はてなキーワード: フォロワーシップとは
・失敗をしても転職し直せば良いんです
労働基準法を採用してない会社がある業界は、他のところも労働基準法を採用してないことが多いよ。
ライバルを蹴落とすためのチャンスが有るのにその引き金を引かないのは、お互いが紳士協定によって牽制しあっているからだってのは明白でしょ。
未経験者歓迎なんてアルバイトだけで、この身分制社会で一度アルバイトのレベルまで落ちたら再度這い上がるのは簡単じゃない。
スキルを磨いていれば大丈夫と思っていても、そのスキルを証明する手段なんてそうそうあるもんじゃない。
コーダーみたいな単純労働者ならともかく、管理的な業務においては職歴だけが身分を証明するけど、その職歴が通用するのは自分の会社の中だったりするもんだよ。
そもそもスキル自体が自分の会社に特化して進化しているだけで、外の世界じゃ全然役に立たないこともある。
どこ行っても共通してるスキルを育ててきているって自信は何をもって証明できる?
もしも客観的に証明する手段が一つも思いつかないなら転職なんてするもんじゃない。
そして、多くの人はそれを持ってないよ。
最初の数年ぐらいはどこの会社でも使える基礎的ビジネススキルが伸びていくけど、その後は今いる会社の中でしか通用しないスキル、それどころかスキルでさえない慣れや人脈といったモノだけしか伸びてないことも考えた方がいい。
2,3年おきに転職してる人は逆に万能なスキルだけしか使ってなくて特化した武器が一つも育ってない可能性を考慮した方がいい。
何でも出来るは何にも出来ないって壁は35を超えたぐらいで突然叩きつけられるよ。
もちろん管理職としての経験なんかが急に求められることもある。
転職ばっかコロコロしてると作業者としての経験はあっても管理職としての経験が欠けてたりする。
たとえ与えられる予定の役職が作業者でも、管理職としての経験から来るフォロワーシップが求められることだって多いんだよ。
安易に「転職最高です!転職しない奴は馬鹿」みたいに言ってる記事は読まない方がいい。
そして、転職エージェントはすぐに「とりあえず別の会社にぶっこんじまえばこっちのものだ」って考えてくるよ。
あいつら口先じゃ客のことを考えて不幸になりそうな縁談は拒否っていますと言ってるけど、実際にはよっぽどヤバイ奴以外は適当に転がしときゃ良いと思ってるから。
無数にいる商業動物の一匹ずつをどこまで丁寧に管理するかはその人次第ってことだ。
ちゃんと考えてくれる人に当たったらいいけど、大抵の場合は直近半年の間上手く言ってる感が出せるならどうでもいいと雑に転職させに行くから。
転職も引っ越しと同じで慣れてこないと難しい所あるけど、引っ越しみたいに「金を払い直せば案外簡単にやり直せる」ってもんじゃないのは意識したが方良い。
「結局、多様性を認めるかどうかは、崇高な理念ではなく、コストとリターンの兼ね合いで決まる。」
https://blog.tinect.jp/?p=63446
「なぜ学校はワープロを受け入れない? - 「現実」に過適応していると未来が失われる」
http://mazmot.hatenablog.com/entry/2020/01/08/223755
あらかじめに言っておくと、自分は前者にはがっかりし、後者に肯定的である。
後者で「過適応」という言葉が出てくる。もともと人間には生存能力として環境に適応する力が備わっている。ところが、その適応が終わりに近づくと、それにつれて適応の必要はなくなっていく。そのような状態に長く居続けると適応能力そのものが失われてしまう。そして(不可避なことであるが)、ひとたび社会に変化が起これば、突然全く違う環境に放り出されるのだから、うまく適応できず、ハイさようなら、となる。人間、を組織や社会そのものに置き換えてもかまわない。『失敗の本質』なんかでも日本軍の敗戦理由として、こういったことが述べられている。
最適点からのずらし、つまり多様性の受容やらその他の変化やらのことだが、には不適応の注入(コストや不快感)が必然的に付随する(ああ、それが最適点の定義だ)。だが、それこそが柔軟性を保つためのストレッチであり筋トレなのである。これを常にしていないと関節の柔軟性や筋力が衰えてしまう。
短絡的な視点に立てば「コスト=悪」でしかないのだろう。前者のブログではそこまで断言はしていないが、それは話法に過ぎない。今を生きるビジネスの世界ではそれが「一次解」なのだろうし、「そう思う(安心した)」という旨のコメントも見られた(ブコメは批判が強かったが)。だが、社会は高度に複雑化し自明な解には限りがある。だから「より多くの自明な解が視野に入るようにするために、社会をどう変えていかなければならないか」という「二次解」の視点で社会に投資する必要がある。そういう視点が前者ブログには欠落していた。
日本の社会は惰性が強いから、「多様性は崇高だ」という論点だけからでは、問題の軽減にすら到達できそうにない。「二次解」の視点を持った政治・経済・言論でのリーダーシップ。それについていく側の同じ視点を共有したフォロワーシップ。これが、様々な多様性を含む社会変革を取捨選択しつつ実行し、現代の日本の閉塞感を打破するために必要なことだ。
これは割りとライトな愚痴なんだけど、夫はよく「(我々が)もっと早くに付き合っとけばよかったよね〜」って言う。私は全くそう思わないし、同意を求められるのがうざい。
うちの夫婦は大学の同級生で、卒業して2年後くらいから付き合い始めた。大学の頃から友人であり、一部同期や教授からはお似合いだとか付き合ってるんでしょとか言われていたらしい。夫の母も、付き合っちゃえばいいじゃん!とか言っていたらしい。
らしいらしいばかりなのは、全て夫から聞いたが裏取りはしていないから。
私は交友関係が狭く浅くで顔見知りの教授は指導教授くらい、大学の友人は夫しかいない。
私と夫の友人関係は、一年の実習(泊まり込み、一ヶ月くらい)で同じ班になり始まった。ぼっちの私とおとなしい系男子の夫は実習の当番(2〜3人で一組)でよく組み、雑談を交わす仲に。実習の解散地点は大学から東京ー大阪くらい離れていたので、帰り方わからないんだよね(調べるのめんどいから教えて)と言って一緒に帰ることになった。帰りの新幹線では、夫持参のラノベを借りて読んだりしていた。たしかアドレス交換(まだLINEとかない時代)もした。これがおそらく、夫と大学で二番目に仲が縮まったシーン。ちなみに実習が終わって大学に戻ってからは、週に一回、一言二言話す…かな?話さないかも?用事ないし。みたいな程度。
二年の実習は学科全員ではなく半々に分かれて行われ、夫とは別だった。
私は一年の実習で後悔している部分が多々あり、それはまあ、簡単にまとめると実習にコミットしなかった事が原因だった。班員に壁を作り、班に出された課題も他人事のように聞き、他の人が仕事を割り振ってくれるのをただ待つ。座学こそ真面目に受けていたけれど、手を動かすのも避けていてはぶっちゃけ何も身につかなかった。真面目系クズとか言うやつ?
二年の実習では、他学科も合わさり班の顔ぶれも全然知らない人たち。しかもなんか、皆良い奴そう。少なくとも苦手な奴は入っていない。皆初対面なのに班の雰囲気がいい。これはチャンスだと、リーダーに立候補して性格も明るく装い、実習にも率先して参加した。楽しかった。
(ぼっちコミュ障喪女的な私に何故これが出来たかというと、一番は班のメンバーが良い奴だったから、あと全員作業服に安全帽なので私服センスがだっさい中学生レベルの私でも誤魔化せた、勉強は得意なので実習も本気で取り組めば出来る奴になれた、双方向コミュニケーションは苦手だけどプレゼントか一方的に話すのは得意、などの理由による)
ちなみに実習が終わって大学に戻ってからは、別に友達になったとかでは全然ないので班の人とは関わってない。相変わらず私は、講義を最前列ぼっちで受ける変人枠。
三年の実習は挫折を味わった。
班のメンバーに苦手な人が複数人いた。知らないうちに、去年も立候補したんだからと私がリーダーになっていた。私のやる気は皆無、それを見た班員も当然こっちを舐めてかかって指示には従わない。班の空気は最悪だし、実習降りて来年後輩と一緒に受けようかなって割と本気で考えていた。この頃、夫に気晴らし?相談?のようなメールをした気がするけど気のせいだったかも。
ここまでほぼ実習の話しかしてないけれど、まじで通常の生活は「講義をぼっちで受け、直帰、たまに休日に単発バイト」だけなのでしょうがないね。大学生活の思い出は7割実習、2割卒論、1割その他みたいな‥‥。就活も大学推薦で簡単に決まったので思い出は無い。(なお肩慣らしに受けた面接3件は全部落ちた。大学推薦様様)
さて、一年では集団にコミットしなきゃ面白くないことを学んだ。二年では自分で先頭に立って集団を引っ張る面白さを、三年ではその大変さを学んだ。そして四年の実習では、集団の一員として能力の無いリーダーを信じることの難しさを学んだ。
四年の実習は三ヶ月の長丁場で、前半と後半でリーダーが交代する。前半のリーダーは去年、一昨年に他班のリーダーとして存在は知っていた男。経験者+やる気ありとして順当に決まった。しかしこの人物、熱意はあるんだけど空回りしているというか、やり方が下手で粗が目立つ。徐々に班内ではリーダーに対する信頼が落ちていく空気を感じたし、リーダーの補佐役になった私自身、上手くフォローは出来なかった。
後半、リーダーが代わることでその鬱々とした空気は一変する。そこで私が考えたのは、これまでの三年間の実習のことだった。
一年の実習は辛かった。周りは、私のことを戦力外の変なぼっち女として見ていたし、何か発案すると変な注目を浴びた。私の知らないうちに何かが決まって、皆何かをやっていて、でも私には知らされていなくて、どうしたらいいのかわからなくて。夫だけが私とコミュニケーションを取ってくれた。
二年の班員の人たちが好きだった。初対面で気さくに輪に入れてくれたから、この中なら自分を出すことができると思ったし、じゃあ一年の実習では周りが皆敵で出来なかったあれをやりたい、これも本当はやりたかった、その為には私が一番に頑張るって責任を持つ立場、リーダーになって、面倒なことも引き受けるし、皆が楽しく実習できるように、一年のときの私みたいに何すればいいかわかんなくて言い出せなくって困ったりしないようにフォローもしようって思えた。皆がいい人たちで、好きだったからだ。
なのに三年では、「なんか去年すごいリーダー頑張ったらしいじゃん、今年もよろしく」みたいなノリで、というか何も誰からも一言も言われず、勝手にリーダーにされた。
ふざけるな私がなんで(別に全然好きでもない)お前たちに去年と同じ働きを期待されなきゃならないんだと、静かに、一人で勝手に私はキレて、勝手にリーダーの仕事をサボることにした。点呼の際に人数を数えるのと、号令をかけるのだけはやって、後は徹底的にサボった。課題の話し合いも指揮を取らず、希望者のみ参加の課題には露骨に反対して、班員が揉めそうなトラブルの芽は放置した。個人課題は一人だけやって勝手に出した。
「なんでリーダーとしてちゃんとやらないんだ」とか、一言でも言われていたら、私も「なんで勝手にリーダーにしたんだ、だったら私が何しても私の勝手だろ」と言っただろう。でも彼らは、やっぱりここでも私に何も言わず、勝手に私のことは諦めて自分たちでやっていった。私はめちゃくちゃ怒ってたし、彼らがめちゃくちゃ嫌いだった。
でも、それは、やっぱり正しくなかった。
前半のリーダーは、たとえ空回りしても、班員が全然ついてこなくても、熱意を持って最後までリーダーをやった。後半のリーダーは、前半のリーダーに呆れつつ、なんか上手いこと(←ここ何したのか、未だに全然わからない。すごい。)まとめて、なんか上手いことやった。
上手く言えないんだけど、私もこうしたかった、とか、こうすればよかったのか、とか、そんな感じ。
これは自分的に褒め称えてほしいポイントなんだけど、あと一週間もすると実習も終わりってぐらいに、三年のときに班員だった何人かに、去年のことを聞いてみたりした。私がリーダーに推薦された経緯なんて、誰も覚えてなかった。自分から言いだしたんじゃなかったっけ?って聞かれたから、私も知らないうちにリーダーになってたから、ほんとびっくりだったんだよって笑った。その中でも自分的に、一番ひどい態度したなって人には、去年のことを謝ったりした。まあ、お互い、今年は楽しくやれてよかったね。
と、このように、私にとって大学の四年間(というか実習)はぼっち非コミュの人間以下が人間仕草を覚え、コミュ力を身に着け、リーダーシップとフォロワーシップを学び、圧倒的成長を遂げた物語なので、そこに夫との楽しいキャンパスライフが入る隙間は無いわけです。私の視点では。
というか、一年の実習の後で付き合っていたら、おそらく二年、三年、四年の実習は全然別の体験になっていて、それは、 絶 対 イ ヤ だ !
私にとって大切な、血肉となった経験を奪うな。
人間の特性として、リーダーシップを発揮できるタイプと、フォロワーシップを発揮できるタイプがあって、
フォロワーシップを発揮できるタイプは、リーダーの指示に従って行動するのが得意なわけで、
グループを任されたり、部下をつけられても うまく使いこなすことが出来ないんよ。
本人もそういう自覚があるから断ってるわけで、まぁ昇進させずに現場に居てもらう方が双方にシアワセやな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
からも逃れられるしね。
会社内の業務上でのコミュニケーションって、上司、同僚、部下、とあるけど、分けて考えていくよ。
上司のオーダーに対して期待以上の成果を挙げれば評価が上がる。
その為には上司が求めているものがなんなのか、的確に把握しなければならない。
ここでよく間違えるのは上司が正解を持っていて、正解を持っていけば評価されると考えること。
なんとなくこんな成果に繋がるといいなあ、と思っている場合がほとんどだと認識すること。
なので、正解に繋がる仕事よりも正解に至る過程や仮説を複数提示するのがコミュニケーションのポイント。
また、いいタイミングを見極めて仕事の途中でチェックやアドバイスをもらうのもいい。
流れでいうと、
仕事を受ける→複数の仮説を立てて、提案をまとめる→上司にチェックを受け、アドバイスをもらう
→アドバイスを含んで提案を絞り精度を上げる→上司にチェックを受け、アドバイスをもらう
→さらに精度を上げて仕事完成
こんなイメージか。
リア充の人はコミュニケーション力が高く、上司をうまく使う。言いたい事を言わせる。
言われたこともうまく受け止める。いわれてないことも「空気を呼んで察知」して、仕事に反映する。
なので出来上がった成果も上司に認められやすくなる。
上司のタイプを見分けるのも重要。細かくチェックしたがる人には細かく見せる。
結果だけもってこいという人にはここぞという時だけチェックを受ける。
部下である事をわきまえ、上司にとって価値のある部下となるべくフォロワーシップを発揮すること。
まずお互いに領域を決めておくこと。
一緒にアイデア出しをするのか、分担するのか、などなど。
上司と違って同僚にはポジションパワーがないので、かえって難しい。
公平になるように配慮しなければならない。決してライバル視したり競争相手だと見ないこと。
うまく得意なことが違っていれば補い合うことが出来るけど、
苦手なことが同じだったりすると、辛い。でも協力してやるしかない。
同僚と一緒に仕事をする時はどんな相手でもリスペクトして、よいところをみる事をお勧めする。
ダメなところを見つけて優越感に浸っていてもいい仕事には繋がらない。
仕事の成果が出るようにすることが大切。
昼ごはんを食べる、飲みに行くなどのコミュニケーションも良い。
そのときは、相手の話を聞くことが最も重要。
自慢話でも愚痴でも、何でも聞こう。自分の話をするよりもまず聞くこと。その為にはどんどん質問しよう。
そして、聞いたことから相手がどんな仕事の仕方がすきなのかを想定して
相手が使えないやつでも文句はいわない。補って支えて一緒に成果を出せばよい。
こういうところは不思議なもので大抵上にいる人間にはわかるものだから、
必要以上にオレオレアピールをしなくてもよい。
さりげなく質問されたら意見を言うなどの立ち居地でデキルやつかどうかはわかるもの。
とにかく顔をつないでおく。
いつどこで一緒に仕事をするかわからないので、無関心ではいない事を示すこと。
宴会やイベントにはこまめに出席。ここでもポイントは人の話しを聞くこと。
自分の顔を売る事よりも人の顔をおぼえておくことのほうが価値がある。
とにかく関心を持つこと。放置しない。構ってやる。助けてやる。
出来の悪いところには目をつぶり、いいところをのばす。
話を聞いてやる。勘違いしてるな、と思ったら軽く諭す。
本気でだめなやつなら上司が何とかするので、さりげなく上司に報告しておくのもよい。
ということで、会社内のコミュニケーションとは案外シンプルなもの。
職位による力関係も明確で、やらなければならないことも決まってる。
勘違いしないでもらいたいのだが、会社に正直で誠実な奇麗事の人間関係を求めないこと。
肉なのか大根なのかにんじんなのか。はたまた薬味のねぎなのか。
これだけのコミュニケーション力があってもそこそこにも出世しないとしたら、
仕事上での能力が不足しているか、よっぽど会社がだめかどっちかなんじゃないかな。
ちなみに、能力がなくてもコミュニケーション力があると、マネージメント系では生きていけると思うよ。
努力してたり自然に出来たりいろいろだけど、リア充はコミュニケーション力が高いよ。
個人的にはプライベートでは非コミュ・非リア充で構わないと思っているけれど、
仕事の上でだけは多少の努力をして会社というコミュニティで充実して過ごせるといいよなと思う。
仕事の拘束時間ってそれなりに長いし、一般的に大企業なら転職するより勤め上げて退職金もらったほうが
生涯年収も多いからね。