2015-10-17

鴻上尚史英国留学は何の意味があったのか

鴻上尚史作・演出の「ホーボーズソング」を観劇した。20年前と全く変わらない方法しか感じられず、鴻上氏は今まで何をしてきたのだろうと不思議に思った。

俳優は、特に主要なキャストは魅力的な人々なのだろう。しかし一つの演劇を通した時に、全く何の感動も触発も発見もない、無意味体験だった。

私は虚構劇団舞台を見ながら、青年団女優がかつて平田オリザに対して言い放った言葉を思い出していた。曰く「こんな普通セリフを客席に向かって喋るなんて恥ずかしくてできない」と。その文脈で言えば、虚構劇団の皆さんは、恥ずかしげもなく客席に向かって喋り、踊る。そしてオープニングとエンディングと、劇中にも歌入りの音楽が流れる。セリフ説明的であってもお構いなしに、必要ならばプロジェクター用語解説まで入れながら日本社会文化について作者の批判精神を観客に伝えようとする。

誰かが私にに何か伝えようとすればするほど、私はそれが伝わってくるのを避けようとする。どうせろくなものじゃないからだ。私は誰かが控えめに、ささやか表現した行為から何かを読み取りたいと思う。現代とは表現者節度と鑑賞者の教養が組み合わさった時に共犯的な芸術が成立する時代なのだ

私は鴻上氏に馬鹿にされているように思った。「どうせ俺の芝居を見に来るような奴らはこういう表現を求めてて、これくらい親切にしてやらないと理解しないだろう」という侮りを感じた。あるいは彼は、理解されない事、伝わらない事を恐れているのかもしれない。しか有史以来、常に演劇を作る人、演劇を観に行く人がいるのは、そもそも人間孤独で、相互理解し合えないからではなかったのか。劇場とは他者出会特別場所ではなかったのか。

私の観た限り、今回の芝居には出会うべき他者存在せず、若者が代弁した鴻上尚史講演会しかなかった。20年前には社会に対して説得力があったのかもしれないが、今は何もなかった。

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