はてなキーワード: 一浪とは
私は首都圏のマンションで育った。平成初期に建てられた分譲マンションは同世代が多く、私の住む棟は平成3年生まれが私含めて4人いた。30歳を目前にしてそれぞれの人生を振り返ってみた。
中学時代は水泳部で部長を務め、行事ごとにリーダーシップを発揮してキラキラしていた子だった。地元一番の進学校へ進みそのまま首都大に進んだ。小学校の先生を目指していたが試験に通らず、現在は都内のホテルで働いている。
2.女子(私)
中学時代はとことん地味だった。高校受験で都内の進学校(御三家)へ進み、現役で学習院へ進んだ。外資系の人材企業へ就職して数年でメンタルを壊し、現在はSE。
3.元気な男子
野球一筋の男子でいじめっ子だった。頭は当然悪く、地元の偏差値40くらいの高校へ進んだ。指定校推薦で体育系の学校(日体大?)へ進み、今は駅ナカにあるマッサージ店で働いている。
4.地味な男子
元気な男子に虐められていた。地元一番の進学校へ優等生女子と進み、一浪の後中央大へ進んだ。三菱系の企業へ入り、アメリカの現地法人で働いている。
地味な男子が一番楽しそうに生きていた。いじめっ子は楽しそうに働いており、親と同居している。優等生女子はキラキラしてるけれどたまにつらそうな投稿をしている。私は身の丈にあった生活をしている。昨年末に中学の同窓会に誘ったのに誰も来なかったのは、何かしらのコンプレックスがあったからかもしれない。
最近趣味を通じて出会った歳上の男性と、何度かデートを重ねていい雰囲気になってる。この前話してるうちに、ひょんなことから学歴の話になった。
私は正直、普通の男性が聞いたら引きかねないような大学を出ている。田舎の人が聞いたら「じゃあ変人ってことかしら」って思うようなところだ。まぁ出ているだけで大した人間ではないのだが、肩書きとしては機能してしまっている。
そして相手は、一浪してあまり偏差値の高くない国公立を出たそうだ。大学の最寄り駅の話題になった時に、「俺本当は第一志望はここじゃなかったんだけど」からスタート。おっと、雲行きが怪しいぞ。
どうやら本人的には大学受験の結果は不本意なものだったらしい。アラサーになっても開き直れてないようだ。これはもしかして、音に聞く「学歴コンプレックス」なのではないか。私は自分の出身大学を言えなかった。
本当に交際するなら、きっと言わなければいけない時が来る。その時彼のコンプレックスを刺激してしまわないだろうか。
アラサーになっても学歴コンプレックスって治らないものなのか?そして、年下の彼女が落ちた大学出身だとやっぱり気になるんだろうか。
都内の親元暮らし。国立美大大学四年生。一応目標は院進してドクターになる事(その先はしらん
けどドクターになってどうすんだ??美術系なんて全く食えない。特に自分はファイン系だからなおさら。非常に困った。
困ったけど何故か焦りは無い。なんでだろ。
うちの大学の8割は就職しないからかな?不思議となんとかなる気がする。
弟は地方の国立大。兄弟そろって国立で親孝行ですわ。(なお自分も弟も一浪)
なので家計も逼迫してないと信じたい。かじれるスネがあると信じたい。
一応中流家庭だったから旅行はよく行ってたし、外食もよく行く。学校でもまわりは中流以上だから気軽に友達と飛行機とって海外行ったりした。
車も一応外車で、保険も出してくれるからよくドライブ行ってる。
この生活が今後できるのか、、?
車は安いのは無理。
気軽にグリーン車乗りたい。
鰻は月1じゃないと、、。
けど働きたくない。どうしよ。
一応貯金は250万あるから積立nisaを始めて気を紛らわし、宅建の勉強をして親のアパート経営を引き継ぐ方針で生きていきます。なんとかなるやろ。
19歳で大学進学のために京都に来てから、早くも二十年近くが過ぎようとしている。もともとのきっかけは本当に些細なことで、高校二年生のころ当時のクラスメイトに「京大受けてみようかな」と言ったところ「絶対に無理」と言われて、天邪鬼だった(いや、今もだけど)私は「それなら受かってやるよ!!」と心に何故か硬く決意したのでありまして。でも客観的にみればその友人の言ったことは甚だ正しく、なんとなれば当時の私の学力と言うと惨憺たるもので、高校の学年内順位なども辛うじて下から四分の一にいるかどうか。通っていた高校も曲がりなりにも「進学校」の枠に入ってはいたものの、当時(おそらく今もだと思うけど)札幌に四つあった東南西北(麻雀かよ、と思うけど本当にその四つがあった)の進学校のうちではドベで、北大への進学者数こそ多い(それだって今振り返って考えるにつけ、すごいことだと思うけど)ものの、東大、京大といった「いわゆる」難関大学への進学者は数年に一人くらい。まあそりゃ「無理」と言われるわという状況であったのね。ここまでの流れ、「それでもなんとか受かった俺すげー」みたいないけすかない感じにしか読めないな。すまん。違うんだ。そこは本題じゃない。なのでここを省略すると、現役のときは華麗に落ち、かつ後期受験の申し込みを前期受験前にしておかなくてはいけないことをしらず、後期受けようと思っていた、北大は受験すら出来ず(自業自得という言葉がこんなにも当てはまる状況他にある?って思った)、一浪確定。親に泣きついて予備校に行かせてもらい、ファンキーな講師陣に必死でついていくこと一年(代ゼミの英語講師(だけじゃないけど)は本当にファンキーで、セックスピストルズでかっこ良かったのはシドじゃなくてジョニロットンだったということを繰り返し述べていた)。そのおかげで本当にギリギリで合格したと言った塩梅。センターの自己採点やってたとき(何故か妹と妹の彼氏(これも未だに何故かよくわかってないが俺の高校の同級生)がいた)どんどんバツがついていくものだから、私も周りも顔が青ざめていくのは正味の話悪夢でしかないのではないか。二度と経験したくないし、この世から大学受験というシステムは無くした方が良いのではなかろうかと思ってますけれども閑話休題。
んで、京都に来てから。もちろんこれまで本当に過保護に育った人間には寮生活ってのはペットだった猫がいきなり野良に放り出されたくらいな無謀な状況ではあったのだが、やることなすことにだれか、というか親の監視が無いことに異様な解放感を感じた。
自堕落ではあるものの楽しい日々がきちんとそこにあり、毎日誰かとたくさん話をし、価値観が変わっていきながら、でもそれをちゃんと嬉しいこととして捉えられていた。人生で一番泣くことが多かったのもこの時期だし、まあなにかと閉じ込めていた感情が多かったんだなと改めて。周りにいた人たちがめちゃくちゃエモーショナルであった影響も、もちろん有ると思うけれども。
長々と前段が続いたが。
最初、私が京都に来たかった、と言うよりも「地元を離れたかった」のは、友だちもいねえし、黒歴史残ってるしで、そんなところから離れたいということかと思っていたんだが。今振り返ってみるとおそらくそこは理由の一個ではあるけれど、大きな要因ではなかったなあ、と思っている。
ここで、また冒頭のことに戻るのだが、何故京大でなくてはいけなかったか、と言うことが、わりとこの話の主題にもかかってる。
俺の母親は死ぬほど世間体を気にする人で、ひと昔前の言葉を使うなら、いわゆる「教育ママ」みたいな人やった。
今になれば、彼女がそう考えるに至った経緯もわからんくもないのだが、当時はよくわかってなかったし、母親の元から離れてようやく「監視、管理」をされていたのだと気づき、それがどんだけ嫌かもわかった。
うちの母ちゃんは母子家庭で、母方の祖父はもともと病弱ではあったらしいが戦争行って帰って来て母親が子供の時になくなったらしい。
それからは生活保護を受けたりして、まあいわゆる「普通ではない」生活をして来たのが、俺に対する教育だったりに現れてんやろな、と後に振り返って思うし、そこは「子どもに自分のような「「惨めな」」生活を送らせたくない」という気持ちがあったのもめちゃくちゃわかる。もちろんあとになって少しずつ理解できた話に過ぎないけれども。
ただ、それと関連するのかそうでないのかはわからないが、俺の母親は「通常そうなることが望まれてる」ルート以外の道を俺が辿ることに、異常な嫌悪感を持つ人であった。
極端な例えだが、俺がヘテロでなければ、あの人は納得しなかったと思う。タトゥーを入れたら、俺のことを拒否したと思う。法律婚をしないことにも違和感を感じたと思う。
なんとかわかってもらいたくて(甘かった)、きちんと真摯に向き合って話をしたこともあったけれども、最終的に彼女から返って来る言葉は「私はあなたの親なのだから」という、一つも意味を持たないものでしかなかった。
うちの母ちゃんは「性別に関わらず家事はしなさい」と言って、洗濯、料理、掃除、全部教えてくれた。今も改めて思うけども、その価値観はとても正しいと思う。大人になってから話した時に「結婚前に男性から良いように扱われて本当に辛かった」と話してくれた。聞いた時は俺も辛かったし、許せねえと思ったんだ。311以降に「初めてデモに行ったよ」と話してくれたことも嬉しかった。「もしかしたらようやくお母さんと和解できるかも」と思ったから。
でも、それはすべて「対他人に関して」のことで、彼女にとってはいつまでも俺は「かわいいゆうちゃん」でしかなかったとわかって「理解し合える」「親とはいえそれぞれ別の人間として付き合える」という望みを捨てた。
一個言いたいこととしては、「俺はあなたの感情ホストクラブではない」と言うこと。
あなたの期待通りに動かないといけないなら、そんなことはできないよ、と強く思った。
お互いに理解して、別々の人間として尊重しあいたいな、と思っていたけれど、少なくとも俺の親子関係のケースでは無理だった。
悲しいけれど、もう放って置くのが精神衛生上良いのだろうと思っている。
しんどい経験を経て来てたのは知っているからあまり強く言いたくはないけど、彼女は子どもを支配下に置きたかったんだなあと改めて思う。
一年前に別れた元カノが僕の勤務先、出身大学、出身学部、おおよその年収を記載した形で、僕のことを批評する記事をnoteに公開していて、本当にしんどい。
自分は訳あって、中学受験を辞めて、一浪して慶應に入ったのだが、彼女の批評によれば、その経歴だと「まじで私ゆるふわです、バカです!」と主張して、生きていかなければいけないらしい。
自分はそれなりに努力はしているつもりだったが、そんな努力で自己肯定感を得てはいけないらしい。
そんなところで満足するのではなく、自分よりレイヤーの高い層のことを認識して生きなければいけないらしい。
自己をそれなりに評価していると「イキってる」ことになってしまうらしい。
働いていると気分が落ち込むことがあるのだが、気分が落ち込むと「そんなに死にたいんだったらとっとと死ねよ」というセリフに耐えないといけないらしい。
こんな内容がネットに公開された形式で存在することは自分にとってはかなり耐え難いもので、noteの運営会社に連絡をしたが、削除対象にならないようだった。
大学進学を機に関西の実家から出て1人暮らしをしたいと考えている。
しかし、親が進学してもいいと認めてくれる関西の大学は、すべて実家から通学できる範囲内。
これらの大学に行く場合、1人暮らししたいと言っても「近所の先輩はみんな実家から通っている」と拒まれる。
だから関西以外の大学を考えるが、親が認めてくれるレベル以上の大学はたいていは関西にある。
例外としては東大と国公立医学部になるのだけど、東大は科目数が多いのできついし、医者になるのは興味なし。
ということでこのような場合、大学進学でうまく1人暮らしをする方法があれば教えてほしい。
他の方法として大学は実家で我慢して、就職時に1人暮らしを始めることも考えられるが、それがうまくいくのか、うまくいったとして大学時代を悔やまないか心配。
どうかアドバイスください。
この文章は2013年の自分に向けて書いている。リーマンショックにより続いた世界経済の混乱がようやく終息するかと思われた矢先に、あの東北での震災があり、
サプライチェーンが大混乱し輸出産業が大打撃を受けていたころである。
私が就職した年からアベノミクスが始まり、株価が上がり(少なくとも表面上は)景気が良くなり始めるその直前に当たる。
そのころ私は一浪、無資格、微妙な知名度の私大文系、友達ゼロ、ノンサーというスペックを抱えて就職活動をしていた。
ハナからまともな企業に受かる気はしなかった。半ば投げやりに、就職活動をしていた。
結果として、ある不人気業種の中小に拾われ、社会人生活をスタートさせることができた。
もちろん、「もし」「れば」を考えなくもない。もっとましな選択肢があったかもしれない。
ただ、新卒で入った会社で、組織で働くということや、社会人として最低限の常識は学ぶことができたと思う。結果として間違った判断ではなかったと思う。
なので、仮に今後コロナウイルスの影響で、就職氷河期の再来というようなことになったとき、当時の私と同じような境遇にいる人に参考になればいいと思っている。
を、よく考えてみてほしい。
私は経験がないが、世の中には社員をボロ雑巾のように使い使い捨てる会社はたくさんあるらしい。
そして会社の規模が小さい、中小企業ほどそのような会社である確率は高まる。
このコンプライアンスの時代に、大企業ほど監督官庁からとやかく言われるが、中小企業はそのあたりまだまだ甘い。
そもそも、どういう会社を受ければいいのかよくわからないという人もいると思う。なので何らかの会社選びの軸があったほうがいい。
私が判断の軸としてお勧めしたいのは、ニッチな市場を抑え、利益率の高い商売ができているか?という点だ。
利益率に関しては言うまでもないことなので、「ニッチな市場を抑え」という点について説明したい。
例えば近所でいろいろな会社のスーパーマーケットを回ってみると(できればその地域でしか見かけないスーパーがいい。近所に〇オンしかない?ご愁傷様)
その会社ごとに特色ある売り場づくり、立地、品ぞろえ、店員の配置、をしていることが多い。
そういうのはやはり運営している会社が何らかの意図を持ってやっているに違いない。
そしてそれはほとんどの場合、特定の属性を持った顧客(金持ち、貧乏人、男性、女性、近所に住んでいる人、遠方から車で来る人、ETC...)
向けに特に自社のサービスがより魅力的になるように意図をしてやっている。つまり万人向けでない限られた市場を抑えることを目的としていると言っていい。
業界の外から見たら、そんなところにニッチがあるの?と思えるような場所にニッチがある。がっちりマンデーで特集されるような会社もそうだが、
もっと微妙で味わい深いニッチを抑えた中小企業が日本にはたくさんある。
そういう小さな市場を抑え、曲がりなりにも継続して商売を成り立たせているような会社ならばおそら入社してからそれなりの経験ができ、入る価値がある会社といえるだろう。
ぶっちゃけ新卒学生の付け焼き刃の知識でどこにニッチがあるかなんて判断はできないと思う。
そもそも、なぜニッチ市場に「ニッチ」なんてかっこつけた名前を経済学者がつけたかというと、それは見つけるのが簡単ではないからだ。
ニッチ市場が素人にも簡単に理解できるくらいのものならば、すぐに他の会社が参入して来てしまう。
はた目からは簡単に見分けがつかないからニッチ市場はニッチ市場と言える。
どうしてその会社が長年ビジネスを続けている中で、つぶれもせず、さりとて大企業にも成りもしなかったのかというと、
おそらくその会社がシェアを抑えている市場の規模の限界がその会社の規模の限界となっているからだ。
あと、ホームページとかで「当社の強みはココです」みたいにかなりざっくりと表現してることが多い。
なので、面接や説明会で聞いてみてもいい、「御社の強みは~~とホームページで見ましたが、~~と理解しました。しかし~~~なのがわかりません、なぜでしょうか?」
みたいに。そしてその答えに納得できればその会社に入ればいいし、納得できなければ辞退すればいい。
今はインターンとかいうものがあるらしいがそれについてはよく知らないので割愛する。
もちろん、このやり方で優良企業を探すとなると、どうしても設立年数の長い、「古い」会社ばかり選ぶ確率が高まってしまうという難点もある。
また、このやり方だと、昔は成長していたが今は停滞もしくは衰退している会社に入る可能性もある。
世の中にはいわゆるベンチャーと呼ばれるような、今は規模が小さいが新しい市場を開拓して絶賛成長中の会社ももちろんたくさんある。
そういった会社のほうが才能や技術に秀でた人材にとっては働きやすく、より面白くて金になる経験ができるように思われる。
ただ私は新卒の時点ではそういうイケてる会社で働ける技術も才能もなく、あるいは新卒無業になるわけにもいかなかった。
結果として設立約80年の老舗の中小企業に入社することと相成った。
そういう会社に入ってみて、結果としてはまあ悪くなかったと思っている。
今では同じ業界の大手に転職できたし、大手は大手、中小は中小でいい面と悪い面があることも分かった。
今まで述べたのは会社の事業の安定性に関することだが、もう一方の重要な要素である、
社風、福利厚生、教育機会の充実などの「働きやすさ」に直結する部分はガチャとしか言いようがない。
大学を卒業してそのまま大学院に進んだけどついていけずメンタルもフィジカルもぶっ壊して一旦地元に帰ることになった.一浪して入った大学,一年休学することにした大学院を経て得た肩書きは実質無職なニート予備軍の学生(24歳独身男性)であった.
結構絶望の淵にいて,健康状態を考えると寿命で死ねるとも思えないし継続的に勤続することもかなわないという思いも首をもたげ始めてしまっていた.地元の図書館で司書でもやって静かに死んでいこうと決意し親と相談するまでに至っていた.親としてはひどく心配し,そして失望したことだろう.手塩にかけて育てた長男が体を壊して地元の小役人に封ぜられてしまうのだから…….そんなふうに思われているかもしれないことにひどく憤った気もするが,自分にはどうしようもない定めだと受け入れていた,いつの間にか.
何がきっかけだったか,毎度帰省しても引きこもってばかりだったのを,今回くらい誰かと連絡をとってみようということになった.確か,ほとんど話したこともなかったような,それでいて不思議な魅力をまとった子から「よんだ?」とだけメッセージを貰ったことが発端だったかも.今見返してきたらたしかにそうだった.彼女に救われたんだと思う.
久方ぶりに会うさしてよい思い出があるわけでもない男女,なんてどんな距離感で話せばいいのかわからなかったけれど,彼女の都合で結構遅い時間から駅前で飲もうということになった.そんな,都合がいい女ムーヴされて俺はどうすればいいのかと困惑したけれど(下心がなかったかと言えば嘘だけれども),誠実に対応して,テッペン過ぎてから何故か近くの史跡を深夜徘徊したり,あまりにも蚊が多いので彼女のクルマの後部座席で一夜を明かしたり(もちろん手を出したりはしていない),ともあれ楽しかった.ただ肌に触れて髪に触れて,延々と中身のないことを語らっただけなのだが,それまでのすべてが報われたような気持ちになった.
それだけでも十分に価値ある時間だったけれども,そのあとにもいくつか同様に幸せな機会が連続した.艱難辛苦をともに乗り越えてきた男友達と温泉に行った.それがきっかけで地元の友人達とさらに顔を合わせる機会が増えた.謎の営業マンとのみらいを語る会に巻き込まれた.これはこれで楽しかった(データサイエンティストはいいぞという話をエンドレスエイト).地元の連中なんて中学以降ほとんどあっていなかったけれど(そのせいでそもそも自分の進んだ足跡がほとんど知られていなかったのは驚いたけれど),いろんなやつのその後を知った.成人式に息子を連れてきた中卒のやつはもう社会人9年目とか,結婚と離婚も経験してたりとか,婿入りして逆玉の輿社長になってるやつとか.当時は気づかなかったが,友人女性はみな本当に美人で,彼女らをブスブサイクだのと対立してきた当時のぼくらはいったいどれだけゼイタクだったのだろう(笑)そんな彼女らと笑って語らうことができる機会もまたありがたかった.自分が肯定されている気持ちになった.
気づきもあった.例えば学歴を武器に生きている人間はそこには一人もいなかったこととか.みんな別々の流れに沿って強く生きていた.みんな社会人になって自分の力で生きようとしていた.自分はまだ学生,それも親に頼り切ったままであった.
ある意味無敵状態になっている気がして,この流れを逃すまいとして昔々の恋人に連絡を取ってみることにした.非常に不甲斐ないことに,いづれも不本意な終わり方,不誠実な別れ方をしてしまった過去が私にはあり,それがずっと心のどこかで引っかかってトラウマになっていた.呪いや縛りや鎖と呼ばれるものである(大学時代に誰一人としてうまくやり取りできなかったのはここに原因があるのではないかとも思っている).それと向かい合ういい機会であると思い立った.
返事は直ぐに返ってきた.「ふたりで」食事に行こうと提案した.拒否されなかったのが不思議であるが,このせいでさらに調子に乗ってしまった.自分は祝福されている.肯定されている.生きていてもいい.本当にそう思った.いまもそう思えている.そのときのことはここには書かない.自分の中にしまっておく.
もう長すぎるのでまとめる.
1.自分だけの人生の閉じこもっているとひたすらつらい.もっと他の人の人生を見て聞いて,感じるといい.
2.そのためには自室から出よう.物理的に出る必要はないけど,もっと自分の外の世界と触れたほうがいいだろう.
3.自分を肯定してくれた存在を思い出そう.自分を肯定してくれる存在とともに生きよう.きっと自分も誰かを肯定できる存在であるはず.
言いたいことがうまく表現できているとは思えないけど,推敲なしの文章一発目ならこんなものだろう.
いまは休学中だけど,とりあえず生きていけるだけの資格と経験を得られるようにしようと思う.文字にして自分の考えをまとめられてよかった.以上です.
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。
中学まで一切勉強しなくても地方の地元の公立学校ならトップクラスの成績が取れて、調子づいて県下一、二を争う進学校に入ったらみるみるうちに落ちぶれ、それまで地頭でどうにでもなった経験に加えて学習習慣など一切確立していなかったことから一向に勉強せず、高3のあるとき学校へ行くのがたまらなく億劫になり欠席を重ねた結果中退して母親を泣かせ、通信制高校へ編入してどうにか高卒にはなるものの大学受験は散々な結果で浪人、しかしやはりろくに勉強せず、それでも模試では稀にまぐれ当たりの良い成績が出るので予備校の担任と親への最低限の面目は保ち、一浪の末どうにか中堅公立大学に滑り込みで合格、ところが一人暮らしを始めた大学では今まで以上に怠けるので1年次で修得できた単位は30にも満たず、2年前期の期末試験を明日に控えながら半年以上片付けられていないゴミ溜めのような部屋でこれを書いている。人生間違えた。死にたい。死ぬのは怖いので死にたくないけど今の部屋を引き払って学歴も労働も一切求められない全く別な環境で全く別な人間として生きたい。
リアルなのでマウントする意図は全くない。というか読んでもらえれば分かるが、自慢にはならない。
52才男。京大卒。
年収は1100万円、会社から900万円とそれ以外のブログ収入等で200万円。
家族は、妻、高校生の男子、女子の4人。子供は2人とも偏差値70台のトップ高校。
中学まではクラスで3番目ぐらいの成績、まぁ「頭いい子だね」ぐらい。
大学4年時に大学院に行く人も多い中、怠惰な大学生活を終えようと思い、誰でも知ってそうな外資系のIT企業に内定。
就活は苦労しなかった。行きたいと言えば内定がもらえた。学部卒でそのまま就職。
最初に入った外資系のIT企業は12年で退職した。最後の方の年収は34才で800万円ぐらいかな。
辞めてから、知人数名と会社を興すがあまりうまくいかなかった。
8年ほどもがいたけど、結局辞めた。
3年ぐらいたって転職した外資系企業が日本から撤退することになって、行くところが無くなった。
この頃が一番きつかったか。
何しろ45才で京大卒、IT知識やマネジャー経験はあるとは言え、変にプライド高そうなおっさんが行くところはあまりない。
LinkedIn経由で外資系のプロジェクトマネージャーには誘われるけど、面接行っても連敗した。
そうこうしているうちに、先輩の会社のところに引き取ってもらった。
年収は減ったが、あまり変な人間関係に悩まされずに、のんびりと仕事をしたかった。
管理業務が主体だけど、プログラミング自体もすることあるし、小さな会社なので基本、なんでもやる。
年齢と立場もあって、誰かから怒られることはないし、プレッシャーとかストレスはあまり感じない。
そういった奴は部長か子会社の社長とかになっている。年収も多分1500万円から2000万円ぐらいはあるだろう。
住んでいる3LDKのマンションは4000万円で買って、ローンの残りは1500万円ほど。貯金は800万円ほど。
貯金から借金を引いたら借金の方が多いが、毎年200万円ぐらい減っている。
多分、借金が120万円ぐらい減って、貯金が80万円ぐらい貯まっているんだろう。
お小遣い制とかではないので、毎日に食べたいものに好きなだけ買っている。
朝はコンビニのパン、昼もお惣菜屋さんのお弁当が多い。夜は家で食べる。
スタバとかも毎日行く。ほとんど気にしたことないが、平日は毎日平均2000円は使っているか。
酒やたばこ、ギャンブル、風俗には興味がないのでそういったところでお金は使わない。
車は普通の国産乗用車250万円で買って8年になる。駐車場、保険、車検とかで年間40万円ぐらいか。
旅行は夏にキャンプ、冬はスキー。家族で年間15万円ぐらい使っているか。
5万円ぐらいなら欲しいと思った物は普通に買う。
高級レストランとか高級ホテルには行ってみたいけれど、それほど興味がある訳でもない。
総じて貧乏性なので、お金を使うのは食べたいものを食べることぐらいか。
何かの機会でどこの大学を出ていますか?という話をしたときに「京大です」と言えることぐらいか。
それで「ええー。すごい。頭いいんですね。」となるけど、それ以上の話にはならない。
たまに新卒の面接をすることあるけど、自分よりはレベル低いんだろうなと思ってしまう。
一浪での2010年卒。バブル崩壊後の第一世代に比べたらマシだと思うけれど、前年の友人の話が嘘みたいに通用しなくて苦労した。
いわゆる関関同立に通っていて、前年までは大手企業の複数内定が当たり前の風潮だった。
産近甲龍の友人たちも同様に大手メーカー、第一地銀の内定を続々と決めていたので、就活とはそんなもんなんだろうなーと思ってた。
リーマンショック後、そんな安易な展望はおおいに打ち砕かれた。採用枠が前年比半減ぐらいならまだ良い方で、6-7割減なんてところも多かった記憶がある。
なんとか地場大手メーカーの内定を得たものの、それが唯一の内定で、後は惨憺たる結果だった。同期は何でこの学歴でこの会社なの?と思うようなやつも多かったので、岡村さんの理屈はある意味では正しいのかとしれない。
10年経って今更悔やむとかはないけれど、生まれた年(自分の場合は浪人のせいだけど)でこうも環境が変わるのは実に不公平なことと思う。
僕は旧帝国大学の3年生。私立中高一貫校を出て一浪後に今の大学に合格した。客観的に見て恵まれた環境で育ってきたのは間違いないだろう。
そうなのだ。恵まれているのだ。大した悩みなんて無いはずなのだ。それなのに、死にたくて死にたくてしょうがない。自分で死ぬ勇気もないから、何かが自分を殺してくれるのを待っている。
ああ、二年はあっという間だった。自分の無能さを知るのが怖くて怖くて、何に対しても真剣に取り組むことができなくて、気づいたらもう三年生。二年間、見るのはスマホの画面ばかりだった。スマホに依存する自分が嫌いで、それでもスマホから目を離すと死にたくなるから、ずっと無味乾燥な画面を目で追い続ける。そんな日々。
そうして二年の日々を空費している間、同じ年に入学した人たちは多様な変化を遂げていた。
難しい本をたくさん読んで学問知識をどんどん深めていく人。月に何十時間もバイトをして仕事経験を積む人。サークルや趣味に打ち込んで強固なアイデンティティを築いている人。
彼らのような充実した大学生活が僕にもありえたかもしれない。それなのに、今となっては一生届かない。
え?今から一念発起すれば間に合うかもしれないだって?無理だ。もう取り返しはつかないんだ。僕はどうしても小さなプライドを捨てられない。自分だって彼らに追いつくことができたはずなんだ。そうじゃなきゃいけないんだ。そんな思考に取り憑かれている。どうしても振り払うことができないんだ。心の奥ではそんなことはもうできないってわかっているのに。現実の彼らに追いつけない自分を僕はどうしても許せない。現実を意識した瞬間に死にたくなる。だから、スマホに逃げる。そうしてますます自己嫌悪が募っていく。
もう勝ち目のない戦いから降りたい。勝てない自分を許したい。けれども、どうやらそれがどうしてもできないらしい。きっとこれからもずっと僕は自分が嫌いで退屈なスマホいじりに逃げてまた自分が嫌になる。そんな人生の繰り返しに違いないだろう。
虐待とか生活苦とか何か苦しさに理由があればまだよかった、と思うときがある。自分の苦しみに意味を見出せるからだ。
特に何か理由もあるわけではないのに精神をすり減らすのは心底疲れる。なんとなくだけど、30歳になるまでに自殺するような気がする。いや、自殺を結構するほどの実行力が自分にあるとも思えないな。死という形でこの苦しみが終わるならそれでいい、と思うのだけれど。
字下げ増田が今よりも調子が良かった(?)頃に書いた日記の断片を見つけた。
2002年4月10日から2003年3月11日まで,九州北部の某予備校で寮に入って勉強し,一浪の末,ついに東京大学文科Ⅰ類に合格した。
寮での生活は規則正しいもので,出発前の僕の生活とは正反対のものであった(一年前の日記を参照)。おかげでスランプも体調不良もなく無事に受験生活を終えることが出来た。
僕の人生でこの一年ほど充実した一年はなかったであろう。一年前,入寮した時はウツであった。何せパソコンがないのである。
直ちに禁断症状が現われた。しばらくは勉強できず,書店で「2ちゃんねる」という本を買って読んだり,プリントの裏にモナーの絵を書いたりしていたのであった。
しばらくすると,寮の生活に慣れた。これほどよい生活はない。早朝起床,散歩に朝食,登校して授業ないしは自習,下校して夕食,入浴,そして夜自習して就寝。
これを一ヶ月ばかり繰り返すと,精神・体調ともに安定し,頭はスッキリし,プラトンのいうイデアの世界が透視できるようになるまであと一歩という,清澄で健康な心身の状態に到達していた。
また,現役時代と違い,予備校でのそれ相当のレベルの授業に毎日欠かさず受けることにより,学力の底上げと精神の安定がもたらされ,7月のYゼミ東大プレではA判定で成績優秀者ランキングの上位に掲載された。
また8月の河合OP,駿台実戦でもA判定を得ることができた。秋のOP,実戦では解答欄ミスが目立ちB判定と不本意に終わったものの,12月のYゼミ東大プレでは総合300点近くを達成し,全国で50位になった。
センターは645点で不本意に終わったが,その後の追い上げによりセンターでのビハインドをカバーできるくらいの二次力をつけ,結局合格した。とにかく最高の一年であった。
これほど生活にメリハリがあり,また自分でよく考えて受験計画の立案と実行をおこない,それを完遂して見事合格したという経験は以後の人生のための大きな糧となるであろう。
その大学では授業を一緒に受ける少人数のグループがあるそうで、先週自分のグループがわかった。
同じグループにどんな人がいるか気になったからTwitterで検索かけてみたら、3件ヒット。
内2件は新設アカウントでツイートがほとんどなかったけど、残りの1件がなかなかに見苦しい投稿ばっかりだった。
全く関係のない話の中で無理矢理理系用語をねじ込むタイプの文章。
もうイキってるのが透けて見える。
見てるこっちが恥ずかしい。
こんな奴ばっかりだから理系は気持ち悪いって言われるんだよ。わかれ。
一部の本物理系が論理的な話し方する一方で大量の似非理系が本物のフリして見え見えにイキるからキモいって言われるんだよ。
恥ずかしいよ。