はてなキーワード: ホモフォビアとは
わざわざ、「今の段階ではストレートです」とは名乗らないでしょう。
なるほど、ただの自分の属性情報をなるべく開示したかっただけね。
いやなんか、ストレートって書く必要のある文章に見えなかったのと、「寛容」という単語で、異性愛を誇っている理解ある風の同性愛嫌悪者じゃなかろうか、と疑った次第です。
失礼しました。
そうですね。
その手のからかいが面倒なら、なるべく素っ気無く素で返すのが効果的と考えてます。
「笑いものになりたくない」だけなら、ホモフォビアではなさそうですね。
ただ「ゲイって笑われるもの」という認識を、「持たない人もいる」「自分はそうは思わない」であるなら、ですが。
「ゲイって笑われるもの」ってそもそも主語がでかすぎですよね。
この主語のでかさに気づいてないなら、ホモフォビアの可能性があります。
心でそう思っているなら、同じことですね。
ちなみに、笑いものになるのは、嫌なのですか?
私も学生までは嫌だと思ってましたが、社会人(大阪勤務)になってから、「おいしい」という感覚を得たため、笑いものになるのが嫌じゃなくなりました。
ムッとくるからかいを利用して周りの爆笑を上手く引き出せると、してやったり、と思います。
わからなくはないです。
でも「私、異性が好きなんだ」という異性友人の発言とどう違うのでしょうか?
「これまでどおりの関係」に、一緒の布団で寝る、とか、二人っきりで風呂に入る、とかがあるなら確かに難しいかもしれません。(私は異性愛の同性友人ともお断りですが)
一つ言うと「私のように寛容であろうとしている人」は、表現上問題があります。
Google先生に伺うと「心が寛大で、よく人を受けいれること。過失をとがめだてせず、人を許すこと」って返ってきます。
「同性愛を過失だ」と言っているように受け取られる可能性があります。
あと「ストレート」は言葉狩りしたい人が噛み付いてくるので、どうしてもカタカナにしたいなら「ヘテロ」とか表現した方が無難です。
彼氏が自称オタクの女友達に、「彼女もオタクだからさ~、話が合うかも!今度会ってみてよ」と話したらしくて、心にさざ波が立っている。
まず、大前提として私は確かにオタクだけど、「腐女子」だ。所謂「腐女子人気の高い」作品にしかはまらない。うたプリとかキンプリの類。乙女ゲー大好き。そして、少年漫画もそこそこ好きだけど、あくまでも腐女子目線の「好き」であって、一般的な人の抱く行為とはたぶん一線を画すものだと思う。
そのため、オタクとしてのアニメ語りはできないし、第一一般人が好きそうな大人気アニメ(ガンダム、妖怪ウォッチ、エヴァンゲリオン 等)を見たことがない。ので、そういう一般的な女オタクとは話が死ぬほどあわない。
しかも、困ったことに女オタクはホモフォビアの人たちが結構多い。アニメが好き、と言う話から盛り上がっても、腐女子と分かると一変して腐女子批判を始める人達の多いこと多いこと…。一緒に見られると嫌なのは分かるけど、批判はイクナイ。だから、私は女オタクという存在から距離を置いている。
で、話を元に戻すと彼氏の女友達はどうやら女オタクの類だ。ワンピースとドラゴンクエストとファイナルファンタジーが好きだったら絶対女オタクだ…会いたくない…、と思っている。
元増田もそうだけど、どうして自分の性指向が断定できるのか不思議。
私は異性のパートナーがいるし、同性との経験はないから、同性愛ではないけど、両性愛ではないとは言えない。
まあ多分異性愛なんだけど、「多分」が外れることはないかな。
あとなんで「ゲイじゃねーよって語気を荒げ」るの?
「異性が好きですよ」って返せばいいだけだけど。
なぜ語気を荒げるのか考えれば、ホモフォビアかわかると思う。
「カミングアウトされれば構え」る理由もこれっぽっちもわかりません。
その気がないのに恋愛対象として見られるのが気持ち悪い、とかなら、同性・異性を問わないよね?
同性愛者は同性なら誰でもいい人ってわけじゃないのは、わかってるよね。
ジェンダーとセクシュアリティについて大学で学んだことある程度のストレート♂が通りすがります。
私は周りの人が同性愛者をネタにするような些細な発言したときもコラッって言うようにしてるけれど、そんな振る舞いをしているから自分がゲイと疑われることもちょくちょくあって、そんときはゲイじゃねーよって語気を荒げてしまう。
きっと私のように寛容であろうとしている人でもカミングアウトされれば構えてしまうのかもしれない。
私は同性愛者である。身体は女、性自認も女、好きになる対象も女性。いわゆるLGBTのL…レズビアンに属する。
思えば、私は中学生の頃から自分が同性愛者であるということに悩んできた。
周りの女の子たちが、恋バナに興じている中で、表面上は合わせてきたつもりだ。
誰だって爪弾き者にはなりたくない。学校という狭い社会の中で、私はセクシュアリティに蓋をし続けてきた。
するとどうだろう。私はいつも表面上だけで笑っている、仮面を被ったような存在になってしまった。
その原因は分かっている。多分、私自身がホモフォビアなのだ。同性愛者だと言ったら笑われる、貶される、という価値観を持っているからこそ、自分の存在に自信がないのだ。こんな自分を変えたくて、葛藤していた。
思い悩んでいた中高生の頃、私は書店のジェンダー関連の書籍が置いてあるところに足を運ぶようになった。
その中から選んで購入した2冊の本がある。
「カミングアウト・レターズ」と「ボクの彼氏はどこにいる?」という本だ。
同性愛者であることに悩んでいる方がいたら、是非この本に目を通して欲しい。
少なくとも、私はこの本を読んで気持ちが楽になった。
自分らしく生きるということはとても難しい。大学生活も残り少なくなった今、改めてそう思う。
でも一度自分を肯定してしまえば、新たな視点から物事を見ることだって可能になるはずだ。
ボク彼の著者である石川さんの「同性愛者は自己肯定のシャワーを浴びる機会が少ない※要約」という文章にはうんうん、そうだよねと何度見ても頷きたくなる。私はずっと自分の恋心が同性に向くということを否定してきた。受け入れられるようになり、ゲイコミュニティに足を踏み入れ始めたのはハタチを超えてからだ。馬の合う友人と好みの女の子の話をすることがこんなに楽しくて充足感に溢れるものだということを私は初めて知った。だが楽しい今だって、将来訪れるであろう孤独死の恐怖に怯えている。
同性愛者である、ということは私を構成する一要素にしか過ぎない。
でも私は自分がマイノリティーであると自覚してから、色々思い悩むことができた。
そのことが幸福であったとは断言できないが、あながち悪くはなかったなと思う。
あーー彼女欲しい!
そういえば私はセーラー服が好きなのだが、セーラームーンを見たことがなかった。
しかし、リメイク版の放送をたまたま見てエンディングに度肝を抜かれた。
気になって仕方ないので調べてみたら、エンディング映像の2人は「百合界のカリスマ」と呼ばれていることが分かった。
海王みちるさんの色気にやられた…好き!
とりあえず、同性愛者であるということに思い悩むのは当事者であれば多かれ少なかれ誰もが経験することだと思う。
しかし、案外味方はいるものだ。私も1人だけ信頼の置ける人にカミングアウトをしたが、友人関係は壊れることはなかった。
もしもカミングアウトする、と決意したら2冊の本にまた勇気をもらうのだろう。
初恋を隠し通したあの頃と、サークルの女の子に片思いしている今と。
そんなに状況は変わらないのだけど、心の持ちようで目に見える世界は幾らでも変わると思う。
少なくとも今の私は、人に恋をするって楽しいことだなと思える心の余裕がある。
いや、金がないとか暇がないとかモテないとか、そういうことじゃなくて。
女子高生痴漢絵師とか、女子中学生監禁学生とか、ああいうイカれた犯罪者がたまに出現しちゃうのは防ぎようがないことだとは思うんだけど、連中を持て囃したりネタとして消費したり犯罪者を擁護したりするオタクがかなりの数出現してきていてつらい。もちろん一般人男性にもかなりそういう連中はいるだろうから、オタクだけ取り出してそう言われるのは心外だと言えるかもしれない。でもネット上で目立ってるのは、明らかにオタクの二次加害者だよね。二次元と三次元は関係ないとか、架空の児童より実在児童の人権をとか、そういう旗印がどんどん汚れていくのが見えるのがそれらを未だに掲げ続けようと思っている人間にとってはつらすぎる。
昔は楽しく観れていた小説やアニメや漫画を見直すとたまに地雷にぶち当たってつらい。『涼宮ハルヒの憂鬱』のどぎついセクハラは流石に読んでた当時でもドン引きできたけど、『A君(17)の戦争』や『桐原家の人々』といったコミカルな作品に充満するホモフォビア、女に家事労働を押し付け男が世界の危機と戦う『サマーウォーズ』、同性愛者の尊厳を高らかに謳いあげるその手で異性装者をオモチャにする『ささめきこと』、『銀河英雄伝説』のひどさはもはや説明するまでもないし(あれだけの未来で理念的には民主制のはずで女性も大勢従軍している設定の同盟で内閣にひとりかふたりしかいない女性政治家に男ばかりの軍首脳部に妻に家事をさせてのうのうとしている退役元帥サマ)、それになんといっても『おおきく振りかぶって』の女子マネと女性蔑視(特に花井梓くん! かなりひどいよ君!)と「部活動」という枠組みでの児童虐待と保護者の動員というロイヤルストレートフラッシュ感あふれる組み合わせ、これらが全部スルーされるか美談として話を盛り上げるネタになってるのがつらいし何よりめちゃくちゃおもしろくて今でも好きな作品なのがつらい。桐青戦とか何度見ても胸が熱くなる。つらい。
オタク社会に蔓延る差別の存在がつらい。「腐女子」にばかり「自重」が求められ男性向けはそんなルールを気にせずのびのびと楽しめているという非対称がつらい。同じオタク仲間のはずなのに腐女子を叩く男オタクの存在がつらい。男ばかりがメインキャラで出てきて色々絡む作品に向けられる同性愛者差別発言の数々と、何よりそういう作品をこれまでなんとなく避けてきて嫌悪感を持ってきた自分の中のホモフォビアに気づいてしまうのがつらい。女性蔑視発言を垂れ流すオタクが一定数いるのがつらい。オタクの中に根付いてしまった外国へのステレオタイプや差別感情がつらい。フルメタアナザーで「うるせえ便衣兵!」ってセリフが出てきたときは本当に残念だった。好きな作家さんのtwitterなんて知りたくなかったと思ったことは一度や二度ではない。男性同性愛者向けAVを「ネタ」として使って出演者の名前を出して遊びまくる文化がつらい。
差別ではないけど残念な言動をするオタクが多いのもつらい。政治傾向は人それぞれで、別に自民党支持者だろうが共産党支持者だろうが公明党支持者だろうがそこに文句を言う気はないけれど、敵対する陣営にレッテル張りをして大きな主語で批判して炎上芸してる人がオタクの代表面してることがあって見ていて残念すぎるし同じ口で“オタク差別”を糾弾してたりするのほんと勘弁してほしい。アニメの聖地巡礼が流行る以前からその周辺ではトップクラスの観光地だった場所をつかまえて俺らのおかげで繁栄してるんだぜ的なドヤ顔する連中がいるのがつらい。自分の好きな作品やジャンルを絶対視して他の作品やジャンルを無根拠に蔑視する人、自分のかつての姿と重なって色々な意味でつらい(筋道立てて作品どうしを比較することが悪いと言っているのではない、念のため)。やめろ。やめてくれ。「最近のファンタジー」を殴るために『十二国記』を持ち出すな。
でまあこれらを「最近つらい」とか言っちゃえるのも俺が「普通のヘテロ男性オタク」だからで、女性オタクとか男性でも性的あるいは民族的マイノリティに属するオタクとかはこういう理不尽にずっとずっと僕らが呑気にしてるあいだにも耐えていたんだろうなって思うとほんと自分の鈍感さがつらい。本気で怒っている人を見るまで「ラノベ」を小馬鹿にした感じで語ってもいいものだと思っていた自分の醜さがつらい。そしてなによりも、油断しているとここまで批判してきたような認識がぽろっと口をついて出そうになるし咄嗟に「どこが悪いの?」とか思っちゃいそうだし実際ちょっと思ったりしてる自分の感覚の麻痺っぷりが、一番つらい。
オタクであることは恥じるべきことじゃないし、オタクコンテンツは素晴らしい。でもオタクの一部は、オタクコンテンツの一部は明らかにクソだし、そのクソさは切り離してはいさようならできるものじゃなくてグラデーションになって存在していて、多くのオタクは多かれ少なかれそのクソさに染まってる。全身か指先だけかの違いはあれど。もちろんそれはオタクだけの責任じゃない。オタクは同時に社会に生きる人間でもあって、このクソな社会には既に性差別がインプットされている。けれど少なくとも、そのインプットされた性差別を増幅してきたのは、オタク自身の責任だよね。
自浄作用? オタクのあいだに序列なんてない。ネットでクソなオタクをブッ叩くことはできるけどそこに強制力はないし自浄作用は期待できない。そして、自浄作用がないなら、論理的な帰結として何らかの公的な強制力でもって規制されるほかなくなってしまう。ああそうか、やっと気づいた、腐女子のやってた意味不明で抑圧的な自主規制ルールってコミュニティ防衛のためだったんだな。アンチスパイラルから螺旋族を守ってた螺旋王だったんだな。それにやっと気づいたときにはもう遅くて、10万人の宮崎勤が地上に満ちてアンチスパイラルに色々蹂躙されることになるんだな。俺は嫌だ。犯罪者扱いされずにコミックLOを読みたい。別に俺は『ろりともだち』の内容を実現しようとも羨ましいことだとも思ってない。俺たちの欲望を放っておいてくれればそれでいいんだ。ああでもなんで、お前らはそんな規制を呼びこむようなことを言うんだい。
ネットなんて見ないで作品だけ見ていれば、このつらさも少しは減るかもしれない。でもネットで得られるものは大きい。新しいカップリングの可能性。作品を愛好しながらそれを冷徹な眼差しで批評する視座。楽しい同好の士との会話。まだ知らなかった作品情報。そしてなによりも、素晴らしい二次創作。どれもネットから得られる果実だ。それがないとオタクはやっていられない。けれど果実の横には常に、横たわるクソの山がある。
そういうものばっかり見てるからそういうものばっかり見えるんじゃないかって? 確かにその通りだ。見ないようにすれば見ないでいることもできただろうし、実際そうやって過ごしてる人もいる。でもここは地獄インターネット。見えてしまう。目に、入ってきてしまう。みんなどうやってやり過ごしてるんだ。教えてくれ。多分今一番求められているのはそのライフハックだ。俺がいくらつらくなったって世の中のクソさは変わらない。それともみんなこんなつらさを押し殺して日常ツイートしてるのか。ブコメ大喜利してるのか。にゃーんとか言ってるのか。
オタクじゃなければ、別にそれでもよかった。うわーオタクキモいなー、で済ませられるから。あいつらには関わらんどこ、ちゃんちゃん、でおしまい。何が悪いの? みんな「マスゴミ」や「ヤンキー」に対してはそうしてるじゃん! でも残念ながら、俺はオタクだ。オタクの不始末も、それによって落ちるオタクの評判も、他人事じゃない。それが根拠のない迫害ならまだよかった。俺たちは被害者だと、迫害してくる奴らは敵だ、いずれ革命を起こしてひっくり返してやると、そう思えたから。でも、性犯罪の擁護、差別、他者への攻撃、これって全部身から出た錆じゃないか。こんな状況で一方的な被害者面なんてできるわけない。俺はそんなことやってないのに。そう思う。でも一方で、自分のアイデンティティはそっち側に置かれてしまっていて、叩かれるのがたとえ自分の所為じゃなくても自分がやらかしたことのように思えてこたえるんだ。
追記が増えてたの見てトラバ
「ゲイとかレズとかカミングアウトうぜーキモい。いちいち宣言すんな。それは性差別なんだよわかったか」
みたいなホモフォビア(レズフォビア?)の延長の末に平等論持ち出してきたイカサマ論者みたな印象だった。
でも追記加えて前の文章見ると
「カミングアウトという方法をとらざるをえない世の中がおかしい。誰が誰を好きになろうがそれは性別ではなくその人という個人への興味のはずだ」
みたいな理想論が匂わせられてる。
一つは「ゲイ/レズという分類そのものがナンセンスで、人は性別ではなく人を好きになるのだから自分のセクシャリティをあえて宣言することは『自分は独自の恋愛観により性別によって目の前の人の評価を変えています』という差別につながる」というまあいってみれべばものすごくリベラル(すぎる)思想を持っている人であるということ。
もう一つは「人間にはもともと他者を思いやる恋愛感情というものはなく自身の利益(子供が産める、子孫繁栄ができる。性欲が満たされる)といったもののために誰かを好きになるのであって、そこに宣言など必要なく、自分にとって必要な利益は誰からしか得られないという宣言は金持ちと貧乏人を区別して付き合う人を決めるような差別につながる」という認識を持っている人間であるかということだ。
しかし残念ながら元増田がこのこのような人類文化的に非常に先進的な思想を持っていたとしても、世の中の認識はそこまで追いつけるところまで達していない。
つまり世のマジョリティは「男は女を愛するもの。女は男を愛するもの」ということを前提にライフスタイルを送っており、
そうでない生活スタイルや人生設計、人を愛し大切にしたいという純粋な思いさえゴミクズのように扱い見下した扱いをしている。
セクシャル・マイノリティがなぜあえて社会的地位を失うかもしれないリスクを犯して自身のセクシャリティをカミングアウトするかというと、
そういう恋愛とは男女の間だけで成り立つものであるという世間の常識は決して全ての人にあてはまる常識ではないということを少しでも多くの人に知ってもらおうとするためだ。
元増田がどういうセクシャリティで身近にどういう問題があるかは想像するしかないが、
あなたのように先進的な意識を持つ人は今現在世界中探してもまだまだ少なく、ほとんどのセクシャル・マイノリティは好きな人に「好き」ということすら犯罪のように感じているという事実は知っておいてもらいたい。
https://twitter.com/YukoOhnaka/status/637020835522473984
前者の発端のツイートは、まず「ロリコン犯罪を助長しているのは確実に日本のアニメオタク文化」と言ってしまっているので、そこは数字で反証されうるし、「ロリコン犯罪が直接的にアニメオタク文化のせいだなんて思ってない」と返すのは無理がある。
ロリ系のコンテンツが少女を傷つける可能性については確かに考慮しなければならない。私を含む男性には理解し難いところではあるが、他人から一方的に性的に消費されるのはかなり気持ち悪いことのようだ。秋葉原の街頭を飾るどぎついイラストにも再考の余地があることには異論はない。
だけれども、被害者を生まないロリコンコンテンツの存在を否定してよいわけではない。被害者というのは、性交を強要された少女たちだけでなく、フィクションのロリ作品によって傷つく少女も含む。人の想像力に蓋をすることが出来ないし、してはならないが、誰に見せるかはきちんと考えなければならない。見たくない人には見せない配慮はいつだって求められるし、まわりまわってそれは自衛にもなる。しかしこれらを満たしているならば、どんな表現だって存在してよいと私は考える。
また、これは2つ目のリンクに関わることでこの記事の主眼でもあるが、ロリコンにだって生きる権利はある。当然、児童性犯罪者は罰せられるべきだ。しかしロリコン=幼児性犯罪者ではない。少女しか愛せないが、倫理に反しない範囲で性欲を満たしている人も大勢いるはずだ。自分が理解できない性的嗜好を持っているからといって、善良なる彼らまでを排斥する権利は誰にもない。99%の人が誰かの思想・嗜好を気持ち悪いと思っていても、それだけでは他者の存在を否定する理由にはならない。
もう1つ例をあげると、同性愛者はどうだろう。ヘテロの男性にとってしばしばゲイ男性は脅威・嫌悪の対象とされる(ホモフォビア)。しかし彼らが何をしたのか。もし彼らが嫌悪されるとしたら、それは例えば彼らがヘテロの男性に性的関係を強要してきたときだろう。そのとき彼らは完全な性犯罪者であり、間違ってもゲイだから気持ち悪いのではない。これは昨今の日本でも受け入れられつつある考えだろう。ロリコンも同じではないだろうか。
同性婚を取り入れたことで話題になった『ファイアーエムブレムif』で、同性愛指向を薬で矯正するシーンがあったと話題になり、一部で吹き上がってるわけですが。
https://twitter.com/deviltruck2010/status/616765502656917504
違 う よ。
これそんなエピソードじゃなかったよ。
そもそも海外版未発売のソフトの海外レビューを鵜呑みにするなよ。元記事に至っては今になって訂正入れてるよ。
もしここに書かれてるエピソードまんまならとっくに国内で問題になってますよ。
日本の作品にしちゃ珍しく同性婚取り入れたって話題になったソフトですよ。ジェンダーに関する知識をきちんと持った人が、どっかで買って遊んでますよ。
こんなエピソードあったらそらもう、大変ですよ。
あ、以降はこのエピソードに関するネタバレになりますのでご注意ください。
ネタバレ気になる人にひとつだけ言っておくと、上で挙げた記事に書かれてるようなホモフォビア要素は決してないので安心して遊んでください。
さて、訂正前の記事や、それを鵜呑みにした方々の誤解の中では、
↓
ヘテロ男性主人公のカムイが、すべての人が女性に見えるようになる薬を彼女に盛る
↓
↓
薬の効果が切れるも、「男でもいい!カムイが好き!」と無事ストレートに目覚めたソレイユ、カムイとめでたく結婚
というお話になってる様子。
本当にその通りならえらい話ですよ。
ここまでヘテロ中心な価値観は、込めようと思ってもなかなか込められませんよ。
でも実際は、
↓
彼女は可愛い女の子が苦手、というより好きすぎて、見ると気絶してしまう。この悪癖?で苦労していて、自分が強くなれないのもそのためだと思っている
↓
カムイ、性別が逆に見える薬を彼女に盛る。女の姿をしたカムイと一緒に過ごすことで慣れていく作戦
↓
↓
っていう話。
いや確かにキモさは抜けてないけども。
PC的にまずい要素はないでしょこれ。
あんたら本当に遊んだの?
いやまあ遊んでないんですけどね。元記事は海外の人が日本語版を頑張って遊んだレビューだから誤解してるわけだし、ツイッターでキレてる人は@deviltruck2010のツイートやはちまの記事を鵜呑みにしてるだけだし。
元記事の人は、言葉を完全には理解しないまま遊んで、可愛い女の子を見たら気絶するっていう描写から「彼女はレズビアンだ!」と誤解したんだろうけど、設定自体のダサさキモさはともかくとして、可愛い女の子見たら気絶する→レズビアンだ!ってのは性愛中心的すぎないか。
でもまあ、FEifは、
コロプラのあのアプリで話題になった「なでなで」要素があったり、
そもそも全体としてギャルゲー臭かったり(結婚によってのみ支援Sつけられるってのがそもそもナンセンス)、
とまあ全体としてジェンダー観がやっぱり古くてキモい。ソレイユも「私の胸触ってみて」とか言い出すし。
だいたい前作に至っては「男同士で何を考えとるんじゃ」みたいなセリフが平気で出てたぐらいだし、トモコレの同性婚の騒動の時に任天堂が明らかにLGBTを軽視する弁解をしてたのも記憶に新しい。
任天堂がまたやらかした、という記事を見たら「やっぱりか」となる気持ちはわかる。つもり。
それだけの地盤がある。
でも、買って遊べとは言わないから、せめて、中途半端に遊んだだけの海外記事やら、アフィブログの記事やらを根拠にするのをやめてくれ。
発売前に誤った内容で叩くのをやめてくれ。ほんとに。
本当の話だけど叩くな、とかはさすがに言わないから。
ツイッターでこれにキレてる奴に限って、少しツイートを遡ると、デマには気をつけようとかソースは確認しようとか書いてるorリツイートしてるのが多いんだよ。
でだいたい怒りのデスロードについて熱く語ってる。いやこれはどうでもいい話だけど。
お前もデマ撒いた側になってるぞわかってんのか?
もちろん私だって、露出狂を取り締まることに異論はない。(実は露出狂を取り締まる理由が『見たくない人を保護するため』ではないという事実はさておき)
だが、”見たくない人への配慮”は一歩間違えば差別の道具になる。
極端な例を挙げるならば、在特会の会員が「在日朝鮮人を見たくないという私の気持ちにも配慮してください」と主張することだってできる。
もちろん、いくら日本が右傾化しているといってもこの主張は現状では通らないだろう。
だが、「同性愛を見たくない人もいるんだから、同性愛描写は異性愛描写と違い、見たくない人に対して特別な配慮をすべき」だったらどうだろうか。もちろん、この主張自体は同性愛差別だ。
ただ一方で、現在の社会にはホモフォビアが依然として存在する。同性愛をやたらと否定する団体か何かが強く規制を訴えたら、何かの拍子にその手の規制が通る可能性は十分にあるし、現にロシアでは実行されている。
そもそも、どんな表現だって”見たくない人”は一定割合いるのだ。幸せな家族の描写を『自分の家族はああではなかった』『家族はこうでなければならないという押しつけを感じる』という人もいる。
男女の対等で幸せな恋愛描写を『自分はどうせ恋愛なんて出来ないのに』と思う人だっている。
そういう『誰か一人でも、見たくないと思う人がいるもの』を全てインターネットやテレビや公共広告から排除したら何も残らない。『見たくないものでも、過度に心理的に傷つける物でなければ、その存在自体は受け入れる』というのが(自分だけではなく他者の自由も最大限に尊重するという意味での)自由主義ではないだろうか。
それをすっ飛ばして「見たくない人にも”十分な配慮”をするべき」と主張する人は、『自分たちの主張は単に気に食わないもの・弱者・マイノリティの排除を求める差別主義になっていないか。本当によりよい社会をつくるために為されているのか』
と自問自答するべきだと思う。
私は本気でそう思う。具体的には、「オタクは表現の暴力性や、性の商品化・記号化について罪悪感を持つべき」と言っている人と同じくらい本気で思う。
つい最近隣接分野でこんなやりとりがあったけど結局真摯に文献提示しても「気にいらねーから読まない」って態度とるのはなんなんですかね。
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20150208/p1
このエントリで触れた、同性愛の病理化の歴史についての主なソースは、風間孝&川口和也著『同性愛と異性愛』(岩波新書)です。平易で、かつ情報盛りだくさんで、いい本ですよ。おすすめ。
http://kyoumoe.hatenablog.com/entry/20150209/1423489280
文献に関してですが、トランスジェンダーの方の意見がブクマにありました。
はてなブックマーク - 「どこかの同性愛コミュニティから『ノーマルは差別的だ』っていう意見が出てきてるわけじゃなく」? デマを流さないでくださいよid:kyoumoeさん。 - みやきち日記
岩波新書の同性愛と異性愛を推奨みたいだけど、あれはひどかった http://blog.goo.ne.jp/kuborie/e/0bf72de60958fb338400532e9a3d73e9 読む価値あまりなし。少なくとも絶対に読み返さないと思って、無償で人にあげた
またこういう意見もありました。
はてなブックマーク - LGBTの方に質問です。「異性愛をノーマルと呼ぶこと」及び「同人…
「LGBTの方に質問です」ってところでカチンとくる炎上案件。十把一絡げにすんな/言葉でいちいち目くじら立てないけど、この質問の仕方はダメよ。まず、Tの人はノンケだってことに留意すべきですねー。
「どこかの同性愛コミュニティから『ノーマルは差別的だ』っていう意見が出てきてるわけじゃなく」? デマを流さないでくださいよid:kyoumoeさん。 - みやきち日記
「ノーマルカップリング」「ノマカプ」「NL」などの語について、ブログでだってTwitterでだって、批判しているLGBT当事者はいっぱいいるよ。id:kyoumoeさんの特殊アイに、そういう意見を極力見ないようにする回避機能がついてるだけなんじゃねえの。
「LGBT」という表記一つでこれほどの意見の相違が出てきます。
議論の踏み台として提示された文献を自分で吟味もせず他人の書評に乗っかって価値が無いと切捨てて見せてるわけですよ。
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20150210/p1
最後に、同性愛イシューやLGBTイシューを本当に「わかりたい」と思っていらっしゃる方々のために、おすすめ書籍のリストを挙げておきます。カーリル | 日本最大の図書館蔵書検索サイト等で探してみられてはいかがでしょう。本は怒らないし冷静だし、情報量も多くて、うちのブログなんかよりよっぽど有益ですよ。
『同性愛と異性愛』(風間孝&川口和也、岩波書店)(レビュー)
『図解雑学 ジェンダー』(加藤秀一 他、ナツメ社)(レビュー)
『<同性愛嫌悪(ホモフォビア)>を知る事典』(ルイ=ジョルジュ・タン編、明石書店)(レビュー)
『LGBTってなんだろう?--からだの性・こころの性・好きになる性』(藥師実芳 他、合同出版)(レビュー)
『ステレオタイプの社会心理学 偏見の解消に向けて』(上瀬由美子、サイエンス社)
『セクシュアリティの多様性を踏みにじる暴力と虐待』(アムネスティ・インターナショナル編、現代人文社)
『同性愛者における他者からの拒絶と受容』(石丸径一郎、ミネルヴァ書房)
『Biological Exuberance: Animal Homosexuality and Natural Diversity』(Bruce Bagemihl、St. Martin's Press)(レビュー)
『Homosexual Behaviour in Animals: An Evolutionary Perspective』(Sommer, V. & Vasey, P. L. 編著, Camblidge University Press)(レビュー)
『It Gets Better: Coming Out, Overcoming Bullying, and Creating a Life Worth Living』(Dan Savage & Terry Millor [編]、Dutton)(レビュー)
ありがとうございます。一番目の方にも二番目の方にも、的外れだと言われているので、あまり期待されると…w
A1:拒絶する。
■女性に期待するものがかなり高いようにお見受けします。理想が高いというやつですね。
A2:違いがある。治安が乱れない程度には保障したほうが良い。内容は基本的に男女平等でよいと素人考えでは思う。
■機会の平等と結果の平等の差が認められるというのは、現実とある程度アジャストしておられるのではと推察します。
社会保障については、とても残念なのですが「現状できることまでしかできない」という特徴がありますので、
財政赤字が膨大になっている日本では限界がいありそうですね…個人的にもとても残念に思っています。
A3:思いつかない。
A4:人に興味が無いから。
A5:思わない。
■全体的に熱量が低い方なのでしょうか。一時期よく言われていたような草食系という感じというか
自分のリソースをわざわざ割いてまで人とコミュニケーションを取ることを重たいと感じているのかもしれません。
欲を封じた状態で特に大きく不満がある様子もありませんので、行動と心情にあまり齟齬がないのでしょう。
ただし人間はつねに矛盾する生き物でもありますので、 ひょっとしたら「あのブドウはすっぱかったんだ」という気持ちが
心の中に潜んでいる可能性もあります。行動と心情の齟齬がない生活は「色々楽な生活」でもあります。楽を求めて熱量(欲)を抑えている可能性もゼロではないです。
どのみち、熱量の低さについて、他人である私が善し悪しを決める権利はありませんが。
■異性愛者の男性には一番多い回答なのではと思います。男性のホモフォビアは心理的にはごく普通に起こりうることだと思いますので。
上の質問でもそうでしたが、やはり行動と心情の齟齬が少ないので、他害的な傾向が小さいように思います。
本当に個人的なので恐縮なのですが、感想を申し上げますと、まだ(実年齢というか経験年齢が)お若いのだろうか、という気もしました。
人に興味がないという言葉を文字通りに受け取れば、自分だけの人生が充実しているとも考えられますが、
あるいは、他を知ることで自分が変わるのを潜在的に恐れている、または、まだ(経験年齢が)若く自我を作っている途中である、などの可能性もあります。
自我の構築は人格形成上とても大切なことで、多くの人にとって避けられない「他者との交わり」において、嫌なことから自分を守る盾にもなりますが
そのまま巨大な砂の城を作っているだけになってしまうと、とても残念だと思います。これは個人的な気持ちです。
他害的な思考をお持ちではなさそうなので、生き方は個人の自由ではありますので。
どう分析されるんだろうドキドキ
■0.01%でも、私が指摘した「恐いから」「まだその時期じゃない」という気持ちが、ご自分の中にあるかどうか、深く心の中をもぐってみてほしいです。
何だかんだで、人とコミュニケーションを取るというのは、とてもエキサイティングな体験です。巻き込まれて変化していくのも、快感だったりしますし。
ただし、たまに、本当に他人とのコミュニケーションが不要だという方も、もちろんいますので、そういう場合は大きなお世話になってしまいますが
某宗教を抜けることにした。新興宗教に分類されるっぽい、それなりの信者数もいて政党もあるっぽい、すこぶる評判のよろしくない宗教。生まれた時から入れられていたが、割と小さいころから違和感を持っていた。少し大きくなって評判の悪さを知り、自分の判断は間違ってなかったと胸をなでおろした。(なんだか後ろめたい安心感ではあったけど。)
でも、親が信じているものをどうして信じられないんだろう、自分は冷たいのかという疑問はずっと持ってる。(ちなみに親は信じてはいるが他人に積極的に活動を勧めたりはしない)子供なんてはじめは親の世界観の中で生きているのに、なぜ自分は小さいころからその宗教に疑問を持ったんだろうってことも謎。当時、同年代の某宗教の集まりでは割とみな真面目に活動していた気がする(疑った子は集まりに来ていなかっただけかもしれないが)。本をよく読んでいたから、本で自分なりの世界観ができたんだろうという結論に落ち着いてはいるけど。親に認めてもらいたくて、小さいころから必死で信じようとしたって人もいるのに。自分が親になったら何かわかるだろうか。
結婚を考えている人に「いくら信じてないと言っても、そういう環境で生まれ育ったら、知らない間にそういう考えのようなものは染み込んでいるんじゃないか」と言われた。そんなことはその家に生まれた自分自身が一番思ってる。多分望まない環境(宗教に限らず)に生まれた人はみなそう思ってるし、本人が一番それを恐れている。だからって某宗教の悪口を言ったら負けな気がする。全力で悪口でも言ったら胸をなでおろしただろうか。
よく知らない人ほど、悪口を言うことで安全地帯に逃げる。疑われたくなければ真っ先にその宗教の悪口を言えばいい。多分ホモフォビアと同じようなもの。悪口を言う人は、何も知らない一般人というより、投票とかの被害に遭ったか、さもなくば親戚なんかにいるのかもね。それともライバル新興宗教?しかし何だろうな、某宗教を語っている場に居合わせる時の、信じてないにもかかわらず踏み絵か魔女狩りに遭ってるような後ろめたさは。
子供のころから「自分はどの宗教も信じないな」と思っていたから抜けるのはいいのだけど、正直抜け方が分からない。けじめをつけたいし、あの宗教のお墓に入れられるのも嫌なのでちゃんと抜けたいけど、昔の知り合いに会うかもしれないと思うと憂鬱。何よりも痕跡が残らないかとひやひやしてる。そういう意味ではやっぱり悪口を言う人と変わらないのかもしれない。相手も心配性だから多分それを心配してる。(でもってちょっと自分がその宗教に逆戻りするんじゃないかと心配されている気もする。なんだかな。)
以前抜けようと思ったけど、その時は親を否定することをあえてやるのかと思うとできなかった。結婚時に相手の宗教に乗り換えるか、親がいなくなった後でやめるのが穏便だと思った。信じてないのはまる分かりなので、引き延ばすのに意味があるのかって感じでもあったけど。その後一人暮らしで宗教に関連する話からは縁遠くなっていたけど、向き合う機会が戻ってきた。今度はきっちり無宗教になろう。
創作物にジェンダーの観点からケチをつけるってのは流行らなくなってきてるんよ。
表現狩りを行ったけど、結局支持者がついてこなかったので皆黙った。
ジェンダーの考え方上コレクトであるものしか是認しないとなると
結局それはジェンダー論が新たな創作物の価値規範、制度として定義されることになる。
それは結果として表現の自由を妨げるっつーことで、
「まー、創作物に関しては黙っとこうぜ。あれにケチつけるとカウンター怖い」
って感じに収まったような感じ。もちろん、現実の政治とか行政とかではジェンダーの人たち頑張ってるけどね。
あと、日本の一部のジェンダー論者は未だに表現にケチつけたりもするけど、相手にされてないよね。
前にらんま1/2のこと調べてて見つけた話、
実は物凄いホモフォビアな漫画を描いてるってレスを昔読んだことがある
http://read2ch.net/rcomic/1303200282/#r79
とのことで、言われてみたらまったくその通りだって思って驚いた。
登場人物たちみんな、何かと錯綜はあるもののつまるところは異性愛者で、そしてそのためにこそ1987年生まれのおれが子供の時分に読んでも混乱なく受け入れられたのだと思う。生まれ年を書いたのは世代によるところもあるかと思ったからだけどしかし器質や環境によるところも大きいだろか、子供の時分のおれは同性愛に対する理解も想像力もほとんど無かったはずで、それにも関らず受け入れられた、ということです。
そしておれ以外にもとても多くの人が受け入れたことからして、あの時代のエンターテイメント商品としてまったく正しかったんだろうと思う。それに、啓蒙や感化の役割だって意図してかせずか果たしたと思うのだけど、そのためにも程よいところだったのかもしれないとも思う。
そしておれが気になっているのは、この漫画の諸々の設定が抵触している現実世界の人達、つまりトランスジェンダー、異性装者、同性愛者、といった人達は、かつて読んだ時、そして今、この漫画をどう思っていたのか、いるのか、ということです。
糾弾とか非難とかあるいは幻滅の表明とか、されていてもおかしくないと思うし、されるべきではないかとも思う。どこかでされてるんだろうか。
うる星やつらとらんま1/2とではそもそもうる星やつらの方が評価が高いかもしれないけど、質がどうということじゃなしに上に書いたようなことによって、らんま1/2が先に古びるかもしれないと思いついて、またびっくりした。
徹底した自己開示と執拗な自己解釈による独演を社会に提示した喪服の死神。
幼少の個人的出来事からネット右翼、アベノミクスまで論じ上げた喪服の被告人意見陳述は、他者による分析を拒む防壁として構築されたが、ひとつだけ、さらりと流されて違和感を放つ、セクシャリティのカムアウト。
陳述で同性愛を告白し、ボーイスラブ系二次創作での人気に執心したことを事件の発端とするも、彼はセクシャリティに関してだけは、言及を拒む。
自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学の学歴、バスケマンガでの成功、ボーイズラブ系二次創作での人気の3つになります。
…
31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。
…
自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。
「手に入れたくて手に入れられなかったもの」「何か」「自分が欲しかったもの」。
執拗な自己解釈を行う喪服が、ひたすらに言及を拒む「何か」は、すなわち、セクシャリティの肯定である。
喪服のまとめサイト的な自己ツッコミは、非モテ的自意識には向けられて、彼は饒舌にウェブ上に氾濫する非モテキモオタの類型コピーを演じて見せるが、一方で、自らのセクシャリティたる同性愛については、まるで《安価》が付けられていない。
本来なら最も語られるはずの内心、セクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とみる自意識に代替されている。
動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。
汚くて醜くて無惨、自らを汚物と信じた喪服。
もし彼が自身と違う肉体を持つ他者に性欲を向けること、例えば空想の中でオークに成り代わり女騎士を犯すことで充足できるセクシャリティなら、あるいは始めから性的な身体をもつと社会的に扱われている性別なら、自らの身体性が「汚くて醜くて無惨である」と信じながらも、少なくともはじめの一歩を踏み出すことはできただろう。
ヘテロセクシズムに覆われた社会において、セクシャル・マイノリティは「自分はセクシャルな存在である」と現実世界に足を踏み出せない限り、または誰かが手をさしのべてくれない限り、それがマイノリティとして否定された経験だったとしても、はじめの一歩を得られなければ“セクシャリティあるもの”として存立できない。
彼の「本当のセクシャリティ」は否定すらされなかったかもしれない。喪服は何の理由もなく、つまり、ホモ、オカマと罵られたのではなく、身体的なものをあるがままに、母親に汚い顔だと罵られた過去を呪った。それは純粋な身体性の否定であってホモフォビアとの遭遇ですらない。
ホモフォビアとの遭遇は、「ホモと笑われるのが辛かった」と、その苦しみを語ることで、自らを疎外されたマイノリティとして位置づける。
喪服の空想におけるセクシャリティは、思春期にボーイズラブによって徹底的に肯定された一方で、彼の現実のセクシャリティ、喪服が“手に入れたくて手に入れられなかった”身体性の肯定は、同性愛の自認と同時期に行われた“汚い顔”と身体的否定によって抑圧される。
自らを汚物と信じた喪服は、現実のセクシャリティ、それによって他者と繋がる身体性を否定して、汚物は誰かを愛することもできないと、性愛を禁じてすらいる。
自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。
LGBT当事者の書籍として頻繁に持ち出される「ボクの彼氏はどこにいる? - 石川大我」と比較すれば、タイトルに違いが現れている。
今ではオープンリーゲイを公言する政治家である石川大我が、自分は人を愛するに足る存在であると信じることができた一方で、喪服の語る言葉は「愛する人が初めからいないのです」である。
愛する人がはじめから喪われている、すなわち、自らの性愛が喪に服しているからこその喪服の死神であり、一文字で暗喩された「喪」とは非モテを示す。
2000年代、2ちゃんねるやはてななど、ウェブ上で隆盛した「非モテ」とは、自らの身体性あるいは性価値に対する自己否定、キモいと罵られた汚物のような人間は誰かを愛するにも不足するという絶望を、自らに対して自己否定のレッテルを貼り付けることで自己肯定に転嫁する、クィアにも似た試みであるが、やがて、彼らにはじめから内包されていた自己否定によって自壊した。
あくまで非モテと呼ばれたことで、モテるか否か、恋愛関係にあるか否かという状態や能力について論じられてしまった非モテだが、彼ら非モテ、あるいは非リアといった類似物も含めて、彼らは「そうであること」に価値を見いだすのでは無く「そうでないこと」によって存立し、非モテを成り立たせていた人々は状態や能力を求める人間ではなく、藁にもすがる思いで自己否定のレッテルに飛びついた人々である。
自分がどれだけ汚物か、気持ち悪いか、失敗しているか、誰かの指摘に先んじて自己開示をし、誰に言われる前に自らを否定する、終わりなき自己否定のスパイラルは、非モテの名の下に集った人々に、わずかばかりの肯定を与えた。
自己否定のレッテルにより肯定される彼らの自意識の中核にあるものは、唯一、自らをキモいと思い込まざるを得なかった幼少期の経験に由来している。
しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。
…
幼少期、まだ子供の非モテたちに向けられたキモいという言葉は、思春期、セクシャリティが開花する時期を真っ黒に塗り潰す。
汚物に等しい人間は誰かを愛するにも不足するという絶望は、彼らのセクシャリティを現実を生きる他者に伝えることを禁じて、彼らの性愛は空想へと向けられていく。
本来ならば健全なセクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とする自意識に取って代わられ、歪な自意識は癒やされること無く成長と共に発展し、ウェブ上で隆盛したモテない男に由来する数々のミームに乗っ取られた怨執甚だしい精神構造を完成させた一方で、耽美な世界を描いたボーイズラブ系二次創作を愛した喪服の死神。
現実では“自分のような汚い顔のキモブサメン”と自嘲して、空想では女性の世界の性愛に耽溺している。
喪服のチグハグなセクシャリティの表出には、彼の現実と空想、性の繋がりを感じさせない。
「何か」が欠落してしまっていた。
ウェブ上での自己開示および匿名の対話者からの反応を慰撫とする行為は、今や誰もが行っており、本来なら十分にウェブの中で機能して、現実世界で怨執を露呈する必要はない。
だが、喪服の自意識の歯車は、ウェブの言論歯車と噛み合わなかった。
喪服の自己対話は精緻であって、他者の解釈に先回りして応答し、全体としては分析をさせる余地を与えないほど堅牢であるも、彼の脳内にインストールされたウェブ言論と、彼自身の対話においては、歯車の噛み合わないチグハグさが漏れ出している。
このチグハグさは、喪服が扱ったネット用語に明瞭に現れている。
さらに自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロにお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分はネットスラングで言うところの「魔法使い」です。
喪服が自らの性について語る言葉は徹底してウェブ上の異性愛社会で用いられる言葉であって、セクシャル・マイノリティの為に用いられる言葉は現れない。
自らを異性愛者の視点から「同性愛者」と規定し、異性愛者の非モテが用いた造語で「キモメン童貞魔法使いw」と自嘲し、「ボーイズラブ系の二次創作」と腐女子の言葉で性指向を空想している。
喪服の自己対話には、セクシャル・マイノリティが自らをセクシャル・マイノリティとして規定する言葉が、どこにもない。
というより、喪服がウェブで本心を語ろうとも、それに噛み合う言論の歯車はあっただろうか。
非モテから同性愛者を斥けてミソジニーとホモソーシャルの産物と断罪するセクシャリティ論。
女性たちのホモソーシャルであるボーイズラブ系二次創作の世界。
最後だけは、本当に、ひとつだけ、自己否定のトンネルのなか視野狭窄した彼が自らのセクシャリティの本心を発露して、肯定されうる場を見たならば、思春期から愛し続けたボーイズラブ系二次創作を介した他者による肯定だったのかもしれない。
しかし、喪服が創作するには、表現の原動力たる空想の世界は耽美であるも、空想と同一の肉体を持つ彼の身体性は汚物であって、空想と現実を繋ぐ彼の言語空間はウェブ上で構成された非モテミームに乗っ取られており、格差は恨みを募らせていく。
喪服が、セクシャリティの肯定を得るために行わなければならなかった努力。
本当なら、とても近しい接触によってなされるセクシャリティの肯定は、喪服においては、女性たちが作る社会における創作の表現に対する賞賛という、とても遠い彼方からの肯定の可能性が、ただひとつ、自己否定のトンネルに差す光として見えるのみ。
もしも努力の果てに肯定が得られたとしても、彼に与えられるのは二次元のベールを通した、空疎であたたかみの無い接触である。
喪服は、呪っただろう。
喪服が手に入れたくて手に入れられなかったセクシャリティの肯定を、可能性として見いだしたボーイズラブ系二次創作の賞賛を得る者を。
空想における愛情は、現実における怨執へと置き換わり、耽美な世界で肥大化した自我は、現実世界の自己表現を求めて、自走する。
喪服が見た光の絶望的な遠さは、彼が呪いを向ける対象への距離に変わった。
喪服に残された肯定的な表現手段は、呪いを振りまく脅迫状の郵送に変わった。
喪服が望んだ「何か」、口にすることすら拒んだ人の暖かみによるセクシャリティの肯定は、自己否定の結末として、無機質な統治権力による罰として具現化する。
恐らく重度のネット依存だった喪服の実生活、喪服が生きた思い出の中にも、彼のセクシャリティを、わずかにも肯定した「何か」は存在しなかったはずだ。
喪服は、斑目晴信がオタク濃度を感じたように、キモオタが秋葉原に得るしっくりと来るさまを感じ取ることが出来ただろうか。
喪服は、ボーイスラブ系二次創作を手に取るとき、美しい男を愛する女性の為に作られた空間に踏み入れた、汚物に等しい男を見る目に、何を感じ取っただろうか。
喪服は、自覚することはなかっただろう。
喪服は、徹底して、自らのセクシャリティを、完膚なき自己対話によって、自己疎外した。
執拗に繰り替えされる自己解釈は、彼が求めた「何か」の中核を、自らに気付かせないための自己防壁として機能する。
自己疎外された人々が、自らに自己否定のレッテルを貼り付けることで、健全な精神をギリギリのところで保った非モテの論理。
2000年代に爆発的に流行し、2010年代の始まりと共に終わった非モテは、童貞を中心とするヘテロセクシズムであり、同性愛者の喪服を救わなかった。
喪服が愛したボーイズラブは、あくまで女性のホモソーシャルの世界であって、男の喪服を救わなかった。
セクシャリティを否定された者たちが、自らを疎外されたマイノリティと位置付けて語るLGBTは、セクシャリティのはじめの一歩を踏みだせた者たちのための論理であって、非モテの喪服を救わなかった。
《身長×体重×年齢》と、身体性をコード化して他者と繋がる様式を持つゲイ社会は、身体性を否定された喪服を救わなかった。
身体性を否定された喪服がセクシャリティ育むべき思春期に愛したものは、空想における同性愛であり、彼を耽美な世界に誘い込み、彼の自我を肥大させて、現実を呪った。
『咲-Saki-』界隈からホモフォビアをなくそう - Danas je lep dan.
僕は自分のブログにさえ自分がゲイであることを書けないヘタレなゲイで、カジュアルなホモフォビックな言動には本当に悩まされいて、見るたびにされるたびに「つらいなぁ」「もぅマヂ無理。アンフォローしょ・・・/エンきろ・・・」ぐらいな生き方をしています。それやめてよって言えない、うまく伝える自信がないので、見過ごしてきた。そしたら今回のid:Mukkeさんの記事があって、ホモフォビアを「ネタ」であるとしてスルーしてはいけないって丁寧に論述していて、とても驚きました。なにに驚いたかって恐らくLGBT当事者ではないMukkeさんが、『咲-Saki-』という作品に限った話をしているのに本当に丁寧になぜダメか、どうしていくべきかを書いていて、この問題に関することを過不足無く書かれていて、なんというか助かったんですね。
LGBT当事者としてこのような記事を自分が書くべきだったと思わずにはいられないくらい良い記事なのですが、一方で当事者としては色んなエピソードを盛り込みすぎてこんなにうまくまとまった記事にならないと思うんです。本当に僕は豆腐メンタルなので、腐女子がホモってツイートするのを見てうわって傷つくし、僕の言動がオネェっぽいみたいなからかいかたをしてくる人がいた日には1週間ぐらいくらーい顔して、「偉くなったらあいつからの仕事絶対断ってやる」みたいなくらーい発想を温めながら傷が癒えるのを待ちます。ほぼ初対面の人間に「君、彼氏いるの?笑」みたいなことを聞かれた日には、「えー、なんでそんなこと聞くんですかぁ?セクハラですよ〜笑(たとえいたとして、誰がお前のような無神経な人間に教えるか!死ね!!)」ってなりますし。・・・とまぁ、こんな感じになってしまうので、今回の記事で救われました。ありがとうございます。
出来たら恩返しをしたいのですが、他のマイノリティが似たような被害にあった時にそれは駄目って言えるようになることだと思うので精進していきたい所存です。
あ、増田だったらLGBT関係のこと書いたことありました。割と喧嘩腰ですね。