はてなキーワード: 暖かいとは
寒い→何か暖かいもの、身体にやさしいものを食べたい→調理技術がない、予算がない、時間がない→詰み
という課題を抱えている在宅勤務後の同志に捧げたいのが、意識低い系リゾットだ。
これは賃労働者の乏しい資源を最大限に活かす要請に応えるべく開発されたものだ。
こんなものリゾットじゃねえという異論はあるだろう。むしろ、もっと簡単にリゾットらしいものが作れるなら教えてほしいと思っている。
晩秋の夕方、すでに日は落ちている。賃労働者にとっての料理は、通勤電車を降りた瞬間から始まっている。
今日もようやく殺伐としたオフィスでの勤務が終わり(在宅勤務の穏やかな日々は遠い記憶の彼方だ)、朝まで少しだけの自分の時間が残っている。この時間を有効活用すべく、最適な調理を行いたい。できれば乏しい給与事情が問題にならない、安価で栄養価の高い、温かい料理がよい。
食材を調達する場所は、強いていえばどこでもよい。賃労働者向けの、駅前の格安スーパーなどもよいだろう。
店に入ったらまず青果コーナーで、秋らしいキノコを手に取ってほしい。これは好みでよい。一応のおすすめはエリンギだ。
次に精肉コーナーで、ひき肉の小分けパックを手に取ってほしい。牛豚のあいびきならコクが出る。あっさりしたものが食べたければ、鶏肉をカットしたものでもよい。
肉でなくシーフードが欲しければ、代わりに鮮魚コーナーに行こう。鱈などの白身魚が切り身で売っている。これをひとつかごに入れよう。むき身のエビやアサリなども小さいパックで置いてあれば、好みで入れてもいい。ここで重要なのは殻付きのものを買わないことだ。
冷凍食品コーナーに着いたか。それでは冷蔵庫の扉を開け、冷凍のミックス野菜を手に取り、かごに入れることだ。グリーンピースとかコーンが入った細切れの野菜ではなく、ブロッコリーやニンジンの大きめのカット野菜が入っている袋にしよう。これで野菜を買ってきて、洗い、切るという手間はなくなる。鬱で料理ができない人にもおすすめだ。
ここまでのプロセスが終わったら、ソース等の棚がある場所に行ってほしい。探すのはトマトソースだ。ここで重要なのは、調理済みのトマトソースを選ぶことだ。デルモンテでも、カゴメでもいい。注意すべきなのは、トマトピューレでもカットトマトでもないことだ。調理済みの、トマト以外に材料が入っているトマトソースをかごに入れるのだ。
次に米などの穀物が置いてあるコーナーに行こう。ここでの目当てはパックご飯だ。繰り返す。パックご飯だ。普通はレンジでチンするやつだ。できれば、100gずつの小分けパックが2つになっているものがよいだろう。理由は後でわかる。
最後にこれは任意だが、酒類のコーナーに行き、適当なワインを入手しよう。さきほど肉をかごに入れたなら赤ワインを、魚介類をかごに入れたなら白ワインだ。銘柄?一番安いメルシャンの小瓶でいい。飲むために買うのではないからだ。
家に油がないなら、オリーブオイルも買っておこう。ふだんそんなにオリーブオイルを使わないなら、サラダ油でもいい。いい感じのものを買おう。
買い物を終えて帰宅したらまず手洗いうがい。それがすんだら、肉(魚介類)のパックを開けて、塩コショウを振っておこう。分量? いい感じの量でいい。
次にキノコを適当に切る。いい感じのサイズであれば切り方は何でもいい。
もし家に電子レンジがあれば、冷凍のミックス野菜を適当な器に開けて、解凍しておこう。家に電子レンジがなければこのステップは不要だ。
次に適当な鍋かフライパンを出して、火をつけよう(IH調理器でももちろん可能だ)。鍋が温まってきたら油を引こう。
油がいい感じに温まってきたら、肉(魚介類)を入れて軽く炒めよう。火加減は、いい感じにだ。
いい感じになったら、ワインを少しだけ追加しよう。分量は、いい感じにだ。
ワインのアルコール分が飛んで、肉(魚介類)に火が通ったら、ミックス野菜を投入して、水分を軽く飛ばすくらいな感じで温める。電子レンジでミックス野菜を解凍しなかった場合は、ここで解凍してそのまま温めればいい。
野菜が温まってきたらキノコを入れよう。いい感じに火を通して、しんなりしてきたら頃合いだ。
次にトマトソースを開けて鍋に投入する。水も少し加える。分量? いい感じにだ。見当がつかなければ、ちょっとずつ足していけばいい。
再び鍋の中身が煮立ってきたら、パックご飯の封を開けよう。ご飯は事前に温める必要はない。パックから出してそのまま鍋に入れる。この際に隠し味としてコカ・コーラを入れる選択肢もあるがこれは任意だ。
ご飯の分量だが、ハーフサイズのパック1つ分くらいでよい。フルサイズのパックを入れると、ごはんが多くて、加熱を続けると糊のようになってしまうからだ。
味見をして、いい感じかどうか確かめよう。もうすこし塩気が欲しければ塩を足そう。
ご飯がいい感じにゆるゆるしてきたら、火を止めるか、保温用のとろ火にしよう(この際に焦げ付きに注意だ。保温する場合は適宜水を足すのがよいかもしれない)。
レードルで鍋の中身を器によそったら、意識低い系リゾットの出来上がりだ。好みでコショウなどを追加しながら食べよう。
他に何かもう1、2品用意したければ作ってもいいし、買ってきたものを開けてもよい。他に何もなくても心配ない。今作ったもので一食分食べた感じのする満腹感は得られるはずだ。
あまり深く考えず、買ってきたものをいい感じに鍋に放り込んで温めただけだが、それなりに自分で作った感のある、温かい、身体にやさしい料理が食べられるはずだ。
食べ終わったら面倒臭くなる前に食器と鍋を洗おう。キッチンをいい感じに片付ければ、すでに何かを成し遂げた気になるはずだ。こうして賃労働者の夜は更ける。温かいものを食べて、ゆっくり寝て、穏やかな朝を迎えてみてほしい。お疲れ様。
もしかすると見終わった直後にはピンとこないこともあるかもしれないけど
なんでかその後も心の中に残ると思う邦画。
2008年公開、橋口亮輔監督の一作。リリーフランキーと木村多江演じる夫妻の話。
生まれたばかりの子供が亡くなり歯車が狂いだす夫婦がそれを乗り越えるまでの軌跡を
描いた話。「めんどうくさいけど、いとおしい。いろいろあるけど、一緒にいたい。」
というキャッチコピーが作品をよく表している。夫婦っていいなって思える。
2011年公開。もとはNHKのスペシャルドラマだったものを劇場公開にしたもの。
阪神淡路大震災から15年後を舞台に、たまたまであった森山未來と佐藤江梨子が
神戸の街を夜通し歩く話。プロットだけ聞くととにかくつまらなそうなんだけど、
不思議と心にのこる傑作。しょうもない日々だしうまくいかないことばっかりだけど
なんだかんだ人生てすてたもんじゃないよね、と感じるというか。
今や日本で最も有名な監督のひとり是枝裕和監督の2008年の作品。
阿部寛演じる主人公が実家に帰省する日を描いた話。これまた淡々とした話なんだけど
淡々と胸にくる映画。たしかキャッチコピーは「人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない」
後悔後に立たずってのはわかってはいるけど、後悔することってどうしてもあって、
でもそれも含めて人生かー、まあ明日も適当にがんばろっか、となるような映画だと思う。
どの作品も上の紹介だともしかすると小難しかったり、説教臭かったり、あるいは暗い映画ぽく
思ってしまうかもしれないんだけど、とにかくどの映画も淡々として観ていてつかれるような内容でない点は
共通していてその点も凄いと思う。
なんというかどの作品もでてくる登場人物みんな欠点を抱えててるんだけど、なんというか
この時代の人はとてもよく歩く。とにかく歩く。1日に平均して30kmは平気で歩いている。
ありとあらゆるものがどこでも手に入るようになり、時間と場所を選ばなくなったことで、定住することが無意味になった。そのせいもあって彼ら彼女らは常に移動しながら生活している。夏は涼しいところに行き、冬は暖かいところに行く。21世紀以上に乗り物は発達しているが、特別な事情がない限り陸路は歩くのが当たり前になっている。
常に移動して生活するのにはもう一つ理由がある。この時代の社会は擬似的な狩猟採集社会として構築されているからだ。生命維持に必要な道具やインフラはどこでも手に入るが、嗜好品に分類されるコンテンツはあえて一部地域でしか手に入らないようになっている。だから心を満たすには歩き回らないといけない。そういう意味では21世紀より不便な面もあるが、幸福度は不思議と高い。
各地域の境界には検問所があり、そこで心と身体の健康のチェックが行われる。そこで何らかの問題が見つかった場合は、本人の同意のもと殺処分になる。幸福度の高さはこのあたりでも担保されている。もちろん一箇所に留まれば検問に引っかかることもないが、そのような生き方をするくらいなら素直に死を選ぶのがこの時代の一般的な価値観だ。
最初はそうでなかったが、次第にこの人と価値観が違うな、と思い始めた。
なんというか、知らんがなって思うことをするのだ。
私はツイッターで漫画を書いてるんだけれど、「この話、私さんに漫画にしてほしいな〜」とリプとかでなく呟いてくる
その話は、私の知らない分野だし、本人おもしろがってるけど、私からすると面白くないから描きたくない
見なかったフリをした
相互だし、やりとりがあるし、リムるほどではないと思っていた。
なぜ???
なぜ、参加してないアンソロに私がアイデア出さないといけない?
そもそも興味ねぇ。
絵を描かない人が、絵描きあつめて主催するんだ、へー好きにすれば?大変そう。と、すごーく生暖かい目で見ていたアンソロだった
アンソロメンバーだけで考えればいいのに、どうして部外者の私に聞くんだろう。
理解に苦しむ
しかし、そういう人は一人ではなく、以前も
「閲覧にアカウント登録必要な小説投稿サイトに小説投稿したから、興味がありそうなら、登録が必要だけど読んでくれ」
と言い出す、訳わからん人もいた
そのために、アカウント登録させるのはあり得ないし、あなたの小説にそこまで興味ない。その投稿サイトの中で楽しくやってればいいのに、どうして部外者に呼びかけてくるんだろう。
作品をそのまま画像で送付して読んでほしい、ならまだましだ。こちらにアクションを求めすぎる
私が自分が好きであげたもの、結果として誰も反応がなくても傷つかない
とそういった行動をしようとは思ったことがなかっただけに面倒臭い
断ったが、もう面倒くさい
リムったほうがいいな
私も仕事が立て込んでいた時、ぐらついた時があった。
しかし、クリニックにいったところで、ゴールが見えないし、薬の副作用も気になる
ニュースでは、クリニックを増やして気軽に行けるように、と言っていた。
それもいいだろう
けれども、どうしたら、自分のメンタルをコントロールできるか、悪くなる前に、こうなれば危ないと教えてあげることも大事ではないだろうか
一人で抱え込む状態
生活習慣の乱れ
こうなると人はメンタルのバランスを崩すと、もうすでに原因はいくつもわかっているのに、どうしてそれが起こりかねない社会構造を放置して、ダメになった時の対応を強化するのだろうか
予防するほうが効果があり、楽なのに
患者が増えている、というのは、医療機関にかかる人数が増えたというだけであり、純粋に患者が増えているのか?というのはわからないけれど
承前 : Part-4 https://anond.hatelabo.jp/20201006121559
次回 : Part-6 https://anond.hatelabo.jp/20201011065246
前回、交渉すればL4になれたのに交渉しなかった学生の例を紹介した。あまりのnaiveさに周りのgrown upは頭を抱えたが、ある意味で微笑ましい事例とも言える。
今回紹介するのはその逆で、ダメな交渉をしてしまい彼自身を含め関係者に苦々しい思いを残した。この例は今でも自分に怒りと後悔を覚えさせる。
増田にこのシリーズを書いた動機にも関わる。長くなるが、事の始まりから書いていく。
ある時、自分はある会社のある部署で働いていた。高ランクの技術者ばかりがいる部署で、非常に刺激的、かつ全員がいい人であった。
自由な雰囲気で、ランクや年齢に関わりなく皆が家族のように親しんでいた。その時の同僚とは今でもつながっている。COVIDが来てもZoomで乾杯をする仲だ。
ある年、その部署に新人が来た。仮に彼をペーターと呼ぼう。ペーターの雇い方は稀とは言わないが少し特殊であった。
ペーターは、やたら押しの強い人が多い気がするある国の出身で、やたら社交的な気がするある国の有名工科大でポスドクをしていた。
そして、その部署のあるmanagerがあるプロジェクトで必要な技術下調べをしているとき、彼の論文が目に留まった。
その論文を皆で議論しているうちに、著者のホームページを見てみるとポスドクであることが判明した。ということは求職中の可能性がある。専門家がいるならその人にそのまま実装してもらえばいいし、その後も戦力になるだろう。
そのmanager、のちにペーターの上司となる、が早速彼と連絡を取り、面接をすることに。自分も面接に加わった。高ランクの技術者たちとの質疑でも物怖じせず、専門分野でもかなりいい線を行っているという感触を得た。
ほかの社員も同様だ。すぐさまL4でオファーが出され、彼は渡米することになる。
我々はペーターを温かく迎え入れた。家族の一員である。ビザやGCのことでいろいろと相談にも乗ってあげた。
彼の専門分野は自分も興味を持っていたところなので議論も多くした。彼から学ぶことも多く、利発で高生産性という印象を強めた。春秋に富む若者だ。
さて、そうこうしているうちに彼とは無関係にその部署であることが起き始めた。人が辞め始めたのだ。
その部署は非常に心地よいところだったが、高騰を続けるシリコンバレーの給与水準(と家の価格)についていけていなかった。
ある程度の期間であれば仕方がないが、長期間続けばやりがい搾取である。暖かい家族のような、アットホームな職場、日々新しいことを学べます、しかし給与は奮わない、ブラックフラグ満貫である。
最初に辞めたのはアメリカ人であった。彼は利に聡く、情勢に通じ、交渉も上手であった。多くのオファーを得て、その中からさらに値を吊り上げ、TCを大幅に上げて出て行った。
そして我々は家族なので、そういった情報が共有された。なんというoutside world! 一人、また一人と彼に続いた。みなL7付近のオファーを大量に得、上手な交渉をしていった。
彼らの情報や手法は我ら家族に惜しみなく共有され、非常に学ぶところが多かった。交渉の成功例として次回以降にいくつか取り扱いたい。
また、彼らがうまく各企業に散らばってくれたおかげで、自分はいろいろな企業の情報を得ることができている。
ペーターは、一人残された。
ひどいな、と思ったが新しい職場で忙しく、どうすることもできない。ただ、機会があれば何かしてあげたいとは思っていた。
さて、自分は次の会社で忙しく働いていたのだが、他部署のある技術者と知り合いになった。仮に彼をアルムさんと呼ぼう。
アルムさんは年季の入った技術者で、ちょっと頑固なところはあるが自分のコードに誇りと情熱をもつ好漢だ。
自分が長年L6であることに不満は覚えつつも、金は求めない、自分のプロジェクトを成功させたい、と邁進していた。肩書上managerではあるが、軸足は今もコードに置かれている。
そんなアルムさんが自分のプロジェクトを加速させたいと願い出、無事に追加のheadcountが付与された。そして、いい人いないか、と自分に尋ねてきた。彼のプロジェクトはペーターの専門分野と少々重なりがあったので、自分はすぐにペーターのことを思い浮かべ、彼に連絡した。彼は他に行きたがっていた。渡りに船だ。
この時、自分はペーターのreferを正式にはしなかった。大抵の会社ではreferral bonusがあるが、自分はそんなことよりペーターの
助けになりたかったのだ。単に知り合いの中継ということにしてペーターをアルムに引き合わせ、自分はそ知らぬふりでアルムからどんな面接を予定しているかどんな素養を見ているか聞き出し、秘密裏にペーターに面接対策を施した。もちろん面接者は何人もいるが、最も重要なのはアルムさんの心象だ。
それがどれぐらい奏功したかわからないが、無事にアルムさんはペーターを気に入った。彼がペーターのことを褒め称えているのを聞いて、自分の責務を果たした気がした。
オファーが出され、1週間ほどたった。さてどうなったか、アルムさんに聞いてみた。
彼は苦虫を噛み潰したような表情で言った。
一週間前とは真逆の反応である。何があったのだ?詳しい話を聞き、自分は非常に混乱した。
アルムさんが出したL4のオファーを、ペーターは報酬が低すぎるといって、最低でもRSUがこれだけなければ、という数字を出してきたのだ。
その数字というのがL7に相当するものであった。なんだそれは。
経験のない人によくある、4年分のRSUと1年分のRSUを取り違えたのでは?自分も若いころ勘違いして舞い上がり、その後でがっかりしたことがある。恥ずかしい。アルムさんに質したが、ペーターは確かにこの数字を出したという。
訳が分からないのですぐにペーターを捕まえ、なぜそんなことをしたのか聞いた。自分は聞き役に徹した。
「あのオファーは安すぎるよ」
そうは思わなかったが・・。彼はL5を希望していたのか?交渉次第ではありえなくもない。転職はランク上げの好機である。
「...だってRSUからの収入がサラリーよりも低いじゃないか」
聞き役に徹するまでもなく、この時点で自分は声を失った。
「TCの大部分はRSUになるんだろ?Xさんはサラリーなんてpeanutだって言ってたよ」
XはL7でAmazonに行ったんだ。Amazonはサラリーが早々に頭打ちするためにRSU-heavyの特殊な場所だ。大体お前はL4じゃないか。
この時点で全容が大体見えてきた。彼は高ランクの技術者に囲まれ、彼らの武勇伝を、分け隔てない風潮の中で
聞いているうちに、とんでもない期待を持ち始めたのだ。以前の回で書いたようにランクが上がれば確かにTCの大部分がRSUになる。しかしL4やL5の段階ではまだまだそんなことはない。そもそも彼はL4などという用語さえ知らなかった。
「わかってるよ、交渉が大事なんだろ?discountしたオファーを最初に出すのは交渉なんだ。」
そんなことはない。アルムさんがdiscountをする動機が全くない。彼は小さなチームのmanagerであってRSU depletionを心配するのはもっとずっと上の人々である。彼はheadcountを埋めてさっさと仕事に戻りたいだけだ。大体今回の件はrecruiterの関与が最小限の、ほぼ直接hiringである。お前はそもそもrecruiterとhiring managerの違いが分かっているのか。
「交渉の仕方はわかっているよ。買う方が$10っていったら、売るほうが$100って言って、買う方が$20って言って・・・徐々に双方の提示を近づけていくんだろ。常識だよ」
どこの常識だ。
大阪のおばちゃんの値切り方か。お前の国は確かに南のほうだが、ミナミと次元トンネルでつながってるのか。いつからだ。
「値切り交渉になるだろうから少し高めの額を言っておいたよ。返事を待ってるんだけどなかなかこないんだよね、せかしてくれない?」
もう二度とアルムさんはお前と連絡を取らないよ。
彼は自分が忙しい中でお前のために面接をこしらえて、上司と交渉して迅速にオファーを作ってきたんだ。
オファーの作り直しにどれだけ手間がかかるのかわかってるのか。なぜ交渉の向うに自分と同じ、忙しい一人の人間がいることに気付けない。
自分のfair valueを事前に調査しておくことすらしなかったひよっこ技術者になんでほかの人間が汗をかかなければならない。
交渉をするにしても相手に迷惑をかけないやりようがいくらでもあっただろうが。大体お前competing offerもないのに交渉することの意味を理解しているのか。
自分は怒りと絶望で頭がおかしくなりそうだった。なんなんだこいつは。自分を何だと思っているんだ。
Naive greedy ignorant selfish tard. Do ur f-ing DD or never leave your mom's basement!!!
そして、自分やほかのgrown upどもが転職未経験の彼に不完全な形で吹き込んでしまった情報が遠因であると知り、なんてやつを紹介してしまったんだ、自分が関わっていることを知られるとまずい、と思い始めた。
まず、アルムさんにはペーターと連絡を取っていることは以降も完全に秘密とした。馬鹿げたやつもいるもんだ、彼のことはよく知らないけどびっくりだね、と同調に回った。
アルムさんはペーターからのメールは全部無視するよ、と言っていたので多分ばれてはいない。
そして、ペーターには、以降連絡を取らなかった。残念だったね、どうしてだろうね、とだけ言っておいた。
その後、ペーターがある会社にL4で移ったのを知った。いい会社だし失敗しなければ彼ならL6まではいけるだろう。
今回L5になる可能性もあったのをふいにしたが、長い目で見れば大した影響はないのかもしれない。ただ、自分は彼と金輪際関わり合いになりたくない。
ペーターへの怒りは絶えないが、時間をおいて何が悪かったのか冷静に分析してみた。
自分にはあった。では違いは何だ。due diligenceだというのが私の結論だ。
分からないなら調べろ。levels.fyiでもTeamblindの糞に塗れた情報でもいいからとにかく集めて分析しろ。
どこで情報を集めるのかわからないなら人脈・Google何でもいいから駆使して聞きまわれ。
人生の重要な転機なんだから当然する。ペーターはしなかった。そしてそれがほかの要素と相まってこんな結果となったのだ。
こういったことに強いのはいつもアメリカ人だ。日本人やそのほか外国人は開始地点からして遅れている。悲しい。どうすればせめて開始地点を近づけられるか。
情報だ。自分はそれを伝えたかった。できれば不完全でない形で。相場も機微も常識も、USに行く前に最低限抑えておいて欲しい。
「TCの大部分がRSUになるのか、ふむふむ」とだけ受け取る人を少なくしたい。これが増田に投稿した理由の一つである。
もう一つの理由は、誰にも言えない怒りを周囲の誰も見ないところに便所の落書きとして吐き出したかったのだ。すっきり快感である。
最初に、こういったものは初めてなので読みづらいかもしれません。暇だしやってみっか!!ってなっただけなので暖かい目で読んでやってください。
今年から女子大生になって堂々と化粧ができるようになった。高校は自称進学校で化粧なんてしようものならハチャメチャに怒られる。なので小心者の私はせいぜい休日に友達と遊ぶ時にちょっとリップとアイシャドウを塗るくらいだった。なので高校生の時は「大学生になったら好きなようにオシャレしたりできるの楽しみだな~~」と思っていた。
受験でひいひい言いつつもなんとか私は大学生になれた。が、コロナのおかげで今日までほとんど登校していない。入学式もなくなり授業もオンラインやらオンデマンドやらで同級生ともまだ数人としか知り合ってない。小学生の頃から筋金入りの出不精アニオタなので自粛ライフもそれなりに楽しんでいたがさすがに暇。ということで化粧の練習をすることにした。
最初はもう酷いものだった。濃すぎたり、眉毛がおかしなことになったり、アイラインも全然引けなかった。美容系YouTuberの皆様の動画を死ぬほど観たりTwitterの美容垢を死ぬほど見たり母親に「変じゃない!?どう!?」と死ぬほど聞いたおかげでやっと人並みにはできるようになった、と思う。インターネットの発達した時代に死ぬほど聞いても怒らない母のもとに生まれて良かった。
さて化粧にそれなりに慣れてきた今、化粧が結構楽しい。これから今までの生活に戻って毎朝するようになったらどうなるかわからないけれど、自分の顔が少し華やかになるのはやっぱり気分がいい。ちょっとつり目気味なのが気になっていたけれどアイラインを跳ね上げて描くとなんかカッコイイし。ラメを瞼にのせると全人類に勝てる気がする。気がするだけだけど。「メイクは武装」と誰かがツイートしているのを見たけれどまさにそんな感じ。元々どちらかと言えばポジティブなので「今日のわたくし最高ですわよ!!!!!」とツイートする日が増えた。楽しい。何が言いたいかよくわからなくなってきてしまったがとりあえず私は今化粧が楽しいのだ。
ルパン三世を観ながら化粧をしたらなんかいい女になれた気がする!楽しい!!と思ったので文章化してついでにインターネットに晒そう!!と一気に書いたらものすごい長文になってしまった。こんな中身もないただの長文を最後まで読んでくれた方がいたらありがとうございました。
負け続けている。
「次負けたら終わり」と言われて結構経っているが、やはり負けている。
負けるたびにファンが減っていき、ずっと定額の小金を落としてきた俺が最大スポンサーになりつつある勢いだ。
応援し始めて、最初の頃は推しが負けるのが耐えられないほど辛かった。
辛すぎて実際の試合を見ず、結果だけを布団にくるまりながら見るという風になっていった。
そして恐る恐る結果を確認すると…
負けている…。
俺は悶絶した。
「やべぇよ…」という空気の中、カラ元気で「次はもう、本当に頑張ります!今から練習します!なので…応援よろしくお願いします!」という言葉がむなしく響く。
うん、そうだよね、次を考えよう!とコメントして定額課金。「〇〇さん、いつも本当にありがとうございます!〇〇さんのために頑張ります!」
うんうん、俺じゃなくていいよ。自分のために頑張ってと思いながらまた布団に入る。
そして来るべき試合。
布団の中で結果を待つ。
今度こそ…と思いながら結果確認→負けている…→頑張ります!→〇〇さん、ありがとうございます!
もしかしたら俺の定額課金が負けのジンクスなのでは?と思い、課金額を変えてみたこともある。
しかし。
負けている…。
こうなれば試合会場に直接行って応援するべきなのでは?と思い、有休をとってチケットを取って飛行機に乗り、いってみたこともある。
しかし。
負けている…。
そしてついに、推しの負けが我が事以上に辛くなり、仕事にも支障が出てきそうになった。
そこでメンタルトレーニングの本を買ったり、体験講座に出てみたりした。
アドラー心理学とか、認知行動療法とか、占い師のところに行くとか。
効果は抜群だった。
「他人と自分を同一化しすぎないこと」を学び、実践を通じて習得した俺は、推しの負けに心は揺るがなくなっていた。
占いはまぁ、毛嫌いする人も多かろうが、占い師というのはある意味で「他者と自分を切り分ける」プロフェッショナルなので、定期的にその切り分けテクニックを盗みに行っていた。
これがカウンセラーだと、自分の担当をとっかえひっかえするのは難しいが、占い師は一回数千年~1万円でいける。かなり勉強になった。お勧めはしないけど。
で、推しと自分の切り分けをなしえた俺は、揺らぐことなく推しの負けを受け入れられるようになった。
メンタルトレーニングの間も推しは負けていたが、推しの負けによる心の動揺度がどんどん減っていくのを実感した。
確実に俺は成長していた。仕事でも、同僚が皆嫌がる厄介な取引先に率先して突入することにより、社内の評価も上がった。
ミスをして手ひどく怒られたときも、俺の心は(あんまり)揺らぐことはなかった。
認知行動療法に確かな手ごたえを感じた。
最近では社内のメンタルトレーニングの講師を始めている。そろそろ何らかのメンタル関係の資格も取ろうと思っている。
話は大幅に逸れたが、そんな中でも推しは負けている。
しかし心は微動だにせず、落ち着いて定額課金して、トレーニングで培った圧倒的に暖かいサポートの言葉をコメントできるようになった。
推しもいつも以上に喜んでくれた。
しかし、負けている。
まぁ、別に負けることはそれほど問題じゃない。推しは負けているとはいえ、一般人からすると雲の上の存在だ。実力は凄い。
なにより、俺が推しを応援する理由は強いかどうかではない。勝っているから応援しているわけではないのだ。
人柄とか、話の面白さとか…。
まぁこれ、普通に自分に認知バイアスかかってて「長く応援しているからそれを続けてるだけ」なんだろうけどな。
別に俺が課金をやめたからって推しはそんな気にしないのではないかと思い始めた。
それは当たり前のことかもしれない。
いや、これだめだな。
やめよう。
本当は、「負け続ける推しを応援する情熱を持ち続けるコツは何か?」と聞こうと思ったんだけど、解決してしまった。
アカウントも引き上げるか。
よし終わった。
でも、あれだけ負けてるのに頑張れるってすごいよなぁ。
むしろあの推しこそがメンタルセミナーやるべきなんじゃないかと思うくらいだ。
めっちゃ通う自信あるな俺。
まぁそれはないだろうけど、試合、がんばってほしい。
一般的な市販の靴下と比べて5倍くらいの回数履いて洗濯を繰り返してもまだまだ履ける。
市販の靴下は伸縮性を出すためにポリウレタンや天然ゴムのゴム糸が編み込まれていて
洗濯を繰り返すうちにこれが劣化して機能しなくなり、ビローンと伸びっぱなしになるのだが
手編み靴下はゴムを編みこまなくてもフィットするように作ることが出来るのでこの問題が無いのだ。
ウールはあたたかい。ほどよい吸湿性もあるので蒸れない。
手編みの靴下は、ゴムが入っている市販の靴下に比べて伸縮性があまりない。
特に縦方向にはほとんど伸びないのでサイズ選びは大切だが、サイズが合っていれば
ゴムの締め付けが無いにもかかわらず足にピタリとフィットして気持ちが良い。
特にオススメしたいのは「三角マチ」があるタイプの手編み靴下だ。
これは無印良品の直角靴下の元ネタになった靴下の編み方で、くるぶしの下のあたりから足の側面にかけて
三角形のマチを作ってある。これがあることで、靴下をゴムの力で無理やり足に沿わせるのではなく
この靴下は中にわたを詰めたとしたら、つま先が薄く甲が分厚く、丸く飛び出たかかとがある、人間の足の形になるのだ。
人間の足の形とはだいぶ違うブーメランのような形にならないだろうか?
余談だが無印良品の直角靴下はかかとこそ一般的な靴下よりは立体的になっているものの、
この三角マチを再現していないのでなんとも中途半端なものになってしまっていると思う。
最近は衣類に空いた穴を敢えて目立つ色の糸で可愛らしく繕う「ダーニング」という手芸が流行っているらしい。
編み物をするよりははるかに簡単なこの方法で、靴下を補修することができる。
手編みの靴下の雰囲気によく合うので、ダーニングで補修した部分もまた可愛くて愛着がわく。
できれば自分で編めるようになってほしい。欧米を中心に、靴下編みを趣味とする人は多いので
多種多様な靴下用の毛糸が売られている。シーズンごとの新色が出るたびに糸を買ってしまい、
編むのが追いつかないくらいだ。気に入った糸で、好きな編み方で、自分にぴったりのサイズの靴下を
編むのはとても楽しい。ただし向き不向きがあるので、編もうとしてみて挫折したとしても手編みの靴下のことは
嫌いにならないでほしい。
ネットショップで手編み靴下を売っている人も沢山いるので(サイズオーダーも受けてくれたりする)買ってみてほしい。
以上。足をあたためて良い秋冬を過ごしましょう。
前回はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20200904203318
ビジネス本を根拠として、娯楽を健全と不健全に分けるのは余計なお世話とか、「人間」と「作者という存在」を同一視するのは不健康とか、コンテンツを精神的に健康/不健康で断ずる行為はよくないなどの意見をいただいた。
特に、「私自身が敵意を持って何かを貶めたい意図を持っているので、記事そのものが精神的に不健康である」という意見には唸らされた。
一般に販売されているゲームで、自分がクリアしたことのあるものに該当はなかった。
やはり倫理基準があるので、人権侵害をメインに扱ったゲームは審査を通りにくいし、そもそも売れないのだろう。
それに、私がここに書かなくても、「グロ 残虐 ゲーム」などの単語でググってもらうと、有志がそういうコンテンツを紹介しているページに易々と辿り着くことができる。
なので、今回はフリーゲームを取り上げたい。フリゲは主に個人が制作するものなので、その人の心の健康がありありと現れる。考察にはうってつけだ。
以下に紹介する。できるだけネタバレはしない。
見た目はほんわかしているが、中身はエログロ(特にグロ)。見た目はMOTHER2のような暖かい印象を受ける。
プレイを初めて1時間以内に、このゲームの異常性に気が付くことだろう。気持ちが悪いタイプの異常性ではなくて、続きが気になるタイプの異常性だ。
ネーミングセンスが独特であり、作中の随所に現れる。
どこが精神的に不健康なのかといえば、ストーリーの救いのなさだ。特に2。1と3は、グロ展開を挟みつつも笑えて感動できる物語なのだが、2はとにかく救いようがない。
特にラストステージ。人によっては恐怖で進めなくなる。ニコニコ動画の実況プレイ動画にも、「怖すぎて〇〇さんの動画に来ましたwww」といったコメントが並んでいる。
私自身も当時は震えた。深夜1時頃にクリアしたのだが、翌日にあった英語の演習でミスを繰り返したのを覚えている。
あの時の私は、恐怖を感じていたんだろうか?
違うと思う。あのラストステージというのは、ぱりぱりうめというキャラクターの抱える苦痛や嫉妬や絶望や愛や夢が、画面を通じてプレイヤーを殴りつけるとしか言いようのない展開だったのだけど、その感情に心を揺さぶられたのだ。だから涙が止まらなかったのだと今では思う。
大学生4人(男2女2)が旅行に行く。そのうちの一人が入巣(いりす)京子。旅行先で楽しんでいる途中、事件が起こって1人ずつ行方不明になっていく。
パズルゲームでの得点によって物語が分岐する。バッドエンドだと、いりすが友人を したのを示唆するEDになる。高得点を取ると、行方不明は友人たちによる仕込みであったことがわかる。サプライズな誕生日パーティーをしたかっただけなのだ。
プレイを続けていると、ゲームフォルダ内のデータが少しずつ置き換わっていることに気が付く。テキストファイルや画像データが現れたり消えたりする。
最後までプレイすると、いりすのキャラクター性や、旅行について考えていたことや、男側の主人公であるうーじの抱える闇が明らかになっていく。
いったいどこが精神的に不健康なのかというと、〇〇と見せかけて、実は〇〇でした!みたいな展開の連続であり、特にその裏側に残虐性(しつこいようだがネタバレはしない)が潜んでいる。
以前の作品である「愛と勇気とかしわもち」でもそうなのだが、プレイヤーを悪い意味でビビらせることに全力を注いでいる。
プレイヤーの心臓に冷たい何かが突き刺さって、心臓が凍り付いて、血管が破裂するような恐怖を味わわせることに作者は快感を覚えているのでは?と邪推せざるを得ないほどに、このゲームはプレイヤーを驚かせてくれる。
数あるフリーゲームの中でも最大級の――精神的に不健康な作品だ。
ゲーム冒頭の説明にあるように、精神疾患の人や未成年は絶対にプレイしてはいけない。一般の人にもおすすめできない。やっていいのは恐怖を快感に変換できる人だけだ。
体調がおかしいと思ったら、プレイしている最中でも中止すべきだ。例えば、2周目に入ったあたりで、「ここで止めたら負けだ」とか、「モニカ、てめーは絶対○す」などの感想を抱くかもしれないが、それでも途中でやめるという選択はありだ。
作者、特に2周目の恐怖演出を担当した人間の悪意が突き刺さってくる。どのような理由でも説明できないほどに悪趣味な演出だった。
「このゲームを作った人たちは、学生時代に苛めや虐待などのひどい目に遭って、社会に恨みを持つようになったんじゃないか? だから、こんな残酷なゲームを作って社会に復讐しようとしたんじゃないか?」
私はそう推測した。
「違う。このゲームは高い評価じゃないか」という意見もあると思うが、典型的な確証バイアスだ。別の言葉で言えば、コミットメントと一貫性。
プレイヤーは、恐怖と戦いながら数時間~数日をかけてゲームをクリアする。敵だと思っていた存在は、自分のことを(以下略)。ハッピーエンドではなかったけど、恐怖に打ち勝ってこのゲームをクリアできた。俺はチキンじゃない!
終わり良ければ総て良しという言葉がある。悪趣味な演出にどれだけイライラしたとして、最後までクリアしてしまった後で、このゲームをプレイした時間が無駄だったと認めることはできない。
そんなことをすると自分は愚か者だったことになる。だからこそ、個性的なゲームだったね、just monicaだったねと高い評価を与えることで、自分の考え方と行動に一貫性をもたせようとする。それがこのゲームが高く評価される理由のひとつだ。
今までにないタイプのゲームだったのは間違いない。ホラーゲームが好きな人にとっては珠玉の一品だったと思う。私も、このドキドキ文学部!に評価を投じた。★4つだったと記憶している。
名前だけは聞いたことがあると思う。エログロかと言われればそのとおりだ。
この作品は、上下巻の約700ページ(しかも行間がほとんどない)に渡って以下のような展開が続く。
①ジュリエット(とその仲間たち)が乱痴気騒ぎを起こして一般人を強姦したり殺したりする
②騒ぎの最中かその前後のパートで、ジュリエット(とその仲間たち)による哲学論議が行われる
③ジュリエット(とその仲間たち)が不仲になって仲間を殺す。あるいは新しい仲間を作る
エログロ小説と世間では見られているが、実は哲学小説だ。作者であるマルキ・ド・サドは貴族出身でありながら、変態行為が露わになって逮捕→投獄というパターンで小説を書き始めたタイプの人だ。
この小説が有名になった理由のひとつは、サド自身が社会に対して抱いていた恨み(今でいう反社会性障害?)から生じるエログロ描写の反面、その知性や教養から精緻に描かれる人間社会に対する哲学的な理解の鮮やかさが奇妙なほどマッチしていることによる。
哲学的な描写の例として以下の例を挙げる。主人公であるジュリエットの序盤の師匠であるデルベーヌ夫人の科白だ。この小説のキャラクターは喋りの量が半端ない。ドストエフスキー並みだ。
※一部のみを抜き出した。この場面の文字数は引用箇所の軽く数倍はある。
「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に申しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」
「そのとおりよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判がよいと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たない財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんな犠牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか? P.16
今時の心理学の本に載っていそうな感じではある。アドラーの『嫌われる勇気』に通じるものがある。
悪徳の栄えで論じられている思想はニーチェやハイデガーに通じるものがある。この世に存在し続けるものに重きを置いている。
私にとっては面白い小説ではなかった。万人にお勧めできるものではない。というのも、哲学的な論考はあるものの、残虐な場面や、人間的に醜い描写が多く登場するからだ。
今のコンテンツでいえば、『ダイナー』が一番近い。ダイナーを哲学的な内容にすると現代版の悪徳の栄えになる。
私が読むのをやめようと思いかけた場面のひとつを挙げる。ジュリエットが、師匠の一人であるノアルスイユという金持ちに気持ちを打ち明けるところだ。
※上を含めて、引用箇所を探して打ち込むのに2時間半もかかってしまった…いずれにしても引用が多すぎる。これで最後にする。
「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいないからそう言うが……」
「なら全部すっかり話してください!」
「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」
「どうしたと言うんです?」
「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしまう必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」
ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見据えながら、「人非人! 何度でもこの名を繰り返してやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております」
「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」 P.57~P.58
ノアルスイユはジュリエットの父母を殺している。そのせいで、裕福だったジュリエットは修道院に送られて貧しい生活を送り、やがては売春宿で働くことになった。
その原因を作った張本人であるノアルスイユに対してこのような言葉を出してくるところに、この悪徳の栄えの醜悪さを感じた。読者をダークサイドに送り込もうとしている。
物語の中で悪事を働く人間の基本になっている考え方のひとつに、「悪事をする人間は自然に有益である」というものがある。考え方自体はとんでもないのだが、文学者が翻訳を務めている関係でやたらと格調高い文章になっており、それが読者の心に響いてしまう。
年末年始を使って上下巻を読んだのを覚えている。今では読むべきではなかったと後悔している。
いわゆる鬱小説というやつだ。心が痛くなるコンテンツ。とにかく痛い。この本も読むんじゃなかった。アマゾンで高評価がついていたので出来心で買ってしまった。
この小説のいったいどこが精神的に不健康かといえば、「いたいけな少女をいたぶること」を主眼に置いているからだ。
アメリカの田舎町に暮らす主人公のデイヴィッド(12)。ある日、隣の家に住んでいるルースのところに、両親を亡くしたという快活な美少女メグ(13才以上)が妹のスーザンと一緒に引っ越してくる。デイヴィッドはメグに心を奪われる。ザリガニ釣りから始まって、次第に仲を深めて、お祭りの観覧車に一緒に乗る。花火が綺麗、みたいな描写だったのを覚えている。
という言葉が脳裏をよぎった。まだ未成年だった頃、某動画サイトにアップされていた『true tears』というアニメを見ていた。眞一郎と乃絵が仲睦まじくしている様子を見て、ほかのみんなが一斉にこのコメントを打ち込んでいたのを思い出した。
この小説は、読者に精神的な苦痛を与えることを目的として、メグに対してありとあらゆることをやってのける。
メグは何でもされる。肉体的な苦痛から精神的な苦痛まで、何でも揃っている。
巧妙なのは、このメグというのが優秀設定のキャラクターであることだ。
運動神経は抜群で頭がよく、そのうえ美少女ときている。いわゆる利発キャラ。例えば、虐待が始まってすぐの段階で地元の警察に相談に行っている。普通の子どもはこういう行動を取ることはできないだろう。
実際、一度はルースの家から脱出に成功しかけるのだが、障害持ちのスーザンを気に掛けるあまり失敗してしまう。
ルースやその子ども達からの虐待はさらに苛烈になるが、デイヴィッドはただ観ているだけだ。傍から虐待されるのを眺めるばかりで何もできない。親に相談しようとするも、恐ろしくてできない…
この小説を読んでいる間に心が相当削られた。品性下劣という感想を抱きながらも、最後まで読まないといけない気分になっていた。悔しいが作者の勝利だ。
今回の記事を書くにあたり、隣の家の少女について調べたところ、ネットフリックスに映画があるらしい。今度見てみることにする。
作者である上原善広の父を主人公に据えたノンフィクション小説。ということになっている。物語というよりは、作者が精神的に不健康な例だ。
あらすじとしては、牛の解体場で働く上原龍造が、自らの腕だけを頼りに食肉業界の経営者として成り上がっていくというもの。
昭和の時代の話なので、解放同盟や共産党や右翼にヤクザが出てくる。彼らと渡り合いながら、少年だった龍造は成長を遂げてゆく。
問題なのは、ノンフィクションと謳っておきながら創作であることだ。
作中では、実際に存在した人物の名前や経歴が書き換えられている(ex 作者の父の名前は龍造ではない)のみならず、解放同盟支部の結成年や支部名その他、多くの事実に誤りがある。
作者と新潮社は解放同盟から怒られた。出版元である新潮社はHPで謝罪文を出している。作者である上原氏もnoteで反省文を書いているが、はっきりいって反省していない。
巻末のところで実父に関連して、自分の来歴や、元嫁や兄について語っているのだが、なんというかもう、ツッコミどころが満載なのだ。本編を読む前にこれを読んでいたら、一生読むことはなかったと思う。
親が愛してくれます。
もうとっくに成人して久しく久しいのに。
私がこれまで知っていた「親」という人は、継母で、私の存在を知った時から、私が消滅するようにと日々願っていた。
それで私は、私が自殺したら「家族」が喜ぶのだと、ヒシヒシと感じながら成長した。
私が日々繰り返してきたリスカは、手首を切るとか肉体に分かりやすい傷を付けるなんかじゃなくて。
自分の心を自分で押し潰し押し殺し、自分の魂を殺し、ボロボロで何も無い自分を更に切り取って、何の不自由もない「家族」のために捧げ続けることだった。
そんなんで、生きることなんか、当然、できる訳が無くて。
両親と家族の愛情を一身に浴びて、スクスクと育つ腹違いの兄弟にとっても、両親が嫌がる私の存在は許せないようだった。
同じ「両親」の光と陰を彼らは知らなくて、知る必要もなくて、「両親」の陰を一身に投影した私を殊の外、蔑むのだった。
「兄弟平等にする方針」と「両親」は言うなかで、彼らは同じ家の中にいながら、別世界の生物だった。
心象風景は、室内で団欒する家族の暖かい光を、夜毎、暗い外にある見すぼらしい死ぬ小屋から私は独り眺めている、そんな感じ。
本当に私は生きられなかった。
それは、とりもなおさず、全て私自身が悪いのだ。「誰も」がそう思っていた。「家族」もそう思っている。
きっと紛れもない事実でもあるのだろう。
しかし、そんな私のままで、今は多分、生きかけている。
私を愛している実の親に出会ったから。親が私に「生きて」と思ってくれているから。
それで今や、私は他人を愛すことすらできるようになった。
いや、下手な新米だから、他の人に比べれば、きっと、あんまり愛せて無いけど。
辛く思う時があっても、それは一瞬たまたま雨雲の下に居るだけだと知っている。
闇の中で闇しか知らなかった時、実は私のための光が常にあったのだから。
ただ、私にその光は届いていなかっただけで。在り続けていたから。
この愛を人生の初めからずっと、当然に受け続けてこれる普通の人達を思うと、ああ。
ため息が出る。素晴らしいんだね、人生は。
私は閉め切られたビジネスホテルの廊下にある非常扉を、こっそりと開けてみた。扉を開け放つと、目が痛いくらいの光とともにホテルの中の冷涼で清潔な空気とは違った、埃っぽいけど暖かい空気が私の身体をいっぱいにした。八階の非常階段の柵越しに街を展望すると、几帳面に建築されたビルの群と端正に植えられた街路樹、そして、人々の営みが、穏やかな陽に照らされていた。
ミニチュアみたいに縮小されたビルのオフィスを窓越しに観察することもできた。スーツを着た男が、パソコンの置かれたデスクの前に二人居た。なにか話し合っているようだった。じっと見ていたら、そのうちの一人の男が、まるで私に気づいたかのように、おもむろにブラインドを下げた。なんだか、見てはいけない気がして、人ではないものを見ることにした。
比較的近いビルの屋上に、植木鉢が無数にあるのを見出した。大きさが全て違っていて、植えられている植物もバラバラであった。けれど、陽のよくあたるところにみんな行儀よく密集して、ある種の一体感を醸していた。私はなんだか懐かしいような羨ましいような気持ちになった。
動く人々に目を移した。私が先ほどまで散歩していた道が、本に印字された文字の余白のように小さくなっていた。さっきまで私はあの道の先の、公園まで散策してみていた。日陰を探し求めて歩いて、木々が織りなす濃い影の中にあるベンチを見つけてそこに腰掛けていたのだった。私と数メートル離れたところに座るサラリーマンの間のベンチの上を、登ったり降りたりして遊んでいるカラスがいた。カラスは、豊かに蓄えた玉虫色に光る黒い羽を太陽の光で透かせていて、私の心を惹きつけた。じっと見ていたら、カラスが私を警戒したのか、私の視線から逃れるように、木の陰へと隠れて行った。カラスを追うのをやめると、アゲハ蝶が飛んで行った。
旅鴉。
この街にはアゲハ蝶が多いらしかった。これは、この間喫茶店で隣の客たちがアゲハ蝶の話をしていて分かったのだった。蜜柑の木を植えたら、アゲハ蝶の幼虫の害にあって大変という話をしていたのだ。確かに、この街では、街中であってもアゲハ蝶を何回も見かけた。そんなことを、ふと思い出していた。
これから言うことはもしかしたら増田を傷つけるかもしれないし、一つの憶測として話半分に聞いてほしい。
・一般的か否か
…一般的ではない。というか普通そんなに頻度の落ちた親密度の状態で同棲は始めない。
・どう思うか
…多分だけど増田の彼女としては、増田との関係は「恋愛」ではない。彼女の方も恋愛慣れしてないということだったが、恐らくその人は恋愛をしに婚活しに来たのではなく、結婚しに婚活に来たタイプだと思う。つまり、増田は「好きな相手」ではない。必要に迫られて婚活しに来たし、条件も合うので増田を選んだが、やはり恋愛としての熱情は持てない。だからどうしても積極的にはなれないし、「本当にこのままでいいのか」「増田が相応しい相手なのか」で迷いが生じて、同棲にも踏み切れない。
個人的には、増田がしたいのが「契約としての結婚」ならば多少待ってもいいと思う。しかし「ある程度暖かい恋愛関係を持って結婚」を望むのならば、彼女はやめておいた方がいいのではないか。
こんなにつらつら書いたが、全てただの想像だ。