。描いてよかったと思える。
私は創作を止めることは、とても恐ろしい事だと思っている。
だから、その不安要素を排除するために、貰えるかもしれなかった感想を全てなかったことにしている。
匿名ツールを設置すれば、きっと倍以上の感想をもらえるだろう。
しかし、それに混じり、悪意ある言葉が綴られていたら、私は息を引きとってしまう。
話が私の話にそれてしまったが、話を戻そう。
絵、文字、物語、カップリング、話し言葉や地の文、あなた方が綴る全てのものを、
見ず知らずの顔の見えない他人に否定をされて、創作を辞めたりはしないだろうか?
自分は強いと思っているかもしれない。悪意など屁ではないかもしれない。
それでも、言葉の刃で傷をつけられて、あなたは立ち続けていられるか?
どんな言葉をかけられても、無傷でいられる鋼の精神と、それを維持し続けられる環境にいるか。
筆を折ることはない。そんな強固な意志があるのなら、匿名ツールを置けばいい。
むしろ、置いてほしい。
しかし、もし、傷がほんの少しでも付けられるかもしれないと思うのなら、
本当に送りたい感想なら、ツイッターのDMでもなんでも送るだろう。
もらえないと言うのなら、それまでだと言うことである。
それでも、捨て垢や突撃で悪意ある事を言ってくる猛者もいるかもしれない。
その場合は、刃を持って刃で制せ。
匿名に頼るな。
はてなブックマーク - 【お詫び】月例ネット世論調査2019年1月の一部設問につきまして|ニコニコインフォ
日本と韓国の関係は、慰安婦問題に関する日韓合意の実質破棄、韓国人元徴用工らによる日本企業の資産差し押さえ、韓国軍駆逐艦による海上自衛隊機への射撃用レーダーの照射問題などで急速に悪化しました。あなたは、韓国製品の不買など自分なりの韓国への「対抗措置」をしていますか。いくつ挙げてもかまいません。
文章に慣れている人からすると、この「対抗措置」という部分は「いわゆる括弧付きの対抗措置」と理解できるんだけど、そういう用法を知らない人たちが、この部分をそのままの意味で読んでいるということだと思う。
文章を書くのは好きなんですよ。タイピング速度の限界ぐらいまではつらつらと書けるっていうか。
ただ変換とか苦手なので、そこまで早いってわけではないですが。
ほらもう横道に逸れた。
自分でも自覚してるんだけど、(これ推敲したら自分、自覚で被ってるから駄目ですね、なお本稿は無推敲)文章力が無い。
一度、自分の書いた小説(初期作品)を感想掲示板みたいなとこで評価依頼出したら、くそほどダメ出しされた。
元々一文が長くなりやすく(当時は西尾維新さんとかむらかみはるきとかの影響も受けてたから余計)、そして前後の繋がりが悪かったり、途中で言いたいことが変わってしまったりして。
自分では繋がってるつもりなんだけど、冷静に読み返すと確かにナーと思ったりもした。
で、もう文章力の向上はある程度諦めて(いちいち文章として正しいかとか考えてたら折角のアイデアが消えてしまう、思いつき派の書き手なため)推敲をある程度頑張るようになったり、まあそれでもあんまり改善されないんですが。
人気出たWEB小説書いたときはその時の流行でもあったので、会話、3行ぐらいで短文の地の文、会話、みたいなのを繰り返すスタイルにしたら結構読みやすいと評価を得た。
でもこれって、文章が上手くなったわけではなく、料理で言うと味つけをシンプルにしただけで。
肉を醤油、みりん、酒、砂糖とかで味つけしたらやっぱり美味い下手って出るじゃないですか。
でも塩胡椒だと差が出ないみたいな。
自分では味のある文章だと思ってて、ウケを狙わず好きなことを好きなように書くときは、長文多いんだけど、そんで自分では意味が通ってるつもりなんだけど、やっぱり人からみたら下手な文章なんだろうなって。
あと余計なことを書きすぎるのも悪い癖。
人と話す時とかコミュニケーション能力に不便感じたことはないので、伝えることは出来てると思うんだけど、会話だと流されてるところが文章だと読み返して考えたりできるから余計ですね。
まあ、もう何年も続けてるからこれ以上成長しなさそうだし、努力する気はないのでこうやって増田になってるのも暇つぶしなんだけど。
【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店やネット書店、最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネルを選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説「断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます。
当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的で自己判断できる存在としての近代的主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的なイメージに対して、ハワイ・日本・沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます。
いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談「ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様の用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女の三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。
知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子をうつ。適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争(太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮の鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)
この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談の本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談の想像力」はキリスト教のテクストにも見出されるという点です。
(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)
この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体的区分による解釈は、恣意的でグロテスクな切断」(34ページ)となります。しかしバベルの塔の神話が示すように、神は常に「言語と文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。
「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史の境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉だからだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)
ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たちの理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)
「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述があくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります。
たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰を告白せずに死んだ祖父が天国でないどこかへ行ったのではないかと不安になった」という文章が地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラストの文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)
「聖書を怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者の信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります。
イスラーム法学の中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰者自身による学問的考察のいくつかには、相対主義と決断主義のあいだでさまよう私たちの課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます。
以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌の特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。
京アニのTVアニメが涼宮ハルヒを一気にメジャーカルチャーの代表に押し上げたことは間違いない。しかし作品自体を殺してしまったことも事実だ。
ここ数日の議論でハルヒを「殺した」のはエンドレスエイトだとか主役の声優だとかでているが、一番の原因は原作の続きが出なくて完結しないことが確定してしまったことだ。そしてその原因は京アニがこの作品で絶対やってはいけないことをやってしまったためだと思っている。
それは主役のキョンを絵にしてしまったことだ。単なる登場人物にしてしまったことだ。
原作を読んだ人はみな知っているが、原作におけるキョンは特殊な人間だ。主要登場人物の中で唯一名前が出てこない(あおりをくらって「キョンの妹」になってしまった名無しの登場人物はいるが)。外見も描写されない。表情や態度を他の人物が描写する台詞もない。完全に透明なキャラクターとして設定されている。
また、物語においてはキョンの登場しない場面は一切描写されない。地の文章と頭の中のモノローグと声に出したセリフも区別されない。他の登場人物は、しばしばキョンの頭の中で考えた言葉に反応する。
これはおそらく物語の根幹に関わる意図的な表現だったはず。しかし京アニはこれを破壊してしまった。
キョンに外見をあたえてしまった。口に出さない、内面の声に他の人物が反応することもなくなった。サムデイ イン ザ レインにおいては、あろうことかキョンのいない部室の様子を書かせてしまった。後書きで谷川流が示唆していたが、これら一連の行為により、作者は予定していた完結編を書くことができなくなってしまったのだろう。
たとえば、凛とした誇り高き少女騎士であったアルトリアというヒロインは、下着姿を衆目にさらすキャラクターに変えられてしまったり。
これはしゃあなくねえか?
新シリーズに切り替えずに大昔からの旧キャラクター全部出そうとしてるだけでも頑張ってるのに
また、そういうのはだいたい今の目で見ると微妙(懐古老害はそう思わないかもしれないが)だからリファインも必要になる。
だいたいFGOって露出度の高い女の子がウジャウジャ出てくるじゃん。
ナイチンゲールなんかコンドームぶら下げたコスチュームでなんとか礼装って言われててなんの礼装やねんと。
そういうトンチキなゲームを楽しんでるんだから、旧作の凛としたキャラが下着出したぐらいでピィピィ言うなや。
それはお前がずるいし懐古方面に偏ってるよ。
タイプムーンのギャグは、年々、パロディと身内ネタばかりの寒いものとなっており、笑えるコメディアンのポジションにすらなれないのが現状だ。
アレを楽しめた奴が今更「寒い」とか言うな。ずるいわそれは。
fateを初期からやってて旧キャラに関する知識や思い入れが豊富なんて奴は
100パーうるさいだけの厄介ファンであって
FGOの興隆はそういう奴等じゃなく新規ファンの流入によるのだろう?しらんけどたぶん。
そりゃお前らの扱いは一等客席ではないわな。
なんでもそういうもんだよ。
「うまい」(旨し(古語))は、「甘い」を語源とする一般的な食べ物の「良い味」を意味する言葉で、「うまい」というのは特に下品な言葉でもなければ失礼でもありません。本来、現代でも普通に使われて良い言葉です。
対して、古語「美し(よし)」を語源とする女房言葉だった(「よし」→「いし」に、美化語である「お」が付いた)「おいしい」は、その発生から「女性が使用して上品に感じさせる言葉」としての歴史をもっています。年配の方の一部では、女性語と受け取る人もいます。
つまり、女性による「うまい」の使用がやや乱暴に感じられるのは、一般的に用いられる女性語としての「おいしい」をあえて選ばなかった、という言外の意味が生じるように受け止められるからでしょう。一方で、「おいしい」を女性語と感じない(単なる「ちょっと丁寧な言葉」と思う)人が増えた結果、「どうして女性が使うと下品に聞こえるのか」が分からなくなった、というのが今回の文脈ではないでしょうか。
なお、明治の文豪等は、そもそも食べ物の味について云々すること自体をケシカランことと思っていた節もあるようですが、それを表現する際には、地の文や男性語としてはおおむね「うまい」が選ばれていたようです。その後の用例をみると、明治末ごろから大正にかけて、女性作家や児童文学作家などの文章に普通に「おいしい」が用いられるようになっており、その辺り(時代、場所)から男女問わず用いられる今日の「おいしい」の用法が広まったのではないかと推測されます。昭和に入ると、特にカジュアルな口語的表現において、男性の場合も「おいしい」を使う例が増えているようですね。そこでは「うまい」はやや古風な表現という受け取られ方をしているようで面白いです。
ノーマルEDだけだと★2くらいだったけど、オールクリアで★3.5くらいまで上がった
このご時世に完全新作ADVを出してくれただけでもありがたいってのはまずある
2chを見ると発売日がオカルティック・ナインとかぶってたらしい
テーマも似てるとくりゃこっちが売れる要素がない
まあオカルティック・ナインが地雷とわかってこっちに流れた人もいたみたいだけど
トゥルーエンド兼個別ルートは、実はノーマルEDは終わってなかったってところから始まる
んでエンディングまでは一本道
あからさまにひいきされててうーんとなった
イチレイってキャラが絶妙に下手だなと思ったけどユーフォ主人公の声やってるくろかわともよ?だった
やって損はしないけど無理してやるほど面白くもないって感じ
個人的に駄目だったポイントはシステム、一部の立ち絵、しつこい貧乳ネタだった
シモネタはいいとして、貧乳いじりがしつこすぎてほんと読んでてイライラする
たまーにあるくらいならまだいいけど、かなり頻繁にあるからほんと勘弁
しかもゲーム会社っていう一応大学生~成人してるコミュニティだから、なおさら
ラノベとかアニメみたいな高校生程度くらいのコミュニティならまだいいけど、いい大人がそれかよと思ってゲンナリする
システムはサクラ大戦のスタッフが作っただけあって制限時間つきの選択肢とかあるけど、ほとんど意味ない
こういうアドベンチャーゲームなら背景と立ち絵と立ち絵の動きだけで表現できるところをわざわざテキストで読ませるからすごい描写がかったるい
BuzzFeedのこの記事を読んで「ソースなかったのか」と受け取る人がいて面白い。見出しで誘導されてるのか
「女の子がやってはいけない一番悲しいことは…」エマ・ワトソンの"名言"拡散、でもソースをたどると…
https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/emma-watoson
・エマ・ワトソンの名言botが「女の子がやってはいけない一番悲しいことは、男性の為に頭の悪いふりをすることです」とツイートしてバズる
・ツイートにはエマ・ワトソンの国連演説の写真が添付されていた
・エマ・ワトソンの過去の演説で、こんなことを言ったことはなかった
・調べると「The Leaky Cauldron」という「ハリー・ポッターのファンサイト」の2006年の記事に掲載された「オクスフォード・ユニオン(同大の学生弁論団体)で講演した内容」だとわかった
・ただし「地の文」に書いてあるだけでかぎ括弧付きでないので、実際に何と言ったのか、エマ・ワトソンの真意は分からない
・当時のエマ・ワトソンの講演の動画や全文ログがなかったので確認が取れなかった
自分はこの記事読んで、「エマ・ワトソンの名言」の裏付けは取れたんだなと思ったが、「取れてない」「真偽不明だった」と受け取る人もいて不思議な感じだった。
記事では「The Leaky Cauldron」を「ファンサイト」と説明するだけで後は非常に疑ってかかってるので、確かに「このサイトは日本のまとめサイトのようなデマも報じるトンデモサイトなのかな?」とは思ってしまう。
しかし確認してみると、2006年にこのエマ・ワトソンの講演記事を書いた「Melissa Anelli」なる人は、すごいハリー・ポッターファンとして世界で知られる作家であり、Wikipediaにも単独項目ができているほど。https://en.wikipedia.org/wiki/Melissa_Anelli 2005年にはJKローリングへの独占インタビューもしていたという。一定に信頼されているファンサイト記事だということだ。Twitterもやってるので本人に直接取材することもできるかもしれない。https://twitter.com/melissaanelli
当時書かれたレポート記事について「映像と全文ログがないから真偽が分からない」なんてなったら、過去の新聞記事の引用なんてのも絶対無理だと思う。
エマ・ワトソン本人が「そんな発言してない」とおかんむりなら、当時の記事に発言の捏造があったか、というのは疑って当然だけどそうじゃないし。
まあ12年前のエマ・ワトソンはまだハリー・ポッターの続編を撮影中で、活動家として講演したわけではないから「当時の真意」を知るには全文ログを確認したほうがいいし「フェミニズム発言として引用するな」とかも言えるかもしれない。
本業の方に添削していただいて、文例まで書いていただけて恐縮です。
確かにそのように書いた方が、ずっと没入感があり、感覚が刺激されますね。
確かにこれは第2話という位置付けです。タイトルの「サトシの原子炉」をクリックするとカテゴリページに遷移するので、そこに第1話があります。もし読んでいただけたら嬉しいです。
地の文についてですが、神の視点の文は基本的にありません。タイトルにある名前の登場人物の視点で書くようにしています。
ご教示いただいたことを踏まえて、全体との整合性にも気をつけて修正を加えていきたいと思います。
語尾については、その登場人物が出来事を語っているように書いています。すなわち、基本が過去形で、臨場感をもたせたいところや、客観性が乏しく、その人物の感覚や感情の比重が大きい部分は、終止形にするようにしています。
原文だと、香り、香り、匂い、と嗅覚情報ばっかり先に立って、本来は最初に飛び込んでくる音の情報が遅い。匂いばっかりだと変化もないので適度に情報の種類を混ぜ合わせた方が楽しく読める。
言葉の意味のかかり方についても、ちょっと不注意だ。「食欲をそそる肉の香りが、ネギ油の香りの中にほんのり広がる」だと、食欲をそそるのは肉の香りだけになってしまう。そういうわけでもないだろう? 両方にかかるように、文を工夫するといい。
鮭と鶏肉と、動物性の具材をふたつも入れたら味が濁るんじゃないかという疑問もあるが、そこはまあ、妥協しよう。どっちもマリネされてるから味が濃くなりすぎないかというのも、ぎりぎりここでは妥協してやる。自分で反芻してくれ。
よろしくないのは、一人称なのか三人称なのかが冒頭だとちっとも分からんところ。第二話と書いてあるので第一話でしっかり出た情報なのかもしれないが、転換とともにそういうのが変化することもあるので、出来れば早くに、人称がどっちなのか、一人称なら誰の一人称なのかを示しておきたい。しかも、さりげなく。「とってもいい匂い」は口語なので一人称であることを示しはするが、口語で地の文書くような素人も多いから、もうちょっと念押ししておきたいところだ。
「フライパンと鶏肉の接触面」って。「接触面」って。そんなの料理中に心に浮かべるか?
語尾がウ段の終止形ばっかりでリズムがない。注ぐ、入ってくる、塗り広げる、広がる、砕いていく、音を発てる、ご飯を加える。すっごい単調。意図がない限り、同じ語尾はせいぜい2回続けるくらいに抑えておけ。
細々指摘するのも大変なので冒頭数行だけいっそ改変してみる。
よく熱したフライパンに適量のネギ油を入れると、弾けるような音といっしょに香ばしい匂いが広がった。
鶏皮を使って油を全体に延ばすと、動物性の脂と溶け混じって、いっそういい匂いになる。パチパチという音まで美味しそうだ。いい感じだぞ。
香りが立ったところで、いよいよ具材を炒め始めよう。まずは鶏肉、火が通ったら野菜も加える。リズミカルにじゃっじゃっ、と音が鳴るようにしゃもじでまぜていく。立ち上るいい香りを大きく吸い込んだら、「あー、絶対美味しいよこれ」と思わず声が出た。私史上、最高かも。フライパンを煽ると、具材と一緒にぱっと炎も宙に躍った。わっ、なんだか気分がアガってくる。
いちおうプロだった俺が書くと、こんな感じ。
だらだら料理手順の説明を続けても読者は面白くない。よほどのことがなければ、何を入れたのかこと細かに説明する必要はない。まとめて省略してしまっていい。具材に何が使われているのかは、この小説の面白さに必要か?
人物が、楽しそうに料理している様子を描く方が、まだしも読者も同調して楽しんでくれる。「調理」じゃなくて、それをしている「人」を書いてくれ。
以上。今後の健闘を祈る。がんばれや。
その場合、お金をもらってないので広告記事じゃないですが、念のため、その企業に公開前の事前確認をしてもらうことがあります。
その企業の広報担当者の中に、時々、非常識な修正依頼や要望をしてくる人がいます。
これは最も非常識。
そもそも、企業に確認をお願いすること自体、それが広告記事でない限り、あくまでサービスとして事前に見せています(企業に求められなければそもそも見せないことも多いです)。
事実に反することや誤った表現があれば指摘してほしい、くらいのことです。
企業に確認をお願いしているのは、あくまで企業に関わる箇所だけであり、それ以外に口出しする権利はありません。
これが一度あると、この企業には確認をさせないようにしよう、ひいては面倒だからそもそも取材を控えよう、となります。
業界は狭いので、その一つの媒体だけではなく、他媒体にも噂は広まっていきます。
もちろん、タイトルや見出し、インタビュアーの言葉であったとしても、ちゃんと経験のある広報担当者であれば、「ここは〇〇と変えるのもアリかと思いますが、あくまでご提案です」といった大人のやり取りをしてきます。
その企業に関わる箇所で修正したいところがあれば、どう修正したいかを明確に提示すべきです。
なぜなら、こちらは100%良いと判断した状態のものを見せており、企業によってその一部を変えるのであれば、どう変えるかをこちらが考えるのは本来不要だった仕事だからです。
もちろん、事実関係の誤りだったり、それが公表資料をあたればすぐ分かる情報だったりすれば、代替案を明示せず、「ちゃんと調べろ」でもいいと思います。
これは無料記事だけではなく、広告記事にも当てはまることです。
どこをどう直したか、それが全く分からない形で戻ってくることがあります。
もちろん、例えばWordなら、元ファイルと比較する機能があるのでこちらでやりますが、特に無料記事でこちらの仕事を無駄に増やすのはやめていただきたいです。
Googleドキュメントなら修正履歴は自動で全部残るからいいのですが、Wordを使う場合でもこちらから事前に、「修正履歴を残してください」と案内しています。
それでもやらない人がいる。よほど自分の修正に自信があられるのでしょうか。それとも、履歴残さなくても、こちらが全文を目で見て照らし合わせるとでも思っているのでしょうか。
一度戻ってきて、その修正を反映させてこれで完了、と思っていたら、次から次へと修正事項の連絡が来るやつです。
時には、そちらが修正した部分についてさらに修正すると言い出し、こちらの元原稿に戻ることさえあります。
いえ、その議論の過程はあってしかるべきですが、全ての関係者のチェックを、社内で全て終えてから戻してほしい。
例えば、やたら、句読点が、多かったり。
スペースを とにかく やたらと 入れまくったり
改行が
多かったり
なんでもかんでも安倍のせいにしたり(そりゃ労働時間関係とかがっつりかかわってる案件もあるけどさーそうじゃないのでも総理のせいにする人いるし)
反応を得たくてわざとやってるのかな?
それはそれとして私の地の文章がおかしいと思ったならそれは私の力不足です。おかしな文章と思われないような学習がしたいのでおススメのwebページとか本とか教えてください
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.