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今は旦那さんが料理することも多いのだろうが、仕事をしながら毎食しっかり作っている、という話をすると、驚かれることが多い。
と言うことは、こういう生活スタイルは、まだあまり一般的だとは言えないのだろう。
元はというと、(無自覚だったけれど)自分はかなり食にうるさい方だったらしく、
おいしくないものが我慢できない。それがプレッシャーになる、ということで、自分が料理をするようになった。
ただ料理(食事)が好きなだけじゃん、と言えばそれまでなのだが、
別に元々自炊する習慣がついていたわけではない。学生時代や、社会人生活の最初の方は、かなり適当な食生活をしていた。
だから、今回の話は、必ずしも生まれつき料理が好きな人にだけ当てはまる、というわけではない、と思う。
自分で料理をする上で、最もいいな、メリットだな、と思っている点は、
自分はそもそも合理的な行動が非常に好きなので、料理という一つの動作で多くのメリットを同時に実現していることを思うと、それだけで嬉しくなる。
自分で料理をすることのメリットは何か? 挙げていけば、下記のようになる。
①節約になる。
②健康になる。
③好きなものが食べられる。
⑦妻に喜ばれる
以下、順番に説明する。
これは言わずもがな、だ。一部には、「自炊はお金がかかる」と言っている人もいるようだが、そんなわけはない。
短期的に見れば、確かに一定の初期投資は必要かもしれないが、一旦ルーチンが確立してしまえば、中長期的なコストはどう計算しても自炊の方がやすい。わざわざ計算式で表現するのが馬鹿らしいほどだと思う。
料理器具などについての議論は一旦おいておくとして、ぜひ注目してほしいのは、「保存の効く食材について」だ。
ある程度料理をするようになるとわかるが、案外、日常的な料理で日本人が使用する食材や調味料のレパートリーは限られている。
また、そのレパートリーを大別すると、
(a)生鮮食品のように足が早いもの・・・肉、魚、卵、葉物野菜、牛乳、ヨーグルト、など。
(b)ある程度日持ちのするもの・・・玉ねぎ、ジャガイモ、にんじん、ねぎ、にんにく、生姜、昆布、鰹節、味噌、醤油、酒、ワイン、蜂蜜、塩、砂糖、コショウ、その他種々の調味料、など。
となる。
ポイントは、(b)に分類される、日持ちのする食材のうち、特に根菜類を、例えばイオンの場合であれば火曜市などの安価に入手できる日に、
常に一定数以上確保しておくようにすることだ。
(b)の分類の食材が常に冷蔵庫にストックされており、調味料なども揃っていれば、
あとはその日の気分次第で、適当に(a)分類の生鮮食品と組み合わせて調理する。
肉類も、日によって、この日は豚ロースが安い、この日は鮭が、などと変わっていくので、
特別なこだわりがなければ、こうした特売に合わせて食材をチョイスすると、より割安に材料を調達できる。
こうした方式を導入すれば、仮に一人暮らしだったとしても、食材を無駄にせず、常にジャストな分量の食事を、最も安い価格で実現することができるはずだ。
これについては、妻の嗜好をかなり取り入れたところがある。今となっては、むしろ出来合の食事を食べることがかなりストレスになってしまい、一食でもコンビニ食などで済ませるのは、非常に嫌になった。
むしろ、調理済みの惣菜や、飲食店の食事で、一日に必要な野菜の摂取量を十分に確保することは難しい。
調理済みの食品には、大抵の場合、多くの食品添加物が使用されている。
昔は食品添加物など「そんなシャラ臭いこと気にしてられるか」という印象だったが、今はほとんど全ての買い物で、食品の成分表示を確認するようになった。
具体的に、何は取るべきではなく、何は取ってもいい、という情報はあまりにも細かな話になってしまうし、自分自身でも完全に把握できているわけではないので、立ち入らない。
が、実際にコンビニやスーパーなどで普通に販売されている食材の中にも、専門的な見地から見て十分に安全とは言えない添加物が多数使用されているようだし、
加工食品をあまり摂取しない生活の方が、(少なくとも主観的には)体調がいい状態で日々を送れているように感じる。
また、砂糖や油などの、体調への影響度が大きい成分についても、
自炊をする中で、それぞれの分量や性質が自分の体調に与える影響の度合いを、実経験で観測していくことができる。
こうしたPDCAが自炊をしていると自然と回るようになるので、自然とダイエットにもなり、体調管理にもつながっていると思う。
これも当たり前と言えば当たり前だが、自炊による料理のおいしさ、という点では、個人的にはYoutube以前と以後で、自炊を巡る状況は大きく変わっている、と思うのだが、どうだろうか。
コロナ以前の、あまりYoutube上での料理動画が充実していなかった頃は、ホットクックを見るか、料理本を見て作るか、くらいが基本的な選択肢だった。
ホットクックは玉石混淆だし、料理本は色々試すにはハードルが高く、またレシピ通りに作っても必ず美味しくなるわけではない。
また、いずれの場合でも、レシピだけを見て作っていると、料理の背景に、ベースとなる基礎があることが理解しにくかった。
その点、例えば食材の切り方一つ、食材の投入タイミング一つでも、動画で示されれば、そこで用いられているテクニックは一目瞭然だ。
また、「これは本当にすごいな」という、作って感動するレシピがかなりたくさんあるのもYoutube料理動画の凄さだと思う。
誰の料理が好きかは好みが分かれるところだろう。個人的には、コウケンテツさんは、このジャンルでは本当の天才だと思う。ほとんど全てのレシピ動画に、味という観点だけでなく、作りやすさ、シンプルさ、という観点からも、驚くような工夫が凝らされている。毎回非常にクオリティが高いのに、ありふれていない。単純に仕事として憧れるところがある。
Youtubeがあることは、今から自炊を始めることの大きな理由の一つになるのではないか。
上記のように、Youtube動画でちゃんとレシピや工程を確認しながら多くの料理を経験していくことで、料理全般を下支えするセオリーが体感的にわかるようになってくる。
例えば、
・どのようにして旨味を構成するか?
・〇〇の食材は、季節によって味がどう変化するか、いつが美味しいのか?
・なぜこの順序で食材を投入するのか?
など、無数に論点がある。
もちろん、素人なので、こういう事柄について体系的にわかっているわけではないが、それでもかなり感得できるところがあるのは確かだ。
「なぜこのような料理の仕方になっているのか」「この料理のうち、何がユニークなのか?」「なぜこれが美味しいのか?」などを考える上で、それを言語化し、考えるためのヒントが自分の中で非常に多くなる。
また、それに対する考察が、日常の料理にもフィードバックされるために、自分と家族の食の経験がより豊かなものになっていく。
これは、とても創造的で、面白い頭の使い方だと思う。食をよく楽しむと、「ああ、人生を豊かに楽しんでいるな」という気に、ふとなる瞬間がたくさんある。
これも、個人的にそう感じる、というレベルのことに過ぎないかもしれないが、料理や食材は、「人間と自然との強力な接点の一つ」だ。
「サラリーマンは一年のうち3ヶ月は田舎に行って農作業をするべきだ」
というようなことを言っていた。
これは、人間は(人間以外の)自然に触れることで、人としての自然なあり様を取り戻せる、などというような話の文脈で言っていることのようだったが、
やはり現実的にはこれはなかなか難しい。
一方で、都会に暮らしていると、自然に触れることによって自分の心身が整えられる感覚があるのも、自分としては実感するところだ。
例えば、食材を茹でている鍋の中で、いろいろな食材の色を眺めていると、何となく癒されるものがある。
また、料理をすれば、その色彩を眺めるだけでなく、実際に手で触れ、匂いを嗅ぎ、それを味わう、という、五感を総合的に用いたプロセスを、自然と経験する。
これが、日常生活を生きる上での、癒しになっている面は非常にあると思う。これは、例えば電子機器などが介在するような趣味とは、少し異なる位置づけの趣味として考える必要がある。
料理は細々したタスクの積み重ねだ。日々確実に、決まった時間に、下記のような要素を十分に考慮した料理を提供する必要がある。
・おいしさ
・栄養素
・原材料費
・在庫管理
・洗い物の段取り
これらの左脳的なタスクも、非常に奥深いものがあり、上記を同時に達成するためには、細かなオペレーション上の工夫や、機材の導入などを適切に行なっていく必要がある。
私自身は一介の勤め人だが、上記のようなスキルは、一般に経営者が求められる全般的なスキルと通ずるところがあるのではないか、と思う。実際に、経営学等における考え方を、日々の料理の管理に活用している部分も色々ある。
こうした事柄について改善を行うためには、個々の作業をただ行うだけではなく、全体の工程を俯瞰した上で、このプロセス全体を創造的に組み替えていく必要がある。
ここまで色々語っているが、自分が料理に実際に日々費やしている時間は、平均で30分程度のものだろうと思う。
このような工夫を継続的に行うことで、「涼しい顔をして高品質のアウトプットを出し続ける」ような仕事の仕方を、多少なりとも身につけることができつつあるのではないか、と思っている。
結局、これが一番大事だ。
よくある言説として、「時給に換算するとこれは〇〇円だから、外注した方がいい」などというものがある。
確かに、資本主義の原則から考えれば、原則的に自給自足は不合理であり、分業こそ正義、というのは、理論的には正しいだろう。
「自分がすることのうち、何を内部化し、何を外部化するか、ということは、生き方そのものを規定する哲学だ」ということだ。
それこそ原理から言えば、ありとあらゆることを外注化することができる。
料理を外注化すること、子育てを外注化すること、(仮想的に)家族・友人を外注化すること、(パッケージ化された娯楽を楽しむという点で)趣味を外注化すること。
技術が発展すれば、例えば「息をする」というようなことも外注できるだろう。
原理を考えれば、デカルト式に、「我思う」以外の事柄は、全て外注可能である、と言うことができるかもしれない。
しかし、やっぱり自分はそういうあり方には、本質的な喜びはない、と思う。
食事を作り、家族と食べる、という行為は、「息をする」のと同じカテゴリーに入る、自分に属する行為だ、と、今の自分は感じているらしい。
まあ、どこにラインを引いていくかは、人それぞれだ。それが生きる姿勢の反映ということだと思います。
…
EVに乗るとなぜバナナが食べたくなるのか、それは一つのミステリーだ。
静かで、しかもスムーズな乗り心地のEVは、どこか未来的な雰囲気を漂わせている。
そんな中で、プラスチックの香りと新車の匂いが混ざり合い、不思議とバナナの甘い香りを思い出させるんだ。
それに、EVを運転していると、エコな気分になるからか、自然と体に優しいものを求める心理が働くのかもしれない。
だから、EVに乗っていると無意識のうちにバナナを欲するんだろう。
EVの静かな走りと、黄色いバナナは、なんとなく未来的なビジョンを結びつける色だ。
それに、バナナは曲がっている。
EVの曲線的なデザインと、バナナの曲線は、どこかシンクロしているような気がする。
まるで、バナナがEVの曲線をなぞるように、手に取りたくなるのかもしれない。
そんな時、手軽に食べられるバナナは、最高のスナックになるんだ。
友達とEVでドライブに出かけた時、バナナはシェアしやすい食べ物だ。
だから、バナナはEVに乗る時の、コミュニケーションツールにもなるんだ。
EVに乗るときの静けさと、バナナのリラックス効果は、ドライブをより快適なものにする。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、自然なことなのかもしれない。
子供の頃、おやつにバナナを食べた記憶は、多くの人にとって懐かしいものだ。
EVの新しい体験と、バナナの懐かしい記憶は、不思議と心地よい組み合わせを生み出すんだ。
EVのユニークなデザインと、バナナのユニークな形は、どこかでマッチしているような気がする。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、デザインの親和性からくるのかもしれない。
それに、バナナは安い。
バナナはコストパフォーマンスが高く、EVの効率的なイメージに合っている。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、経済的な理由からかもしれない。
EVを運転すると、世界中どこでも行けるような自由な気分になる。
バナナは世界共通のスナックで、EVのグローバルなイメージにぴったりだ。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、世界観の拡がりを感じるからかもしれない。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、シンプルな美学からくるのかもしれない。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、健康への意識の高さからかもしれない。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、多様性を求める心理からかもしれない。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、全世代に共通する楽しさからかもしれない。
EVのアクセシビリティと、バナナの入手の容易さは、利便性で結ばれている。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、手軽さからくるのかもしれない。
EVの静かなパワーと、バナナのエネルギー補給は、ドライブをサポートする。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、エネルギーのシナジーからかもしれない。
それに、バナナは気分を明るくする。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、ポジティブな気持ちからかもしれない。
バナナはインスタ映えするし、EVのスタイリッシュなイメージと合う。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、SNS映えを意識すると当然だ。
そんな時、バナナを一本かじることで、ほんの少しの冒険を味わえるんだ。
「なぜバナナなの?」という疑問から、新しい会話が生まれることもある。
突然のバナナの皮で、ドライブ中の友達を驚かせることもできる。
EVの静かな室内で、バナナを食べるリズムは、まるで音楽のようだ。
バナナの皮で作るアートは、ドライブの思い出に残る一品になる。
「バナナは曲がっているけど、宇宙は曲がっているのか?」という深い問いかけをすることもできる。
EVでのドライブ中に、バナナを使ったゲームで盛り上がることもある。
バナナを半分こして食べることで、友達との絆を深めることができる。
EVでの旅にバナナを持っていくことで、何か新しいことが始まる予感がする。
バナナをゆっくり味わいながら、EVでの時間の流れを感じることができる。
バナナの味をじっくりと感じながら、自分自身について考える時間を持てる。
「なぜバナナがこんなにも多様なのか?」という疑問を解き明かす手がかりになる。
子供の頃に食べたバナナの味を思い出しながら、過去を振り返ることができる。
EVの快適な座席に座り、バナナを食べながら、現実から少し離れることができる。
バナナの形や色を見ながら、新しいアイデアを思いつくこともある。
バナナのシンプルな味わいから、人生の小さな幸せを見つけることができる。
バナナを分け合うことで、友達との小さないざこざを解決することができる。
バナナを食べていると、同じくバナナ好きな人と話が弾むこともある。
バナナを持っていると、なぜか安心してEVでのドライブができる。
バナナを食べながら、EVでのドライブを通じて、自然の美しさを感じることができる。
バナナの存在を通じて、生命の不思議や宇宙の広がりに思いを馳せることができる。
それに、バナナは時には新しい自分を発見するきっかけにもなる。
バナナを食べることで、新しい趣味や興味を見つけることができる。
バナナの一本一本が、EVでのドライブのように、人生の一歩一歩を表している。
バナナを食べながら、異なる国のバナナの食べ方を学ぶことができる。
バナナの持ち方や食べ方で、自分の個性を表現することができる。
バナナを食べることで、EVでの新しい旅に踏み出す勇気が湧く。
それに、バナナは時には人とのコミュニケーションを円滑にする。
バナナを食べることで、日常のルーチンから抜け出すきっかけになる。
それに、バナナは時には新しい自分を見つける旅にもなる。EVでのドライブは、日常からの小さな逃避行だ。バナナを片手に、新しい景色を眺めながら、自分でも知らなかった一面を発見するかもしれない。それに、バナナは時には心の栄養にもなる。EVの静かなエンジン音をBGMに、バナナの甘さが心に染み渡る。それに、バナナは時には冗談のネタにもなる。友達との会話の中で、「バナナは曲がっているけど、お前の道筋はどうなんだ?」なんて笑いを誘うこともできる。それに、バナナは時には旅の仲間にもなる。一人でのドライブが寂しい時、助手席に置いたバナナが、なんだか慰めてくれるような気がする。それに、バナナは時には思い出のアルバムにもなる。旅先で食べたバナナの味が、その場所の記憶とともに蘇る。それに、バナナは時には未来の夢を語る相手にもなる。EVでの静かな夜道を走りながら、バナナに向かって「いつかこうやって宇宙を旅するんだ」と夢を語る。それに、バナナは時には過去の懐かしい味にもなる。子供の頃に食べたバナナの味が、EVの新しいテクノロジーと融合して、新旧のハーモニーを奏でる。それに、バナナは時には自分を励ます言葉にもなる。ちょっとした失敗をした時、バナナを一口かじりながら「まあ、次があるさ」と自分を励ます。それに、バナナは時には旅のリズムを作る。EVの滑らかな加速と、バナナを食べるリズムが、まるでジャズのようにシンクロする。それに、バナナは時には新しい出発を告げるサインにもなる。バナナを食べ終わった瞬間、新しい何かが始まる予感がする。それに、バナナは時には自然との対話を促す。バナナの木が育つ熱帯の風を感じながら、EVでのドライブが自然との調和を教えてくれる。それに、バナナは時には人生の小さな発見をもたらす。バナナの中に隠れた種を見つけた時のように、EVでのドライブ中にも、予期せぬ発見がある。それに、バナナは時には新しい挑戦の象徴にもなる。バナナを食べながら、「次はどんなことに挑戦しようか」と考える。それに、バナナは時には人生の楽園を思い描くキャンバスにもなる。バナナのトロピカルな味が、EVでのドライブを南国のビーチへと連れて行ってくれる。それに、バナナは時には心のオアシスにもなる。疲れた時、バナナを食べることで、心にひと時の安らぎをもたらす。それに、バナナは時には新しい自分を受け入れる勇気をくれる。バナナの柔らかさが、変化を受け入れる柔軟性を教えてくれる。それに、バナナは時には人生の旅路における休息の時を与える。EVでの長いドライブの途中、バナナを食べることで、ほっと一息つける。それに、バナナは時には新しい友達を作るきっかけにもなる。公園でバナナを食べていると、同じくバナナを楽しむ人と友達になれるかもしれない。それに、バナナは時には人生のサプライズを運んでくる。バナナを食べていると、思いがけない幸せが訪れることもある。それに、バナナは時には新しい発見を促す探検家にもなる。バナナの味を追求することで、未知の食文化に足を踏み入れることができる。それに、バナナは時には人生の航海図を描く羅針盤にもなる。バナナを食べながら、EVでの次の目的地を決める。それに、バナナは時には心の平和を守る盾にもなる。バナナの甘さが、日々のストレスから心を守ってくれる。それに、バナナは時には新しい自分を育てる土壌にもなる。バナナを食べることで、新しい趣味や興味が芽生える。それに、バナナは時には人生の喜びを分かち合うための道具にもなる。バナナを人と共有することで、共感や喜びを感じることができる。それに、バナナは時には新しい冒険の始まりを告げる。EVでのドライブが終わり、バナナの最後の一口を食べると、次の冒険が待っているような気がする。それに、バナナは時には人生の旅路における忠実なコンパニオンにもなる。バナナと共に過ごす時間は、EVでのドライブをより豊かなものにしてくれる。それに、バナナは時には新しい自分を発見する旅の始まりにもなる。バナナを食べながら、EVでのドライブが新しい自分を見つける旅になる。それに、バナナは時には人生の旅路における快適な休憩所にもなる。バナナを食べることで、EVでの長いドライブの疲れを癒すことができる。それに、バナナは時には新しい自分を発見する旅の終わりにもなる。バナナの最後の一口を食べた時、EVでのドライブが終わり、新しい自分との出会いが待っている。それに、バナナは時には人生の旅路における楽しい仲間にもなる。バナナを食べながら、EVでのドライブが楽しい冒険になる。それに、バナナは時には新しい自分を
せわしなく働いてるのはわかるけど、どうにかして欲しいところをいくつか。
できない理由があるのはわかるけど、もう少しなんとかならんのか。
もう少し改善してほしい。
非ルーチン作業だから予約時間どおりに診察できないのは仕方ないとして、それでもなお酷いし、予約システムがない病院が多すぎる。
検査結果を聞くためだけにまた来週こいってやめて欲しい。何のために連絡先まで問診票に書いてるのか。対面じゃないとダメなのか?
ただ、結局のところ、スループットのボトルネックが医師と患者が予定を合わせて対面で喋るってとこだと、1日で結果が出る新しい検査とか、あんまり意味ないと思ったりする。
前の稟告とか診察のときの様子とか、もう少し引き継がないものか。カルテに残る文字情報だけじゃ難しいなら、動画に残してくれても構わないんだが。別の科で診てもらうことを勧められたりすると、振り出しに戻るのをやめて欲しい。
ダブルチェックが必要はわからんでもないけど、もっとサクッとできないものか。処方箋の確認、必ずしもそれぞれの薬局でしなくても、どっかデカいセンターでやればいいんじゃないかと思ったりする。
別にカード払いでクレジットカードのポイントが欲しいとかじゃなくてさ、病院っていくらかかるのか予想がつきにくい場所じゃん。
住所も名前も連絡先も知らせてるんだから、踏み倒したりはしないよ。
即日現金払いに拘られてもけっこう困るよ。
https://anond.hatelabo.jp/20240503232218
いつか自分のブログで書こうかなと目論んでいたんやが、オタク特有の「ネタバレで傷ついちゃったの僕ちん」をSNSで見過ぎて胸焼けして躊躇してたんや。意図して見てるわけやないんやが、お気持ちばかり見てると、マジで不快すぎるわ。だからちょうど見ないっていってる方の庇を借りてダン飯について書いてみるやで。ネタバレバリバリの予定やで。たまにそういう文章を書かないと死ぬやで。
こういう好き好きあーたまらんって暴走するオタクうざいーって、全員静かに「◯話のファンアート良かった」って呟くだけのSNSないかなぁ…
以降は、下手なコピペも嫌いななんJ語もどきもやめて書きやすい文体で記す。
アニメは現在18話「シェイプシフター」まで終わる。1ネタ1本でやった。これまでわりと2本立てのペースだったので意外だった。とくに純ギャグなのになかなか気合が入っていた回。次、19話ではイヅツミがパーティーに加わる。猫忍者。たぶん放映直後からファンアートであふれることになるだろう。決定事項。
イヅツミ役は神戸光歩さん。「明日ちゃんのセーラー服」の蛇森生靜役など。声は良かった。予想以上にイヅツミの声だった。
コミックでいうと6巻の終わりあたり。
このあとずっとほぼ25話?まではファンアートになるようなビジュアルショックの連続になるだろう。
イヅツミ回のあとかイヅツミのときの2本立てになるかさだかではないが、イヅツミ登場のあと幼女マルシルも登場する。ここらへんもファンアートまみれだろう。
そして次はイヅツミセクシー回というかサウナ回。だからマルシルやセンシもSEXOOOOになる。
そして重要なカナリア隊が出てくる。ファンアート天国にさらに拍車がかかる。そこからカブルーのキャラが俄然立ってくる。SEXOOOOになる。なんでカブルーがこんな人気なのかわかる。あとカナリア隊の隊長も人気出るだろう。
カナリア隊の隊長は、薬屋のひとりごとの猫猫やフリーレンのユーベル的な人気になるんじゃなかろうか。中二心にズキズキときそう。ただ本格的な活躍は次のクールからだろう。
ベストは8巻のベーコンエッグまで。区切りがいい。クリフハンガーでありつつも次への目的まで提示されるから。なおかつ次クール。あるのはまちがいない。そうなるとシーズン開始早々度肝を抜く展開になる。なんとしてもそうしたいところだろう。
だからバランス配分としてシェイプシフターをゆっくり丁寧にやったのは大丈夫かなと思った。この先すべての回は伏線になりこれまでの伏線は丁寧に回収されていきつつも、スゴイ!を覆うかのようにギャグをまぶしていく。まさかチェンジリンクがギャグだけじゃなくて話にも重要なネタになるとは思いもよらないもんな。シェイプシフター回にしてもそうだ。この回がネタフリになる大爆笑が次クールに待ち構えている。1番好きなシーンだ。放送はされるだろうセンシの過去編のマルシルの奮闘もぜひアニメの動きでみたい。
アニメ版は原作に忠実であるにも関わらず、きちんと動きと声や音が入ることで相乗効果がすごく付加されている。つかみとして未だに円盤のCMに使われてるマルシルの「ヤダー!」とそのあとのブレイクダンスはそのいい例だわ。いまだにそこだけみたくなってみてるもの。シェイプシフターを魔法でぶっ飛ばすときに爆風をくらってライオスがキリキリ舞いしているところはすごく笑える。それをきちんと描画している九井諒子画もすごい。
Netflixである吹替版。英語吹き替えが非常に秀逸で、日本の吹き替えをすごくリスペクトしており空気を完全に再現しておりそうと知られなかったらそのまま海外制作の作品ではないかと思うほど、わざとらしさがない。
公式のガイドブックとらくがき本があり、それが設定集でありつつセルフファンアートででもある。これを目に通すと生半可なファンアートだと恥ずかしくてドッペルゲンガーみたいに正体を現してしまうだろうから読みないほうがいい種族もいるだろう。12巻登場。
しかし、全14巻の10年続いた長大に思えた物語は1ヶ月半の出来事なのがすごすぎる。毎日あのスケジュールで毎回一生に一度あればいいようなイベントが続いていたのだな。
次回作は14巻の最後の最後に登場しそうでしなかったチルチャックの三人娘のスピンオフが読んでみたい。
ガイドブックには主要キャラの細かい設定やエピソードショートマンガがあり、センシのドワーフ仲間や結局なんだったのかよくわからない存在であったフィオニルとドニ(バジリスクに襲われたがライオスに助けてもらった)の設定やその後まで書いてある。
なぜか作者が激推ししているカナリア隊のパッタドルが日本の熱い食べ物を淡々と食べてるマンガもいい。主要キャラ全員がサンタコスしているのも作者のこだわりがあって楽しい。こういう楽しさがあるからダンジョン飯はたまらないのだ。見ない人間は終わっている。
焦がしの効いた香ばしい味を出しつつ、カリッとした食感にはさほど重きを置かずしっとりと食べやすく仕上げようって魂胆なんだろうか。
せっかくカリッと焼き目つけたポワレなんかにベシャっとソースかけるのも割と嫌だ。
まあどうせ汁でクタッとなるなら最初からベチャッと焼いちまえばいいってもんでもないだろうけど、かた焼きそばは普通カリッとさせない麺類をわざわざ硬く焼き上げてんだから、なぜせっかくのその食感に重きを置かないのか。上等な料理にハチミツをぶちまけるようなもんだよ。
でもトンカツにソースかけて多少サクサク感が損なわれるのはまあ別に許せる。多分おれの中でトンカツとはそういうもんだろうっていう固定観念があるのかもしれない。その延長なのか、カツカレーもなんかまだわかる。餡かけかた焼きそばはそういう刷り込みを拒絶するくらいに何か違うだろって気持ちになる。
カツカレーはカツカレーとして、ココイチのパリチキカレー食う時はルーから逃れて生き残ってるパリパリ部分をそのまま楽しみたい。パリパリチキン言うてんねやからパリパリで食いたい。
高校生ごろだったと思う。実家の両親祖父母はよくコーヒーを飲んでいたので、つられて自分も毎朝コーヒーを飲むようになった。ほとんどインスタントコーヒーだった。月一ぐらいでレギュラーコーヒーを淹れてくれるときもあった。その頃はインスタントコーヒーの味がコーヒーであり、レギュラーコーヒーはまた別物というような認識だった。
大人になり、一人暮らしを始めて、ふとコーヒーを自分で淹れたいと思い立った。まずはドリッパーを買った。1000円ぐらいの円錐ドリッパーだ。安かったのがたまたま目について、特に何も考えずに買った。初めて淹れた時の気持ちはもう覚えてないが、ドリッパーでコーヒーを淹れている時に良い香りが立ち、とても幸せな気分になる。これはいつもそう思う。
コーヒーを自分で淹れると、コーヒー豆の種類を選んだり、淹れ方や分量の違いで毎日違った味を楽しむことができる。酸味、苦み、フルーティさ、など日によって豆の種類を変えたりした。とはいえ、淹れ方の違いでどう味が変わるかは、正直違いがわからない。最初は蒸らすとか、一度にどれぐらいの量を注ぐかといった情報を目にするが、それよりも、ドリッパーをそのままコーヒーに放置していると渋みがでて不味くなる、ということだけは自分の経験から気をつけている。
一度レギュラーコーヒーを飲みだすと、インスタントコーヒーが飲めなくなってしまった。ドリンクバーなど外出先のコーヒーサーバーでインスタントコーヒーがでてきた日にはとてもがっかりする。飲んだ瞬間に明らかに違いがわかる。同じコーヒーだけど、全く違う飲みもののようだ。
やがてドリッパーで毎日淹れるのが面倒になってきた。1万円もしないコーヒーメーカーを買った。1日5杯ぐらい飲むようになった。コーヒーメーカーは楽だけど、ドリッパーで淹れた方が美味しいと思う。もっと言うと、自分ではなく誰かに淹れてもらったコーヒーが美味しい。『かもめ食堂』だったか、映画でもそういうセリフがある。
夏は水出しでアイスコーヒーを作るようになった。水出しにすると優しい味になる。粉の処理がちょっと面倒だけど、すぐに冷たいコーヒーが飲めるのが嬉しい。
ある日、お腹の調子が悪くなるようになった。1kgぐらいの粉コーヒーを購入していたので古くなってしまった豆で飲んだいたのが悪かったようだ。劣化を防ぐには豆で買って飲む前にミルで挽くのが良いとのことで、ミルを買った。何を思ったか最初は手回しのミルを買ったが、やってられないので電動ミルを買った。それからは粉ではなく豆で買うようになった。安売りしているコーヒー豆は古いものなのでかなり危険だということが分かった。
コーヒーの種類としては、自分は酸味よりも苦みのあるコーヒーの方が好きなようだ。キリマンジャロ、モカは避けて、ブラジルやマンデリンを選ぶ。苦みこそ全てと思い込み、苦いものばかり選んできた。しかしある時、喫茶店で飲んだコーヒーが自分の淹れたコーヒーとは別次元に美味しかった。この圧倒的バランス感。酸味と苦みのバランスが大事なようだ。それからはスーパーの激安コーヒーにキリマンジャロをちょっと混ぜたりして酸味も加えて楽しんでいる。
コーヒーが好きになると、エスプレッソも気になる。エスプレッソマシンは高価で場所を取るので庶民に用意は難しい。手軽にエスプレッソを入れる器具でマキネッタというものがあることを知る。コンロでエスプレッソが抽出できる。抽出される様子が見ている面白い。エスプレッソは牛乳やお湯で割ったりして飲んでいる。しっかりした味で美味しい。マキネッタで入れると微細な粉が口に入り込み、これもお腹を下す原因になるんじゃないかという気がして、ペーパーフィルターを一度通している。
最近のサイクルはこんな感じ。
・仕事中はコーヒーメーカーで4杯分を作って飲む。5杯飲むとカフェインの取りすぎで調子が悪くなる。
・どうしてもそれ以上に飲みたい時はカフェインレスにする。たまに飲むのでなるべく劣化しないドリップバッグが良い。
コーヒーは毎日の楽しみのひとつだ。淹れた時、飲んだ時のホッとする瞬間が好き。
コーヒーの生産者を始め、焙煎者、流通関係者、コーヒー器具メーカー、そしてコーヒーの知識を提供してくれたネットの皆様に感謝!
そんな仕事関係もあってか、私が友人の方に行くことも、都内に住んでいる友人に会うこともここ数年は憚られた。
けれどコロナが第5類になって、医療現場もルーティーンが確立し、かなり余裕ができたため、友人と会うことに。
コロナ禍に入る前のアラサーと呼ばれた頃、互いに恋人はいないし自分のことで忙しいしで、一生独身かもと笑い合った。
久々に会うから、何か変わったかと聞いたら、結婚したから名字が変わったと言われた。
は?
けっこん??
頭の中では?が四方八方に散らばり、私の意識は宇宙のかなたまで放り出されそうだった。
実際は独身仲間が一人減り、孤独のかなたへ放り出されたのだけど。
彼氏いたの?
→友達以上恋人未満な人がいた
付き合ってたの?
→付き合ってないよ
いつ結婚したの?
→3年ぐらい前
えっ、な、なんで……
→その人が海外勤務で、何かあっても家族じゃなければ生死がわからない
マジか……以外の感想が出てこなかった。
知らんかった……。
向こうは私が医療従事者で、コロナ禍でてんてこまいだから、今伝えるのもなんか違うと思ったらしい。
言ってくれ。
その時言ってくれた方が、傷は浅かった。
来年アラフォーと言うこの時期に言われた方が、傷が深いんだぞ……。
とりあえずおめでとう。
は?一緒に住んでない?
家は別?
なんで????
一石投じてやったぜ
飛ぶ鳥落とす勢いの
俺はまるでブリューナク(ケルト神話の光の神ルーが持っていたとされる武器。投槍のような武器と考えられているが投石武器(スリング)だったのではないかとも言われている。だが光の神ルーの持つ投石武器としてもう一つタスラムと呼ばれるものがある。これは宿敵であるバロールの魔眼を撃ち抜いたとされている。このことからブリューナクを投石武器とする説はタスラムと混ざっただけであるとも言われているが、同時にタスラムこそがブリューナクの投槍としての機能が投石武器として誤って伝わったものとも言われている。このように神話の主人公は複数の神話的な武器を持ち神話的な逸話を作るが、これらの多くは戦場に出陣した兵を鼓舞する際、「お前たちの武器は神話にも劣らない」と語った際に仲間外れになってしまう兵種が出てこないようにしている内に増えてしまったからであるとも言われている。神話とは現代においては単に娯楽として消費されるようなものになっているが、古代においては宗教的な意味が強く、それはつまる所政治利用されるための道具であったわけである。政治の道具であるということは、時の当事者達が都合によって何度も書き換えるためのインセンティブが働いてきたということである。王・将軍・神官・占い師などがそれぞれの都合により定期的に書き換えるわけだからして、そもそも正しい内容と呼べるものは存在しないとも言える。たとえば、ブラックジャックの例のセリフが「木の芽!木の芽!」であったと語るものと「(検閲)」であったと語るもののどちらかが間違っているということではなく、どちらも正しくはあるのだ。もしもそこで正しさを問われるものがあるとすれば、それは自分の都合によって内容を書き換えてしまった者達の側だろう。そもそもをして政治利用の意図がなければ神話の発展はなかったのだから、都合により好きに書き換えて良いという姿勢は好ましくないと私は考えている。それは親が子供に「お前は労働力として産んだのだから、お前の人生は俺達の所有物であるべきなんだ」と語るに等しいことだ。相手が空想上のものであっても、生みの親の絶対的な権限をふりかざしてその存在を歪めるのにも、どこかで限度というものがあるべきではないだろうか?)
今までの積み重ねがないコンプレックスがある
でもカレーって味濃いじゃん?
3:7くらいでも十分カレーの味は堪能できる気がするんだけど
カレーライスはカレーを食べるんだよ?味が濃いとか被害妄想だろ?
みたいな可能性もあるよな
とかたまに考える
ブコメにて
古の伝承から指輪物語、D&D、ドラクエと続くいわゆる王道に対して、フリーレンがわりと異端寄りの設定なのはそう。エルフがほぼ無限の寿命とか、魔族の設定とか。
ぉぃぉぃ
何言ってんだ
「死すべき運命」はイルーヴァタールが人間に与えた贈り物だとされる世界だ
指輪物語のオークは、エルフを堕落させた存在とか、エルフをまねようとして作った存在とか言われてて
みたいになるから、この手の話って語るの難しいよね
グレ カボシャール
テスター品を購入
懐かしい系、普通に売ってて今現在も手に入りやすい、比較的安価ということで
で、購入して試してみた
口コミだと辛口だとかメンズ寄りだとか難しい、合わなかったという評価が割とある
fragranticaだったか、安全なブラインドバイではない、とレビューしたものもあった
しかしシプレ系の香りを試すにはかなり容易な部類になるし、まあ失敗するかもしれんがポチった
ティッシュに付けてみて
たしかに典型的な女性らしい香り…甘いフローラルとかフルーティとかサボンとか…ではないが
香水の名前は強情っぱりという意味だそうで、女の子らしく可憐で可愛くといった香りとは全く異なるけど
だけど変に肩肘はったり強く振る舞ってるとも感じない
肌に実際つけてみてどうかは改めて確認したい
今、喉の調子が良くないのだけど、この香水の香りのそばだと、痛みを強く感じるように思う
香りがいがらいと表現した口コミを読み、なんだそれと思っていたが…自覚してしまった
しゃんとした香りと感じてたけど、時間がたつと何か変にパウダリーで、、オバサマ感が出る
うーん
カボシャール、1959年の発売とか
歴史的な品だったんだなあ、としみじみ
オバサマどころかおばあさん、いや、ひいおばあちゃんくらいの時代の香りじゃないか
クラシカルすぎて驚く
そして今もって普通に買えることに驚く
カボシャールを吹きつけたティッシュ、洗面所に置いても息苦しく、もう使い所ないわとゴミ箱へ捨てた
が、残ってるボトルはどうしよう、とトイレのタオルにワンプッシュして一晩
ホテルのトイレだとか、お高いブランドショップのトイレだとかの、優雅すぎる化粧室の香りが
ということでトイレの優雅な芳香剤としてしばらく使うことにしよう
短時間かぐだけなら悪くないのだ、うん
つーか
セクシーで紳士殿方が目のやり場に困るでお馴染みのイヴに一目惚れよ!
超超超カッコよくない?
だから私はわざわざプレイステーション5ごと買っちゃってイヴになりきって地球を救うの!
Switchにもたくさんあるけれどプレイステーションにも救うべき世界がたくさんあってどんだけ人々は世界を救わなければいけないのかしら?って思うわ。
なので
昨日はプレイステーション5の初期設定に苦戦したけれどもう大丈夫!
プレイステーション5の機能のサポートおしゃべりモードが発動していて
いちいちメニュー画面とか全部の画面でプレイステーションがしゃべるって操作の手助けをしてくれるんだけど
アクティビティの項目でなんとか見つけ出してオフにしたけれど慣れない初めての機械は一苦労よ。
もちろん今日からは帰ってからは本編で地球を救えることになるんだけど、
まあ
体験版でも敵を上手に倒せないまだ慣れない感じが苦戦するわ。
でもイヴ超カッコいいの!
もうさハードごと買っちゃって正解だわ。
衝撃的な出会いだわ。
まだ体験版を1時間程度やって遊んだところでもう寝るお休みの時間になったので、
寝ることにしたんだけど
プレイステーション5って電源どうやって切んの?って
スリープのままでもいいのかしら?
つーかスリープって言わないの?
レストモードでレストランかよ!って思うぐらいレストって言う言い方に最初慣れなかった自分がいた時代があって、
慣れないけれど
そのぐらいの使命感つーか
イヴカッコよすぎて
それは二の次!
イヴのモデリングがもの凄く美しくてそれだけで見とれちゃうぐらいよ。
まだまだ最初の1時間でバトルもろくに雑魚敵でやられちゃうぐらいだけど
それにコスチュームもいろいろあるみたいだけど、
まだ私のイヴはデフォルトのプラネットダイブスーツしか履いてないから安心して!
なんとか頑張って強くなってイヴになりきって張り切って荒廃した地球を救うの!
プレイステーションのコントローラーの三角と四角の位置が覚えられなくて、
いちいち手もとを見てしまうのが相変わらずワレながらダサみを感じつつ
まだ慣れない決定ボタンがバツなことにもバツの悪さを感じざるを得ない慣れない感じが否めないわ。
あと急にL3ボタン!って言われても、
そのボタンどれ?って迷うし分かんないし、
冷静になったらスティックの押し込むボタンがR3L3になっているのね。
あとコントローラーの上部中央にある平べったい大きなボタンって何?
押してもなんもならないんだけど、
そんでイヴのフィールドの画面で押したらサポートドローンがスキャンしてくれるボタンみたいで、
これ以外の使い道がよく分からないわ。
助けてくれてかばってくれてやられたタキの分も!
もう楽しみすぎてさんざんピーアール動画を見まくったあの迫力のあるシーンは
体験版のものの5分ぐらいの場面で全部見れちゃうぐらいの濃さで
これからどんなシーンがいや
どんな荒廃した地球を救うのか私は絶対にイヴになりきって地球を救うの!
優しさの配合が50パーセント処方されているの頭痛薬とも違うやつ。
ベヨネッタのお姉さんもカッコいいけれどまあ言っちゃ悪いけれど年増よね。
お姉さんって感じ。
プレイステーション5すらも持っていなかったぐらいでも
ハード毎買っちゃって
私は第7空挺部隊のイヴになって荒廃した地球をネイティブから救うの!
清く逞しく泥臭く、そして艶やかに!
って違う違うそれは朝ドラ『ブギウギ』の梅丸歌劇団のモットー!
あっているのは艶やかさだけね。
もーさーイヴがカッコよすぎて
もうストーリーとかバトルとか進めなくても
カッコよすぎる!
でもその格好良さにかまけてないで
私は絶対に荒廃した地球に蔓延るネイティブを討伐して世界を救うの!
そのぐらい躍起に満ちているわ!
タキのためにもよ!
タキの敵は討つ!!!
この状況は気が向いたらまた書くから私のいやイヴの活躍を応援して欲しいわ。
あんまり難しくて話のストーリーが進まなかったらごめんなちゃいだけど!
とにかく私は荒廃した地球をイヴになりきって張り切って救うわ!
うふふ。
すっかりご飯食べるのは忘れていたわ。
でもルービーは忘れなかったけれどね!
今日から製品版ダウンロード準備して出掛けて帰ってからは本編よ!
その意気込みを感じるぐらい
炭酸レモンウォーラーをゴクゴクと凄い勢いで飲み干したところよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
俺は無理だったし、わからされた。
当然の結果だと思った。
裁判とその前のやり取り含めて、子育てに対する認識と理解が甘すぎっていうのをとことん分からされた。
おむつ替えも送迎もミルクつくりとか色々したけど鍋にルーを割り入れただけでカレー作ったと主張するようなもんだと言われた。
出産それ自体が互いの意志と行為によるもので、生まれるまで半年以上もあるし、ある日突然玄関前にコウノトリが赤ん坊を置いていくわけでもないのに育児休暇が一週間程度だったことも響いた。
会社の理解がないせいだという主張は通らなかった。そういう会社だと分かってるのに転職もしない、上司に何度もかけあってもいなかった。主体的に子育てする意欲がないとしか考えられない(元妻は産休は当然として事前に育休について複数回人事とやり取りした記録があったし、俺の会社でも3ヶ月くらい育休取ってる男性社員がいた)と言われた。
他にも、よくあることがもだけど、子どもが泣くからママのほうが良いのかもな〜って安易に抱っこ任せたりしてたのを共通の知人に証言されて育児の面倒ごとから逃げてたと言われたし、子どもの薬やアレルギーに対する理解が妻と比べて浅かった。
子どもに対する理解や関わりに主体性がない、常に元妻の伝聞に頼っていたと言わざるを得ない。
園の送迎や週末に抱っこ紐で抱っこして買い物に行ってても、遊びに連れてっても、それは育児の比較的美味しい部分をつまみ食いしていたに過ぎないと言われた。
主体性を持って子どもと関わらない人と子育てはできないと言われた。
何度も話し合いを求めたし、何度も悪いところは直すと伝えたけどそのたびに「人から指摘されないと自主的に仕事を休んで子どもに関わるということができない人と協力して子育ては無理。何をしたら良い?と丸投げするんじゃなくて何をすべきか自分で考えて、考えた結果◯◯をしようと思っているけどどうだろう?と提案、相談が欲しかった。」と言われた。
すげー不仲でもないし、元妻とは今でも会うし子どもの話もするし、元妻も俺に対してDVを主張してないから面会交流はできてる。当然だけど養育費も払ってるし。
正直、育児に対する考えが甘かったのは事実だし、よくこの状態で親権とれると思ってたな、って感じだ。それでも離婚の話が現実味を帯びたとき、主体的に子育てしてなかったくせに「子どもを奪われる」みたいな感覚があったんだよね。
自分が思ってる以上に妻がいること、子どもがいることをアイデンティティや自尊心につなげてる部分があって、それが妻からの離婚申し出によって損なわれる、というのが憤りとか焦りとかになってたと思う。幸い共通の知人が間に入って俺の話を聞きつつ、冷静になる時間をくれて、客観的に見て主体性がない親であるという事実を飲み込ませてくれた。
俺の場合は子どもや妻に暴力を振るってなかったし、正直よほどのことをしてなければ面会交流とか何かしら子どもと関わる事はできると思う。
そういう意味で、共同親権にならなくてもなんら子どもと関わることができてるので、共同親権を必死に主張する人に疑念は抱いてしまうし、離婚を突きつけられたときに俺が感じたあの憤りや焦りのままなんだと思う。せっかく手に入れた自分の自尊心が損なわれるみたいな。
俺もああなってたのかもしれないな。