はてなキーワード: レトリックとは
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223(最初のトラバ先)
http://anond.hatelabo.jp/20130831142238(自分の記事)
元増田の人が2nd Seasonを書いてくれたので、こういった若い人たちに役立ちそうな知識をさらに追記してみたい。
(実は若くなかったら申し訳ない)
念のために書いておくけれど、僕は最近のラノベ専門学校の実態は知らないし、体験入学に行ってみて入らないというのは、優れた判断だと思う。
実際に教師の質をどう担保しているのか不透明だし、やはり意識の低い学生も多い。(自分の時は、おおよそ2割=10人は中退した)
教師は別に仕事を持つ社会人が多く、どちらかというと偏った業界の偏った人格の人達で、しかも扱う分野が本来主観的なものであって、生徒への評価も心情的になりやすい。
それに、最近のラノベブームで、雨後のタケノコのように学校が開かれているのかもしれない。
そういったところはやはりノウハウも無いだろうし、授業の質も低いだろう。
(余談だが、僕が通学していた当時は、まさかこれほどラノベが流行するとは正直誰も思っていなかった。ただ、先生は「これからミステリー小説のように定番ジャンル化するだろう」と予言していた。涼宮ハルヒも出ていない頃だ)
だから、専門学校に通わないというのは、比較的低リスク・低コストで賢明な判断だと言える。
しかしながら、元増田が挙げてくれた問題について、それを断定のまま終わらせてしまうのはもったいない。
特に3番目の問題、
でも、文章を書く営みって、そんな秩序立ったものではないですよね?
元増田が残念なのは、この深い疑問を、専門学校の体験入学ごときで解決してしまった気分になっていることだ。
僕自身、先生に教わったり罵倒を受けたりしながらも、この疑問に突き当たった。
そして、学校の内側と外側の両方で、この問題について世の中の頭の良い人達がどのように携わってきたか、それなりに気にしてきた。
おそらく、以下の参考資料を全部精読し、実習を行い、誰か信頼できる人からの客観的な添削を受け、頭だけではなく全身に技術をしみ込ませることができれば、決して取り戻せない数百万円と数年を賭して専門学校に行く必要など、皆無だろう。
また、下記ばかりでなく、もっと体系的でしっかりした知識が学べる大学なり海外大学なりケンブリッジやオックスフォードもあるかもしれない。
そういったものがあると分かったら、単純にそこへ行くべきだ。
文芸的な文章を除く基本的なライティングについては、古典的な書籍がたくさんある。
下記2冊は、ここで紹介するのが恥ずかしいくらい基本的な書籍だ。
さて、上記のような確立した情報伝達技術ではなく、独自の表現をしてみたり、人を感動させる文章を書きたい場合、そういった技術は教える・教わることができるのか?
それを体系的に扱うことは確かに難しい。そもそも人の感情であったり、表現から受け取る印象が非体系的だからだ。
だからといって、先人がそれを教育の世界で取り扱おうと努力してこなかったわけではない。
どうしても総論ではなく各論になってしまうが、それでも個人的に見て良書は多い。
「文章作法を学校教育のように教えられない」結論に至るのは自由だが、下記書籍を全部読んでから至っても決して遅くない。
「作文」の価値を捉え直した、文章表現の入門書。作品でも製品でもなく、純粋な「作文」そのものの価値を再発見している。
大学の講義をまとめた本。固いタイトルに反して、極めて柔らかい語り口で柔らかい内容を講義してくれている。
だけど、書くことの意味について、「美」について、とても鋭い視点であふれている。
前の文章でちょっとだけ出した。レトリック、つまり、文章で人の心を動かすための体系的知識(!)を取り扱っている名著。
レトリックは長らく馬鹿にされていたらしい(結局、ただの言葉のあやではないか?)が、それを感覚論・認識論・記号論の観点から再評価した名著。
なぜ直喩が隠喩より優れた修辞技法になり得るのか? といったことが詳しく書いてある。
大江健三郎による文学論。そもそも小説や文芸作品とは何を目指すものなのか? といったことを明確に書いてくれている。
それは同時に、読者としての私たちが誠実な文芸作品の中に何を求めるべきなのか? ということでもある。
文章読本は色々あるが、その中でももっとも実践的と言われる丸谷才一の本だ。
歴史的仮名遣いで読みにくく感じるかもしれないが、内容そのものは平明だったと思う。
(しかし、いまなぜか手許に無いので詳しいことは書けない。「ちょっと気取って書け」くらいしか思い出せない)
E.M.フォースターによる文学理論。Amazonで8000円くらい。僕はカチグミなので古書店で1000円で入手できた。
「ストーリーはあまり美しい要素ではありません」という衝撃的な宣言が印象に残っている。
小説というものを本来どう味わうべきか? どう書かれるべきか? という熱のこもった講義録だ。
新装版が出るんだ……。
芥川賞を最年少(23歳)で受賞しながら、文壇に属せず、独りストイックに小説を書き続けている作家の文学指南書。
テクニックの本ではないが、ここで明らかにされている執筆姿勢には衝撃を受ける。
ホームレスをしていた25歳のコリン・ウィルソンが大英博物館で一気呵成に書き上げた文芸評論書。
「アウトサイダー」というキーワードのもと、文学・美術・舞踏・哲学などなどを横断的に眺め渡した名著。
本気で読むと人生が狂う。
先の記事で書いた。全日本人が読むべき。
なんだかこういう本のことを書けるのが嬉しくて、ついかっとなってリストアップしてしまった。今は反省している。
偉そうに書いたけれど、結局は僕も文学界新人賞で名前が小さく載ったくらいの実績しかない人間で、そんなには当てにはならないだろう。
しかし、僕自身が当てにならなくても、何が当てになりそうかの感性は結構あるつもりだ。
教育における教師とはそういうもので、自分ができなくても人の作品を見て添削できたりはする。
失敗している人からだって、むしろ失敗している人だからこそ学べることもある。
そういった人達の行く末をよく見て、やはりラノベなんかやめて、楽しくOS・エディタ・コンパイラでも作ろうと思って欲しいのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223
特定を恐れずに、その経験談を書いておこうと思う。
400文字詰原稿用紙のレポートを何度も書かされた。学校までの道案内や入学式の報告といった、無味乾燥としたレポートだ。
その400文字は、先生の厳しい添削で真っ赤になるのが常だった。
まともな文章をたった400文字すら書けない。その現実の中で僕らはもがいた。
本を読んだ。
プラトンから「神々の指紋」まである推薦図書のリストがあって、半分は読んだと思う。(神々の指紋は残念ながら読んでいない)
村上春樹や吉本ばななや江國香織が好きな人が仲間内では多かった。一方で、ラノベばかり読むグループもいた。
その時期いちばん読んで良かったと思うのは、佐藤信夫の「レトリック感覚」「レトリック認識」だった。
ただ、読んで良かった、という気持ちだけが残っていて、内容は詳しく覚えていない。
50枚書くことは難しくなかった。
夏にはもう初稿が提出できて、先生にはそれなりに褒めてもらえた。
しかし、自作が何となく気に入らなくて、勝手に最初から書き直してしまった。
書き直した作品は、生徒みんなの前で罵倒された。(トラウマだ)
合計で7回は書き直したと思うけれど、何度やっても評価はされなかった。
そちらも同じように失敗した。
レポートなども合計すると、2年間で2000枚は書いたと思う。
授業では色々な人から話を聴いた。
某有名ゲームのプランニングをしていた人・女性雑誌の編集長・とある古参ハッカー・ラノベの大御所・今ではずいぶん有名になってしまった当時の新人作家……。
映画や演劇もたくさん見せてもらった。レポートの宿題が必ず付いていたけれど。
民俗学で古事記を読んだり、美術学で有名絵画から聖書のシンボルを読み解いたり、構造主義を応用して物語のプロットを組み立てる授業もあった。
教えてくれる人はみんな(出来る範囲で)熱心で、青臭い自分の言葉もちゃんと聞いてくれた。
ちなみに、小説の先生は往年の一太郎ユーザーで、ESCから始めるショートカットばかり使っていた。
キーシーケンスの組み合わせを暗記していたようで、VimやEmacsに通じるところがある。
日本語IMEについて、ATOKは使い物になるが一番良いのはWnnだ、と言っていた。その真意は定かではない。
提出ファイルにはShift-JISのプレーン・テキストを指定し、タイトルや名前の入れ方も詳しく指示していた。おそらくマクロで処理したのだろう。
ただ、提出メディアがフロッピー・ディスクだった。もう10年以上前の話で、テレホーダイの記憶が鮮やかだった頃だ。
僕が通っていた学校に限れば、環境としてそんなに悪いところだとは思わない。
当初は周囲を見回して傲慢になっていたけれど、その鼻柱は見事に折られてしまった。
客観的に言って、使おうと思えばいくらでも使える環境だったと思う。
ただ、進路が難しい。学校を出た後でどう生活を立てていくかが難しい。
卒業生の進路はそれぞれだった。
定職に就いていない人間もきっと多いだろう。
頭の良い同期は大学に転入した。
プロとして活動していると言えるのは、50人の同期の中で3〜5人だと思う。
おそらく最良の選択は、大学に転入し、標準ルートに戻ることだ。
標準ルートを知ることも大事だし、それから生活を安定させてデビューを目指せば良いと思う。
(ただし金が掛かりそうだが……)
何も知らない自分に大きなトラウマを与えてくれたのは、本当にありがたい事だ。
ただ、自我の捨て方は教えてもらえなかった。
こればかりは、学校の外で年齢を重ねてから、知るほかなかった。
某純文学系の新人賞に一度だけ送って落選した実績しかまだない。
そして、日本語よりJavaを書く時間の方が長く、それよりもD言語を書きたいと思う毎日を、無為に過ごしているのだ。
トラバでも言われてしまったけど、「学んだこと」と言いながら、学んだ技術的な内容をあまり書いていなかった。
多少参考になる部分があるかもしれないので、追記してみたい。
ストーリー構成の教科書としては、シド・フィールドが使われていたようだ。
ただ、当時はろくな翻訳が無かったらしく、教師オリジナルのテキストを使っていた。
ハリウッド流の伝統的な4分割構成が基本で、自分のアイディアをとにかくそれに落とし込み、内的整合性を保って読者に提示する技術を教えられた。
たとえば下記のような点をチェックするよう繰り返し言われた。
他にも色々と細かいテクニックについて教えられた。書くときの気構えであったり、推敲や添削の方法であったり。
今はストーリー構成の良書も多いだろうし、自分で教科書を集めて勉強できる環境も整っているかもしれない。
だから、自分で体系的な資料を集め、先生になってくれる人や切磋琢磨できる仲間を見つけ、継続的に書く環境を整えられれば、わざわざ専門学校に行く必要は無いだろう。
専門学校などという人生を浪費する施設より、週末の教室+Webでの作品発表・添削という形の方が適しているかもしれない。今の時代はきっとそうだろう。
レベルの高い卒業生の作品を見ると、内的整合性の点では下手なラノベよりしっかりしているものが多かった。
しかし、
「全体的に整合性が取れていて、ちゃんとした盛り上がりがあり、伝統的な構成に従って無駄なく構成できているか?」
という問題と、
「それが商業的に売れるか?」
というのはまったく別の問題だ。
商業的消費はたぶん非体系的な世界で、体系的技術がそれにどこまで寄与できるかは分からない。
とあるデビューした卒業生の処女作は、内的整合性など何も考えていない、次々と新しい要素がひたすら出現する怪作だった。
その一方で、しっかりした技術のある人が、なかなかデビューの糸口を見つけられないでいる。
ちゃんとした構成や一貫性よりも、変に魅力的な脇役が愛されたりするのが商業の世界だ。
特に日本において、消費者は全体よりも部分を好む傾向が強いと思う。
そして、部分で受けることを狙うのはかなり難しい。
部分を愛する文化というのはきわめてハイコンテクストな文化で、普遍的・一般的な技術が原理的に存在できない気がする。
それは様式美に満ちた世界で、日本の文化はそういった様式美の継ぎ足し・連続で出来上がっているようにも思う。
こういった事は加藤修一の「日本文学史序説」に素晴らしくまとまっていて、とても面白かったので、創作に関わる人は序章だけでも全員読んだ方が良いと思う。
マンガもゲームもアニメもラノベも全部これで説明できるし、将来的にどんなものが日本で流行するか判別する目安にもできそう。
以上を要約すると、ちくま学芸文庫から上下巻で出ている加藤修一「日本文学史序説」を3000円で思い切って買おう、それを読めば専門学校に行かなくても大丈夫、場合によってはラノベを書かないで済ませられるかもしれない、ということだ。
地方と都会の文化格差問題、低学歴と高学歴の文化格差問題ってのは、全てが後付けであって、見ようとしたから見えたものなんだと思う。
インターネットってのは、決して開かれている公の場なんかではなくて、基本的には自分の「一般」世間と他人の「一般」世間の文化闘争。
たまにはてな見てても、本当に抽象の言葉を使って、自分の考えを抽象の次元で語れる人なんて殆どいなくて、基本的な構造は、自分の見識を、さも一般性があるような言葉を使って、自分の考えを高尚なものに見せかけるレトリック。「一般」の次元で語るのと、「抽象」の次元で語るのは違う。いわゆるディレッタントの手口というか。「低学歴と高学歴」みたいな話題も、それが簡単に自分の体験談を落とし込めるから何回も流行っているだけ。
どうして「地方と都会」「低学歴と高学歴」「ヤンキー」「ロードサイド」のような話題が自分の体験談を落とし込みやすいかというと、それが学業の世界に属していた時に、「テストの点数」や「進学先」っていう明確に優劣を計れる物差しがあったからであって、尚且それが日本人である限り義務教育のおかげで、誰とでも共有できる体験だから。
そこにあいつらと俺は違うっていう只の二元論の選民意識と、あーそれわかるわかるって共感してさも一般論のように自分の選民意識の小さな偏見体験談を語る人たちが寄せ集まって巨大な偏見の渦と化しているのがキモい。確かに地方と都会っていうカテゴリーは現実に存在するんだけど、それが文化格差から始まって、選民意識になってる小さい自尊心がキモい。
たまにはてなに感じる気持ち悪さって、存在しない格差を、あたかもそれが存在するかのようにレトリックで作りだすエリート選民意識なんだよね。要するに、「あいつらと俺は違う」っていう小さなプライドが、この低学歴と高学歴の文化格差問題の全ての元凶になってるわけ。
俺は、俺の思想にしたがって、彼らの存在を可能な限り正しく把握し、そこに感情的色彩を挟まない努力をしなければならない。「あれはバカで、どうにもならない」でかたづけてしまうのは、俺にとって敗北だからだ。
この辺が特にキモい。まるで自分だけ一人安全地帯に逃げ込んで観測者ぶってるのがキモい。
彼らには「インターネット」という概念がよくわからない。よく言われることだが、たとえばTwitterならTwitterという「個別のアプリケーションがある」というのが彼らの感覚である(LINEは使ってないんでよくわからん)。
こういうのって、学歴とか、あいつらはこれを知っていて、俺らはこれを知っているからあいつらとは違うっていうしょーもない二元論で語るのではなく、バカをさせてしまう構造的な側面から語らないと、只の偏見と差別の羅列になると思うな。
私は顔面に審美的に望ましくない特徴を持っている。わざわざこういう言い方をしたのは、それがただ不細工というだけでなく、けっこう珍しい特徴でもあり、子供のころにからかいの対象になりやすかったからだ。その私に向かって、私の親はよくこう言った。「芸人さんみたいに自分で話の種にして笑い飛ばしてしまえばいいじゃない、人気者になれるよ」と。まぁ別にそれだけではなく、私の親はとにかく節操無く「アドバイスとしてそれっぽいこと」は何でもかんでも言っていたように思うが、「マイナス要因を屁とも思わず逆に利用しろ」というレトリックは特に好んで使っていたように思う。ほかにも「いじめられたってことは人の痛みがよくわかる優しい子になれたってことだよ」とかだ。冗談じゃない!ふざけろだ。いじめられなくても痛みを感じる場面なんて腐るほどある。ちょっとした痛みを知っているだけでもっと強い痛みも類推できるのが人間の知性だ。多大な苦痛を味わう必要なんてない。大きすぎる苦痛は、他人を思いやる余裕を奪う。程度によっちゃ人の痛みをわかるどころじゃなくなる。そんなものを正当化するな。コンプレックスを笑いにすることだってそうだ、他人が強制したらそれはいじめと何も変わらない。いちいち気の利いたことを言って格好をつけようとするな!何も言わないでいてくれたほうがまだましだった。
彼は普段偉そうな事をいってる割にはデマが全く見抜けないのだ。
その証拠に例を2件あげてみる。
http://b.hatena.ne.jp/xevra/20130531#bookmark-148325210
このブックマークだが、他の人のブクマをみれば分かるように元記事は海外の虚構新聞のようなジョークサイトでそれ真に受けた馬鹿が日記をかいたんだが、xevraは、
”うは、これはヤバい。遺伝子組み換え野菜とは農薬を自分で合成するようにした化け物。遺伝子組み換えの食品を食べるという事は農薬を食べる事。毛が抜けるだけでなく深刻な副作用が次々出そうだ。恐ろしい恐ろしい”
みたいなどうしようもない無能な事をいっている。
http://b.hatena.ne.jp/xevra/20130708#bookmark-153518610
これはtwitterを騒がせた渋谷駅銃乱射デマここでもxevraは
"もう渋谷ダメだな。終わったな。ただでさえ乗り換えが大変になって乗降客数が減っているというのに治安も悪いんじゃ救いようがない。"
といっているが、救いようがないのはお前だ。
この様に彼はどうしようもなく無能なのだが人を馬鹿にするのは大好きで普段から中傷のようなブクマばかりしている。
控えめにいって彼は「自分が無能と理解出来る程の知能も持ちさわせていないどうしようもない無能」なのだろう。
そして、このような自分を省みる知能もない無能に限って態度と声がでかいのも世の常なのだろう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130717113026
"男が暴れて治安が悪化しているのは事実。私のコメントに何の問題も無い。遺伝子組み換えの食品を食べるという事は農薬を食べる事と同義である事は真実であり変わらない。だから問題ない。もっといいネタもってこい"
との事なので、反論してみる。
【画像】渋谷駅で拳銃らしき物体を振り回して暴れた男が警官に捕まる事件発生! - NAVER まとめ変更する
http://b.hatena.ne.jp/entry/matome.naver.jp/odai/2137327035503716701
を確認する
id:kaitosterさんによると
"「渋谷駅で銃を乱射して暴れた男が完全防備の警官隊に捕まる事件発生!乗客は避難し改札内立入規制へ」→「渋谷駅で拳銃らしき物体を振り回して暴れた男が警官に捕まる事件発生!」←アクセス稼ぎにデマまき散らす人"
とタイトルが変わったようだそして
xevraのブクマは
id:emoyanさんの
"【画像】渋谷駅で銃を発砲して暴れた男が完全防備の警官隊に捕まる事件発生!犯人は「笑っていた」との情報 - NAVER まとめ"
下にあった。
つまり彼が書いた時点では
"【画像】渋谷駅で銃を発砲して暴れた男が完全防備の警官隊に捕まる事件発生!犯人は「笑っていた」との情報 - NAVER まとめ"
この彼の言い訳は元のデマまとめ主同じく姑息なレトリックであるのだ。無能なだけではなくこのまとめ主と同じレベルで精神まで腐っているように思える。
なら遺伝子組み換えと農薬の危険性について比較したまともな医学エビデンスなり審査をくぐり抜けた論文を提出すべきだ。
でないと彼が批判している「はぁちゅう」の血液クレンジングとなんらかわりはない似非科学である。彼が批判している対象たいして変わりない無能さだといえる。
「テストコードがないコードが技術的負債」というのは、たぶん技術的負債を正しく定義するのが目的ではなくてね。
たとえばリーダビリティの低いコードが一般的な意味で技術的負債であるのはそりゃそのとおり。なんだけど、「みんな読みやすいコード書こうぜ」という訴えは、適性の欠けたプログラマもたくさんいる世界であまり意味をなさないと思うんだよね。「そんなもん書けるならとっくに書いとるわー」って話で。言っちゃ悪いが、バカにお前そのバカどうにかしろよって言ってるようなもん。
じゃあ、ITの世界全体で品質の底上げをするためにはどういう価値観を広めればよいかとなると、心がけやルール化によって誰でも(一応は)実現可能で、実現度合いが定量評価できる、ある種のプラクティスを重視するしかない。もともとテストというのはそういう側面もあるから重視されているわけでしょう。「テストコードがないコードが技術的負債」っていうのは、スローガン化することでテストコードをなるべく多くの人に書かせるよう仕向ける、要するに一種のレトリックだよ。だからこれはこれで正しいの。
ガルパンについて語りたくなったんだけど
ツイッターでやるには140字の縛りがウザいし
自分のWEBサイトはエロ絵サイトだから需要の薄い長文乗っけて誰得な思いさせたくないし
はてなダイアリーの垢は持ってるんだけど長らくログインしてなくてIDとパスを忘れちゃったしなので
増田に描く
なお原文は2012年11月にミクシィの日記に書いたものなので
身内向けということで文体が多少馴れ馴れしいし
まだ6話のサンダース戦前の状況ということで現在の、「俯瞰的見地から見たガルパン像」から
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ブレインストーミング代わりに今日はガルパンについて語りたい
ガルパン(正式名称「ガールズ&パンツァー」、以下愛称の「ガルパン」で統一)
現実とはちがう世界、「華道」や「茶道」のように、戦車を使って軍事教練に励む「戦車道」が良家の子女の教養の一つになっており
学校教育で「戦車道」がクラブ活動として推進され(←日本の右傾化が!軍国主義復活!ぐんぐつの音が~!)
そんな世界で女子高生が「戦車甲子園」を競う青春の日々を描いたアニメです
やはり日本は憲法九条を護持し他国に侵略的な脅威をいだかせるような軍備拡張路線をとるべきではない、という個人的信条なのですが
ほらリアルでょぅι゛ょレイプとかダメ絶対でもぷにケットでそういう系同人誌買ったりするじゃん?
「それはそれ、これはこれ」という…
社会に対する「こうあらねばならない」という理想の大枠と、個人的な趣味嗜好との間に矛盾をきたすのは人間よくあることだというわけで
は、積極的に嗜好するほどではないにしても【興味があります】状態なのですよね~
軍事っていいよなパワフルで
兵器の味って男のコだよな
それでガルパンです
(どれくらいかというと、「ガルパン」劇中の10式戦車と90式戦車の区別が全くつかなかったレベル)
ストパンと似た部分(女の子×ミリタリー/キャラ原案島田フミカネ先生)があり
この奇貨居くべしと思い密かに注目していたのですが
「戦車」という全く馴染みのない題材を
女の子たちがキャッキャウフフ!しつつ戦車甲子園を目指すというサクセスフルなアプローチを取ることで
うん! そうかそうかそうなれば話が違う
ここに並んだ大量の戦車がすべておかずとして立ち上がってくる
という、キャッチーな萌え豚仕様の娯楽アニメに仕上がっているのですよね~
僕みたいにストパンでハルトマンを知ったニワカミリタリ趣味のアニオタには
ちょっと敷居が高かったのですが
劇中では「部活動」の体裁を取ることで、「戦車戦」の持つ面白さの基礎を啓蒙しつつ
理想的な作りになっているのです
そもそも一般的に男は「力強いもの」へのあこがれがあるのですよね
戦車や戦闘機・軍艦にかぎらず、偉大なアスリートやマッチョな格闘家、完成した帝国、大馬力のクルマ、大きなタンカー、巨大構造物や、強靭な猛獣や雄大な自然…
そういう「力強いもの」と、そういうものに近づこうとする努力や姿勢というのは…やはりそれだけで大きな「見せ場」「おはなし」を生むわけです
それでガルパンです
萌え豚の中の、「力強いもの」へのあこがれを「戦車戦闘」のシーンで上手く引き出して
むしろ王道的な少年漫画に近い、男性的娯楽性をあげることに成功していると思います。
ガルパンに関しては
等の冒険主義的な発言を行なっている背景には、こういう部分があると思います。
結論としては
ある程度の商業的成果を残せる作品になりうる可能性は秘めているのじゃないかと思います。
(↑この部分、去年の11月に書いた部分なんで今更感が激しいのですがあえて残す)
んで
実はこの件について
当サークル(※同人サークルやってる人間のミクシィ日記なのでこういう表現なわけだ)の特別顧問たる妹くんのご意見を賜りたく
件の動画
<externalvideo src="NC:sm19396234">
を見ていただいたのですね
※ちなみに妹くんは、いわゆる男性的なヲタ娯楽(軍事・格闘技・ガンダム等)にはほぼ全く共感性を持たない方なのですが
しかしストパンをキャラアニメとしては評価していたり、ガンダムUCを「ボーイ・ミーツ・ガールなサスペンスもの」としては評価していたりと、「ギミックにかかわらない話の面白さ」は積極的に汲んで評価する方だと思います
で感想
「お兄ちゃん…悪いけどこのアニメ、お兄ちゃんが思ってるよりずっと
玄 人 向 け す ぎ だから」
ファッ!?
「いや自覚したほうがいいと思うよ、電車と軍事とガンダムロボに萌え萌えになれるのは男の子だけですから」
で…でも…ガルパンは見せ方がすごく丁寧で…
「そう思ってるのはお兄ちゃんが「軍事モノ属性」がある人だから…
軍事関係の「ルール」っての?ああいうものがわかってないと、何やってるかわからないんで
「ああ、わかる人にはわかるんだろうな」ってのは伝わってくるけど、それが面白さに直結してくれないんだよね」
「この動画だとキャラクター多すぎで、しかもキャラ同士の人間関係が…「(戦車内の)役割」しか伝わってこないじゃん?
ストパンみたいに、キャラ同士の性格がよく見えて、そこから感じ取られる関係性で、「軍事とか興味ない人」にも楽しめる的な要素がありませんでした」
そ…それは!1話から通して見ていくとだんだんとわかってくる部分で…
「理解がないとやっぱり1話から、軍事に興味ない人は見ないよ、こういう話…
あと戦車だと女の子がみんなおんなじ格好してて、車内だから体の一部しか見えないわけじゃん?
そこも女の子ごとに違うコスが全身見え(て、芝居ができ)るストパンと違って、キャラに感情移入しにくいんだよね~
「この子たちどういう事をやってんの?」って感じで」
「戦車」はシステム上、1台あたり最低3人多くて5人の乗員を必要とし
どんなに最低限のユニット構成にしても、最低限10人(主人公チーム5人+<味方チームリーダー一人*4>+敵1人)のキャラの見分けが初見でつかなければならない…という
非常に厳しい前提条件があるのですよね
「やっぱりキャラ描写って、ヌルい人を釣るのにも大事な要素だと思うわけよ
例えば(同じ水島監督の)「おお振り」なんかは、野球のルールがわからなくても阿部さんや三橋のキャラが立ってて、
野球の試合って劇中のキャラの関係性を表現する舞台だったわけじゃん?
人間関係が生み出すドラマがメインで、野球がそれを表現するツールにすぎないみたいな…
この動画だと、完全に戦車のドンパチがメインで女の子が添え物(表現のツール)なんで、戦車に興味ないと見てて退屈なんだよね」
「あとせっかく女の子いっぱい出てるのにストパンと違ってパンツ全然見えないじゃんこのアニメ。」
あれはズボn
あ、ハイ…
「それで、まさかこのアニメで冬コミに新刊出したいとか思ってないよね?
お兄ちゃん前の日記で『(ガルパンを新刊候補にしたのは)趣味だから』って言ってたじゃん
これが同人的に来る可能性低いのわかってるよね?」
で、でも…ガルパン6話が神だったし…
「そりゃ、これ本編は熱狂的なファンに受けそうな気はするよ?
でも同人って、本編でやられてない「外野」の部分を妄想するのが楽しい訳で、みんなそこに期待してお金払って本買うわけでしょう?
キャラ同士の関係性とかさ~…そういう外野の妄想の楽しさって、あんまりこのアニメにはナさそう…劇中の戦車の使われ方を解説する本とか、そういうのが受けそう」
確かに…
西住殿×秋山殿がふたふたする本でも描こうかな~と一瞬思っていたのですが
3話くらいまではちょこちょこ出ていた「百合営業」シーンも
4話以降はめっきり絶えて、「普通に女の子同士の友情と共感」以上の感情が、ガルパンのメインキャラ間からは汲み出しにくい感じだと思います
(↑この時点で6話までしか見てなかったんで今から見たら的はずれなこと言ってるがあえて残す)
マイミクさんでガルパン好きな方いたらすみません;;disってるわけじゃないんです;;
それだけはわかってほしい
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↑は冬コミでガルパン同人だそうかなぁと思って妹に相談したら止められたという話
実際有村悠氏のガルパン同人が残念な結果になったことはご本人も仰っているし
当サークルでも、この後ガルパンふたなり化同人出したら、会場で出た部数が ふたけっと>>ガルパンオンリーイベント だったりで
たいてい動物実験が話題になるときって過激な団体が無茶したときだから、「動物実験反対派」の主張が肯定的に報道されることって少ない気がする。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/493443
たとえばこれが「穏便に申し入れて」「高校側が拒否した」とかなら、ニュースバリューも無いしね。
ただ、ブコメとか見てると、たまに妙な意見が書いてあることがある。
・この団体事務所の近くの水たまりという水たまりにボウフラを投げ込んでやりたい
・「アカムシの解剖」は、少なくとも、「ゴキブリに殺虫剤をかける」より残酷な行為ではないはず。学校での動物実験に反対する前に、まず殺虫剤の不買を呼び掛けてみろよ。
別に彼らがほんとにそう思ってるってこともないだろうし、単なるレトリックなんだろうけど、やっぱり気になる。
Aを反対するときに、Bも反対しないのはダブルスタンダードだから、そっちも批判すべきだ、というのはわかるけど、
露悪的に言うなら、
「過激な団体に無意味な攻撃を呼びかける声明を出すことで、相手に正当性を付与する」
「ほかにも攻撃対象がありますよ、と被害を広げようとしている」
とかね。
まあ、それは本筋じゃないわけだ。どっちかというと、これに近い。
ところで高校の動物実験って誰が倫理性を担保してるんだろ?個々の高校(ひいては生物教師)を攻撃されたら抵抗するには負担が重いと思う
個別に拾ってこないけど、良く動物実験に対する批判まとめみたいなののブコメに以下みたいな意見が乗ることがある。
でもこれらは、倫理に対しての回答にはなってない。
というのを、無意識的に前提としておいていないと成り立たない。
程度だと、かなり注意しないと動物実験の正当性を説明できなくなる。
あー、判りにくいか。
「動物」を「ユダヤ人」に、「人間」を「ナチス」に置き換えると、上の4つの意見が途端に醜悪なモノに見えてくるだろう。
(もちろん、ユダヤ人が動物的だとかそういうことを言いたいわけではなし、適切な置き換えでもない。
「ユダヤ人を使った実験で科学が発展したのは事実だし、ナチスを危険にさらさずに実験する方法がほかに無い」とすれば、
「科学発展の速度」や「最低限の実験」ってのが倫理の説明でのエクスキューズにならないのを理解してもらうためだ。
「ユダヤ人にも権利を」という主張をしているのが動物愛護団体だ、と理解するのが、動物愛護団体に共感できない人には判りやすいと思う)
実は、さっき不適切な例示だって言い訳しながら使ったユダヤ人とかナチスってのは、あながち無関係でもない。
動物実験の話をすると必ず出てくるヘルシンキ宣言ってのは、そもそもがナチスによる人体実験の反省から来ている。
人間を対象とする医学研究は、科学的文献の十分な知識、関連性のある他の情報源および十分な実験、ならびに適切な場合には動物実験に基づき、一般的に受け入れられた科学的原則に従わなければならない。研究に使用される動物の福祉は尊重されなければならない。
これは要は、動物の福祉は尊重しつつ、人間の福祉よりは制限されたものだぞ、と宣言しているわけだ。
ブラックジャックだって、人間をほっぽっといてイルカを助けたわけではない。あの作品にすら、明確に優先順位がある。
オレは「狂う」というのを、一般からずれてしまった、と定義しているからだ。
少なくとも日本社会では動物と人間とは違うものだとされているし、知っている限り西欧諸国もそうだから、「一般的に人間は動物より上」と思っている。
ペットは家族同然とは言っても、家族とペットのどちらを助けるかと問われたら、迷い無く家族をとる。
そういった話を全部棚上げにして、「動物愛護団体の手法」だけに触れるやり方は、教育機関ではとれないんだろうなーと思ってる。
(過激なことをする団体の主張は取り合う必要は無いというのは一つの方針だけど、動物実験の正当性はそれとは別に教育に取り入れないと自然に身につくものでは無いと思ってる)
だから、動物は人間と同じような権利を得るべきだって団体は、オレはおかしいと思ってるが、
そういう主張をする人たちに反論したり正当性を主張するときには、かなり注意しないと、全く意味の無いこと言ってることになる。
そりゃ、ユダヤ人への人体実験をやめろって主張している団体に、科学の発展がーとかナチスの安全がーって言っても伝わらんだろ。
そしてそれを、いまいち理解できていない高校生には、経緯を含めて考えてもらうのが教育だと思ってるし、
その正当性(倫理性の担保)の説明を、一介の高校に期待するってのは、かなり厳しいと思う。
どうすんのが良いのかねー
久々にLRCの翻訳でもやってみようかと思った。
元記事はこちら:http://lewrockwell.com/schiff/schiff219.html
グローバル経済危機を経て、経済学者や投資家は異常に高額で、無くなる気配のない国債についてやけに許容的になった。この無頓着っぷりは、自国の紙幣を印刷出来る強国は債務危機に囚われる事など決してないという思い込みによって裏付けられているかもしれない。そしてどうやら日本はそんな確信を極限まで試そうとしているようだ。
ここ20年の大半、政権交代の続く日本の行政や中央銀行は量的緩和政策を用いて、萎んでしまった資産バブルを復活させようと努力してきたが、成功には至らず、全体的に見て経済は応じてくれていない。第二次世界大戦後に日本が経験した、世界史上類にない経済的サクセスストーリーとも言えるあの目まぐるしい継続的成長が復活する事はなかった。この20年間、日本は低成長・不景気・爆発的借金という「ゾンビ経済」状態が続いている。日本の借金は現時点で約12兆ドルで、これはGDPの200%以上であり、IMFはこの数値が年末までに245%にまでなると予測している。もしそうなれば、日本は世界で最も借金・GDPの比率の高い国という称号を得る事になってしまう。しかし、新たに当選した日本の安倍晋三総理大臣と日銀の黒田東彦総裁は、経済を復活させるには更なる借金が必要なのだと感じているようだ。
安倍首相が切り札的経済政策を引っさげた今までにない総理大臣なのだという期待感は、長らく死に体だった日本の株式市場を目覚めさせた。2012年5月~11月の日経平均株価は8200~9400円だったが、安倍の勝利が確定し始めた頃から株価は上昇し始め、去年の12月26日に就任した頃には10,000円台まで回復。このお祭り感覚は春先まで続き、4月2日には12,003円まで上昇した。そこで4月4日に日銀の黒田総裁はこの流れに則り、どんな手段を用いても2%のインフレを達成して、長年続いた緩やかな価格低下を止めるという計画を発表した(この価格低下は現実には日本の消費者に対する数少ない慰めだったのだが)。この計画を達成する為に、日本政府は流通している円の量を倍増する構えだ。株価はたちまち急上昇し、一週間も経たない内に日系は13,000円台まで上昇し、4年半ぶりの最高値を記録した。1年以内に株価が50%も回復する事は世界的に見ても珍しい事だが、この回復の代償は高くつく事になる。
日本政府は既に税収の25%を借金の返済に当てており(米国は6%)、このコストは日本が支払っている異様に低い金利を考慮すると余計に驚愕的である。日本の10年分の国債の金利は既に0.6%以下で、5年分となると0.20%を多少上回る程度だ。安倍首相が2.0%のインフレを達成すれば返済コストはどこまで上がってしまうのか?2.0%によって長期的な貸与コストは3倍にまで膨れ上がる事になる。借金の金額を考えると、この規模の増大による影響はゴジラ10匹分に匹敵するだろう。
日本の平均年令は上がる一方であり、時間が経てば経つほど国債の購入層は縮小していく。一般的な貯金者が国家債券市場とはほぼ無縁な米国とは違い、日本の市場は日本の投資者によって支えられている。安倍首相が作ろうとしているインフレから身を守る為に、日本の貯金者は収益源として海外を視野に入れている動きが強まっている。
株価が上昇しているのに対し、円相場はその逆方向を進んでおり、2012初頭と比べて米ドルに対して20%、今年の頭と比べて12%も下落している(これは他の通貨に対しての比率よりも激しい)。日経の上昇という利益に対して大きな打撃となったこの急速な下落は為替市場においても珍しく、既に弱体化している国債経済を更に不安定なものにする危険性がある。
数ヶ月前にこの円の下落は見出し上の戦争へと発展した。2月16日、G20参加国は切り下げ競争や通貨戦争に対する警告を声明し、これは明らかに日本へ向けられたものだった。翌日、日本の大蔵大臣は通貨の操作はしないと主張し、多少の躊躇いはあったものの、G20はこれを受け入れた。今の所国際勢力は日本の後を続く形になっており、IMF専務理事クリスティーヌ・ラガルドとベン・バーナンキも安倍首相の政策を絶賛している。競争相手に対する攻撃ではなく、国内の経済を再生させる事が目的なら通貨の弱体化は操作行為とは見なされない、という考えが通説のようだ。このような考えは破廉恥なレトリックとしては正に金字塔レベルであろう。
インフレ政策だけでなく、安倍首相は財政面からも戦争を仕掛けるつもりだ。首相率いる自民党は、今後10年間で約2.4兆米ドル分にもなる公共事業を盛り込んだ経済対策を発表。これは日本GDPの4割にも登る投資で、人口比で見ると米国で年間6000億ドルが使われるのと同じである。
日本が過去に行った大規模な量的緩和の実験は失敗に終わっている事はどんな馬鹿でも分かる事だと思うが、日米の両首相はこの道を無謀にも振り返る事なく突き進んでいる。安倍首相によれば、日本の経済問題は全て年間0.1%の消費価格の低下が原因で、無理やりにでも消費者に必要なもの・欲しいものを年間2%増の価格で買わせる事が出来れば万事解決、という事らしい。
安倍首相のこの望みは既に現実化しているかもしれない。マクドナルドは今朝、ハンバーガーとチーズバーガーの価格を5年ぶりにそれぞれ20%と25%値上げすると発表した。きっと日本人はこのニュースを聞いて狂喜乱舞し、2014年内に食べる予定だったハンバーガーを、値上がりする前に駆け込みで食べまくろうと店に押しかける事だろう。もちろんこれが低収入層にとって低価格食品の値上げであるという懸念なんて一切されない。
安倍首相の計画の元である「価格上昇は値上げする前の駆け込み需要を生む」という考えは、価格が下がると需要が上がるという経済学の原則と対立している。商品を流通される最善の方法は値下げだと、どんな経営者も口を揃えて言うだろう。この問題とは別に、紙幣の購入力が低下し、より多くの国民の収入が借金の返済に必要となっている中、安倍首相はどうして消費者はもっと消費してくれるだろうという発想に至れるのだろうか。
安倍首相のこの大胆な計画は、借金による経済復活の先にあるのは破綻である、という前例を世界に示す事になるだろう。良いニュースは、その効果が目に見えてくるのはそう遠い先の話ではないだろうという事だ。インフレを経済的特効薬として服用する事には限界があるという厳しい現実を私達は目の当たりにする事になるだろう。
この経済的実験の失敗は日米の指導者達に、繁栄への道は自由市場資本主義に他ならない、という事を教えてくれる事を期待している。はじけたバブルを再度膨らませようとしたり、ケインズ主義的再生策の微細管理といった手法を取るより、政治家や中央銀行の役員は、この問題を引き起こす事が自分らの職の本質なのだという現実に気づき、道を開ける事に専念すべきである。
http://anond.hatelabo.jp/20130402215709
この記事について。
私はただ一つ「この記事には論理的誤謬があり、なおかつその誤謬によって害が引き起こされる可能性が大いにある」という話をしたいと思います。健常者がどうのアスペルガーがどうのという話ではありません。まあ書きながら考えるので変なところに着地するかもしれませんがとりあえず目指すのはその辺です。以下本文。
まず、「健常者にも色々いる」とご自分で述べておられますね。
それにも関わらず、「だからアスペルガーは嫌がられるんだよ」という主張の論拠として使われているのは知人のアスペルガー男性のエピソードのみ。アレかな、「アスペルガー症候群にも色々いるんですよ^^」っていうツッコミ待ちの記事なのかな。
「私の知り合いのアスペルガーが嫌がられる本当の理由」という題名でもないしそのように解釈できる文言が本文中に書かれてもいない以上、「こういうわけなのでアスペルガー(の人間は普通皆)嫌がられるんだよ」という意味にしか解釈できませんよね(論拠は筆者の会ったことのある「アスペ男性たち」の印象と、たった二人の人間のエピソードだけだけど)。すくなくとも筆者の方はそのような意味をこめて書かれたと解釈したんだけど、違ってたら申し訳ありません。
まあ自分で「自分は医者でもないしアスペルガー100人に会ったわけでもない」と丁寧に注をつけておられるし、「アスペを全否定はしない」とまで書いていらっしゃるので、この題名はどちらかというと人を釣るために極端な題名をつける技法の一種ではあるのでしょう。
しかし、「アスペを全否定はしない」のくだりの直前まで「アスペルガーは~」「アスペは~」と相も変わらず「普通アスペルガーはこうなんだよ^^」とでも言わんばかりの叙述が頻出していますよね。というか全編そうなんだけど、「健常者はこうなのにアスペってほんと迷惑だよね、困るよね^^;」という記述、論調になっています。実際に読み取れるのは「私はこうなのに知り合いのこいつらはこんなやつらなんだよね、困るよね^^;」という内容だけであるにも関わらず、一般論に見せかけようとしています。
つまり、この筆者は、「自分VS自分の知り合いのアスペルガー」の構図を「健常者一般VSアスペルガー一般」という構図に敷衍しようとしているんです。
自分は「自分VS自分の知り合いのアスペルガー」という例しか知らないにも関わらず、「健常者一般VSアスペルガー一般」として、あまつさえ「アスペルガー一般」を悪であるかのように語ることは紛れもなく邪悪な錬金術です。比喩を使わずに言うと、詭弁です。自分の「知り合いの困ったアスペルガー」という個別事例を「アスペルガー症候群の人間全般は困る」という大きな空想に仕立て上げる言葉の錬金術は、意図的にやったならば紛れもない邪悪です。この「自分は医者でもない~」や「アスペを全否定は~」のくだりは、この邪悪な錬金術をごまかそうとする、実の伴わない、卑劣なエクスキューズであると言わざるをえません。
……とここまでかなり過激な言葉を使ってきましたが、これは「アスペルガーが嫌がられる本当の理由」が書かれた意図をまあ悪いほうに解釈した場合の話です。よりマシなほうに解釈するなら、この筆者さんは<早まった一般化>の罠にうっかりはまってしまったものとも考えられます。<早まった一般化>とは、要するに「X高校の生徒Aは不良だった。X高校の生徒Bも不良だった。したがって、X高校の生徒は全て不良である」とやってしまう論法のことです。当然ながら論理的に妥当ではありません。しかしよくやっちゃう誤謬だからこそ名前までついているのであって、うっかりやってしまうことがあるのは仕方ないともいえます。
しかし、これを「仕方ないねー、次から気をつけてねー」で済ませてしまうことはできないと考えます。
なぜなら、意図的であれうっかりであれ、「アスペルガーが嫌がられる本当の理由」が「ある特定のグループの人間を妥当な根拠なくdisり、彼らの悪印象を植え付ける」ものになっているからです。
「妥当な根拠なく」というのは上段に述べたとおりです。
筆者は「自分の会ったことのある男性アスペルガー達」の話を「実際の、正しいアスペは~」と、何故かアスペルガー全般の話としかとれないような言い方で敷衍しています。そして、「だからアスペは嫌がられるんだよ!」とdisっています。筆者の方もうっすらマズいと思ってはいるのか「アスペを全否定はしませんが~」とか書いてはいますが、そもそも「アスペが/アスペを」と書いた時点で「アスペ(ルガーの人全般)が」という意味になってしまっていませんか。
これを「うっかり」やってしまったのならば、筆者の方には思慮が足りません。言葉は悪いですが、言い方が悪くて周囲と軋轢を起こしまくりなおかつ自覚できない反省もしない、コミュ障(の一種)と同レベルです。言葉の使い方が悪く、主張の論理的妥当性を吟味していないばかりに「X高校のやつらってマジ不良だわーサイアクー」という誹謗中傷になってしまっています。ご自身のためにもお気をつけになるべきだと思います。
これを「意図的に」やったのならば、ただの根性曲がった悪人ですね。社会のためにも大人しくしててください。
ここまで書いてきたのは、「自分が知っている個別事例のみを根拠に何故か一般論として特定の人々をdisり彼らへの悪印象を植えつけようとする」のはどうかという話であって、本質的に健常者(というか定型発達)がどうのこうの、アスペルガーがどうのこうの、という話ではありません。ただ<早まった一般化>にはお気をつけを。邪悪な意図があろうがなかろうが、あなたが「結果的に」悪人と同じことをしている可能性は大いにあります。
おわり。
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おまけ
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↑では「アスペルガーが嫌がられる本当の理由」について、個別事例を一般化してdisるの
はよくないとおもいます!という話に(最終的に)なっていましたが、それとは別の視点
でこの記事につっこんでみようと思います。特に主張の芯もなく(というか主題から外れた枝葉の話で)論理の組み立てが甘いので本文からは省いた話です。二つぐらい書きます。
1、
上でも言いましたが、アスペルガーの症状をまとめたサイトには、
「空気が読めない」「裏表が無い」
「一つのことに夢中になる」
「アスペは、我々がきちんと説明すればわかってくれる」
頑張れば楽しくつきあっていけそうな気がします。
思わない。思わないから。その説明読んで天然ボケのかわいい人と思うのはあなただけ。
まああなただけというのは言いすぎですね。人によってこの説明文から受ける印象は分かれるだろうということです。で、人によって印象の分かれる説明文に関して自分の感じた印象を述べるところまでは何の問題もありません。が、この後にこう続くんですよね。
でも、実際はそういう単純なことではなく、
・健常者がアスペに状況を一生懸命わかりやすく説明しても、アスペは理解できないし、
意見を曲げずに屁理屈を返す。口が達者。こっちが強く言えば逆ギレし、怒鳴って癇癪を起こす。
これが、正しいアスペルガーの症状の説明であり、
以下アスペルガーdis。この辺の記述が個別事例なのにアスペルガー一般の話として語られている以下略という話は上段を読んでいただくこととして、この一連のくだり、実はこんな構造になってるんですよね。
ここ、2. 以降の内容(「でも、実際にはそう単純なことではなく~」以降)をより悪い印象にするために、本当は印象の分かれる説明文について、わざと「こういういい感じに見えますよね?」と持ち上げているんです。まあよくあるレトリックとはいえ根拠レスなdisを効果的に演出するために使われるとつっこみたくもなるし筆者に悪意が感じられそうになるので困ります。
別に悪意とかなくても無意識に使われがちなレトリックなので上段でこの筆者に悪意があると断定するのは避けたんですが、私最初は「ドーモ、元増田=サン。悪の増田滅ぶべし」って感じで書いてたんですよね。それはこの辺が原因でした。
でもこれ2回もやってるんだよなーこの人。
2、「価値観が違う」ことが分かってなければ「価値観が違う人に説明」などできない
この筆者の方は、アスペルガーのお知り合いとコミュニケーションするに際して、かなり「惜しい」感があります。すなわち、
と「感じて」はいるようなのですが、「分かって」はいないということです。
このアスペルガーのお知り合いの方たちは、被害者、もしくは自分が庇った加害者の気持ちでさえ、他人の気持ちがまったく斟酌できなかったようですね。それは私も記事から読み取れました。心中お察しします。
しかし、このアスペルガーの方たちが、筆者の方の説明に納得せず暴走し続けていたのは何故なのか?これも筆者の方が仰っているとおり、「価値観が違う」からなんでしょう。(このアスペルガーの方の価値観が「根本的に」「健常者と」違うかどうかは断然議論の余地がありそうですが、それはまた別の話しになるのでさて置きます。)
では、「価値観が違う」ってどういうことなんですか?
「価値観が違う」ということは、この場合「筆者の価値観に基づく説明では、アスペルガーの知り合いを納得させることはできない」とういうことです。なんだ当たり前じゃんと思いますか?ですが、これを元にすると、先に筆者の方も挙げていた「アスペルガーの特徴」の解釈が違ってきます。
「アスペは、我々がきちんと説明すればわかってくれる」
これです。
この「きちんと」が曲者だったということです。
筆者の方は、「きちんと」説明できていません。
筆者さんのエピソードに出てくる「アスペルガーの知り合い」、すなわち「価値観の違う相手」に説明し納得してもらうには、「相手の価値観に基づいて納得できるように説明」する必要があります。これは相手がそのアスペルガーのお知り合いでなくとも一緒です。自分で善悪の判断ができない子供に「あなたのお母さんが、それはダメって言ってるよ」とさとしたり、宗教が違う人間、住んでいる文化圏の違う人間にどうにかこちらの事情を分かってもらおうと四苦八苦したりするでしょう。そんなときにひたすら大人の価値観、自分の宗教、文化圏の価値観に基づいた主張、説明のみで分かってもらえるでしょうか?
アスペルガーのお知り合いの価値観のもとでも分かってもらえるように説明した、と取れる文章は残念ながら記事のどこにもありませんでした。ならばわかってくれなくても当然ではないでしょうか。
分かりやすく説明した、というのはあなたの価値観にもとづいた主観であって、相手に何かを納得させたいのであれば、あなたの価値観だけにもとづいた説明などゴミも同然です。相手に理解できる論理になっていないのであればそもそも説明になっていません。あなたの説明が普段普通に通じているように思えるのは、あなたが多数派の価値観の中にいるからであってあなたが正しいからではありません。
ただ、定型発達の方もとい「健常者」がアスペルガーの方の価値観、アスペルガーの方に通用する論理を理解するのは難しい場合が多いと思います。お互い論理的に正しくてもその論理の使いどころがそもそもずれている場合が多いですし、論理ではなく感情に拠るところが増えればお手上げでしょう。筆者の方はアスペルガーのお知り合いを「お世話」しているようですが、それがアスペルガーのお知り合いが円滑に社会生活できるように周囲との人間関係をとりもっている、という意味なのであれば、筆者のかたはそもそもその「お世話」に必要な理解の試み、もしくは努力、もしくは能力そのものが足りていないのだと思われます。価値観の違う相手とうまく付き合おうとする試みに疲れる、もしくはそれができないのであれば、無理に「お世話」しようなどと思わずできるだけ相手と付き合わないようにするのが最善ではないでしょうか。
「本音ではやりたいけど現実には難しい」という話でしかないよな。
「それができれば一発で解決なんだけどなー」というのが滲み出ている。
「野田聖子議員はいいことを言っている。」の記事にリンクを貼りながら、なぜ「野田聖子の発言を支持されている方々に聞きたい。」なんて発言が出てくるのかわからない。本当に記事を読んだのか?
一方、1年間の中絶件数は公称で20数万人と言われています。保険適用外なので実際には2~3倍近い堕胎があるのではないかと、NPO(非営利団体)法人などが言っています。変な話、これを禁止したら、産まざるを得ない人が出てくる。
もちろんこれは相当極端な話で、現実には難しいです。私が言いたいのは、それぐらい「えぐい」テーマにしないとだめだと言う事です。今は、まだ議論がきれいごとで終わっています。
それは失礼しました.
世の中,かなりの話は『程度問題』だと思うのですよね.「財政マネタイズ」という(通貨の信認とか構造改革とかと同じように)おどろおどろしい,そしてたいていの場合に空虚な言葉というのは,黒か白かはっきりするよな定義のある話ではなく.インフレ税ないしシニョリッジというのが財政に寄与するなら,実はどの国も常に「財政マネタイズ」してると言えるのかもしれない.日銀乗換は日銀引受と違うという強弁だって『程度問題』でしょう.
『程度問題』ともう一つ私が念頭に置きたいキーワードは『言葉より行動』です.人が何を言うかよりも,どう行動するかが重要.「市場関係者がこう言っている」よりも「市場がこう動いた」の方が確か.市場だってもちろん間違えるが,「メディアが取材したシジョーカンケーシャの言葉」なんてのは,ほぼノイズにすぎないですよね.
http://anomalocaris89.blog69.fc2.com/blog-entry-208.html にあるとおり中央銀行の独立性は別に金科玉条ではない.財政マネタイズも,まあ今のところは「やってはいけません.これは中央銀行にとって神聖不可侵な教義です」という振りをするのがお約束となっている,くらいの意味だと思っています.実際は100%か0%かの話ではなく,行動を見れば少しはやっていると見えなくもない.
ヘリコプター・ベンが,サマーズと組んでヘリコプターマネー政策を実施しても,さらに,購入した国債をロールオーバーし続ける(日銀乗換に当たるものを無制限に増やしていく)と発表しても米国債が暴落なんかしなかったのは「財政支出をやって,猛烈に通貨発行を増やしてますけど,財政マネタイズじゃないですよ〜」と言った言霊のオカルト効果ではなく,もっと単純な市場予測(米国債を売ると損をする可能性が高い)の結果でしょう.
で,リフレ政策で肝要な期待(expectation)ってのは,人々の気持ちとか意思とかじゃなく,まさにそういう『将来についての市場予測』のことを言っているに過ぎません.「それを財政マネタイズと呼ぶかどうか」という曖昧な話じゃなく,「政府が今後どう行動するか・その結果どう行動すると得か」について市場が予測した結果.それがリフレ派の言う期待でしょう.だから,「中央銀行の独立性」「財政規律」とかいう「意図を表すレトリック」なんかではなく,例えば「いつまでに何を買う」「いつまでにいくら支出する」と言った具体的な行動の予測に資する情報によって(のみ)市場は動く.まあ市場予測に影響する気分(センチメント)というのはあるでしょうし,それは言い方で動いたりするのかもしれませんが,それはむしろ「すぐに修正される予測のズレ」を表す言葉でしょうね.あんまり重要でない.
これも『程度問題』ですね.デフレに(少なくとも例えば賃金や企業の収益や税収にとって)はっきりした害があって,5%や10%のインフレにそれほどの大した害が知られていない.なのに,デフレを止めるための日銀への介入でさえこれほどの大騒ぎになる.
そこで,インフレを止めるような介入がそんなに容易だと市場が予測するなら問題でしょう.
すいません.誤読してたので訂正(どっちにせよ,根拠のない無茶な介入は簡単じゃないだろうと思うんですが…)
これも『程度問題』ですね.インフレ恐怖症の方々はもとより,リフレ派でさえ反対するような「引き締めを妨げるような介入」がそんなに簡単なら確かに問題でしょうが…
追記:一つの担保としては,日銀にも政府にもそう簡単に方針を変えられないような歯止めを法制化しておくことでしょう.曖昧な「日銀の独立性」という言葉が指す内容がどういうものか,例えば「中期的な望ましい物価水準は政府と日銀の合意によって定める・それを達成する手段は日銀の専管事項」という趣旨の条文を日銀法に入れるとか.え,法律なんか政府がインフレにしたくなったら簡単に変えられる? そうかなあ…程度問題ですが,法律がない場合より「簡単」ではないと思いますね.
まあ,既に書いた通り,債券市場参加者の「声」とか,割りとどうでもいいと思ってますんで…
追記: インフレ目標と,日銀の(上記のような)独立性の法制化は,ひとつの歯止めとして市場の期待を安定化するのに有用だと思います.
「左翼小児病」は、ロシアの革命家レーニンの本にでてくる表現である。
http://kotobank.jp/word/%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E5%B0%8F%E5%85%90%E7%97%85
社会主義運動で、公式論に立って、現実的でない過激な言動をとる傾向。レーニンがその著「共産主義における左翼小児病」で用いた語。
物事を観念的、公式的に考え何でもかんでも教条的に受け取り、カチンコチンにしか物事を考えられない。そして言葉遊びやレトリックに敏感でそれに踊らされたり、相手を踊らそうとしたりする。
左翼小児病という言葉は死語化してしまったが、昨今の左翼の言説をみるに左翼=中二病の等式が成立してしまったのであえてこの言葉を使うまでもなし。