はてなキーワード: 広告人とは
何となく、東京五輪の開会式の、あのやり場のない恥ずかしさは、きっと実際の試合の感動で薄れると思っていた。
でも、それは希望だけであって、そう単純ではなかった。
むしろ、あの恥ずかしすぎる開会式の事が頭から離れなくなってしまっている。
今更だけど、あの語る事と言うか、批評さえも不毛で、虚しくなる、あの脱力感の正体って、一体何なんだろう。
心の中で、日本は世界の裏側だから、海外では見ている人が少なくありますように!とか、願っていたwww
あの虚無というか、ほとんどの誰もが感じていただろう「なかった事にしたい!」という感情は、●●●●を代表とする、現在の若手の東京のグラフィックデザインの現状とそっくりだ。
作っている本人や周辺のお仲間ちゃんだけが、絶好調に喜んでいる感じがする事や、仕事を依頼するスポンサーの意識の低さや、アホさ加減もそっくりだ。
恥を知らない自家中毒。
情けない。
さらにまるやその周辺の人間は、『あの開会式と自分が行っている事が、相似形である』ことを分かっちゃいないだろう。
羞恥心というものを持っていないのだろうし、自分達がキワモノであるとかも自覚していないのだ。
あぁ、嫌だ嫌だ。
本当に無かった事にしたいけど、グラフィックは、まだ現在進行形だから、本当に恥ずかしい。
(フランスの友人から耳にすると、やはりあの開会式は、最悪だったとの事。現在のアホな日本のグラフィック・デザインが目に触れないように、願う。)
いやぁ〜笑えない。。。
その汚い手で、俺の神聖なデザインに触れるな!って、正直に思う。
批判で終わればいいものを、実名出して「僕だったら、自殺しちゃうけどな。。。」だって。
「権力のある立場から死ねと言っている」自覚がないんだろうなあ。
女性全員について警戒するわけないだろ。
また、「警戒」は自分の中での話であり、他人への要求ではない。「自衛」のうちだよ。
いやいやいやいやwwwwwww
自衛が足りてないだけだろ。
なんで被害者女性が「時間ずらし」しないといけないんだ?被害者側なのに?痴漢加害者とは無関係の女性なのに押し付けるのは許すのか?
君は家に鍵をかけないのか?「泥棒が全部悪いのに被害者の俺がなんで」と言って鍵もかけずに外に出るのか?
前後に看板を挟んだ広告人のことを「サンドイッチマン」というのだ。今はあまり見ないが。
「いずれにせよ俺には全く関係のない話だ」
で、でたー! 今東京に居て、福島あたりで地震があっても「俺には関係ないね」とか言っちゃうやつ~!!!
人としてクズwwwwwwwwwwww
初めに断っておくと、僕は広告業界の端っこの方で生きていて、そしてよっぴー氏の大ファンです。
http://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2016/11/10/111014
の件について、ファンの僕にしては珍しくよっぴー氏の主張に全然合意できない、というか氏の主張に明確な誤りがある、と感じたのでまとめてみました。
広告業界のエラい人たち、よっぴー氏の言葉を借りれば蹴鞠おじさん、たちにとって「ライター」が「公共の場」でつぶやいた<「ネイティブ広告ハンドブック2017」が取扱説明書レベルに読解大変で涙です>というツイートは、「もっと読みやすくしろよボケ」というクレームとして捉えられた可能性が高いです。よっぴー氏はその後の藤代氏とのやりとりに付記して<「素人でいい」なんて誰も一言も言ってないし、「わかりやすく説明しろ」も誰も一言も言ってない。>と語ってますが、彼らにはそうとしか読み取れないのです。
なぜならばこの人達は世代的にも階層(広告業界における商流上位のレイヤー、あるいは研究者という意味です)的にも、「仕事上の愚痴をカジュアルにツイートする&万人の目に触れさせる」文化に生きていないからです。たぶん彼らは、「は?じゃ、わざわざ公然とツイートしないで日記帳にでも書いとけよ。分かりやすくしろって強制したいから公開してんだろ?」と捉えていると思われます。
どちらが正しいとかではなく、両者に間に横たわっているのは、おそらくデジタルデバイドでしかありません。よっぴー氏はこの誤解に対して「書いてもないことを勝手に解釈してケンカ売ってくんじゃねえ」と憤ってますが、一人さみしくつぶやいたならともかく、公衆の場でさらす、というアクションを経ている以上、読み手の曲解にも相応の理由があると考えるべきではないかと思います。あと、蹴鞠おじさん達が「ライターともあろうものが、自分の読解力不足を晒すとは何事だ」文化に生きている点もあるでしょうね。これもどちらが正しいとかではなく、文化圏が異なるとしかいいようがない。
要するに、この点においては双方に優劣も正誤もなく、互いに差異を認識すべきだけ、のように思うのです。先に殴ったのはおじさんたちなので、その点は擁護しようもないのですが、殴り返しちゃったら同じじゃないですかね。
高広氏がよっぴー氏に投げかけた一連の内容を、単純な「いやらしいおっさんのマウンティング」と捉えているのも事実誤認です。
なぜなら、この振る舞いは、優越感ゲームの手段ではなく、むしろ彼らの「メシのタネそのものだからです」。デザインや文章といったアウトプットに対して、属人的価値を付与して、単価と受注率を上げ、競合を蹴り落とす戦略的な行為です。ちなみに、自分も広告業界の隅っこで生きているので蹴鞠おじさんにはよく遭遇するのですが、彼らはあまりにもこの行為を自然にこなすので、自分が優越感を搾取し相手に不快を強いている自覚が、実は無いんじゃないかなと感じることがあります。
もちろん、これらの行為は批判されるべきではあるのですが、少なくとも「蹴鞠」ではないと思うんですよね。広告人としての生存をかけた削り合いです。蹴鞠おじさん、という語感が良さすぎるので引き続き使いますけど。
また、おじさんたちの蹴鞠的な振る舞いが広告業界をダメにした、というよっぴー氏の批判も乱暴に感じます。
蹴鞠おじさんたちが、彼らなりに意識を高く持ち、マクルーハンを学んだりしながら、一定以上のクオリティをアウトプットしてきたのは事実です。一方で、あまりにも参入障壁が下がり、ゴミのような広告を撒き散らし、単価を下げ、まさに悪貨が良貨を駆逐するようなネット広告の現状を鑑みるに、正直「マクルーハン読んでない奴が広告作るなよ」といった視点は必要悪のようなものではとも思います。参入障壁はむしろ上げるべき、というスタンス自体は悪いものではないはずで、業界全体がその方向に舵を切らないのであれば、個々の業界人としては高広氏のような振る舞いを取らざるをえないのではないかと思います。
ま、とはいえ蹴鞠であってはやはりいけない。貴族的な内輪遊びではなく、きちんと資格化でもすべきです。マクルーハンも「ネイティヴ〜」も体系化して資格試験を設置し、ステマや優良誤認に加担した広告人からは資格を剥奪する、とかの方が、少なくともネット上はキレイになるかと思います。
僕個人としては、よっぴー氏は今、日本で最も力のあるライターだと思っています。あれだけ尖った面白さを担保しつつ、誰も傷つけずに商品価値を高めるコンテンツを作れる能力は、まさに余人をもって代えがたい。旧態然とした広告業界からは、彼のような素晴らしいライターは出てこず、僕たちは未だに蹴鞠おじさんたちのキャッキャウフフを見せられてるかもしれない。
しかしどうなんでしょう。よっぴー氏や彼に比肩するライターが何人いようとも、「障壁が下がったから参入してきたネット系ライター」とくくってみれば、そのクオリティはあまりにもひどい。「売れればよい」「注目を集めれば良い」「検索に強ければ良い」といった、ゴミのようなコンテンツが多すぎる。独善的とはいえ職業的矜持を持つおじさんたちが作るものの方が、どれほどマシか知れません。
ゴミ溜めの中から燦めく才能が発掘される様は痛快であっても、撒き散らされたゴミは臭いのです。まして、ゴミを撒き散らかしている人たちが、それで食べていけてるならガマンもしますけど。
ある大御所氏の感覚がズレてるなーと思って、そういえば何年か前に同じこと思ったなと思ったら当時その界隈でバズってたブログへのメモが出てきたから貼っておく。いまも彼らの感覚はそんなに変わらないんじゃないかな。
▶シャープやパナソニックやソニーの凋落を、広告人や広告会社はもっと恥じるべきじゃないかな
http://www.satonao.com/archives/2013/03/post_3511.html
業績や商品が多少ダメでも、そのメーカーやブランドの「本当のファン」であれば、すぐに浮気などしない。というか、そういうファンを作ることこそ、広告の仕事の大きな部分ではなかったか。"
"広告は、シャープやパナソニックやソニーをはじめとするクライアントの「本当のファン」を作れてこなかった。このことを心底反省してやり方を変えないと、広告コミュニケーションという手段そのものが、クライアントから見捨てられる日が必ず来るだろうと思う。"
もうどこから突っ込んでいいやらよくわかりませんが。
もうとっくに見捨てられてるよ、とか、SONYやシャープの業績は”多少のダメ”どころの騒ぎではないだろう、という話はおいておくとしても、”メーカーやブランドの「本当のファン」であれば、すぐ浮気などしない”とかかいてあって、本当のファンが作れなかったのは広告人の怠慢のせいだから恥じるべきだ、的な話が続く。
「広告には”本当のファンをつくることができる力”があって、それを怠ってきたのは広告人の努力が足りなかったからだ」とでもいいたいのだろうか。「恥じるべき」とか言っている時点で自意識過剰というか、正直、おこがましい。としか思えない。広告にはそんなパワーはない。少なくともいまの広告業界の現場レベルの世代は、そんな時代を知らない。もし仮に広告にそんなパワーがあるのであれば、それを成し遂げた広告というのは、過去にいったいいくつあるのだろう?ピントがズレ過ぎているというか、「バブル世代の広告人って、こんなおこがましい感じ方するんだね」という感覚だ。別にそれが悪いとは思わない。そういう時代だったのだろう。
そりゃーあんたたちの世代はそう思うよねー、だって市場全体が成長期で、かつ人口動態的にも消費市場は増え続けていたわけで、イケイケドンドンで広告人がおもしろいアイディア考えてドカドカCM打てば、モノは売れて企業のファンは増えたもんねー、でもそれって市場が成長期だから売れてただけで、「俺たちはおもしろいアイディアでクライアントの本当のファンを作っている!」と壮大な勘違いしてただけじゃないの?とか思ってしまう。それはきっとあなた方の”すばらしいアイディアの広告”の力ではない。それは当時日本企業が作っていたプロダクトの力と、時代の力だ。
そういう話じゃないんだよなー、と思うわけですよ。広告業界もバブル世代を終わりにして、そろろそ広告がどんな役割を果たせるのかきちんと考えたほうがいいと思う。