はてなキーワード: ヌードモデルとは
どうだろ。そのむちむちのおっさんが脱いで15分くらいじーっと大人しくしててくれるなら良いかもしれない。普通に嫌がる人もいるかも。そう言えば自分の先生はヌードモデルは中年が一番良いけど滅多にいないと言ってたな。
2023年も残りわずか、GooglePhotosでも見て振り返ってみる
概ね良し、転職してよかった。(個人的に)映画が豊作だった気がする、異端の純愛、Winny、シン仮面、マイナスワン、ザクリエイター。
ミュージシャンの訃報が多かった。特に櫻井敦司が亡くなったことはボディブロウ
インフラエンジニアからSREもどきになろうとしてる。稼働時間は変わらず給与は爆上がりしたけど業務内容のハードルは青天井、バケモンみたいな他社員と自分を比べると死ぬ。
前職の後半くらいに社会人力が落ちたこともあるのでそこをどうにかしたい
身内練習イベントから普通にお客さんが来てくれるイベントまで急成長。そこそこのビッグネームをゲストで呼ぶことができた。
https://www.instagram.com/p/C0Wu159poIb/
自宅に4chのコントローラー(DDJ-FLX6)を導入したことで3Deckでまともにセットを組んだりプレイできるようになったと思う
https://soundcloud.com/suzushirosatoru/suzushiro-drumbass-mix-vol5
選曲、セット組み、ブッキング、フライヤー作成でキャパ的にも限界超えてるのでさらに負担減らせるようにして
このまま継続していきたい。トンネルトーキョーでDJやってみたいけど思想が近そうなVJさんとコネクションが無いので作りたい
デジタルのみだったけど祖母や祖父の遺品のフィルムカメラを使い始めた。
普段RAW現像をしないこともあって勝手にいい感じになってくれて良い
NikonF4(フィルム)
https://www.instagram.com/p/C0BUuXNJB7n/
X-T4(デジタル)
https://www.instagram.com/p/Cy3dRZrpVvi/
写真始めて2年たった?くらいだけど自分の嗜好としては一般的なポートレートには飽きていてテンションが上っていないので
来年はセンシティブな写真をもっと撮りたい。その手のヌードモデルの人とコネクションが無いのでアダルト撮影会とかから始めたい。
そもそもモテる人間では無いのに、仕事と趣味に全て振ってしまったため、自分の身なりをまともにすることや、出会う努力ができず、何もなかった。
どうにかしたいがたぶん趣味を減らさない限り無理だろう。年末は甥っ子に会ってくるので子供欲しい欲はさらに上がるはず?
食生活改善(≠ダイエット)、朝散歩、貯金継続、ペーパー10年目になりそうなので運転練習
そんなところ。後でセルクマ
anond:20230611184223の元増田だけど、正直、未成年の水着撮影会に関する話は驚いた。
大前提として、俺は二次元専門のオタクなので、実在する未成年の水着撮影会とか反射的にキモッと思ってしまうし、そんなのに群がってるのはヤバいでしょ、とも思う。でも同時に、ドラマや映画の子役に対しても違和感があるんだよね。仮に自分だったら、子供時代の演技なんて絶対映像に残してほしくないし、親が個人的に持ってるくらいならいいけど、公共の電波でバラ撒くのは恥ずかしいし、自分のプライバシーを尊重してほしい、やめてくれって言うと思う。っていうか、子役にキャアキャア群がる光景も大概キモいでしょ。「鈴木福 バスツアー」で検索してみれば超弩級の性的消費が見れるよ。実在の子供に群がるロリコンおじさんもショタコンおばさんも両方キモい。
とはいえ俺は、まあ演技とか水着姿それ自体に問題があるわけじゃないから、と思って両方を許容してきたんだけど、未成年の出る水着撮影会はアウト、というのが主流になるなら、子役も禁止にしないといけないと思うよ。
水着撮影会に出る15歳の子供より、ドラマや映画に出演する10歳の子供の方が自己決定権を有している、っていう理屈はどう考えてもおかしいよね? 実在の子供が自由意志によらず公共の電波や映画館で晒し者になるのは間違ってる。ドラマや映画は子供を出すのをやめて、CGや、見た目が幼い役者で代用するか、子供の出てこない作品だけを作るようにするべきだ(刑事ものとかなら子役は必要ないはず)。その制約がキツいなら実写製作はやめてアニメでも作れば? アニメなら成人が演じる子供キャラを好きなだけ出せるわけだし。
去年やってた『鎌倉殿の13人』では、実朝暗殺後に京都から当時2歳の三寅(九条頼経)が呼び寄せられる場面が描かれていた。年端も行かない、日本語の発話もおぼつかない幼児がそれを演じていたのだ。非常に面白い大河ドラマだったが、どう考えても自由意志なんてものを持ちようがない幼児を公共の電波で晒し者にすることは、中高生の水着撮影会に群がる以上に子供をモノ化していると思ってしまう。これまでは、水着撮影会がオッケーなんだから子役もアリでしょ、って思ってたんだけど、水着撮影会はNGというのが世の趨勢なら、真面目に子役を禁止しないと辻褄が合わない。
えっ? 子役は望んで演技をしてるからいいんだって? 都合のいいときだけ子供の自主性を盾に使うなよ! 演技では何も損なわれない? 水着の写真を撮っても何も減らないよ! 演技は何も恥ずかしいことじゃない? 少なくとも俺は恥ずかしいと思うし、逆に水着が恥ずかしくないっていう子供がいたらどうするんだよ!
俺ははてなーの皆さんが水着グラビアがなくなっても全く痛痒を感じないのと同じように、ドラマや映画が作れなくなっても、その表現の幅が狭まっても何も困らない。実在児童の保護はグラビアの表現の自由よりも優先するんだよね? さあ、一緒に子役反対を叫ぼう。ドラマや映画や水着撮影会に18歳未満の子供を出すな!
えー?芸能って芸術とか創造力なので若い才能は早く大衆の前に出てええやろ。異種だが藤井聡太さんは14歳でプロやし。一方で”水着撮影”ってなんやねん、て話やろ
ここで問題にしているのは同意する能力、自己決定権の制限なので。
人間は自由なので、成人であれば演技しようがヌードモデルになろうが自己決定権の行使なんですね。しかし子供は判断力が未熟なので、パターナリズムの観点から、あれは禁止これも禁止と制限を加えているわけです。
俺はずっと「まあ水着撮影会なんて、ピアス空けるのと同じように中高生なら別にええやろ」と思っていたんですが(根拠は前の増田を参照)、どうもはてなでは「水着姿を他者に撮影させる自己決定権」の行使は中高生にはまだ早い! という論調が支配的なようなので、中高生に対して「水着姿を他者に撮影させる」程度の自己決定権も行使させないのであれば、より年少の子役やら何やらは擁護できないよね? という話をしています。
15歳の子供に、「水着姿を他者に撮影させる自己決定権」がないのであれば、10歳の子供に、「自分の演技やら何やらを全国のお茶の間に放映する自己決定権」があろうはずもない。
プライベートゾーンが隠れた状態での撮影なんて、セックスやらヌード撮影やらと違って自己決定権の行使に至るハードルは低くてよいはずなんですけど、どうもハードルを上げるべきというのが主流の意見らしいんですね。それが駄目なら、より低年齢の子供が演技を全国放送で公開するのも駄目でしょう? 15歳の子供が水着での撮影に同意できないというのなら、10歳の子供からTVに出る同意をどうやって調達できるというんですか?
禁止論者への反論に「じゃあ全て禁止にすれば」を使うのは個人的には悪筋だなと思ってる/表現の内容ではなく、本人が望まない事を強制される事を禁止しないと全ての人の自由は守れない/禁止は面倒くさがりの理屈
ええと、俺が問題にしているのはまさしく「本人が望まない事を強制される事」ですよ。
年少者の場合は、たとえ「はい」と言っていたとしても、それを真正な同意として扱ってはならない局面があるわけです(性交同意年齢ってそういうことですよね。子供側がいくら「セックスをしたい」と意思表示していたとしても、それ未満の年齢の子供とのセックスはレイプとして扱われる。あとはエホバの証人の子供が輸血を拒否したので救命できず死んだ事件とかも、今では問答無用で輸血すべきという話になっているはず)。それは、年少者には自律した判断をする能力がない(ということになっている)ので、パターナリズムで「お前らに重大な事柄への同意能力はない!」と決めつけているわけです。
15歳の子供に、水着を身に着けた状態での写真撮影程度のことを自己決定する能力がない、とみなすのであれば、それより年少者のドラマや映画への出演への同意なんてできないでしょ、実質的に無理強いでしょ、ってことです。
だからこれは表現の内容どうこうの問題じゃないんですよ。成人が同意の上で出てるAVは問題ないけど、俳優を拉致してきて撮影した健全ラブコメ作品はまったく許容できないですよね? 同様に、水着撮影会程度のことが駄目なら子役も駄目ってことにしないとね、っていう話です。
「子役は本人の意思確認の段取りとか含めてもっと手厚く保護されるべき」とかではなく、一足飛びに「禁止」とか言い出すのは釣りだからなのか短慮なのか「反対派ってそんなもんでしょ」なのか。
「水着撮影会に未成年が出演する場合は意思確認の段取りを厳格に」じゃなくて「水着撮影会に未成年を出すな!」っていうところまで一足飛びに求めていたのははてなーの皆さんだったと思うのですが……水着グラドルに対して急進的な規制を支持していた人たちが子役には微温的に対応しろって言い出してるのがわけわかんないんですよね。そこは急進的に禁止しようよ。
極論だと言うコメントもあるけど、私的記録ならともかく、当人が望まぬ公開記録を残されるケースを考えたら子役禁止はそれほど不自然な成り行きではないと思う。子役を残すのには理性的な論理武装は必要になりそう。
「別に演技の映像が残るくらいいいじゃん、減るもんじゃなしw」といって子役を認めるのも一つの選択肢です。実際、なにか減るか? と言われたらなにも減らないので。ただその場合、「別に水着の写真が」という理屈も認めないと整合性が取れないですけど。
自分で自分のことを決めた結果、別の選択肢を選んでおけばよかった、と後悔することはよくあるけど、自分の選択の帰結は基本的に自分で背負うべき。自由な自己決定というのはそういうこと。ただ、子供は判断能力が未熟なので、自己決定権を制限してあとで後悔する可能性を減らしているわけですね。
えっ!? 未成年の水着撮影会の問題は子供の自己決定権の話じゃなくて「子供の水着姿を愛好するお前らはキモい」という話だったんですか???
高橋しょうことは
2013年にはアイドルDVDメーカーが選ぶ「プロが選ぶアイドルDVD賞」新人賞に選ばれている。
2014年はMVPに選ばれた[1]。『アサ芸Secret』「グラドルアワード2013」においては最優秀新人賞に選ばれた[要出典]。
2014年1月の週刊プレイボーイグラビアアイドル番付(グラドル番付初場所とも)では西関脇、
雑誌BXの2014年春場所のグラビアアイドル番付では東大関に格付された。
2015年9月9日、「日テレジェニック2015」のメンバーに選出されたが[6]、同年の10月2日に辞退したことが発表された[
2016年1月31日付けでホットラインプロモーションを退所[8][9]、ライブアイドル・グラビアアイドルとしての活動を終了。
2016年4月4日『FRIDAYダイナマイト4/18号』(講談社)で高橋しょう子に改名として活動再開。
154[名無し]さん(bin+cue).rar2018/02/23(金) 00:31:33.45ID:Pbe6g2fd156
156[名無し]さん(bin+cue).rar2018/02/23(金) 10:20:05.69ID:npgADWe+163
154
Aquariumさんという盗撮界のレジェンド(+友達)が撮ったガチだぞ
作品を売るためにパトロン見つけて坐盗市っていうサイトまで作ったんだぞ
作品ではカットされたりモザイクだった児ポ関係も仲間内では売ってたぞ
最後は、別件からの芋づるで撮影者の一人が↑の児ポの販売で逮捕されて
坐盗市本体もガサ入れ食らって潰れたぞ。
調べりゃ記事も出るかもしれん
LS Magazine(エルエス マガジン、通称LS、LSM、またはLS Studio、LS Models)はウクライナで運営されていた、少女ヌードをコンテンツとする児童エロチカもしくは児童ポルノのインターネット・サイト。 分かれており、その全体像は正確には不明(LS-Magazineはその中心的なシリーズ)。主にクレジットカード決済の会員制で、世界中に多くの会員を有した。モデルとして8歳から16歳までの児童1,500人(もっと少数との報道もある)を、ウクライナのキエフ、ハリコフ、南部のシンフェロポリで募集し、ヌード写真を撮影、米国およびカナダのサーバに送って運営されていた、と報道された。その製作量と知名度は他サイトの追随を許さず、まもなく世界で最もメジャーな少女ヌードサイトとなる。同時にこれを模倣したサイトや画像の横流しも頻発した。写真ははじめは芸術的な体裁をとったものの、年を重ねるごとに表現は過激化していった。ハードコアなポルノ(性交・性交類似行為)は最後まで製作しなかったが、後半にはモデル少女の性器をアップで写すカットが常習化していた。スタジオ撮影と屋外撮影があり、スタジオ撮影は強いメイクを施したさまざまな趣向の少女のコスプレ作品が売り物で、少数であるが動画も作っていた。とりわけ原色を多用した鮮やかでクリアな色合いの写真、モデルの楽しげな表情と演技も類似サイトに比較して際立っていた。サイトには、製作写真は性的にわいせつなものはなく米国法において合法である、と注記されていた。
2004年にはこのサイトを攻撃する専門のウイルスまで現れている(トロイの木馬の一種Trojan.Httpdos)。ウクライナ警察によるとその利益は短い期間に数十万ドルに上るといわれる(ロイター通信2004年7月28日)。主催者は20~30代半ばのウクライナ人だと報じられた。米国FBIとウクライナ警察の数ヶ月間の調査の後、2004年7月に摘発され消滅。[1] その後の経緯についてプラウダ2005年4月6日号などによると、カメラマン3人(1人は未成年)と、ディレクター1人が逮捕された。かかわった少女は1,500人で報酬は撮影1回につき10-40ドル。 経営者には、毎月10万ドルの収入があったと想定される。しかし、少女とその家族たちは捜査に極めて非協力的で、少数のものしか証言に応じようとしなかった。また中心人物は政府高官の圧力によって釈放された、という報道もある。捜査は2005年4月に終結。その後、LSでモデルを務めていた少女たちの中には、さまざまなサイトでハイティーンのヌードモデルとして活動しているものも見られる。
ヌードモデルというものをやってみたかった、あとお金が欲しかった。
最初の撮影が本日先程終わったので記録の代わりに記しておきます、匿名でしか書けないので、はてなダイアリーに。
「ヌードモデルをやりたい」といってもどうやって始めたらいいかわからないので、インターネットの検索窓に「ヌードモデル 募集」と入れて調べると、カメラマンとモデルを繋げるマッチングサイトが出てきた。
カメラマン(撮りたい人)が自分の撮りたい内容について投稿をしている掲示板に連絡をするような形のサイト。
サイトはピンク色でいわゆるアダルトな広告が沢山出ているような。
販売・公開のない撮影であり、アダルトな内容を含まない投稿にメールを出す、だいたい5件くらい送った気がする。何通かメールでのやりとりをする。希望の撮影内容、NG行為の約束、場所・時間のやりとりをする。ちなみに同時に別のサイトで「カメラマン募集」の投稿もしており、同時並行で5案件くらいのメールでのやりとりをしていた。
カカオのIDを交換して、カカオ通話で最終内容の確認を行う。声は落ち着いており、内容の交渉をされる時にも枕詞に何度も「嫌だったらいいですからね」とつけてくださり、とても丁重で穏やかな印象を抱いた。
当日、結局家に来てもらうことになった。というのも「ホテル代を上乗せする」という先方の方の交渉を飲んだから。
他人から見たらリスク管理ガバガバなんだろうな…と思うし絶対怒られるし不信感を持たれるから友人には絶対に話すことができないし、墓場まで持っていくことになりそう。
まず殺人は起きていないです。
駅まで迎えに行き、コンビニで食べ物を買われていた、お茶とチョコレートとバナナ。
フェチは、足、お尻と個人情報。この個人情報というのが結構ぶっ飛んでいる。
運転免許証、パスポートをM字開脚をしてお腹の上に置いて撮影。
次回はお弁当1つを口移しをする撮影をしたいとお話されていた。
この世の中は広い。
相手が悪い人だったら、すべての情報がネットの海に漏洩して、私の人生が全てが終わるんだけれども、それはないと本人が何度も言っていたから信じています。
一旦ここまで。
フレンチ・カンカン、というかラインダンスとの出会いは、おそらくは文明堂のCMだ。それから「ドレミファソネットどしたらできるの」で有名なso-netのCMだ。なぜかこのCMではおじさんの脚線美を見ることになるのだがそれはさておいて、Youtubeで検索すると今でも天国と地獄に合わせて踊る動画を確認できる。
本題に移ろう。Can-can dressについてはウィキペディアではおおよそこのように述べている。ドレスは基本的に何層にもなった大量のフリルがついていて、当時の下着の上に縫い付けられていた。脚は黒いストッキングや網タイツで覆われていた。つまり、レオタード姿のソネットのCMはフレンチ・カンカンではないのである。足の動きの速さからしてまるで違う。
衣装ではなく、カンカンダンスそのものについては、日本語版のウィキペディアと英語版のウィキペディアで書いてあることが若干違う。おそらく英語から訳したときの版が違うのだろう。
両者の記述を比べてみたが、フレンチ・カンカンにおける見せパンの起源はかなり曖昧らしい。足を思い切り上げてスカートの中が見えてしまう動きは、ショーの場では1820年代にアクロバット的な動きで知られるCharles Mazurierがバレエの大開脚を取り入れたことにさかのぼるようである。初期のダンサーは娼婦やセミプロの役者だけであったのだが、1890年代になるとムーラン・ルージュではトゥールーズ・ロートレックの絵で知られるLa Goulue(食いしん坊さん、的な意味)やJane Avrilなどの高給を取るスターが生まれた。La Goulueのページでは当時の衣装とセットの見せパンが確認できる。これらのスターの生活は華やかだが晩年は不遇であることもあった。この二人もビジネスの失敗や大恐慌で財産を失い、寂しく亡くなっている。
さて、カンカンは足を高く蹴り上げるので、当然スカートの中身が丸見えになる。しかも、それや当時としてはよりスキャンダラスであった。というのも、当時の下着であるpantalettesは衛生上の理由からクロッチ部分が開いていたからである。要するに性器が丸出しになるわけである。もっとも。そのあとにこんな記述がある。カンカンのための特別な下着を用いていたという記録はないが、ムーラン・ルージュでは下着の露出は禁じられていたことになっていた、と。どうもこのあたりの記録は曖昧というか[要出典]をつけたくなる箇所が多い。ウィキペディアは普段は自然科学の記事を読むことが多いが、そこよりも曖昧な記述が多い印象だ。文体もなんだか違う。
ところで、今のフレンチ・カンカンとして知られる、大人数の女性が10分以上高度な振り付けを続けるスタイルは、1920年代にアメリカで人気が出たスタイルを逆輸入したものでそうである。
実際、19世紀末からに20世紀初頭にかけては女性の脚部を見せるということでかなりスキャンダラスなものとしてみられていた。また、陰部を覆う白い生理用(?)下着と黒いストッキングの対照もエロティックだとして見られていた。さらに、体を折り曲げてスカートを後ろからまくり上げ尻を見せる動作もあったという。先述のLa Goulueはこの芸で知られていたとのこと。また、前の席の客の帽子を蹴り飛ばすほど近づいて、スカートの中身を見せることもあった。もっとも、顔を思い切り蹴られる危険もあったのだが。
結論から言うと、当時のフランスに見せパンそのものであったかどうかはわからないが、パンツが見えることは覚悟の上だった、ということになりそうだ。女性器が見えていたかどうかまでは根拠が怪しい。もっとも、今ほど表現が自由でなかった当時のこと、そんなことを文学や絵画で記録に残せたかどうかは怪しいものだ。ちなみに女性器を堂々と描いて当時の偽善的風潮に反発したクールベの「世界の起源」が1868年、ヌードでスキャンダルを生んだ「草上の昼食」が1863年である。
パリにはいくつも有名なキャバレーがあり、それは近現代の芸術や芸能に多大な影響を与えてきた。たとえば、ムーラン・ルージュで活躍した人物としてFrank SinatraやCharles Aznavourがいる。それらのすべてをここで述べるのは大変なので、地球の歩き方に広告が載っていたと記憶しているものをピックアップして簡単に述べる。子どもの頃、トップレスの女性が旅行ガイドに載っているのを見てドキドキしていたものだ。もっとも、その女性の姿はせいぜい五ミリくらいの大きさしかなかったのだけれども。
学生時代にパリを訪れたときには、そこには寄らなかった。一日中美術館で過ごしてぐったりしていたし、まだ女性経験がなくて図々しくなれなかったからだ。今となってはいい思い出である。
赤い風車で名高いキャバレーで、ここを舞台にした映画は数知れず。トゥールーズ・ロートレックの作品群でも有名。著名なダンサーも多く、全員を紹介するのはとても無理だし、別のキャバレーにも出演していて、キャバレー別に紹介するとややこしくなるので端折る。
ところで、ウィキペディアだけからはヌードがどの程度ショーに盛り込まれていたかはわからないが、1893年の舞踏会に裸の女性がいたことがスキャンダルになったそうである。なんでもヌードモデルが活人画として周囲を歩き回り、裸の女性が深夜にテーブルに立っていたとのこと。一方、英国の劇場のように活人画、すなわち生きた人間で絵画を再現する目的としてならヌードは猥褻ではない、という意識もあったようである。例えば英国では劇場にヌードが現れたとき、当局が1930年代に裸の女性が動くことを禁じた。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように止まったままとなった(ストリップの記事を参照)。また、戦後日本でも「額縁ショー」と呼ばれるストリップのさきがけのようなものがあった。動かなければ猥褻ではないという謎理論がまかり通っていたのである。当時のGHQが何を意図していたのかはよくわからない。
これまたよくわからないのがゾラの1880年の小説「ナナ」では、ヒロインがヴェリエテ劇場でほぼ全裸を披露して観客を魅了するという場面があるのだが、実際のところどうだったのだろう? 本記事はカンカンについてなので劇場のヌードについては語りつくせないので、今後の課題としておきたい。
1889年開業、1915年に一度焼失するも再興し、ドイツ占領時代にも営業を続けて今に至る。
モネの絵画、「フォリー・ベルジェールのバー」の舞台としても知られる。また、黒人系の女性Josephine Bakerが活躍したキャバレーとしても知られる。バナナ型のスカート以外はほとんど身に着けていないエキゾチックな姿がオリエンタリズムの流行した当時ヒットしたのだが、後にその恰好が人種差別的だとされるようになり、そこからネグリチュード、黒人意識の発展にも寄与した。また、彼女は黒人の人権活動家としても知られている。最近、グーグルが彼女の生涯を記念するドゥードゥルをトップにした。
1869年に開業、1872年に今の名前になる。けばけばしい衣装で知られ、時としてヌードも披露されることで知られる。
映画「ファイアbyルブタン」で有名。セミヌードを含む映画の公式予告がyoutubeに上がっている。身体をやわらかな特殊素材のように扱ったショーは性欲やエロスの向こう側に行ってしまっており、すごいものになっているとしか言えない。リンクを貼ったら怒られそうなので検索してください。もちろん、そこまで独特なものではなく、もっとわかりやすいショーもある。
ユニークなのはそのショーの一部をyoutubeの公式チャンネルで公開していることだろう。かなり古い白黒のものまである。それと、公式ホームページ見ていたら驚いたのだけれども、リド自体には12歳以下の子どもでも入場できるそうである。ヌードやトップレスがないショーならOKなのか、それとも芸術のヌードならOKなのか。フランス映画、年齢制限がないやつでも割と普通におっぱい出てくるし、表現規制の国ごとの温度差を示す実例であるのかもしれない。
1946年開業。1920年代の人工的な砂浜をその前身とする。
「ストリップティーズ」の項目によれば1960年代に全裸のショーが行われた、とある。
現に、創業者であるアラン・ベルナルダンは芸術性を伴った女性のヌードショーを見せるという着想に至ったそうで、要するに最初から全裸である。
とはいえ、ただの全裸ではなく、巧みな照明技術により女性の裸体をキャンバスのようにとらえ、万華鏡のようなカラフルかつシャープな模様をダンサーの肌に映し出していることに特徴がある。ただ脱いだだけではないそうだ。1951年開業。
天国と地獄の曲を初めて聞いたのは文明堂のCMと、音楽ファンタジーゆめでだ。後者はCGの黎明期であったせいかサイケデリックな表現が多く、当時の感覚としても幾分薄気味悪いと同時に、今から振り返ってみると技術の未熟さ(失礼!)から来るアルカイック芸術のような独特の魅力があったように思われる。
ところで、この曲は地獄のオルフェとしても知られている。タイトルからすると、ギリシア神話のオルフェウスが死んだ妻を冥界から取り戻そうするとする話のはずだ。なのに、なんでこんな軽快な曲なのだろうと思って調べたら、ギリシア神話のパロディ的なオペレッタだからだそうだ。なるほど。
こうしたレオタード姿のラインダンスはカンカンではないと述べたが、それではこれはいつからあるのか調べたい。おそらく日本国内では宝塚歌劇団と関係している。また、バーレスク的なものとの関連について知りたく思う。そもそもバーレスクとは何か、僕はよくわかっていない。日本語版のウィキペディアのバーレスクの記事には、乳首と陰部に前貼りを貼っただけの姿でパフォーマンスをする女性の写真がある。リンクは張らないが、鍛えられたきれいな体だなあ、僕も筋トレ頑張らなきゃなあ、とは思う。しかし、欲望はそこまで感じなかった。隙がないのである。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/brightsoda
返信
賛否両論とされる作品は実際のところ単なる失敗作であることが多いって話をしようと思う
https://togetter.com/li/1443974
このまとめのツイ主は「ポニョのキャラがスピード違反をしていたからポニョが好きじゃない」と言う人を見たそうだ
これに対し「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」みたいな超的外れな煽りをする人がわらわらいる(このまとめのコメ欄にはあまりいないが類似まとめの方にはたくさんいた気がする)
また、「そうだよね、因果応報は大事だよね」というのは実は足りない
例えば物語の現実と違う点を嫌がる人がいる じゃがいも警察と呼ばれる人などだ
それに対して「そんな細かいこと言うなよww歴史書でも読んでろ」とか言う人は絶対に許さない 理由は2で
また、「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というのは惜しい、大きさはたいてい関係あるが擬似相関にすぎない
じゃあ何なのか
答えはリアリティラインなどと呼ばれている…しかしこの言葉は意味がふわふわしており人によって捉え方が違う、だから私がここではっきり定める
ア:作者が現実世界と物語世界の世界観の距離を把握しているように見える
イ:作者が物語世界の世界観と物語中の個別の出来事の距離を把握しているように見える
(作者の本当の気持ちなどわかるはずがないのでそれらしく見えればいい)
この2つの項目はほとんど連動するから分けなくてもいいようなものだけど一応分けておく
これを守れば良作になるわけではなく最低条件にすぎない
今まで見た中で不快と言われる作品や大量のアンチと意味不明な信者を生む作品はすべてそれらの客観的な距離と作者の想定していると思わしき距離が食い違っていた(反例熱烈待望)
話がめちゃくちゃ過ぎて客観的な距離もわからないのは愛すべきクソなどと呼ばれ、不快とは言われない傾向がある
(愛されるクソと嫌われるクソをこんなに明快に区分けした人間初めてなんじゃないか…?)
ただそういう傾向があると言うことしかできない
わかりにくいのでまず項目を満たす例を挙げる
そして冒頭で「この世界は恐ろしい世界だ」ということをはっきり示している
これは作者が平和な現実世界と恐ろしい北斗世界の隔たりを把握していそうだということを示すので項目アを満たす
これは作者が平和なコナン世界と恐ろしい犯罪者の隔たりを把握していそうだということを示すので項目イを満たす
現実世界の世界観は時代により変わるので、それとともに物語世界との距離も移り変わっていく
すると作者が想定している(作者の時代の)現実ー物語間の距離と読者の感じる(読者の時代の)現実ー物語間の距離が食い違って項目アを満たさなくなってしまう
古い物語などで「時代的に差別的な描写があります」と注意書きがあるのはそれを防ぐためだ
(余談だけどメクラ→視覚障害者にするような修正はどちらかというと現代語訳に近いと思う)
具体例としてはサムライ8と妹の姉を挙げておこう
サムライ8は
主人公ほかメインキャラ達は義(現実世界ではクズとみなされるような精神)を持っている限り体がバラバラになっても死なない、という悪趣味さとグロさを併せ持った設定を作者が爽快王道バトルものだと思い込んでいるっぽいことが項目アに反している
妹の姉は
作者は「現在日本社会と似たような物語世界/物語世界基準で普通の姉や他の人々/物語世界基準から距離のある妹」という設定で「普通だった姉が妹に影響されて姉も物語世界基準から離れていく」という姉妹の関係性の話にしたかったんだろうと思われるが
こちらからは「現在日本社会とかなり違う物語世界(現代日本でヌードモデルの同意を得ずに描いてはいけない。妹が姉に許可を取っていないことが分かった時点であの絵は取り下げられて妹は注意されるはず)/物語世界基準で普通の妹や他の人々/嫌がってる姉」という設定に見える
ここで項目アとイに反しているせいで読者の認識が狂い「普通だった姉がひどい目に遭って変な世界に必死で迎合する」というかわいそうな話に見えてしまうのだ
この2つの項目を見れば「そうだよね、因果応報は大事だよね」と言う人がいる理由がわかる…物語世界基準で良いことをしたキャラが幸せになり悪いことをしたキャラに罰が下るのは、物語世界の世界観とそのキャラの言動の距離を作者が把握していることを示し項目イを満たすための定番で効果の高い方法だ
ただしあくまで方法の1つに過ぎず本質ではないので批評としては足りない
「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というがこれは惜しい
作者が物語を組み上げるために注意して工夫して作った嘘=現実との距離は大きいことが多いが
単なる勘違いや手抜きで生まれた、作者の把握してないような嘘は小さくてしょぼいことが多いって話 だから擬似相関
「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」などというのが超的外れなのは、現実世界と物語中の個別の出来事の距離の長さという項目アともイとも無関係なことについて喋ってるからだ
これ作品の評価とはあまり関係ないくせにわかりやすいのでこういう輩に使われやすくて困る
「どうしてもグロが見られない」「子供や動物が死ぬのは嫌だ」と言ってそういう作品を嫌がる人はいるが、そういう人はあくまで苦手だと言ってすっと離れていくことが多くて、嫌いだと本気で怒ることは少ないんだなーこれが
私が縦笛なめなめVRについて「まぁいいかな」と言ったのは「軽度の性的コンテンツ」とゲームの説明に明記してあるから
こういう表示には2種類の効果がある
1つ目は子供に触らせないこと
2つ目は「作者はこれを過激な表現だとわかっている」というアピール
この2つ目によって項目アの条件を満たしているので別に構わないと思った
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/junglejungle
犯罪が描写される場合には、汚らわしく卑劣な行為として描かれるべきである。
っていう条文があったのか
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/brightsoda
返信
賛否両論とされる作品は実際のところ単なる失敗作であることが多いって話をしようと思う
https://togetter.com/li/1443974
このまとめのツイ主は「ポニョのキャラがスピード違反をしていたからポニョが好きじゃない」と言う人を見たそうだ
これに対し「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」みたいな超的外れな煽りをする人がわらわらいる(このまとめのコメ欄にはあまりいないが類似まとめの方にはたくさんいた気がする)
また、「そうだよね、因果応報は大事だよね」というのは実は足りない
例えば物語の現実と違う点を嫌がる人がいる じゃがいも警察と呼ばれる人などだ
それに対して「そんな細かいこと言うなよww歴史書でも読んでろ」とか言う人は絶対に許さない 理由は後ほど
また、「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というのは惜しい、大きさはたいてい関係あるが擬似相関にすぎない
じゃあ何なのか
答えはリアリティラインなどと呼ばれている…しかしこの言葉は意味がふわふわしており人によって捉え方が違う、だから私がここではっきり定める
ア:作者が現実世界と物語世界の世界観の距離を把握しているように見える
イ:作者が物語世界の世界観と物語中の個別の出来事の距離を把握しているように見える
(作者の本当の気持ちなどわかるはずがないのでそれらしく見えればいい)
この2つの項目はほとんど連動するから分けなくてもいいようなものだけど一応分けておく
これを守れば良作になるわけではなく最低条件にすぎない
今まで見た中で不快と言われる作品や大量のアンチと意味不明な信者を生む作品はすべてそれらの客観的な距離と作者の想定していると思わしき距離が食い違っていた(反例熱烈待望)
話がめちゃくちゃ過ぎて客観的な距離もわからないのは愛すべきクソなどと呼ばれ、不快とは言われない傾向がある
(愛されるクソと嫌われるクソをこんなに明快に区分けした人間初めてなんじゃないか…?)
ただそういう傾向があると言うことしかできない
わかりにくいのでまず項目を満たす例を挙げる
そして冒頭で「この世界は恐ろしい世界だ」ということをはっきり示している
これは作者が平和な現実世界と恐ろしい北斗世界の隔たりを把握していそうだということを示すので項目アを満たす
これは作者が平和なコナン世界と恐ろしい犯罪者の隔たりを把握していそうだということを示すので項目イを満たす
現実世界の世界観は時代により変わるので、それとともに物語世界との距離も移り変わっていく
すると作者が想定している(作者の時代の)現実ー物語間の距離と読者の感じる(読者の時代の)現実ー物語間の距離が食い違って項目アを満たさなくなってしまう
古い物語などで「時代的に差別的な描写があります」と注意書きがあるのはそれを防ぐためだ
(余談だけどメクラ→視覚障害者にするような修正はどちらかというと現代語訳に近いと思う)
具体例としてはサムライ8と妹の姉を挙げておこう
サムライ8は
主人公ほかメインキャラ達は義(現実世界ではクズとみなされるような精神)を持っている限り体がバラバラになっても死なない、という悪趣味さとグロさを併せ持った設定を作者が爽快王道バトルものだと思い込んでいるっぽいことが項目アに反している
妹の姉は
作者は「現在日本社会と似たような物語世界/物語世界基準で普通の姉や他の人々/物語世界基準から距離のある妹」という設定で「普通だった姉が妹に影響されて姉も物語世界基準から離れていく」という姉妹の関係性の話にしたかったんだろうと思われるが
こちらからは「現在日本社会とかなり違う物語世界(現代日本でヌードモデルの同意を得ずに描いてはいけない。妹が姉に許可を取っていないことが分かった時点であの絵は取り下げられて妹は注意されるはず)/物語世界基準で普通の妹や他の人々/嫌がってる姉」という設定に見える
ここで項目アとイに反しているせいで読者の認識が狂い「普通だった姉がひどい目に遭って変な世界に必死で迎合する」というかわいそうな話に見えてしまうのだ
この2つの項目を見れば「そうだよね、因果応報は大事だよね」と言う人がいる理由がわかる…物語世界基準で良いことをしたキャラが幸せになり悪いことをしたキャラに罰が下るのは、物語世界の世界観とそのキャラの言動の距離を作者が把握していることを示し項目イを満たすための定番で効果の高い方法だ
ただしあくまで方法の1つに過ぎず本質ではないので批評としては足りない
「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というがこれは惜しい
作者が物語を組み上げるために注意して工夫して作った嘘=現実との距離は大きいことが多いが
単なる勘違いや手抜きで生まれた、作者の把握してないような嘘は小さくてしょぼいことが多いって話 だから擬似相関
「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」などというのが超的外れなのは、現実世界と物語中の個別の出来事の距離の長さという項目アともイとも無関係なことについて喋ってるからだ
これ作品の評価とはあまり関係ないくせにわかりやすいのでこういう輩に使われやすくて困る
「どうしてもグロが見られない」「子供や動物が死ぬのは嫌だ」と言ってそういう作品を嫌がる人はいるが、そういう人はあくまで苦手だと言ってすっと離れていくことが多くて、嫌いだと本気で怒ることは少ないんだなーこれが
私が縦笛なめなめVRについて「まぁいいかな」と言ったのは「軽度の性的コンテンツ」とゲームの説明に明記してあるから
こういう表示には2種類の効果がある
1つ目は子供に触らせないこと
2つ目は「作者はこれを過激な表現だとわかっている」というアピール
この2つ目によって項目アの条件を満たしているので別に構わないと思った
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/junglejungle
犯罪が描写される場合には、汚らわしく卑劣な行為として描かれるべきである。
っていう条文があったのか
もちろん相手の許可を取って顔は映らない角度にして撮ったものだ。
元々はブログでマニアの間だけでやっていたのだけど、ツイッターに移行したらかなりPVを稼ぐようになってしまった。
驚いたことに、動画を見た人から「私にもクンニしてください」とDMが来るようになった。
ヌードモデル募集掲示板で探していたクンニ相手が、向こうから来るようになった。
ここから変なサイクルが回りだした。DMがきて、それを動画に撮ってアップしたら、またDMがくる。
撮るのはだいたい平日の夜。ラブホか、たまに相手の家に行くこともある(滅多にないが)。
別に動画が凝っているわけじゃない。簡単なプロフィールと女の子が喘いでいるだけである。
動画を上げるたびにクンニ依頼が来る。あまりにも依頼が来るので、とうとう有料にした。1回1時間1万円。
これで月に数件ぐらいになるだろう、と思っていたが驚いたことにほとんど減らなかった。
もちろんすっぽかされることも少なくない。だが先月はクンニだけで30万以上の副収入となった。
今のところ年末まで24件の依頼が埋まっている。リピーターも多い。プライベートなんてなくなってしまった。
会社行ってクンニ相手と会って、家に帰って寝るだけの毎日だ。休日は3件とか入っている。
顧客で一番多いのは20代後半~30代前半。それより下はほぼいない。
面白いのは今は「動画撮らないの?」「アップしないの?」と向こうから言ってくること。正直、もうあげなくても依頼はくるんだが、せっつかれるのでアップしている。
件の漫画を読んだのが例のバズってる批判ブログ(へのブクマコメント、への当人からの返答)がきっかけだったため、当初から批判よりのバイアスがかかっていることは否めない。
フーン、知らなかったけど読んでみよう。
→漫画としてものすごく上手く出来ていて面白い。故に、軋轢を抱えた姉妹の芸術へかける熱い思いと家族愛の物語として爽やかな青春譚のようにさらりと読まされてしまう。
幸いなことに、『尊い』などと絶賛する声や批判への批判はタイムラインには現れないが、無言でながやまこはるちゃんのツイートのリツイートが流れてくるのを見てはぞっとしてしまう。
この違和感の正体を探るように批判よりのツイートを探してはうんうん、と頷いて安堵感を得ている自分は全くもって卑怯な人間だと思う。卑怯が極まって、結局こうして初めて増田に書いていたりするくらいには。
以下、個人的なあれやこれやを書かせてもらう。
考えたままつらつら書いたのでまとまっていないし、ろくに推敲もしていないので読みづらいと思う。
当人の了承なく作成されたアイコラが校内に貼り出され、無遠慮な性的からかいへの苦痛を訴えるも「芸術だから」「妹はあなたを愛しているから」をまるで免罪符か何かのように振りかざされ、訴えを取り下げられる。
苦痛を訴えた当人は自らに課せられた性的な幻想を打ち崩すセルフヌード作品でアイコラ作者に「勝利」する。
自らを打ち負かした当人にますます心酔するアイコラ作者は当人の断りなく、芸術家でありミューズである彼女のところに押しかける。
行動だけを取れば狂気の押しかけストーカーであるアイコラ作者の暴挙は批判されない。
そして姉はセルフヌードで妹を打ち負かしたことにより、芸術と称したアイコラを生み出した「妹」からの屈辱を跳ね返し、彼女もまた、妹を心から愛しているのだと証明した(という幻想を抱かれている)から。
類まれな才能を持ち、嫉妬と羨望で火花を散らし合うライバル同士でありながら、誰よりも身近な存在である「姉妹」という関係性、妹からの狂気を孕んだ一方的な執着と崇拝。
妹のじっとりとしたまなざしには、うがった目ではなく「性的なまなざし」が見受けられる。
美化したなまめかしい体つきで腰をくねらせて悩ましげな表情を見せる幻想の「姉」は妹の性的願望の現れであり、だからこそ、絵を見たものは性的な欲望をそこに向ける。
自身の性的消費にショックを受けた姉は、身勝手な幻想を打ち壊さんとばかりに貧相な胸で股を大きく広げ、好戦的な表情を見せつける自身のセルフヌードで妹に勝利する、というクライマックスは冒頭の「自身の性的消費」にショックを受けていた彼女が取った行動としては信じられないほど鮮やかで爽快感に溢れている。
『消費されることを拒んだ自身の裸体を自ら晒し、屈辱を跳ね返す』
並大抵の人間に出来ることではないだろう。
『自分の裸を無断で見世物にされて本気で嫌がっていた、自分の感覚と近しいものを持った思春期の女の子』の物語を読んでいたと思っていたら、彼女は超人だったことが明かされ、別々の道を歩むと思っていた芸術家二人は「姉妹だから」というある種の血族の呪いにより、べったりと癒着した関係が続くのだと示唆されて物語は終わる。
『素敵なお話』としてうっとりしようにも、あまりに妹の行動、周囲の無邪気さが不快で、それらに対してとった姉の行動、その強靭さは信じがたく、『冷静に考えるとめちゃくちゃ嫌な話なのに物語として綺麗に落ちてるところがすごい』という薄ら寒さを感じた。
not for me.で済む話なのかもしれない。
要は『作者が萌えを貫くためにぶち壊した倫理観、価値観、キャラクターが自分には受け入れがたいもの』なのである。
お話だからいいじゃない、被害者はどこにもいないんだからで済むと言われればそれまでである。
とはいえ、作中の『性的被害を訴えても取り合ってもらえない』『家族愛だから、の一言で不快なことを受け入れることを強要される』『女体は軽々しく性的消費をしていいものとされている』といった事象はあまりに現実の世界での出来事と地続きで『理不尽な性的消費が受け流されている作品世界が気持ち悪い』のだと思う。
それが男性の手によって描かれていることを『社会における無自覚な暴力の再生産』として取る人がたくさん居たからこそ、『男性に置き換えると物語が成立しない、この世の中での男体と女体の扱われた方の不均衡』への嘆きも含めての批判が広がっているのだろう。
美術学校関係者から指摘されていた『ヌードモデルを性的に見ることの非常識さは業界への偏見を助長するもので許しがたい』という意見に関してはもっともだと思う。
性別を入れ替えては〜という意見を見て、少し前にモーニングの新人賞で話題になった漫画のことを思い出した。
この作品と同じく、芸術を志す兄弟のライバル心と羨望と執着が描かれ、結末はこの作品と同じように、兄弟間でのべったりとした癒着に落ち着いて終わっていた。
そういう話が好きな人が多いということに尽きるのだろう、結局のところは。