はてなキーワード: 資質とは
が、配属された部署は、全9人のうち7人が60代、1人が50代、そして20代が自分1人という高齢化社会を象徴するようなところだった。ちなみに両親はまだ50代。
転職して3ヶ月が経ち、仕事にも慣れてきた。はじめは仕事を覚えるのに必死だったが、最近は周りを見回す余裕ができてきた。と、同時に高齢化部署に対する不満も次々と出てきた。
愚痴を言いあえるような同年代な人が、全くいないので、ちょっと愚痴らせて欲しい(一緒に仕事をする別の部署の先輩方も、なんだかんだで30代40代ばかりだ…)。以下、周りの人生経験豊富な社員に対する不満点。もちろん下記の不満点は、彼ら年齢のせいではなく、彼ら個人の資質や経験のせいなのだろうけど。
・プライベートに口を突っ込む(昼休みは外で空気を吸ってくるべき、とか。本読みたいんですけど)
・伝家の宝刀「昔はこうだった」
・生産性の意識が皆無(口では「生産性大事」という割には具体的な行動に落とし込まない。むしろ余計な仕事を増やして生産性を下げたり)
・コスト意識が低い。特に自分自身に対する人件費についての意識が(若手の何倍のコストで自分が雇用されているのか、一度よく考えて欲しい)
・9人しかいない部署なのに、上下関係がいっぱい(不文律含む)
・目的意識が共有されていない。よって協調して効率的に仕事ができない(優先順位がバラバラで、声が大きい人の思いつきが優先されることがよくある)
・建設的で対等な議論ができない(改善のための議論がいつのまにか年長者による説教に)
・責任感がある人がいない(そりゃあ、定年後の再就職で責任感も何もないのかもしれないけれどさ…)
・唯一の若手である自分が、毎日めちゃくちゃ気を使ってやってるのに(つまらない話を朗らかに聞いたり、分かりきったことをあえてご指導していただいて指導欲を満たしてあげたり)、気を遣われていることに一切気づいていない(「すごいですね!」「さすがですね!」「昔はどうされていたのですか?」「教えてください!」)
書いているとイライラしてきた。
「効率的に仕事こなして定時内で終わるようにしたら、その分他の人の仕事押し付けられた」
って話が出たら、10:0でクソ会社なりクソ上司って評価になるじゃん?
なのに家の中の話になると
みたいな意見ポツポツでるじゃん?
なんでだろね
家事育児って手を抜けばどこまででも抜けるし、手間をかければどこまででもかけられる
そういう場合って個人の資質でクオリティと手間が極端に上下するわけだ
で、大概働いてる側の不満が出るのって
家事育児のクオリティが低いのに忙しそうにしてたり自分は大変なんだアピールをしてくるパターンなんだと思う
だってそもそも自分を厳しく律して、しっかり物事進める人にそんな文句出ないじゃん?
逆に厳しすきるって方の不満はあるかもしれないけど
それを出来る限り納得の上で公平に分配するのがいいなぁと思う
そうすればそのなかで工夫して早く終わらせて自分の時間作ったりする意味もあるしね
そもそもそんな機械的にじゃなくて思いやりもって暮らしていこうよ
って話は今回は土俵が違うので一旦無しでね
最近ちきりんという人が天皇制は素晴らしいという記事を続けて書いていて、多少納得する点もあるけど、ここであえて反対の論陣を張ってみようと思う。
まあこれは全ての君主制に言えるけど、
生まれた時から一部の人が何らかの特殊なステータスを持っているというのは
今の日本の平等、民主主義、人権擁護の原則にそぐわないよねという話。
歴史的に女性天皇がいたにも関わらず現在のルールでは女性は天皇になれないし、
女系がダメというのも歴史的文脈以外の合理的な理由づけはない。
国の「象徴」が性差別的イデオロギーを生産し続けるのはどうなのと。
皇族は各種基本的人権を保障されていないため、言いたいことも言えず
今の日本の平等、民主主義、人権擁護の原則にそぐわないよねという話。
さらに、日本独自の状況として皇位継承者とその妻は子供を産めというプレッシャーも相当なもの。
皇妃と皇太子妃に期待されている素質は文字通り「産む機械」となること。
精神を病む人が続出するのも頷ける。
今上天皇の君主としての資質と国民に寄り添う姿勢が歴史的にも世界的にも最高レベルなのは疑いない。
だが将来にも渡って彼のような国民から支持される天皇及び皇族が出てくるのか?
歴史的に精神を病んだ王族は多く、日本はすでに皇太子妃がダウン。
これからの皇族の子供たちは現代社会の監視プレッシャーに耐えられるのか?多分無理。
間接的とはいえ国民の意思で政策決定されるのに、王室同士で付き合う意味が本当にあるのか?
1913年にはロシア皇帝とイギリス国王がドイツ皇帝の娘の結婚式に一緒に出席して仲良くしていたが
全く意味はなかった。ちなみに彼らはいとこ同士である。100年前の半独裁国家でさえこれ。
日本の皇室は世界で支持されている?まとめサイト以外のソースplz
それゆえ昔から続いているものを変更するなんてありえないという主張だが、
そもそも現状の天皇制自体明治憲法と戦後体制のミックスで作られたもので
女性天皇が複数いたのもそうだし、過去の天皇はみな仏教徒で、好き勝手に引退し、好き勝手に継承者を選んでいた。
もし昔の天皇が今と同じように後継者問題に悩まされていたら女系だってなんだってありだったろう。
政治的にも親政、院政、なんかよくわからんが偉い人、神聖不可侵の大元帥とコロコロ変わっている。
女系男系議論にも関わってくる話だが、天皇制の正統性は歴史的文脈だけから来るものではない。
天皇の現在の地位は国民の総意に由来するもので、天皇がどのように職務を務めるかという点が今の国民の天皇制への支持の大きなポイント。
その点を今の天皇は非常にうまくやっている。平成になって天皇廃止論が鳴りを潜めたのも現在の天皇の国民に近づこうという姿勢があるから。
逆に言えば今の天皇の職務をうまく果たせる人なら役割を果たせる。
ちきりん氏は「『民主的な、差別のない方法で天皇を選ぶ』なんてことをしたら、誰もそんなものの価値を認めなくなる。」と書いているが、
実際そうとは言い切れない。いい例がカナダ総督(ガヴァナージェネラル)
カナダ総督は憲法上君主の役割をはたしていて、任期は五年、実務上は首相が選ぶわけだが、
現在は元宇宙飛行士の女性でフランス語話者、その前は英語話者の高名な学者
その前は元ハイチ難民でフランス語話者で黒人女性のニュースキャスター、
「民主的な、差別のない方法で天皇を選ぶ」を地で行っているわけだが、
価値が認められなくなるどころか逆に多様性とその理念から幅広く支持されている。
まあ日本とカナダでは歴史も社会も全く違うわけで、いきなりカナダ風人選を日本に持ってくると
向井千秋、滝川クリステル、CWニコルのような人選となり支持されるとは思えないが
今フジテレビで佐川氏の退職金が5000万円であるというニュースをやっていた。予想通りといえばそうだが、「人の金」「国民の税金」ということを言う人が街角インタビューとして多く映されていた。
全くアホなことを抜かすな。お前らはいつも税金を払わされているというだけで被害者面をするがそうやって国が維持されてるんだ。なけなしの税金を払っているというだけで行政に対して満足度100%でないというのが不服なのだろう。今回取り沙汰されるべきなのは無論、佐川氏の退職金ではない。国を動かす政治家が汚職を働いたということの方なのだ。佐川氏の給与その他に関して言うならば、国民から金をふんだくっても国が確保するべき人材というのも居るんだ。「佐川氏が本当に優秀かどうか貴様に分かるのか」という野次が飛んできそうだがそんなもの分かるわけがない。分かっていることは、財務省には日本という国で、頭脳自慢で鳴らした有望な若者が集うということだ。分かっていることは佐川氏はその中でも強かに生き抜き、出世街道を突き進んで国税局長官という"一つのゴール"に辿り着いた人間である、ということだ。そしてもう一つ分かっていることがある。それは佐川氏が少なくとも街角インタビューで文句を垂れた人間よりも有能であり、国家運営に多いに貢献してきた人間であるということだ。優秀な人材にしか勤まらないポストというのもあるんだ。優秀な人間を僻むことしかできない癖に、いつでも被害者面して楽なものだ。努力をしない者には僻む権利すら与えられるべきではない。税金を減らしてほしいなら勝手にそうすれば良いだろう。税金減らす代わりに病院で治療費全額負担してみるか?税金減らす代わりに世紀末みたいな場所に住んでみるか?もっと良い使い道があると言うなら言ってみろ。その使い道とは何なんだ。
お前らとはどうやっても格が違う人間はいるんだ。格の違いを認めろだとかそういう元も子もない話をしたいのではない。ただでさえ人材が海外に流れ出している今こそ資質ある人材に官僚となって国の為に働いてもらわなきゃならないんだ。官僚は政治家のトカゲの尻尾ではないんだ。先程テレビで発言した人達は私の3倍は生きてることだろうと思うが、貴方達はその目で一体何を見てきたのだ。貴方達の目は60年間節穴だったのか?そもそもフジテレビもおかしいもんだ。官僚の退職金と一般人の退職金を比べていたが、そんなものを比べるんじゃあない。官僚というのは一般人の何倍も金をもらっていい人達なんだ。文句を言いたいなら国税局の長官にでも何にでもなってみろ。もっと良い税金の使い道があるというなら財務省にでも何でも入って使い道考えてみろ。現実にはそれが出来ないから佐川氏のようなエリート官僚に「どうかこれで国をよろしくお願いします」という意を込めて税金の使い道を考えてもらうんだ。歳食ってからそれが悔しいと思うならもっと若い頃から必死こいて勉強しなきゃいけないんだ。後悔は先に立たない。もっと上を、もっと上を目指してそうしてやっとなれるかなれないかの境目にいるのが官僚なんだ。何の努力もせずに官僚に対して冷たい言葉を浴びせるような人間はもう論外なんだ。
裁量労働制を入れる入れないで紛糾しているが、一足先にこれを導入してるIT業界、特にweb系がどういう経緯をたどったかを見れば
この法案は正社員という区分を完全に消滅させるものだというものがなんとなくわかって来た、増田も多いと思う。
というか、この法案でビビってないのITエンジニアだけだしね、もうとっくにその働き方になって久しいから。
メガベンチャーだろうがどこだろうが、チーム10人いたら7割以上は派遣か請負で、プロパーの指揮、という体制が多い、ま、要は「ドナドナ」
理由としては、まぁ色々あって後述するけど、ずっと派遣や請負って訳でなく、元々は裁量労働制・年俸制の中でweb系の正社員としてキャリアを積んでた人がほぼ100%だったりする、4~5年くらい前までは裁量労働制の正の側面を享受できて回ってた業界だったからが理由
なった理由はいろいろあるが、いい側面は、明らかに怪しいどっかからお金貰って書いてるであろう、有象無象の意識高い系の技術ブログの賛美記事に譲るとして
ここでは暗黒の側面について書いておこうと思う
・IT業界の自殺率、うつ病率は実はプロパー(正社員)がダントツ
ここがミソ、IT業界といえば、うつ病生産工場とか自殺者続出のブラック業界というが、実は派遣やフリーランスではこれにかかる人はほとんどいない
何故なら炎上案件やブラック職場なんて、金だけ貰って仕事もせずに逃亡すればいいし、こんな環境で仕事できる訳ねーじゃんクビにしたけりゃすれば?代わりに来る奴がいればな!と強弁できる(マトモな派遣会社なら、酷い案件や職場に騙して連れて行って抗議受けたら、営業から上長まで謝罪に来るレベル、俺は過去役員が頭下げに来たところまでは体験したことがある、零細SESはお前の責任じゃ!とか開き直るが、そんなところは職場のソースコードに爆弾仕込むなり、ファイルサーバー滅茶苦茶にして、便器の前にウンコして、労基と税務署にチクって、ついでにあの会社の社長ヤ○ザと付き合いあるみたいで怖いですとか警察に相談してからとっとと辞めればいい)
その上に訳のわからん零細SESやweb系なんてぶっちゃけ簡単に受かるから、バイト感覚で渡ったり、ヤバかったらとっととバックレて他所へ行けばいいからというのが理由
無法がまかり通ってるから、アホみたいにいやがらせのつもりで会社都合の解雇みたいにしてる馬鹿経営者もいるけど、寧ろ失業保険さっさともらえてラッキー、3か月くらい遊べるじゃん!!くらいにしか感じないのよ、この業界で1年やってこれくらいの考えになれば、ずっと続けていけるようにはなるし、大体みんなそんな感じです。
しかし、プロパーになるとそうはいかない、なまじやりがい搾取で回ってきた業界だから、派遣に身を落とすなんて死んでも嫌だって人が、進んでプロパーになりたがる傾向が強い、実際はちゃんとした会社を選ばなければ、それこそ特定派遣の様に正社員と派遣の最悪なところだけを集めた働き方みたいなのに陥る可能性が高くなるから。
ちなみに、この業界ではブラック正社員とか、全盛期の特定派遣よりも悲惨だからね、自殺率も精神疾患率もダントツでここら辺が多い。
だから、自分の命を守るために、かつてはプロパーで働いてたのに派遣に下がったり、フリーになってるという人が多いといのが、IT業界の実態ってところがある。
別に派遣が悪いわけではない、糞みたいな会社なんて入るだけなら簡単だからバイト感覚で食ってムカつくなら職場で荒れてバックれたらいいし
ちゃんとしたところとかでなら、長くそれなりにいい待遇や給料で働けるところが多いしね、そこがコネや人間関係にもつながるわけだし。フリーもフリーならではの面白さや、仕事を選べるというメリットがある。
ただプロパーになるなら役員レベル、もしくはよっぽどの大企業や非IT系以外ではやめておいた方がいい、というのがこの業界の正直なところ。
長くなったが、今回の裁量労働制は再提出する気満々だから近い内に通るだろうけど、そうなった場合、全業種がこんな感じの働き方になるだけです、はい
これを酷いと考えるか、いいじゃんと考えるかは、個人の資質や性格による部分が多いと思うけど、マトモな企業に行けるまで、糞なブラックは腹いせにどんな迷惑行為してもバックレたら追跡できないっていうのは、俺にとってはよかったとは思うよ
OODAループは「観察(Observation)・情勢判断(Orientation)・意思決定(Decision)・行動(Action)」の4段階からなる。
最初の観察では五感を駆使して現実をあるがままに直観し、暗黙知的に知覚する。
最新の脳科学でも知覚的な情報はほとんど身体が吸収し、脳はそこからしみ出る一部の情報を認識していることが判明している。
次の情勢判断では、過去の経験、自身の資質、身についた文化など自らが蓄積してきた暗黙知と新たに知覚した情報をもとに判断する。
OODAループと対照的なのがPDCAサイクルだ。「計画(Plan)・実行(Do)・評価(Check)・改善(Action)」のプロセスのうち、計画(P)はOODAループの意思決定(D)に相当する。
富士フイルムホールディングスの古森重隆会長は、PDCAサイクルを見直し、See-Think-Plan-Do(STPD)というサイクルに改良したが、この前段階にあたる「See-Think(観察・判断)」の重要性を訴えているほどだ。
「受かる方法しか」教えようとしないアドバイザーも同様に今すぐ捨てたほうがいい。
君たちの目的は「自分の希望に少しでも沿う職場」に入ることだったはずだ。
その目的達成において面接を「内定を取るためだけにやる」のは全くもってナンセンスだ。
面接は相手の会社が「自分の希望の職場であるか」を確認するための作業でもある事を忘れてはならない。
たとえば君が「サービス残業をさせるような会社で働きたくない」と思っているなら絶対にソレを質問するべきだ。
サービス残業をさせない会社であればその質問に気持ちよく答えてくれるだろうし、させるような会社ならその度合いに応じたはぐらかしかたをするだろう。
君が「根性論を振り回す会社には入りたくない」という思いを持っていて、それを面接でぶつけた結果としてお説教が始まるようなら、君はその会社にはたとえ受かっても絶対に入るべきではないのだ。
「受かるためだけ」の面接対策をするのは、それこそ「親の敵がその会社で働いているから暗殺するための下準備としてその会社に入るしかない」ぐらいの状況でなければやらない方がいい。
君が面接で嘘を付いたり、聞きたいことを聞かなかったり、無理に自分を偽ったりするのならば、それを「その組織に入ってから退職するまでの間ずっと続けていけるか」を考えるべきだ。
あくまで腰掛けで5年程度いるつもりであるならその5年間その嘘を突き通せるか、定年までいるつもりなら40年間ずっとそれを我慢できるかを考えてから自分を偽るべきだ。
でもどこかしら受からなきゃ始まらないじゃんというのはそのとおりだ。
ではその時、どれをどれぐらい妥協したらどの程度受かりやすくなりそうなのかは何によって知ればいいのだろうか?
その答えは、今まで面接で自分がしてきた数々の受け答えに対する相手の答えの中に隠れているはずだ。
正直に受け答えをしなければ、自分の妥協すべき物の正しいコストパフォーマンスは永遠に見えてこない。
なぜなら、業者や仕事の傾向、そして君自身の資質によってそれらは全く持って変化するからだ。
君が自分に正直に就活を続けていれば、適当な就活本が全ての業界を十把一絡げにして雑に語った文章よりも、よっぽど信頼できる情報がこれでもかと蓄積されていくことだろう。
そして、君が何かしら自分を偽るたびに、そうして手に入るはずだった情報の入手機会は失われる。
それで面接に落ちれば手元に残るのはただのお祈りメールだけだ。
何の成果も得られない就活を続けるか、少しずつ情報を手に入れて軌道修正をしていける就活をするか、どちらがいいかは明白だろう。
最後に、これは本当に大切なことなので是非覚えて帰って欲しい。
面接をする側からしても、「嘘をついたり」「背伸びをしたり」「勢いで押し切ろうとしている人間」よりも、「ズケズケした物言いでも」「自分の主張をハッキリ述べてくれる人間」の方が「印象がいい」のだ。
なぜなら一緒に働く人間として「その場しのぎの嘘をつく癖がある」「とりあえず目先目先で誤魔化せればいい」「相手の顔色を伺ってはすぐ言葉を飲み込む」といった特徴のある人間は、「信用できない危険人物」となりやすいのだ。
その場しのぎをしないといけない状況や、とっさに言葉を飲み込むべき状況は仕事では多々ある。
しかし、それを身内に対してすら高頻度でやってくる人間は厄介なことこのうえない。
それならまだそういった事が一切できない人間の方がずっとずっと扱いやすいし、仲間として信用できる。
将来の仲間に対して平気でウソを付くような人間、虚勢を張ってばかりで自分の正体を隠してばかりいる人間、そういった人間と「一緒に働きたい」と思うだろうか?
それをもう一度よく考えて欲しい
ツイッターのアカウントを消した。Pixivとか、オタク系、創作系のアカウントも以前に消してある。もう、アニメや漫画を今までのように楽しんでる場合じゃないと切実に感じたからだ。
田舎に生まれた俺は、思えば子どもの頃から本好きで、そのままマンガ好きになり、でも同人誌とかには強い拒否反応を持っていたし、オタクは気持ち悪いと思っていた。
その一方で、漫画・アニメ・ゲームを本当に楽しんでいた。生き甲斐だった。周りの人間がこの面白さを理解できないってことが理解できなかった。
でも、漫画やアニメやゲームがメインの趣味の人間は「オタク」だという、そういう時代だったので、今でいう「陰キャ」として高校時代を過ごした。
大学に入って某都市に住むようになると、周りには堂々とオタク的な趣味を謳歌している人たちがいた。そんな人たちとの交流は本当に楽しかった。
大学を卒業して地元に戻った。自分のオタク的な要素は、職場ではなるべく隠して暮らしていた。いろいろとままならない事があり、東京に出て働くことになった。
東京に出て、インターネットを本格的に使うようになった。ニコニコ動画が全盛期だった。インターネット上では、自分のオタク趣味を存分に発揮できるという事に気づき、
ツイッターで趣味のつぶやきをしたり、ペンタブを買ってイラストを書き始めてみたり。コミケにも何度か参加して、ネット上で交流がある人と会ったりして、とても充実していた。
諸般の事情で再び地元に戻った。もう、自分の同級生には大きな子供がいる。俺がそういう人生を遅れなかったのは、オタク趣味のせいではなく、ただただそういう人生に興味が持てなかったからだ。
しかし、今になって、そういう人生の方が価値があると思ってしまった。素晴らしい創作物は人生を豊かにすると思っていたけれど、創作物に耽溺したまま生きていくことは自分にはできなかった。
幸い、数は少ないけど、オタク趣味とまったく関係無いところで仲良くしてくれる友達がいる。そちらの方向にに進んでいきたい、と心から思う。そのために、努力し続けなければいけない。
面白い創作物にはまったく罪はないのだが、今の自分には、時間を無駄に過ごしているという焦りが強くて、心から楽しむことができない。
オタクの女の子と恋愛したいという願望はあったのだが、俺が付き合った数少ない女性は、皆オタク気のない女性だった。自分のオタク部分を隠して付き合っていたわけだが、特に問題はなかった。
自分の資質の問題で長く続かなかったのだが、もし上手く続いていたら、もっと早くオタク的な部分が自分から消えていったのかなあ、とも思う。
業績については「研究者としての実績」に絞ってとりあげた。ただ文系若手研究者増田とは、「研究」の捉え方自体が随分違うようだな。
文系でも同じですが。研究という営みの本質は文系も理系も変わらんでしょ。お作法がかけ離れているから相互理解が難しい局面があるだけで。一部の理系研究者の「お前ら文系は研究とは何なのか正しく理解していないのかもしれないが~」みたいなナチュラルな上から目線はほんと何なの?(あと、仮に百歩譲って理系と文系で「研究」の本質がまるで違っていたとして、なんで問答無用で理系の方が標準的であり正しいものなのだと思えるの?)
もちろん理系でもレビューや著書を書く人もいるが、それを皆がありがたく読むのはその人が最前線で研究をしていることが前提だ。
いや、レビューがオリジナルな研究業績じゃないってのはその通りだけど、著書はオリジナルな研究業績(でありうる)っしょ? 何度も言うけど三浦瑠麗の論文や著書は読んでないので、どのくらいオリジナリティがあるのかは知らない。ただ文系では研究書は立派なオリジナルの研究成果だ。博士論文の書籍化なんてその典型。もちろん一般向けの本とかを書くひともいて、一般向けと専門向けの中間みたいなレーベル(典型的には講談社選書メチエみたいなやつね。パンピー向けの概説書とガチのオリジナルな研究成果が混在してる)もあるから、そこにはグラデーションがあるわけだけど、著書がオリジナルな研究成果じゃないというのは不当な言いがかりでは。
ひょっとして文系の研究書とか見たことなくてどんなことが書いてあるかイメージ湧かない?(いや別に異分野の研究書を読んだことないのは悪いことじゃないけど、実物を知りもせずにイメージだけで語っていいんですかね、「理系」ってのはずいぶんと気楽なもんだ、と嫌味のひとつも言いたくなる)
だから、私そこは否定してないよね? 三浦瑠麗個人の研究者としての資質をあげつらうならどうぞご自由に。私だって彼女が政治学者として素晴らしいなんて微塵も思ってないし、私の知ってる(まっとうな)政治学者で彼女を学者として評価してる人なんて見たことない。でも和文は業績じゃないかのように扱うのはやめてね、っていうのが私の指摘の趣旨ですよ。彼女の雑誌に書いた文章が全部レビューだってのは、ブコメでkyo_juさんが指摘したことであって、元増田は最初「和文しかない」ことを問題にしていたよね? そう言われたらそりゃ「和文でも立派な業績になりうる」と反論するに決まってるでしょ。「言語を問わず、レビューしか書いてないなんて研究者とはいえない!」という主張ならなんの異議もなかったよ。
いずれにせよテレビの研究者枠にはもっと実績積んでバリバリ研究している(あるいは過去にした)人を呼んだらどうかという話にはなる。
そこに関しても私はまったく否定してないよね。和文論文は研究業績であり、また共著が研究業績としてカウントされないことは不当である、と言ったけど、三浦瑠麗の業績が学振PDや東大講師、あるいはテレビの出演者にふさわしい立派なものである、とは一言も言ってない。あんなのを東大講師にするなら私の先輩たちに職を用意してやってくれよ、と思うし、テレビに出ずっぱりの「学者」がマトモな学者だった試しなんて滅多にないよね、とも思うけど、そんなの私や「文系」あるいは「政治学者」に言われても知らんわ。東大の人事は東大の問題だし、テレビがロクに論文書いてない若手を連れてきて「社会学者」や「政治学者」としてチヤホヤするのはテレビの問題、言論人として活動してる人を肩書だけ見て研究者と誤認するのは視聴者のリテラシーの問題でしょ。理系の学位や肩書がそういう怪しげなショーバイに一切利用されてないってんならともかく、現実には医学博士号を利用してニセ科学撒き散らしてるひととかいるよね。アカデミアが自由で開放的な性格を維持していく上では、アカデミアのハクを利用してそういうことをする人たちが出てくるのはどうしても避けられないんじゃね、って私は思うけど(まあ、アカデミアでは全然相手にされてませんよ、と表明する責務くらいはあるかもしれないけど、それはもう色んなひとがやってるよね)。
文系増田は日本の研究者の日本語論文が読まれないことの解決策として日本語論文の良さを英語論文内の引用でアピールするという案を提案しているが、理系から見たら不効率極まりない。一つの研究分野に標準言語がいっぱいあったら世界中の学者が言語習得に苦労するだろう。
うんだから、文系の研究者が色んな外国語を勉強してるのはそういう事情があるわけ。たとえば西洋古代史を研究するんなら、まあ英語に加えてフランス語とドイツ語の研究文献を読めないと話にならんわなぁ。一つの研究分野に標準言語がいくつかあるのは文系だと割と普通で(古代や中世に関する研究だと権威ある学術言語がいくつもあってどれかひとつに決められなかったりするし、複数国にまたがる地域や事例を対象にしている場合なんかは一意に定めることが不可能なのは流石にわかってくれるよね?)、その中で日本語の地位が低いことをどう捉えるか、だよねぇ。
これに関して、日本語を諦めて別の言語で書くべきだ派と、日本語の地位を高めていくべきだ派と、日本のアカデミアを最優先に考える派(これが実のところ多数派だろうねえ)がいるんだなと私はぼんやり思ってる。私が見ている範囲では、現代日本の文系研究者の多様性は、アメリカやイギリスほどじゃないにせよフランスやドイツやロシアとは肩を並べられる水準にあるんじゃないかな。日本史や英文学からアフリカの人類学、オセアニアの少数言語、中央アジアの歴史、とあちこちの分野に手を伸ばしていて、アメリカ人やフランス人やドイツ人がそうできるように、自分たちの言語でそれらの分野の最先端の研究成果を手にすることができる。東アジアや中央アジアからは、自国のことを研究するために日本に来て日本語で博論を書いて自国で教授になるひともいるんだよ。これは、欧米人が読めない・読もうとしないってだけで捨て去るには勿体無い環境だと私は思うけども。
もちろん、日本研究を専門としていない欧米人に日本語をわざわざ読ませるのは難しいだろうけど、たとえば日本の論文につけられた欧文要旨なら彼らは読めるし、和文で書いたものを翻訳して欧米人にも読めるようにしている研究者だっている。どうやら俺らには読めないがチェックすべき先行研究が日本にはたくさんあるようだ、と彼らが認知すれば、いずれ彼らの側から、じゃあ日本語読めるやつに翻訳してもらおうとか、そういう話が出てくるかもしれないし、せめて「読んでないけどこういう先行研究があるらしい」と書かれるようになるかもしれない(これは重要なことだよ。「気づかれない」と「読まれない」はぜんぜん違うんだから。この辺はウンベルト・エーコが書いてたな)。地位向上って、そういう積み重ねの上に成り立つものだと思うんだよね。
こういうプロセスって、文系だけじゃなくて理系にもあるよね。たとえば、優れた魚類学の論文はアメリカ人が日本語を翻訳してまで読みたがったとか、和文論文をチェックしなかったせいでアメリカ人が大損こいたとか(http://shinka3.exblog.jp/8059554/)。それに英語が標準言語になったのは、せいぜいがここ半世紀程度の流れにすぎない。その前はドイツ語とかフランス語とかロシア語とかも有力言語だったけど(たとえば、ちょっと前にサザエの新種記載がされたときは、18世紀のフランス語の本が引用されてたよね→https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id468.html)、英語が頭角を現してきて残りの言語は標準言語とは見なされなくなっただけで、別に昔からずっと英語が標準言語だと決まっているわけじゃないし、今後もそうなるとは誰にもいえない(数十年したら欧米人が中国語で作文するようになるかもね。そうなったら英文業績しかない人が「中文で論文を書いてないなんて!」と馬鹿にされたりするのかな)。日本産の動物種の研究だと英語論文に和文論文が引用されてるのもちょくちょく見るし(網羅的にたくさん読んでるわけじゃないので、私の錯覚だったらごめん)、標準言語が統一されてないとダメだ! というのは近視眼的見方だと思うけどなぁ。
いくら書いても読まれないんじゃ意味がない、という元増田の感覚はわかるんだよ。というかそれは文系の研究者にとっても当然のことだと思う(そりゃ全員が意識高いわけじゃないけど、それは文理問わずだよね)。繰り返すけど最近の若手研究者には外国語で積極的に発信しているひとが大勢いる。ただ、日本国民1億人が最先端の研究成果を自分たちの言語で読めて、どんな地域の研究だって自分たちの言語で遂行できる、という環境が、無意味なこととは私は思えない。増田は、日本にまつわるテーマなら標準言語が日本語でもいいんじゃないか、と言った(これは良い感覚だと思うので大事にしてほしい)。でもたとえば、ツキノワグマの研究はホッキョクグマやマレーグマの研究と繋がっているよね。日本史を研究する上で西洋史で探究されてきた研究モデルや概念が意味を持つことだってある。国文学だって世界文学の中に位置づけられる必要があるだろう。外国の政治についてなんの情報もなしに、自国の政治改革ができるだろうか? 外国の失敗や成功についてしっかり学ぶためのツールは必要なんじゃないか? ジャーナリストや政治家が欧州統合やアフリカ経済やアメリカ大統領選について勉強しようと思ったときに、日本のEU研究者やアフリカ研究者やアメリカ政治研究者がみんな英語で論文を書いていて、日本語にはあっさりした概説書しかない、というんじゃ、不便じゃないのかな。そういう意味で、日本語による研究発表は、世界で読まれていないのだとしても、社会貢献としての意義はけして小さくない、と私は信じてるよ。
https://anond.hatelabo.jp/20180215032409
国際分野なのに英語で論文発表してないことが最大の違和感。必ずしも三浦瑠麗を叩きたいわけじゃなくて、日本の国際政治学全体のレベルが低い?あるいは政治学者の仕事は世界に向けた学術研究発表よりも国内政治のご意見番をすることのほうが重要っていう認識が業界で一般的になってるならそれも受け入れる。
著書「シビリアンの戦争」は博論を出版したものって理解でよいか。文系の博論は分厚くて書くのが大変とは聞く。でもグローバルな表題なのに世界では通用しない研究(少なくとも英語でないので読んでもらえない)って考えると悲しい。
こういうの勘弁してほしい。三浦瑠麗を叩くならどんどんやればいいと思うしやってほしいけど、叩く対象は限定してくれ。
文系では和文でも立派な研究業績になる。最近の若手研究者は積極的に外国語論文書くようになってるし、私だって欧文論文の1本や2本あるけど、仮に査読論文が和文しかなくても質が高いものを書いていて博士号もらってれば立派な西洋史研究者/英文学者/アメリカ政治研究者、etc.だよ。そういう世界なんだ……。
「ちゃんとした雑誌に載せてる論文が3つしかない」っていうのもどうかと思う。業績リスト見たら、まあ新書2冊はおいといて、それなりに専門的っぽい本を分担執筆してるよね。その本を読んでないから何ともいえないけど、雑誌じゃなくて本(アカデミックな論文集)の1章として学術論文を発表することはあるし、それはふつう業績としてカウントするよな。繰り返すけど中身は見てない。中身はメチャクチャレベルが低いのかもしれないし、その場合「この程度の論文しか書いてないじゃないか!」っていう批判は正当だと思う。けど共著を業績にカウントせずに「業績が3本しかない!」っていうのはやめてあげて。
私も、さすがに学振PD持ってて日本でPh.D.獲ってるのにこの業績数はショボいだろ……と思うけど、博士号取得に際して論文数の要件がなければ(少なくとも私の出身大学院では存在しない)、とりあえず雑誌に投稿とかしないでひたすら博論に執筆するっていう研究スタイルもアリだと思うし、一概にそれが駄目とはいえない(単に茨の道ってだけで、制度上不可能ではない)。あと一部の国では「博論に既発表論文を大幅に組み込むのは禁止(=博論は書き下ろせ。既発表論文の切り貼りは不可)」っていうルールがあったりするから、そういう国に留学してた人は博士課程のあいだに出した論文数がどうしても少なくなっちゃう。
和文で書いてればレベルが低いっていうのは誤解。そりゃレベル低い和文論文もたくさんあるだろうけど、質の高い研究はたくさんある。もう15年以上前のことだけど、日本の西洋史研究者が研究対象の国のひとたちと論文集を出した時は、日本側参加者のレベルの高さが評価されたりしてたし(https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/39022/1/50-013.pdf)、それらは「外国の研究者から読んでもらえない」かもしれないけど「レベルが低い」わけじゃない。
何が言いたいかっていうと、三浦瑠麗の言説の酷さは都度指摘すればいいし、彼女の研究も問題があるなら存分に批判すればいいと思うんだけど、業績リストだけを見て和文しかないとか批判しだすのは他の文系研究者に流れ弾あたってるからやめやがれください。ていうかやめて(自分の業績リストを泣きながら握りしめる)
『シビリアンの戦争』は、彼女の博論タイトルそのまんまだから博論書籍化という理解でいいと思う(https://ci.nii.ac.jp/naid/500000550395)。私はどちらも読んでないので違ってたらごめん。博論書いてそれを本として出版するのは、文系の研究者としてはよくあること。
せっかく質が高い研究してても読んでもらえないのは悲しいってのはその通りで、日本語文献が読むべき先行研究として通用してる分野は日本と東アジアにかかわる研究くらいか(アメリカ人でも前近代の中国史やってたら日本語読むことを要求されると思う。中東の研究する日本人がフランス語要求されるみたいな感じで)。これの解決は難しいけど、欧文で和文文献のレビューをするとか、欧文で良い論文書いてその中で和文文献引用しまくるとかして、「日本では面白そうな研究をやってるんだなぁ」と認知してもらうことがまず必要なんじゃないかと思ってるんだけどこれは三浦瑠麗とは関係ないので措いておく。
ていうか、欧米の日本学者だって英語や仏語や独語で日本についての博論書いてるんだから、日本人がイギリスやフランスやドイツに関する研究を日本語で発表してもいいよね。日本だけじゃなくて、ある程度歴史と規模のあるアカデミアがある国では、文系の博論や論文は自分らの言葉で書くことは結構あると思うんだ。
あとこれな。
https://twitter.com/chutoislam/status/963834829723729920
https://twitter.com/chutoislam/status/963834833360248832
これも、一般人がデイリー・メールを端から信用しないのは処世術としてはいいんだろうけど、時にはそういうソースに依拠することが必要なこともある研究者もいるんだから、「デイリー・メールを引用してる」って理由だけで叩くのはやめて、って話だと私は理解した。余計なところに流れ弾を飛ばされると「それは違うでしょ」と三浦瑠麗弁護みたいな立ち位置にならざるを得なくなるというか。私だってこんな記事書いたけど三浦瑠麗の学者としての資質は相当疑っている。ただ流れ弾を撒き散らさないでほしいだけなんだ……
vkgofboston 査読の有無は和文英文に関わらず業績として見なす上で肝だと思うが、それに関しての考えを聞きたいね。
三浦瑠麗が書いた雑誌のうち、『レヴァイアサン』は知らないけど『年報戦略研究』は査読あるよ→http://jsss.sakura.ne.jp/PDF/jsss-1507-tokokiteiyoko.pdf(当時もあったのかは知らん。『国家学会雑誌』はどうなんだろ。あってもなくても不思議じゃない。でもあそこ連載論文とか載せるからないのかなぁ)。ていうか和文の主要な研究雑誌にもそりゃ査読はあるし、だれも査読の重要性は否定してないんですけど……(ただ、査読がなくても良い論文なら業績として扱っていいんじゃない、とは思う。査読つきの良い業績を積み上げてる人が一番評価されるべきなのは当然として、いちおう査読はされてるけどクソつまらん研究と、査読されてないけど面白い研究だったら、一概に前者の方が業績として立派とはいえないんじゃない? 当たり前だけど公募では業績を提出させるわけで。まあわたしは査読無しの媒体にはあまり書きたくないけどね)。
やっぱり失くしたものとか諦めたものを細かく挙げていったら、どんだけ愛が救うって言ったって結局恨み節が出来上がるだけだってことだよな。
そういうのは大人向けにやればええやろ。
「悲しいこーともあるだろさ、苦しいこーともあるだろさ、だけど僕らは挫けない、泣くのは嫌だ、笑っちゃおう!」のなんと元気の出ることか。
泣いた後でも笑おうと思えるではないか。あれこそ、歌詞も曲も完成している。井上ひさしと宇野誠一郎は天才。
ここまで書いて、マテヨと思い井上ひさしと宇野誠一郎のwikipediaを覗く。
なんと井上ひさしはめちゃくちゃなDV加害者で猟奇的嗜好の持ち主、宇野誠一郎ははっきりとはわからないが毒親持ちの様子。思わず笑ってしまった。
結論としては、どれだけ作品が気に入らなかろうと、作者個人の家庭の事情や資質を持ち出して作品の内容を邪推するのは誤りなのではないか。
どんな競技でもいるじゃん、才能はあるのにいまいち結果がでない人。
練習では物凄いテクニシャンなのに本番では緊張しすぎてしまう人。勝負へのこだわりがあまりなく少し不利になるとすぐ諦めてしまう人。相手の闘争心に気後れして萎縮してしまう人。
そういう才能はあるのにメンタルが弱くて結果がだせない人たちは「実力はあるのに惜しいね」と残念がられこそすれ、強いプレイヤーと見なされることはないよね。
それは、個人の資質や家庭環境のせいであっても、コーチの指導の問題であっても変わらない。
チェスや将棋で女性が勝てないのは『男社会な環境のせいで萎縮しちゃうから』みたいなこと言う人たちって、そのへんどう思ってるの?
対戦相手の性別が分からない環境なら互角なんて言ってみたところで、そういう環境をお膳立てしてあげないと実力が発揮できないのならば、それは上手いけど弱い人としか言いようがないと思うんだけど。
元々コンサル会社から事業会社のほうでデータサイエンティストをやるようになって1年経つが辞める。そのきつかったことを匿名という場所で卑怯ながらも話したいと思う。
元々私は大学院でそこそこ統計をやってきてから、コンサル会社に行きデータサイエンティストとして事業会社へ移った口だ。
根本的にデータサイエンティストとしての資質としてざっくりいうと以下の3つが必要だと思われる。
2. KPI設計及び事業からのKPIへの落とし込みからそのKPIからどう事業繋がるかというビジネス設計能力
私能力的には1がやや強く、その次に2がまぁまぁそして3はまだまだといった所で事業会社でデータサイエンティストとして孤軍奮闘をすることになった。
データはあるが、なかなか活用できていないこともあり、分析から企画から関われるという事で入社しようと思った。
後そこそこ大きな会社で働くのも良い経験と思い入社を決意した。ニッチな分野ではあるが、この分野ではTopカンパニーである。
最初の4日ぐらいは会社の研修とかで潰れるのは仕方ないもので、それが終わり早速の業務を行う事になった。
貰えない。
許可申請の関係で3週間程かかってからまず最初にデータを頂けるようになった。この時点でやる気を削がれた。
更にデータの確認という事で事業へのヒアリングを進めるだけで・・・6週間程かかった。更にやる気を削がれた。
この辺りで気付いた事だが、コンサル会社でいたときは、データの確認がスピィーディーだったのに何故こんな遅い作業なったかというと
日本の企業は部署跨ぐというのはとても大変で、コンサルとしてやっていたときは単価も高いし、期間内でやらないといけないという事で
いろいろと調整がスムーズに進んでいたという事がこの時に分かった。コンサルとして外から見ているとやはり分からない事は多い物である。
データの確認も終わり、分析をし、改善を行うテーマを決めて進める事になった。この時点で2カ月ぐらい過ぎていた気がする。R/Pythonの自分のパソコンへの許可申請を出すが、降りない・・・。会社的にはCならばOKだと言われる。でもCの追加ライブラリーの関係はダメらしく・・・悩んだ結果エクセルを基に分析をする事になった。現状把握のために基礎集計をするが、エクセルでSQLで言うGroup_byやら違うデータ同士をくっつけるためのJoinを32 bit エクセルで関数ベースでやると何度も落ちる・・・。この時点でやる気は地の底へと落ちていた。
この辺りでCベースでもう書き直そうかと悩むが、流石にCのライブラリーがない所でフルスクラッチ調に書くのは工数的にかかると考えたのでvbaを用いていた。
エクセルベースでの可視化から上司や関係者にデータの分析の結果を見せていく。この辺りでデータ分析から改善策はまとまっていた。しかしこの辺りでやる気をマイナスにして頂ける言葉を伺う。
私がVBAを書いているのをちらっと見て
「プログラミング何かやっていても仕方ないし、プログラマーではねぇ・・・。今後会社ではプログラマーなんていらないから企画できるようにならないと」
勿論これは直属の上司からのお言葉ではないが・・・正確には同期であるが・・・もはや殺意すら覚える。因みにこの人の既存サービスの改良プロジェクトが回った時のデータを収集したら分析する事になっていたが、プロジェクトのスケジュール感を見ると
開発 4カ月
運用以降
みたいな形でうん?何か少なくないか?と思ったら既存のサービスに関してのギャップ分析無しに既存サービスの改良を進めているらしい
・・・その上取れるデータは〇〇〇で〇〇〇は無いらしい。あっそんなん改善出来んやん・・・。一応私はアリバイ工作のためにメールや会議にて発言する
が・・・空気を読めないと言われ会議呼ばれなくなってしまう(因みにこのプロジェクトは要件定義から運用以降まで外注である)。
私のコンサル的な能力がなかったと言えば確かにその通りである。でもいやうん日本の企業の中で、分析をやっていくのは本当に難しいというのがよくわかる。
一人だったというのもある・・・でも殆ど基礎集計レベルで難しい用語を使わずに改善を行おうとしたいやでもこの日本の企業では無理だった。そしてやりたいと思わなかった。
たまに日本の企業でのエンジニアの不遇差を嘆く記事を見かけるが、割と同じようなパターンの臭いがする。
追記
200万pvの会員サイトでAmazon aws料金を月々リザーブドインスタンスで80万ぐらい払っていてクラウド安くないと社内的に炎上しているらしい。どんな設計したのかは
もはや手をつっこみたくないレベル。