はてなキーワード: アウトプットとは
好きなことを仕事にしたいと思い、Web開発の職種を希望し、これまでに複数社受けました。
就職活動を初めた頃は、技術力が足りないが、明るくて人当たりが良いため、営業なら採用できる。などと内定を頂いていましたが、エンジニア枠では無かったためお断りしていました。
それが悔しく、自分なりにプログラミングの勉強を続けました。ソースコードのアウトプットも増やし、本も今まで以上に読みました。
それからは、就職活動で技術力の低さを指摘されることは無くなりました。それだけではなく、Githubのソースコードだけで、技術試験パスもありました。
プログラミングを学べば、エンジニアになれると思っていました。
僕はエンジニアになりたいのに、なれません。この業界は人手不足だと言われてますが、僕はいらない。
どうすればエンジニアになれるのかわかりません。
はてブでよく見る意識高いIT系の記事では、EXCELとにらめっこするだけが仕事の技術力のないSEは今後淘汰されていくという話をよく見る
まさに俺のことだ。
入社して10年、EclipseもVisualStidioもロクに触っていない。
流行りのテキストエディタには触るけどやることは構築手順書の執筆だ。メモ帳でもできる。
日々やってる業務といえば要は代筆業。
営業が色んな客から仕事を取ってくる。仕事内容については、客によって方言がある。
あっちの客が要件定義と呼んでるやつはこっちの客は基本設計だ。そっちの客が機能テストと呼んでるやつはうちでは結合テストと単体テストの一部を指す。
こういうのをいちいち内情に合わせて翻訳し、うちのエンジニアに伝える。
エンジニアは単にアウトプットを出せばいいだけなじゃく、うちの会社の品質保証チームのルールに合わせて物をつくらないといけない。そうでないと会社の名前でリリースできない。
そんな内向きのルールで作った物をまたそれぞれの客向けに再翻訳してリリースする。チェックの結果足りないものは俺が書く。
世の中はアジャイルでカンバンでリーンだ。彼らの提唱した業務改善に従っているお陰で、一時期のように無駄な後戻りも属人的な作業もだいぶなくなった。
タスクをカンバンレベルで分割したことで、エンジニアの手が足りなくなった時にも技術力のない俺が手助けできるようになった。
要は仕様書類や評価計画書を代筆したりすればいい。ここは正直認める。
ただ、アウトプットをお納めする先の客はまだまだウォーターフォールのところばかりだ。奴らは○×設計書、△□評価報告書を要求する。そのギャップは誰が埋めるの?
はじめはエンジニアチームがみんなでやってたり管理者がやってたんだが、次第に俺に集約するようになった。
そうなったきっかけは、同僚よりわずかながら俺ができなかったからだ。その時点で俺が悪かったのは認める。
ただ、分業してるうちに同僚エンジニアたちは最新の技術と開発環境でどんどんスキルを上げるのに、
俺がやってることといえば客のフォーマットに従ったWORDにソースから自動生成されたクラス図を貼り付けて説明を書くとか
Redmineのバグチケット数をEXCELに集計して提出書類にするとか、そんなの。何の生産性もない。
このままこの会社で働き続けるなら問題ないと思う。特に俺だけ負荷が高いというわけでもない。
しかしこの環境がいつまで続くのか、誰も保障はできないだろう。
もし何かあった時、同僚エンジニア達は市場価値も高く、どんな環境でもやっていけるだろう
じゃあ俺は?EXCELかWORDしか使えないエンジニアでもない俺はこの会社から放り出されたら何もできない。
「腐女子こそ夢小説を書くべき論」が話題になって「よくぞ言ってくれた」と喜んでいる人と記事自体に怒っている人がいた。
記事自体に怒っている人、とりわけ「腐女子こそ夢小説を書くべき論」を読んで欲しい層として想定された(と思われる)「腐女子」以外の人について考えてみた。
腐女子以外で、この記事に対して怒っている人たちに、自分たちを「自己投影勢」と自称している人たちがいる。
夢小説を愛好する方の中で、主にガチ恋勢などと言われる人たちのことだ。
彼女らは、夢小説に出て来る名前変換が可能な「主人公」に自分だと思いながら、夢小説を読む。
私は怒っているので、キツイ言い回しになっているかもしれない。
この記事を書いている私は、彼女ら「自己投影勢」の「腐女子こそ夢小説を書くべき論」に対する反応に怒っている。
私が怒っている対象は「自己投影勢の肩身が狭くなるから、こういった記事を書いて腐女子が書く夢小説を増やしてほしくない」と言っている人たちだ。
自己投影勢全般に怒っているわけでもないし、嗜好について私の理解が及ばないと思っていても馬鹿にもしていないし、気持ち悪いとも思っていない。
彼女らに私の嗜好を貶され、排除しようとされない限りは、はっきり言って、彼女らがどう思っているかは興味がない。
嗜好を名指しして「布教をするな」と言われたのでなければ、この記事を書くことはなかった。
上記の自己投影勢の説明ではあまりにいい加減なので、ある程度、前提条件を絞りたいと思う。そのために私の自己投影と名前変換に対する考えを記述する。
私と同じ考えだと自信のある方は飛ばしていいと思う。
目印として本題に入る部分に矢印をいっぱい付けておくのでそこまでスクロールして欲しい。
私のスタンスとしては、他人が書いた小説の主人公を自分だと思いこむことは特殊な技能であると思っている。
これは、キャラの恋人が自分だと妄想することとは別の話であることを留意してもらいたい。
誰かの恋人になった自分を空想すること自体は、誰もが抱くことのある欲求のひとつであると私は思う。空想し、それを作品にアウトプットすることもまた、ありふれた行動であると思う。
しかし、小説という作品媒体になったものを読むとき、登場人物が「自分だ」とはっきり信じることのできる人は多くないだろう。
映画や本を読むときに、話者となる登場人物に感情移入してストーリーを疑似体験する。これは基本的なエンターテイメントだと思う。
感情移入する登場人物は主人公に限らない。幼少の頃に見ていた映画を大人になって見ると、幼少の頃に思い入れた登場人物とは別の人物の気持ちになって泣いてしまった、ということはよく耳にする話だ。
さて。このとき観客あるいは読者は、登場人物は登場人物であって、自分とは別の個体であることを認識している。境遇を自分に重ねることはあっても、自分ではないと分かっているはずだ。
腕にひどい怪我をした人物を見て、自分の腕が痛い気がして顔をしかめる。怪我一つない自分の腕を押さえる。これが共感だ。多かれ少なかれ、誰しもが持っている感覚だといえる。
「共感」は人間の社会生活を円滑にする上で欠かせないものだ。一説では、サイコパスは共感的な感覚を先天的に欠いているのだという。共感が出来ないからと言ってその人がサイコパスであるとは限らないことに気をつけたい。
この共感が強すぎることで、映画やテレビを見るのが苦痛だという話が、しばらく前に話題になったと思うので、「共感」というものがピンとこない方はそっちを覗いてみるのがいいかもしれない。
話は戻って、名前変換によって、いくら登場人物が自分の名前を冠しているからといって、主人公が自分だと思い込む、ということは「共感」ではなく「同一化」に当たるのではないだろうか。
サイコパスの話を持ち出してしまったが、専門用語としての話ではないのでその点はご理解いただきたい。
自己投影と称している人の中で完全な「同一化」ができる人はそう多くないのではないだろうか。多くの人が、夢小説の中で恋愛をしているのは小説の中の「わたし」であって、今この世界にいる「わたし」でないものだと折り合いをつける。
2は、1よりちょっとだけ現実の私と切り離されている。 なんというか、原作世界や二次創作の世界をパラレルワールドだと認識しているのはこの層が多いんじゃないかなあ。 その世界の「私」となって、キャラと接するのがこれに当たる。
「同一化」と書いたものをこの方のいう1とするならば、2は「折り合いをつけている」人たちのことだろう。3の話はここではしない。
この折り合いが付けられた状態は、映画を見て登場人物に共感して涙することと差がないように私は思う。
夢小説は、コンピュータとインターネット回線の普及によってもたらされたジャンルであると思う。
それまでは小説といえば紙の書籍が主体で、印刷物として市販されている小説の主人公たちの名前は変えることができなかった。
それが、コンピュータの普及によってテキストの一部を自分の名前に変えることができるようになった。これを女性向けとして利用した人が現れる。これが夢小説のはじまりだと思う。
夢小説の出現よりもひと足早く、ゲームでも主人公の名前を自分の名前に変えることができることが「普通」になっていった。その片手で、インターネット上に公開された名前変換可能なテキスト群が夢小説と呼ばれることになった。
一見違うもののように見えるが、双方デジタル化によって生まれたユーザビリティの結果であり、本質的には同じものであると思う。
そこで、ゲームをしているユーザーは自分の名前のついた主人公を「自分だ」と思い込むことができるだろうか?
これは、できる人もいる、が正解だと思う。自分の選択によって動きを変える主人公が、自分であると思う人もいれば、画面の中で動く人型のイラストを、自分が操っている操り人形だと思う人もいるだろう。
後者については、海外に多い「プレイヤーの視点が画面になるタイプのゲーム」のユーザー間では減少する可能性がある。ゲーム内のアバターをアバターだと認識することは、ゲームのプレイヤーが自身のアバターを俯瞰する形になる、多くの日本産のゲームに特有の感覚かもしれない。長くなりそうなので、ゲームでの視点の話はこの程度にしたい。
余談の最後に、私が思うゲームと夢小説の違いをまとめて、話を「自己投影」についてに戻していこう。
ゲームには操作性の問題がある。主人公の行動を自分で操る事ができる。この点が、ただ与えられたテキストを読むだけの「夢小説」とは大きく異なる点だろう。
夢小説の中に出てくる登場人物の行動を、読者は変えることができない。
夢小説の中に出てくる登場人物のセリフを、読者は変えることが出来ない。
繰り返しになるが、自分の意思とは違う行動を取り、違うセリフを喋る主人公に「共感」するのではなく、「自分だ」と思い込む、「同一化」する事ができるということを、私は特殊な技能であると思う。
私の一歩先を行っているのかもしれない、とも思う。
「同担拒否」を自称する方たちに対して、いくつかの疑問がある。
まず、私が思うのは彼女らは何を読んでいるのだろう?ということだ。
人が書いた小説を読めば、必ず違和感が生じるだろう。お母さんが枕元で、主人公の名前を子供の名前に置き換えて読んでくれることとはわけが違う。クラスメイトに貴方が主人公の小説を書いてもらい、プレゼントしてもらうのとも違う。
ただ、スクリプトを使って文字列を自分の名前に置き換えているだけだ。
好きな食べ物も、癖も、言い回しも、得意な教科もすべて変換するわけにはいかない。そんなに違う「わたし」とどのようにして「同一化」するのだろうか。
自分と恋人の話を綴った物語を公開して、自分と同じように彼を恋人だと思いこんでいる人が読んで、自分の体験が他人のものにされることが不愉快ではないのだろうか?
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本題にうつる前に周りくどく鬱陶しい話をしたのは、前提条件をはっきりさせておきたから、と断っておく。
本題はその「自己投影勢」がなぜ「腐女子こそ夢小説を書くべき論」に怒っているか?
なぜ、私が「自己投影勢」が怒っていることに対して怒っているか?
という話だ。
私がTwitterで観測した限り、怒っている理由には大きく分けて2つあったように思う。私が見かけた2つの理由について話をしたい。
怒っている理由その1
だそうだ。
これは見当違いな怒りであると私は思う。「腐女子こそ夢小説を書くべき論」の中で、たしかに
など書かれている部分はある。
しかし、これは、この記事を書かれた方の意見ではないのだ。少なくとも私にはそう読める。
私が読むところによると、これは、世間から「夢小説」に対して向けられている一般的な感想だ。
偏見としてあげられる言葉を持ち出すことすら許さないならば、許さない人が偏見を持っている人にやめてくださいと訴えるべきだ。怒りを持っていく場所が違う。
誰が発言するかによって怒りが違うならば、それは貴方の心にある差別が原因だろう。胸に手を当てて心当たりを探ることをおすすめする。
そういうのもあるけどそれだけじゃないよ!
としているが、自己投影的な考え方を否定しているわけではない。むしろ、全体を通して自己投影は誰もが持ち得るものだと書いているように私には読める。
そもそも、「それだけじゃないよ!」は嫌っている人に嫌いなものをそのまま食わせる馬鹿はいないので「夢小説はあなたが嫌いだと思っているものよりもずっと多様なものですよ」と話しかける言葉だ。自己投影を貶めることは書いていない。
行間から書いていない言葉を読み取るのはやめたほうがいいと、老婆心ながら言わせていただこう。
そのうち行間から呪詛を感じ取ってこの記事のせいで呪われたなんていい出しそうだ。
怒っている理由その2
というものだ。
はっきり言おう。私にはこの感覚がまったく理解できなかった。そして、これを理解したことによって怒っている。
夢小説のはじまりは、自己投影にある、と言っている人がいた。これは当初のことがわからないので、間違っているかあっているかは問題にしない。
私がこれに対していうことがあるとすれば「だから何?」だ。
だから? 幼稚園児が遊び場の権利を「すべり台はわたしが先に使っていたのでわたしのものです」と主張するくらいにどうでもいい。
余談としてゲームと夢小説の部分で触れたが、主人公の名前を変えるという考え方自体は珍しくない。それを二次創作に使うことは、誰にでも思いつく可能性があったことだと私は思う。
夢小説が流行り始めた当初、このスクリプトを自分で書くことのできる人は少なく、多くの人が他人からこれを借りた。
その借りた先の人が「夢小説」あるいは「ドリーム小説」と読んでいたのなら、これは自己投影云々についていた名前ではなく、名前変換というシステム自体につけられた名前であると私は思う。
異論はもちろんあると思うが、自己投影がたしかに原初であったとしても「だから何?」と私は返すだろう。
夢小説のルーツでの幼稚なマウント以外に、私は「追い出される」という感覚が理解できなかった。なぜなら、10年以上も前から、自己投影勢もあったし、オリキャラ勢もあった。共存していたのだ。
古の超大手夢小説検索サイト「ワンドリサァチ」さんのキャッシュからも、当時から細かく別れていた傾向のチェックボックスを見るとわかるのではないかと思う。
ちなみにワンドリサァチさんがページ消失したのはかなり昔のことだ。ワンドリサァチさんの消失は夢小説界隈を、まるで神に言語を乱され方方に散ったバベルの塔の逸話のように、引き裂いた。
夢小説史はさておき。なぜ突然、オリキャラ勢が押し寄せてきて……なんていいはじめたのか。
たしかに数年前から「夢主はオリキャラです」と発言しやすくなったことは感じているが、これはオリキャラ夢主で夢小説を書く人たちが、仲間を募り、自身の創作を楽しんだ結果であると思う。彼らは自分たちで、自分たちの楽しむ場を作った。これに嫉妬しているとしたら、理解に苦しむところだけれど、同担拒否です!この小説は私じゃないので読めません!なんて言って、他人を牽制しまくっている人がいるのなら、仲間が増えないのは当然だろうと思ったのでこの点は言及するのはやめておこうと思う。
私にとっては、自分の好みではない作品が増えたところで、自分の好きなものの絶対数が変化しなければ、どうでもいいことだったのだが、彼女らにとってはそうではなかったらしい。
問題になった「腐女子こそ夢小説を書くべき論」では、腐女子にBLを主題として扱った夢小説を書くことを勧めている。
このことに対してアレルギーを起こしたように反応している人たちがいた。
そもそも、オリキャラ夢主と自分の推しが恋愛しているという情報自体が気に入らないのだそうだ。
腐女子が参入することによって、腐向けでもあり夢小説でもあるものや、彼女らにとって不快なものが増えることによって、住処を追われるのだそうだ。
先述の通り、昔からオリキャラを主人公とする夢小説は存在していた。
夢小説を愛好する人の中には「腐向け」を嫌う人は多い。しかし、夢小説の中には「腐向け」の夢小説、BLDと呼ばれるものもある。BLの夢小説は彼女らが何を思うことにも関係なく、すでに存在する。
はっきりいいたい。「何様のつもりだ」
インターネット上は公共の場所だ。不愉快なものを見ることもあるだろう。しかしながら、貴方にとって不愉快なものは、誰かにとっての大切なものだ。それを見て貴方が気分を悪くするだけならいい。
気分が悪くなるから、遠慮しろ、肩身を狭くしていろ、というのは傲慢がすぎるのではないか。
腐女子も好きなジャンルで、自分が好きなカップリングとは受け攻めが逆のカップリングが増えてしまうこともあるだろう。逆CPは見るだけでイヤだという人も多いだろう。しかし、だからといって自分の気に入らないCPをの悪口を言ったり、そのCPが増えてほしいという人に、私の地雷だから布教活動をしないで下さい、と訴えることを考えて欲しい。
私なら人混みで鳩尾に肘を入れるし、靴を踏む。(暴力はよろしくないと思うがそれくらい腹立たしい)
貴方が自身の当然の権利と思って言っているそれは、これと同じことだ。恥を知るがいい。
マナーやら何やらで加工して訴えようと、本質は変化しない。貴方は自分が不愉快だからと、他人の活動を制限しようとしているのだ。いかなる理由をつけようと「布教活動するな」と訴える行為が正当化されないことを覚えておくべきだ。
腐女子の人が「自分の好きなものではないので書かない」ということとは、わけが違う。
自分の好きでないものに増えてほしくない、という権利は貴方にはない。
そして、自分の好きなものが数で負けるなら、その分は貴方がかけばいい。貴方が布教して増やせばいい。貴方の夢小説を読んで楽しいと思った人が、同じような小説を書くように努力すればいい。
蝗に怯えて耕作を怠るな。実りのない田畑では人も増えない。
心優しい私は、対処法をあなたに教えてあげようと思う。心して聞くがいい。
Web ブラウザ上の文字列を検索して非表示にするNGワード導入しろ。それくらい自分で調べろ。
最後に、そんな発言をしている人が存在するのか疑問に思う人もいるだろう。それでもツイートを引用することは控えたことの意思は汲んでいただけたらと思う。
最近話題だしNDAもないので書くけど、とある映像の仕事で電通と関わりがあった。仕事自体は楽しく、しかしスケジュールは厳しい感じで、とあることを実現するために様々な手段を試すための手(プロダクションではない)としてその仕事に参加してた。
ちょっと特殊なことをしていたので、最初は間に人を挟んで電通側とコミュニケーションしていたのだけど、そのうち制作会議に呼ばれるようになり、会議は実際に映像を作るプロダクションのところで開かれた。しかし、その会議がまぁなんとも雑な仕切りで、確か夜8時から始まって、ちょっと特殊なことをしていた僕らを拘束するわりに関係無い話をダラダラと続けて結局僕らに関係ある話が出て来る前に終電が来たので帰った。マジかよって思った。
あとから聞いてみたらその会議は朝まで続いたらしい。「会議」と名のつくもので2時間を超えるものに参加したことないので、カルチャーショックだった。タバコ臭い会議室と合わせて、本当にあるんだ……って感じ。しかしスケジュール厳しいこと分かってるのに拘束してくる電通の人も謎というかマネジメントスキルがない。実際、彼らがしていた「会議」はクリエイティブに関するブレスト的なところもあったので実質的に会議ではない。しかし、そんなに長時間みなを拘束するより、さっさと会議は終えて各自考えてきてね!ってやってもアウトプット変わんないのにねー。
それに加えてアイデアを思いついたら何時でも連絡してくる電通の人がいて、それに対応するのも疲れた。スケジュール厳しいの把握してんだから、もうちょい任せてくれない?そっちのほうが効率いいよ?って感じだった。
とあることは実現出来たし、出来た映像そのもののクオリティは高く、広告的な効果もあったが、習慣化している無駄な長時間労働があり、それに対応する下請けが最もヤバそうだよという話だ。
初めに断っておくと、僕は広告業界の端っこの方で生きていて、そしてよっぴー氏の大ファンです。
http://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2016/11/10/111014
の件について、ファンの僕にしては珍しくよっぴー氏の主張に全然合意できない、というか氏の主張に明確な誤りがある、と感じたのでまとめてみました。
広告業界のエラい人たち、よっぴー氏の言葉を借りれば蹴鞠おじさん、たちにとって「ライター」が「公共の場」でつぶやいた<「ネイティブ広告ハンドブック2017」が取扱説明書レベルに読解大変で涙です>というツイートは、「もっと読みやすくしろよボケ」というクレームとして捉えられた可能性が高いです。よっぴー氏はその後の藤代氏とのやりとりに付記して<「素人でいい」なんて誰も一言も言ってないし、「わかりやすく説明しろ」も誰も一言も言ってない。>と語ってますが、彼らにはそうとしか読み取れないのです。
なぜならばこの人達は世代的にも階層(広告業界における商流上位のレイヤー、あるいは研究者という意味です)的にも、「仕事上の愚痴をカジュアルにツイートする&万人の目に触れさせる」文化に生きていないからです。たぶん彼らは、「は?じゃ、わざわざ公然とツイートしないで日記帳にでも書いとけよ。分かりやすくしろって強制したいから公開してんだろ?」と捉えていると思われます。
どちらが正しいとかではなく、両者に間に横たわっているのは、おそらくデジタルデバイドでしかありません。よっぴー氏はこの誤解に対して「書いてもないことを勝手に解釈してケンカ売ってくんじゃねえ」と憤ってますが、一人さみしくつぶやいたならともかく、公衆の場でさらす、というアクションを経ている以上、読み手の曲解にも相応の理由があると考えるべきではないかと思います。あと、蹴鞠おじさん達が「ライターともあろうものが、自分の読解力不足を晒すとは何事だ」文化に生きている点もあるでしょうね。これもどちらが正しいとかではなく、文化圏が異なるとしかいいようがない。
要するに、この点においては双方に優劣も正誤もなく、互いに差異を認識すべきだけ、のように思うのです。先に殴ったのはおじさんたちなので、その点は擁護しようもないのですが、殴り返しちゃったら同じじゃないですかね。
高広氏がよっぴー氏に投げかけた一連の内容を、単純な「いやらしいおっさんのマウンティング」と捉えているのも事実誤認です。
なぜなら、この振る舞いは、優越感ゲームの手段ではなく、むしろ彼らの「メシのタネそのものだからです」。デザインや文章といったアウトプットに対して、属人的価値を付与して、単価と受注率を上げ、競合を蹴り落とす戦略的な行為です。ちなみに、自分も広告業界の隅っこで生きているので蹴鞠おじさんにはよく遭遇するのですが、彼らはあまりにもこの行為を自然にこなすので、自分が優越感を搾取し相手に不快を強いている自覚が、実は無いんじゃないかなと感じることがあります。
もちろん、これらの行為は批判されるべきではあるのですが、少なくとも「蹴鞠」ではないと思うんですよね。広告人としての生存をかけた削り合いです。蹴鞠おじさん、という語感が良さすぎるので引き続き使いますけど。
また、おじさんたちの蹴鞠的な振る舞いが広告業界をダメにした、というよっぴー氏の批判も乱暴に感じます。
蹴鞠おじさんたちが、彼らなりに意識を高く持ち、マクルーハンを学んだりしながら、一定以上のクオリティをアウトプットしてきたのは事実です。一方で、あまりにも参入障壁が下がり、ゴミのような広告を撒き散らし、単価を下げ、まさに悪貨が良貨を駆逐するようなネット広告の現状を鑑みるに、正直「マクルーハン読んでない奴が広告作るなよ」といった視点は必要悪のようなものではとも思います。参入障壁はむしろ上げるべき、というスタンス自体は悪いものではないはずで、業界全体がその方向に舵を切らないのであれば、個々の業界人としては高広氏のような振る舞いを取らざるをえないのではないかと思います。
ま、とはいえ蹴鞠であってはやはりいけない。貴族的な内輪遊びではなく、きちんと資格化でもすべきです。マクルーハンも「ネイティヴ〜」も体系化して資格試験を設置し、ステマや優良誤認に加担した広告人からは資格を剥奪する、とかの方が、少なくともネット上はキレイになるかと思います。
僕個人としては、よっぴー氏は今、日本で最も力のあるライターだと思っています。あれだけ尖った面白さを担保しつつ、誰も傷つけずに商品価値を高めるコンテンツを作れる能力は、まさに余人をもって代えがたい。旧態然とした広告業界からは、彼のような素晴らしいライターは出てこず、僕たちは未だに蹴鞠おじさんたちのキャッキャウフフを見せられてるかもしれない。
しかしどうなんでしょう。よっぴー氏や彼に比肩するライターが何人いようとも、「障壁が下がったから参入してきたネット系ライター」とくくってみれば、そのクオリティはあまりにもひどい。「売れればよい」「注目を集めれば良い」「検索に強ければ良い」といった、ゴミのようなコンテンツが多すぎる。独善的とはいえ職業的矜持を持つおじさんたちが作るものの方が、どれほどマシか知れません。
ゴミ溜めの中から燦めく才能が発掘される様は痛快であっても、撒き散らされたゴミは臭いのです。まして、ゴミを撒き散らかしている人たちが、それで食べていけてるならガマンもしますけど。
家の風呂場でくたばってた親父が夜中に救急車で運ばれてってそのまま逝った日、控室にと通された空き病室でまず、生さだにはがきを書いた。
なんでそんなことしたのかわかんないけど、どこかにアウトプットしたかったのかな。アウトプットすると解消されるもやもやもあるしね。
初めて涙がこぼれたのは、葬儀屋に連絡して家に来てもらって、そいで死亡届を書く段階だったと思う。
IT企業だが、給与・福利厚生もよく、残業代も50時間分が自動的に支給される。50時間を超えたとしてもその分の残業代は出る。
残業代が50時間でるが、基本的に残業が嫌いなので、月5時間くらいしかしていない。
ノルマとかも特にない。勝手に成果を出してね、というスタイル。
所属している部署は7〜8人のところで、全体的に酒を飲まない+個人主義なので飲み会もなし、昼食も一緒に行かない。なので無理してコミュニケーションをとる必要もない。
もともと仕事=趣味みたいな人間だったので、プライベート、仕事問わず同じようなことをやっていた。
そうした結果、仕事の実力はなかなかついてきて、外部から講演依頼とか多々頂くことも出てきた。取材とかも受けた。
どんどん楽しんで仕事をして成果を残していたが、なぜか徐々に辛くなり始めてきた。
俺は人より少しだけ承認欲求が強かったので、早く認められるようにと努力してきた。
人から認められるためには、他の人がやってないことをいち早く、周りが期待するレベル以上の成果を出し続ければいい。
そのためには、自分の能力を限界まで使い、見せ方を工夫し、少し背伸びして成果を見せてあげることになる。
それを繰り返すと、周りから周知され、またすごいものを作ってくれるのでは、という周りの期待感を生み出すことができる。
そうすると、期待感を込めてその人が新たな機会をくれることがある。
そうしたら、その期待感を絶対に裏切らないように、次の成果をひたすら出すだけ。
多分どんな分野でも、これを繰り返せば、その業界で名の知れた人間になれると思う。
だけど、これを繰り返した結果、俺はうつになった。
始めは自分の好きな技術を使って、便利なもの、面白いものを作りたいと思って色々作り、楽しんでいたが
それが評価され始めて、認められてしまい、その評価されている自分を演じるのが辛くなった。
期待を超え続けることが辛くなった。
期待を超えるアウトプットを短期的に出そうとしてしまい、自分の技術や能力を磨くことができない。
その結果、見せ方やネタの質で補うばかりになってしまう。本質的に技術力がつかないのに、求められる期待だけ上がってしまって、とても辛い。
趣味で好きな技術を使って遊んでいた頃の純粋な気持ちはあまり残っていない。
世間は、労働環境のひどいブラック企業でのうつや自殺が問題になってるけど、うつは労働環境が恵まれていても起きる。
正直、こんな良い環境でうつになるとか、贅沢だなとか言われると思うけど、うつっていうのは、相対的なものじゃなく、どんな労働環境でも起きうる。
俺の場合は、大学の研究室の教授が話してくれた経験があったから、うつに対してちゃんと向き合うことができた。
その教授は、昔からちょっとうつになりがちなことがあったのだが、結構気軽に精神科や心療内科に相談に行っていた。
どうしても、精神科や診療内科へ相談に行くとなると、頭がおかしい奴みたいな印象があって行きづらいと思うんだが
こんな大学の教授になる成果を残してきた先生が、そんな体裁や体面を気にせず、ちょっと気分が悪いなと思ったら相談しに行くレベルで
やってきたと聞いて、ああ、そんな気張らなくてもいいんだな、と当時は思った。
だから、気軽に精神科に相談しに行ってたし、今回も「本当にムリ」ってなった時は、すぐ診断書を書いてくれた。
うつ状態の診断書ってすごいのな。会社の人事に持って行ったら、すぐに休職手続きを進めてくれた。あれを出されたらやっぱやばいのな。
http://anond.hatelabo.jp/20161102211759
数々の「娘が悪い、お父さん悪くない」コメントに絶望しつつトラバする。
この件に限った話じゃないが、子どもが自分でもよくないとわかっているのに他者を傷つけかねない言動を取ったときには「なぜ」そのようなアウトプットに至ったのか、本人のありのままの感情をまずは一度受け止めたうえで、今後はどうすべきかを説明して聞かせるのが大人の役割である。
立ち聞きされるかもしれない時と場所で相談したとか言葉の選び方がまずいのは幼さゆえの配慮の足りなさ。
中学生ならそのくらい理解できるだろう、とか書いてる人がいるが、今の中学生としゃべったことないだろ。
わかる子は言われなくてもわかるし、わからない子は言われてもまったくわからない。
そういうことで中学生の娘に大人と同レベルに配慮した振る舞いを求めることがまず無理。期待しすぎ。
親の目の前でキモいとかウザいとか言い放つ子も少なくない中で、まだこの子は良識があるほうだと思う。
なのでそこで大人がするべきはまず、「なぜ」そんな相談を母親にするにいたったのかを、本人に尋ねる。本人の口から説明させることだ。
どれだけ言語化できるかも個人差が非常に大きいが、とにかく母親になら、しっかり時間を取って対話しようという姿勢を見せたらある程度は本音を話せるはずなので(父にも母にも話せない場合は親子関係がほんとまずい状態に陥ってるので親は危機感を持つべし)本音を引き出す。
どのような言葉が出てくるかはそのときになってみないとわからない。
生きていく上で、好きなものを好きと表明するのと同様に、嫌いなものを嫌いと表明する力も重要だ。
親がその芽生えを妨げてはいけない。
父は大いに傷ついたということを伝えるのは、それからだ。
人は、自分を受け入れてくれている(と感じられる)人から言われた言葉しか受け入れない。
娘の気持ちをまずは受け入れたうえで、家族といっても、親といっても、お互いに一人の人間であることに変わりはなく、言動にはもっと配慮すべきであることを伝える。嫌いなものを嫌いと表明する行為そのものを否定してはいけない。表明するときには、傷つけてはいけない人を傷つけてしまわないように、ということが、大人が伝えるべきことだ。この場合、父親を傷つけるかもしれないことが予測できたからこそ父親のいないところで相談したのであり、それは先ほども申し上げた通り中学生としては十分に及第点だと考えなければならないのだ。ひとつ彼女がまだ思い至らなかったことは「母親を傷つけてしまうかもしれない」ことだったかもしれないが、ただそれも父親からの伝聞では正確なところはわからないので何とも言えない。
子どもはまだ言語能力も未熟だし社会性も発達してないのでこういうときの表現の仕方がとにかく下手だ。力関係では大人にかなわないことなんて本人達が一番よくわかっている。それでも本人なりに思うところがあって大人に訴えたいことがあるのだから、それを受け止めるぐらいの度量の大きさは親ならがんばって持とうよ。同じ精神レベルでケンカしたかと思えば「誰の金で」だなんて、もういちいち対応が幼稚すぎて呆れてしまう。彼女にとってのお父さんはあなただけなんだよ。そんなことでいちいち揺らいでたら、これから先が大変だよ。親ならもっと腹をくくりなさいな。
おそらく知人としても相当にこう,覚悟があって話したんだと思う.
私だけじゃなくて,相当数人がいるなかで話をしたので,別に私とその知人が親しいというわけでもない.
ただ,人としては私より相当優れていると思っていたし,そんな人でもこうなるんだと思うと意外だった.
彼に対してなにもできないのも,それはそれで何か癪だし,ちょっと家族に相談してみた.
一応家族は病院勤務なので,それ相応に理解があるものだと思って,相談のつもりで話したんだが,
その家族薄ら笑いしながら「えぇ,駄目じゃん.弱いんだねその人」と平然と言いやがった.
自分の中でも比較的クズな人間だとは思っていたけど,想像以上のクズにランクアップした.
さすがに耐えられなくてブチ切れてしまった.反論する価値もないと思って,
「話したのが間違いだった.もうこの話は一切しないで欲しい」とひたすらお願いした.
これが家族じゃなかったら本気で手を出していたかもしれない.良くない.
それで,とりあえず何かアウトプットしないとと思ってコレ書き始めている.
はぁ,耐えられん.実家ぐらしほんと早くやめたい.こういうクズと同居するの苦しみしか無い.
とりあえずカウンセリング言って相談してみる.多分今一番適切な回答をくれるのはここしか無いと思う.
http://d.hatena.ne.jp/essa/20161029/p1
・短期的な、この件単体については、このまま出場停止期間を終える可能性が高いのじゃないかと。
金属探知導入、内部に収束、週刊誌の影響を抑える…恐らく竜王にとって想定した状況をすでに回避した後のように思いますので。
・将棋ソフトの開発者の方々は、大会前の最後のチューニングは評価関数の作りこみになるため、
「パラメータを変更」「変更前後で数千局ほど自己対戦」「有意な差があればパラメータを新バージョンで更新」
をずっと繰り返すのがかなりきついという話をしていて、そのとき少しだけ、「この部分は自動化できないのかな」と思いました。
ボナンザや技巧でいわれたようなメソッドの変化、駒関係などでの新たなパラメータ導入でない部分で、「将棋ソフトが強くなることを自動化できてしまう」可能性です。
またこの自己対戦は勝率以外は確認しないので、開発者にも大会のときくらいしかアウトプットされた将棋は見られないそうです。(それが最適なので。)
アウトプットされたその大会の将棋は、プロ棋士がこういう意味の手ですとリアルタイムで視聴者に解説している。
・将棋ソフトの大会で面白かったのは、逆転が起こる局では2つのソフトの評価関数で「両方とも有利だと判断している」という状況があって
そのときに「説得できた」「反省させられた」という言葉が使われていたことです。
一つの局面をお互い有利だと読んでいて、でも進んでいくと片方がやっぱりこれは不利だったと「説得されて」「反省する」。
勝ち負けと呼んでないのですね。すごい S・F・感 があった。
・「竜王」と呼ばれて通っているのは考えてみたらすごい話で、ドラクエの世界ですよね。
でも竜王の写真をみたら、「竜王だ」と思いますし。それを社会のある領域が認めている。
人の営みの中で、将棋のようなパズルが最も強いことは価値がずっとあって、その「理の際」についた言葉が「名人」だと思います。
「竜王」は名人に伍する新たな名として考えられたそうで。将棋の駒は戦にある人や人の乗り物で、でも「竜」だけは人の枠外にある。
ソフト連携の疑いを持った局をほぼ再現した上で、新規の手順で上回った竜王戦第一局は、プロ棋士がソフト将棋を取り込んでいく一つの形として凄みを感じました。
理の外でも、そういうものがある、と知った時点でどうしようもなく理の内側になっていく。
・「棋譜や読み筋からソフトサポートを受けたか推定」したそうですけど、ソフトとの一致はあくまで補助の話で、
「棋士単体」と「棋士+ソフトサポート」 の間での棋力推定をしたように見えて…。会心の一局で説明できるか、特定局だけ強くなったとしか思えないか。
しかし将棋をして相手を「アマ二段くらい」というにはアマ二段の実力では無理ですよね? 今回疑いをもたれた棋士の方はここ数年レーティングでおよそ10~20位。
そのような人の実力の幅を把握し、棋譜の実力を推定して比較し、「説明がつきにくい。確定ではない。」という計測ができるのが、世の中に 3,4人しかいなかった…?。
現役棋士の80%以上の人には説明できないわけで、合意を形成できるはずが無い気がします…。一致率、離席のタイミングは説明できますが。
30歳エンジニア、給与約1200万。この給与について最近良くわからなくなっている。
すでに親よりも給与が多いが、親よりも社会に貢献できている気はしない。
しかし今の働きに対してもっと給与は高くあるべきとも思う。外国人らと肩を並べて働く俺は、外国企業のそれを普通と捉えてしまっている。
CTOの平均給与が数百万と聞いて、明らかに少なすぎると思う。尊敬するエンジニアにも思うことだが、2000万くらいは稼いでいてほしい。
上司が1300万くらいしか貰えていないのを残念に思う。肉体的・時間的に厳しい働き方を強いられることを考えると、差額100万は決して多くない。
転職サイトを見ても給与が増えることはまず無さそうだ。1000万を超える会社はそこそこ限られているし、たまに「800万〜1200万」などと書かれていてもそれ以上は上を目指せないという風に見える。
つまり、世間的には高い給与をもらっている証拠と自覚がある反面、自分も周囲ももっと貰うべきという思いがある。
意欲的にも年齢的にも、もっと難しいこと新しいことに挑戦したい。しかし給与を下げずに挑戦するという選択肢が非常に少ない。
給与は多ければ良いというものでもないし、下がる給与以上のリターンが望める選択肢もきっとあるはずだ。
そうわかっていても下落を自ら選ぶことはかなりの抵抗がある。数値はわかりやすすぎる。
ここまで運がよく、上司や仲間に恵まれ、期待も評価もされた結果として、平均を大幅に超えた今の給与があると認識はしている。他者からの評価が高いのは素直にありがたい。
でも俺はまだまだ伸び盛りだし、他者よりも量的質的にアウトプットを作ってきた自負も、唯一無二のチームを多数作り上げた実績もある。
最近、長時間労働と労働時間削減の話題が多いが、ここ増田では、マネジメントが上意下達でよーいドンで残業禁止、挙げ句に職場破綻、「そんなことになりましたけどいいんすか」というようなエントリーが多いように思う。
本当かよというのが正直な感想で、理由は「余りにも無策で始め過ぎ」だからだ。
自分が見た会社組織は、そこまで「んー、やってみないと分かんないから考える前にやってみようぜ、良きに計らえ、ドーン」みたいな夢見がちの集まりではない。
天才ぞろいではないが、物事やる前はそれなりに策を考えて踏み切る。
弊社は「残業を一気にゼロにしました」とまでは行かなかったが、「日付が変わっても社員が在社してるのが当たり前、一部は徹夜も普通、終電前には帰り辛い雰囲気」から、「21時以降は一部の社員しか残ってない」まで業務を改善できた。
真偽の話題になっても、自分が疑念を抱いたのと反対の角度の話になるだけなので、ちょっと変えて、「どうやってそれをやって、結果どうなったか」を特定されない程度にぼかして言おうと思う。
やった事
・外注の確保
・クライアント窓口者が「帰る」
まず、現場作業者が週の間にどれくらい稼働可能かを30分単位で割り出した。
実際に発生する作業も、30分単位で厳密に見積もり、発生した時点で作業一覧表に記載する。
総工数はリアルタイムで表示され、事前の稼働可能工数とつき合わされる。
・外注の確保
優秀な外注を確保した。
「検品をする」のが作業の大半の人を雇用した。さらに、手のあいたものはダブルチェックする。
「これはやる意味があるのだろうか」「やっても結果が良くなく、元の木阿弥になる」といった作業はクライアント窓口者が粘って交渉する。これは窓口者の力量も求められる。
新規クライアントの開拓は日々行う。このクライアント言う事はどんな無茶苦茶でも聞かないと即死というような状態にならないようにする。
・クライアント窓口者が「帰る」
クライアント窓口が作業を追い込んで、定時退社を(すくなくとも)目指す。
クライアントにも「その時間は普通いないんで」という共通認識を日々もってもらう。
さてどうなったか。
・外注費の増大
・仕事の変質
・売上げ確保
・緊急稼働の激減
・外注費の増大
・仕事の変質
クライアント窓口者の仕事は、「社内に仕事をふる」事から「クライアントと交渉する」「外注を発掘してくる」「外注と良い関係を保って良い仕事をしてもらう」事に変質した。
以前の異常な稼働状況で、その分必要だった残業代、人件費は圧縮された。
労働者の手取りは一部減ったが、なにせ以前は「人間らしい生活が出来ないし金払っても休みたい」レベルだったので、抵抗らしい抵抗はなかった。
あとタクシー代も減ったな。
・売上げ確保
売上げは確保された。売上げの確保はマストだ。
利益率に関しては増えてないが、売上げの総量が増えればカバーできる。
以前は定期的に体調不良で突然倒れるもの、会社に来なくなるものが出ていた。
同僚が倒れたときの会社の雰囲気が「酷い事になった、こんな事は二度と起きないようにしよう」ではなく、「彼が抱えててた仕事をどうしよう」であったこと、その事態が何度も繰り返された事は忘れてない。
組織にとって「人の健康」の優先順位は「請け負った仕事の達成」「売上げ」より低いのだという冷厳で情けない現実をはっきり認識した。
しかし、ここ数年出ていない。
かけた戦力を即席で穴埋めして、ちょっと動けるようになったらまた誰かが倒れる、ということの繰り返しから、雇った人間を時間をかけて教育する余裕も出てきた。
社員が花を渡して見送る。
それだけの事がどれだけ心を落ち着かせるか。
・緊急稼働の激減
検品担当者は「まだ起きていない事」を発見する仕事なので、雇ってみないと重要性に気づき辛い。しかし、今となっては現場が口を揃えて「彼らがいない事を思うとゾッとする」と言う。
以前の会社は「今は緊急事態だ」とマネジメントが言うと「緊急事態が何年続いてるんだよ、ずっとじゃねえか」という雰囲気だった。
弊社に就職すると友達が減った。週末も疲労で気絶してるから当然だ。
人は突然倒れた。倒れないものは示し合わせて一気に退職した。弊社を見限ったのは明らかだった。
最近は、「これだけ変えられただから、自分たちはもっと難しい課題を実現できる」という雰囲気になっている。
後輩が「会社にくるのが好きなので」と言ったのは心に響いた。
追記
ブクマカ諸氏に「クライアントとの交渉」が刺さったようなので、その補足をしたい。
「純粋な利益だけを第一に考える資本家にはどう立ち向かうのか」と言う話にもちょっと応えたいが、資本家が経営を左右するほどの大会社ではないので、経営層に対してという話をしたい。
まず、相手がクライアントであっても、経営層であっても「腹パンして引き下がらせる」という「やるかやられるか」の対決はしていない。
「交渉」というと、そういう見方をしがちだけど、それがマジで「組織のリアル」だったらその組織は危ういと思う。
クライアント、経営、現場の3者にそれぞれの利害や優先順位の違いこそあれ、基本的にはそれぞれ重なりあう所の「おなじ目標を共有する」存在であって、「やるかやられるか」は商取引になじまない。
「おなじ目標を共有する」が微妙に違う存在同士が利益を共有できる「良い落とし所を見つける」のが商取引だ。
「良い落とし所を見つける」という精神は「クライアントとの交渉」で重要になる。
クライアントとの交渉は、窓口がクライアントを打ち負かしにはいってない。
弊社では、あくまで「これがお客様にベストなのです」というスタンスで交渉し、多くのクライアントから「○○さんがそう仰るのなら、それは良い方法なのだろう」という「信頼」を得ている。
読んでるあなたが現場にいるなら、強力なアウトプットで窓口を支え、窓口ならば「単なる作業の手数が欲しい」以上の期待をされるよう、クライアントの信頼を勝ち取ってほしい。
経営層とどう向き合うか
そもそも会社は「利益の為だけ」に存在しておらず、それは「手段」だ。
ただ優先順位の違いはある。
なので、優先順位が低くなりがちな「労働時間の削減」をどう「マストである」と認識してもらえるか。
ここでは「労働時間の削減がマスト」であるという認識を経営に持たせる要素をいくつか上げたい。
・事業の高度化
・株式公開
・事業の高度化には、人材の定着が不可欠だ。短期に人材を使い潰す事を繰り返していると、いつまでも仕事の内容が成長しない。経営にもの申す機会があったら、そのことを訴える。
機会があったら数字の一つも資料にしたためて一席打とう。それがどういう内容であれ、経営は数字に敏感だ。
・マネジメント層の育児は意外とボディーブローのように効く。経営者は「仕事こそ人生」なので、そもそも「人生のそれ以外の価値」をそんなに実感していないように思う。だから「労働時間の削減」の優先順位が下がるのだ。
マネジメント層に家庭を持つものを送り込むと、経営の身近な人間から「人生には人間的に生きる時間が必要だ」と感じるようになる。
・株式公開は、まだ公開していない会社に大きな変化をもたらす。労務管理がいい加減な会社は、審査を通らず上場できない。このことは「労働時間の削減」の優先順位を上げる圧力になる。
最後にひとつ、実感として上げたいのは「組織が成長していること」がいろいろな改革のバッファを生むという事。