はてなキーワード: 友愛とは
こういった匿名の日記ははじめて書くから失礼なことがあったらすいません。
書くこと整理してないしオチもないから文章めちゃくちゃだと思います。あと改行のやり方わからなかった。
現在大学生の女なんだけど、私は昔から異性・同性問わず好きな人っていうのができたことがない。
いや、幼稚園時代とかはもしかしたら好きな男の子とかいたのかもしれないけどあんまり覚えてない。
ここでいう好きな人ができたことがないってのは小学生の時からってことで。
小学校の同級生はバレンタインデーになると学校にこっそりチョコ持ってきたり放課後学校の前で好きな男の子にチョコ渡したりしてた。
小5くらいになると、好きな人いる?とか、あの子かっこいいよねとか、そんな話題が増えた。
でも私は全っ然興味なかったから友達がしてる恋バナとかの話題に乗れなかった。その状態は中学でも高校でも、大学生になった今でも続いている。
俳優とかジャニーズにも興味なくて、まあたしかにかっこいいとは思うんだけど、
正直イケメン俳優はみんな同じに見えるので(俳優ファンの方すいません。否定してるわけではないです。)ファンにはならなかった。
オタクだからアニメや漫画も見たりするけど、キャラクターに惚れるとかもないので、いわゆる夢女にも当てはまらない。
あまりにも異性に興味がないので、最初は自分はレズビアンなんじゃないかと思った。でもなんか違うっぽい。
かわいいな〜って思うことはあってもどうしても恋愛対象にはならなかった。
この子のことなら好きになれるかもって思ってた子にこの前彼氏ができたんだけど、全くショックじゃなかったし、むしろ応援した。
どんなに仲が良くてスキンシップが多い子でも、その子と付き合うイメージとか全然湧かなかった。
ありがたいことに親友と呼べる子も何人かいて、両親とも仲が良いので友愛とか家族愛とかはちゃんとある。と思う。
周りに彼氏持ちが増えても羨ましいとか、将来的に結婚したいとか、そういうのが一切ない。
こんなんだから性欲も当然薄い。SEXとか本当に興味ないしちょっと気持ち悪いなとすら感じてしまう(ごめん)
異性には興味ないし、ひとりは嫌いじゃないし、このまま孤独死でも悪くないと思ってる。
LGBTには基本的な知識を知っている程度なんだけど、いろいろ調べてく中で「アセクシュアル」って単語にたどり着いた。
一発であー、これかもしれないって思った。
別に名前のあるようなグループに所属したいってわけじゃないし、今の自分に不安があったわけじゃないんだけど
アセクシュアルの人達って結構いるんだなって思うとやっぱちょっと安心した。
もしかしたらこれから異性同性関係なく好きな人ができるかもしれないけど、今はこれでいいのかなって思う。
アセクシュアルって肩書きに安心してるわけじゃない。ここまで言っといてアレだがもしかしたら自分はアセクシュアルじゃないのかもしれないし。
同性でも異性でも、好きと伝えるのが苦手だ
好きだなと思っている子に「嫌われてると思ってた」と言われたことがある
好きなのに、なんでだ?
好きと思ってもそれを相手に伝えようとか思わなかった
自分の中で好きだなあと思っていて、それだけだった
付き合った人もいるしその時は好き好きと毎日のように言っていた それは多分「付き合っている人には好きと伝えて良い」と自分の頭の中でルールがあったのだと思う
友愛というか、男女関わらず好きと思うことはたくさんあるし、好きと言いたく思うけど言えない
好きって言ってる人をあまり見かけない
好きという言葉を使わずに好きと伝えるのってめちゃくちゃ難しい 相手が喜ぶことをしたりすれば好きってこと伝わるんだろうか
本当は好きって思った瞬間に好きと言っちゃいたい
せめて嫌われてると思って、なんて真逆のことを思われないように、思いが通じるとかは望まないけれど、こいつは私のことが好きなんだなとわかってもらえるように振る舞いたい
今回は少年ジャンプ+
ああ、終わった。
本作のテーマを大まかに語るなら、“役割”や“虚構”みたいな話になると思う。
当初期待されていたような、悲しき宿命を背負ったヒーローの活劇ものでは決してない。
むしろそういったものを虚構とし、その偶像に翻弄され、各々の役割に苦悩しつつも時に順応し、時に戦い生きようとする者たちの群像劇みたいな感じ。
話は二転三転しつつも、実はこのテーマ自体はちゃんと一貫していたりする。
最後のサンとルナの邂逅だって、二人は本来のサンとルナではないわけだからね。
そういったテーマや作者の伝えたいであろうことを踏まえたうえで、私が本作を面白かったと思っているかというと……うーん。
展開は行き当たりばったりのように感じるけれども、連載当初の作者のインタビューから解釈する限り、大まかなプロットは決まっていたっぽいんだよね。
それであの始末なのだとすると、構成力不足か読者との意識のズレがあるのかなあと思う。
私もよく感想書いていたから、少なくともある程度は本作を評価していたのは間違いないんだけれども、喉に小骨が刺さっているような気分だ。
主人公が部活に誘われて、最初のうちは渋るものの最終的に入部する、まあ紋切り型。
とはいっても紋切り型が悪いわけではなくて、大事なのはその型に何を入れるかだからね。
その点で「書道」などといった選ばれにくい題材をチョイスしたのは妥当な判断だと思う。
難点は主人公の苦悩が陳腐で、思春期特有の漠然とした虚無感の延長線上でしかない点かな。
だから身内の死という要素を付け足して、その動機の希薄性を緩和しているわけだけれども、そのせいでかえって主人公の苦悩が身内の死のせいなのか若者の陳腐な万能感からなのか有耶無耶になっている。
そもそも芸術的な話って、一般人から見て「何がどうすごいのか」についてアカデミックな解答がないと共感しにくい。
その状態で、肝心の「なぜ書道なのか」について観念的なことばかり並べられても、結果として雰囲気だけで描いているという印象から抜け出せない。
まあ一番悪いのは謳い文句書いた人だよね。
「衝撃作」とか謳っておいてこれといったインパクトがないんだから肩透かし食らう。
キャラクターの描き方が上手いなあって印象。
主役はタイトルにもなっているノリなんだけれども、言動の突飛さと激しいスケート(?)シーンを同時進行で見せることによって、「変人だけどすごい」という説得力が増す。
コメディやギャグ漫画でも、絵の説得力って大事だなあと改めて実感した。
まあノリの造形はあんまり好みではないけれども、見せたいものが伝わっている時点でデザインとしては成功だと思う。
それぞれが「友愛か、恋愛か」みたいなことで悩んでいるんだけれども、これが三者三様であることを改めて見せてくれたなあっていう。
他の主要人物が一応の答えを出して立ち回ろうとしているのに対し、二葉の場合はそこら辺が漠然としている状態。
YESにしろNOにしろ相応の立ち回りをするべきなのに、二葉の消極的な性格もあいまって上手くできない。
それが前半の、二葉の将来に対する煮え切らなさと本質的な部分では重なっているわけだね。
学生たちが進路について考え始める時期に設定したのは、話がゴチャつくか空気設定になる可能性もあったけれども、なんか上手いこと繋げていくなあ。
まあ、タイトルからしてアンドロイドの人格に焦点を当てた作品であることは明らかだから、話は最初からスッと入っていく。
SF要素や哲学的な話は希薄で、矛盾はしていないように見えるけれども陳腐だとは感じる。
そもそも主題は「過去に辛い経験のある二人が、共に前向きに生きることを決意する」といった話だろうから、まあ作りはこれでも良いと思う。
期待していたものとは違うけれども、ストーリーと紡がれるドラマ自体は割と嫌いじゃないよ。
週刊ジャンプで連載されてたのに、コミックス発売記念の漫画をジャンプ+でやるのかっていう印象はあるけれども、まあ本誌でもジャンプ+の宣伝はよくするから細かいこと気にしたって仕方ないか。
この手の転移モノの話で未来に飛びたがるってのが逆に珍しい気がする。
現代だと、むしろ旧文明な異世界とかのほうがポピュラーなイメージがあるし、磯兵衛が過去に飛んで原住民相手に知識をひけらかしてドヤ顔するほうが“らしい”気もしたから。
でも、ここで「未来のほうが楽ができる」っていう発想は確かに“らしい”。
それに転移ものとしては最低限のツボは抑えていて、ジェネレーションギャップ(?)や、順応しようとする描写、肝心なところは大体「母上」というチートで解決っていうのも(笑)
とはいえ新鮮味は薄く、周りの登場人物が明らかに子孫で実質同一人物なので、現代を舞台にしつつも空気感はいつも通りだね(まあ、本作はもとから現代の話がちょくちょく入り込むことが多かったけれども)。
最後に磯兵衛はちょっとした成果を出すけれども、いわゆる枯れた技術の水平思考になっているのはちょっと感心した。
近年の異世界転生・転移もののマンガ読んでいる私からすると、現代の文明を旧文明の世界で活かすパターンが多かったから、その逆パターンもポピュラーになってもいいよねと思った。
子供を主人公にして過激なことやらせるってのは、まあ鉄板といえば鉄板。
主人公であるギコの序盤のアクションはケレン味が強く、まああんまりマジになって見るべきものじゃないことはすぐに伝わる。
ギコの人格を成熟させるのではなく、あくまで年齢相応に設定したのは良かったと思う。
アクションとのギャップでメリハリが出るし、分かりやすい未熟さはキャラクターとしては魅力にもなりうる。
反面、プロットは前時代的な勧善懲悪ものにしかなっていないのは残念。
結果としてはギコの一方的な勝利で終わるので、バトルシーンは総じて面白みが薄い。
例えるなら、小学生向けの漫画誌で描いていた作家がちょっと過激な描写に挑戦してみたものの、その頃のクセが抜けていない作風っていう感じ。
ボクシングを題材にはしてあるものの、スポーツものというよりは青春ものって感じ。
ほとんどモノローグ調で語られる主人公のセリフと、反して明朗快活なヒロイン。
だが本質的には同じ苦悩を抱えており、互いが想いを分かち合おうとすることでトラウマを払拭するという構成は良いと思う。
気になるのは、主人公の設定がボクシングシーンと噛み合っていないというか、分かりにくいところかな。
今までは防衛本能で殴っていたけど、共有できる仲間がいることを自覚したので冷静になれた、みたいな感じに解釈したけれども。
部活モノとして表面的に見るならば、今回感想書いた『I WILL ROCK YOU』と似ているんだけれども、テーマによって印象は大分変わるね。
当たり前だが、ネタバレだらけだ。だが知ったことか。こんなクソ映画。
人生で一番のクソ映画だった。(いままでのナンバーワンはロボコップ3)
「ローグ・ワン」も「フォースの覚醒」も大した映画じゃないが頭には来なかった。
プロットホールは皆が話しているとおり。出て来る登場人物一人のこらずアホで感情移入を拒む。お約束を破りたいがためのめちゃくちゃな展開。
設定無視はフォースの新能力やイミフな爆撃機、一番ひどいのはハイパードライブ・アタック。あれがありなら今までの戦いはほとんど無意味になる。
だが、こんなものは平凡なクソ要素だ。べつにスクリーンを切り裂いて、なかったことにしたいほどのことじゃない。
一番頭に来たのは「差別構造」肯定だ。スター・ウォーズは世界観のなかで基本的に「人間」中心主義がある。共和国にもあったが帝国が勃興してよりそれが強固になったわけだ。だから帝国に基本的にエイリアンはいない。(例外が映画以外のメディアでいるのは知っている)
エイリアンと人間の差別、被差別関係は作品で何度も描かれる。そしてそれよりも下の被差別階級としてドロイド。この3つの種族関係はそれぞれの立場がきちんと映画で描かれ続けてきた。ジャージャーやイウォークの存在も「スター・ウォーズ」の必須の要素だった。
それが今回はじめてまったくないがしろにされている。もっともレジスタンス側で位の高いエイリアンであるアクバー提督を雑に殺し、その代わりに人間の紫おばさんをコネ抜擢する。老齢の身でありながらレジスタンスに身を捧げた大提督は人間とエイリアンの友愛の象徴だったはずなのに。
エイリアンに見えるファースト・オーダー最高指導者も、彼が受けてきた恥辱や野心もまったく描かれず、雑に殺される。
その他のエイリアンは背景に押しやられ、奴隷(または逆に低能な人間差別者)としてしか描かれない。ジェダイテンプルに仕えるエイリアン原住民を愚者のように描き、あまつさえルークはそれをあざ笑っているかのように描く。ポーグのような意識を持たない「かわいい」エイリアンしかクローズアップされない。この映画でエイリアンは全くの差別されて然るべき存在としか描かれないし、登場人物全員がそんなように行動する。(指導的なエイリアンは二体でてくるが実体として描かない狡猾さまで備えている)
ドロイドはそれにまして影が薄く、まったく雑な扱い。
この差別構造の肯定はもっとエスカレートする。有色人種と白人との分断まで肯定してくる。
黒人と白人は絶対くっつけないために、容姿の悪い愚鈍な黄色人種をわざわざ黒人主人公に割り当てる。
最後には白人女主人公と白人パイロットが出会うと今後の結びつきを予感させる、例の言葉を口にするのだ。
そしてラストシーンにはエイリアンに奴隷化された白人少年がフォースに目覚めるかのように描かれる。過去ジェダイ・ナイトとしてたくさんいたエイリアンではなく、新しいジェダイは白人少年なのだ。
馬鹿にしてんのか。別にエイリアンを主人公にしろとか有色人種を活躍させろっていってんじゃない。出すならちゃんと扱えよ。過去に敬意を払えよ。ルーカスはつたなくとも他者(エイリアン、ドロイド、有色人種)にたいして良い奴も悪いやつもいるし、バカも利口もいるように描いてきたぞ。
だから「スター」ウォーズだったんだ。主人公たちがエイリアンやドロイドに対して見せる豊かな感情に共感してきたんだ。
聖書に則ったテーマがあれば絶賛するクソ評論家の町山には心底失望した。こんな酷い、悪意の塊のような映画はまったく認めれらない。
白人の人間だけにクローズアップされた「スター」ウォーズなんてスカイウォーカーの血筋の物語の百倍クソだってわかんないのか。神話を民主化したというが、個人(家族)の話が人種の話にすり替わるほうが何倍も悪質なのがわかんないのか。
マスダ(兄)「もう少し自分と相手の気持ち両方を整理させてから行動するんだな」
ミミセン「やっぱりドッペル本人に聞くのが手っ取り早そうだ」
マスダ(弟)「もうやめないか? そこらへんをほじくたって分かるとは限らないぞ。本人だって分からないかもしれない」
マスダ(弟)「自分自身の気持ちを正しく把握している人なんて、実のところそんないないよ」
タオナケ「私も」
シロクロ「ミートゥー!」
マスダ(弟)「そりゃお前らが例外か、分かった気になっているかのどちらかだと思う」
シロクロ「あ、魔法少女がいるぞ」
ミミセン「本当だ。ちょうど良かった」
魔法少女「また、あなたたち? 個人的な頼みはノーサンキュー」
タオナケ「違うわ。人を捜しているの」
魔法少女「そういえば、五人組なのに1人いないね。緊急事態?」
マスダ(弟)「そいつに、俺の兄貴のことが好きかどうか追求しようと思っているんだ」
魔法少女「そんなことに協力なんてできない」
ミミセン「そう言わずにさ、頼むよ」
魔法少女「自分たちが何をやっているか分かっているの? 単なる興味本位で人の気持ちを弄んで」
魔法少女「“善意の第三者”ってわけでもないでしょ。“野暮”だとか“余計なお世話”だとかって言葉を知らないの?」
魔法少女「……そういえば私の正体暴いたっていう前科のある子達だった」
ミミセン「ドッペルが見つからないね。心当たりのある場所はほとんど探したのに」
マスダ(弟)「多分、実際に逃げているんだろうね。いわゆる乙女心ってやつさ」
マスダ(弟)「兄貴の言っていたように、ドッペルは色んな感情が渦巻いているんじゃないかな。兄が欲しいという願望、親愛、友愛、恋愛、色んなものがぐちゃぐちゃになっている。だからそれを自然とハッキリするまで様子見しているんだ」
タオナケ「じゃあ、それをハッキリさせるためにも、ドッペルに問いただしましょう!」
マスダ(弟)「おいおい……」
タオナケ「マスダの兄ちゃんって、ドッペルのことどう見えているの?」
マスダ(兄)「まあ、弟みたいな奴だな」
ミミセン「それはまたどうして」
マスダ(兄)「そんなこと言われても、ドッペルのやつ弟の真似ばっかりしているから、俺にとっては弟みたいな奴なんだ。弟みたいな奴は、弟みたいにしか見れねえよ」
マスダ(弟)「じゃあ実際の弟は?」
マスダ(兄)「弟は“弟”だろ。ドッペルは“弟みたい”」
ミミセン「同じように見えるけど?」
マスダ(兄)「“同じ”じゃない、“同じようなもの”だ」
タオナケ「ややこしい」
タオナケ「ドッペルが弟の真似ばかりするからといって、上っ面で判断するのはどうかと思うんだけど」
マスダ(兄)「俺は表面的なものが判断材料であること自体を悪いとは思わない。それ“だけ”で判断することがダメなんであって」
ミミセン「同じじゃないの?」
マスダ(兄)「人間ってのは様々な要素で構成されている。だから判断基準も多種多様だ。その中から1つしか考えないってのが馬鹿げているんだ」
マスダ(弟)「じゃあ性格が優しいだけで判断するのも、見た目だったり学歴や収入だけで判断するのも大差ないってわけかあ」
マスダ(兄)「その通り。要素そのものを責めているわけではなくて、短絡的なガイドラインをさも総意のように語るのがダメなわけだ」
タオナケ「そういう話じゃなくて、ドッペルのことが好きか嫌いかって個人的なことを聞いているの」
マスダ(兄)「“好き”と一口には言っても色々あるだろ」
ミミセン「色々って?」
シロクロ「ライク? ラブ?」
マスダ(兄)「もっと細分化して、友愛、親愛、恋愛エトセトラ」
マスダ(弟)「そういえば、そのあたりを詳しく考えたことないなあ」
マスダ(兄)「どれか1つとも限らないぞ。それらが独自の配合バランスに……」
タオナケ「これ以上、話をややこしくしないで!」
マスダ(兄)「怒り5割ってところか?」
マスダ(兄)「というか、お前たちはどういう意図でそんなことを聞くんだ」
マスダ(兄)「まさかお前ら、単なる興味本位で個人の気持ちを問いただしているのか?」
ミミセン「あー……そういうことになっちゃうのか」
マスダ(兄)「マジかお前ら。ドッペルはこのことを認めているのか?」
マスダ(弟)「……一応、俺は止めたんだけどね」
マスダ(兄)「お前ら本当に友達なのか」
マスダ(兄)「そもそも知ってどうする」
マスダ(兄)「本人の意志と無関係にやってるんじゃあ、その時点にすら立てていないだろ。それじゃあ俺が好きだと言ったとしても、嫌いだと言ったとしても、単なる暴露話にしかならない。誰も得しない」
タオナケ「けど損しない可能性があるなら、言っても構わない?」
マスダ(兄)「それ大した理屈じゃないよな。じゃあ俺が、お前らのことをどう思っているか言ってやろうか」
ミミセン「……なんだろう。すごく聞きたくない」
マスダ(兄)「少なくとも、お前らのその態度に関してだけ言えば嫌いだ」
私の意見が間違っていても、増田が申し訳ながらなくていいんだよ。私は増田の言いたいことを理解したいだけだから。
綺麗事じゃなくて、えーとでも友愛とか博愛とかそういうことでもなくて、ただの興味本位なんだけど。
どれだけ私が他人の話を理解して自分の言葉で置き換えることができるかっていうゲームみたいな。
だから面倒臭くなったら付き合わなくてもいいし、それなのにお疲れのところちゃんとお返事をくれてありがとう。
あんまり頭のいいプレーヤーじゃなくてこっちの方が申し訳ないんだけど。
で、もうちょっと考えたんだけど、この増田の主題は、自己肯定していない人間がポリコレを実行するのは危険を伴うから注意が必要だよってことかな。
ネットでポリコレ棒ブン回してる人たちはみんな、自分で考えたことを信じられないから(自己を肯定してないから?)他人の考えを丸呑みにして準じようとするからそうなってるよね、それって本質を理解してなくて、ただその教えに従ってれば自分は絶対正しいんだって安心してるだけのポリコレ聖典の信者だよねってことかな。
ポリコレじゃなくても、逆にレイシストであっても自己肯定がなければ、同じようにレイシズム聖典を抱えている可能性もあるってことよね。(ただレイシズムの場合は元々相互理解は不要であるという考えだから、ポリコレみたいにそれが本質でなくても内部矛盾する機構を持たないけど。)
自己肯定って確かに難しいよね。
小さい頃からずっと事あるごとにお前はいつも間違っているって言われて、その度にずっと脅されたり叱られたりしてくれば、どうしたらそのストレスから逃れられるのかなって考えた時に、じゃあもう自分で考えたことはみんな叱られるなら、みんなが正しいって言ってることを信じたらきっと叱られたり脅されたりせずに済むだろうって、まあ普通にそうなるよね。
そんでポリコレの真髄とは、どんな反対意見を持った相手にも、どんな人種の相手にも、どんな性別の相手にも、どんな身分の相手にも敬意を払って、失礼なことをしない努力をするってことなんだけど、そうなると相手の意見を尊重してよく耳を傾けなければならないし、自分がそれでもし何か間違っていたことがあったとしても、その間違いを正すことを恐れてはならない。自己肯定の塊よねこれって。
自己肯定をするのはすぐには難しいかもしれないけど、でもきっとそれができればもっと楽チンに平和にポリコレできるよ!ピース!
って感じ???
あっでも、増田の最初の文章の言葉が足りなかったとか、そういうことが言いたいんじゃないよ。
そういう自己肯定とポリコレの関係について私はあんまり考えたことがなかったから、最初ちょっと何を言わんとしているかわからなかったんだけど、対話させてもらって新しい考えがインプットされたので面白かったです!ありがとう!
一旦投稿
毬が転がった後の暗転が、すごく暗闇。DVD撮影日、最前列、と見たので、今まで実はそんな暗くなかった。
ほぼ最後尾だったので、暗闇がすごかった。
その暗闇から「不幸という言葉が…」という一説(長い)(日本どうこうまで入るよ)が聞こえると、井戸の中で亡くなったものの嘆きに聞こえます。
場所は紀州の孤島。「ここが最後の場所」と言う。物語の最後の場所であるらしい。
ちなみに舞台では紀州の孤島の諸戸屋敷を改装しているとやはり最後に言っている。
亡くなられた方が、私たちのいる現代に帰ってこられて、語られているようす。
鬼のことは姿が見えないという。
どうにも諸戸の最後の手紙に苦しんだという旨かのような発言に聞こえる。暗記できない…
なんというか簑浦と諸戸やはりお亡くなりになっていて一緒にいる。
私は学生時代の簑浦が「あつい手だね」と言ったこと、~`,+@~若いから嫌悪感なかったということなど、『私』の簑浦は諸戸との恋愛にどうしても繋げてしまう。
というか、学生時代の終わった恋の簑浦、諸戸との友情の箕浦というのは、状況的にはスッキリする。いや心理的にもそうなのだけど、後半の解釈がうまくゆかぬのだ…
箕浦「ここからは僕の物語」が、おそらくセリフとして正しいはず。毎日稽古しているようだけどセリフ変わってたらどうしよう…見る回によって難易度違うのは勘弁してほしい…
よくよく聞いてないと本当に流してしまう…
諸戸との再会は初代さんちで深山木さんもいる時でしたね。
作中で声が重なるのは4回。
「早くないですか」は、もっと諸戸と話したかった(のに邪魔された)という意味?
ヒグチは初代と秀子…あ~
言葉に二重の意味がある時に同時に話すのか? いや、私は原作からも「あつい手」を二人が同時に感じる相思相愛エロチシズム表現だと解釈している。これはハッピーエンドを目指すときに絶対に揺るがせない。
私>箕浦って世界への権力差は確実にある。これがな~どこまでを私とし箕浦とするか、というのが厄介にさせている。
いや逆か。おそらくどこかに数式の解があって、それであるならすべて説明可能になるように設定の証拠が上演されているのだ。
『私』と諸戸だと共犯関係のような雰囲気を感じるけれど、箕浦と諸戸は親しく親密にしていてもどこか絶対の別個体感があったんだけどなぁ。う~ん…印象に補正かけている気もする。
諸戸と箕浦に萌えるのって、それこそ不倫の恋のように感じて抵抗がある。初代から秀ちゃんに心変わりすることを「恥はないのか」と責めることと、まったく同じ事象が「箕浦が諸戸に心変わりした」という場面でも発生すると思うのだ。
諸戸と箕浦の身長差であるとか、近い距離感であるとか、激情を秘めた哀しみのHSK×鈍感素直な陽属性ノンケという組合せだとか、萌えなくはないのだけど…ってあーーーー!
これが「諸戸と簑浦は何かへんだぞ」か! そして箕浦は完璧なノンケの態度しかとっておらず、盗み見たり接触しようとしたり近い距離にドキドキしていそうなのは、変なのは諸戸の方だ!
そうだ、二回聞いたなと思っていたのはここだ。学生時代の思い出語りで諸戸の友愛や親切に感謝していると『私』は言い募るのだ。セリフの仔細はちがうだろうけど、井戸で襲われかけている時も『私』はそう募る。
どうにも『私』は諸戸と恋愛できる可能性を抱えているように見えてしかたなく…やはり手を握り返さない箕浦に驚いて『私』を見るシーンの解釈が…
あれ?もしかして再会してから、諸戸が初めて『私』を見たのがあの時か!?
ねえそれなら、諸戸は「手を握り返されられない」ことに『私』=簑浦の中にある恋の種に気付いたのではないか?
だから諸戸に見られた『私』は顔を背けその瞬間箕浦は手を握るんじゃないか?
ああそうか、もし諸戸が自分の身を恋に燃えるイドと美しい友情の超自我に分けられたなら…
丈五郎に滞在していけと言われた時、諸戸は先に『私』を見て「だってさ。」と言い、それから箕浦を見ている。
秀ちゃんが吉ちゃんの手を自分の胸にやるシーン。あそこは死んでしまいたいというセリフだっけ? 井戸の中で諸戸と死ぬことを受け入れた箕浦は、抱き締める諸戸の手をどうした?
あの時は吉ちゃんは発情していなかった。だから胸に手をやるのは凌辱表現ではなく、秀ちゃんによる吉ちゃんの受容だったのでは。セリフはなんだったか?
《みのうら》している箕浦は、諸戸の回想とか見えていない。だから語っている諸戸を見ている。『私』には諸戸の回想が諸戸と同じように見えている。
そう、秀ちゃんに恋したところを見咎める諸戸、めっちゃ非難する諸戸、あれって諸戸よりももう一人の自分みたいだったんだ。ある意味箕浦に似ていた、諸戸とは少し違わなかった?
私、簑浦が同性愛を否定するようになったのはあの夜以降で、その倫理形成は諸戸だったのではと思うの。超自我は教育で培われるでしょ、簑浦の同性愛嫌悪はそのまま自己否定する諸戸のようだと思うの。
「君は嫉妬しているの?」ってセリフ、あれはああ言うしかない会話の流れででもそしたら嫉妬しているって答えるしかなくてじゃあ今こそ受け入れてくれるの?って流れになるに決まってて…って思うんだけど、そこでも簑浦は友情しか受け取らない…「うん秀ちゃんが無事で嬉しい」って言えばよかったの?
この「愛」というのは文字どおり全ての愛のことを指す。家族愛師弟愛友愛性愛といったあらゆる愛の形がBLに含まれる。
「BLが好きです」という宣言自体は何ら恥ずかしいことではない。「愛について書かれた作品が好きです」と意味はほとんど変わらない。「男同士の」愛が好きと言うのは完全に当人の好みの問題である。
例えば「風と木の詩」や「BANANA FISH」は明らかにBLがテーマのひとつとなっているが、ではこれらの作品を好きだと言うことは恥ずべき行為になるのだろうか?
これはBLに限らず、GLやNLも含む全ての二次創作が「腐向け」にあたる。
腐女子が恥じるべきは「肉体関係にない二人組を性愛込みの恋人同士だと捏造・解釈する、他人のセクシャリティを勝手に決め付ける」その腐りきった性根であって、「男同士に萌えてしまう」という部分ではない。
そもそもこのような邪推は同性愛・異性愛問わず大変失礼な行いであることに異論の余地はないだろう。
したがって、公式カップル以外のカップルを捏造し、またそれを愛するオタクはNL・BL・GLといった嗜好に関係なく「腐女子」「腐男子」を名乗るべきである。
これ雰囲気づくりだよ。夜景の綺麗なレストランをデートの締めにすると見せかけて、よい雰囲気になったらホテルにしけこむみたいな(実際そんなことするのか知らないけど)。今から夢小説に没入する人のための雰囲気づくり。わかるか。
これも雰囲気づくりだよ。自己紹介だよ。ここから、夢小説を読む心の準備をさせてくれてるんだよ。大方の夢小説は(偏見に満ちているだろうけれども)二次創作で、既存の(原作の)キャラクターとの恋愛なんだろ? 好きなキャラクターから名前を聞かれてなにが悪い。歴代ポケットモンスターでも主人公は博士から名前を聞かれるんだからな。あれで(あっ、わたしポケモントレーナーになるんだ)みたいな気持ちになるんだよ。促しているんだよ!わたしは今からこのキャラクターと恋愛するんだよ!
(夢小説の)主人公が、なにか(主人公のかけ算の)相手にとって「おもしろい」行動をとったときに言われるやつ。
主人公補正だよ! 「名探偵コナン」ではコナンくんが行く先々で(あるいはどこにも行かずして)事件に遭遇するだろ。あれはそういう物語なんだよ。事件に遭遇しなきゃコナンくんは「名探偵」にはなれないんだ。いくら名探偵といえど事件をかけらも知らなきゃ、解決のしようもないだろ。恋愛もの夢小説で、主人公が相手と両想いになるためには、相手も主人公を知らなきゃいけないんだよ。きっかけだよ。「ほう……おもしろい」はきっかけだよ! 主人公を知らずして、相手を知らずして、どう両想いになるんだよ!
美人すぎる強すぎる完ぺきすぎる胸が大きすぎる性格がよすぎる云々。
これも主人公補正だよ! 言わば(もしかしたら作者の)理想の姿(かもしれないもの)だよ!
コンプレックスないの? かわいくない弱い賢くないなにもできない胸が小さい性格が悪いって、実際にどうか知らないけど、なにがしかのコンプレックスありませんか? わたしにはあるね。胸が小さいし小さなブラジャーがないし「お客さまのサイズに合うブラジャーのとり扱いはございません」って大人になっても言われるし。夢小説を書く(読む)ときくらいボン・キュ・ボンの美人でもいいじゃないか! って思うね。
それでなくたってだな、キャラクターとの釣り合いのことを作者が考えたかもしれないんだぞ。完ぺきすぎるキャラクターに、あまりに凡庸すぎるキャラクターは似合わないみたいな。ハリー・ポッターの宿敵の闇の魔法使いヴォルデモートなんか若いころは「ホグワーツ開校以来の秀才」で超絶美形で人心掌握もできて、つまりなんでもできるんだよ。(おそらく)唯一の欠点といったら「愛を知らなかった」ことだよ。そんなキャラクターに「おもしろい」と思われるには(愛を教える……なんて傲慢! でも教えたいし助けたい! あわよくば交際したい!)、よほど人間ができている(性格がよい)とか同じくらい頭がいいとか人心掌握最高とか美形とか、そういう特別な設定が必要だとは思わないか? 繰り返しになるが、わたしは思う。
そのまま。こういうときの主人公は女性のことが多い(偏見だけど、もしかしなくても夢小説は二次創作であったりその主人公が女性であることが多いんだな)。
ヒロイン補正だよ! ヒロインつったけど別に男でもいいんだよ。でもヒロイン補正だよ。劇場版「名探偵コナン」を見たことがあるか? 蘭ちゃん、空手強いよな。てかあの世界のメインキャラクター武術嗜みすぎよな。それはおいといて、都大会優勝レベルとかいって、拳銃かなんかの弾を避ける程度には強いんだよ。実力者だよ。でも、いざというときには油断したりしてなかったりして、敵に捕まったり船にとり残されたりしたんだよ。こういうの、物語の展開のためっていったらそのとおりだけど、そんなもんだし、やっぱりヒロイン補正なんだよ。いいじゃん、好きな相手に助けてもらえるんだよ。強すぎると助け甲斐がなさそうだけど、ギャップ萌えとかあるじゃん。たまに見せる弱い一面にドキっとさせられるんだよ。素直に受けとろうよ。
戦力として数えられないほど弱いのに前線に立ちたがるみたいな。拒否されると、こっそり前線の近くまで行くみたいな。そんで、そのせいで(主人公の)味方の勢力が不利になったり主人公が捕まったりするんだな。
これもヒロイン補正だよ! 主人公補正でもあるよ! なにがどれがとか言えないけど、「できないからってあきらめるわけにはいかない」とか、なんかそういうことあるじゃん。やっぱり物語の展開には必要だったりして、これをきっかけに主人公が成長したりしなかったりするんだよ。失敗は成功の元って言うじゃん。見てるとイライラするけど、あとあと「おまえ成長したな」って思えるときがくるかもしれないんだよ。それに弱くてでしゃばることが、必ずしも悪いことになるとは限らないんだよ! 物語の展開にもよるけど。
悲劇的な殺人事件の唯一の生き残りだとか、殺人犯の子どもだとか、ロミオとジュリエットだとか、あまりの美しさに嫉妬した継母に家を追い出されたとか。なんか壮絶な過去。
これも主人公補正だよ! (夢小説の)物語の展開には必要になる(かもしれない)んだよ! ハリー・ポッターの過去は壮絶だぞ。史上最悪の闇の魔法使いヴォルデモートに両親を殺されたばかりか、そのヴォルデモートを赤子の時分に撃退したんだぞ! 親は友だちに裏切られてるし、なにかあるたびに額の傷は痛むし。でも、そんな過去がなかったら『ハリー・ポッター』の主人公にはなれなかったんだぞ。その過去が壮絶な(夢小説の)主人公だって、もしかしたらその壮絶な過去がなかったら、その夢小説の主人公じゃなかったかもしれない!
小学生や中学生や、それなのに、両親が海外で働いていたり亡くなってたりしてて、たくましく一人で暮らしてて、生活力がすごい。ことがある。みたいな。
知るかよ! たぶん主人公補正だよ! 少年マンガとかで、親が出てこないことあるだろ? 子どもの物語を描きたいときに、(言っちゃ悪いけど)両親という小道具が邪魔になることもあるんだよ。都合がいいんだよ! 作者に!
二次創作で、既存のキャラクターと……ってことが多い。過保護なまでに友愛を注がれていたりいなかったりする。
主人公補正だよ! 主人公はなにの主人公かって、夢小説の主人公だよ! 実在しない(悲しい!)キャラクターと、せめて夢小説のなかでくらい仲がよくたっていいじゃん! こんな友だちいたらいいなーとか、思わないの?
二次創作で。「未来を知っているわたしが未来を変えるわけにはいかないの」と悩んでいることもある。
あなたなにを読んでるの? 夢小説だよ? 異世界トリップもの! ほかのなにより明白に「その世界に存在しないもの」が紛れこむんだよ。てか異世界トリップものじゃなくてもだね、夢小説の主人公って、そういうものじゃないの? なにかしら変えちまうんだよ。こういうものなんだよ。だって原作に、あなたいないでしょ? でも夢小説の主人公っていうのは、たいていあなたで、原作にいなかったキャラクターなんだよ。いいじゃん、未来を変えたって。わたしはハリー・ポッターに倒されるヴォルデモートの未来を変えたいというか過去から変えたいというか、そもそもヴォルデモートになってしまうこと自体を変えたいというか、そういう気持ち、あるよ。
「ごめんね☆ ぼくのミスでうっかりきみをあれこれしちゃったから、お詫びに異世界へ連れていってあげる」とか。
あなた「神さま」を笑うの? 笑えるの? ノリ軽すぎとか突っこんでよいお立場ですか? 創造物ヒトだよ。脆くも儚い、神の創造物だよ。どんな態度で主人公に接したっていいだろ。これは神さまの、いわば気遣いだよ。創造物ヒトが怖がらないように発狂しないように、精神の安寧をすら気遣って、それでいろいろしてくれるんだよ。
宗教とか勧誘とか、そういう怪しい意図は、ここには一切ございませんし、わたくしそういうのの一員ではない。
「夢小説あるある」はネタなんだけど、使うひとにとっては、おおむね三種類それぞれの意味合いがあると思う。
そして、それを見たひとの楽しみ方は、おおむね二種類だとも思う。
「夢小説あるある」というネタである。使うとき、「こういうことがあった」「こんなんなんだろうな」「これあるある」という感情がある。それを、懐古や侮辱の共感を狙って、Twitterなどで発信する。
わたしもネタにする。ここであげたものは、わたしが通ってきた道で、歩いている道だ。現役の身としては、「こんなことがあったよね」という懐かしさを抱く。そして、これがすべてではない。
ところで、夢小説を好きだったことのないだれかは、どうやってこんな「夢小説あるある」を知るんだろう。まあ偶然にも夢小説サイトに出会った、なんてことはあるかもしれない。あるだろう。WWWは広く開かれているから。でも、だ。わたしは「夢小説あるある」ネタで「夢小説あるある」を知ったひとも、いると思う(それが「#夢小説あるある」の形をとっていたかは知らないけど)。そして、それをそのまま、偏見とともに受け入れ、侮辱の意味で(無意識かどうかを問わず)使ったり使わなかったりする。
使われ方には三通りあると言った。黒歴史、偏見、そして現在だ。この道を、まだ歩んでいるひとがいる。わたしもその一人だ。一例を挙げたけれど、あんなもの、ありふれているんだ。黒歴史と感じて恥じ入ることはあるかもしれない。かつての自分の作文を、目の前で読みあげられたら、あるいは自ら読み返したら、恥ずかしくもなるだろう。こと年を経るにつれ(幼稚園やら小学校で書いた作文は、大人になってみたら、支離滅裂だったり言葉が滅茶苦茶だったりするだろう)。そんなものだと思う。夢小説だけじゃなくて、文章だけじゃなくて。あんな下手な料理を人に振る舞っていたのかとか、あんな掃除でやり遂げた気になっていたのかとか、あんなボールの蹴り方をしていたのかとか。この日記だって、わたしの恥ずかしい思い出の一つになるかもしれない。
「夢小説あるある」が黒歴史の意味を持っているあなたに聞きたい。その黒歴史、いつのお話ですか? その黒歴史を歩いていたとき、あなたはおいくつでしたか? あなたは今おいくつですか? 黒歴史黒歴史って言うけど、作文だって下手な作文をめいっぱい書いてうまくなるんだよ。幼稚園児に、「きみはいつか大学で研究論文を発表するんだよ」って言ってごらんよ。わたしは信じられないよ。わたしはその黒歴史(下手だったり恥ずかしかったりするやつ)を積み重ねて、今はかつての面影もないようなウェブサイトをつくった。今ネタにされているホームページの面影なんかないからな(いにしえのホームページが悪いわけではない。ただわたしの好みの問題です)。「ほう……おもしろい」は、古今東西、あらゆるところで使われているんだ。なにも夢小説だけじゃない。プリキュアでも仮面ライダーでも、ちょっと自分にたてつくやつには「ほう……おもしろい」で余裕の笑みを浮かべるんだよ。わたしは今も使っているけど、昔よりはうまくなったと思うよ。
あなたの黒歴史は、あなたの過去だ。いろいろな人に黒歴史はあるかもしれない。けれど、それは今じゃない。スマートフォンのOSのメジャーアップデートの頻度をみてみろ。VRが家庭にやってきた。HTMLもCSSもバージョンを重ねたし、ウェブサイトの文字コード指定の主流はUTF-8になった。というか、ガラパゴスケータイじゃないんだよ、今は。スマートフォンだよ。かつて(もしかしたらそうかもしれない)黒歴史をつくっていた人たちが、今まで(夢小説を)つくるのを続けてきて、どうして変わらないと思う? 実際、JavaScriptの仕様変更にともなって、元祖(おそらく)ドリーム小説用変換ツール「DreamMaker」は、あまり推奨されなくなったよ。でも、同じJavaScriptでありながら現代基準のaliceもあるし、PHPを使うdream.phpというツールもでてきた。名前変換機能のついた投稿サイトpictMalFem(BLやGLに特化した姉妹サイトあり)もある。初めがどうだったかなんて知らないけど、夢小説は「キャラクター♂×自分♀」だけじゃない。今はいろいろな楽しみ方がある。二次創作だけが、恋愛だけが、自分♀だけが夢小説じゃない。
笑わないでほしい。侮辱しないでほしい。夢小説に、こんなあんまりな偏見を向けないでほしい。たとえ今つたなくとも、続ければうまくなる。再三になるが、人は進歩する。成長する。成長しうるんだ。続ければ。はじめたばかりのひとが、いきなり職人レベルのものをつくれるなんてことは滅多にない(あれば、それはそれでおめでたいことだと思うけど)。たいていは、つくり続けて、こつこつと上達していくんだ。けれど、笑われたり侮辱されたり、偏見を向けられたりして、「夢小説を好きでいること自体が、書くことが、読むことが、恥ずかしい」と思うひとがいる。わたしは「夢小説あるある」をあげたけど、雰囲気づくりだし、お化け屋敷におどろおどろしいキャッチコピーがつくようなものだし、あるいはありふれた要素だったりするんだよ。ちっとも恥ずかしいことではない。でも、恥ずかしいと思って、やめてしまったら、それ以上うまくなることはないし、それ以上楽しむことも、夢小説自体を楽しむひとたちと楽しみあうこともできなくなる。
夢小説について偏った知識しか持たないひとには、侮辱するのではなく、今の夢小説のことを知ってほしいし、できれば読んでほしいとも思う。夢小説が気になっているひとも、恥ずかしがらずに、まず読んでみてほしい(書くことから始めるのでもいいけれど)。
>無料貸し出し12万本 なぜか戻らず
>「友愛の傘」は1962年11月、市交通局に地下街の連合会から傘3000本の寄贈を受けて始まった。
こんな記事があった
1年あたり2400本消える計算だ
1年のはじめに2400本の傘があり、年に大体100日雨が降る
もし年に100回貸し出すタイミングが有り、1回につき100人がこの傘を利用したとして、うち99人が返し1人が返さないと
つまり1年間の減少数は
(利用者数)×(返却しない割合)×(雨の降る回数)=2400本
雨の降る日数は、名古屋の場合は107日程度、朝昼晩と考えると200回でいいだろう
つまり
60人 20%
240人 5%
600人 2%
1200人 1%
少なく見積もって240人だとしても、20人に1人返さないだけで12万本の傘は消えていくわけだ
今回は裏サンデー
忘れていたけれども、あんまり要領のいいキャラじゃないってことを今回のインターンで思い出した。
それにしても、「裾上げ」をここまで重要な事柄だって作中で何度も描くって珍しい。
まあ実際、一般人の認識だと「たかが」って思われがちなことだから、念を押してるんだろうな。
今回のやり取りが顕著だと思うけれども、とにかく懐疑的なんだな。
自分自身の心理に対して分析して、納得できる理屈が欲しいんだ。
彼らの言動はその答えを求める手段でしかなく、よく分からないことをそのままにして行動できない。
とても理知的ともとれるけれども、悪く言えば臆病ともいえなくはない。
今に始まったことではないけれども、理性と感情の境界を曖昧にしたり、こういいうことを自己分析して言語化することにそこまで興味のない生き方をしている人にとっては、理解に苦しむかもしれないなあ。
敵として出てきたときは、相手に能力が使えることや、発動の条件さえ知られなければかなり強力だと思ったけれども、こうやって見ると中々に厳しい条件だな。
しかも、それを上位互換に近い能力者相手に、かつ不利な立場からやらなければいけないとは。
その言動に至る理由は分かるんだけれども、最後のシリアスな絵面で「私の特技は「ダジャレ」です」がシュールで、こっちが笑いそうになるわ。
ほぅ、給食のグルメ漫画と思ったが、読んでみたらちょっと違うっぽいのかな。
どちらかというと、給食をテーマにしつつ、小学生たちを中心に繰り広げられる人間ドラマこそが主体っぽい。
読む前の印象とは違った作風だが、私はこういうの嫌いじゃないよ。
何気に、最近は小学生を中心にしたドラマとか、漫画で読む機会があまりなかったしね。
ちゃんと給食に関連してコミニケーションやドラマが生まれている構成も私の中でポイント高い。
ドラマ部分と食事部分が、ほぼ分離して描いているグルメ漫画とかも少なくないからなあ(グルメ漫画としてある意味で潔い構成なので、それはそれで嫌いではないけれどもね)。
どういう感じで描いていく、ストーリーを進めるんだろうと思ったが、今回で方向性が見えてきたね。
まあ、やや肩透かしというか、あんまり期待していない展開、作風だが。
まず、4話のラストのセリフはまさかの想像通りの行為を指す言葉だったが、その行為の意味する所が恋慕だとかではなく、友愛の確認というね。
7月31日フランス全国各地で、26日に殺害されたアメル神父を追悼するミサが行われ、どこでも多くのイスラム教徒が出席しました。
特に事件現場に近いルーアン大聖堂のミサは感動的な空気に包まれていました。
地元のイスラム教徒の代表団に語りかけているのは、先月26日に起きた教会襲撃事件で殺害されたアメル神父の妹です。
深い悲しみの中にいる彼女を、イスラム教徒の女性がなぐさめています。
「お兄様は私達にとっても兄弟同然です。お互いの間に溝を作ってしまったら、テロリストの思う壺です。私たちは隣人であり友人です。神を信じる者同士です。人と人とを結ぶことに尽力されたアメル神父の功績は、我々の記憶に刻まれ、永遠に語り続けられるでしょう。」
ミサには、男性、女性、大人も子供も、様々な宗教の人が出席して、カトリック教徒への連帯の気持ちを表明していました。
「深く感動しています。あのような野蛮な行為には、断じて抗議します。アメル神父を思って今日は出席しました。」
友愛の気持ちを表し、相手をよく知るきっかにもなったミサでした。
「カトリックのミサに出席するのは初めてですが・・・、説教の言葉は、コーランの言葉ととてもよく似ていました。」
カトリック教徒は、イスラム教徒がミサに出席したことに、とても心を打たれていました。
「素晴らしい事であり、殺害事件のようなものを避けるには、宗教間の関係をより密にしていく必要があります。・・・感涙してしまって。すみません。」
今回の悲劇が、カトリック教徒とイスラム教徒の関係を更に密にしたようです。
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@フランスF20