はてなキーワード: 栗本薫とは
有名なのだとベルセルクだけど、それ以外でもいよいよクライマックスってところで作者が亡くなったりで見られなかった漫画とか結構あるよな。
比較的最近だと天牌という麻雀漫画、100巻超えて伝説の爺さんみたいな人のために最高の麻雀を見せるという勝負の途中で作者が亡くなって終わっちゃった。
新満さんより先に死ぬなよと。
鮫島、最後の十五日とかシリーズ最大の謎だった究極の横綱泡影との対決を目前にしてだからなあ。
俺が死んで作者と同じところにいけたとしたらどうするつもりだったのか聞いてみたい。
そっちで漫画描いてるのかなあ。
ゴルゴに関しては作者が生きてる間に永遠に続ける体制を作ってたらしいのでまあ。
ルパンとかクレヨンしんちゃんとかはどういう経緯だったけかな。
小説でもゼロの使い魔、屍者の帝国、グインサーガと結構あと引き継ぐのはあるよな。
それは「自分もおじさんになる」と観点が彼からすっぽりと抜けている所だと思う。
20年間男として生きてきて、これから先も男として彼は生きていくのだろうに、
彼の言葉からは「自分がこれまで男という性別で生きてきた」「これから先も男という性別で生きていく」と実感がまるでない。
彼の言葉を借りるなら、「男と女ともう一つ、全く違う思考回路の別の種族」としてあろうとしているのが彼なのだと思う。
女性の漫画家さんから生み出されたキャラクターという事もあって彼は女性に親身で女性に寄り添う女性的な存在ではあると感じるけど、
それでも作中での彼は「男性側でも女性側でも無い完全な第三者」という立場から意見を言う存在として描かれてる。
現実では今の所「男性でも女性でも無い全く違う思考回路の別の種族」は存在していないので、
久能くんは「女性に親身で寄り添う男性」なのだろうけど、この「男でも女でもない種族」というのが女性向けのジャンルには古くから存在する事を僕は知っている。
男性側の性別に分類されるが女性的な特徴を持つ「受け」は萩尾望都氏や竹宮恵子氏、栗本薫氏ら古の女性クリエイターの全盛期から存在していた。
「ミステリと言う勿れ」に登場するキャラクターは多くが男性的特徴を持つ男性と女性的特徴を持つ女性とに分かりやすく描き分けられているけど、例外が二人居る。
この二人は中性的な美男子として描かれ言動も容姿も女性的でも男性的でも無い「第三者」として描かれている。
美形という事もあって読者人気も高く恐らく作者の田村由美先生からも嫌われてはいない、と思う。
男性であるが故に「女のくせに!」と男性から蔑まれる事はないが、同時に「男性的な汚らわしさ」を持たず女性の側に立つ事が出来る存在。
そういう、現実には存在しない「男性側でも女性側でも無い第三者」として男性を非難し女性を擁護出来る久能整くんの立場が、汚れた男である僕には妬ましいと思った。
【追記】
ミステリと言う勿れのドラマを見た知人に「でもこういう男の子って本当に居るかなぁ?」と何気なく聞いた所、
「日本中探せばこういう子も居るでしょ」とか返ってきた。
ああ、だから久能くんの言葉を旦那に聞かせようとする主婦が多いんだろうな…と思った。
現実のどこかに久能くんみたいな男性が居てその人の言葉だと思えるんだろうから。
【追記2】
今だけ三巻まで無料!是非読んでみよう!
https://csbs.shogakukan.co.jp/campaign?id=2201-f0f421b5d583fd77
イメージとして掴みやすいのはセクシー女優とかAV女優のカラダだろうか。
彼女らの体はもちろん自身の体だが同時に我々の共有財産としてのカラダである。
風俗嬢なども同じかもしれない。
私が長らく通い詰めた〇〇という女の子のカラダは私や他の客たちの共有財産という側面を持つ。
風俗嬢本人にとっての金を稼ぎ出すための財産としての体とは違う意味での財産である。
こういった価値観というのは性を商売として生きる女性の体以外のカラダにもあてはまるのだろうか?
昔、栗本薫の短編で世界が崩壊したあとのディストピアな世界を生きる男女の話があったように思う。
その中で新たに社会を築こうとした人々の間で女性のカラダの配給に関する取り決めがつくられようとしたあたりでその男女はその社会から離脱してただ二人でその異世界となった現実世界で生きることを選択するのだ。
そのような行動が人間にとって自然な選択だとすると共有財産としてのカラダという概念は否定されることになる。
しかし、一方で先に述べたように現実的な概念として共有財産としてのカラダは存在する。
私やあなたがセックスをした女の子たちはたくさんの男たちを楽しませ満足させてきたのだ。
女性というのははひとりの人間としての人格とはまったく別次元にただカラダとして存在する瞬間というものが必ず訪れていて経験しているはずであるし、もとよりカラダとしてしか認識されていない状態は多々訪れている。
某所で取り留めなく書いた物です。折角なので今日の日記にしてみたいと思います。
過激なフェミニスト兼ミサンドリストの言い分というか最終的な目標って男性を奴隷にする事なのかな?
「女は殴って男の言う事を聞かせるべきだ」みたいな事を言う過激な女性差別主義の対極の存在というか
辞任に追い込まれたあの人のような発言を男性にしている女性が特に炎上もせず、むしろよく言った!と称賛されるのに性差を感じるね
仮説だけど過激なフェミニスト・ミサンドリストは嫌いだけど穏健なフェミニスト・うっすら男性嫌いの人には共感する女性は多いんだろうか
結局のところ過激な人が煙たがられるのは口汚かったり攻撃的だったり自分の事は棚上げしたり主義思想に関係ない所も大いに関係あるだろうし
少年漫画の無意味なお色気描写、巨乳キャラの煽るようなポスター、ミニスカートキャラのPRポスターなんかは女性が積極的に好む物でもないし
そこら辺を攻撃すると女性向けにも跳ね返ってくるからやめようよ…と言う人は居ても私もそういうの大好きだからやめてよ…って人は少なかったよね
過激なフェミニストとミサンドリストって女性を攻撃したり女性の不利益になる事するのが嫌われる一番の理由じゃないかな
もし純粋に女性の権利拡大を目指すだけだったり男性を嫌うだけなら男性から嫌われても女性からは消極的に応援されていたと思う
例えば女性蔑視的な表現がこの世から無くなるならそれは良い事だけどその過程で多くの女性が楽しんでる作品まで無くなったら本末転倒だし
ああいう過激な人達は「自分が楽しんでいる物だけは別」って基準があるから結局自分の気に食わない物を弾圧しているだけとしか思えないのが困る
フェミニズム=女性のための活動なら自分の得になる事は全てフェミニズムって理屈でどうとでもなるんじゃないかな?
今フェミニストを名乗っている人って大体今の自分の人生に満ち足りていない人だから成功している女性の事は憎いと思う
実際過激なフェミニストやミサンドリストが自分の周辺に害を成さないなら気にせず黙認している人は多いんじゃないかなって気がしている
女性を性的な目で見る男性や少年漫画のお色気描写が不愉快でそれが無くなる分には喜ばしいという女性は少なからず居そうだし
「男性」という属性その物を憎んでいてそこに属する人全てが攻撃対象だから女性にも過激なフェミニスト・ミサンドリスト嫌いな人が増えてきたんだろうね
海外の男性は素敵な人が多い、海外のジェンダー観は進んでいる。それに比べて日本の男は…みたいに会った事も無い遠くの人を神格化して身近な人を貶す人も困る
ヒロインを嫌う人自体は腐女子以外にも夢女子だったり別CPのファンだったりもするんだろうけど
腐女子は「腐女子はヒロインを叩かない、それはドリ厨やノマ厨の仕業」って堂々と腐女子無罪を主張するんだよね
人気作品の最終回後男男CPがくっつかなかった事を異性愛規範がジェンダー観がどうの叩いてる所よく見るのに
「腐女子は初めから捏造CPだと自覚してるからわざわざヒロインを叩かないよ?」なんてバレバレの嘘を吐くんだろう
モブおじさんを自称したり「壁や天井や観葉植物になって推しCPを観察したいだけだから…」みたいな事言ってるの見ると
腐女子は男オタクや夢女子や男女CP好きと違ってBLに腐女子の欲望は一切介在していない自分は何も悪い事をしてないって思考がデフォルトなのかな
自分の妄想が自分由来じゃなくて「原作を読み込んだら自然と出て来た」みたいな事もよく言ってるし、本当に自分の欲望を認めたくないんだなって感じる
アセクシャルアロマンティック自称する腐女子が多いのも自分には性欲や恋愛願望はない=BLは自分の性欲や恋愛願望から出た物ではないって言い訳なんだろうか
受けが作中のイケメン達からモテモテ=幸せって考え方がもう受け=女性=自己投影の証明だよねって誰かが言ってた
昔からBLや腐女子が批判されると「日本には昔から衆道という伝統ある同性愛文化があったのに~」とBLと現実の同性愛を結び付けたり
最近だとBLはゲイ当事者からも愛されている、BLはポリコレ的に正しい、腐女子はLGBTに対する理解と感心が優れているみたいな社会正義側みたいな事言ってるのが凄い
BLはゲイ差別表現をこう乗り越えた……当事者たちが考える「ポリコレの先」
https://bunshun.jp/articles/-/36926
BL作家のすごいところは、ゲイの人に気を遣ってとか、ゲイの人に一生懸命たくさん取材をして、というわけではない人がほとんどで、自分たちの楽しみを追求しているだけ、という人が多いのに、それでも、リアルなゲイの方から見て、ポリティカリーにコレクトな表現にたどり着いている人が大勢いることです。
腐女子本人がここまでBLと腐女子の事を自画自賛出来るんだから本当もう冗談抜きで凄いと思う
栗本薫が昔自分のやおいレイプ小説はホモ当事者のための物であるって後書きに書いてゲイ当事者の怒りを買った事があるそうだけど
例えばインテリな学者さんでも一時代を築いた作家さんでも腐女子ってだけで自分はゲイの味方であり社会正義であるみたいな事言っちゃうんだ…みたいな虚しさを感じる
何でBLは男女恋愛の女性を男性に置き換えた疑似異性愛です受けに自分を重ねていますって認められずに逃げちゃうんだろう…
自称モブおじさん、壁や天井になりたいだけ、腐女子はヒロインを叩かないみたいな言動も合わせて腐女子は絶対に自分が正義側である事以外を認められないんだろうか…?
同性愛者のコミュニティにゲイの振りをして潜り込もうとするからゲイから嫌われていたのがもう10年以上前だっけ…?
そういう所でリアルゲイから得た知識をホモビアの泉とか言って披露し合う滅茶苦茶悪趣味な事やってなかったかな
完全にリアル同性愛者を玩具側にしている側なのに自分を少数派の理解者とか味方とか平気で言える所が本気で理解出来ない、怖い…
「BLはファンタジーだから…」と「BLはリアル同性愛者への理解が深い」
みたいな言葉が一人の腐女子が口から出てくるんだから腐女子は二枚舌が基本なんだろうか…?
腐女子って自分が女性であるって個性から逃げてるからあんなに他責的で自分の欲望を見つめられないんだろうか
何なんだろうとにかく面倒臭いよ腐女子…男男CP好きな事自体は別に悪くないけど男女CP好きを攻撃せず正義面もしないでくれ…
Lを自称→自分は女性にしか興味が無いのでBLは男性目当てに読んでる訳ではないという言い訳?
Gを自称→自分は腐男子でゲイなのでBLを読むのもゲイとして当たり前の事であるという言い訳?
Bを自称→自分は男も女も行けるけどBLは純粋に読み物として面白いので読んでいるという言い訳?
Tを自称→自分はFTMゲイなのでBLを読むのもゲイとして当たり前の事であるという言い訳?
アセクシャルやアロマンティックを自称するのは自分は性欲が無く恋愛にも興味が無いけどBLは純粋に面白いから読んでるって言い訳かな?
吉本ばなな(吉本隆明)・池澤夏樹(福永武彦)・井上荒野(井上光晴)・中上紀(中上健次/紀和鏡)・江國香織(江國滋)・阿川佐和子(阿川弘之)・夏目房之助(夏目漱石)・萩原朔美(萩原葉子(萩原朔太郎))・田中光二(田中英光)・大西赤人(大西巨人)・斎藤由香(北杜夫(斎藤茂太(斎藤茂吉)))・壇ふみ(壇一雄)・谷川俊太郎(谷川徹三・長田桃蔵)・ねじめ彩木(ねじめ正一(ねじめ正也)・中島京子/さおり(中島昭和/公子)・澤田瞳子(澤田ふじ子)・三浦しをん(三浦佑之)・多和田葉子(多和田栄治)・津島佑子/太田治子(太宰治)・金原ひとみ(金原瑞人)
村上春樹・星野智幸・栗本薫・小池真理子・村山由佳・角田光代・江國香織・川上弘美・鷺沢萠・平野啓一郎・絲山秋子・冲方丁・虚淵玄・上橋菜穂子・朝吹真理子・澁澤龍彦・生田耕作etc
なのに文筆は持たざる者でも一発逆転できる分野かのように言われてきた
https://anond.hatelabo.jp/20210215101500
・しょうもない犯人、しょうもない気付き、しょうもないミステリの元祖。
ウィルキー・コリンズ「月長石」
・長さのわりにミステリを期待して読むと徒労に終わる。ドラマ観れば十分。
・ミステリか? 別にいいんだけど。主人公の臭い自意識に長時間堪えられるのなら。手塚治虫の漫画版で十分。
コンラッド「闇の奥」
・「闇の奥」そのものより、「闇の奥」をもとにした無数のコンテンツのほうがおもしろい。『地獄の黙示録』とか。
F.W.クロフツ「樽」
・『樽』はタルい。これミステリ界の常識アルよ。クロフツはもっと薄くておもしろいのがいっぱいある。
・ヴァン・ダインとか今更読むやつおる??
・これもルールタビ―ユくんのキャラ小説なんだよな。意外にミステリしてる点は評価できなくもない。
・別のトラバの人も言ってたけど、悲劇四部作は通しで読めよ。おまえはスター・ウォーズをEP5から観るのか?
・オカルト〜〜〜〜〜〜wwwwww すいません、ふつうに好きです。
・クリスティならなんぼでもこれよりおもしろいのがある。まあ、ある種のパターンを確立したという意味で必読ではある。
イーデン・フィルポッツ「赤毛のレドメイン家」
・いいかげん昔の人が評価してたからって理由だけでレドメイン家をこういうリストに入れるのやめない?
・アイルズ入れるのは当然として、バークリーも入れないのは理解に苦しむ。
ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」
・惰性でオールタイム・ベスト入ってる系の古典としては意外なほどエキサイティング。アイリッシュはもっと評価されてもいい。
・ハッタリのきかせ方は歴史に残るけど、わりに印象に残りにくいんだよな。
・これも型を確立したという点で必読ではある。
・出たよホッグ。20年くらい前ならおもしろかったのかもしれんけどさ。
・知名度の割に、ブクオフに行ったらかならず置いてあるだけの理由はあるものだ。
・出来不出来が激しい作家の一人。奇妙な味勉強したいんなら異色作家短編集読めば。
・そういえば映画版が最近リメイクされてましたね。つまんなかったなあ。ヒッチコック版と原作はいいです。
レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」
・御三家のなかで一番キツい。春樹訳はさらにキツい。ロバート・アルトマンくらいの諧謔が加わって初めて鑑賞に堪えうる。
・ハードボイルドの先鋭性をもっともよく表した作家ではある。本篇より諏訪部浩一の『「マルタの鷹」講義』のほうがおもしろい。
・ロスマクの一冊を選ぶとなると戦争が起きる。法月綸太郎みたいなものさ。ここでもな。
・めちゃめちゃエキサイティングなんだけど、分厚いし今手に入りにくいし……。
・ル・カレのなかでは読みやすい部類だし、正解だと思う。
・ボアナルほんとに読んだことある?俺はない。映画は傑作だった。
・ルポルタージュミステリとしては先駆的だったのかもしれないが、今読むと長いしタルいし冗長。カポーティの美点がほとんど失われてしまっている。
・ポップでしょ。
・たかだかミステリ読みごときにエーコの真価が理解できるとはおもわない。
ローレンス・ブロック「八百万の死にざま」
・一発ネタで長編まるまるひとつ持たせた奇跡のような書物。とはいえレンデルはもっと濃ゆいのがある。
ジェイムズ・クラムリー「酔いどれの誇り」
・ネオハードボイルド作家たちは再評価されるべきだと思うが、中途半端に古くなってしまった感もあり、難しい。
・反面エルロイは古びない。ただLA四部作は何も知らない人が「ブラック・ダリア」だけ読んでもわからん気がする。
ジャック・ヒギンズ「鷲は舞い降りた」
・冒険小説も進化してるので、いつまでもヒギンズを引きずるのは不幸というか、グリーニーとか読ませたほうがいいのでは。俺は嫌いだが。
・マクリーンなんかよりイアン・フレミングのほうがよほどリストに入れる意味あるよ。
・作者がキモい。
・このリストのなかでは比較的新しい作品で、オールタイム・ベスト的なリストでみかけるのは珍しい。個人的な思い入れがあるのか? たしかに発売当時からそこそこ評判高かったけれど、薄い記憶を掘る限りそこまで評価する理由が見当たらない。気になる。
・ライスはたまに読むと心温まってよいが、それはスレた読者の愉しみなのであって、入門者が読んでも伝わりにくい。
・たしかに仕掛けはミステリなしおもしろい小説なのだが、別にこのリストに入れる必要はない。なんでミステリの人は文学にコンプレックスを抱くのだろう。
・うーん。
リチャード・二ーリィ「心ひき裂かれて」
・オールタイムベストでも陰が薄い存在なので、入っていると嬉しい。まあでも数合わせだよね。
ケン・フォレット「針の眼」
・フォレットもそろそろ再評価されるべきだと思うのだが、ダン・ブラウンみたいなものと思われているのだろうか。
・北欧系の元祖ではあるのだろうが、だったらよりエポックなミレニアム入れたほうが誠実な気がする。
・はあ。
江戸川乱歩「孤島の鬼」
・え?
・変格って今読むとふつうにつまんないの多いよね。
・そりゃ読んでも損はないとは思うが。
・当時としてはアベレージはある作家だろうが、そこで鉄鎖を選ぶ理由がよくわからない。
・うーん……いいんじゃないんですか。
・どう読むかによる。単純な出来でいったら虫太郎にはもっといいのがいくらでもある。すまん、いくらでも、はない。
・横正の作品をチョイス理由を添えずにポンと出されても困るんだよな。高校生も困ると思うよ。こんなんだけ読まされても。しょうがない。
・本格ベタな安吾のなかでもなんでよりによって一二を争うほど不出来な作品を選ぶのか。嫌いなのか?
・高木彬光でこれがあがってしまうのは、消去法の結果なのだと思う。
・通っぽいセクレトだが、そこは素直に「天狗」にしとけ。コケまくったサンドマンが唯一正位置になってしまった作品なのだから。
・映画の印象は強いが、清張であえてピックアップするほどかといえばどうか。
・変化球狙いすぎて外しとる。
・流れ的にはわからないでもない。
仁木悦子「猫は知っていた」
・と思ったらいきなり脳死みたいな。
・今あえて読むほどのものではない。
・同上。長いだけ。
笹沢左保「暗い傾斜」
・飛鳥高の長編ってそんな良いイメージないのだが。賞とったってだけで入れてない?
・今選ぶとなると難しい作家だが、針の誘いとかでいいのでは。
陳舜臣「玉嶺よふたたび」
・パッションだけで突っ走った奇跡であることは間違いないが、三大奇書にならべて語るほどかといわれれば疑問符がつく。竹本健治は”今”が面白い現役の作家だ。
・不可欠だとは思うが、真剣に読んでる人は少数派だろう。
・そうね。
・またひねくれたもん入れてくるな。
・ごめん、森村あんま興味ない。
西村寿行「滅びの笛」
・戸川昌子の話をすることはあるかもしれないな。
・マスト。
・鉄板。
・入れても良いとは思うが、そういえば結城昌治がおらんな。
・エッ? そこ?
栗本薫「絃の聖域」
・読んでない。そろそろ疲れてきた。
連城三紀彦「宵待草夜情」
船戸与一「猛き方舟」
・このへんはね。
・入るよね。
・急に九十年代っぽくなったけど、2000年代にもインスタントクラシックな作品はたくさんあると思うよ。
皆川博子「死の泉」
・皆川博子がミステリ的に評価できるかといえば微妙なんだけど、ミステリ界以外で評価される土壌がさほどないようなので、不運な作家だと思う。偉大な人です。
https://anond.hatelabo.jp/20210210225201
重複を削除して、ゴールディングの「蝿の王」を入れた。ご指摘感謝。
間違い探しみたいで申し訳ないが、35は「トルーマン・カポーティ」かな。ノンフィクションをミステリに入れるのは、ちょっと抵抗がある。
はてな匿名ダイアリーには毎日のように女性オタクが書いたと思われる日記が投稿される。
「自分は是々こういう界隈に居るのだけど、こういう人が居て不快な気持ちになった」という内容の物が多いような気がする。全てに目を通せている訳では無いけど
そう言う話を目にする度に「その人はどうしてそういう嫌な思いをする場所に留まるのだろう?」と感じていた。趣味なら自分が楽しむためにやるべきで楽しめなくなったら離れる物だと思っていたから
「好きな作品の解釈が自分と違う人が居る」「自分が好きなCPと違うCPが流行っている」「自分の好きな作家さんによく知らない人が絡んでいる」など分かるような内容もあればよく分からないなあと思うような物もある
CPというのも「別に原作で好き合ってる訳でもない二人が実は好き合っている」と考えるのが好きみたいで、解釈違いだと不快になっているCPも別に原作で好き合ってる二人でもないらしい。どちらも同じに見えるけど違うんだろうな。
何でその人にとって毎日神経をすり減らすような場所から離れないのかよく分からなかったけど、ある日「女性は他者との交流や感情が激しく揺さぶられるような事がとても好きなんだ」という感じの話を聞いた。
他者との交流が好きだから同好の士を探して共通の話題で盛り上がったり、逆に考え方が違う相手と喧嘩という形で交流したり、交流したいと思っているけど中々出来ない作家さんに絡んで行ける他人に嫌な気持ちを抱くのかな?
「交流」という要素を重視して、むしろ原作より自分の作った二次創作を他人に読んでもらったり他人の作った二次創作を読む事の方が好きという人も結構居るらしい。そういう人達にとって「原作」は二次創作のための燃料らしい。
その気持ちは、とても分かる。二次創作を作るために目を皿のようにして原作をチェックする事で原作に対する理解度が深まってより好きになったり、大好きなキャラクターを自分の手で描いたり動かしたり出来るのは本当に楽しいし、まるで原作の延長のような素晴らしい二次創作を書いてくれる人の事は第二の原作者のように思えるというか、ファンでありながら素敵な作品を提供してくれる創造主とも思える…ある種原作者以上に親愛の情を感じるかもしれない。
二次創作の場というのは、本当に楽しい。ひょっとしたらある日原作に触れるより二次創作に触れている方が楽しい、という逆転現象が起こるかもしれない。他人の作品に感想を送ったり、逆に感想を貰うのもとても楽しいし嬉しい。
そんな楽しい場所だからこそ離れたくないし、自分を不愉快にさせる相手に対する嫌な気持ちは強烈なんだろうな…。長年あるジャンルから離れられなかったけど、色々な要因が積み重なって最後には離れてしまった人の話などはとても物悲しい雰囲気だし。嫌だと思う事があっても中々離れられないし、嫌という気持ちが蓄積しても決定的な何かが起こるまでは我慢してある日爆発する事が多いんだろうか。自分が限界が来るまで溜めこんじゃう人は損をしてしまう。
原作への理解度や愛が非常に重視されるのが女性向けの二次創作の特徴だと常々聞いている。このキャラは原作での描写から考えて誰々が好きだろう、こういう事はしないだろう、という考察が大変熱心に行われているらしい。
男性向けの二次創作界隈は原作に対してそこまで詳しくなくても拒絶はあんまり強くないような印象がある。今人気のジャンルだから描けば売れる、と作る人も読む人も思っていそうだし、需要と供給が合致しているからそれで良い。
女性向けの二次創作界隈は軽い気持ちで参入する事は許されない、と聞いた事がある。同人活動はあくまでファン同士の交流がメインなので決して利益を出してはいけないとも聞いた。本当にストイックな人達なんだなあ…と思う。
まあR-18作品になるとジャンルの性別に関係なくこのキャラはこういう事しないような…こういう事を言わないような…と言う描写は増えてくる物だと思う。そういう時男性向けなら「まあいいじゃん」で済ませられる所も女性向けでは「このキャラはこんな事しない、こんな事言わない、この組み合わせはあり得ない」という議論が盛り上がるらしい。このキャラは多分同性じゃなくて異性が好きなんじゃないかな…という議論は起きないらしいけどまあそこは言いっこなしにしたい。
「自分が描きたいタイプや展開に適しているキャラが居るから」という理由で二次創作をする原作を選ぶ人も居るとこの前聞いた。これも二次創作は人の目に留まる事が多いし創作活動は楽しいから起こる事なんだろうな…と思った。
全く関係ないけど女性作家さんが一般の作品でもどことなくBLを連想させるような描写を入れたがる、という印象が自分の中で強いのは小野不由美先生と栗本薫先生の影響だろうなあ…と思ってしまうのは勝手な思い込みかしら。
取っ散らかって自分でも何を言いたいのか分からなかったけど、「二次創作という行為はそれだけで楽しいから原作の事が大好きという動機以外でも始めてる人も居る」と知って「そういう人も居るんだなと思った」と書きたかったのかな…
日本の第一次クトゥルフ神話ブームは小説、漫画、ゲーム、TRPGと当時としては結構多岐に渡ってるんで、その世代のヤツには結構知られてるんだよ。
ブコメで言及が多いのは栗本薫の「魔界水滸伝」だな。80年代の栗本薫はほんと人気作家だったので読んでる人はグインサーガほどではないが多かった。
菊池秀行も言及が多いな。本人が公言してるようにラヴクラフトとクトゥルフ神話の大ファンである氏の作品にはしばしばクトゥルフネタがぶっこまれる。「妖神グルメ」というネタとしてぶっこまれるだけじゃなくてそのものを料理する作品もある。
矢野健太郎の言及が思ったより少ないが俺の周辺では「邪神伝説」シリーズはマストレベルで抑えられていた。
そして忘れられてなくてよかった朝松健。苦止縷得宗がルビ振ってなくても読めるお前ら、そのうち酒飲もうな
他に言及が多いのは「ラプラスの魔」か。これは小説とコンピューターゲーム両方かな。スーパーファミコンやPC-Engineにも移植されてるんだがさすがにそれが最初というヤツはさすがに少ない(たしかコンシューマーの方はあまり売れなかったはず)
言及がないものに触れると世界的に売れまくった、バイオハザードスタッフにも影響を与えた「アローン・イン・ザ・ダーク」もクトゥルフ神話に登場するあれやこれやがいろいろ出てくる
http://www.ishiyuri.com/entry/2018/11/25/bohemian-rhapsody_
こちらのブログは結構好きなのだけど、この記事にはううーんと首をひねってしまった。
特に『この映画がよくないのは、それらの価値観を現代の視点から洗い直したり、疑義をさしはさんだりする部分がひとつもないということ。』部分だ。
この映画はフレディの伝記映画であって、少なくともスクリーンの中には存在する彼の『現実』に、疑義をさしはさむべきだろうか?
といっても私はクイーンについてはまったく知らないので、私がもやもやしたのは、私自身を投影したからである。
腐女子になった理由は逃避だ。現実がしんどかった。家族がしんどかった。自分自身を愛せなかった。フィクションに救いを求めた。
かつて栗本薫が中島梓の名義で『コミュニケーション不全症候群』という本を出した。1991年だ。その本の中で著者は『(自己愛の発露と解釈されることもあるが、現実には)彼女たちは自分を愛してなんかいないのだ。』といったことを書いている。その一文は私の胸を貫いた。また栗本薫が受け取ったファンレターには、彼女が描くBL小説の主人公になることだけが自分の望みだ、と書かれていたという話もある。
つまり誰もかれも自分自身を愛せなかった。そこには女性性の否定が強い人もいるだろうし、とにかく自身への嫌悪が強いという人もいるだろう。理由も割合もそれぞれだ。ただ辿り着いた場所だけが同じだ。自分自身を愛せない。別人になることで得られる愛に一時の救いを求めた。そうしなければ生きていくのは苦痛でしかなかった。
……しかし、1991年には大勢の腐女子の賛同を集め救いとなったこの本も、例えば今ツイッターに載ったりしたら、ボコボコに叩かれるのだろうなあと思う。
今の腐女子の間では『腐女子はただの性癖だ』というのが大勢の賛同を集める。ただの性癖だから、現実逃避だとか自己否定だとかそういう理由はないそうなのだ。実際に、そういう人が多数派なのだろうし、1991年にだっていたのだろうとは思う。
思い出すのはねほりんはほりんで腐女子がテーマだった時だ。BLは現実逃避といった類の答えに、ツイッターでは反論が渦巻いていた。
そういわれてしまうと、いやあなた達にとっては偏見であり抑圧であっても、それが真実な人間だっているんですよと言いたくなる。
話を映画に戻そう。
だからもし、クイーンのメンバーがこの映画を『フレディはこんなに孤独ではなく、もっと幸せだった。この映画はゲイへの偏見に基づいた創作的悲劇だ』と批判したなら、受け取り方はまったく違っただろう。
しかしメンバーはこの映画に好意的だ。それはブライアン・メイのツイートからも感じられる。
私がそうであるように。
私が私の人生を描いたらきっと一昔前の古臭い偏見に基づいた腐女子像といわれるのだろう。この偏見に現代の価値観 ─── 腐女子は性癖であってそれ以上でも以下でもない ─── をさしはさんで改めて見つめるべきだといわれるのだろう。
お断りだ。
ステレオタイプが真実の人だっている。それを、そうではない幸福な人間に否定されたくない。
ちなみに。
私は映画を見て彼の孤独に自分を重ねて泣いたけれど、エイズで可哀想だと思ったことは、そういえば、映画を見ている間、一度もなかった。
あの映画のどこからも、泣かせるための病気だという意図を感じなかった。
私が一番見ていて辛かったのは、ソロ活動を始めた後、馬鹿騒ぎをする来客たちがいる中で、二階でフレディが一人で座っているシーンだ。
ゲイだろうがヘテロだろうが関係なく孤独になる。孤独は辛いが孤独を感じない人間は一人もいない。
それこそ、友達が全員結婚して子供もいる中で、シングルでいる腐女子だって孤独を感じるのだ。
フレディの孤独はあまりにも露わに描かれていて、私は始め、この映画が批判されていると聞いたとき、てっきりスターの孤独をステレオタイプに描きすぎだ、という批判なのかなと思ったくらいだ。