はてなキーワード: 劇場とは
アニメーターのあまりにも薄給な奴隷労働が話題になり、このままでは人材が育たないと危機感のある叫びも見られ、そこまで切り詰めているのに大ヒットを出せないアニメスタジオは潰れ、対象はどんどんオタクに特化されて行き、日本アニメは何だか未来のない閉塞感に満ちている。
最近海外のアニメを見ることが多いが、日本より遥かにクオリティが高い。
カンフーパンダやカーズやペンギンズやトイ・ストーリーなどの3D映画をTVシリーズにしたものを見ると、日本のアニメの劇場番クオリティより3Dアニメの劇場番クオリティの方が遥かに美しいと感じる。
対して日本の3Dアニメは不自然な動きや不自然な手の形ぎこちない表情かわいくないキャラ見苦しくても3Dだから仕方ないと甘えているようにすら見える、これはもう勝ち目がないのではないか。
では3Dじゃないアニメはどうかと言うと、こちらもセンスやクオリティで遥かに劣っている。
トムとジェリーやミッキーマウス!やフィニアストファーブや怪奇ゾーンなどを見ていると、背景とキャラがとけこみどのシーンを切り取っても絵になるし話も楽しい。
ある5人が無人島に流れ着きました。
最初はそれぞれ別々に森を探索し、住むところと食べるものを探したため、苦しい生活が続きました。
それぞれが作業に集中する事で効率が上がり、2人が全員分の食糧を確保し、2人が全員分の家を造るようになりました。余った1人は素材を集めて服を作ることができるようになりました。
1年後、皆は生活にもある程度慣れてきました。家がある程度出来上がって来たので、一人が家の整備を続け、一人はきれいな飾りを作ったり、みんなのための娯楽を考える余裕ができてきました。
10年後、仕事の効率は格段に上がりました。Aさんは立派な農場を作り、その気になれば1人で10人分もの食糧を作る事ができます。Bさんはその気になれば全員分の豪邸を建てることができます。Cさんはその気になれば全員にきれいな服を作ってあげることができます。Dさんのおかげでさまざまな宝飾品であふれるとともに、劇場では全て見きれないほどの種類の映画が上映されています。そのような中、Eさんはこれまでの苦労を振り返るとともに、全てが満ち足りた現在と比較し、ゆっくりと感慨にふけっていました。
そんなEさんにAさん,Bさん,Cさん,Dさんは口々に言いました。
「何サボってるの?何か貢献しないと僕たちの製品は渡せないよ?」
Eさんは困りました。これ以上役に立ちそうなものは簡単には作れそうにありません。
昔のように森で自給自足しようにも、かつての森は農場や工場や劇場に代わってしまっています。
Eさんはどうすればよいでしょうか。
最近TVアニメから映画化されたある作品を視に行ったので、考察やレビューのブログ記事を読んでいたんだが、TVアニメ版のことを『アニメ版』、劇場アニメ版のことを『劇場版』と記述するブログがあった。
これっておかしくないか?
マンガ版に対して『アニメ版』と言うなら分かるのだが、「アニメ版では~、劇場版では~」のようにTVアニメと劇場アニメを対比する文脈なんだ。
それなら『TV版』って呼ぶべきではないか?
「まどか☆マギカ劇場版」や「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」でも色々なブログ記事を読んだけど、『アニメ版』・『劇場版』という記述をちょいちょい見かけた。
本当に不思議だ。
鴻上尚史作・演出の「ホーボーズソング」を観劇した。20年前と全く変わらない方法論しか感じられず、鴻上氏は今まで何をしてきたのだろうと不思議に思った。
俳優は、特に主要なキャストは魅力的な人々なのだろう。しかし一つの演劇を通した時に、全く何の感動も触発も発見もない、無意味な体験だった。
私は虚構の劇団の舞台を見ながら、青年団の女優がかつて平田オリザに対して言い放った言葉を思い出していた。曰く「こんな普通のセリフを客席に向かって喋るなんて恥ずかしくてできない」と。その文脈で言えば、虚構の劇団の皆さんは、恥ずかしげもなく客席に向かって喋り、踊る。そしてオープニングとエンディングと、劇中にも歌入りの音楽が流れる。セリフが説明的であってもお構いなしに、必要ならばプロジェクターで用語解説まで入れながら日本の社会や文化について作者の批判精神を観客に伝えようとする。
誰かが私にに何か伝えようとすればするほど、私はそれが伝わってくるのを避けようとする。どうせろくなものじゃないからだ。私は誰かが控えめに、ささやかに表現した行為から何かを読み取りたいと思う。現代とは表現者の節度と鑑賞者の教養が組み合わさった時に共犯的な芸術が成立する時代なのだ。
私は鴻上氏に馬鹿にされているように思った。「どうせ俺の芝居を見に来るような奴らはこういう表現を求めてて、これくらい親切にしてやらないと理解しないだろう」という侮りを感じた。あるいは彼は、理解されない事、伝わらない事を恐れているのかもしれない。しかし有史以来、常に演劇を作る人、演劇を観に行く人がいるのは、そもそも人間が孤独で、相互に理解し合えないからではなかったのか。劇場とは他者に出会う特別な場所ではなかったのか。
私の観た限り、今回の芝居には出会うべき他者は存在せず、若者が代弁した鴻上尚史の講演会でしかなかった。20年前には社会に対して説得力があったのかもしれないが、今は何もなかった。
2,5次元舞台、アイドル舞台、小劇場、演劇、歌舞伎、宝塚、ジャニーズ舞台、ミュージカル、海外ミュージカル、海外演劇、能、落語、狂言、文楽、その他古典芸能、劇団四季、ファミリーミュージカル、パフォーマンスショー、アイスショー、ダンス、朗読劇。
バレエやクラシックコンサート、オペラでは、もっとデリケートになってくるのではないでしょうか。
それぞれのジャンルのルールに従いながら、マナーを守って観劇しましょう。
バッグや持ち物は座席の下かひざの上におきましょう。バッグハンガーを前の座席にかけ荷物を吊るすようなことはおやめください。大荷物の場合は、コインロッカーやクロークを活用してくださいね。
ずっとジャニーズJr.を応援している私が、こともあろうに担降り後同担拒否になってしまった話をします。
ただつらつらと自分の感情を書くので、乱文です。書き捨てです。じゃあ日記に書いてろよって話だけど。すいません。
根底は同担と仲良くやっていきたいですよ。でも、やっぱり出来た人間じゃないわけで。
別に彼のこと「リアコ」とかじゃない。だけど人生の半分以上ジャニオタやってきたのに、今になってどす黒い感情が渦巻いてて、毎日もやもやしてる。
むしろ学生時代当時の担当にリアコだったときの方がみんなで仲良く楽しくみたいな感じだったとも思う。
っていうか二十代前半まで当時の担当にリアコだったよねww付き合いたかったよ結構年下のJr.だったのにさ。
私はちゃんとあなたを見てるよ!とばかりに毎日コンサート入って舞台観劇して同じ演出の同じ内容のものを毎日毎日毎日。
大好きだから飽きない。舞台班のJr.担だったときなんて毎日の殺陣の後の死体の姿勢とかに微妙な差を見出して
今日はここが違いましたね、なんて手紙に書いてた。でも、ファンが増えたらそれだけ感想レポも増える。
自分以外にも彼を見てる目があれば自分は見なくてもいいよねって思っちゃう。
でもそうやって担降りして、元担がセンターポジションついたりドラマとかCMとか出たり、果てにはデビューしたら嬉しいんですよ。
彼のうちわが私含めて数人しかいなかったときから好きだったんだぜ!みたいな感じで鼻高々になってる。
今年の初めに、こんな匿名ダイアリーがアップされた。http://anond.hatelabo.jp/20150209010459
これ、Jr.担ならあるあるだと思います。一部の超絶人気Jr.を除いて。
むしろ出待ちとか行かなくたって認知されるよ、今の私の担当がそうだもん。
アイドルの営業活動の一つに「手紙の返信を書く」ってことがあると思うんだけど
性格がでますよね。筆まめな子、全然書かない子、気まぐれに書く子、溜めに溜めたら年賀状で一斉送付する子…などなど。
個人名は出せないですけど某Jr.の返信見せてもらったらその子の営業能力があまりに高くてびっくりしたのと同時に
羨ましいって気持ちが生まれたを覚えてます。返信の内容がただの付き合いたてのカップルみたいだったからね。
そのときの自分の担当が全く返信を出さない子だったこともあって、新しい世界を見た。
今の担当に担降りしたとき、すぐに手紙を送ったんだけど、たぶんあんまり手紙をもらったことがなかった子だからか、
それとも元々の彼の性格なのかすぐに返信がきた。すごい丁寧だった。プロフィールまで丁寧に書いてくれた。
それがものすごく嬉しかった。次の仕事の時もまた手紙を出す。そして、すぐに返信が来た。
そしたら長丁場の仕事の時、なんと彼は何日かに1回のペースで返信を送ってくれました。私も毎日手紙を書いて劇場に送る。
それで公演中に私を見つけたら「いましたねー」なんて書いてくるんだ。羨ましかったあの頃の私よ、数年後に同じことやってもらえますからね!ww
ますます、好きになって、手紙を書くために公演を見に行ってたと思う。私って返信厨だったのか。
みるみるうちにうちわが増えて、ファンが増えていきました。
それまで彼の名前をいっても「え?誰?何の仕事出てます?」みたいな感じだったのに
SNSで彼の担当がどんどん増えていく。彼女たちが自担くんかっこいい!今日もファンサもらっちゃった!とか言ってるのを一歩引いて見てる私。
結局私は、ずっと同担拒否だったんだって一瞬思ったんだけど、たぶん違う。
たぶん私は新規がすごい苦手で(自分だって降りたての時は新規のくせに)
自分が失ってしまった感情で応援できる新規のファンをすごい遠くの上の方から
こんなことも知らないなんてって見下してたんだと思う。でもその新規のきゃぴきゃぴした感じが羨ましくてきゅんきゅんしたくて、
新しい子を見つけて担降りしてた。
でも今はその時の感情と同じではありません。
じゃあどんな気持ちかというと
それはたぶん、自分の年齢的なものだと思います。今までの担当にあった「リアコ」という感情が
今の担当には全くありません。そうなると、違う感情で彼の一番のファンでいたいと思うんでしょう。
昔だって担当の一番のファンになりたかたった。毎日舞台に通って、もしかしたら万が一にも
繋がるとか特別なファンになれるとか彼女じゃなくてもいいから…そう思ってたからこそ脳内がお花畑で楽しかったのかも。
妄想話とか、永久に出来たもん…自分と担当の星屑のスパンコールを何度妄想したことかw
アイドルを応援しながら、それでも脳内の何パーセントかが今までと違って必死に現実に引き戻そうとしてるからかな。
だから、妄想話とかできゃっきゃできる同担のことをたぶん羨ましいと思いながら恨めしいと思ってる。
年を重ねたことで、見た目の問題(それも大きな問題だけど)じゃなくて、精神的に大人になっちゃったんだなーって思いました。
みんなにズボラだった元担のときにこんな感情はおきませんでしたし…自分の精神も若かったと思うけど。
この話に終わりはありません。
だからオタクをやめるわけでもないし、今の担当から降りるつもりもありません。
書きたいことがやまほどあったけど、ここまで書いたら結構すっきりした。
3Dメガネ付きノートPCを2年前くらいに買った。型落ちVAIOで安かったので
3DのAVも何本か借りたが、ミニチュアみたいな立体感が災いして
人間によく似た小さな生き物が交尾をしているのを見ているような、要は端的に言ってグッとこない
ちなみに、ちょっと前に麻美ゆまや春菜はなの無修正が流出してたけど
流出したってことは、この3DAVの制作会社潰れてしまったんかなあとしんみりした
予想外だったのが、「安保よりチンポ」で祭りになったオープンワールドエロゲを作った
ポリゴン3Dモデルになると、美少女フィギュアが動いてすけべをしているような
作画は2話の段階で崩れて3話で卯月が魚眼になったかと思えば凛の顔は常にデカい上に基本的に動かない棒立ちの会話が進行してライブは最近止め絵の連発。作画がアレなのはまあ本家アニメからそうだったけどさ、割とチョコマカ動いてはいたよ・・・。
なんでシンデレラガールズでそれが出来ない???????金は払ってきたのに・・・。バハムートの時は金に物言わせて有能アニメーター買いまくったんでしょ??????????なんでそれしないの?????
予算だとかなんとかって話は推測しかできないけど、あの1話を2クールアニメの第1話としか見てないのが既におかしいんじゃね?
1話でやった事は演出がどうしたとか、基準が全部劇場アニメレベルだろ。掛かってるコストが違いすぎるのは明らか。
何よりマズいのは、これゼノグラシアじゃないの。「アイドルマスターシンデレラガールズ念願のアニメ化」なの。今後ライブとかこれに則るの。(ゼノが普通におもしろいとかそういう話は置いといてね。)
念願のアニメ化までに関係者がどれだけ膨れ上がったか、それは本家アイマスみたいな長い時間掛けて耐えられるように増えてきたのかって視点で見れば大した仕事もしないのにカネを溶かす人間が山の様に蠢いてるのは想像できるだろ。
あの露骨にアニメ感想postしだしたミリオンの中の人達のtwitterとか顕著だろ。
露出してる人間であの露骨さなんだから裏側に群がるゴミがどれだけいるか想像に難くない。
神バハは真実成金コンテンツで、突然儲かったから札束で叩くだけでなんとかなったかもしれない。札束で殴ってやれって思って振りかぶるまでに大したエネルギー使わないんだから。
モバマスでは札束で殴ろうと思ったその時点から、実際に殴るまでに平気で2割や3割は消える。グッズやCDじゃないぞ?何も産まないゴミが吸い取ってるんだからな。
http://anond.hatelabo.jp/20150920014850
面白いか面白くないかは個人の感受性の違いだからなにも言わん。
ただ、おまえの観察力が非常に貧弱なのはよくわかった。ほんとにモバマスやってるの? そのうえでデレステのコミュとかぜんぶ見た?
たとえばきらり。WONDERFUL MAGICできらりのセンシティブな少女らしい内面が描かれて話題になったよな? 新年のイベントで杏ときらりの関係性も掘り下げられた。アニメのきらりはちゃんとそれを踏襲してる。12話しかり、18話しかり。それを踏まえてデレステの10話を見たら魂が震えるっしょ。
みくだって、モバマスのカードだけからもそのプロ意識の高さと仲間思いがちゃんと伺える性格設定だ。アニメで常に「みくが」じゃなくて「みくたちが」と発言することに「そうそう、みくってそういう子!」って感動しきりだったよ。アニメのスタッフは本当に細部にわたるまでアイドルのことをよく観察してるって思った。そういうとこ、ちゃんとみてる? それとも卯月のブルマみすぎて目がつぶれちゃった?
たしかにシンデレラのアイドルはとんがった性格の子が多いよ。これをアニメにするって聞いた時は、シンデレラ劇場みたいな一話完結のギャグアニメにするしかないじゃんって思ってたよ。ところが蓋を開けてみれば、原作の設定はそのまま活かしつつ、現実的に地に足つけた等身大の少女たちを描いてみせた。正直舌を巻いたよ。
他にもお前のあげた欠点は単なる観察不足ばかりで、同じPとして情けない。23話の公園のシーンだって、間にPとMJの会話を挟むことで時間経過を表現してるんだよ、そのあいだに描かれてない会話があったうえでの「私たち帰るね」だろ。どんな会話があったか、24話で描かれるかどうかわからないけど、何かあったんだな、って想像するのが普通じゃん。さらに「どんな会話があったんだろう」って想像するのもアニメ鑑賞の楽しみじゃん。
上っ面だけみて楽しい気分になれる萌えアニメが好きでも別にいいけどさ、そういうのじゃない作品には先入観捨ててちゃんと向きあえよ。というかそもそも10代の女の子のこと知らんだろお前? 女子高生ってほんとにあんな生き物だぞ、知ってるか?
映画の内容がわからなかった。27歳になり無職になった子がヒロインなんだけど
なぜか、その子に感情移入をし過ぎてしまった。その子のパートになり目が滲み鼻をすすってしまう。
隣に座ってた人が、それに気付いてこっちに視線を飛ばすのがわかった。めっさ、恥ずかしい。
もう、こうなってしまうと、スクリーンとの焦点はブレブレで、思い出が勝手に蘇り、その間だけ話が飛ぶ。
完全に迷子になることは無かったが、ヒロインが立ち直る理由が飛んでしまった。
前向きになるヒロインに対して、感情移入しすぎた自分は、ただ置いてかれる。
隣の席からすすり泣く声が聞こえて、感動するシーンだとやっとわかる。
シートに沈み込んでしまったので、だるくて立ち上がるのを億劫にしてると、隣の席も立ちあがらない。
映画の終わりの余韻に浸ってるのだろうか。
終わった実感さえ無い自分には、何かを強制されてるような感覚になり億劫になる。
劇場を出ると、風が冷たい。ぽーっとする。頭が痛い。
家庭用のテレビが大型して、ネットの動画配信も本格的に普及して、これからは映画館に行く人ってどんどん減っていく気がする。
とっくに終えてるかもしれないが、映画観賞が特別という時代から、特別に好きな映画とか、デートの時とか特別な時に使う。
それでも劇場は選んで欲しいといつも思っていうr。いくつか理由はあれど音響が違うから。
田舎のシネコンのメインオチはだいたい音響が狂ってる。ドア開けたシーンでお客さんがビクッとする。ホラーでもないのに。
それでも、意識すると音響がかなり効果的に使われてることに気が付く。
現代でも立ち食い蕎麦のように安かろう不味かろうのイメージがあるから、
天皇陛下に献上するはずがない」と書くと一見するともっともらしいけど、
「ステンシルは野蛮だから王立劇場に使われるはずがない」だけでは、
ちょっと説得できないよなぁ。
ちゃんと根拠を示してくれないと。
よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
なんというか、この記事を読んで「この人って常識も教養もないのか?」って思った。
もしこの見解が「デザイナー界隈の最大公約数」というのなら、デザイナーってのはどれだけ教養も常識もないのだろう。
この説明をみて「その通り!」って思う人って、どれだけ教養も知識もないのだろう。
深津貴之という人は、ベルギー国やそのデザイナーを侮辱しているのだろうか。
今回の類似性を理解するには、前提としてステンシル書体を知っていなければなりません。これは製図やレタリングで使われるステンシルテンプレートをモチーフとした書体の通称です。リエージュや、チヒョルト展の文字デザインは、このステンシル系の書体をベースにしています。
などとあるように、深津氏の論理の大前提に「リエージュロゴ」や「チヒョルト展ロゴ」は、ステンシル書体を基本にして作られている、という主張をおいている。
そんなわけあるか。
ステンシル体というのは、ペンキやスプレーなどで簡単に、木箱や木樽などにアルファベットをペイントする「型紙文字」を模したものだ。
ところどころ文字の線が切れているのは、「型紙を作るときに閉曲線を作らない」為とか、さらに型紙の強度(壊れにくさ)なども加味した、
実用大前提の理由があるんであって、オシャレのためでも独自性のためでもない。
更に、ステンシル書体の由来が「実用」、それも非常に泥臭い場所や用途での実用やその使われる対象や実際の転写品質の関係もあることから、
ステンシル書体は「野性味」、良い意味での「不精さ」「無骨さ」「無頼」「不器用」「泥臭さ」「俗っぽさ」「荒っぽさ」、そういうイメージを連想させるものだ。
ベルギー国王の名前を冠したベルギー王立の劇場のエンブレムを作るときに、そんなものから出発するわけがないだろう。
深津氏の主張は「ベルギー王や王立劇場のイメージは、野生、不精、無骨、不器用、泥臭い、俗っぽい、荒っぽい、である」といっているに等しく、
ステンシル書体から出発してスタイリングを経て現在のロゴになった、と主張するということは
「リエージュ劇場は、ちょっときれいにスタイリングされただけ、そもそもの根本的にはステンシル書体が似合う場所なんだよ」と言っているにすら等しい。
あまりにも無教養すぎるし、ベルギー国や王立劇場、そのデザイナーに対してあまりに侮辱的過ぎる。
「でもステンシル書体と共通する特徴があるんだし、ステンシル書体と同じ」というところから恐らく深津氏の論理は出発しているんだけど、
それこそ深津氏が言うところの「井と♯と#が同じ文字と言っている、無学な藁人形」と深津氏の知能が同じであるということに等しい。
なんというんだろう、これが本当に「デザイナー」の共通認識なのか?
デザイナーというのはここまで無教養で、無礼で、不躾で、まがりなりにも一国の王を侮辱して恥じない人間なのか?
深津氏の説明を聞いて「なるほど」と思った人は、このぐらいのことも頭が回らないのか?
http://anond.hatelabo.jp/20150907223211
個人的に釈然としない部分がいくつかあるので整理・言及したい。
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1. 「劇場ロゴのパクリ」は争点になっていない。五輪エンブレムとして採用するか否かが争点
2. 類似性(似ている/似ていない)が認められるかどうかということが話題となった
3. パクったかどうかに関係なく、単に似ているということで著作権上の問題が生じる
5. 「劇場ロゴのパクリ」はなくても、チヒョルト展のパクリはあったと認定できる。その根拠は次の二つである。
5-1. 文字とは無関係の装飾要素かつまったく不要な赤丸が原案の右下にあったから
5-2. 「(佐野氏がチヒョルト展を訪れた事実を認めた上で佐野氏がチヒョルト展のロゴを)覚えてない」と弁解したことについて、彼は嘘をついている、プロならばこれほどのデザインをあっさり忘れるはずがないから
6. 深津氏は争点になってないものについて解説しており、深津氏の見解そのものは意味を持たない。
7. 「劇場ロゴとのパクリではない」なんていうどうでもいいことを持ち出して、「専門家の言うことを聞け」と述べるような深津氏の主張は妥当ではない
8. 深津氏の見解の主要な点は「専門家に任せるべきだ」とした部分にあるが、最終案を決めたのは素人である武藤事務総長であるため、深津氏の主張は成立しない
9. ベルギーの劇場ロゴとの類似性が認められるかどうかという法的争点を抱えている状況の中、佐野氏の他の案件におけるパクリが判明。加えて、原案と最終案はまったく違うものであるほか、最終案を決定したのは事務総長ということが判明した。これをふまえて、「五輪エンブレムとして採用するには適切ではない」という民意が生じた。
10. 9 を無視して「専門家の判断に任せよ」という深津氏の主張は問題をデザインの面だけに限定しており、きわめて視野が狭い。まったく問題の所在を理解していない。
11. 今回のエンブレムは、エンブレムのデザインとしての良し悪しで決まったのではなく、展開力で決まった
12. (原案の)丸と三角と四角というデザインはあまりにも単純で凡庸であり、これを「美しい」「見事だ」と思うようなデザイナーはいないだろう。専門家は民衆の声と自分の心の声を聞くべき
13. 心の底では「くだらん」と思いながらはっきりと口に出せない。「展開力が優れている」と言われると「なるほど」と言って承諾するだけで「エンブレムとしてはあまりにも凡庸な図形だ」という本音を口にできない。
15. 「(劇場ロゴと)似ているか、依拠しているか」というような話題は争点ではない
16. この事件の問題点は、ベルギーの裁判で勝つかどうかじゃない
17. 著作権を問題にしていない。そもそもベルギーロゴとの関係も問題にしていない。ベルギーロゴとの関係などはどうでもいい
id:bros_tama のコメントに対し:
18. “五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”ということは今回の騒動ではほとんど意味がないことだというふうに評価している
19. 「パクリデザイナーの作品を五輪に正式採用することの倫理的な是非」が問題
20. 美術的な問題はない。美術的なことをいくら論じても、今回の騒動には何の関係もないというのが本項の趣旨
21. 劇場ロゴとの類似性とかパクリとかはほとんど話題になっていない
22. 深津氏の見解を否定しているわけではなく、本質とは関係ないとして軽視しているだけ
id:Eizo0000 氏のコメントに対し:
23. この問題を専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視している
id:honma200 氏のコメントに対し:
24. 問題の本質は、法律違反をした(あちこちで画像の盗用をした)作者のデザインを五輪に採用するかどうかという倫理的な部分にある
25. 23 の主張も、深津氏の記事が訂正されたことによりかなり色褪せてきたとも言える。
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全体を通して、おそらく増田氏は「犯罪者である佐野氏がデザインしたエンブレムを採用することは倫理的に問題がある」ということを言いたかったのだろう。
しかしながら、その結論に向けて展開した論理が歪んでいること、根拠が不十分であったりすること、本筋とは関係ない論理が混じっていること、
「話題」「争点」「問題」といった言葉の使い分けが曖昧であることが、エントリのわかりにくさや理不尽さを生じているのではないかと考える。
冒頭で個人的に釈然としない部分があると述べた。論理が歪んでいるのが気持ち悪いと思う私的な感情から、その部分について指摘していきたいと思う。
■増田氏が取り扱う問題と深津氏が記事が取り扱うことが違うということを増田氏自身が認識していない
増田氏は、深津氏の記事を「劇場のロゴのパクリではないと言っているだけ」としたが、この時点から既にズレが生じている。
記事は、「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーがどうしてそのように考えるかといった点にフォーカスしたものに過ぎず、増田氏が取り扱いたい問題については言及していない。
増田氏自身も、ロゴのデザインがどうとか劇場ロゴと似ているかとか著作権がどうとかは争点ではない(主張1、15、16、17、18、20)、
自身の取り扱いたい問題の本質とは関係ないとしている(主張22。これらの主張だけを見れば主張6 も「(増田氏にとって)意味を持たない」として解釈することができる)。
それなのにも関わらず、自身が問題とすることを深津氏の記事と結びつけたために、6、7、8、10 といった見当違いな主張が生まれ、(はてブのコメント欄で観測する限り)読む側に混乱が生じたのではないだろうか。釈然としない。
■各人のコメントに対する返答の的はずれさ
3、4 に対し、id:sisya 氏は「単に似ているだけでは盗用にならず、依拠しているかどうかが重要」とコメントされたのではないだろうか。
そのことについては深津氏の記事の「前提知識1」の項に書かれており、それを踏まえてid:sisya 氏は「参照元のエントリを全然読解できていないように見える。」「もう少し元記事を読み返すことをお勧めする。」と述べたと思われる。
そう考えると、id:sisya 氏に対する返答は的外れである。
id:bros_tama 氏の「あの記事は“五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”について書かれているんです」というコメントに対し、
「それはわかっている」「本質とは関係のないことをいくら解説しても、そんなことはどうでもいいことだ」と返答しながらも、なぜ自身が問題とすることを深津氏の記事と結びつけたのか。
その矛盾がid:bros_tama 氏がコメントをする動機となったと思われるが、いかんせん増田氏の返答は的外れである。釈然としない。
■根拠不十分
4 については、実際にトートバッグの件について佐野氏側が「第三者のデザインをトレースしていたことが判明」と発表していることから、間違いのない認識だろう。
しかしながら、5 については何の根拠もない。その根拠とする5-1 についても5-2 についても不確かではないか。釈然としない。
ちょっと主語が大きすぎるのではないかと思う(主張9、12、13)。自身の思いを投影しただけに過ぎないと感じる。釈然としない。
「犯罪者である佐野氏がデザインしたエンブレムを採用することは倫理的に問題がある」という結論に向かう上で、6、7、8、10、11、12、13、14 は必要のない論理ではないか。
深津氏がいわれもなく謗られたと受け取る可能性がある内容を記述することに何の意味があるのか。釈然としない。
■犯罪者呼ばわり
トートバッグの件について、佐野氏側はトレースした事実を認めたが、それ以外の案件についてはまだはっきりとした裏付けはとれていない。
何らかの罪に問われたわけではない現在の状況下において、一個人を「大犯罪者」と呼ぶのは果たしていかがなものか。一個人が一個人を断罪することは危険ではないかと私個人は思う。釈然としない。
■ずれる結論
「犯罪者である佐野氏がデザインしたエンブレムを採用することは倫理的に問題がある」(以下、結論Aとする。)という結論に向けて論理を展開したかと思いきや、
id:Eizo0000 氏のコメントを受けて「この問題を専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視している」(以下、結論Bとする。)と結論を変更した。
その後、深津氏が記事の結論部分の表現を変更したことを受け、増田氏は「問題視したことは、かなり色褪せてきたとも言えます。」「「大衆はデザインには無知なんだから口出しするな」というような方針が、少しは改まったのだとすれば、本項は一定の役割があったと言えるでしょう。」と追記。
なんだ、結論Bを言いたかったのかと思いきや、さらにその後のid:honma200 氏のコメントを受けて、再び結論Aを書き連ねる。これでは、結局言いたいことが錯綜しても仕方ない状況だ。釈然としない。
■まとめ
横暴な論理を振り回すことは非常に危険な行為ではないかと思います。しかしながら、増田氏が問題視する倫理面に切り込んでいくことは重要と思うので、これについて僕も書けたらよかったのですが、見識がなく断念しました。どなたかお願いします。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
http://b.hatena.ne.jp/entry/bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
実はこれは、「劇場のロゴのパクリではない」と言っているだけだ。上手にていねいに解説しているが、話の趣旨そのものは組織委の見解と同じだ。その点は、増田が指摘したとおり。
しかしながら、組織委の見解はピントがずれているし、その意味では、深津貴之 氏の見解もピントがずれている。そのことを解説しよう。
劇場ロゴのパクリはもともと争点となっていない。これを話題にしたのは一部の人だけ(もしくは初期だけ)だ。
前者は、著作権の問題だ。これは、パクったかどうかに関係なく、単に似ているということで、著作権上の問題が生じる。このことは、劇場側の弁護士が主張したことだ。
後者は、サントリーのバッグや、五輪の展開例や、多摩美のポスターなどで、画像の盗用があったことだ。これを「パクリ」と指摘した。
要するに、「劇場ロゴとの類似性」もあったし、「パクリ」もあったのだが、「劇場ロゴのパクリ」は、もともと争点になっていないのだ。
その意味で、深津貴之 氏の見解そのものが意味を持たない。ありもしない仮想敵を攻撃しているだけだ。藁人形論法であるにすぎない。
「劇場ロゴのパクリ」というものを、彼がいくら否定しようが、それは、ありもしない怪物を攻撃するドン・キホーテと同様であり、もともと存在していない対象を否定しているだけにすぎない。
「劇場ロゴのパクリ」はなくとも、チヒョルト展のパクリはあったと認定できる。なぜなら原案では、右下に余計な赤丸があったからだ。
このような赤丸は、文字とは無関係の装飾要素であり、まったく不要なものだ。実際、他の文字では、このような余分な要素はない。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bunbuntokuhoh/20150828/20150828225213.jpg
なのに、T という文字でだけ、余分な赤丸の要素が追加されている。この文字だけにある特異な現象だ。
このことからしても、これがチヒョルト展のパクリであることは明白だろう。
(仮にパクリでなければ、赤丸は中央上または中央下にあるはずだ。それが佐野デザインの9分割のポリシーだからだ。)
さらに、状況証拠もある。「そんなことは覚えていない」と弁解したことだ。素人じゃあるまいし、プロならば、これほどのデザインをあっさり忘れるはずがない。
とすれば、「覚えていない」と言った時点で、嘘をついている。あるいは、ジョブズ並みの「現実歪曲空間」に入っていることになる。そのいずれだとしても、パクリはあったことになる。(ただし本人が正直に申告していないだけだ。)
3.専門家に任せるか?
深津貴之 氏の見解の主要な点は、「専門家に任せるべきだ」ということだ。
しかしながら、今回の最終案を決めたのは、専門家である審査員ではなく、素人である武藤事務総長だった。
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150904-OYT1T50016.html
ゆえに、「(決定を)専門家に任せるべきだ」という主張は成立しない。現実には専門家には任せられず、素人が勝手に決めてしまったからだ。(そして佐野最終案に決まった。)
また、今回の主要な争点は、デザインの良し悪し(デザインのジャッジ)ではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。
デザイン的に良し悪しを判断する(ジャッジする)のならば、専門家が決めてもいいだろう。しかし人々が批判したのは、デザインの良し悪しではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。そこでは、次の諸点が問題となった。
・ その法的争点は、類似性の有無であって、パクリの有無ではない。
・ トートバッグではパクリが判明した。(彼は犯罪者だと判明した。)
・ さらに、続々とパクリが判明した。(彼は大犯罪者だと判明した。)
・ 原案と最終案がまったく違うと判明した。(組織委は嘘をついた。)
・ 原案では、最終案にある大きな円がなかったと判明した。
(大きな円を選考理由とした初期の説明は嘘だったと判明した。)
・ 最終案を決定したのは審査員たちでなく事務総長だと判明した。
これらの問題が続々と判明した。このことから「五輪エンブレムとして採用するには適切ではない」という民意が生じたのだ。こういう民意を無視して、「専門家の判断に任せよ」というのは、問題をデザインの面だけに限定しており、きわめて視野が狭い。まったく、問題の所在を理解していないと言える。
自分の専門領域のことしか理解できない人を「専門馬鹿」と呼ぶ。
今回の問題は、「劇場ロゴをパクったかどうか」というデザイン界だけの問題ではないのだ、と理解するべきだ。そもそも、「劇場ロゴをパクったかどうか」というのは、もともと争点になっていなかったと言える。(劇場側だって、そのことを争点としない旨を主張している。商標法違反ではなくて、著作権法による類似を争点とすると主張している。)
今回の問題は、上で列挙したようなさまざまな問題が絡み合っている。ここで「劇場ロゴとのパクリではない」なんていうどうでもいいことを持ち出して、「専門家の言うことを聞け」と述べるような主張は妥当ではない。むしろ専門家こそ、民衆の声を聞くべきだ。
最後に一つ。
深津貴之 氏はデザインのことは専門家に任せるべきだと主張する。しかし今回のエンブレムは、エンブレムのデザインとしての良し悪しで決まったのではない。展開力で決まったのだ。つまり、布地の柄物のパターンの出来映えのような見方によって決まったのだ。
そもそも、(原案の)丸と三角と四角というデザインは、あまりにも単純で凡庸であり、これを「美しい」「見事だ」と思うようなデザイナーはいないだろう。なのに、心の底では「くだらん」と思いながら、はっきりと口に出せない。「展開力が優れている」と言われると、「なるほど」と言って承諾するだけで、「エンブレムとしてはあまりにも凡庸な図形だ」という本音を口にできない。
自分の(デザイナーとしての)内心の声を聞くことができず、説明された「展開力」なんていう言葉を信じてしまうようでは、デザイナーたちの良心というものを信用できないのである。
専門家は、民衆の声を聞くべきだ。そしてまた、自分の心の声を聞くべきだ。「あの原案はあまりにも凡庸だ」と、自分の心の声が訴えているはずだ。
追記。
id:sisya 参照元のエントリを全然読解できていないように見える。単に似ているだけでは盗用にならず、依拠しているかどうかが重要。もう少し元記事を読み返すことをお勧めする。
本項の話を全然読解できていないように思える。「(劇場ロゴと)似ているか、依拠しているか」というような話題は、争点にはなっていないというのが、本項の趣旨だ。そんなことはどうでもいいから関係ない、という趣旨。
だいたい、そんなことは、たいていの人は話題にしていない。著作権を争点にしているのは、ベルギーの弁護士だけだ。日本人のほとんどは、そんなことに関心を持っていない。関心を持っているのは、id:sisya さんや id:allezvous さんぐらいだ。
この事件の問題点は、ベルギーの裁判で勝つかどうかじゃない。そんなことを話題にしている人は、ほとんどいない。(そもそも裁判が成立するかどうかもはっきりとしない。訴えの利益がないので、却下されるかもしれない。そうなったら、著作権を争点にするのは、すべて空論になる。)
もちろん、本項でも、著作権を問題にしていない。そもそもベルギーロゴとの関係も問題にしていない。(ベルギーロゴとの関係などはどうでもいい、という趣旨。)
依拠性によらず類似性だけで著作権法違反を問える、と主張しているのは、私ではなくて、ベルギーの弁護士 http://bit.ly/1VMxON2 です。詳細は、このリンク先にある週刊新潮の記事に書いてあるので、そちらを読んでください。
一般に、ロゴのような単純な図形では、依拠性というものは(証明のしようがないので)問われず、類似性だけが問題となります。たとえば、ミッキーマウスの著作権では、単に似ているだけで問題視されます。いくら「真似したわけじゃない」と主張しても、「似ている」だけで問題視されます。
なお、本項では、著作権についての「分析」なんかしていません。著作権は本項では話題になっていません。ついでの形で、1行か2行、ちょっと引用ふうに言及しただけです。
id:bros_tama あの記事は“五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”について書かれているんです.本来どうすべきであったか,解決のためにはどうする,とかはこれを踏まえて考えなくちゃいけないんだよね,という話です
それを前提とした上で、“五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”ということは、今回の騒動ではほとんど意味がないことだ、というふうに評価しています。五輪エンブレムのデザインなんか、あまり重要ではないんですよ。デザインじゃなくて、これを採用するかどうかが問題なんです。
端的に言えば、「パクリデザイナーの作品を五輪に正式採用することの倫理的な是非」です。ここでは倫理的な問題があるだけで、美術的な問題はありません。美術的なことをいくら論じても、今回の騒動には何の関係もない、というのが、本項の趣旨です。
本質とは関係のないことをいくら解説しても、そんなことはどうでもいいことだ、という趣旨です。
誤解があるかもしれないので解説しておくと、私は別に、深津貴之 氏の見解を否定しているわけではない。素人向けに専門家が詳しくデザインのことを解説しよう、という努力は立派なものだと思うし、有益でもある。
ただしそれは、あくまで今回の騒動のオマケふうのエピソードとか裏話であるにすぎない。楽屋裏の話。こっそり井戸端や酒場でおしゃべりするための話題。
今回の騒動は、佐野デザインを五輪エンブレムに正式採用するかどうか、ということだ。それは、「採用しない」という形で、一挙に解決した。これだけが問題であったからだ。
一方、劇場ロゴとの類似性とかパクリとかは、ほとんど話題になっていない。だから、こんなことはどうでもいいことだ、というふうに評価している。
深津貴之 氏の見解を(間違っているとして)否定しているのではなく、(本質とは関係ないものとして)軽視しているだけだ。勘違いしないでほしい。
その後、状況が少し変化したようです。次の質問に答えようとして、気づきました。
id:Eizo0000 何と戦ってるんだ。
この問題を専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視しています。そのことは、本文中で引用した箇所で、下記のことです。
しかしながら、この箇所は、今では次のように書き直されました。
深津貴之 氏が、元の文章を書き改めたので、本項において問題視したことは、かなり色褪せてきたとも言えます。
「大衆はデザインには無知なんだから口出しするな」というような方針が、少しは改まったのだとすれば、本項は一定の役割があったと言えるでしょう。
※ 「集約されていまう」というタイポは、原文のままです。
id:honma200 結論とかまとめを書かないから散らかりすぎてて良く分からん。
まとめ:
この問題の本質は、最終案が劇場ロゴのパクリであるかどうかではなくて、考案者があちこちで画像の盗用をしたという問題である。つまり、デザインの問題ではなく、法律違反をした作者のデザインを五輪に採用するかどうかというという倫理面の問題である。したがって、この問題をデザインの専門家に任せておけば済むというわけには行かない。「デザインの専門家に任せよ」という主張は、今回の問題の本質からは外れている。
深津さんのエントリ(http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/)は、基本的には佐野氏と委員会の説明をなぞったもので、デザイナーでなくても彼らの説明で「なるほど劇場ロゴのパクりではないのか」と納得した人は少なくないと思っていたので、この内容に対して「なるほどわかりやすい!」と関心している人が多いことに逆に驚いている。
これを読んでも納得いかない人がいるのは、おそらくデザイナーが「似ていない」という言葉を使って反論しているところに理由があるのではないか。万人に納得してもらう説明としては、「似ているが、パクリではない」が正しい。
あのエントリでも書かれているとおり、デザインは装飾ではなく最適解を求める設計なので、限られたパターンであれば結果が似てくることは珍しくない。
ゆえに、色々やった結果が「似てしまう」ことも「悪」とはされないが、同じ見た目のものが氾濫すると混乱を招く(それこそ社会におけるデザインの目的と反する)ので、商標などのルールによってお互いの利益を損なわない形で解決しましょう、というのが現代社会におけるお約束になっている。
だからこそ、海賊版など意図的にこのルールを侵し、混乱させ、利益を得ようとする「パクリ」行為は「悪」なのだ。
委員会が「法的には問題がない」と判断したのも、上記のルールにのっとってリェージュ劇場のロゴが商標登録されていなかったことから、「似ている」が「違法ではない」という当然の結論である。事実、佐野氏の初期案は「似ている」商標があったので修正を行ったと説明されているので、もしリエージュ劇場のロゴが商標登録されていたら、(撤回はされたが)現在のエンブレムも「似ている」ことを理由に委員会からNGとされていただろう。
当初、デザイナーがこぞって「パクリではない」と佐野氏を擁護した理由は、そういうことだ。エンブレム最終案があのデザインになった課程について、十分納得のいく説明はなされているし、最初から擁護していた人達はそのデザインの良し悪しは別として、コンセプトも含めてなんとなくでも理解していたはずだ。
その上で、なお疑義が残るとすれば、意匠=見た目の問題において「初期案を作るときに“T”の右下に●を置くアイデアはチヒョルト展からいただいちゃったんじゃないの?」という点だろうか。「9分割のモジュールでアルファベットを表現する」というアイデアは、言ってしまえばそれほどオリジナリティが高いものではないが、「鼓動のパワー」を表現するという「●」が「T」の右下にあるのはこのエンブレムのオリジナリティの一つだといえよう。それが佐野氏が過去に見た展覧会のメインビジュアルに由来するのでは? という疑問が生じたわけだ。だからデザイナーの矜持として、原案とチヒョルト展のポスターの類似の話が出たタイミングで、当初は佐野氏擁護だったデザイナーの中から批判に転じる人が出たというのも、おかしな話ではない。「(身内として)擁護しきれなくなった」のではなく「初期案のコンセプトの正統性に疑問を感じた」のだ。だが、これも「疑惑」にすぎず剽窃の「事実」は認められていないので、真実は闇の中である。
個人的には、佐野氏のエンブレム以外の仕事を見ても、面白いものはあるが独創性に欠けるという感想を抱かざるを得ない。日本の広告やエンターテイメントの世界においてよく見かける、海外で売れているが日本にはまだ入ってきていないものを「いただいちゃう」ようなやり方にどっぷり浸かりすぎてるんじゃないの? と思わないでもない。
もちろん、サンプリングや本歌取りという手法がクリエイティブを発展させることは確かだし、オマージュやパロディによって発揮される作家性は存在するので、そういった行為を否定するものではない。だが、それらの手法は「コンテクスト(文脈)」に乗った上で初めて効果があるものである。サントリーのトートバックのイラストの件などはコンテクストも何もなく「いただいちゃった」案件そのもので、悪質である。(パンの写真やメガネの写真を無断で素材使用したのはまた別の問題だ。)佐野氏の事務所のクリエイティブに、こういった姿勢が垣間見えることで、オリンピックという大舞台のデザインワークを担うのにふさわしいデザイナーであるかどうかを問われてしまうのは仕方がないことだろう。
とはいえ、現在の「パクリ批判」のあり方は、その内容や手法において明らかに間違っている。
ここで長々と述べてきたことようなことを理解しているのかいないのか、本質とずれた批判をセンセーショナルに書きたて、多摩美など佐野氏が関わっている所なら話題性があるとばかりに火をつけて回るnetgeekやまとめサイトの在り様と、それに扇動されるネット民のリテラシーのほうが、パクリ疑惑以上に深刻な問題なのではないだろうか。
今回のパクリ騒動、個々の事例は別として(管理責任については知らない)、エンブレムに関しては、佐野氏は少なくともパクリでないと今でも考えていると思う。少なくとも、さらなる問題となった原案によって、ベルギーの劇場ロゴに関しては偶然、ということは証明された。
ヤン・チヒョルドのあれは、あの単純構造を見ていたとしても、意識して真似しようとはならないだろう。9つのブロックに分けて幾何
形態でTを図像化すればヤン・チヒョルドのあの形は早い段階で出るし、似ていると思ってもダメだとは思わない。オデンの図像化で赤塚不二夫以降、⚪︎△◽︎はパクリとして叩かれたことがあるだろうか?
あれが今回のオリンピックに相応しかったかどうかはわからない。ただ、想像だが、極めて単純な形でエンブレムを構成した佐野氏が目指していたのはこういう事だったのかなと思うところがある。
最初に炎上したときに、どこかのセブンイレブンが悪ふざけで、オデンでエンブレムを表現していた。なるほど。簡単に真似できる。だれでも、ふざけてそこらにある物で真似して、SNSにアップできる。今回のオリンピックは様々な問題で、人々の心から離れていた。でも、この単純なエンブレムで積み木のように一般市民がロゴを真似して親しみを積み重ねたらちょっと楽しくないだろうか?あのオデンの件でわざわざ公式に問い合わせたら拒否された、と反論もあるだろう。そりゃ、商売だからオフィシャルはダメと言うよ。同人誌と出版社の関係と同じだ。
1000人の完全なる素人に「”T”という文字からデザインを作ってみて!」ってお願いしたら、少なくとも10人くらいは「ベルギーの劇場ロゴ」みたいなデザインをすると思うんだよね。
だから、あのカタチに主張できるような創作性はないと思うのに、営利目的か知らんが訴訟までやる気のベルギー劇場は滑稽なクレーマーにしか見えない。
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単なるクレーマーであるベルギー劇場に躍らされて、正義を振りかざしたつもりになってる2ch民たちも滑稽
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エンブレムの選定に携わった偉い人たちも言い訳に追われてる感じが滑稽
仮にもベルギーが欧州の国だから無意識的に強く意識しちゃうんだろうなー。
ベルギーではなく「アジアの国の劇場ロゴと酷似してる」だったら、2ch民たちも動かないと思うと人種差別(今回は逆差別?)の根深さを感じる。