はてなキーワード: プロモーションとは
弱者男性を「コミュニケーション要介護者」と捉えた場合、その支援は訪問しておしゃべり、みたいな直接的かつ具体的な支援に限らないだろう。
たとえば「コミュニケーション要介護者」ともできるだけ親しく関係を持つのがよいことです、というプロモーションを明に暗に打ち続ける方法がある。
お年寄りには席を譲りましょう、白杖を持っている人が立ちすくんでいたら声を掛けましょう、みたいな感じでな。
仕事としておしゃべり介護してもらうのも悪くないが、プライベートで友達や恋人が作れたらもっと嬉しいんだし、プロモーションの影響で人々がキモくてカネのないおっさんおばさんに対するイメージがよくなり恋人ができる可能性が増すならよろこばしい。
これは弱者男性に限らず弱者女性も「コミュニケーション要介護者」に含むことができ、彼女たちの孤独を救うことができるだろう。
ボダやメンヘラや鬱や統合失調症の人も友達や恋人ができやすくなるってわけだ。
なにより、社会がお前たちを排除や矯正していくつもりではないというメッセージを出すことで、彼ら彼女らに希望を持たせられるのがいいことだ。
弱者男性が反フェミニズムに熱心になりがちなのは、フェミニズムの声ばかり重用されて自分たち男性がどんどん追い詰められる未来の流れが見える不安や鬱憤があるからで、フェミニズムで女の欲望は肯定していくけど、男の欲望は男の欲望で社会として肯定していく意図があるよ、という雰囲気があればだいぶ状況が変わるだろう。
ただしこれは「コミュニケーション要介護者」の不快な振る舞いを、ある程度までは大目に見る風潮を醸成することも目的に含むわけで、不快な振る舞いをされたらハラスメントと指摘すべきという昨今の道徳とは衝突するが。
人権同士が衝突することも多いってのを勘案してくれ。
世の中はままならないので、増田のような、人権侵害は迷うことなく拒否してよいしそれでうまくいく、って整理では片付けられないのだ。
たとえば要介護者の世話は、家族など周囲の人間が担わねばならんのだが、やりたくもない介護をさせられるってのは周囲の人間の人権を侵害している。
公的にも私的にも扶助はあるが、それでもきょうだいに障害者を持って生まれた辛さ、親の介護の辛さ、みたいな記事がたまにバズるよな。
これは要介護者と健常者の人権がぶつかる中で、妥協点を探って暫定的に今の仕組みになってるわけだ。
なので、仕方ないけど周囲の健常者や国民の税を要介護者にあてがいましょうという仕組み、これが現時点での対処法である。
だが、増田のような考え方では、介護や公共のためであっても、人権制限に繋がるあてがえ論はノータイムで拒否してよい、となってしまう。
要介護者の意見で聞く価値があるのは「私は障害があり要介護者だけど仕事や外出や人間関係を楽しみたいのが本音だ、でもそれには他人に介護を強要する人権侵害をせねばらなんので、おとなしく家にこもることを選ぶよ」という内容だけだ! なんてことを誰かが言ったら、現代社会では賛同されづらいだろう。
そして増田の、弱者男性の意見で聞く価値があるのは「ぼくは女性とのコミュニケーションが欲しくて苦しいが、その苦しみの解消には女性の人権を侵害せざるをえないとわかってるから、おとなしく苦しみつづけることにします」ってタイプの弱者男性だけだ……という態度はこれに近いのだ。
それ自体もまずいが、もっとまずいのが、増田の主張の危うさに気づいていいはずのブコメ聴衆さえも、増田は道徳的で素晴らしい考え方をしていると褒めまくってしまうことである。
弱者男性の生きづらさが認めてもらえないというのは、誰か一人が偏った意見を言うってこと以上に、それを客観的に聴いているはずの大衆までもが無自覚に弱者男性に辛さを押し付けてるってことだと思うぞ。
俺の論をもう少し詳しく説明しよう。
弱者男性論の中でも、異性恋愛部分で揉めやすいのは、わかりやすく人権同士が衝突するからだ。
周囲の人間の自由意志を尊重することと、キモいとされる男性が異性とのコミュニケーションを得られず孤独に苦しむのをを救うこと、その両立が困難だと判明してきたからこじれているのだ。
(多くの人間または男性の心には、性的対象とのコミュニケーションによってしか埋まらない大きな飢えがあり、非恋愛の友人関係では満たせない、という仮定はとりあえず正しいとする。その真偽は心理学者などが長い時間をかけて研究せねばならないだろう)
箇条書きにすると、以下のようになる。
・だが、悪意がなくても他者に不快感を抱かせがちな上に改善困難な人間は存在し、その代表がキモくてカネのないおっさんのような弱者男性である。(女にもそういう存在はいる)
・よって、他者に不快感を抱かせる弱者男性は、諦めて孤独に暮らすべきだ。
・いや、それで本当に倫理的にいいのだろうか?
繰り返すが、弱者男性の人間関係についての話は、介護や障害者支援と近いんだよ。特に、支援が進まない精神障害の問題。
接触すると周囲の負担になりやすい人間をどう扱うか、という問題だ。
要介護者を厄介者みたいに言うのはかなり危ういんだが、実際のとこ、厄介者(とされちゃう人)をどう包括するかを真面目に考えることで社会や福祉は成り立っている。
現在の日本では、家族の扶養義務とか、介護ビジネスへの補助金とか、福祉とか、障害者雇用義務とかで要介護者に対処している。
たまたま家族に要介護者がいるからってその世話をさせられるのは人権侵害ではないか、という論点は当然あるが、今のところ、その人権侵害を一定程度許容してでも、要介護者を社会から切り捨てるのを防ぐべき、という風になっているわけだ。
耳を傾ける意見:「正直異性(他人)とのコミュニケーションは欲しいが、現実の女性の意思や人権を制限するなんて酷いことは考えていない」
すなわち、周囲に不快感を抱かせてしまう気持ち悪い弱者男性にもコミュニケーション欲求があるのは納得するが、その援助が周囲の人権を制限しなければならないなら無視してよい、ということになるだろう。
自由意志を制限するべきではないので、周囲が世話をしたがらないなら要介護者は介護される必要なし、弱者男性につきあってやる必要なし。
それで本当にいいのだろうか。
だが、弱者男性と言うカテゴリの中には、精神障害者やパーソナリティ障害に発達障害、さらに障害と健常のボーダーに位置する人間がおそらく結構な割合で含まれる。
また、そのボーダーは時代と共に変化し、歴史の傾向としては要支援の障害者と認定される範囲が広がっているのだから、ワガママで苦しいアピールする人間と正当な要介護者を現在の基準で完全に分割して別物と扱うのは適切ではない。
そして、弱者男性問題を、介護や障害と地続きの問題として見れば、精神障害者への支援の遅れと近いことに気づける。
対人能力や人格や情緒の安定にハンデを抱えている人間に対する扱いは、いまだに相当に厳しい。
障害者支援の代表例は雇用義務だが、精神障害は本当に厳しくて、障害者雇用でも採用されるのはおもに身体障害者だ。
精神障害者の雇用義務ができたのは、驚くべきことに2018年というつい最近だ。(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000192051.html)
精神病院についてのゴタゴタも頻繁に取りざたされる。
今も世の中には、「精神に障害のある人たちも苦しいだろうけど、関わるの負担が大きいし、その負担を強いるのは人権侵害だから、仕方ないだろ」なんて感覚があるのだ。
政策的知識のない俺が具体的なことを考えたってツッコミどころが多いだろうし、そこにツッコミが入りまくると、まるで総論としても弱者男性論が間違ってるような印象を持たれるからだ。
具体策として考えた内容に穴があるからって、総論としての方向が間違ってるとは限らないのにな。
……と思ってたが、「要は公的なカウンセリングと風俗か? それとも奴隷化か?」なんて人が多いので、それ以外の方法として、ACの広告みたいなイメージ戦略なども考えられるよね、とトラバで書いた話を追記として挟んでおく。
弱者男性を「コミュニケーション要介護者」と捉えた場合、その支援は職員が訪問しておしゃべり、みたいな直接的な支援に限らない。
たとえば、コミュニケーション要介護者ともできるだけ親しく関係を持つのがよいことです、というプロモーションを明に暗に打ち続ける。
お年寄りと地域で交流しましょうもたつきは温かく見守りましょう、白杖を持っている人が立ちすくんでいたら声を掛けましょう、みたいな感じでな。
仕事としておしゃべり介護してもらうより、プライベートで友達や恋人が作れたらもっと嬉しいんだし、プロモーションの影響で世間からキモくてカネのないおっさんおばさんに対するイメージがよくなり「自由意志」でイチャコラしてもらえる可能性が増すならよろこばしい。
これは弱者男性に限らず弱者女性もコミュニケーション要介護者に含むことができ、彼女たちの孤独を和らげることができるだろう。
男女問わず、ボダやメンヘラや鬱や統合失調症やアダルトチルドレンや無職の人も友達や恋人やセフレができやすくなるってわけだ。(弱者女性はむしろセックス相手として求められすぎて困ってるみたいな話もあるが)
なにより、社会がお前たちを排除や矯正していくつもりではないというメッセージを出すことで、彼ら彼女らに希望を持たせられるのがいいことだ。
弱者男性の中に反フェミニズムに熱心になる層がいるのは、フェミニズムの声が主に重視されて自分たち男性は相対的にどんどん追い詰められる未来が予想されて不安や鬱憤があるからだろう。
そこを変えて、フェミニズムで女の欲望は肯定していくけど、同時に男の欲望は男の欲望で社会として肯定していく意図があるよ、という雰囲気があればだいぶ状況が変わるのではないか。
もちろんこれは「コミュニケーション要介護者」の不快な振る舞いを、ある程度までは大目に見る風潮を醸成することも目的に含むわけで、不快な振る舞いをされたらハラスメントと指摘すべきという昨今の道徳とは衝突するので常にバランスの綱引きが行われるだろう。
あとはアンドロイドやセクサロイドで代替とかってのもアリかもと思うが、それならそれで、真面目にその方向の技術振興をしましょうという政策議論に繋げるべきだ。
「50年後か100年後にできたらいいよね~科学の発展に期待だね~」じゃなくて、それを少しでも早められるよう本気で向き合い、技術や金を使うために協力してほしいんだよ。
(追記ここまで)
まあダラダラ書いたけどさ、とにかくこういうことよ。
健康で文化的な最低限度の生活のためには周囲に負担を強いることが必要になる、広い意味での「要介護者」は世の中にけっこういる。税金を利用する全員がそうだとさえいえる。
人権侵害は絶対拒絶すべきという考え方をすると、周囲の強制負担も認められないということになり、その「要介護者」たちは見捨てられることになってしまう
現代では、人権同士が衝突する場面も多いとわかってきたのだから、その中でどう折衷していくかが大事だ。
そのためには、人権の侵害は議論の余地なく即却下、という素朴で潔癖な姿勢は話が進まなくなるので良くない。
このさい、弱者男性論はさておいてもいいや。
現代では人権同士がぶつかりあってるので、「人権は絶対守るべし。そしてみんなの人権を同時に守れる方法はある」とシンプルにいかないことはわかってくれや。
最近、某ラーメン店のアカウントが拡散されているツイートに、脈絡もなく自店舗の宣伝をリプライでつけるということをしている。
脈絡もなく、というと少し違うのかもしれない。
というのも、リプライのあたまに 軽く元ツイートにふれているからだ。
(例)
「イライラする」
「映画みよう」
リプライを送るツイートは色々あるが、一番多いのがプロモーションツイートへのリプライだ。
プロモーションツイートとは、広告主となる企業や個人がインプレッションに応じた対価を支払うことで、Twitter内に広告を掲載することができるツイート機能だ。
プロモーションツイートに対して一般ユーザーから送られる好意的なリプライは、広告にプラスの影響を与えるため、禁止されていないことがほとんどである。ところが、「某ラーメン店」は明らかに宣伝目的でリプライを送っている。
広告主からしたら、プロモーション費用をかけずに 自分が集めた閲覧数を利用されて、良い気はしないだろう。
本当は店舗名出そうかと思ったけど、売上が落ちたとか怒られて訴訟とか起こされても困るからやめた。
ネットではエヴァのネタバレに対してかなりシビアになっている節がある。
理由は簡単でそういう戦略だから。長年温めて来たエヴァンゲリオンというコンテンツに対して企業が取る最も効果ある宣伝手段だと思う。
これは何もエヴァに限らない。殆どのコンテンツは発表前までその存在は秘匿される。Appleやポケモンがいい例。新IPhpneや新ポケモンのお披露目は然るべきときに然るべき場所で行うことで最大限の広報になる。
エヴァが特殊なのは、その秘匿性を公開後も維持しようとしているからだ。それによって劇場に足を運ぶ人が大勢いるのだから大成功といえる。言い換えれば、拗れたファンの信仰心を試す儀式というのが正解だろう。プペルとは全く違うがどこか似ている。
現在のSNS偏重の日本では公開前に内容がバレることすらあるのに、エヴァは公開後も映画館に足を運んで自分の目で確かめたい層がいるため、ネタバレへの過度な反応が多い。尤も公開から1週間なので沈下しつつあるが。
ただしこのようなコンテンツはエヴァが頂点であり、今後はないだろう。なぜならネタバレという行為には、あらかじめ「ネタバレを良しとしない忌避感」が備わっていなければならないだらだ。知りたくない情報があるからネタバレがあり、誰でもしれるモノはネタバレとは言えない。
ここからは俺の個人的な考えだが、ネタバレを嫌う風潮自体が今後廃れていく、もしくは主流とは言えなくなると思える。ゲームで言えば、買い切りのソフトパッケージが主流だった時代から無料アプリ内の課金に移行したように、同じようなモノでも価値観が変わっていくはずだ。
今回のエヴァ騒動で思ったのはネタバレという行動自体がコンテンツになっているということ。
エヴァはプロモーションとして冒頭12分を無料公開するなど宣伝に多くの費用かけている一方で、肝心の本編は徹底的に伏せている。今もなお。
自分のようにエヴァ世代からやや外れた人間からしてみれば、公開後にもネタバレを秘匿することには違和感がある。そしてさらに考えると、そもそも多くの作品が公開後もネタバレに敏感な風潮に気づいた。なぜ世の中に放たれた作品にもネタバレを抑制する動きが働くのか。
例えばアガサクリスティのような有名作品であっても、殺人の犯人やトリック等はネタバレとして扱われる。それは推理小説やそれを扱った作品にとって重要且つ核心に至るものだ、というのがネタバレを阻む抑止力だろう。「このオリエント急行殺人事件の犯人は~」などと読もうとする人に告げたらかなりの確率で縁を切られかねない。
だけど世の中にはネタバレを知ることに忌避感を持つ人がいると同時に、ネタバレでもいいから情報が欲しいという人間が一定数いる。具体的には作品内で猫や犬が死ぬかどうかだ。ペットをもつ人間は犬猫の死の描写に敏感になる。もっと言えば推理小説の犯人を最初から知りたい人間もいる。そういう人は作品を読むに当たり、誰が犯人なのかをあらかじめ知っておかなけれ不安になる傾向があるらしい。推理小説をラストから読む人がいるが、まさにそういう人が身近にいる。
自分は推理小説の犯人まで知りたいとは思わない。だがその作品の核となる部分や面白さをあらかじめ砕いた上で自分に合う形で取り込もうとする考えには、決して嫌な気はしない。
例えば、自分の親はポケモンGoを一人で3台のスマホを常に操っている上に、雨の日は位置情報を任意で動かして楽しんでいる。それらはポケモンGo自体の面白さを消すことになるだろうし違反ではあるが、彼らからすれば効率性や安全性の確保が重要なのだ。作品の面白さに反してでも自分に合うモノを得たいという感情は尊重するのだ。
今までは、ゲームは自分の力で攻略するモノ、小説は自分で読破するモノ、アニメは最初から最後までみるもの、という考えが偉かった。しかし、ゲームは誰かのプレイを眺めることが増え、小説はあらすじだけで済ませ、アニメは途中の話を倍速で見る、という行為も決して珍しくない
何が言いたいかというと、劇場に足を運んで事前情報を得ていない状態で自分の目で作品を見る、という行為が面白いと感じるのはこの「シン・エヴァンゲリオン」が最後になるだろうと、ということだ。映画という舞台をキチンと使ったある意味で最後の邦画かもしれない。あらすじも匂わせもなく、純粋に作品を最初から連続して楽しむという体験は、かなり貴重だ。
今後はネタバレ自体への忌避感が薄い人がいることを世間が知る段階になるだろう。そういう人は主流にならないだろうが、無視するほどではない。そうすると必然的に「答えはCMの後で」戦法は通用しなくなる。
例えば同じ作品の宣伝で「この中の誰かが死ぬ」という予告では食いつかず、aとbが死にcが犯人、と伝えたほうが受けが良いかもしれない。
コンテンツがあふれる世の中では、結末を匂わせるのではなく、ストレートに伝える手法がドンドン出てくるのではないか?
予め結末を知るか他者の言葉や感想を求めた上で自身で内容を確認する人々の声が高まれば、まず結末や誰かの死が先行し、そこにストーリーが入ってくる形が出てくるかもしれない
とりとめも無い話だが、身近にいる何人かを見ているとそうなって行きそうだ
キンプリのことをジャニーズの若手の中で1番勢いのあるグループで、未来は明るいと思ってた。だけど最近これからが不安になってきた。
ジュニアの方がYouTubeも冠番組もあって楽しそう。キンプリが干されてるって言うと反論してくるやつがいっぱいいるけど売上に対する仕事の量を考えたらいちばん少ないよね?キンプリ以上に売上と仕事量が見合ってないグループがあるなら教えて。
その売上だってユニバがもっとちゃんとしてくれたらまだまだ伸びる余地があると思うんだよね。シングルの発表をカウントダウンすること自体は分かるよ。でもぷっちょにネタバレされた上にユニバよりぷっちょの情報の方が詳しいって何?ちゃんと連携取れてるのか本当に心配。ユニバのプロモーションにはあまり期待してなかったけどこれはあまりにも酷い。そもそもこれまでの迷路とかGoogleマップとか夢小説とかあれでキンプリの何がプロモーションされると思ってやってるの?本人たちの能力やポテンシャルに事務所やレコード会社がついていけてないよ。こんなの楽しくない。
SixTONESとSnowManがデビューして売上も別に圧倒的ではなくなっちゃったし、しかもこんなプロモーションが続いたら売上もじわじわ減ってくるんじゃないかな。そのときの扱いは一体どうなるんだろう。
事務所はいなくなったときのリカバリーが大変だから最初から圧倒的に人気のグループを作らないようにしてるんじゃないかって考察をたまに見るけど、売上を出してるグループのファンが割を食うっておかしくない?
推しのことはまだ好きなのに運営が無理で降りるのってその後ずっとモヤモヤするんだよ。キンプリも近いうちにそうなっちゃうのかな。
「……分かりました」
あくまで個人的な推測でしかないと念を押して、男は話を続けた。
「この両社が行っている戦いにおいて、勝負の決め手とは何だと思いますか」
だが、一企業がテナント戦争で国家戦争レベルの武器なんて使ったら大問題だろう。
そして耐久を上げすぎれば、決着が一向につかない。
この戦いはプロモーションの側面もあるため、多少の競技性を持たせる必要があった。
そのためには、ほどほどの威力、ほどほどの耐久力でなくてはならない。
技術的なアプローチをしすぎるとウケが悪いから、レギュレーションを設けているってわけだ。
「じゃあ、何が勝負の決め手になるんです?」
「瞬発力、反応速度でしょうね」
反応が早ければ攻撃までのタイムラグも減るし、回避もしやすい。
武器の威力や耐久力で差をつけられないなら、的確な攻撃こそ重要になってくる。
では、その反応速度を上げるには、どうすればいいのか。
「方法は色々とありますが、最も効果的なのは識別コードの単純化でしょう。複雑な処理を介さなければ、対象をスキャンしたと同時に攻撃が開始できます」
だが、それは敵や味方はもちろん、スキャンした対象を大雑把にしか判別できないことを意味する。
あの時、あの場所に母がいなかったとしても、いずれ誰かが被害に遭っていただろう。
「ロボットの反応速度を上げるために、わざと誤爆上等の作りにしていたってことですか!?」
「何度も言いますが、これは自分の推測でしかありません。何らかのバグ、設計ミスという可能性も大いにあります」
というより、真実がどうあれ“そういう結論”にしてくるに違いない。
そんなことを言ってしまえる企業に、誰も金なんて払いたくない。
それは企業側も分かっているだろう。
取り返しのつかない状況になったのなら、せめてマシな言い訳をして傷を浅くするしかない。
最も深い傷を負った母にとっては、堪ったものではないだろう。
いま自分の中でフツフツと煮えくり返る腸すら、機械に取って代わられている。
そのことを思うと、尚さら怒りが湧いてきた。
「ですが医療関係の技術はラボハテが専攻していたので、マスダさんの治療は我が社の主体で行い、金銭面での補償についてはシックスティーンが……」
そこから、医者らしき男は詳しい補償や母の容態について説明を始めたが、まったく耳に入ってこなかった。
この時、母の頭の中はシックスティーンへの暗い情念で溢れていたからだ。
「知らない人の方が少ないでしょう」
少し前、この時期を『技術革新の最前線をひた走る者達が選別され、誰の目にも明らかになる頃合い』だと語ったのを覚えているだろうか。
その象徴的な存在こそ、この『ラボハテ』と『シックスティーン』という二つの企業なのである。
「『ラボハテ』と『シックスティーン』はですね、とあるテナントを巡って争いの真っ最中だったんです。マスダさんが事故に遭った、あの場所近くですよ」
「テナントの奪い合い? 私がこうなったことと、どう関係あるんですか」
逆に言えば、開拓者になれれば旨味も大きいってことだ。
後に続く企業が爪あとを残そうとしても痛くも痒くもない。
なんだったら、その爪を折ることも、己が力とすることもできる。
この時点でツートップだった『ラボハテ』と『シックスティーン』も、そのことは良く理解していた。
隙さえあれば確保しておきたいし、少なくともライバルには持っていかれたくないわけだ。
だが、そのために泥仕合じみたマネーゲームに興じるのは割に合わない。
そうして、自社の機械を戦わせることにしたのだった。
このやり方は話題性もあり、お互い自社のプロモーションにもなる画期的な協定といえた。
「ニュースで見たことあります……それに私は巻き込まれたってことですか」
「普通なら考えられません。両社の戦闘ロボットたちは、味方ロボットや人間を攻撃しないようにしつつ、相手のロボットだけを狙うようプログラムされていますから」
通常なら、射線上にいたとしても人には誤爆しないよう作られているはずだった。
「原因は“コレ”です」
母はその布切れに見覚えがあった。
「それは……っ」
その活動で身に着けていた腕章だった。
どうやら、タイムセールに気をとられて着けたままだったらしい。
「これに描かれたマークが原因で、戦闘ロボットがマスダさんを敵だと勘違いしたのでしょう」
その腕章に描かれた絵は、『ラボハテ』と『シックスティーン』のシンボルマークを重ね合わせたものだった。
たぶん、それぞれの企業を皮肉る意図があってのデザインだろう。
「それでロボットが誤認した……っていい加減すぎませんか!?」
「何らかのバグか、それとも……」
何か思い当たる節がある。
「“それとも”……何です?」
「いえ、個人的な推測なので……むやみに混乱を招くだけです」
「ナントカ女子」とか「女子ナントカ」とか女性向けプロモーションによく使われるけど、これ万人受けする表現じゃないんだよね
「興味ない」レベルじゃなくて毛嫌いする人が一定数いる 少なくない数
一部の人にリーチすれば良いような商品プロモーションなら良いんだろうけど、行政の啓発活動には不向きじゃないかなあという印象
自分は「女子ナントカ部」みたいなのが嫌いなんだけど、なぜかというと単純に恥ずかしいんだよね
芋くさい中年女性だし… 「女子プログラミング部です!」とか「カメラ女子です!」とか名乗ってたらハァ?て感じじゃん オメーじゃねえよっていう
「女子ナントカ」みたいなコンテンツの本とかグッズとかもピンクとかキラキラとかで持ち歩くのが恥ずかしい この上なくnot for me
あれが似合うのってごく一部の人だけでしょ……
蛇足その2
結構前だけど、自分の趣味のプロレス界隈でも団体とかプロレスメディアがこぞって「プロレス女子」を推し始めたときがあって、実際に女性プロレスファンからはかなりの反発を受けたんだよね
自ら「プ女子です♡」て名乗ってた人もいたにはいたけど… OK派とNG派でかなり別れたというか、NG派の嫌がり方がハンパなかったというか
あれはメディア側も「プロレス女子はイケメン選手が大好き」「逞しい肉体にメロメロ♡」みたいな変なイメージ付けをしてきたってのと、「プロレス女子向け初心者講座」みたいな女性ファンは知識がないみたいな扱いをするのが多かったからってのもあるけど
>>俺には『えんとつ町のプペル』をめぐるプロモーションと、他のエンターテインメントの仕掛け方の本質的な違いって正直わかんねえんだよな。
こうやってわざわざ文章に取り上げている時点で自分の負けをさらに引き寄せるようなものだと思うんだけど、こりゃあ敵わねえな、と思ったから書いておく。
いま話題のプペルじゃなくって、西野氏がある大学の卒業式講演に来たときの話。俺も現場ではもちろん、動画を視聴したわけでもないんだけど、twitterのキャプチャで見たのね。
それで、たぶん最初に登壇したときの学生たちの反応が、そこまで芳しくなかったんでしょう。西野氏がこんなことを言う(経緯は俺の推測です。念のため)。
「今みたいなバラバラの拍手で西野を迎え入れるのか、それとも全員立ち上がって、西野をあらためて迎え入れるのか」
「僕自身はどっちでもいいんです」
ってやつです。
…
俺はこの画像を見たとき、これは敵わねえな、と思ったよ。というか、なんだろうな、この世界で「西野氏的なもの」にしてやられないように、こいつを回避し続けるのは、相当至難の業だな、と思った。
「どっちでもいいんです」と言いつつ、西野氏の希望は当然、万雷の拍手でみんなが自分を迎え入れてくれることなんだけど、西野氏はたぶん、仕切り直すことで学生たちが自身を全霊で歓迎してくれることを確信していたと思うんだ。なんでかというと、それは別に西野氏がスーパーな人物だからでも、彼へのはちきれそうな期待を学生たちから感じたからでもなくて、むしろ反対に、学生たちにとって西野氏なんて、特に興味もない、当初はそれこそどっちでもいい相手だったからで、西野氏もそれをよく理解していたからだと思うんだ。
たぶん、学生たちにとって西野氏なんてマジでどうでもよかった。だから、最初登場してくる西野氏に拍手していたときも、自分がどんなテンションで手を叩いてるかなんて意識しないで、漠然と手を叩いていただろう。「空っぽ」だったんだ。
それが、登壇した直後の西野氏のひと言で、まず自分たちに思わぬ選択肢が与えられていることに気付かされた。西野氏をもっと歓迎してあらためて迎えるかどうか、という選択肢だ。
そして、みんなで一体になって西野氏を歓迎した方が、どっちかと言えば雰囲気的にハッピーだな、ということを、ここではじめて「想像させられた」。
悪い言い方をすれば、それまでがらんどうのまま椅子にぼんやり座ってたところに、気持ちの部分で血肉が入ったんだ。
俺はその後のことを知らないけど(動画を観たくないから)、たぶん、二度目は割れんばかりの喝采で迎え入れられたんだろう。まるで魔法のように大勢の人を操ってみせた話だけど、こんなの良くも悪くも人間を冷静に観察し続け、相手をナメてかかることができる人物なら手のひらの上の話だ。たぶん、西野氏にしてみれば楽勝だっただろう。
「どっちでもいいんです」という登壇直後の発言も上手い。これが例えば、自分から拍手を強いるような言動があれば、学生の方にも抵抗感がある。歓迎するかどうか、あくまで学生の側に選ばせることで、かつ、自分たちでこの場をハッピーな雰囲気で満たすことができると想像させた時点で、西野氏の勝ち確だったのだ。
そこには「ほとんどの人間は通常何も考えないで生きているし、何にも興味を持たずに生きている。だからこそ、自分たちが主役として何かを選び、決定することができる機会を与えられたとき…自分たちこそこの場を盛り上げられると確信したとき、その魅力から逃れられない」という冷静な人間観がある。これは敵わねえよ。俺もその場にいたら拍手してると思う。きっとね。
…
そういう西野氏が『えんとつ町のプペル』をひっさげてエンターテインメント業界で数字を出せるか…はまた別の話なんだけど、それは西野氏が卒業式で見せたような手法が通じないからじゃなくて、反対に、エンターテインメントの世界こそ、西野氏的な方法が跋扈する世界だからだと思うんだ。西野氏の特異性って、そういう技法を非演芸的な空間で一般ピーポーに容赦なく使用したところにあるんであって、業界としてはありふれた手法、人間観だと思うんだよな。
こういっちゃなんだけど、どの作品のブームを仕掛けるのも、「人間ってやつは99%空っぽで、何も考えていなくて、でも自分には特別な見識や機会が与えられていると信じていて、自分で何かを決めることができるという幻想があって、人生を楽しむ権利があると思い込んでいて、できればそれを周りの人たちと共有できたら最高!」的な人間観で消費者を見てないと、市場になんて参戦できないんじゃねえかな。
具体的な作品名とブーム出したら不快にさせるだけだろうけど、例えば『ジョーカー』みたいなダークで暴力的な作品も、文芸的な邦画作品も、屈折はしてるけど、結局はそういう手法で仕掛けられてると思うんだ。俺には『えんとつ町のプペル』をめぐるプロモーションと、他のエンターテインメントの仕掛け方の本質的な違いって正直わかんねえんだよな。
もちろん、作品としての評価は別かもしれない。でも、俺たちが感じるような「ああ、いい作品だった!」「うーん、クソだった!」が、はたして、俺たちを無意識にがんじがらめる商業的な網から、いったいどこまで自由なもんだろうな? って気もする。
…
商業的なアプローチから自由って話のひとつの余談として、俺が浪人のとき、気まぐれで古本屋に入ったことがあった。11月ぐらいのことだ。街も全体的に灰色だったし、俺の心も灰色だった。俺はこの受験に失敗したら死のうかな、と思っていた。
たまたま、カフカの『審判』という本が目に入った。新潮版だ。レア(たぶん)。
俺はカフカなんて『変身』しか知らなかったので、興味と呼ぶにも希薄な感情のまま、本当にたまたま、それをレジに持ってった。200円ぐらいだったと思う。
『審判』は俺の人生を完全に変えた。どちらかと言うと悪い方にだけど、とにかく、他のどんな作品とどんなかたちで出会ってもあり得ないくらい、深く俺をゆさぶった。
あれこそ、商業の魔の手から完全に自由な体験だった。そして、ああいう運命と呼べる体験しか、人と作品の出会いは本当には成立しねえんじゃねえかな…というのはロマンチックすぎるかもしれないけど、俺は割と本気でそう思ってる。
…
ところで、あのとき『審判』を手に取る代わりに、西野氏のオンラインサロンに参加していたらどうなっただろう?
それでも俺の人生はきっと「完全に変わった」だろうな、と思う。むしろ『審判』で三日間くらい飯の味がしなくなるような体験よりよっぽどハッピーだろう。
結局、そんなもんなんだ。キングコング西野氏的なものはこの世界の至るところに、程度の差こそあるけどあふれているし、おおよそ感動はオンラインサロンの充実感で代替される。だから、俺たちはたぶん、キングコング西野氏的なものに永遠に勝てないだろうと思う。
…
追記。
トラバで、「『審判』のくだりでお前が言ってる、商業的に自由っていうのは、仕掛けられたマーケティング接点では無い出会いだった(古本屋の偶然)という意味か、『審判』の中身・題材に関連したことか?」という質問をいただいて、これは前者のつもりで書きました。
ただ、カフカという作家についても、おそらく、「再発見された天才・カフカ」「俺たちの代弁者・カフカ」「いま、イケてるやつはカフカを読む! カフカで他のみんなと差をつけちゃえ!」的なかたちで仕掛けられたムーブメントがきっとあだたんだと思います。
『審判』もきっと、その延長上で古本屋の棚に並んでいたわけで、そう考えると消費者を小馬鹿にしつつも心理の隙間に入ってこようとする商業ってやつからは、千切っても千切っても完全に自由にはなれないのかな、と思いました。
…
ところで、上記の「『審判』の中身・題材に関連したこと」という部分で思いついたことがあるので、それを付記しておきます。
『審判』のネタバレになること、作品の解釈はあくまで俺によることをことわっておくのですが、『審判』は、「自分という存在について徹底的に考え続けた者は、必ず破滅する」という話です。
カフカにはたぶん、いわゆる「自分探し」を揶揄するつもりはまったくなかったことをふまえて考察するんですが、物語の冒頭でなんの脈絡もなく訴えられた結果(罪状も明かされない)、
を考え、自分の無罪を信じぬいた結果、得体の知れない訴訟にハマりこんでいき、破綻する話です。
自分を「信じ抜いた」結果、破滅を迎える。俺が増田に『審判』の話を書いたのは本当にたまたまですが、『プペル』のキャッチコピーを考えたとき、ああ、この対比は面白いな、と思いました。
…
俺は上で、あえて「自分探し」という表現をしました。なんでかというと、こう思ったからです。
『審判』の「自分という存在について徹底的に考え続けた者は、必ず破滅する」という一つの解釈について、次のように補足・換言してみる。
「自分という存在(の可能性)について徹底的に考え続けた(諦めなかった)者は、(社会的に)必ず破滅する(≒冷遇される)」
…こうしてみると、この増田でも話題にしてきた別の「作品」が見えてこねえか? ということです。
俺は何十回でも強調するつもりなんだけど、俺は『審判』と『プペル』を同列に見ているわけではなくて(『プペル』も別に、読み終わった後しばらく飯の味がわからなくなるくらい衝撃だった、って言われたくはないだろうし)、ただ、この辺ってけっこう曖昧で危ういんじゃねえか、ということです。
「自己」「孤立」「理解不能なマジョリティ」「困難な戦い」、こういった要素を含む物語は、例え真逆のメッセージを送っていたとしても、じゃあ全然違う別モンだぜ、と胸を張って主張できるかと言うと、「いや、うん、全然違うよ、違うんだけど…ちょっと小一時間整理させてくんねえか」というところがある気がして、それが面白いな、と思いました。
強いて言えば、俺は子供に『審判』は絶対読ませたくないし、『プペル』は別にいいんじゃねえの、という感じです。
それは、『審判』が俺にとってスペシャルなのと、あと単に理解できても暗い気持ちになるからで、自分の子供がそんなんなったらイヤだからです。
概ね同意だけど、自分は増田が書いてる内容をもって「テレビが作った人気」だと思ってる。きちんとファンがついたのは彼女たちやNizi Projectの魅力あってこそだが、人気に火がついたのは日テレの本気があったからこそだろう。オーディション番組に関してはhuluで配信しているが、彼女たちの人気が増せば増すほど番組の価値もあがる。huluと深い関係にある日テレは朝の情報番組のみならず音楽特番でも彼女たちを大きく特集していた。当時、いや10分も特集する!?と思ったのを覚えている(そう思っただけで誇張してたらごめん)。Mステやら他の局での出演はあとからのはず。もちろん昔ほどテレビというメディアに体力はないが、大衆にコンテンツを広げたかったらまだテレビの力が必要なんだなと感じさせられた。
それはそうと、NiziUは「JYPが作り出した韓国アイドルのフォーマット」を「ソニーミュージックが日本でプロモーション」するコンテンツだと思っている。NiziUは歌も踊りも楽曲も最先端でK-POPナイズなアイドルとして売り出されており、同じソニーの坂道グループとは競合しないが今後の人気の方向性によってはどこかが取り潰しになる可能性もあるな、と思っている。まあきっとどこかがうまくいったら世界に売り出したいんだろうな(Nizi Projectの謳い文句は「日本から世界へ」)
寿司を食べている。
回らない寿司だ。
正確には元々回る寿司だけど、ウーバーイーツで頼んだものなので回ってはいない。
夫は、それを知らない。
私が夫に隠れて寿司を食べている事を知らない。
結婚して早2年。
元々の交際期間が長かったのもあるが2020年には新婚ムードも無くなり、3週間や1ヶ月以上の国内出張を任される立場となった夫。
酒も好きだし煙草も吸うけれどギャンブルと女には興味がない夫。Switch版のシュタゲを買ってもいいか、一緒にやらないかとラインをしてくる夫。
私のTwitterも知っており、メンブレした際は適度な距離感と客観的事実で静かに宥めてくれる。怒らず、感情的にもならず、事実を語る。歳を重ねてもニーハイを履いてほしいとしっかり意志を示してくれる。
優しく頼もしく、酒と煙草があったとしても引く手あまたであろう男 is 夫。
コロナの影響と物理的距離によりクリスマスも正月も無くなったし年度末には地方への転勤も決まっている。
途方に暮れた私に夫はこう言った。
「食費は先月と同じ額で渡すよ。余裕があるだろうから好きなものでも食べてね」
これがまずかった。
コロナで様々な事に自粛を求められている中、娯楽といえばアニメ・漫画・ゲーム・食事・資格・猫くらいしかない。
皆がやっているからという軽い気持ちでウーバーイーツに登録した。
はじめは地元の個人経営の飲食店からお取り寄せして、写真を撮っては夫とシェアしていた。コロナ落ち着いたら引越し前にお店にも行ってみたいね、などといいながら。
だけど気付いてしまった。
私は、家にいるだけで寿司が食える。
1000〜2000円くらいで寿司が食える。
夫は職場で半軟禁のような生活らしいのに、私は寿司を食ってしまっている。
それどころか「もう隠れて食べない!」と誓った翌日には出前館などのクーポンを眺めてしまっている。これ以上はまずいと我ながら思う。それなのに今日も寿司を食べてしまう。
恐らく、Twitterなどで私の生活情報を得ている夫にはこう見えているはずだ。
「人口100人未満の地方の限界集落で育った為、出前を遊園地のアトラクションみたいに思っている妻」
概ね間違っていないと思う。
しかし我々地方出身者の認識としては「宅配サービスがあるのは県庁所在地」。いいね?
私は自分にも夫にもそう言い聞かせ、今日も隠れて寿司を食っている。ここは関東ベッドタウン。
プラは金曜回収の為、証拠隠滅の手はずは整っている。体重も問題ない。寧ろ痩せた。
※シュタゲ:「別々にプレイしてお互いの感想で語り明かしたいから君もネタバレは避けてね」と言われた
※寿司:回る寿司でも回らない寿司でも認識はなんだか高価な食べ物なので、夫が頑張って働いているときにこっそりひとりで食べてることを思うとなにやら情緒不安定になる
※寿司:スーパーの握り寿司680円を半額で買うだけで緊張する。一度近所の回らない寿司屋に連れていかれて「一見さんだからここは特上でいこうよ!」と言われ情緒不安定になったことがある。1本99円の巻き寿司バイキングが心の友達。
※創作乙ブコメ:国道101号付近から地元の漁船を紹介するのでそっちで釣るといい。これより遥かに鮮度良いよ
※寿司:イカ・あんこう・鮭・イクラ・白子・ホッケ・カワハギ・キス・カレイ・キンメ・カサゴあたりは釣るor貰うという認識というか印象が未だに根強く残っているので、改めて正規の価格を知ると身震いを起こすのかなと、今思いました。
※バイト:あまりにも寿司が好きすぎて回らない持ち帰り専門チェーン店でのバイト経験もありますがそれでも寿司は憧れの食べ物
※猫:もはや寿司には全く動じず見下してくる。
※海鮮丼:材料は同じでも微妙に別のカテゴリーという認識。もちろん好き。今回は色々なものを少しずつ食べたくなって12種×2人前の暴挙に出てしまった
※回る寿司:流れるのを延々と見ているのが好き。だいたい12皿くらい食べる(1個だけのお皿も少し含む)
※食費:夫の分の食事を準備する必要がないと夕食に炭水化物中心の限界飯を毎日食べ続ける傾向があるので、適宜テイクアウトを利用して可能な範囲でバランスよく食べるようにとかなり念押しされていた。ex.無限雑煮
※寿司:絶対に今夜は寿司を食べるという意志で仕事も家事も頑張れた。ありがとう、寿司。ありがとう、ウーバーイーツ。
※ウーバー寿司:約1ヶ月で3回ほどお世話になったが、割引率と食費予算内を重視したので全て別店舗。また1食で2人前は今回が初めて。スーパー寿司の日も含めるともっと食べてる。
※寿司:ブコメもTBも皆お寿司好きでなんだか嬉しかった。お味噌汁も好きだけど店舗で飲みたいので自粛で無念。
※夫:好みのタイプが二次元なので「女性に興味がない」は語弊があったかもしれない。その点はごめんなさい。
※コロナ:怖いから外食・会食避けてるけど、やっぱり気を許してる人と食べるごはんが一番美味しいんだなあ、今住んでる土地はごはんが美味しいお店多くて好きだなあって前々からずっと思ってるので、難しいけど早く落ち着いてほしいな(政治経済は門外漢だから、思う事がないわけではないけど割愛します)
※寿司:今は蟹がただの繊維状の何かになるという話が本気で一番怖い。
小計 ¥2,100
サービス料 ¥210
プロモーション -¥200
合計 ¥2,310
内容については、言いたいことは分かるし、概ね同意。
ただ、「振袖を成人式でしか着ないものと刷り込みをしたのが、呉服業界なら、そこから改めよ」という話は、少し疑問。
そもそも、「着物が売れないから、せめて単価の高い振袖が年に数着売れればいい」という発想で、「成人式という晴れの日で振袖を着よう」というプロモーションが打たれたのではないか。
「礼服だから、シーンに合ってればいいんだよー」と言われても、そもそも成人式でもなければ振袖なんて着ないのである。
(全ては着付けのめんどくささのせい)
まあ、頼みの綱である成人式が来年も無事開催できるか分からない今、業界が変わらなきゃいけないことは事実だ。
がんばれーーー。