はてなキーワード: 幼児とは
喉が痛い(ヽ´ω`)
30代共働き在宅勤務。息子2才。年末年始の帰省なし。会食なし。追記:ワクチン2回済。フルチン。
やっぱり軽い咳がある。病児保育に預けることにした。この日増田はオフィスに行った。
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「息子くんの熱が急に上がって、乾いた咳が増えた。念の為検査したほうがいいかも。」
妻、手持ちの抗原検査キットを使う(持っててえらい)。
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線が2本でた写メがくる。
_人人人人_
> 陽性 <
 ̄Y^Y^Y^Y^ ̄
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会議中だった増田、会議を抜けるため秘技「俺、濃厚接触者(`・ω・´)」を使う。狙い通り追い出される。
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保健所にTEL。こちらの受け答えに「なるほどですね~」を返してくる人なので笑いをこらえながら指導を受ける。
まじかよ・・・
この後、息子の療養10日間+濃厚接触者の隔離2週間=24日の外出禁止生活・・・のはずだった。
俺たち「これマジ防疫無理」
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県からでかい段ボールが届く。災害備蓄っぽい一式。レンちんご飯と、赤いきつねとスーパーカップ。マルちゃん。
2日おきに冷凍の宅食も届く。ワタミの宅食。さすがワタミ、居酒屋が虫の息でもこういうところでしぶとい商魂を見せつける。宅食はうまかった。
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県庁の職員らしき人が直接パルスオキシメーターを持ってきた。
俺たち喉が痛くなる。めでたく全員陽性。
陽性者になると隔離は24日から10日間に短縮されるよ!フシギ!!
無。記憶がない。喉が痛すぎて悶え苦しむ。水も飲めなくて脱水しかける。
・こんな時にスーパーカップなんか食えるかボケェ‼︎と思ったら食えた。なんで?
・塩野義製薬が「治験者足りなくて困ってるワン」と言ってたのを思い出しTEL。審査は通るが「10日間の入院が必要だワン」といわれ辞退。すまんが治験のデザインが悪いぞ。
喉の痛みがつらいので「スナック バス江」を読んで正気を保つ。
息子、元気に部屋を荒らす。汚部屋ナウ。
〜fin〜
・「幼児の感染は家庭内感染がほどんど」と聞いていたが、息子がコロナを持ってきた。
・未だに「幼児の陽性者を隔離しつつ介護する方法」が確立されてないこと。小さい子がコロナになったらおわりの合図です。突然こんなこと言ってごめんね。でも本当です。
・濃厚接触者より陽性者のほうが隔離期間が短くなるライフハック。
・行政のコロナ窓口が色々あるが突っ込んだことを聞くと「それは保健所に聞いてくれ」となる。保健所の負担減らすためにこっちに電話しているんだが?
・何かと保健所に電話する/してくるシステムは一見効率が悪そうだが、直接声かけしてくれるのは精神の安寧に絶大な効果。
・医療保険が出る。
定番の食事は全滅。塩分、酸味、液体、ペースト状で喉に張り付く系はNGっぽい。
油があり、ツルッとしていて喉への摩擦がないのがポイントか?
・平熱なのに熱が出たような症状がでる。頭痛とか、だるさとか。
・COCOA陽性登録したのに、一番の濃厚接触者である妻のスマホに通知がこない。いらない子。COCOAログチェッカーではばっちり検知してた。
同和地区に生まれ育ち、多分『それなり以上の同和教育を受けた最後の世代』だと思っている私。
私は昭和の終わりかけに、関西の大都市に生まれた。自営業の父と専業主婦の母のあいだに生まれ、1歳児の頃から公立保育所に通った。
現在は幼児をもつ親でもあり、『保活』『保育園落ちた』などのワードをネットで見るにつけ、自分の育った地域や時代か現代のどちらがおかしいのかわからなくなるのだ。
まず、私の母は専業主婦だ。母方の祖父と同居だったが、その祖父が要介護だったとか、母自身が病気だとか何もなかった。1ミリも『家庭での保育に欠け』てなどいない私が、普通に公立保育所に通った。
母は私を幼稚園に入れたいと思ったそうだ。しかし、親族を含む周りの多くの人たちが、いつ保育所に預けるのか、保育所の申し込みをまだしてないのかとものすごくうるさかったらしい。『保育所が当たり前だった。同じ小学校に行く子は町内のどこかの保育所出身で、幼稚園に行く子なんていない』と言われたらしい。
母は心配しながらも私を保育所に入所させた。まず、町内に公立保育所がいくつもあった。1学年1クラス、私が通った保育所はその中でも人数が少ないところだったので、年長クラスで一緒に卒園したのは12人だった。最近の『保育所が足りない』どころか、どう考ても当時の子供の数を考えれば保育所が多すぎるくらいだった。
運動会や宿泊保育、遠足、卒園式などは合同で行われた。保育士さんはどうだったか忘れたが、市の公務員である給食調理員さんたちは、その町内の保育所のどれかにしか転勤しない。(当時給食調理員だった知人が近所にいたため、知っている)
今、雨の日でもお昼寝布団セットを自転車で運んでいる保育園パパママさんを見かけるが、私が通った保育所ではお昼寝布団の他、給食で使うスプーンや箸など、肌に触れるものや口に入るものも持参する必要はなかった。かばんに入れて持って行ったものは連絡帳以外思い出せない。
私は二人の子供を私立幼稚園に通わせた。ひとりは卒園し、ひとりは在園中。まあ、これでもかというほど指定用品を買わされ、毎日スライド式のカトラリーセットを始めあれこれ通園鞄いっぱいに持って行く。最初は自分の子供時代とのあまりの違いに驚いたが、『あ、こっちのほうが普通なんだ』と最近では思うようになった。
保育所時代はほぼ同和教育はなかったが、小学校に入ると一変した。
まず、入学時に必要なもののほぼ全てが無料支給だった。ランドセルまでタダだった。母と一緒に入学用品を近所の『会館』に取りに行ったことを覚えている。鉛筆や消しゴムまであった。筆箱は自分のものを使えたかな。それが最初の一回だけではなく、『とくしゅうひ』というものがあって、冊子が配られて必要な学用品に丸をつけて提出すると支給された。これはいつの間にかなくなった。高学年になる頃にはもうなかったかと思う。
私の実家は貧乏ではなかった。後に書くが、学用品を無料支給してもらわないと就学できないほど生活に困窮している同級生などいなかった。
ランドセルはデザインも何もかも皆同じ。ほとんどの学用品が全員同じだった。出どころが一緒だからそうなるんだろうけど、他の学校のことを知らないのでそれが普通だと思っていた。給食で使うお箸、食後に使う歯ブラシまで皆同じ。歯ブラシの色選びでじゃんけんをしたことも覚えている。
それから『子供会』というものがあった。放課後に行くところで、別に親が働いているからとか何もなく、ほとんどの同級生が在籍していた。行くか行かないかは自由だったが、小学校の下校時に集団になって歩いて行ったことを覚えている。おやつが出たり、遊んだり、土曜日は昼食も出た。学童保育のような感じだったが、違いは『(ほぼ)全額無料』で『まあまあゴリゴリの同和教育機関でもあった』こと。そこで働く人たちのことは、先生やさん付けではなく、『指導員』と呼んでいた。(例 田中指導員)
主に教えられたのは狭山事件のことで、歌まであった。私はその歌をなぜか今でも覚えている。小学校1年生のときから教えられる。それから、何の日だったかは忘れてしまったが、5月23日と10月31日が近づくと、狭山事件のことをいつもより色々聞かされた。
大人は集会もやっていた。たまに祖父について行ったことがあったが、集会の最後はシュプレヒコールがお決まりだった。後になって祖父はその集会になぜ参加していたのか母に聞くと、『お父ちゃん、その年確か町内会の役しとったからちゃうかな』そんな理由だった。
小学校の名札のところに『差別裁判をゆるさない』とかワッペンをつけて登校する期間があったりもした。『ワッペン登校』と呼ばれていたが、今考えるとすごい。小学生の制服に、別にその子の意思でもなくそういうワッペンをつけさせていたのだ。
学校の道徳の授業は、同和問題を始め、とにかく何かと差別を絡めた内容だった。在日コリアンの問題とか。私の子供が入学して教科書に名前を書いていたとき、道徳の教科書を何気なく見ると、『金の斧 銀の斧』の話が載っていたりして、自分のときとの違いにまた地味に驚いた。
小学校1年生に狭山事件のことを話してこれは差別だ!とか言われても正直よくわからなかったし、狭山がどこかもあまりよく知らなかった。『かなり昔、遠い関東で無実の人が逮捕されて、裁判が何か差別らしくて………』といった感じで記憶している。
他にも後で特殊だと気づいたことがある。天皇制の否定、国歌を教えない、卒業式の定番『仰げば尊し』はなぜそこがダメなのか忘れたが『我が師の恩』のところに文句がついていたっけ。
ある日の子供会の集会のとき、『天皇制はおかしい』という話を聞いたのをおぼろげながら覚えている。『天皇誕生日が祝日なのはおかしい』と力説されたが、子供心に『学校が休みになるんだし祝日にまで差別とか言うのか』と思った。
洗脳レベルの教育だったが、低学年頃にはなくなっていった(後述)こともあり、『差別に負けない大人になってほしい!!』だとか『(何にか忘れたが)誇りをもってほしい!!』と言われても全くピンとこなかった。
ワッペンをつけたり、子供向けの集会があったりというゴリゴリの同和教育は私が高学年になるより前くらいから一気になくなった。そのため、冒頭に『最後の世代』だと書いたのだ。
理由は、狭山事件の容疑者とされた人が仮出獄となったからだと思う。学用品がタダとかそういうのも、その頃からだんだんなくなっていった。
一世代上、私の母世代は、狭山事件が起こった頃に小学生くらいなので、大人になり、子育てをする頃までずっと続いたということになる。
母は私立高校を卒業しているが、『タダだった』らしい。無料だから私立高校を選んだわけではなく、公立高校に行く学力がなかったかららしい。高校の無償化なんてつい最近一部の地域で始まったことだが、これも『同和特権』のひとつだろうか。それよりも驚いたのが、自動車教習所の授業料も『タダだった』と言うのだ。私も運転免許をもっているが、確か教習所に入るときは30万円くらい払ったと思う。それもタダ?
それから、これは自分の家族にはいないが、市の公務員になれるルートみたいなものもあったそうだ。失礼な話だが、『この人、どうやって公務員になったんだろう?』と思うような人が、市の職員だったりした。
母も私と同じで、そういう環境で周りもそれが普通だったし、他のところのことを知らないので、疑問をもったことがなかったらしい。大人になってから、『あれは普通じゃなかったんだ』と思ったという。
江戸時代の身分制度の名残で同和問題や差別があるわけではないと、成長するにつれわかった。私が背負ったランドセルも、入学試験で特待生だったわけでもない母がタダで通った高校も、税金から…と考えたら、嫌われるようなこともしてるよなあ、知らなかったとはいえ…といつからか思うようになっていった。
その後、高校、大学と進むうち、部落差別っぽいものは時々あった。というより、特に悪気のない、同和地区に対するイメージを誰かが話しているのを聞くことがあったというくらい。
まず、『あのへんは治安が悪くて行くもんじゃない。どんなやつがいて何をされるかわからない。最寄駅で降りないほうがいい』と言っていたバイト先のおじさんとか。
確かにイメージとして、ガラ悪いとか治安が悪いとか思われがちだが、これが意外とそうでもない。麻痺してるのか慣れきってるのかとも思ったが、夜になると人通りはほぼなく、ガラの悪い人や治安を乱しそうな人もいない。夜の町は、『ここ?本当に関西の大都市?』と思うほど人通りもほぼなく静か。逆にそれが不思議だとか怖いだとかで動画サイトに載っていたりするが。
確かに治安がよくて人が住みたいイメージではないよなと長年思っていたが、最近では転入者も増えて、昔はボロボロの団地ばかりだったところに一戸建ての家が建ち並ぶようになった。相変わらず市営住宅が多く、整備されているものの見た目がほぼ同じ。スマホのマップが普及するより前は、宅配ピザの配達員さんが迷って電話をかけてくることもあるくらいだった。
そういう街はここだけではない。似たようなところをたまたま電車などから見ると、『あ、ここ…同和地区かも』とわかるようになった。
人生で、『あ、これが部落差別?』と思ったのは一度だけある。結婚のときだった。目の前でやりとりしたわけではなかったが、夫の両親は同和地区の嫁が来るのは嫌だと言っていた。私に直接言ったことはなかったが、義母から夫へのメールを見たら結構すごかった。
結局結婚したのだが、10年経っても『ほら、同和地区の人となんか結婚するから』みたいになったことはない。結婚を反対されたことを知った両親も、『まあ、そりゃ、どうぞどうぞ大歓迎ですってことはないよな』というような反応だった。従姉妹たちも同和地区出身でない人と結婚している。親である伯父と伯母は、娘の結婚相手の両親に出自を話したらしいが、それを理由に反対や差別はされなかったという。
私が昔受けた同和教育の題材にもよく結婚差別が出てきたり、同和の子は貧乏でいじめられて排除されて…みたいな内容が多かったが、思い出してみれば小学校の同級生には食べるのにも困るような生活をしている子は誰一人いなかった。それでも色々支給されたり…あれは何だったんだろう?と思う。
これもまた同和地区特有の話だと知ったのだが、とにかく近所の人達の情報を何でも知っている。私達世代はそうでもないが。今時隣の家の人のこともあまり知らないのが普通みたいな世の中だが、母より上くらいになると、『全くの他人のことを何でそこまで知ってるの?』と驚くほどだ。
私は聞いているだけのことが多いが、たまたま何となく会話にAさんという人が出てきたとする。たとえば私が『Aちゃんのお母さんが入院したんやって、Aちゃん大変そうで心配やなぁ』とか言ったとする。
すると母と伯母が、
『A?ああ、あの子な!うちの一学年下の子で旧姓増田やろ?増田のおっちゃんとこは立ち退きなる前は◯◯に住んでて、今団地入ってるやろ?おばちゃんは滋賀から来た人やったわ。Aは高校出て化粧品屋に勤めとって、学会の男の人連れてきて結婚して西宮のほう行ったけど、結局別れて娘二人連れて帰ってきてたなぁ。増田のおっちゃん怒ってたわ。あの子入院したんや、それは心配やな』
『増田のおっちゃん覚えてるわぁ、Aちゃんて姉ちゃんの一個下やったら、うちの二個先輩やろ?その子の弟がうちと同級生やねんけどな、中学の同級生のCと結婚して、夫婦で市に勤めとったから、お金持ってんで。団地出て関空とかあの辺りに家買うたらしいわ。増田のおばちゃん不倫しとったん覚えてる?近所同士でようやるわぁとかみんな言うとったなぁ』
こんな感じ。一体何の話だったかこちらが忘れそうになるが、私の友人の母親の実家事情を、同学年で仲が良かったわけでもない二人が知り尽くしている。
これは、同和地区出身者同士の結婚が多かったこともあるからかなと個人的に思っている。大人になってからは、では近所に住む誰かの会話に『私』が出てきたとすると、ここまで知られているのかとゾッとして、母に聞いたこともある。
『まあ、このへんやったらそうやろうな。でも、若い子らはそこまででもないと思うけど。うちの娘ていうことはみんな知ってるやろうし、行ってた学校ぐらいは知ってるやろな』
と、当たり前のことのように言われた。
同和地区も、私のように町並みでわかる人でなければあまり他の町と変わらないようになってきた。それに、顔を見たら同和地区出身者とわかるわけでも、戸籍を見たらわかるわけでもない。有名な同和地区が現住所や本籍であった場合はわかるかもしれないが。
解放会館も人権センターとか名前を変えた後、いつの間にかなくなった。『部落差別をなくそう!』『差別落書きを見つけたら云々』という文言が書かれた町内会のポスター掲示板もなくなった。私が少し通ったあの子供会もなくなった。
今でも、『住まないほうがいい町』とかググると私の地元が出てきて、理由に同和地区がどうのこうのと書かれているが、外から人はたくさん来ている。市営団地の入居者は全員知り合いだとか、市会議員や解放同盟のコネで団地に簡単に入れるという話も聞かなくなった。
実際、24年ほど住んだが、事件らしい事件のひとつも見たことがない。通り魔やひったくりに遭った人が近所にいようものなら3分で噂になるはずだが、これも聞いたことすらない。いや、別に『B地区とか犯罪がとかヤクザがどうの、治安悪いとか言われてるけど、全然怖くないですよ、町も綺麗で平和で、他のとことそんな変わりないですよ』とここで主張したいわけはない。
イメージしかない同和地区と、そこに生まれ育った私とでは、全く違うだろうなと思って書いたに過ぎない。
改めて、自分の生まれ育った場所を考えてみたとき、そこがたまたま特殊なところで、確かに差別されたり嫌われたりしても仕方のない面をもっていて、でも何だか『普通の生活の中で出さないほうがいい話題』のひとつであって…
何かそんなことを思って書いてみた駄文だ。
2割がチャラ男風オタク。2割がオタクじゃなかったのに染まった一般人。オタクに染まれなかった一般人のうち半分は退学いたしますですはい。
受験同期は「ソニーで偉くなってPS7辺りで俺が指揮を取る」「荷電粒子砲を搭載したロボットを作る」「カチャカチャターンで世界を制する」「コミュ障でも理系なら仕事があると聞いて」「メイドロボを嫁にしたい」「やっぱデジタルって業績いいんでしょ」みたいな感じでござるね。もちろん上から順に。
ぶっちゃけビビるぐらいオタクだらけで候。高校時代にクラスの上位5%に入るスーパーキモいオタクがここだと上位40%ぐらいの範囲に入り、未知の世界から来た未知のオタクがそのさらに上とはコレ以下に。さすがの拙者もヤバイオタクが多すぎて漫研とSF研は回避したほどゆえ。
なんだかんだオタクは遊びに飢えていますから成績は悪いのが多かったと思われ。成績上位は勉強という現実の中でオタクだらけの現実を逃避する矛盾回路を形成した一般人の者共なり。奴らが気まぐれにエロゲを欲しがった時に割れを流してやることでノートを借りて皆で写すこれ勝利の方程式なり。
先程述べたとおりにオタクに囲まれた世界を狂気と位置づけ勉強という現実に逃げ込んで正気を維持したガリ勉パンピーが成績上位常連なわけで、それがそのまま学校側に唆されて助教にまでなってしまうわけですな。そのまま気づいた頃には教授になって、死ぬまで幼児性に満ちたオタク共を二十歳超えてるやつしかない幼稚園で介護して一生を終える道を選ぶのですから人生とは恐ろしい恐ろしい。
教授のテンプレといえば無自覚アスペでごじゃりまして、こちらは説明するまでもなく一般社会への適応能力がマイナス200%2回生まれ変わっても魂の穢が酷すぎて社会適応100%負荷な確率が100%の超天然物スーパーアスペであるからして象牙の塔に骨を埋めるわけですな。世の中にはその職業の存在そのものが社会保障と言われる所謂公務員だの用務員だのと言った仕事がありまするがIQが過剰に高く社会に適当出来ないアルジャーノンを最高なベクトルで拗らせたような輩の墓場が教授という仕事なわけで。
残りは大体がアニメやゲームでなく物理学のオタクでして、クルマやでんちゃが大好きな人が多いのですよ。ブーブーの業界は最近ではプログラミングを売りつけて共同開発できるチャンスがバリバリ多いですしお金も持っていますので生き残りやすいのかも知れませぬ。鉄の者につきましても業界規模の大きさゆえに割と強いですな。はぇ^~ゲイは身を助けるんすねぇ~見とけよ見とけよ~。
えっ、イメージどおり?
こんなのオープンキャンパス行ったら分かる?
せ・や・な
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うどんがない国ではどうやって子育てをしているんだろう……?(イラスト:chiro)
日本では離乳食や幼児食の定番となっている「うどん」。そんなうどんにまつわるある想像をつづった投稿がTwitterで話題を集めています。子どもの食事にうどんが欠かせない……!
うどんがない国では……
ホント日本で子育てしてると世界の他の国の人は2歳児にうどん食べさせないでどうやって子育てしてるんだろうと思う。(ニャロメさんのツイートより)
日本において、うどんは離乳食や幼児食によく使われる食材です。子どもが食べやすい、調理が簡単、消化にやさしい、安価で入手しやすい、アレンジがしやすいなど、さまざまな長所があります。小麦アレルギーがなければうどんを重宝している家庭は多く、うどんを短く切るヌードルカッターなどの関連商品も人気です。
その便利さは、「うどんがない国ではどうやって子育てをしているのか?」と思ってしまうほど。ニャロメさんの率直な思いは多くのTwitterユーザーの共感を得て1万5000以上のいいねが集まり、「ほんとですね!!うどんないとか、考えられません!」「めちゃわかります!!」「ちゅるちゅる(うどん)最強ですもんねー。」などの声が寄せられていました。
また、実際に海外に住んでいる人からは、パスタやリゾットが日本の「うどん」に当たる食品だというコメントも。クスッとする素朴な疑問ながらも、思いがけず世界の離乳食・幼児食事情を垣間見ることができる投稿でした。
せっかく読んでもらったから、俺もお前のやつちゃんと読んで連レスしようかな。、
>例えば「道徳の暴走とはなにか」程度は書けるでしょ?どっかにかいたかもだがどこにも見当たらない
>そしてなぜ暴走と道徳の衰退を比較したのかも意味不明。それらに関連性はない。
俺が書くまでもなくそういうことは、関連性については、常識として知られているの。
ゴリラについて書くときに、ゴリラの外見を詳しく描写しないでしょ。
ただゴリラについてしらない幼児に読ますには"わかりにくい"文章になるけど、それはしょうがないじゃん。絵本は書いてないもん。
>なぜなら元増田は自分の体験において、芸能人によるいじりや詐欺師は不道徳としているだけであって、君がいう暴走とやらがそこに関連しているとは全然思わないんだよな。
非モテ男性と結婚したら家事も育児も教えても小学生以下レベルで出来ない・やる気もない。
やらない口実逆ギレで誤魔化すための情報収集をネットでしてポイントずれたところの耳年増なくせに、どストレートな事実の指摘には感情的な奴の言うことは聞かないと抜かす。幼稚園児なみにしか日常の動作が出来ないとかなかなか思わないし、失敗してこちらに怒るとかこっちがはあ?だわ。
蝶結びも出来ない奴が自分は普通の器用さだと言い張って難しいことをやらせるなと怒りまくる。不器用だから代わってくれとか可愛くお願いするくらいの処世術を身につけて媚びるくらいはしろ。お前の器用度の数値の正確な把握なんか出来るわけねえだろ。幼児のママじゃねえんだぞ。お前は!成人してもう久しいおっさんなんだよ!!
性生活といえば前戯ないしする気も自分がするものだとも思ってないから爪も汚いし指摘されても切らない。やり方を教えても出来ないしすぐふてくされる。AVも害あるけどアニメ漫画の感度も快感もインフレしてるやつもな…作品を好んでそれが理想なのは踏み込むとこじゃないから自由だが、セックスには相手がいるんだよな。いい思いしたいしさせたいと試行錯誤出来る奴ならいいが、コミュニケーションして色々試すのが面倒なら生身の生き物に関わらないでいただきたい。
体力ないから遊びに行っても介護みたいに体調を気遣わざるを得ないのに相手に気遣いはしない出来ないそれをやるなんて女尊男卑と思っている。クズだな。
だから下方婚なんて体力気力仕事力有り余った女性じゃないと日常の生活が平穏に回らないし、余暇も準備から移動も帰宅して後片付けしつつ疲れた男様を労る介護状態でリフレッシュなんてしないから金まで全部出すとしたら必ず病むよね。
一日は24時間しかないから必ず一定以上時間も作業工程も肉体への負荷もかかるケア労働担うと仕事してケア労働はもの凄い負担。せめて金くらいは持ってなきゃ無理って感覚はおかしいか?
二人目のB子さんは、ある意味で私と同期だった。私がK市に採用された年に、高校を出たばかりの彼女が入庁してきた。
K市に入ってからの私というのは、せっせと新人公務員として基本的な事柄を勉強したり、各庁舎をぐるぐると見回って雰囲気を掴んだり(大抵は職員への挨拶を兼ねている)、K市が主催するイベントにスタッフとして十数回と参加したり、多くの自治体の職員が集まる研修に出席したり、ほかの幹部がまとめた人事政策に対してフィードバックを述べたり……あっという間に5ヵ月が過ぎていった。
その頃だった。B子さんについての苦情が寄せられたのは。毎年9月にある新人職員への人事面談の折に、B子さんのいる課から上がってきた。一応、直属の上司も事実であると認めた苦情ということで、今度はB子さんと面談室で話をすることになった。指導的な色合いが強い内容になる。
今でも思い出す。あの女は人生をナメていた。なめ猫なんて甘っちょろいものではない。すでに組織を蝕む害獣となりかけていた。
面談室に入ってきた彼女を見て衝撃を受けた。髪の毛は脱色しているし、恰好は女性向けファッション誌に出てくるそのものだったし、朱色のスカートの丈は相当な短さだったし、口紅は真っ赤だったし、ピアスをしていたし、首に〇〇〇〇〇もついていたし……どこから突っ込んでいいのかわからない。
私も、世間一般では活発で知られた営業会社で働いていたが、彼女ほど派手な恰好の女子社員はさすがに見たことがない。せいぜい茶髪や控えめなチークだった。多くのお客様の前に出ないといけないからだ。
A夫さんの時と同じく、面談室の両側のソファにお互いに座った。こちらには人事課長が、向こうにはB子さんの直属の上司がいる。
面談が始まった。初めに私の方から、「B子さんですね。お仕事で忙しいところすいません。まずは事実の確認ですが、今着用しているような衣服を先輩に注意されたことはありますか」と尋ねた。
以下、大まかなやりとりになる。
「その先輩には、なんて言って答えましたか」
「私の自由です、と何度言ってもわかってもらえないんで、『ハラスメントです、やめてください、気持ち悪いです。これ以上は親に話します』と伝えました」
「それは、先輩があなたのことを思って言ってくれたのではないですか?」
「違います」
「では、どんな気持ちだったと思う?」
ほかの行動、例えば自分が気に入らない職員を無視するとか、夜の窓口勤務中にチョコレートを食べながらほかの女性職員と雑談していたとか、勤務時間中に携帯をいじって過ごしていたことなど、色々と聞いていったが、終始ブスッとした調子で返答するのみだった。最後に、だるそうな口調で「何とかやってみます」とだけ告げた。
面談中、私はB子さんの履歴書や採用試験時の成績を見ていた。偏差値50くらいの公立高校を出ていて、英検や漢検の初級程度を持っていて、採用試験(筆記試験)ではほぼ満点を取っていて、性格適性検査ではやや嘘つきと出ていて、肝心の面接試験では、「明るくハキハキしていて、利発な印象を受ける」とあった――採用試験でわかることなど、この程度のものだ。
いったん話は逸れる。私が採用された背景(どんな目的を叶えたくて私を採用したのか)、当時の市長から受けた勅命を述べる。
「優れた職員を残し、不要な人間は残さない」「次世代に残すべき職員を採用する」「そうした職員が辞めない環境を作る」といったものだ。
冒頭に述べたように、このK市の新規採用職員の3年以内離職率について、十数年前は1割未満だったものが、私が市長からスカウトされた年には約35%まで悪化していた。20人採用したら、3年以内に7人が辞めていることになる。3年超えになると、もう数パーセント上昇する。
辞めた者の中には、将来を嘱望される人材が何人も含まれていた。ボリュームゾーンは30才手前で、これまで将来を期待されて県庁や国の機関に出向したり、エース級の職員が配属される部署で頑張っていた職員らが退職を選んでいた。この状況を正すことが、私に課せられた任務だ。
市長の談によると、人事課が収集した退職理由の中でトップだったのが、「将来、昇進しても幸せになる未来が見えない」で、肉薄して2番目だったのが、「異常な言動を取る職員が多いうえ、上の人が彼らに何の対策もしない。働いているのがばかばかしい」というものだった。
このうち、私が解決に役立ちそうなのは二番目の課題だった。一番目の課題は、プロパーの職員が自ら考えて実行すべきことである。外部の人間である私が考えるのはお門違いだ。アドバイスはさせてもらうが……。
話を戻す。
これらを踏まえて、B子さんへの対応を考えることになる。面談を終えて、私はその場で人事課長に目配せをして問いかけた。
「B子さんを切りましょう」
「試用期間とはいえ、難しいのでは。やめておきましょう。あの子はまだ若い。立ち直るかもしれない」
ツッコミが入った。想定どおりだ。
試用期間中の分限免職処分は、K市はもちろん、県内他市町でもほとんど例がない。が、私はそれに成功した市町村のいくつかを研究していた。
「試用期間での成績が不良である場合、正式に採用しないことができます。判例を調べましたが、いくつかの市町村では実際に行われているようです」
「うん……考えるべきところではある。あの子は、ちょっとひどいとも思います。ただ、私の権限ではちょっと決めかねます」
「わかりません。市長にも副市長にも総務部長にも伺ってみないと。これは全庁的な問題なので、もっと、いろいろと議論を重ねてみるべきかと」
「市長は問題ないでしょう。ほかの人は私が説得してみます。しかし、第一には人事課長であるあなたの職分ではないですか」
「それはそうですが、職員の進退そのものを判断することはできません。それを言うなら、私さんの役職は一応は部長級なんですし、私らと違って一流の会社にいましたし、市長の元部下なんでしょう。私よりもやりやすいんじゃないですか。とにかく、私にはどうすべきかわかりません。例年であれば、あの子はそのまま正式に採用されます」
人事課長は乗り気でないようだった。
それから面談室を出て、人事課に戻って、課内の奥野須美に着席した。
私の机と椅子は人事課の奥にある。
2022/01/02 追記 奥野須美さんには着席していません。奥の隅の誤りです。
その後も何度か討論を重ねた後、B子さんへの対応が決まった――退職勧告だ。
後日、総務部長の口頭での承認を得た。市長は、「お前の好きにやれ。判は押す。証拠は絶対に固めるように」とのこと。副市長は猛反対だった。予想どおりの瞬殺だった。
そして、不安そうにする人事課の職員らに対して私は、「市長からは、現場で判断していいとの答えをもらっています。何かあれば私が責任を取ります。あなた達に迷惑はかけません。協力を求めます」と答えた。
責任など取りたいはずもない。が、ここはレイズの場面だ。攻めるのだ。戦え。今しかない。ここで勝てれば、私の信用は外部登用組の管理職(※当時、国や県や民間から計4人の出向を受け入れていた)の中でも相当に高くなる。ここは何としても取りたい。
方針が決まったとなれば、後は実行だ。
今回のメンバーは、人事課長と私だった。前回は私が面談を主導したので、今回は課長が行うことになった。こういう貴重な経験は、多くの人間でシェアすべきという考えによる。
人事課長は、不安そうな顔つきだった――この人は将来を嘱望されている。当時は50代半ばで、順当に上の人間の席が空けば総務部長にもなると言われていた。
「安心してください。上の人間は『方針』を認めています。あくまで方針だけですが。今後のK市のためにも、ぜひあなたが実施すべきです」
私が激すると、彼はしぶしぶ動き出した。
そして、いよいよ始まった面談は、思ったよりも淡々としていた。B子さんが面談室に1人で入ってきた時、人事課長がソファの中央に腰掛けていた。話の最中は、私が脇にある椅子で見守っていた。
さて、Bさんとのちょっとしたやりとりの後、人事課長は「あなたを本採用できません」と告げた。それから、理由などの説明が終わると――B子さんは顔を一瞬だけ歪ませて、また元の顔に戻ると、「わかりました」とだけ告げた。面談後は、泣きそうな表情でその場を後にした。抵抗はなかった。
あっけないほどすぐに終わった。時間にして5、6分だった。もっと抵抗されると思っていた。本人もわかっていたのではないだろうか。自分がこうなることを。
「〇〇課長、やりましたね。苦しかったでしょうが、これが新しい一歩なんですよ。踏み出せたじゃないですか」
私は、片方の拳で人事課長の脇腹を貫いた。彼はちょっと痛がるようにしてから、拳を額に当ててソファの上で態勢を沈ませる。
神妙な面持ちで、「B子さんは何とかなるんですかね。これは脅しの一種ですよね。反省すれば、クビにはならないんですよね?」と呟くように述べた。
「お前みたいな悪いお人好しが組織を腐らせるんだよ。もっと組織のために悪者になってみろ」
という言葉を飲み込んで私は、その場の片付けを始めた。
B子さんの退職の話を聞いた副市長が、再び私と総務部長を呼び出した。やはり逆鱗に触れたようだった。今回は稟議書(※B子さんの聴取記録のこと。A夫さんは犯罪の関係で市長までそれを回す必要があった)を回すほどの案件ではなかったのに、なぜわかったのだろうか。私だってB子さんの今後を考えている。分限免職だが、形式上は年度末での通常の退職という形にしていた。
副市長とは激しい議論になった。彼が退職するまで、少なくとも5回は苛烈な論戦をした思い出がある。私は何度も説明した。これから公務員業界が厳しくなっていく中で、これまでの人事政策を変えていく必要があることを。勤務成績が極端に悪い職員を追い出すことの合理性を説いた。
が、わかってもらえることはなかった。副市長は、人事課の主導で職員を辞めさせるのを避けたいようだった。最後に、こういうやり取りがあった。
「市長が「それでいい」と、どうしても言うなら私は反対しない。一番に重い責任を取るのは市長なんだから。しかし……こうした案件について私は承認しない。法令上は、市長の意思さえあれば有効な意思決定だ。やりたいなら好きにやれ。もうこういった件は私のところに持ってくるな。不愉快だ。いいね?」
「いえ、それでも副市長に話は持っていきます。ここのルールですからね」
数日後、B子さんの母親から人事課に電話がかかってきた。電話を受けたのは私だった。「B子の母です」と名乗る声を聞いた時、私はB子さんに関係する資料を手元に手繰り寄せた。
「この度は、娘が申し訳ないことをしました。本当にすいません」
開口一番がそれだった。
B子さんが本採用にならなかった理由は本人に説明したが、母親が再確認をしたかったようだ。
「理由はB子さんが述べたとおりです。公務員、いや社会人としてよくない面が多すぎました。もちろん、いきなり職場に来るなということではなく、来年3月末までは在籍できます。給料もボーナスも満額払われます。その間に、また就職活動の方をしていただいて~」
「本当にすいませんでした……お給料までお支払いいただいて。今回はご迷惑をかけましたが、何かあったらまたよろしくお願いします」
終始謝りっぱなしだった。この子にしてこの親あり、という俗諺の例外を今まさに見ていた。
「この親からあの子が育ったのか!?」とその時は何となく考えていたのだが、後日、答えのようなものが見つかった。申し訳ないが、ここで公表することはできない。一線を越えていると判断する。
その時、私の中に罪悪感のようなものが込み上げてきた。世の中には、どうしようもない事情というものがあって、それに翻弄され続ける人間も当然に存在する。B子さんも、その1人だった。
少しだけ話そう。あの後、総務部長が、「せっかくだから、もっとあの子を調べてみたら」と助言してくれた。指示されるがまま、市民課(住基ネット)や税務課(税務情報システム)や福祉課(福祉情報システム)でB子さんの情報を集めてみた。すると……。
今の私が、当時の私にアドバイスをするとしたら、「あと1年は様子を見てもいい」(地方公務員法には試用期間延長のルールがある)と告げるに違いない。
いかに私が民間企業で人事責任者をやっていたとしても、人にはその数だけ事情がある。即座にすべてを把握する力はない。結果的に、私はそれを汲み取ることができなかった。もっと、深く細かくB子さんに寄り添っていたらよかった。
ここまでの描写だと、まるで私と副市長が犬猿の仲だったように映るが、実際には違う。仕事で一緒になることがあれば、普通に冗談などを言い合っていた。
例えば、遠方にある他市町の児童福祉施設を視察していた時だった。市長、副市長と私その他は、保育の現場を見た後に自由見学していたのだが、やがて2階の大きな吹き抜けになったフロアの隅に辿り着いた。そこには、「幼児 プレイコーナー」と看板に書かれたスペースがあって、どうやら小さい子ども向けの遊び場のようだった。プラ素材の小さい滑り台から、小学校低学年向けのジャングルジムまで、様々な遊具が置いてある。
副市長は、「あの名前は気に入らない」と呟いた。文書のインデントが0.5文字ズレているだけで不機嫌になる人だ。例えば、いま私は、上の「幼児 プレイコーナー」を半角スペースとしたが、K市で働いている時なら公務員業界の慣行に従って全角スペースにしただろう。
私は、「一般的な名称だと思いますが……どこかおかしいところが?」と意見したところ、「色々ある」とだけ返ってきた。
夜になって、視察終了祝いの一次会があった。さあ次はどこで飲もうかと、市長や副市長その他と歓楽街をうろついていた。このレベルの役職の人はK市内で飲めないため、こういった視察が貴重な機会になる。
と、酔っぱらった副市長が私の襟ぐりを掴んだ。風俗街の一角を指さしている。
「幼児プレイあります」「ママに甘えたい!」「授乳もOK」などと書かれた看板やのぼりが立ち並んでいた。
「後で行ってみるか。おごるぞ」と意気込む副市長に対し、市長が「昼もやってるみたいだ。なあ副市長、視察の前に(以下自主規制)」とツッコミを入れていた。
それで私は、「もしかして、副市長はあのとき風俗のことを考えてたんですか!? あの真剣な顔で、さっき現場で見たどの先生がよかったとか? ねえ副市長」
「ふざけているのかお前はッ!! 真面目にやれ!」
副市長は激昂していた。
歓楽街の一角で怒鳴られる私を尻目に、市長とほかの幹部はどこかに行き始めていた。
「わからないです」
「法律では満1歳から就学前の子どもを幼児と言うんだろうが!! あそこには小学生も遊べる立体遊具があっただろうが!! 矛盾に気づけッ!」
「すいませんでした」
年に一度は視察などで副市長と飲む機会があったが、普段が真面目すぎるだけで、面白い顔もちゃんとある。
人間は基本的にそうだ。あなたにとって好きな面も嫌いな面も、両方ちゃんと澄んだ目で見ることができるのなら、ケンカになっても関係が壊れることはない。
あなたは、自分が嫌いな人間のことを認めることができるだろうか。人のいいところを見つけることができるだろうか? 自分でも今、何を書いているのかわからなくなってきた……。
先週アメリカ西海岸から成田空港に帰国しました。自分の記録のためと、これから帰国される方のために記したいと思います。
今回はアメリカの仕事がリモートワーク可能になり、半年ほどの予定で家族3人(私、妻、幼児の息子)で帰国しました。
出国前日、日本政府指定の検査センターに出向き、4人分のPCR検査を受け全員陰性の書類を取得。厚生労働省の質問票、所在確認のアプリ、誓約書などを用意。某記者がiPhone 6がアプリに対応していなくてレンタル料払わされたと言っていましたが、一連の書類の中に対応機種、対応していない場合の有料レンタルについてしっかり書かれていました。
出国当日、日本行きの便は乗客がかなり少ないらしく当日に飛行機の機体が変更になりました。乗機率は30%くらいで、帰国する日本人と日本を経由して他の国に移動する外国人は半々くらいでした。
飛行機が成田に着陸すると検疫から連絡が入り、まず日本が最終目的地ではない人たちから降機、それから日本に入国する人たちが降りました。成田空港のコンコースは閑散としていて、待機用のパイプ椅子が数百脚並んでいたのが印象的でした。幸い我々が到着した時は並ばなくてよかったのですが、テストを受けた後には200人くらいの列ができていました。それから一連の手続きとテストはとてもスムーズに行きました。係員の方が外国の方が多かったのが印象的でした。英語が話せる人を配置するためでしょうか、頑張れ日本の若者。
テスト結果が出るまで約1時間半。巷では抗原検査かPCR検査かと言う議論があるそうですが、私の経験では抗原検査が最適解だと思います。なぜかと言うと、同じ航空便で到着した人たちは空港検査、ホテル隔離、3日後の検査という一連の流れの中で同じグループとして扱わなければならない点。同じグループの中から1人でもオミクロン陽性者が出ると全員濃厚接触者として合計2週間ホテル隔離(当時)になるからです。私の乗っていた航空便では成田入国組は18人だったので、100人単位のPCR検査だと時間がかかりすぎるという点もあります。
空港検査では無事全員陰性で、成田空港からバスで1時間ほどの都内某所のホテル(女性社長が有名な)に移送されました。子連れで荷物が多くて大変でしたが、係員の方が手伝ってくれたのがありがたかったです。お部屋は激セマのツインルームですがここから3日間の隔離生活が始まります。
食事は一日三度、お弁当が配られました。ホテルのレストランが作っていると見られるもので、ご飯、唐揚げ、豚の生姜焼きなどのおかず、酢の物、ちょっとした野菜などが入っています。アメリカで出てくる食事に比べてレベルは高いと感じました。息子にはパックに入った離乳食が配られましたが、食べなかったので2回目以降はキャンセルさせていただきました。ちなみに、有名女性社長のカレーの本が部屋に置かれておりカレーが出るかなと期待していたのですが、出てきませんでした。気になるので自主隔離が終わったら食べに行こうと思っています。アルコールは厳禁。普段毎日ちょっとづつお酒は飲むので、大変でした。AmazonやUber Eats、家族からの差し入れは可能ですが、アルコール、常温保存不可能なものはすべて禁止でした。アルコールは係員立ち会いのもと検査されるという話でした。幸い弟が近所に住んでいるので、子供用のバナナや、コーヒーなどを差し入れてもらいました。
やることがないので、持ってきたヨガマットでトレーニングをしたり、子供とEテレを見たり、Numberの大谷特集を読んだり、ゼルダをもう一周したりして時間をやり過ごしました。アメリカ出国前は仕事が忙しくてバタバタしていたので、今回毎日10時間くらい寝られたのは良かったです。3日もするとあまりにも部屋が狭いので、子供のストレスが溜まって来ました。そして4日目の朝、運命のPCR検査です。ここで同便の18人のうち1人でもオミクロン陽性が出ると更に11日間の宿泊施設での隔離になります。幼児とこれ以上狭い部屋で待機するのは正直キツかったのでかなりドキドキしました。検査結果が出ると言われた時間から1時間半ほど待たされて、無事に全員陰性が確認され、成田空港にバスでドロップオフされ、家族に自家用車で自宅に帰りました。ちなみに我々より一週間早く入国した友人の帰国便でオミクロン陽性者が出たので、彼は2週間ホテルに缶詰でした。
今回の一連の経験を通じて思ったのは、この水際対策のオペレーションはかなりシリアスで大掛かりなものだということです。かなりの数のスタッフがどのチェックポイントにもあてがわれていて、日本政府の本気を感じました。検疫、隔離の最前線で働いてくださっている方々にはコロナ感染のリスクがあるなか、素晴らしい仕事をしていただいて本当に感謝しています。私達が日本の家族と再会することができたのはスタッフの皆さんのおかげです。本当にありがとうございました。
なんとなく漠然と嫌いだから家族旅行はリゾートホテルとかばっか選んでいたのだけど、ストリップ取り締まったら温泉街が廃れたツイート見て思い出した。
バブル全盛期の子供の頃祖母につれられ行ったけど、何もなくて面白くなく、幼児だったから空いてる時間にいとこと一緒に男風呂女風呂どっちも行ってみたら、男風呂の方が広くて立派で景色も良くてびっくりして、男女客でこれだけ差をつけるって嫌な所だなーって思ったんだよ。
やがて風俗コンパニオンストリップ目当ての買春おっさんツアーのメッカと知り、汚くて猥雑で男尊女卑な所だなってイメージが強くて。
バブル崩壊しておっさん買春ツアーが消えて、風呂の男女格差もなくなって、なんとなく忘れてたけど、温泉むすめ見て、今でもあそこはエロ女体につられてきた男狙ってんだなと。