はてなキーワード: 爆睡とは
先日高熱を出した。
が、お金もないし会社はまだ誰もなってないから人権失うし現場があるのでコロナと断定されるわけにはいかない。
というわけで、誰にも言ってないコロナ疑惑レポを書き残そうと思います。
20代サービス業会社員、会社にも友人にも内緒でキャバクラでバイトしてる。
最近まで実家に住んでたけど、実家の自粛ムードに耐えれず一人暮らしを始めた。
茶の間よりのオタク。コロナ禍でもそこそこ遠征してるけどガッツと呼べるでは全然ない。
体調不良になった経緯と経過観察
初日以前
会社のお客様で少し話した人が感染者になるも、特に濃厚接触認定されるレベルではない。
体調不良1日目
会社勤務を終えてバイトに向かう途中から少しだるい気がするも深夜2時ごろまでバイト。
体温計が手元にないので体温計れず。
体調不良2日目
しんどいなと思いながら会社に向かうが、メンタル面からくるものだと思いこむ。
13:00体温 36.6度
この後めちゃくちゃ元気になる体調に反比例するように体温が上がる。
19:00 38.4度
さすがにまずいと思い早退させてもらう。
体調不良3日目
9:00 38.0度➡パブロンを飲んで36.5度
質問内容は
また、嗅覚、味覚に異常がなく、熱もいったん下がっていることを伝える。
キャバクラで働いてることはどんな経緯で会社にばれるかわからないので言わなかった。
上記内容では病院をあっせんできる条件でないことから自分で発熱外来を予約、受診するように言われたので探すもぜんっぜんない。
あるけど予約で埋まってるからめんどくさくなった。
会社には熱が一旦下がったから自費PCR受けに行くとうその説明をした。
18:30
夜間発熱外来を受けている病院が見つかり、LINE問い合わせができたので状況を説明。
手元に保険証がなく(実家)発熱外来とPCRを受けるには3万かかると言われめんどくさくなり診察は受けず寝る。
体調不良4日目
9:00 38.6~39度
相変わらずパブロンを飲むと下がる。
会社には自費PCR陰性、発熱外来にかかった結果扁桃腺炎だったと説明(嘘)
この時点で熱以外の症状なし。
パブロン飲んで4時間立つと熱が38度まで上がり、飲むと1時間程度で36度台まで下がるの繰り返し。
体調不良5日目
5:00 38度
朝起きた時点で少しのどが痛い。
飛行機に乗るために熱を下げなければいけないので、パブロンを飲み、脇の下に2枚ずつ熱さまシートを貼る。
これで検温は難なく通れた。
熱は前日と同じくパブロンを飲むと36度まで下がり、4時間程度で38度まで戻るの繰り返し。
バスの検温もバス待合室の入り口で簡易的なのしかなく余裕で突破できた。
体調不良6日目
7時ごろ帰宅。
このころから咳が止まらなくなるが、熱は薬を飲まなくても36度台でとどまるようになった。
扁桃腺が腫れてる感じ。
会社には声が出ないからと休みの連絡を入れ、バイトにはいった。
体調不良7日目
出勤するも咳が止まらない為早退させられる。
起床後、なんとなく煙草に火をつけたところで匂いが全くしないことに気が付く。
味はわかったけどなんとなく何を食べても塩気が強く感じる。
ここから数日間咳と、嗅覚異常が続いて体調不良12日目くらいから徐々に匂いが戻ってきた。
今は匂い全然わかるしけど、相変わらずなんでも味が濃く感じる気がする。
元々ジャンクフードばっかり食べてたのに欲しくなくなった。
という体験記です。
私の体調不良以降周りで体調不良の人も、コロナになった人もいない。
もしかして私が陽性判定ならみんな無症状なのかなと思ったりはする。
8,674
岸田 奈美
2021/07/22 15:29
※身近な読者さんに聞いてほしいだけなので、気が済んだらマガジンに入れて、そのあと消します。
21:26追記
過去ラーメンズを紹介する記事を読んでくださった読者さん、彼らのファンの方々に届いてほしいと書いた文章でしたが、わたしの説明の至らなさ、思考の未熟さゆえに、どんどん違う捉え方が広がっており、傷つく人を無闇に増やしてしまっているやもしれないので、22時で非公開にします。すみません!
ラーメンズが好きだ。
小林賢太郎氏が好きだ。
父を亡くし、友人を失くし、誰とも笑えない鬱屈とした子どもであったわたしに、笑いという光をくれたのが彼らのコントだった。絶妙にわかりづらく、複雑に絡みあう、壮大な世界観のもとに成り立つそのコントは、誰かと語りたくなる衝動をくれた。天才なんよ。これはわたしの圧なので、異論は認める。
父が「お前の友人はこの箱の向こうにもおる」と残してくれたmacのキーボードを叩き、ラーメンズの、小林賢太郎氏のコントについて語り合うとき、わたしは孤独であったけれども、孤独でよかったと思えた。
その小林賢太氏郎が、東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式のショーディレクターに着任したとき、わたしの頭では「マジか小林賢太郎…」と「マジか小林賢太郎!」が同時に鳴り響いた。
こう、なんか、ものすんごく無責任なオタクとして言うと、彼らのコントはもともと知る人ぞ知る、当時のお笑い界のメインストリームを堂々と外れて宣戦布告しながら飄々と笑い転げるという位置にあったと思うので、一抹の不安があった。しかしその不安をコーナー鋭角でまくってくるのは「オイオイ、これでみんな小林賢太郎の魅力に気づいちまうんじゃねえの〜?まっ、わたしは芸能界引退前に舞台で見たけど〜?」というオタク特有の愚かなドヤりである。
わたしはドヤりドヤりしながら、孫の七五三を見るような迷惑かつ気色悪い心地で、彼が手がける開閉会式を心から楽しみにしていた。ここまでの前置きがすでに早口気味なのはお察しの通りである。とても気色悪い。
実はさっきまでテレビ局での生配信に参加していたので、解任にいたる経緯も、解任された結果も、成り行きを見守ることなくひとまとめにして見知った。
情報の石つぶてに襲われ、小林賢太郎氏の謝罪文の最後「先ほど、組織委員会から、ショーディレクター解任のご連絡をいただきました。ここまで、この式典に関わらせていただけたことに感謝いたします」まで読み終え、涙が出た。
京都に向かう新幹線でなければ嗚咽していた。頼む、車掌さん、止めてくれ。三河安城でこの新幹線を止めてくれ。しかしのぞみ163号は止まってはくれないので、静かに泣きながらこれを書いている。
解任の理由は1998年に彼が演じたコントのなかで、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というセリフがあり、肯定する文脈でなくとも、笑いの演出に使われていたからだ。これが人権を著しく侵害しているとされた。
その決定に、わたしは反対しない。
五輪憲章ではあらゆる差別への反対が定められているし、たくさんの人々の命を不当に奪った歴史を、今もなお魂を傷つけられている人々がいる事実は侮辱されてはならない。
なのでこの文章は、オタクのわたしがわたしに宛てた、ただの戒めである。
というかもう、ここ最近、責任をとる人が多すぎてなにがなんだかわからん。責任をとっては去り、責任をとっては潜り、責任をとってはキングギドラに車一台で爆走して挑む。
シンプルすぎる。
シンプルすぎて二度聞きしたくなるようなこの結論にいたるまで、内田樹氏は懇切丁寧に筆を尽くしておられるので、ここではわたしの雑なあらすじで勘弁していただきたいのだが、
要は
「ごめん、で済む話はない」
ということだ。
人が傷つけたり、人が大切にしているものを傷つけた場合、それを元どおりに復元するということは不可能だ。医学がド発達したとして「いったん殺したけど、きれいに元通りにしといたから、これでチャラね」と殺人犯から言われても、きっと誰も許せん。
あってはならないことだけど、学校でいじめにあった子どもが自殺して「一億円の損害賠償を請求した」とニュースで報じられたとしてそれは「一億円払ったら許してやる」というわけではない。相手の一生を台無しにできるくらいの金額を求めて、「わたしはお前らを絶対に許さない」と告げている。
責任をとれという言葉は、「なぜなら、お前には責任をとることはできない」という意味を常に伴っている。めっちゃわかる。
ここまであらすじですけど、このド下手なアレで間違ってないですかね、内田先生。こんなところで引用してごめんなさい。
まさに今。
ここからも内田樹先生がね、答えをくれるんですけど。その答えはどうも、ひとつだけらしくて。
「我々が考えることができるのは、ただひとつ。どうすれば責任をとることを求められるような立場に立たないか」
これは、わたしは知らん、わたしは関係ない、わたしには責任がない、と言い訳をしスタコラサッサするわけではない。そんな言い訳が平気でまかり通ったら、なんか起きたらすぐさま電気は消えるわ、水道は止まるわの大惨事だ。
なんかまずいことが起こったときの責任を他人になすりつける社会と、自分の手が届く範囲のことでみんなが「あ、じゃあ責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会なら、後者の方が「誰かが責任をとらんとあかんようなヤバイこと」が起こりにくい。
「誰の責任だ、誰の責任だ!」と犯人探しをしてる間に、最悪の状況に陥るのを、わたしたちは何度もこの目で見てきた。もちろん、例外はあれど。
責任は、誰もとれない。
誰もとれないから、人に押しつけられるものでもない。だが、最初から自分で引き受けることができる。引き受ける人が多いほど、人間は幸福に、豊かに、安全に生き延びることができる。
だって大切なのは、同じことを未来で二度起こさないためには、どうしたらいいかだから。
さて。
小林賢太郎氏が過去の発言で解任されたのであれば、その責任は、気持ち悪いオタクのわたしにもある。今をもってわたしが引き受ける。
「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」の発言がなされたコントは、わたしも見たことがある。記憶は定かではないが、中学生になったばかりの頃だったと思う。
「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」の意味を深く考えることなく「なんか真面目そうな教育番組のMC役なのに、やばいこと言ってんのがシュールだな」というふわっとした文脈だけで笑った。未熟なわたしは、笑ってしまったのだ。
小林賢太郎氏がそれを「浅はかに人の気を惹こうとしていた」のであれば、わたしも「浅はかに彼らの笑いを受け取っていた」に過ぎない。
今では、その文脈で笑っていたことが、どれほど罪深く、どれほど愚かなことであったか、わたしはわかる。
それは、中学生の後半で、ホロコーストについて学んだから。中学生の授業の範囲なんて、教科書での字面だけなので、そこまで深く知ることはできない。本格的に背筋が凍るほどの恐怖がわきあがったのは高校生で世界史の授業を受け、終戦のローレライを観て、アンネの日記を読み、作家になって編集者から勧められた「夜と霧」を読んでからである。
教えてくれる人がいて、咎めてくれる人がいて、対話をしてくれる人がいたからだ。
道徳観が歴史の積み重ねであるならば、わたしたちもまた、人生という歴史を積み重ねながら、ここに生きる人としてあるべき姿を学んでいく。大人になればなるほど、聡くなればなるほど、わたしたちは過去の行いを恥じ、己を正すことができる。
小林賢太郎氏は、彼の頭のなかをのぞける自著「僕がコントや演劇のために考えていること」で語る内容をみれば一目瞭然だが、ストイックな創作家である。ストイックすぎて芸能界を引退したようなもんだとわたしは思う。
年々、彼の思考と作品は、目を見張るようなアップデートを重ねていた。
世間でまだ誰も言葉にしていない「時代感」を読み、言葉やパントマイムに落として、笑いに変えるやんごとなき天才であった。近年は特に、誰も傷つけない笑いなんてあるわけがないことを悟りながら、その状態になるべくして茨の道を歩みながら近こうと試行錯誤する、戯曲に取り憑かれた化け物であった。その背中に憧れて、わたしもここへ来た。
そういう男であるからこそ、こんな時が迫るまでに、ファンのわたしたちは話さなければならなかった。
彼に直接言うのは叶わなくても、ラーメンズについて語るたびに、記事を書くたびに、言葉にするチャンスはどこにでもあった。あれはアカンのやと。
今もさ、たぶん「いやあれってそこまでダメかな?」って思うファンもいると思う。わかるよ。わかる。でもね、ダメなんだ。気づかないといけなかったんだよ、わたしたちは。彼をいつか、日本の大舞台に送り出すつもりでいるならば。
20数年前のコントをいまさら、なのではない。20数年間、いままで、なにも言わなかっただけなのだ。
そして小林賢太郎氏は、そういう社会の奥底に埋もれてしまいそうなわたしたちの言葉を、目ざとく掘り出し、両手ですくいとって、なんらかの形で応えてくれる、いい戯曲のためなら見栄も地位も何を犠牲にしても厭わない、そういう男だと、わたしたちは、知っていた。知っていたのに何もしなかった。
むしろ、批判されているコント「できるかな」は、DVDには収録されていない。ラーメンズがあれだけ太っ腹に公開している動画の中にもない。VHS以降、公式の手で誰にも見せないという選択をとっていた小林賢太郎氏は、わたしたちより先に、気づいていたかもしれない。
時代が未熟すぎるがゆえに許してしまった、愚かな笑いというのは、どこにでもある。
だからこそ、今さらなんてなかった。遅すぎることなんてなかった。彼が責任をとれと言われる前に、彼に存分笑わせてもらったわたしたちが、責任をとらなければならなかった。
そうしていれば、明日には、小林賢太郎氏の舞台を、わたしたちは、テレビで、観れたはずなのに。なんでいまわたしは、テレビの前じゃなくて、新幹線で、どこの誰ともわからんサラリーマンが首を65度に曲げなから爆睡している前方座席を見ながら、泣いてるんだ。もうすぐ新幹線はわが京都に着く。
つらい。こんな形で、小林賢太郎氏の名が知れ渡っていくのがつらい。彼のコントを、世界を、観たことがない人も彼のことをボコボコに言うのがつらい。おもしろおかしく揶揄されるのがつらい。
しかし、それもまた、気色悪いわたしの責任なのである。彼らより、彼女らより、先に、先に語りたかった。
誰が作ったかわからんが、至言だと思う。推せるときに推せ。いいから推せ。ともかく推せ。しかし、時代は変わった。怒りや悲しみが容易に世界へ届くようになった。誰かの笑いは、誰かの悲しみになる。
行き過ぎた悲しみに気づいたとき、わたしたちは、立ち止まり、振り返り、それを受け止めなければならない。そして語る。
「その世界を作ってしまったのには、わたしたちにも、責任がある」
推しの世界に魅了され、推しの世界に生きてきたわたしは、いまここで誓う。気色悪いと言われようとも、恩着せがましいと言われようとも、その世界を終わらせないために、人知れず責任をとっていく。
そして、なにかが燃えて、燃えて、燃えて、燃え過ぎた焼け野原で、責任をとりながら両足をつける。そこからなにかを芽吹かせていく。作家という仕事に就いたなら、その責任も伴う。
10年、企業で広報を務めた立場からえらそうに語ると、重役や有名になればなるほど、謝罪文はすぐに出せない。すぐに書くことはできる。でも関わる人が多すぎて、ありとあらゆるチェックが必要になる。「チェックするための事前チェックに回す前の念のためチェック」みたいなバグった概念が普通に存在する。
しかし小林賢太郎氏は、解任の連絡があって、すぐにコメントを自分で出した。前述のとおり、彼と彼の発言をかばう余地はないが、なかなかできることではない。
ついていくぞ、どこまでも。
(当初ここに、オリンピック・パラリンピックについての表記がありましたが、本文の趣旨には関係ないのと、開催についてはいろんな思いで受け止められている方がいるので、削除しました)
「妹萌え板」という、実の妹への欲情を吐き出す地獄みたいな板がある。
https://itest.bbspink.com/subback/siscon
http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/siscon/1612264885/
232 名無しさん@ピンキー[] 2021/03/12(金) 18:06:48.03 ID:p27dulJb
妹のまんこを無理矢理触った時のこれがまんこなんだなって興奮と
触られた妹のショックで悲しそうな顔
あの頃に戻って謝りたい
235 名無しさん@ピンキー[sage] 2021/03/20(土) 23:24:45.45 ID:???
パジャマの中に手を入れてまんこに触れたときには一線を越えた感があった
触ってるだけで妹の寝息が乱れていくのに気がついて尚更
そのうち妹にバレて険悪になったけど、親には言えないようだと分かると
躊躇なく毎晩のように悪戯するようになった
いまはお互いその頃のことは話さないけど懺悔で済むレベルじゃないな
241 名無しさん@ピンキー[] 2021/03/25(木) 07:45:16.18 ID:9UznB7h0
寝てるとこ、パンツずらして弄ったり、ブラつけてないの、をいいことに、乳首吸ってごめんなさい。
250 名無しさん@ピンキー[sage] 2021/03/30(火) 22:05:04.24 ID:???
妹(16)の風呂を覗き中…
罪悪感があるので懺悔させてください
257 名無しさん@ピンキー[sage] 2021/04/08(木) 00:20:42.78 ID:???
妹の胸が本格的に大きくなったことに気づく
寝ている時に今度は手を入れて生で触ってみる
起きてる時にもふざけ合うフリして服の上から触ってみる
ふざけあうフリして服をたくしあげて脱がす
279 名無しさん@ピンキー[] 2021/04/16(金) 13:37:55.53 ID:F4BwsJ1/
妹の着用後のパンツを毎回観賞している
288 名無しさん@ピンキー[] 2021/05/19(水) 22:53:58.18 ID:JEO/PJyp
親が持ってた春を細かく砕いて夕食に混ぜて
春は筋弛緩作用もあるみたいで
寝ながらも抵抗しようとしてたけど力が入らない感じだった
298 名無しさん@ピンキー[sage] 2021/05/28(金) 00:09:53.81 ID:???
妹が小5のとき、寝ると起きないから深夜に親が来る前にパジャマのボタン外して胸揉んだり舐めたりとかしてたな
1年近く続けてたから胸が大きくなったけど処女なのに乳首が黒くなってしまって申し訳なかった
299 名無しさん@ピンキー[sage] 2021/05/29(土) 01:08:30.20 ID:???
俺が中2妹が小5の一学期、制服から着替えて部屋から出てきた妹の姿に釘付けになった
白いノースリーブのニットが身体にピッタリ張り付き膨らみ始めた胸のラインが露わになり頂点の色が変わってるのも見てとれた
俺は我慢できなくなって妹の部屋に面白いマンガないかと入り込み「この生地面白いな」とニットの裾に触れてだんだんと手を中に入れて乳を揉み乳首を嬲った
乳首が明らかに固くなってきたのに興奮して服を脱がせようとしたら我に返った妹に「いやっ」と突き飛ばされた
それから妹は二度とその時の服は着なかったしそれまでの無邪気な振る舞いは影を潜めた
ごめんよ妹よ
懺悔と言いつつ、こいつらは妹に一生の傷を負わせた、人生を破壊したなんて考えちゃいない。ただの「エッチな思い出」としか思ってない。吐き気がする。
・フルフェイスのヘルメット被ったらもうシャワー浴び直しでもしない限り元の髪型に戻らない。
・運転中は汚い大気のドライヤーを顔面に浴び続けているようなものだから肌がビックリするくらい荒れる。鼻の穴もすぐに汚れる。
・シールド下げてもやたら目が乾くし、チャリや車より集中力や体力使うから、朝起きて1時間ツーリングしただけで帰還後爆睡してしまう。
・快適にバイクに乗れる期間が1年のうち4~5月、7月、10月の4ヶ月くらいしかない。
ちなみにバイクにおける「快適じゃない」状態は、心地が悪いとかそんなレベルじゃなく、精神や肉体の負担が危険労働従事者のそれと同じようなもん。とにかく過酷。
・日本が自転車以外の2輪に厳しすぎるから、いくら小回りきこうが常に駐輪に悩まされる。特に都心。
・降水量10mm程度の雨でも、ひとたび走行中に降り出せば前が全く見えなくなるからその時点で走行不能になる。
ちなみに市場に出回っている曇止めや撥水剤は効かない。
某劇場へ観劇に。休憩時間に劇場内のめちゃくちゃ急な階段で躓いて落ちる。
滑落する、とか転げ落ちる、とかじゃない。落下。2階席だったが、とんだ(?)勢いで1階席へ転がり落ちるかと思ったくらいには落下した。幸い、2階席の一番下の席のあたりに落ちた。
スタッフが二人すっ飛んでくる。一部始終を見ていた他のお客さんが「大丈夫?」「結構落ちましたよ」と口々に言ってくれるが、私は「やべっワンピース破けてないかな、パンツ見えてへんかな」ということを考えていた。肩と肘に激痛があり、ついでに過呼吸のような症状になる。そして若干の吐き気。スタッフに適当な席に座らされ、ちょっとここで休みますといったものの、離席していた元々のお客さんが戻ってくるのでぜえぜえ言いながら自席へ。お手洗いから戻ってきた同行者(夫)が、「息荒いけどどうした?」と聞いてくる。
まあそうなるよね。少し座って休んでりゃ治るだろと思ったが一向落ち着かない。仕方なく席を離れると、心配していたらしいスタッフがすぐに飛んできた。ホールの外の廊下?みたいな場所のソファーに寝かされる。一番は回復されて観劇に戻られることですが、救急車やタクシーも呼べますよ、シップやばんそうこうもご用意できます、と言われ、とりあえずシップをもらい夫に水を買ってきてもらう。
痛みは治まらないが気持ち悪さはなくなってきたので、とりあえず後編観劇終わってから病院いこかな?とか
考えてたが、肩が一切上がらない。病院勤務(放射線技師)の夫は「落ちたとこ見てないし大して腫れてないとは思うけど、病院行っといたほうがいいと思うよ」ド正論。泣く泣く後半をあきらめた。
調べたら歩いていける距離に整形外科があったので徒歩で移動。レントゲンの結果肩の骨(厳密には腕の骨の一番上)が折れていた。嘘やん。
人生初骨折。人生初ギプス(じゃないけどなんか濡らしたら固くなる謎のどでかい包帯みたいなの。後いシーネと呼ぶと知る。取り外せる)
よくよく見たら肘もめちゃくちゃ擦りむいてたし両足も計4か所やばい色のあざが出来ていた。
処置後帰宅し、とりあえず着替えてからだを拭き眠る。薬を飲んでたと言え普通に爆睡した。
夫の勤務先で受診。会う人会う人に「お世話になっております」「こちらこそ普段夫がお世話になっております」とあいさつする。CTの結果、折れているというより砕けていることが判明。撮影自体は別の人だったが、機械に寝せたり説明したりするのは夫で、夫の仕事での一面を垣間見れて面白かった。
受診後即帰宅してコンビニご飯をスプーンでかっくらい在宅勤務を開始。夫も私を家に置いたのち病院へとんぼ返りした。そのまま当直である。
在宅勤務と言っても手を前に出せない(前ならえの姿勢をとれない)のでキーボードが叩けない。打ち合わせ以外はベッドの上に移動し、手の可動域に合わせて足の上にPCを置いて仕事する。ほとんど仕事にならなかった。
暇だったらしい夫から電話があり、夫の同僚からはどう思われてるのだろうと思い聞いてみたら、「トイレ行ってる間に転んで骨折ってたって言ったら「目ぇ話した隙に転んで骨折とか奥さん子どもなの?」って言われた」……うん……ごめん……。
夫が帰ってきたのでようやく風呂に入る。綿の三角巾をしながらシャワー。ほとんど夫に丸洗いしてもらった。
この日は待ち望んでいたアームホルダーが届く。三角巾のせいで首が限界に痛かった。全身体の中で一番痛いの首。腕を折った人、絶対にその日のうちにアームホルダーを買った方がいい。
アームホルダーと一緒に買ったスティックファンデを試す。手で塗り広げるのは無理があった。
この日も在宅勤務する。ワイヤレスキーボードを膝(左手の可動域)に置き、どうにかタイピングする。
終業後夫に頼んでguに行く。パジャマとカップ付きのタンクトップ、それとファンデーション用にスポンジを購入。
左手がこれまでなかったくらい浮腫んで指輪が外せなくなる。やば。肩は固定さえしていれば痛くないが、前かがみになったり肘から下を外側に向けることはできない。痛い。
シーネの下がめちゃくちゃかゆくて対処法をネットで調べたら「ギプスの中に突っ込んでかいかいする棒」ばかりサジェストされ悲しくなった。そうじゃなくてさあ……。
長時間座ってられないのと、仰向けか右向きにしか横になれず、我が家のレイアウト上テレビが見られないので、天井に投影するためにプロジェクターを購入。前から持ってたやっすいスピーカーをつないだら割とホームシアターっぽくなった。骨折以前、プロジェクター購入を勧めても「ええ~いらないよお」と言ってた夫、「もしかして、これ(プロジェクター)とてもいいものなのでは?」「これ、いいねえ……」としきりに言っていた。二コマ落ちすぎんか。
夫に体力を心配され、夕食後に散歩。仕事中は30分以上縦になれないが、結構歩く。
前開きじゃなくても襟ぐり広めの服ならどうにか着られるので、部屋着に買っておいたコットンのTシャツワンピばかり着るようになる。スキンケアのコツをつかんできて、片手でもどうにかできるようになってきた。
シーネの下に巻いてるサポーター(正式名称はストッキネット?というらしい)の代わりにガーゼを巻いたら死ぬほど痒い。肘裏?を掻き壊しかける。
仕事のスケジュールが詰まっていたのでかなり疲れる。なお骨折以降ずっと在宅勤務である。
午前中は初めて一人で洗濯をこなす。ハンガーにかけて干すのはできたがピンチに挟むことはできなかった。
夫が当直。買っておいた冷凍パスタを食べる。包丁と火を使うことを夫に禁じられているのでレンジでチンして食べられるものかカップ麺しか選択肢がない。
夫がいなくて暇なのでやりかけだったFGO2部5.5章の続きをやる。
3度目の診察。今日は肩周辺の専門?の先生?に見てもらう。夫がいないので電車とバスで移動。割とすいていたので問題なく移動できた。待ってる間に5.5章を終わらせる。終盤の勢いに全くついていけなかった。
今年入職したばかりだという夫の後輩にレントゲンを撮ってもらう。初々しくてかわいい。
先生にはシーネが取れるまで2~3か月、ある程度動かせるようになるまで半年、痛みがなくなるまで1年と言われた。なっが……本当は今月洋装前撮りをする予定だったのだが一体いつになるのだろう……。
またこの日は始めてリハビリ科へ。家でもできる簡単なリハビリを教えてもらう。リハビリの担当のお兄さんに「今の肩の状態ですが……あっご職業は?」と聞かれ、「普通の会社員です」と答えたら「ああ、よかった、詳しくないですね」と言われた。ちょっと面白かった。
椅子に登ればピンチに洗濯物も干せることに気づいたが、夫にばれたらめちゃくちゃ怒られそうだな、と思いつつ干す。洗濯物は干せるが皿は洗えない。夫に米炊いといてと頼まれるがお釜が洗えなくて断念する。つらい。
夫が「仕事から帰ってきて買い物して飯作って食べて風呂入らせてこの時間か……子育てってこんな感じかな……」と言い出す
午後から怒涛のノンストップオンライン顔だし打ち合わせで疲れ果てる。
以前よりはひっかかるが指輪が抜けるようになってきた。私が慣れただけなのか浮腫みが収まったのかはわからない。
プロジェクターでアマプラ三昧。前から気になってた「窮鼠はチーズの夢を見る」を夫とみるが夫は途中で寝た。乳首当てゲームで爆笑する。
寝るときは左肩にクッションを入れないと痛かったが、クッションがなくても寝られるようになった。
骨折って以来夕食の準備はすべて夫がやっているのだが、冷蔵庫にあるもので適当に作ることができないので買い物の頻度が激増した。調理の腕は上がっている。
恐れていた月経が来てしまった。お手洗いの度めちゃくちゃ気を使う。トイレ滞在時間が通常時の2倍くらいになった。「骨折った衝撃で止まるかと思った」と言ったら夫に哀れそうな顔をされた。でも周期ちょっと遅れてた。
終業後お夕飯にくら寿司へ。びっくらぽんが二度も当たりチョコとテディのマグネットをゲットする。シロモが欲しい。骨折ってから初めての外食だが、お寿司なら余裕で食べられた。
食べて出てきてまだ明るかったのでいったん家に帰ったのち散歩する。また新たな道を開拓した。
話の流れでドライブすることに。再び帰宅して適当に走る。夜景がきれいそうなところと海沿いとどこ行く?と言われたが「とりあえず適当に走ろうや」と言って適当に走る。海沿いには出たが「わざと波打ち際を歩いて靴をびちゃびちゃにする前科があるから浜辺には下りない」と車を停めてくれなかった。サンダルなのに……
肩はあいかわらず固定さえしていれば大して痛むことはないが、前かがみができるようになってきた。肘から先の可動域も少し広がってきたように思う。
打ち付けた足は、特に強く打ったらしい左のすねと右のふくらはぎがしこりっぽくなってきた。痣はだいぶ薄くなったがふくらはぎはまだ多少痛む。困った。
夫が肉巻きアスパラとオムライスを作ってくれる。確実に腕が上がっている。おいしい。
スマホのリズムゲーを再開してみる。実際はタブレットだけど。割と叩けたが夫に「お前肩どうなってるかわかってんの?」という顔をされる。とりあえず肩に痛みはない。
以前より楽器を習っていたのだが、その先生から腕の調子はどうかと電話がある。ぜんぜんまだ治りそうにないが、様子を見て来月あたりから片手だけでやれれば……と伝える。学生の時にやっていた楽器で、この春からようやく教室に再び習いに行き始めたばかりだったのでつらい。
夫に頼んでユニクロの限定Tシャツを買ってきてもらう。ついでに頼んでなかったクッションも買ってきてくれて大喜びしてたら「これが仕事遅くなって罪滅ぼしにプレゼントを買ってくる父親の気持ちか……」と言っていた。
朝、玄関に置くシューズラックが届き、ほとんど右手だけで組み立てる。やればできんじゃん。左腕の可動域が広がってきたことを感じるが調子に乗ると痛む。掃除機をかけて床を噴き上げ、トイレ掃除もこなした。
シューズラックと一緒にベッドに寝たまま使えるスマホスタンドが届く。快適すぎるだろ。腕折ってなくても便利すぎる。Youtubeを流し見ていたがこのままでは廃人になると思い、午後から近所のスーパーまで歩く。少し買い物をして帰宅。あとは一日某スマホゲーのメインシナリオを読んで(聞いて?)いた。
夫が帰ってくるなり丸洗いしてもらう。2日風呂入ってなかった。骨折ってから初めて湯船に浸かる。風呂に入るってこんな気持ちよかったんだな……。極力夫の手を借りずにできるところまで右手だけでやってみたが、右手の疲労感が半端なかった。
午後から大きめの商業施設へ買い物へ。久々にしっかり化粧する。骨折ったときしばらくコンタクトはお預けと思っていたが、思いのほか片手で入れられた。
夕飯は焼肉へ行く。正直自分でも焼けるが、夫が全部焼いてくれたのをありがたくいただいた。おいしい。
帰ってもう一度風呂に入る。
骨を折ってから初めての出勤。電車がまあまあ混んでいる。一縷の望みをかけて優先席の近くに立ってみたが空いてなかった。まあ立ったままでも問題ないっちゃそうなのでそのまま立つ。乗り換え後は空いてたので念のため座った。
エレベーターで会った別フロアにいる先輩に「腕大丈夫?階段から落ちたって?」と言われ、「えっ階段から落ちたことまでもうまわってるんですか……」と聞いたら「うん。誰に聞いたっけ、増田さんの部署の人じゃなかった気がする」と返され朝からしんどい気持ちになる。
・化粧
・コンタクトを入れる
・手を洗う
→このご時世致命的だな、と思っていたが、家の洗面所でならかろうじて洗えるようになった
→膝に置いてやればできる
・お風呂に入る(一部)
・爪を切る
→厳密にはやすりで削ってる。足は出来なさそうな気がする
・髪を結ぶ、髪を乾かす、寝ぐせをなおす
→髪に関することは本当に何もできない。切ろうかと思ったが前撮りのことを考えると難しい……
・右腕を洗う
→右腕に日焼け止めを塗る、右腕を拭く、もできない
・ピアス
→フックならまだしも一つ石タイプ?というかキャッチがあるタイプは難しい。耳に通すまではできるがキャッチがつけられない
・アルコールをシュッてやる
→自動タイプとか足でやるタイプ超ありがたい。自分で押すタイプは高さによっては無理
・眉毛を整える
→これは今度アイラッシュサロンでアイブロウワックスやってもらう予定
・プラグをさす
→例えばノートPCの左側にある電源プラグをさす、とか。右手でどうにかやるけどすっごいやりにくい。
・コンタクトを洗う
→できなくないが難易度が高い。もうこすり洗いしないで保存液入れてる。1dayとかがいいのかも。
・アームホルダー
→三角巾替わりの。これないと死ぬ。無理。三角巾の場合は首の後ろにタオルを挟むとちょっと楽になる
・トナーパッド、クレンジングシート
→本当にあってよかった、洗顔替わりにもなる。クレンジングシートはビフェスタのが使いやすいしよく落ちる。
・ムヒ
→最強
→夫に火と包丁を使うことを禁じられているので、在宅勤務の昼食はだいたいこれ。紙皿ごとチンするので、皿に移し替えなくていいし(というか多分できない)、洗い物もないのでかなり助かってる。あと純粋にうまい。
車いすユーザの人が「ありがとう」と言うのが辛くて云々と言う話がよく出ているけれど、私はこの気持ちがよくわかった。だが、世の中の反応を見ていると、ありがとうを言うなんて当たり前だとか気持ちよく利用するためにそれぐらいの言葉をかけるのは当然だし健常者だってみんな言っている、人として当たり前の行為なのにそんなことも言えないのかといった論調が目立った。
私は睡眠障害を持っている。不眠ではなく過眠の方。必要以上に眠る。病気と認定されている程度には眠る。は?誰だって眠いし寝られるんならいくらでも寝るだろ?甘えと言う方もいるが、「身内の葬儀中も寝る」と伝えると少しわかってもらえたりする。わかってもらうというよりはドン引きされるというだけだが。あと線路の上で意識飛んで寝そうになった。話盛ってるみたいでやだなあ。
会社勤めをしていた頃も、睡眠障害があった。睡眠状態に落ちるのはランダムで、あるときは息を吸って吐いた瞬間には意識を失っている。眠るといってもキーボードのところに枕を置いてグーグー眠るのではなく、いつもの姿勢で固まったまま、よく見ると目だけ白目をむいているか閉じているかして、そのまま固まっているような形。肩を叩かれたり、声をかけられるとこちらの世界に戻ってこられる。私の席の隣に座っていた同僚が、とんでもない気遣いの人で、こんな私に対しても毎回毎回声をかけてくれていた。大した事ではありませんから大丈夫ですよと言ってくれていたが、酷い時は5分に1度ペースである。絶対に面倒で嫌な気持ちになっていただろうに、その人は毎度毎度丁寧に大丈夫ですかと声をかけてくれた。私はそのたびに謝罪し、ありがとうございますと心の底からの感謝の気持ちを伝えた。
多いときは5分に一度謝罪し感謝を述べる生活。ただ生きたい。普通に生活がしたい。すみません。ありがとうございます。申し訳ありません。顔洗ってきます。がんばります。ご迷惑をおかけします。お手数をおかけしました。本当にごめんなさい。いつも本当にありがとうございます。
全て心の底からの気持ち。本当に本当にありがたいと思っている。毎回毎回毎回毎回とてもとてもとてもとても丁寧に対応してくださる。嫌な顔ひとつせず、いいんですよ、だってあなたのせいじゃありませんから。わざとじゃないんですから。どうしてこの人がこの世に生まれたのだろうと思う位、聖人の生まれ変わりなのかと思う位の対応をいつもしてくださる方だった。
そこのお前!やれることはやっているのか?そう思ったと思う。
指をつねる、頬を叩く、頭を引っ叩く、ブラックガムを食べる、カフェインを摂取する、病院に行く、十分な睡眠をとる、適度な運動をする、アルコールは飲まない、健康に良くない事はしない、眠くなりそうな時は寝てしまう前に席を立って少し体を動かす。それでもだめな時は勢いよく太ももにペンを刺してでも起きる。
結果的には太ももにペンをぶっさしたまま眠る人間が誕生しました。まあ、大切な人間の葬儀中に堂々と爆睡するような人間なので仕方ないけどさ。てへ。
申し訳ありません。ごめんなさい。いつもありがとうございます。体動かしてきます。顔を洗ってきます。すみません。本当にごめんなさい。申し訳ありません。本当にいつもすみません。お手間をおかけしてごめんなさい。生きていてごめんなさい。本当にごめんなさい。ごめんなさい。
こういう頻度で人に感謝を述べていると、人は頭がおかしくなるので注意だ。ソースは私。でもこんなんでも睡眠障害ってよくわからんけど分類ごと行政に放置?されてるから障害者ではないのです。手帳出ないのよ。イエーイ。
車椅子ユーザーの一部の方がありがとうと伝えたくないと書いていたのはこういう気持ちを綴ったものだと解釈しているけれど全然違ったらすいません。ここに書いた感じの気持ちなら分かるよ。そうじゃないならよくわかんないけど。
伝えたくないというか、めちゃくちゃ伝えたいんだけど、これを5分毎にずっとやってると「よし!自分、そろそろ死ぬか〜!」のスイッチ入りそうになっちゃうんですよね。いやありがとうって全然言うんですけどね。口ではありがとう、助かりました!って言いながらよーし死ぬか〜!!!ってなる。だからね、みんな健康に生きた方がいいよ。この文章は車椅子云々の話何も否定肯定してません。おわり。
表題の通りだ。
私は定期的に突飛なことがしたくなる。
ゲームをぶっ通しで10時間やったり、(倒れた)風呂で長時間耐久一人カラオケをしたり、(意識を失いかけた)酷いときにはODまでした。(病院に運ばれた)
ここで特記して起きたいのは、別にゲームが特別好きなわけでも、カラオケの達人になりたいわけでも、恒常的にODをするメンヘラという訳でもないことだ。
ただただ定期的に強い刺激がほしくなり、思い付いたことを衝動的に試してしまう。
あり得ないことをやったらどうなるのかという好奇心に負けるのだ。
思い返せば学生時代も、別に普通にやればやれるはずなのにわざとギリギリにテスト範囲を暗記してスリルを味わうような奴だった。
あらゆる事に対し切羽詰まればつまるほど興奮を覚えた。
汚い話になるが切羽詰まった状況というシチュエーションを想像するだけでヌけた。
落ちたら浪人確定の入試で、早く教室に行って爆睡していたら自分は開始時刻に起きられるのかどうかどうしても試したくなってしまい実行したこともあった。(起きられたし受かった)
小学生の頃は校舎のベランダの外側を歩き親が学校に呼ばれたこともある。
幸いその衝動性は仕事で発動せず、勿論のことだが突飛な行動をして困ったことはないしやってはいけないことだとちゃんと分かっている。プライベートだけだ。
だが、いつかとんでもないことをやりそうで怖い。突飛なことをしたくなりそれを押さえきれなくなる現象は皆さんもたびたび普通に起こることなのだろうか??
そこで卒業にあたって、情報共有と備忘録を目的に6年間の系譜をここに記そうと思う
【高校生】
・プログラミングに興味を持つ
ゲームが大好きで当時は家に帰ると深夜3時までネットゲーム、寝不足で授業爆睡という感じだった
ゲーム作りたいという意識が芽生えて見様見真似でプログラミングを始め、理系志望になった
親から埼玉の家から通える国立に行けといわれ、不幸にも電通大に進学を決めてしまう
【電通大1年】
最初から新入生合宿があって北関東に知らない奴らとバス旅行した
これで友達ができるかと思ったが、なんと陽キャグループとそれ以外が自然と分かれる
俺は自然と陰キャ側へ、しかし守備範囲がバラバラでオタクトークが盛り上がることはなかった
1年はだいたい全員同じ授業で履修の自由度は皆無だった
散り散りになった陰キャ達に居場所はないし、後から仲間に入れてとも言えない雰囲気だった
大学生活終わったと思った
・助け合わないと生き残れない
意外と授業は簡単で過去問も大学が公開するなどぼっちに優しかった
時間割も高校に比べるとスカスカで暇すぎて時間を持て余していた
もう精神さえ保てば大学ぼっちでもいいかなと思い始めたところで
体育と実験が始まった
[体育]
電通大には体育がある(必修)
中学の「はいペア組んで〜」が大学でも発生するとは思わなかった
やめろ
[実験]
2人1組でペアを組む
協力が大事
やめろ
そういうわけでいくら勉強がどうにかなっても知り合いを増やさないと精神が摩耗するのは明らかだった
俺は早急に単独行動者に声掛けを行ってなんとか生きるための知り合いグループを作った
・無慈悲な別れ
なんとか1年間過ごしてみたが
頑張って繋いだ薄い人間関係は専攻分けでズタズタに寸断された
【電通大2年】
・慣れた
開始直後に生きるための知り合いグループを作った
このタイミングにグループに入る重要性は去年痛いほど学んでいた
授業は相変わらず楽だが、面白くもなかった
内容としてはプログラミングを少しやるかぐらいで基本的には数学の勉強が続いた
2年からだがサークルに入ってみたところ利害関係のない友達ができた
精神的な安定感や大学への通学欲が増したのは確かで人間関係の重要性を再認識した
【電通大3年】
・楽しくなってきた
そうだよこれを待ってたんだよ俺は
・研究室配属
電通大では3年生のうちに学生が行きたい研究室の希望を出し、成績と面接で教授から選ばれる
有名企業に行くために大学に通っているんだから、就職の悪い研究室なんて行きたくない
ずうずうしく質問して回り徹底的にサーチした
研究室配属が希望通り決まるとまともな学生生活はこれで終わりなんだと実感した
【電通大4年】
研究室に配属が決まると
興味のあることでもずっとやるのは気が滅入るなと思った
・何かに追われている
研究室は1週間に1回、進捗報告があった
大学でも家でも研究成果を出さないといけないという気持ちになり
俺は大学院に進む前提で将来を考えていたため3年生で就活をしていない
院試に落ちたらどうしようと思った
結果的には2月頃から早めに勉強していたのが功を奏し、危なげなく院試に合格した
・何も変わらない
大学院に進むと授業がほぼない
ただ研究をやるという日々が変わることはなかった
自分との戦いになってきた
・学会で発表
そんなの無理に決まってると思っていたが
俺の英語が下手だとわかると英語話者も優しい英語で話してくれた
・就活がある
でもだいたい知ってくれていて良かった
第一志望だったので満足
・何も変わらない…だがコロナ
・そして卒業
とくに何も起きずに卒業を迎えた
【総括】
Q. 電通大で良かったのか
A. 分からない
後半は貴重な友人もできた
しかし自業自得でもあるが、一般の大学生のような学生生活は送ってこなかった
生まれ変わったら文系に進んでもっと別の大学生活を送ってみたいとも思う
A. 研究室選び
この曲を最初に聞いた時、寝不足+過労でやばい状況だった。その状態の少し前にたまたま独ソ戦の本を読んでいて、それに加えて仕事で関わっていたのが東欧というのもあって、なんかこの曲を聞くととんでもない地獄の風景が浮かんできた。
一言で言って恐ろしさ。恐ろしさ。Feel Like hellの間違いじゃないかと思っていた。
なわけだったが、懸念だった仕事が終わって、サウナ行ってその夜爆睡して、次の日に聞いてみたら、そんな事も浮かんでこないし、恐ろしさなどもない。普通に歌詞のない曲というような感じだ。
いま家族間でのゴタゴタでかなり落ち込んでいる。スマートウォッチの睡眠ログを見るとそういえば寝不足である。久々にFeel Like Aprilを聞いてみたら、この曲を聞くだけでやっぱり恐ろしさを感じる。
犬を飼うって大変すぎた。
飼い主に従順なのがイッヌと言われているけど
幼い頃は色んなところでトイレしたり
他の犬と仲良く出来なかったし。
その中でも唯一仲良かった近所のダックスさんが
さすがに悲しい声を出してた。クゥクゥ鳴いてた。
でもその日から他の犬を見ると飛びかかるようになって
色んなところで酷く吠えるようになった。
そんなだから一人で留守番させた日には一日中吠えるので留守番させられなくなった。家族旅行なんか行けなくなった。
病気には何回もなった。
お尻に腫瘍が出来てオスなのに生理みたいに血垂れ流して手術受けたり、
目の上にデッカイ腫瘍が出来て爆発して手術したり。
なんなら目の上の腫瘍は悪性だったらしくて取ってなかったらやばかったらしい。
1回の手術で15万円なんか普通に越える。今までかかった金額はいくらになるのか。獣医儲かりまくり。
結局手術とかは保険適用外とかにされちゃっていつしか解約した。
何が嫌だったって私が実家を離れる度に
犬に異変が起こることだったな。
帰ってきたら皮膚がボロボロになってた。
原因は不明だけどフケが出てるみたいに皮膚がボロボロになっていつも痒そうだった。
その間はほんとに一気にキた。
一気に足腰が弱くなってトイレがうまく出来ないからオムツをする。ご飯を食べない。毎日死ぬほど要求されてた散歩にも行かない。1日寝たっきり。腎臓が悪くて毎日薬を4錠くらい飲まないといけなかった。
親からは「もうそろそろかもしれない。早く帰ってきてあげて」と言われてた。
1年経って帰ったとき、犬は衰弱してた。
言われてた通り、いつものお帰りの歓迎の挨拶はないし、何ならこっちが見えてないくらいの感じで。
寝たままの犬を撫でたら、あんだけデブ犬と言われてたのに、ガリガリになって骨が飛び出てた。
「耳がタン塩みたいやんw」
なんて冗談言って何でもないフリしたけど1年でこんなに衰弱するなんて正直悲しかった。
最後まで見届けてあげたいと思った。
極力ひとりで留守番はさせなかった。
夜のトイレとかにも対応出来るようにリビングに布団敷いて犬と一緒に寝た。
ひたすらに犬に尽くした。
ある日、寝てばっかりの犬を起こして
そしたら案外楽しそうにしてて久々にしっぽが立ってた。親に聞いたら2カ月ぶりの散歩だったらしい。
次の日、犬がソワソワしていた。
久々の散歩が楽しかったみたいでまた行こうと催促された。散歩に行くと「どうだ!僕はまだ歩けるんだぞ」と言わんばかりに毎日の散歩ルートをズンズン先に歩いて案内された。
犬用おっとっとをバクバク食べると、食欲が刺激されたのか普段食べなかった腎臓に良いエサやら缶詰もバクバク食べるようになった。
すると、散歩に行くほど足を使うからか、あんだけ弱かった足腰がちょっと強くなって、一人で立ってスタスタ歩けるようになった。
ご飯もバクバク食べるので体重が1キロほど増えてガリガリがマシになった。耳の毛も伸びてきて、タン塩に見えないようにトリミングのときも耳毛は残してもらった。
犬は私に元気な姿を見せようと頑張ってくれてた。
私もそれに答えようとずっとそばで世話をした。
でも"それ"はこの前突然起こった。
寝ている犬がいきなり激しく痙攣し始めた。首が90度くらい上に向いて、足をバタバタもがいてる。目は白目を向いていた。
私は犬の名前を叫びながら犬を抱き締めて、大丈夫、大丈夫、ここにいるよー、大丈夫よー、と唱え続けた。自分に言い聞かせるように。
家族が集まって犬を囲んだ。白目を向いたままよだれを垂らしてひたすらに足をバタつかせてる。それを落ち着かせようと抱っこしながら抱き締めた。大丈夫だと言い聞かせた。
しかし父が「もしかして、もしかして………」といらん事を言ったせいで、ずっと耐えていた涙がこぼれて、
いや、死なないで、お願い、死なないでと泣きながら犬を抱き締めた。
痙攣が収まって静かになった。まだ生きている。
生きてはいるが様子がおかしい。ウロウロと歩いては壁に頭をゴツンとぶつけている。完全に前が見えてなかった。頭をぶつけるのを阻止するがひたすらに歩きたがる。
痙攣からくるパニックなのか興奮なのか、それが3時間くらい続き、犬は疲れ果てて寝た。次の日のお昼くらいまで爆睡してた。
「老犬だから色んなことが起こる。痙攣も原因は分からない。」みたいなことを言われた。
犬は16歳だった。人間年齢だと80歳を越えている。
2回目の痙攣は私が一人のときに起こった。
また首を90度くらいに曲げて白目を向いて足をバタつかせている。今回は息が出来ないのかしんどそうにハフハフ言いながらよだれを垂れ流していた。
大丈夫よ、と言いながら抱き締めていると、排泄物が垂れ流しで出ていた。とりあえずトレーナーで受け止めた。
犬は痙攣中、意識がないらしい。
なので痙攣が終わると脳がパニックになってウロウロと歩き回ったり、普段と違う行動を取るとか。
その日も3時間くらいウロウロしたあと、疲れ果てたのか寝てしまった。
今でも健気にご飯はバクバク食べているが、いつなんどき痙攣が起こるか分からず、一人にさせられない。
足腰はさらに弱くなってしまって一人で立てなくなったため、座り込んだら立たせてあげる。逆に一人で上手く座れないので座らせてあげる。水を飲むのもご飯を食べるのもうまくできないので食べさせてあげる。トイレするときは支えてあげる。こんな感じで介助が必要になった。
毎日の薬は増えて薬代だけで月に3万以上かかっている。定期的に行う血液検査で2万、その他もろもろでいくらかかってるのか分からない。
正直、幼いときより今が一番手がかかるし、お金もかかるし、トイレを失敗されたりするとノイローゼになったりする。
でも、どこかから帰ってくる度に熱烈な歓迎をしてくれる犬、寝るときは絶対腕枕で寝る犬、いびきをかく犬、水を飲むから手伝えとアピールしてくる犬、おやつくれとせがむ犬、全てが愛おしい。愛おしくてたまらない。
このままずっと一緒に居れたらいいのに。
別れを想像すると辛すぎて、ふと犬なんか飼わなければよかったと思う。
出会わなければこんな感情になることもなかったと、横でプープー寝息を鳴らしながら幸せそうに犬は寝てるのに、すでにペットロス気味な飼い主がここにいる。