はてなキーワード: 伝統とは
魔法少女(少年)の定義をある時急に外的要因で不思議な力(魔法)に目覚めるものだとすると、確かにそういう男向けの作品て無さそうなイメージがある。
ぱっと思いつくのが仮面ライダー。こっちも(大抵)ある時急に仮面ライダーとしてやっていくことになる点は共通してるけど、なんか違うよね。作品ごとに差異はあるけど、プリキュアとかセーラームーンとか仮面ライダーを比べると女性と男性が求めてるものが違って見えてきてすごく面白い。まあ深夜アニメの魔法少女なんかはそんな垣根も無くなってきているけど、これは玩具を商品としてる作品と違って、単純な話のエンタメ性が求められるからではないかなと思う。子供向けの作品って玩具を売る分、考えてみれば当たり前なんだけど如実に女児男児向けの違いが現れてると思う。
例えば、伝統として魔法少女って変身して正体を隠しながら戦うことが多い。特にクラスの好きな子には絶対バレないように振る舞う。にわかで大変申し訳ないんだけど、仮面ライダーとかはヒロインが正体知ってて協力してるイメージがある。
あと、仮面ライダーに対する男児の気持ちは憧れで、魔法少女に対する女児の気持ちは変身願望の表れなのかなと思う。私は魔法少女系のおもちゃ買ってもらったことないけど、その遊び方の違いとかから求めているものが見えてきたら面白そう。
ここまで書いて眠くて力つきた。
こっから二つを比較しながら、二つのごっこ遊びにおける共通点を挙げてやっぱり根底にあるものは一緒かもしれない、もしくはやっぱり全然違ってた。っていうふうにまとめる。そこから女児男児それぞれが求めるものの違いを言って、それが幼少教育とか子育てに利用できる可能性を示唆して締める。
そもそも皇室は大陸から渡来した農耕・騎馬民族の子孫で、日本全土が侵略で得た征服地。
被征服民は、やがて皇室に連なる『天孫民族』と同化し農耕民族となり、同化を拒否した一部被征服民が被差別部落民となった。
中世以降も南北に着々と侵略を進めていき、明治になってアイヌや琉球王国を併呑し、内地における侵略を完了させた。
このように、日本国の歴史はまさに侵略と搾取の歴史に他ならない。
このような侵略の伝統があるからこそ、日本によるアジア・世界侵略が起こったのであり、日本の民衆も所詮は「犯罪国家・日本」の構成員にすぎず、アイヌや琉球民族の犠牲の上に生活が成り立っている。
だからまずこの邪悪な日本を民族意識・国民意識を捨て去り反日闘争を闘った同志たちが滅ぼし、反日闘争に協力しない全ての日本人を殺すことによって悪の歴史を捨て去るべきだ。そう思わないかい?
上の方は子供が多すぎると財産を細かく分けなければならず先細るから子の数を抑制する
前回(https://anond.hatelabo.jp/20190122051523)の続きです。
さまざまな理由から、化粧が出来ない、してくれる協力者もいないという人達に私は会ってきました。
病気や怪我を治療中の人、あるいは治らない障害を抱えている人が居ました。症状が出ないように薬を飲んでいて、副作用がひどいと教えてくれた人も居ます。
発達障害からの注意欠陥、嗅覚・触覚過敏、どれほど頑張っても自分では時間管理ができない人、神経麻痺で手が震えてしまう人、不安障害や、醜形恐怖のために鏡で自分の顔が見られない人も居ました。先天性もあれば事故による後天性もあります。
一見しただけではわからない、介助者もいない軽度の人ほど、偏見に晒されてつらい感情を秘めていました。「就活の時期はとても苦しかった」と胸の内を話してくれた人もいました。
それらは対話しなければわかりません。
生きるだけで精一杯の彼女達を外見で判断することは、とても残酷なことだと思いました。
初対面の人へ否応なしに恐怖を抱く人もいます。彼女達はあまりにも傷ついてるのです。だけど彼女達も同じものが好きな人なら、親身になって耳を傾けてくれるなら、素直に明るく話せる『普通の』人達でした。
彼女あるいは彼らが、趣味を楽しむことを、ドレスコードもないイベントへ素顔と普段着で行くことを、そのために外出することを、誰が止めて良いでしょうか。
作中では、腐女子の一人のバイセクシャル発言を、言い訳と切って捨てるページもありました。
腐女子仲間の交流という非日常でならカミングアウト出来る人達もいるのです。クエスチョニング(自分の性的嗜好がわからない人)も居ます。
女性の体で生まれた性自認が男性のトランスジェンダーであれば、彼もまた女性らしい化粧をひどく嫌がるでしょう。
男性の体で性自認が女性の人は、きれいな化粧をしたい彼女自身の願望を世間から嘲笑われて、ひどく悔しがることでしょう。
私自身が、長い間クエスチョニングの状態で、もしかしたら今もそうかもしれません。「雌雄何方でもない究極生命になりたい」などと本気で考えた頃もあります。そうしたキャラクターに憧れたことも。それを中二病や黒歴史と切って捨てる気はありません。
その頃に考えた数々の想像は、今の作品作りに役立っています。何がどう人生に関係するのかはわからないですし、簡単に嘲笑の材料にしてはいけません。
そして、結婚して子供をもつ腐女子の人達はカーストの上位に位置すると作品内ではほのめかされていました。
独身の私には、既婚者のまま交友関係を続けてくれる腐女子が幾人かいますが、本人達の多くは決してそんなことを思っていません。
切り詰められた趣味の時間を一生懸命やりくりしています。子供たちが幼く、預けられる人が居なければ、イベントに出ることもできません。離婚を経験している人も居ます。子供を産めない体の人も居ます。彼女達の苦悩を「自虐に見せかけた自慢」などと断定することはできません。
外見に気を使えない分、時間が限られている分、彼女達は会場で迷惑をかけないよう礼儀正しくいようと努力しています。
作家さんに送る差し入れを考えたり、相手が不快にならないような感想の手紙を丁寧に考えてくれます。他人の悪意に敏感で、日々変化する対人マナーを注意深く観察しています。
賢明な彼あるいは彼女達は、自分がなにか悪いことをしたら、自分を容易く卑下すれば、自分と同じ属性の誰かが心無い偏見を向けられると知っているのです。
自分を奮い立たせなければ、読みたい本を手に入れられないのです。彼女達にとってもイベント会場はまさしく「戦場」なのです。
主人公自身が我慢して「普通」を演じてるからといって、どうして不特定多数にもそれを押し付けて、勝手に審査してしまうのでしょうか。
腐女子として知り合ったのに、そこでしかできない話があるのに、なぜ、妹や会社の同僚にもできる彼氏の「恋バナ」を主人公はその中でしたいのでしょうか?
誰しもに欠落があります。いくら擬態を頑張っても、つつけば粗が見えることを知っています。
見下す主人公よりも、その嘲笑われた「誰か」に共感して悲しみ、怒るのです。これは腐女子も一般人も変わりありません。
ここまでくれば主人公の『欠落』は明確に見えてきます。恋愛パートナーの有無や、化粧や顔の出来などとは関係のないものです。
物語としては、この欠落を彼女が尊敬する『神』の作品で、あるいは腐女子の友人達との交流で埋める方向に少しでも向くと思わせられれば、得る物はあったであろうに、エッセイ漫画として面白くなるであろうに、無視したまま化粧と服装だけに固執し、自分以外の他人を嘲笑し苛つきだけ表現して、何処かで見たような「あるある」ネタとしても使い古された、見慣れたエピソードで彩られた孤独な「自分語り」に、なぜ終始してしまうのでしょう?
主人公が妹との会話で傷つくシーンがありますが、それもどこか核心からずれています。
描こうと思えばいくらでも描けて、周り込めばそれだけ「面白い」題材になるはずのこの欠落を、なぜ無視して、このように雑に扱ってしまったのでしょう。
であれば、必要なのは時間です。自分と他人を見つめなければ、表面的な出来事と自分の内面を掘るだけでページが終わってしまいます。
であれば、そのような『制限』を外すべきだったのです。悪意を放り投げてしまうより、収拾可能になるまで、試し読みの範囲に伏線を詰めて描くべきだったのです。
そのほうがずっと「面白く」「続きが気になって」読んでもらえるはずです。
その柔軟さと判断力が編集者に無かったとなれば、漫画を面白くできなかったのは作者だけの責任には留まりません。
私はそう考えます。
ツイッターの機能として、登録者の興味のある事柄から、自発的に検索しなくても、プロモーションやフォロワーのいいねがTLに流れることがあります。
日夜ツイッターではプロ・アマチュアを問わず真の意味で赤裸々な「漫画」が、作り手の欲望と善意によって公開されております。
読み手は気軽にそれらを楽しむことができます。なんの警戒心もなく、それを読めるのです。
つまりツイッターを利用している未成年の、思春期の「腐女子」あるいは「腐男子」達も、この「腐女子カースト」という作品を目にした可能性が高いと言うことです。
腐女子は皆が皆、18禁作品をたしなむ訳ではありません。未成年で、好奇心と不安を抱えたまま腐女子の世界に飛び込んだばかりの人達、現実世界では未来ある学生達がそこにいるのです。
悪意に慣れていない少年少女も当然います。もっと幼くて、ただ漫画というだけで熱心に読む子も居ます。今は内容がわからなくても必ず影響は残ります。『顔芸』と呼ばれる大ゴマをつかって笑わせることは、どんな幼い子供にも通用します。
子供達に対し、自由な想像の世界に生きる存在であったはずの腐女子達の中に「カースト」が存在するなどと言い含め、ある嗜好を持つだけで現実では最下層の証明になるのだという差別意識を植え付けて、その子たちの無意識に色眼鏡を与え、自尊心を摘み取ってしまっていいのでしょうか。
自分もどうしようもない存在だから笑って許して欲しい、などと言う虫のいいお願いを「いい大人」が子供へ果たしてできるでしょうか?
それとも子供達も自分と同じ目に遭いつらい人生を歩めと言うのでしょうか?
あの時から今もなお続く炎上は、腐女子ひいてはオタク達の怒りでありながら、撒かれた毒を浄化しようという一心不乱の活動でもあるのです。
それが見えない露悪的な人達はこの騒動を冷笑しています。私はそれを、昔の自分のように恥じています。
これについては個人の快不快に留まる問題ではありません。会社ではなく、一個人があのような悪意を撒いたとしても、彼らは同じように行動するでしょう。
わずかな露悪的な読者層を取り入れるために社会倫理を無視して行動したのであれば、そうした会社に集まるのは、いっそう露悪的で短命な漫画ばかりとなってしまうでしょう。
このような感想になってしまいましたが、改めて、私は自由な創造性というものを尊重したい側です。
同時に面白くないと思ったものを面白くない、酷いと思えるものを酷い、ノットフォーミー(自分向けではない)な作品はそうだと言える自由もまた有ってほしいと思います。
商業作品においてもアマチュアであってもそれはかわりません。ただひとつ願うのは、描き手と読み手、企業と購入者、互いが互いに優しい形でそれが実現することです。
今回の騒動を見ていた時に同レーベルの「こじらせブスの処方箋~見た目を気にして病気になりました~」という醜形恐怖を描くエッセイ作品と作者が気になり、こちらは購入しました。
内容は「腐女子カースト」よりも読めました。やりようによっては幾らでも面白くなる題材だと思いました。たった一冊の本では描き切れないはずなのに、始まりから消化不良のまま、読み終わってしまいました。なぜ充分に生かせず、彼女は次々と過激なタイトルの新連載に移ってしまったのでしょうか。彼女が無料公開している作品を見ていましたが、やはりどこか無理におどけている様な、抑圧されているような、物足りなさを感じてしまいました。
他の主力作品もヘテロの恋愛や性事情を題材にしたものや実録系が多いようです。WEB雑誌系のスポンサーが出会い系や美容系で占められていることと関係しているのでしょうか。それらへ興味が向くように迎合した作品作りをすることも、おそらく企業戦略としては正しいのでしょう。
自尊心の低い女性や、夢を求めて来た外国人や、年齢や身体のどうしようもない特徴で偏見に晒された、「世間とちょっとずれた」弱い立場の人々を集めて「見下す対象」を作り抑圧することが、今のレーベルでの狙いなのでしょうか?
そうではないとする証拠が、今回の騒動の中にあったでしょうか?
今連載されている作品達に、作家達に、充分に示せているでしょうか。
善悪を私が断じることはできません。ユーザーが文句をいう事は出来ますが、断罪するわけではありません。
誰かの表現を止めることはできません。
一度出した表現は別の表現で塗り替えることしかできないのです。
多くの人にとって良くなければ、出資するほどではないと思われれば、自然と読者は離れていき、伝統はそこで終わるだけです。
今回の感想を書く上で、障害者や、性的マイノリティについて書かなければならなくなりました。
それらを教えてくれた人々は、私の大事な読者達です。
私はかつて、仕事をやめたのと同時に、しばらく普通でいることを休もうと思いたちました。世間や周りに合わせようと無理をするのをやめて、家に籠りました。趣味で漫画を描くうちに、私は作品を通じてツイッターで人と繋がりました。
読者のフォロワーの一人が、家庭の事で「爆発」し鍵垢で叫んでいた所に遭遇しました。私はその言葉を丁寧に読みました。
私が知り得る知識を総動員して、望んだ人生が歩めない悲しみを、それを他人から非難される恐怖と怒りを一生懸命想像しました。私は彼女の問題提起を注意深く見定めようとしました。
リプライではなく空リプで、一緒になって怒り、一緒に笑い飛ばしました。それは一時のSNS上のやりとりでしかないし、実際に顔を合わせる間柄ではないですが、今でも彼女との交友は続いています。
私と彼女は、対等な互いの読者として、信頼する友人として存在しているのです。
彼女の理解を諦めて無視したなら、きっとこうはなりませんでした。
信頼関係の構築に大事なのは性格ではありません。ただ己を一度引っ込めて、わからないなら真摯に聴き、調べ、深く考えた上で言葉を使うことが大事だと私は気付きました。彼女が暴れすぎて収拾がつかなくなるほど傷つかないように、考えて行動することでした。
それは自分の作品を作る時と同じでした。二次創作で『推し』を見つめて、彼あるいは彼女がどう行動するか考える時と同じでした。
彼女達の苦悩の間に、それでも己自身を肯定する言葉があると、パートナーや子供を心から愛している気配を見つけられると、私は安心できました。
他人の心の傷を全て想像出来るわけではありません。自分の心の傷に触れられることがあれば、動揺してひどい言葉を投げかけることもありました。ブロックされることもありました。しかしそれは、多くの人がそうなのです。ぶつかり合うことも距離を置くことも恐れてはいけません。本当に知りたいと思うなら、何度でも内省し正しい目で観察すべきなのです。
彼や彼女達が教えてくれた人生のエピソードを、私はそのまま作品に描く気にはなれません。自分自身の人生すらも。
作品には力があります。祈りにも呪いにもなり得ます。他人も自分も幸せにさせられるし、同時に破滅させられます。それほど重く、他人が口出ししてはいけない価値観が誰しもにあるのです。
一度発表したものは簡単に無かったことになりません。丁寧に積み重ねた善意よりも、悪意の一撃の方が取り返しがつかないこともあるのです。
それから私は、世間からちょっとずれた自分の感性を、注意深く噛み砕いて、善か悪かも断定しないように、フィクションに載せて描き続けました。自分が好きな作品がどうして好きなのか、どう世間と噛み合わないのか、深く深く悩み、考えました。それを読んだ人達の中に、共感して会いに来てくれた人が何人も居ました。ゆっくり時間をかけてですが、心からの対話をすることが出来ました。
世間からちょっとずれた人々にも悲しみがあります。楽しみがあります。それを見下して、ただの自虐的な見世物にして終わってはいけません。
漫画を描いている人々、漫画をマネジメントする人々、今まさに伸び悩んでいる方に、今一度向き合って頂きたいのです。
説教ではありません。私自身がまさに悩んでいたから、これからも悩み続けるだろうからこそ、一緒に考えてほしいという願いです。
ただ楽しいから、ただ涙が止まらないから書くというだけでも充分良いのです。書き上げてから、少しだけ手を止めて、考えてほしいのです。一時の利益のために道を見失わないために。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
ハンドルネームもペンネームも、いくらでも変えられる世界です。それは責任を放棄することと一緒ではありません。
今回は匿名での投稿ですが、私は私の思ったことをできるかぎり真摯に見つめ、影響を考え、投稿に至りました。それが少しでも伝われば幸いです。
その時には、互いに今より優しくなれていると良いなあと、願っております。
終
追記:
これを書いている間に、『COMIC維新りあら』公式ツイッターからお詫び文が出ました。
配信停止までやる必要はなかったかと思いましたが、仕方のない判断かもしれません。
また一冊の本が燃やされたと感じました。
BLではないですが、好きな作品のファンアート(二次創作)も描きます。
友人には腐女子の方も、そうでない女オタクの方も居ます。腐男子も男オタクも居ます。どちらの性別にも属さない方も。即売会にもほそぼそとスペース参加しております。
今回において「腐女子カースト~底辺同士のマウント合戦~(COMIC維新りあら)」という漫画作品に脅迫的な批判をするつもりはありません。法律や条例に抵触するかどうかを語りはしません。ただ少し倫理的に問うことは一つ二つあります。
また、各配信サイトで無料試し読みで設定された話数が、出版責任者が「つかみ」と判断した範囲とみなし、その中で感じた所感だけにとどめることを事前に断っておきます。
匿名の場所にこうして文書を上げるのも、私自身の「顔」や「作品」や交友関係などのプライベートを見たがる人達に対する、防衛だと了承していただければ幸いです。いかなる名品名作であっても、つつけば必ず「粗」が見つかり賛否がわかれる物だと私は考えております。私は自分の作品を愛していますが、悪意をいちいち気にしてしまう繊細さも自覚しておりますし、大事な友人達に迷惑はかけられません。
なのでこの文書は、ある漫画書きの、ごく個人的な感想として見て頂ければと思います。
誰にでもわかるようにと書いた結果長くなってしまいましたが、よろしければお付き合いください。
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同時に読者は面白くないと思ったものを面白くない、酷いと思えるものを酷い、ノットフォーミー(自分向けではない)な作品はそうだと言える自由も有ってほしいと思います。彼らの感想もまた創造性を持つ表現行為だからです。
そして作品が流行することによって起こる「意見の封殺」と文化の断絶は、人々の自由に害を与え、文化を停滞させるものであるため、避けるべきだと思っています。
この文章は、それが起こってほしくないがために出す私の意見なのです。
以下の諸々の前提について、あなたが再確認する必要がないと思ったなら3.まで飛ばしてください。
今やWEBでの作品公開は、電子化された過去の名作や現代の人気作と同じ土俵で戦うことになるため、無料公開しても「時間と電池がもったいない」と思われては不利です。戦略的に失敗に陥りやすいです。時事ネタについても個人の公開速度には叶いません。
ただただ露悪的な本はただただ露悪的で、熱心ではない、無駄なお金を出したくないライト層だけに消費されて消えていきます。私自身がそれを好んで読み、染まっていた時期が長らくあったために、それらの寿命が如何に短いのかをよく知っております。
外側に居ても内側に居ても不明瞭です。
その文化の多様さや精神性、変容の歴史を、長く迫害を受け分化してきた巨大宗教のようなものだと今の私は捉えております。
そうした点と、物語を見る目が肥えていることも含めて、漫画で描くには「気を付けるべき題材」であると考えています。
今回の作品「腐女子カースト」にはエッセイというジャンルが振り当てられています。
もしも仮にあなたが「作品ジャンルが実録エッセイなら、ヤマ・オチ・意味のない物語でも成立するのだ」と考えているのであれば、それは読者への甘え、ひいては全てのエッセイ作家への侮辱となることでしょう。
そのように考えて行動した時のリスクを、自身のために想像しなくてはいけません。
エッセイとは自らを省みる内観であり、自らの魅力でもって読者を個人的生活に惹き込むものです。『私小説』『ドキュメンタリー』『ノンフィクション』に連なる伝統的なジャンルです。
そこに登場人物を増やすのであれば、名前を出さない通りすがりの人であっても、存在しない架空人物であっても、最大限に配慮しなければなりません。
エッセイ漫画は「画力が伴わずとも描ける」としばしば思われていますが、それ以外の部分での構成力と魅力を問われるものなのです。
エッセイだからと言って、醜い本音を受け入れてもらえると思ってはいけません。空費させてはいけません。
エッセイだからこそ『第一話』の初対面で『印象良く』見えるように、深く考えなければ、思った通りに読んでもらえないのです。
それは化粧にも似ています。化粧に作法手順があるように、漫画の第一話にも作法があるのです。
現実とずれた部分、主人公の欠落した部分、作者個人の主観があるなら、それもまた、納得を得て面白くするために、最初のフックの時点で、注意深く描写するべきなのです。
共感できる相手だけを狙って描くのも間違いではありませんが、共感できない者でも楽しめる工夫、そして+αで得る物が無ければ、買って読むまでもない孤独な見世物的な内容になってしまいます。結果的に長続きはしません。
誰もが作品をアップロードできる現代では、心の底からの叫びを見つめ続けた尖った『自主制作作品』が作者本人の手によってすぐに届けられるのです。それと競争することを考えても、エッセイはますます難しいジャンルになっています。
足すべき部分は足し、引くべき部分は引かなければなりません。本当に面白い漫画はたったの1コマでも、読者を満足させるのです。
技巧や経験とは必ずしも正比例しません。作家が描くべき時に描いた時に輝くのです。
面白くないと感じながら、面白くないと言われながら描くのはとてもつらいことです。それは作家がするべき我慢ではありません。感覚が麻痺してしまいます。
最初から捨てるつもりの名義だったとしても、それを描いたという傷は全人類が記憶喪失でもしないかぎり一生描いた本人に残ります。
本当に面白い作品で、届くべき人の所に届けば、口コミで売れていくという強みが電子書籍にはあります。
そのためには、読者の目を甘く見てはいけませんし、読者の声を額面通りに受け取らないように注意すべきです。
作品と作家が自由であるためには、正しい戦略を立てなければ、生き残ることは難しいのです。
作品内の第一話、即売会イベントへ向かう電車内で、ノーメイクの女性二人連れに主人公が心の中でツッコむシーンがあります。
この時の主人公の思慮の浅さは、エッセイ漫画としても致命的ではないでしょうか。
表情や服装から即売会という目的地を同じにしていると確信しているからこそ、ノーメイクの女性を「同志だ」と確信して、その気を抜いた姿と能天気な様子に、イベントへ向けて気合いを入れて来た主人公は憤慨しているのかもしれません。
しかし、続くコマはただただ妄想の中で、相手が言いそうな言葉を言い訳だと否定し、持論を展開するだけで、相手のことを考えていません。
取材力・想像力ともに範囲が充分でありません。狭いのです。自分の中で完結してしまっています。
たとえば化粧を禁止されている、お小遣いもギリギリの学生かも知れない。
遠征で電車や高速バスが遅延して時間がなかったのかもしれない。
身バレの可能性があり、恥を忍んで素顔に近い顔で来たのかもしれない。
経済的に苦しくて、自分に合う化粧品やファッションに出会えずにいるかもしれない。
家庭事情も経済事情もさまざまです。また、障害を持つ場合もあります。
化粧をしない理由はそれぞれです。
それぞれが努力によって対策可能だったとしても、皆がそれを完璧にこなせる訳ではありません。
私が考え過ぎで、素顔で出歩くことに特に理由がない人もいるでしょう。普段から化粧をする必要がない仕事に就いているのかもしれない。それを「ろくでもない仕事」だと考えることは職業差別です。
もしかしたら彼女達は「ノーメイクで行く」という行動と、互いの美醜を互いにイジらないという暗黙の了解によって、目に見えない友情を確かめあっているのかもしれません。私はそれを尊いと感じます。決して馬鹿にはできません。その感情に、外見も性別も関係ありません。
素顔で出歩く女性を、腐女子というだけで見下してしまうのであれば、もしも、彼女達が会場前の駅に降りず、手前で降りたなら、あるいは過ぎ去ったならどう感じたでしょうか?
腐女子について話すためにここまで考えなければならない理由がわかるでしょうか?
「格好がバラバラな集団がいたら高確率で腐女子」という有名なネット上の言説があります。これはオタバレの指摘でありながら、腐女子文化を捉えることができる好ましい例なのです。
化粧やお洒落そのものが大好きで趣味とする女性は居ます。それと同じくらい、化粧とお洒落をしない、できない女性は決して珍しくありません。この二者は普段の生活では交わらない存在です。それでありながら、ただ「腐女子」「オタク」「アマチュア作家」であるというだけで、同じものが好きというだけで、SNSや作品を通して同志となり話し合えるのです。
本当に「腐女子カースト」は存在するのでしょうか。色眼鏡をずらして、少し観察すればわかることです。実際に腐女子の集まりを見て、外見の美しい人にそうでない人が付き従ってるように見えましたか?
なぜ、かような形で消化してしまったのでしょうか? なんのフォローもなく、嘲笑して終わってしまったのでしょうか?
私は想像力が狭いまま物を作り続ける人間に対して「そのままでは続けられないよ」と教える以上のことはできません。
想像力を鍛えるには『違う価値観』と対話しインプットしなくてはなりません。他人との会話でもいいです。怖いなら文学でも好きな漫画でも、アニメ、ドラマ、映画、音楽。なんでもいいです。時間がある時に良質だと思う作品に、幾度も視点を変えて触れてみてください。でなければ、他人を知ることが出来ず、それゆえに自分を正しく見つめることも出来ず、自分だけの世界に閉じこもってしまいます。
インプットをしないまま作品を描けば、描くほどに、ただ自らが傷つき続けることになるからです。
また作者は最低限の身嗜みを礼儀と捉えているようですが、その最低限ラインも上記の理由で人それぞれだと想像できなければなりません。好みの服装もそれぞれ、地域文化、仕事もそれぞれです。
主人公が綺麗でかわいいと感じた『神』の多くも、自分や買いに来た人の姿を気にしていません。コスプレイヤーだって、キャラに入っていない時の自分の姿は出来れば注目されたくないのです。懸命に作って共感を求めた作品ではなく、日常の延長で作った「最低限の礼儀」の姿を褒められても、彼女達は嬉しくありません。そこがそういう場だからです。
腐女子やオタクが「恥ずかしい趣味だ」という感覚も最近では少なくなってきています。
オタク向けのイベントに行くなら、張り切ってグッズを身に纏って「オタクの姿」をすべきだと判断する人もきっといるでしょう。それもやはりその人なりの身嗜みなのです。
またイベント外なら、服装の奇抜さだけでオタクかどうかを判断する材料にはなりません。ゴスや原宿系等、日ごろから周りに迎合しない、自分自身を出したお洒落を好む人々が存在します。似合うか似合わないか他人の判断基準で彼らは服を選びません。オタク文化と重なる部分も多いですが、その文化をオタクと一括りにするのは、私は違うと思っています。
そもそも即売会は『交流』のためのものです。街の本屋さんとは違います。売り手と買い手の信頼で構成された、本来は技術の見本市なのです。この辺りは運営委員会のガイドラインなどにも書いてある範囲でしょう。
会場において相手の姿を気にする時間はありません。イベント会場はまさしく「戦場」なのです。時には顔すらも覚えておりません(これまで自分のスペースに来てくれてる方、すみません)人気壁サークルでなくとも、友人に頼んで売り子を立てる作家さんも居られます。
時間が限られているのに、車の試乗会で車を見に来たのに、同時にディーラーの外見をいちいち品定めしてチェックしますか?
自社のために技術を持つ小さな会社と契約したあとで、社長のブログに自慢が書いてあっただけで「そういえばあの社長不細工だったな、嫁さんも不細工だろう」などと、いちいち思うのですか?
それらを書いた冊子を、彼らの職種を冠したタイトルで売ったらどうなるでしょうか。
まさにそれこそ、礼儀を欠いた行動ではないでしょうか。
表現の自由の下であっても、不快になった当事者には怒る権利があります。
ここまでの説明によって第一話のあの一連の流れが如何に的の外れた低俗な「笑い」であるか、理解できたでしょうか。
ありとあらゆる多様な価値基準を無視して、己が良しとするものだけに迎合する。そこを頂点に据えて妄想の中でカーストを構成する。
腐女子を冠して発表するには、あまりにも浅く、無防備なのです。
そして、何分の一か、ほんの一部だけ、この作品の主人公のように他人を品定めしてしまう人間も、腐女子は間口が広いがゆえに存在しているのです。
主人公と同じ悪意を秘めた女性達は、この作品を読めば共感するでしょう。
ひっそりと楽しんでいた人もいたのかもしれません。
しかし、この「腐女子カースト~底辺同士のマウント合戦~」はつい最近、無料公開分がツイッターに投稿されました。現在はアカウントごと消滅しております。
広範囲の誰もが評論できる場所に出してしまえば、本を共有してしまえば、彼女達の罪悪感を無理矢理抉り出すだけの結果になってしまいます。
安易な形で発表し、コントロール不可能な批判を浴びたことによって、彼女達は愛想笑いを続けて、怒れる友人と一緒になって作品を叩かなければいけません。作中で一般人に擬態する主人公のように、怒れる腐女子としてその社会の中で信頼を維持しなければなりません。腐女子という世界の中にカーストが存在しなくても、社会は存在しています。愚痴垢や捨て垢で陰口を叩いて共感しあうのとは全く違います。
そうして作品を叩くうちに作者を、版元を本当に憎悪していくか、あるいは交友関係を切って何もかも忘れてしまうというような極端な行動しか取れなくなります。
作品は、発表の仕方まで気を使わなくてはいけません。これもまた貴重な顧客を失う『失敗』なのです。
この主人公のように、見た印象だけで人を判断して遠ざけて来た記憶が、私にもあります。作家デビューした相手に嫉妬したこともありました。自分と交わらない人間の人生を、いかに踏みにじってきたのか。それを考えるたびに私は後悔と反省を繰り返しています。
「トヨタグループの御曹司にしてレーシングドライバーでもある」という自己イメージに陶酔し切っていて、(一時代前ならそれでも良かったのだが、)クルマを取り巻く状況が静かに変わりつつある今、具体的に言うと自動運転に切り替わろうとしている今、モリゾーがトヨタ最大の癌となるだろう。
自動運転の実用化。これは本当に世界を一変させるパラダイムシフトだ。クルマは運転するものではなくなり、所有するものでなくなり、ただ利用するものになる。
google様が自動運転車のハードウェアとして車を作ってくれとトヨタに打診した時、モリゾーの奴は「人と車との繋がりがなんちゃら」「それがTOYOTAの企業理念だのなんちゃら」とわけの分からない事を言って断った。俺はそのニュースを見た時、これは世紀の大失敗ではないかと思った。googleの自動運転車が今後世界を席巻することはほぼ間違いなくて、そのハードウェアとしての車部分を製造するというのは、IBMがPC/ATを製造する時にそのOSを作ったMicrosoftのような立場じゃないか。巨人の肩に乗るようなものだ。断る理由がない。
しかしそれをTOYOTAは断った。わけの分からない理由を並べ立てて。TOYOTAは仮にも日本最大の企業であり、考えも無しに断るわけがないと思っていた。つまりあれは日本的な修辞であり、本当の理由は別のところにあるのではないか(つまりTOYOTAも独自に自動運転車の計画を持っているとか、だ)なんて考えた。でも新型スープラの発表でメディアに露出したモリゾーを見て、これはひょっとするとひょっとするぞ…と思ってしまった。もしかして、本当にただのバカなのでは、と。
正直なところ、フェラーリやポルシェのような伝統ある会社が言うならともかく、TOYOTAのような大衆車を安く大量生産させてきたような会社のトップが、“人馬一体”だの、“運転する喜び”だのほざいてるのは悪い冗談でしかないと思う。
言うなれば三色ふりかけにごま塩が含まれるのと同じくらい謎だ。
もちろん、あんこは歴史ある伝統的甘味で、根強いファンも多い。
でも、さすがにチョコやカスタードと並べるとハズレ感が半端ない。
あるいは、チョコとカスタードがお子様でも大丈夫的な安心感があるのに対し、あんこだけ大人の味みたいな立ち位置になっている。
それとも、兄弟姉妹の子供2人がチョコとカスタードを食べて、お母さんがあんこ食べろってこと?
そうだとしても、食べるまで中身がわからないガチャ仕様なんだよなあ…だから多分違う。
てか、子供心にあんこ掴まされたときのガッカリ感は、食い物の恨みに含んでいいと思う。
これ、汁粉とかもそうなんだけど、粉甘いものなんてお子様の舌に合わないって何度言えば(ry
ちなみに粉甘いで済むのはこしあんだけであり、これがつぶあんになると更に食感が大人向けになってしまう。
お前らだって、今でこそ美味しい美味しい言って食べているたい焼きもどら焼きも、子供の頃はそんな好きじゃなかったろ?
というわけで、文句を言いっぱなしで終わるのも微妙なんで、対案があるとすればいちごジャム。
でなければ、チョコとカスタードをずんだかウグイスか栗あんのどれかにして、完全に大人仕様で行け。
これまた潔くて次点としておく。
山路という海苔屋のおっさんの仕掛けらしい。詳しくはここにある。
https://core.ac.uk/download/pdf/56643945.pdf
それでは実際の資料からはどうか。恵方巻は、その由来を鋭明するチラシや新聞記事では「江戸時代の末期から明治にかけて」の時期に誕生したと記述される場合が多い。これは、岩崎がまとめた由来からも分かるが、実際のところ、江戸~明治期にこの行事が存在したとする資料は今のところ見つかっていない。
これらの事実から推論を試みるならば、少なくとも大正期、戦前にはすでに存在し、大阪のごく限られた地域で行われていた風習であること、寿司屋がそれを利用して、古くからの伝統であるという触れ込みで販売促進活動を当時から行っていた、ということはいえるだろう。
その後、太平洋戦争の激化に伴い行われなくなったこの行事は、1949年、大阪府鮨商協同組合によって、「土用丑の日のウナギのかば焼」に対抗する販売促進手段として復活している。そして、戦後復興が進む1950年代に入ると、戦中の配給統制によって解散を余儀なくされていた海苔問屋の組合が統制の解除をもって再結成され、その販売促進の手段として、節分の巻きずし行事の宣伝に参加するようになる。宮下牽の『海苔の歴史』には、大阪海苔問屋協同組合が1951年の結成と同時に「巻きずしの丸かぶり」の宣伝を行い、大きな成果をおさめたという記述がある。この「大きな成果」がどれほどのものだったのかは分からないが、海苔業界復興の旗印として、巻きずしは喧伝されていたようだ。
その後海苔問屋協同親告は、すし組合とも連携してこの行事の普及に努める。昭和40年代前半には、協同で飛行機をチャーターしてビラを撒いたりもしたようだ。しかし、この試みは経費がかかりすぎたために1度で終わっている。
海苔組合の取り組みがより積極的になるのは、岩崎の聞き書きによれば1977年(昭和52)になってからだという。そもそも、1974年頃までは海苔の国内生産は需要に追いついておらず、韓国産で不足分を補う状況だった。それが、国内生産が増大によって韓国産への依存が減り、1977年にはついに国内産で需要が賄えるようになったのである。これから先、さらに生産が増加すれば今度は余剰分が発生する。そこで、これ以降海苔組合は毎年大量のビラを印刷して各地に配布し、さらなる普及へと乗り出すようになった。
そしてこの海苔組合の動きと前後して1976年(昭和51)に、「節分チャリティーセール」なるイベントが開始されている。このイベントのメインは、大阪ミナミの道頓堀で巻きずしの早食いを競うという「巻きずしの丸かぶり早食い競争」。一見馬鹿らしいこの競争が、この行事を関西における節分の定番行事へと押し上げるきっかけとなった。
仕掛けたのは「昭和会」という、大阪で商売をしている昭和生まれの海苔販売業者たちで組織された団体だ。その中心人物の一人であった宝海苔(本社・大阪市中央区)創業者の三男、山路昌彦氏によれば、海苔がたくさん取れるようになって何とか消費を増やそうと思って考え付いたアイデアなのだと言う。「食いだおれの街で早食い競争なんて、いかにも大阪らしくて絵になるし、黙々と巻きずしにかぶりつく姿がオモロイやんか」という彼らの発想は見事に当たり、マスコミを引き込んでの一大イベントヘと成長する。海苔組合によるビラでの周知と、マスコミに取り上げられた早食い競争。この相乗効果により、節分の巻きずしは関西の伝統文化として認知されるに到ったのである。
また、山路氏は取材に釆たマスコミに丸かぶりの由来をたずねられると、「ずっと昔からやっていたものだ」と答え続けたのだという。「それこそ風習なんてこうやってできていくもんやないの」と語る彼の見解からは、大阪商人が持ち得た巧みな伝統利用の視点を伺うことが出来る。
ということで、商売人の「オモロイやんか」が伝統ということではたしかに大阪の伝統なのだけれど、そこまで古風なものかというとそうでもなさそうだ。花街に由来することとかその後の伝統としての受け入れられ方とか、原論文はかなり面白いので、増田、ブクマカ諸氏にはぜひ読んでほしいと思う。
正月におせちを食べて節分に恵方巻きを食べてバレンタインにチョコを食べてひな祭りにちらし寿司を食べて土用の丑にうなぎ食べてこどもの日にちまきを食べて台風の日にコロッケ食べてハロウィンにかぼちゃ食べてクリスマスにチキンを食べて大晦日に年越しそばを食べて、それで誰が損するってんだよなあ。
まあ、うなぎの獲りすぎとか恵方巻の販売ノルマとかは改めるとしても、なんでも行事に乗っかって楽しめればいいんじゃんなあ。
何だって最初は誰かが考えたものだし、商売の上手い奴がそれを広めたんだろうし、それを斜に構えて「作られた伝統だから」とか言うのってほんと馬鹿馬鹿しいよなあ。
大阪生まれの大阪育ち、母親が商家の出だったので、季節もの縁起物とは縁の深い育ち方をした。大寒(追: 正しくは冬至でしたね、恥ずかしい)には柚湯、端午の節句にはしょうぶ湯に入るし、1/7には七草粥、そして節分には恵方巻(呼称については覚えていない。単に太巻と言っていた気もする)だ。物心付いた頃(7歳位、35年以上前)からずっとだ。
最近(とはいってもここ10年程か?)、商機として恵方巻の習慣が全国展開され、それに纏わる社会問題も露になってきた。ホッテントリ入りも果たした作りすぎでの大量廃棄や、コンビニチェーンでの押しつけ、従業員への販売ノルマの強制等だ。20年以上前だが、自分も北新地のコンビニでバイトしていた時に、本部からのノルマで頭を抱える仲の良い店長に協力する形で数本引き受けていた。
こういった問題に声を上げるのは真っ当至極だしどんどんやれば良いと思う。ただ恵方巻の風習それ自体をディスるような発言がはてブでも最近よく目につくようになってきて、子供の頃から慣れ親しんだ風習を悪し様に言われて正直気分が悪い。
恵方巻やその文化自体に罪はありません。馬鹿にするなら対象を間違えず、アホウイレブンとでも言っててください。
地方軽視発言でイラっとくる。クリスマスやハロウィンは東京発なんですか?
Toteknon これを期に、伝統でも何でもない謎風習を作って煽るのもう止めてほしい。「夏越ごはん」なんか「米穀安定供給確保支援機構」がぶち上げてるんだぞ。
(少なくとも数十年は続く)伝統で、謎でもなんでもないローカル風習です。自分が知らない文化を伝統でもなんでもない謎風習というのは止めてください。
tattyu 太巻き好きだから恵方巻き文化はマジで嫌い。恵方巻きが流行る様になって太巻きが普段見かけなくなってしまった。
(恵方巻というのは基本ただの太巻です。嫌うなら(不味い?)太巻を作ったところを嫌ってください。)追:これは酷い誤読でした。自分の周りではスーパーでもコンビにでも太巻は年中みかけるので勝手に頭の中でマズい太巻が売られて腹が立ったみたいに脳内変換されてました
クソでもエセでもないローカル風習です。ちなみに広めたのはセブンイレブンだそうです。
mokomokotezawari 関西でもほとんどみかけなかった風習。平成中期ぐらいですら梅田やナンバの持ち帰り寿司屋みてて恵方巻きなんて一切やってなかったぞ
北新地のコンビニでバイトしてた時は周りの寿司屋ではやってましたし、コンビニの太巻も(メイン客層は水商売の方ですが)そこそこ売れていました。
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節分に食べる太巻の意味でも使っていますが、節分に太巻きを恵方を向いてかぶりついてしゃべらないで食べる、という風習を"恵方巻"と便宜上呼んでいます。一言で済んで便利なので。
ロシア船「北方領土は全部俺らのだから。平和条約結んでやるから経済援助よこせよ阿部君。」
日本政府「はーい、わかったー」
日本船「どうしよう。首相様のメンツがなくなる。最近は北朝鮮がミサイルを撃ってくれなくなったし。何か日本が強いとアピールできることないかなあ。」
ネトウヨ機「おっ。韓国船はっけん!遠くから見てもシルエットで一発でキムチ海軍だとわかる俺らは精鋭。徴用工判決だの慰安婦だの調子に乗りやがって。低空飛行でビビらせてやるぜ。これが日本海軍伝統カミカゼアタックだ。さあ恐怖しろ!」
韓国船「あっちいけ意地悪ヒコーキめ!えい!(レーダービビビ)」
ネトウヨ機「うわー、なんてことするんだー」
日本政府「えー?なんの話かなー?レーダー当てちゃだめだよー、公表しちゃうからねー」
北朝鮮政府「映像公開されちゃったよ、ガッツリうつっちゃってるよ、韓国ちゃんダメだよーなにしてんのー」
韓国国民「また日本がなにか言ってるー、わるいの日本だよね?」