はてなキーワード: ホモフォビアとは
最近、社会がわりと同性愛者の存在を認めるようになってきたと思う
同性愛容認の風潮を読んで社会的評価のために理解を示しているとしても、それはそれで有り難く受け取るんだけど、そうもいかない話題がある
「本人同士の恋愛は自由だけど養子を取るなんて子どもが可哀想、子どもを巻き込むのはいけない」
「母親二人や父親二人に育てられたら子どもがいじめられて可哀想、まともに育たない」
子どもに焦点を当てたこの言い分に一瞬納得しかけて、そこで自分の中に深く根を張るホモフォビアに気付いた
同性愛者の両親に育てられた子どもはいじめられて当たり前、同性愛者である両親が悪いのか
どの親に育てられた子どもが幸せか、誰が決められるというんだろう
父親と母親が1人ずついる意味が「今までそうだったから」以外に何かあるのだろうか
母子家庭や父子家庭、祖父母のみの家庭で育った子どもは可哀想なのか、父親と母親が1人ずつの家庭で育った子どもは必ず正常に発達して幸せになるのか
同性愛者が子どもを育てることは大人のエゴなのか、それじゃあ異性愛者が子どもを産み育てることはエゴじゃないのか?
人々は何のために子をなすのか
ハマったのは5年くらい前だけど、今でも続いてる。真くんが好きだ。
かといって、いわゆる男の娘が好きなわけでもない。
まあ与えられたら与えられたで抜きますよってスタンスではあるんだが。
他方で、いわゆるショタにもピンとこない。
確かに生意気なのは好きなんだけど...いわゆるショタ系に多いストレートな生意気さはやだ。
「ツッコミポジ」程度の理性ある生意気さ、とでもいうのかなー。
ボーイッシュでちょっと影のあるアニメキャラ(ラブプラスの凛子とかAチャンネルのトオルとかまどマギの杏子とか・・・年齢がバレるかも)
がもともと好きで、その延長って感じなのかなあ。
自分がなれなかった自分を見守っているのが好きなのかもしれん。
一応補足すると、俺がホモフォビアと近いのは重々承知だ。不快感を抱いた人がいたら申し訳ない。
とはいえ、俺は無理に線引しておのれをノーマル側に置きたいわけではなく、少し自分の欲望を掘り下げてみたいってところなんだよな。
※※※追記
なんかほそぼそと反応があって嬉しい。ありがとうございます。返信をいくつか。
ただ他方、名前がつくとそちらに寄せたエロ同人が出てくるという・・・実利がね!
>>男がオナニーする時、自分が女性という心理で抜く人も多いと聞いたので、それほど珍しくもないのでは。
無論、たとえばおねショタでは俺はおねえさんサイドにつく。
ただ、ショタがしっかり男を好きになってくれればなあという思いがある。
俺=女というわけではないんだよな。近いんだけど。
>>キャラクターの性格的な類型の分類よりも、キャラクターの置かれている境遇とかシチュエーションのほうに自分を投影するような感覚なのかしら
そうかも。
俺は妙に高二病(もう死語?)こじらせてて、たとえば理不尽な環境にもあえて順応するのがカッコいいと思ってたんだけど(痛すぎだな・・・)
そこでしっかり中二病やってる子を見ると自分がなれなかった自分を見てるようで愛おしい・・・という感じかな。
>>ちょっとマセた生意気な感じが好きとか?/内面より黒髪ショートスレンダーみたいな見た目が好きなんじゃねえのという気もするが。
>>杏子がいるなら見た目だけで決めてるわけでもなさげだぞ。 /結城晴とかはどう?グっと来る?もう少し性格悪い方がタイプか?
>>陰のある女キャラが世間にささやかな反抗なり抵抗をするために男っぽく振舞うのを上から見てニヤニヤしてるなら広い意味でのSだと思うが、女装少年もありならMなのかも。
どっちもあるなー。
進撃の巨人みたいに公式二次創作が本屋に並んでる世界で、非公式の(というかああいうのって著作権的にどうなってんだと心底疑問なんだが)二次創作BLアンソロジーが並んでるんだぞ。子供にそれを見分けろという方が困難だ。
なんと説明したらいいのか……。そもそもホモフォビアなのか?と考えたが、それだと一次創作BLは許容できる理由にならない。
結局突き詰めて考えると、個人的に二次創作BLが嫌いなのは腐女子用語で言うところの解釈違いというやつに落ち着く気がする。
腐女子にはハリロンが見えるらしいけれど、私には見えない。一方ハリハーは見えなくもないのでまだ嫌悪感を抱かない。
一方で、シュタインズ・ゲートで主人公と萌郁のカップリング二次創作を見たら間違いなく嫌いだろうなと思う。男女のカップリングであっても原作的にありえないのは嫌、ということ。
そして多くの場合、非BL作品の二次創作BLは、あまりにも原作のキャラを歪めているように見える。そしてその上エロなんだから、もう毒にしか思えない。
だから、個人的に許容できる二次創作BLも探せばあるのかもしれない。例えば、ハンター×ハンターのゴンとキルアが手をつないで仲良くしている、という程度のBLだったら許容できるかもしれない。
とりあえず言えることは、男女差別という文脈のところに個人的な二次創作BL嫌いを打ち込んだのは間違いだったということ。
次はもう少し冷静に語るようにしたい。
ホモソーシャルとかホモフォビアとか全然聞き慣れてないし意味もわからないんだが、ここの人たちはこういう単語に精通してるのが当たり前なのか?
例えばオカマキモオタ女性蔑視な石原慎太郎辺りは典型的なホモフォビアかつミソジニーなホモソーシャルな人だろうと思うのだが、その石原慎太郎が大好きな三島はホモソーシャルでかつホモ、三島が惚れていた美輪明宏の事は石原慎太郎は死ぬほど嫌っている
何故だろう
ホモフォビアってホモの男役は好きだけど、ホモの女役は許せないとかあるのだろうか
それとも崇高な男が女のまね事をするのが我慢ならないだけで、ホモ自体は嫌いではないのだろうか
女を嫌いながら男って最高だよなと男同士でつるむ訳だからホモになる方がむしろ自然な気がするんだが、男が好きだけどホモじゃないと反発するあまりにホモフォビアが出てくるのだろうか
ホモソーシャルってホモとホモフォビアだけで構成されているのだろうか
その辺どうなんだろう
http://anond.hatelabo.jp/20170208235429
率直に書く。総合的な感想や考察は落ち着いたら書くつもりだけど、壁打ち悲しいから書かないかも。(というか他作品観劇したらもう書けなくなるだろうから、勢いつかないと現実的に厳しそう)
トゥルーエンドではないけどグッドエンドはもう前回観れたから、推理の旅を終えていいようにも思っている。あとやはり証人が足りない。私の観たルートより先の話が展開されないと推理が苦しいし淋しい。
初見と印象が違いすぎる。
何が変わった? 私が変わった?
今回はまったくもやもやしなかった。ただあるがまま受け止めてほんと苦しい。
今作はもうずっと『諸戸と簑浦』の話しかしていない。だからもうつらい。世界に二人しか居ない。つらい。
時系列順に。
ちなみに『私』と『箕浦』と《わたし》と《みのうら》と簑浦が出てきます。
手記の内容は、すべて完全に諸戸についての内容。つらすぎ。
『私』は諸戸を「哀れ」と評す。まじかよ。
奥さんがお茶を入れてくれてそれを飲んだはずなのに、誰かいませんか?的なことを言う。え、やっぱこの『私』お亡くなりになってない?
そして諸戸登場。語り部の『私』と会話する。おかしくない?
だから最初は『私』も諸戸も亡くなってて、死後の世界に見えてならなかった。
てゆか、今日見た諸戸がこわくてこわくて、ずっとすごいこわくて。諸戸の亡霊みがやばかった。成仏してない霊感。
初見は王子様のような諸戸だったのに、何が変わった? 私が変わった?
『私』と諸戸は二人で一緒に過去を振り返る。
諸戸との最初の決別、夜の告白の時、聞いてる時の『私』はものすごく悲しそうな切なく美しい顔をする。嫌悪の色ではない。
『私』は諸戸に「性愛には応えられないけれど一緒に遊んだりした友情には感謝しているし君もそれを喜んでいるように見えた」的なことを言うのだけど、これ少なくとも2回目撃している。隠喩だったかそのままだったか…どこだっけ思い出せない丈五郎と道雄だっけ…? すごいつらい。
あのね『私』と『箕浦』が互いに演じた《わたし》と《みのうら》、《わたし》は未来をすべて知っているようで(諸戸の死を含む)、《みのうら》は生きてるからすごく生命力のある反応をする。『私』が《みのうら》になって井戸出たときなんて、それまでとのギャップにちょっとびっくりした。
ここで振り返ったのは過去だから未来ではないけれど、どうにも諸戸からも時間を感じない。(ミスリーみあるけど)
似てきたなと私が感じたのは、この冒頭の『私』と諸戸、諸戸親子、諸戸と吉ちゃん。親子はアフタートークでも言われていたけど…というかあの世界は「諸戸と簑浦に関すること以外すべてカット」されているので、全部が諸戸であり簑浦であってくるしくて無理。常にライフ削ってくる。
大人になってから。『箕浦』は「ここからは僕が」と言って登場する。おかしい。どうして語り部の語る内容にキャラクターが介入できる?
だから私は、ああこれは『演劇』なのだな、と気付く。原作では簑浦が口頭でこの物語を語ってくれるのだっけ?それとも小説? ここではその語り口が『演劇』なのだと。
『箕浦』は『私』が初代に渡そうとした指輪も意気揚々と奪ってくる。《みのうら》演じている『箕浦』は本当に生命力に溢れてる。
嗚呼だめだ寝落ちたらもう思い出せない…『箕浦』だけは「諸戸と簑浦に関すること」が何もない存在だったようにも思えてくるけど、もう私の記憶は証人として使えなくなってしまった。
『私』は決して初代を「美しい」と言わなかった。まわりくどく魅力を説明する。その形容自体に違和感は無いが、乱歩が連載初期から意図的に言語を使っていたのなら、初代を「美しい」と表現しないのは変だ。簑浦にとっての初代の価値が軽すぎる。
『箕浦』は何についても「美しい」と言わなかった。やはり簑浦は矛盾や歪さを抱えていないか? それを『私』と『箕浦』で同時成立させていないか。『私』と『箕浦』は別々の役割をもった役者。
初代は証言する。正面を向いて淡々と切々と語る。あれは諸戸のことではなかったかしら。初代だけに存在する追加情報の時だけ『箕浦』を見て『箕浦』に話しかけてやいなかったか?
『私』のかんばせが本当に何の欠点も無いようなほど美しく、そしてとても表情豊かで観客をガンガン見てくる。目が合うとかじゃなくて、観客の目を見てくる。後方でも目を見てくる。つまり語りかけ度がぱない。あいつはメッセージを発している。
対して『箕浦』からはそんな様子を受けない。《わたし》を演じる時間が短いからかもしれないし、セリフが少ないせいかもしれないし、ずっと座っているから私の座席位置がかすらずそう見えなかっただけかもしれない。
いや、ほかの『役者』もそうだった。わざわざ観客の目を見てきたりしない。あれは『私』だけだ。
(正確な表現を思い出せない…2時間以上の空間を丸暗記してそれを体験した自分の心理思考も記憶して寝落ちリセット回避はこのセリフ量だと流石に無理ゲー過ぎ…でも記録に残すならちゃんとしたい…)
初代が亡くなった時に現場での出来事にしっかり対応していたのは『私』。泣き崩れてずっと耐えているのが『箕浦』。
深山木を訪ねてからは、未来を知っている《わたし》役の『私』は度々悔しそう・つらそう・悲しそうな表情をする。
『私』には彼を救えないから? ねぇ、これ『私』にもそういった感情がちゃんとある描写だよ。
初代と深山木さんを亡くしてから場面転換の際にオープニング曲としか聞こえない音楽が入る。唸りをあげて悶絶する『箕浦』。あ、ここ襲いかかる諸戸の唸りと重なる。
諸戸に関係ないところでも、疑心暗鬼なセリフはすべて『私』が言っていたように思ったけど…いやこれは断言して大丈夫では。
しかし確実に《みのうら》の口から「諸戸を疑っている」主旨の言葉が出たときは『箕浦』が発言するし、
諸戸から「君は疑っているんじゃないのかい」といった疑心暗鬼を抱いている主旨の言葉が出たときに対面しているのは『私』と、徹底していた。
諸戸と『箕浦』が家で初めて会話している時、諸戸を見つめる『私』がくそやばい。愛憎ぶちこんだ流し目の破壊力。軽蔑の目線でもあっただろうか?嗚呼ほんと駄目だ脳がリセットされて正確に思い出せない!
ああ、でもここで諸戸を見つめる『私』は、『私』を見つめる諸戸に似ている。それは性愛を込めた時じゃなくて島で秀ちゃんに夢中になってる『私』を見ている時のそれ。
「子どもは残酷」って諸戸が説明したとき、めちゃくちゃ学生時代の簑浦思い出した。
しかし諸戸の話題が《みのうら》への愛についてから事件の推理パートに移ってからはクソつまんなそうに家ん中ブラブラして諸戸の推理聞き流してる風に壺にしなだれかかってる『私』だるえろかわい過ぎだった。「ねぇ~まだぁ~?」してる子猫ちゃんかよ。たぶん唯一私が萌えれて心を緩められたシーン。
ずっと『私』は推理パートつまんなそうにしていたのかなと思いきや、だるえろかわいいのあそこだけで、曲技団に刑事と行った時とか身を乗り出して聞いていた。
いや、あれは『箕浦』の代わりに演じていたのか?
あそこ本当に諸戸が『箕浦』のことを狙っていた。すごくこわい。じわじわ距離詰めてくる。こわい。あれなんであそこにそんな描写入れたんだろう。あの時の話題は何だっけ…おとっつぁんについて?
秀ちゃんの手記。まじつらい。ぜんぶ諸戸と簑浦の話でつらい。
ぜんぶ諸戸と簑浦の話であるから、『手記の秀ちゃん』に母親が居ないから、この舞台での諸戸にも母親が居なかった。(正確に言うと丈五郎が母親の話をするが、諸戸は母親の話を一切しない)
原作未読であるので自分で確認できないのだが、諸戸が母親について告白する場面はそんなにカットが必要な位置にあるのだろうか?
諸戸が母親から性的虐待を受け、それによって女性に嫌悪感を持ち女性は愛せなくなったこと。親からの愛情が与えられず性行為でだけ情を向けられたから、諸戸が簑浦へ向ける愛情も性愛以外の多様さをみせられないこと。これらは諸戸の歪な愛を単なる超自我とイドのせめぎあいにさせず、諸戸が『かたわ』と比喩できる大きな理由となっていると思う。
手記の後に諸戸がどちらと会話をしていたか覚えていない…記憶の砂が零れ落ちていくの恐ろしい…
おそらく『箕浦』と話している? 系図帳から暗号見つけるのはここか?
島へ行く途中の列車?船?の中、諸戸が「疑っている?」と問いただすのは『私』で、その話題が終わるとすぐに『箕浦』に入れ替わる。
だめだここですべきは事実の羅列ではなく印象という目撃証言を残すことだ。
島に着いた夜。寝ていた『私』と『箕浦』。『私』だけが起き上がり、秀ちゃんと出会う。
そこに現れる諸戸。
私はここにめっちゃ違和感感じて、それまでの流れでやっぱり諸戸も登場人物なのかな…って思ってた気持ちが吹っ飛んだ。なんでここに諸戸が居るの?って思った。『私』と同じ次元の存在だから?
で、原作既読の友人に確認してもらったら、原作ではここに諸戸は居ないししばらく諸戸と合流しないって……
それから呑気に毬遊びをする『私』と『箕浦』を見て、ここでも彼らは『役者』として並列であるとめっちゃ感じた。対話をすることはあっても、物理的に直接交流するシーンはここが…あ、いや初代の指輪を奪ったね。そことここだけのはず。二人存在しないとできない行為だから。
まだ全然考察とか感想にまで至れていないけど、直感だけの変な話しだけど、
諸戸と『私』が同列であることと、『私』と『箕浦』が並列であることは、次元が違っているのですよ。だから諸戸と『箕浦』は同列ではない。
あ、それが《わたし》と『私』か。
丈五郎に帰れと言われてから、諸戸を助ける決心をして、諸戸からメッセージを受け取っているところも、井戸の中も、『箕浦』はずーっと冒険譚の主人公だった。キラキラワクワク輝いていた。秀ちゃんへの恋とか初代の復讐とか諸戸への心配とかじゃなくて、冒険に夢中だった。
諸戸からのメッセージを読むのは『私』で、あいつまた俺に変な気を起こしそうでいやだわ~的な愚痴をこぼし、『箕浦』もそれに乗っかる。「同性愛理解できない」ってまた言う。「頭では理解してるけど全然わかんねー」って言うのはどこだっけ。いやほんとに『箕浦』には友情以外まったく無い。微塵もない。清々しいほどに無い。脈ナシにも程がある。
前述した「諸戸も登場人物なのかな…って」考えに変化しかけたのは、同じく前述の事情聴取のシーンで《みのうら》を演じる『箕浦』をそれこそ蛇のような視線で諸戸が見つめていたから。スポットライトの当たらないところで。その時『私』はスポットライトの中で刑事の事情聴取を聞き入っている。(時系列ぐちゃってごめん。でも記憶が蘇ったものをとにかく書いて残す)
ひえええあんな完全無欠の究極ノンケみたいな『箕浦』に言い寄っても絶対無理だよ諸戸なんで気付かないんだよ異常だろ…ってぐらい怖かった。対してワンチャンありそうに見えるのは『私』。否定してるんだけどなんか匂ってならない。なんか否定だけを信じられない。
あれか? 「『好き』の反対は『嫌い』じゃなくて『無関心』」ってやつか?
(初見感想で書いた「《みのうら》も実は諸戸を愛していたのではないか?という容疑が浮かんでならない」のは、完全に『私』のせい。これは初見からそう。私はこれを初見で「諸戸カンチガイ乙‼」みたいに感じていたから、こいつは諸戸の疑心暗鬼が見せる簑浦だなと思っていた。)
諸戸は『私』を探しさまようラブファントムなのかと思っていたけど、全然《みのうら》演じてる『箕浦』も狙ってくる。
『私』と『箕浦』はだいたい一緒に舞台上に居るんだけど、諸戸が《みのうら》よりも『私』を優先して見つめたのは、
諸戸は簑浦を探しさまようラブファントムという印象に落ち着く。
水責めから『私』はもがき出す。水喰らって噎せるし《みのうら》と諸戸に水ぶっかける。
序章でも鬼との出会いを思い出してる時に喉を掻くから、原作にも白髪化がいつか描写されてないそうだし諸戸生理的に拒否られてない可能性ワンチャン…!?って一瞬思った。違った。
『箕浦』ずっと脅えていて本当にかわいそう。諸戸に抱き締められてもノンケ過ぎて嫌悪感すら無い様でだだ死の恐怖に脅えている。…って、そうだ。『箕浦』は諸戸の性愛に嫌悪感すら返していないわ。性愛なんてもの存在しないようにしか見えない。
「ホモフォビア過ぎて逆に男性とキャッキャする現象」が何か科学的に存在しているのですか?(そんな感想を見かけた。)気になるので詳しい方に教えていただきたい。
それまで『箕浦』を抱きしめて必死に告白していた諸戸(この時の諸戸何故か記憶してない。零れ落ちた感覚もない)が、『私』に「嫉妬している?」と問いかけられた瞬間、逆鱗に触れられたように(地雷ぶち抜かれたみたいに)目を見開いて、そのまま『箕浦』から手を離し、表情も目線も変えず亡霊というか亡者みたいにゆらぁりと『私』の方に移動していき、「ああ、嫉妬している」と答える。
これほんとめっちゃこわい。ラブファントムこわい。ホラーフィクションでよくある悪霊に追いかけられていたのが御札を持った瞬間にこちらが相手から見えなくなってあっさり追いかけられなくなる・あるいは逆に結界が崩壊してそれまで見向きもしなかった悪魔が突然こちらに向かってくる、あれ。完全にあれでこわい。ほんとこわい。
諸戸を否定して死んでたまるかと逃げ出す『私』。諸戸は唸り雄叫びを上げてから『私』を追いかけたっけ?
確かここ最前列目の前に諸戸が来たのに私は目をそらしてしまった。それまでずっと三人の内をを覗きこんでいたけど、目の合うところに居る諸戸の瞳を覗きこむことはできなかった。
そして遂に『私』を捕まえた諸戸。手を掴み上げ触る。
なんというかね、性的な意図をもって犯そうとする時って、例えば、頬を触る(唇を奪おうとする脅迫)、腿を撫で上げる(局部に侵入しようとする脅迫)、みたいな仕草がイメージしやすいんだけど。諸戸は手なんだよね。いや、手を撫でられるのも十分性的な接触になりえるし、手を撫でてくる痴漢とかクソ質悪いと思うんだけど(あれって痴漢に該当するの?冤罪増えそうだから流石に法的には該当しなさそうだよね?まじきもい腹立つ)、もっと分かりやすくセクシャルな表現にしても良かっただろうに、なぜしなかったのか。手なのか。
同じ手でも手を舐めるとか頬擦りするとか自分の身体に触れさせるとか、方法はいろいろあるのに。
あ、そうだ。秀ちゃんは吉ちゃんの手を取って自分の胸に触れさせていた。超嫌がってたけどあれは同じ手の使用でも犯されている感がわかりやすい。
井戸の中での死についてのくだりも、秀ちゃんの手記で隠喩されたまんまでほんとつらい。もう死んでしまいたいという諸戸の叫び。
そうだここ『箕浦』も死んでしまいたいと絶望して挫折して復唱していたのに、『私』が水を挿したんだよね…亡霊を呼び起こしてしまった。
諸戸が嫉妬していることを認めたのが、《みのうら》と秀ちゃんが結ばれてしまうかもしれないことについてなのか。(そう明言してた気もするけど)
それとも「本当はかたわものではなく、簡単な手術で醜い自分を切り離すことができること」なのか。
醜い自分を殺したいけど、殺したらきっと自分も死んでしまうと思ってる諸戸…まじ…
助六さんに「生きたくなかったの?」って聞かれた時に、「世間に顔向けできない」と言った諸戸まじ魂抜けてた。心ここに在らず。ライフが0。助六さんに心の内を回答する必要ないから大正解。しかしイドの超自我破壊と自我乗っ取りを止められなかったことは、この時の諸戸の回答もあながち嘘じゃないなと。
あれ?と言うか水嵩が増さなくなったって表現、昨日あったっけ?
私は水嵩が増さなくなったことを知ってるから、初見ではセリフがあったはず。
『私』と襲いかかる諸戸の図を見ている『箕浦』の表情は、「死者を冒涜せぬよう省略」と『箕浦』が言った場面しか見えなかった。
と言うかこのセリフ初見では聞き逃してたからテラびっくりしたんだけど!
【今】はいつだよ!?って疑問が再浮上した。
初見のとき、序章で『私』が「なお、現在では差別用語となる言葉が登場するが、当時のなんちゃらを変えないためそのまま使用します」云々言ってて、「えっ!?『現在』っていつ!?『当時』っていつ!? 『私』が執筆したとき? 乱歩が執筆した時? 私が観劇している今? ねえあなたは『いつの人』なの!?」って、超混乱した。
まだ決めていない。
少なくとも、丈五郎を目にした諸戸や、井戸を出た時の諸戸は、『登場人物の諸戸』だったから。
それにしても《みのうら》になった『私』の生命力。
佐藤さんの『私』は表情がくるくる変わるしよく動くし観客の目をガン見してきて語りかけ度がぱないけど、アクティブなのにどうにも《わたし》の時は幽霊っぽかったの間違いじゃなかったんだな。ってめちゃ思うぐらい「生きてるかどうか」がなんか明確に違うんだけど。演技力?すごない?やばない?
《わたし》になった『箕浦』と、《みのうら》になった『私』も言葉を交わす。「語り忘れたことあるかな?」
ラストは『箕浦』が読んで、『私』が諸戸の訃報を初めて知ったような顔をしている。井戸で《わたし》役になってからの『箕浦』は、諸戸が鬼籍であることを既に知っていた。
『箕浦』はあまり『私』も諸戸も見ない。助六さんと井戸を脱出しようとした時から、『箕浦』は正面向いてどっしり座って痛ましそうな顔をしている。あれ…顔背けてるのかな…
座ってラストを読んだあと、やって来て『私』に手を伸ばす諸戸の手を宥めるように下ろさせる。
ああそうだ、『箕浦』に向き直った諸戸の表情は見えなかった。
そしてこの物語の語り部は諸戸を憐れにも思っていると序章で明言している。
諸戸の訃報を握り潰すところ。あれね《みのうら》の憎悪というよりも、醜い半身へのやりきれない憎しみに見えた。悔し泣きみたいに表情を潰すところは正直感情が読めなかったよ。ある意味復讐に燃えていた『箕浦』の様子にも近かった。
今回は推理するために三人をずっとガン見するつもりでいたけど最前列譲っていただけたのでピクセルに余裕できて他の演者さんもかなりしっかり拝見できた。
ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。
※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ
http://anond.hatelabo.jp/20170209222825
http://anond.hatelabo.jp/20170212024356
一夜明けて昨日の話。
推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。
とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩の原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。
ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台未観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから、観劇予定のある方は読まないでくださいね。
まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。
こーゆー考察し甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間と自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。
『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在』であると共感し難い。
そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公に感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦に感情移入できない。
(ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)
これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……
それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、
そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。
でも、それっておかしくね?って思って。
ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。
自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、
いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、
どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。
腐目線でだって、絶対許せない地雷カップリングというものは実在する。
だから「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。
でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?
これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。
この感情は原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈の押し付けなのか?
という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードからも勝手に妄想して、
江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。
諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。
観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。
田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩のブロマンスの結晶として大正解。
対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。
女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。
『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。
(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)
メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害が物語のカタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。
(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠の片想いとして殺す……って、個人的にめっちゃ萌える。)
作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷な箕浦(永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛の疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。
舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。
私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。
でも、配役を知ったときに
美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、
佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年の石田隼さんが20代の箕浦「過去の『私』」を
演じることが疑問だった。
いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。
「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはいえ観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在は物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在と公表されてることは少なそうだけども。)
しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。
舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現の担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、
諸戸と出会い親交を深めた学生時代の箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、
諸戸と別離し大人になり恋人の初代との出会いから箕浦(石田さん)は登場する。
石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡で認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。
「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦」であるため、『私』の歪さから「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、
事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体が変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。
(皆さんは自分の体が深層心理の拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれと意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)
しかし性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?
必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか?
そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。
物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!
より妥当なところの分裂理由として「箕浦の二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線を舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い。
作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。
うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈もハッピーだよね。
(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)
(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性がテーマの舞台、大好物なんです。)
延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出等表現もとても良かった。
諸戸の父親の最期に対して、主人公である『箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想がセリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。
父親の変貌は、絶対に他人の箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。
父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親で経験したからわかる。
舞台というものは面白いもので、同じ現実を同じ密室で複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものだから、
書籍や映像で物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分の視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。
たとえ自分が複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。
演出による印象操作は完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)
だから舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい。
そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観でしかなく、原作者・スタッフ・キャストが込めた意図の真相はわかんないんですけどね。
異性愛でも、同性愛でも、両性愛でも、人が人を愛するということは変わりないじゃないかと思う。
今の社会は寛容なようでいて、寛容じゃないんだなと思う。
私は同性の恋人と手を繋いで歩くことに、まだどこか抵抗がある。
普通のこと、とされていることを正義として受け取るタチなのかもしれない。
彼氏のこととか、将来の結婚願望について語る友人たちのことを羨ましいと思ったし、自分もいつか異性を好きになれるって思っていた。
でも好きになるのは女性ばかりであれ?って感じてた。
ずっと誰にも話せなかったし、悩んでいた。
親や友人にバレたらアウトだという意識があった。
でもそんな状況自体がよく考えたらおかしいんじゃないかと思い始めた。
自分も結局は、同性愛者である自分自身を差別してるんじゃないか。
それがとてつもなくショックだった。
その差別意識は、異性愛者であることが当たり前な社会の中で無意識に植え付けられたものだと思う。
異性愛者でも同性愛者でも、自由に生きられるような心地よい社会になればいいと思う。
「〇〇くんが好きなんだ〜」「私は〇〇ちゃんが好きー」と軽く言い合えるような環境なら。
セクシュアリティに悩む人が、減るんじゃないだろうか。
気持ち悪いと思いましたか?自然に感じましたか?2人は友達だと思いましたか?
気持ち悪いと思いましたか?自然に感じましたか?2人は友達だと思いましたか?
同性愛者である私が同性愛嫌悪を根底に持っているというのもおかしな話。
メディアや雑誌で笑い者にされてる姿を植え付けられてさ、それを見て自分もそうなんだってすんなり肯定できる?
私にはそんな強さはなかった。
人に何か言われたくらいで、大切なものを失いたくないって思えたから。
好きなものを好きと言える世の中って、本当に大切だと思う。
白人至上主義者に有色人種を見せると理性を失わせ、過度に攻撃的になり、わけのわからないことを主張するように追い込む効果があることが明らかなため、有色人種は有害である。
在特会に在日韓国人を見せると理性を失わせ、過度に攻撃的になり、わけのわからないことを主張するように追い込む効果があることが明らかなため、在日韓国人は有害である。
ホモフォビアに同性愛者を見せると理性を失わせ、過度に攻撃的になり、わけのわからないことを主張するように追い込む効果があることが明らかなため、同性愛者は有害である。
萌えフォビアに萌え絵を見せると理性を失わせ、過度に攻撃的になり、わけのわからないことを主張するように追い込む効果があることが明らかなため、萌え絵は有害である。
ソーシャルフォビアについて考える。
話題になりがちなのはLGBTフォビアで、LGBTは政治活動をしてLGBTフォビアの撤廃を求めている。しかし次のとおり、なぜLGBTフォビアだけが取り上げられるのかについては疑問がある。
第1に、数こそ不明だが、特定の属性に対するフォビアには様々なものがある。アンドロフォビアやジャイノフォビアもあれば、ストレートフォビアや低学歴フォビア、低身長フォビアや、日本人フォビア、血液型によるフォビアなどというものもないとはいえない。逆に言えば、フォビアの対象になりうる要素は、多かれ少なかれ、誰でも持っている。
第2に、女性恐怖症を含むフォビアとは、治療が可能な恐怖症なのか、本人の資質として放置するべきものなのかが明らかでない。治療方法が存在していても、医師らが患者に対するフォビアを持っているために解決しにくいということも考えられる。
第3に、つまり、LGBT派自体が異性愛者フォビアではないかという疑問がある。LGBTの人がトランスフォビアやホモフォビアである場合もあるという。
第4に、LGBT差別撤廃活動が偽旗である場合も考えられる。政治家などがLGBT派を利用し、LGBTフォビア撤廃を主張するのは、実質的には、多数派の異性愛者に罪悪感を与えるとともに「差別撤廃に取り組む意識の高い人間」として自己正当化を図る目的に過ぎないかもしれない。そうした政治家は、もしフォビアの治療方法があっても、表に出そうとはしないだろう。
なお子供に対する性差別は深刻だ。現代では性別を知って中絶することができる。例えば一般的に女の胎児のほうが中絶されやすかったり、児童ポルノ被害に遭いやすいとすれば、それこそ深刻なジャイノフォビアだ。結局女は、LGBTや低学歴でなくとも差別を受けやすいということだ。
という有名なセリフがあるので(?)、ここでは女性については除外することにする。
ホモが苦手な人な男性についてそれはなぜなのかと考えてみることにした。
「ホモフォビア(homophobia)」という言葉があるが、「フォビア (phobia)」というのは恐怖症のことである。
ずばり、「力の強い相手に性的対象にされることに慣れていない」からであろう。
女性は(相対的に)力の強い男性に性的対象にされることは日常であり、空気を読んで危険な二人きりの状況にならないようにしたりすることを常に意識している。
一方、男性にはそういう状況はあまりない。出会う同性愛者の数が少ないために、自分よりも力の強い相手に性的に辱められる可能性というものを考える必要があまりないのだ。慣れてない故に考えるだけでも身の毛がよだつだろう。
「慣れていない」ことは恐怖を何倍にも増大させる。(北海道出身者が本州でゴキブリを見て恐怖で失神しそうになるように)
もちろんホモの人が「力づく」で男性をどうこうしようと思っている可能性は非常に低い(外国の刑務所でもないかぎり)。
普通に考えたらそう怖がる必要はないのだ。ホモがどんどんカミングアウトして、世の男性が「慣れる」ようになっていけば状況は変わっていくのではないだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20160713084827
元増田は悪くはないんだけど、いろいろと指摘したくなるので、申し訳ないが書き直してみた。
この知識を頭に入れてくれないと、誤解しやすい。
この知識があると理解が進むのです。
生物学上の性が男 and 女性的な格好・言葉づかいをしている
自分で自虐的な意味で使うのは良いが、他人にへ使うのは好ましくない。
メディアはオカマという言葉を控える代わりに別の呼び名を作った。
それがおネェである。
ただし、これに侮辱のニュアンスを感じる人もいるため、今後オカマと同じ運命をたどるかもしれない。
また、おネェと自称する当事者はあまりおらず、メディア上の(特にバラエティ番組での)特殊な言葉である。
→「生物学的な性が男 and (女性的な格好をしている or 男性が好き)」のor抜いた
他は文句ない。
生物学上の性が男の人に主に用いられる言葉で、異性装(男なので女装)の嗜好がある、ということ。
生物学上の性が男 and 男性のみが好き and 性同一性障害ではない
ttp://anond.hatelabo.jp/20160118180656
女装の嗜好があるかは問わないし、自分の観測してきた範囲だと、ゲイで女装して過ごしている人は少数派だ。
生物学上の性は厳密には問わない。
レズと省略すると、侮辱するニュアンスが含まれるため、「ビアン」と省略するのが穏当。
LGBTのL。
実は、格好や性対象は関係なく、自身の性に対し違和感を抱いているかどうかで判断される。
女性から男性になる、男性から女性になる人は、トランスジェンダーと呼ばれる。
性指向は、自分は女性だと思っているので、男性になる傾向がありそう。
自身を女性らしくすることを強く望み、普段から女性の格好をしようとする、またはできるようにする。
女性ホルモンを使うことで見た目を女性的に近づけることができるが、1年以上かかり、成果もばらつきがある。
生物学上の性と性自認の問題なので、性指向等は関係ありません。
ただし、性同一性障害の人にとってこれは侮辱の言葉なので使うことは禁忌だ。
上記の属性以外にも、少数だが、ナルシズムやマゾヒズム、破滅願望などの性癖を満足する手段として女装をする人がいる。
また、厨二病の延長で、何もない自分に何らかの特殊性を獲得するために女装する人もいる。
それらがいきすぎて女性ホルモンを使ったり性転換までしてしまう人も見られる。
しかし、彼らは社会的な承認を得るために性同一性障害と主張するので、結果的に性同一性障害の人と見分けがつきにくくなる。
その動機故に、性対象は女性、または両性である割合が高い傾向がある。
特殊であることが彼らをかりたてているので、承認欲求を満たすべくSNSをやっている人が多い。
逆に、性同一性障害の人は自身の過去を隠し、元男性であることを明かしたくないのでSNSでそれを主張する人は少数派である。
→条件が単純、というか、ただの嗜好。ま、分析は好きにして。
個人によって何がOKで何がNGかはバラバラなので、当たり障りのない呼び方をするのが良いと思う。
最大公約数的な対応を考えるなら、オカマやおネェ、女装という言葉は使わず、女性と言えば丸く収まる。
もし、厳密に男性として扱わなくてはいけない場合は、「生物学的に」男性と一言つけることでだいぶ印象が変わる。
基本的にこの手の話は、プライベートな情報なので、親しくなってから聞くものです。
遺伝子がXXかXYか、で良いと思うんだけど、、、XXXとか例外がいるんですよね。
例外の人には申し訳ないけど、男性・女性・その他、の三分類が適当かな。
基本的なコミュニケーションにおいて、生物学上の性が重要になることはあまりないと思います。
強いて言うなら、トイレや更衣室を用意しないといけない立場になった場合に、
また、生物学上の性により思い込んでいるケースもまま見られます。
これも第三の性を提起する人がいるので、男性・女性・その他、の三つ。
相手のアイデンティティーなので、基本的なコミュニケーションでも留意する必要があります。
他にもいろいろあるらしいですが、その他、として5分類とします。
同性愛(ゲイ・レズビアン)、異性愛(ヘテロ)、両性愛(バイセクシャル)、無性愛(アセクシャル)が関係する言葉です。
生物学上の性ではありません。
性同一性障害でなければ、ややこしくはありませんが、性同一性障害の場合、
以下の組み合わせが発生します。(単純な組み合わせのみ)
生物学上の性 | 性自認 | 性指向 | はため | 実際 |
---|---|---|---|---|
男 | 女 | 異性(男が好き) | 同性愛(ゲイ) | 異性愛 |
男 | 女 | 同性(女が好き) | 異性愛 | 同性愛(ビアン) |
女 | 男 | 異性(女が好き) | 同性愛(ビアン) | 異性愛 |
女 | 男 | 同性(男が好き) | 異性愛 | 同性愛(ゲイ) |
外見に顕著に表れるのは、異性装か否か、ですね。二分類。
男装、女装、異性装(クロスドレッサー、ドラァグ、トランスヴェスタイト)が関係する言葉です。
元増田でも触れられているように、生物学上の性が男・性自認が女の人に「女装」というのは危険でしょう。
現在の性という書き方をしたのは、性転換をしていた場合、生物学上の性から変わっているからです。
ここまでで、性同一性障害とゲイ、女装までは、分類できました。
最後「オカマ、おネェ」ですが、、、用語の定義が明確ではないのが実態です。
ホモフォビアとして「オカマ」という単語が発せられる場合、「ゲイ」に対してが多そうです。
私はセクシャルマイノリティを自認する高校生である。今日は、ただただ途方もなく疲れてしまったので増田に愚痴をこぼさせてほしい。たいしたことではないので、余計に申し訳ないのだが。
————————————————————
そもそもの愚痴を吐くきっかけであり、そして、最大の悩みの種である。本当に、スルーが出来ない。
自身がセクシャリティを強く意識しているのもあってか、ネット上の些細なネタにもやもやとしてしまう。淫夢と呼ばれる同性愛を扱ったアダルトビデオへのいじり、腐女子に限らないネットユーザーのズレた発言、増田におけるホモオチ……。
考えだしたらキリがない。
こんなの差別じゃないかといいたくなるものは無数にあり、一方その度に感情を乱されても仕方ないともわかっている。そう。わかっている、が、必ずどこかもやっとしてしまうのだ。
それらが当たり前に受け入れられ、笑いとして溶けていく瞬間。周りに一切首を傾げる者がいないなか、一人異を唱えようとする己の気持ち。そのような無駄としかいえない流れを何度も繰り返す自分こそが嫌になってくるのである。
最近でも、Togetterで「島風くんとホモセした人の体験レポートがヤバ笑える」や「ビガロパイセン処女喪失レポ」 http://togetter.com/li/978098 などが話題に上がっていたが笑えなかったしいい話だとも思えなかった。
————————————————————
話は変わるが、私はTwitterを利用している。
主にセクシャリティ関連を発言するユーザーをフォローし、自分もぼちぼち呟いている。といっても、フォロワーが雀の涙ほどもない弱小ユーザー。何をいってもなあと呟き頻度は低めだ。
私は、そのTwitter上でもやもやを正義感に置き換えている。
わざわざ差別用語で検索して叩くなどはしていないが、たまにタイムラインで目に入ったりすれば正義感まるだしに意見などをするのだ。
しかし今書いている愚痴もそれの成れの果てであり、またなんの為かさえもわかっていない。
名前は「RTしてホモにしようbot」https://twitter.com/rt_homo_bot
固定ツイートの「チノちゃん! 上の人はホモだから気をつけてね!」に始まり、「RTして上下左右の人をホモにしよう!」「RTして上の人をゴリホーモにしよう」など様々なツイートをしている。また、ホモ以外の言葉でツイートしているものもあるが、ホモよりリツイート数は少ない。
スルースキルのない私は、これを見てもう我慢が出来なかった。なにより、フォロワーが2000人も超えていることが理解できなかった。明らかに差別意識丸出しだと憤慨した私は、botの管理者宛にDMを送った。
————————————————————
こちらのbotは、画像を加工し、キャラクターのふきだしなどに「この人ホモです」などのセリフをいわせていますが、これは明らかに差別的な意図があってそうされているのですか?
管理者「あなたの考えを一般的に"飛躍"と言います。差別を目的とする場合、差別が目的であることが明確である内容が当然発生すると思いますが、画像と定型文以外全くないはずです。差別に敏感なのであればより同性愛の方に差別的な発言をされている方を対象にすべきです。
差別はあなたのような無駄に敏感な方が発信源となるケースが多いのでよく理解しておいてください」
私「お返事ありがとうございます。
私の考えが飛躍とされていますが、その画像と定型文こそにホモフォビアが紛れていると私は判断したのです。
ホモは差別用語としての歴史があり、現在も侮蔑的な意味で使用されることが多い言葉です。もし管理者様がホモという言葉に差別意図がないとするなら、では何故わざわざ使用されたのでしょうか?
ホモでなくとも、これがハゲでもデブでもあっても、キャラクターが上を指差している様子は揶揄しているように見えます。
そして、ホモにしようという文面がツイッター上で同性愛者の目に入った時、差別だと感じる可能性がないと断言出来ますでしょうか。
そもそも、同性愛者となることは他者によってさせられるものではありません。このbotをリツイートする方は異性愛者だろうと考えられますが、それは異性愛者が同性愛者をネタにし、無意識に差別していることとほぼ変わりません。
その上で、管理者様が「ホモにしよう」という言葉を選択したその理由をお教え頂きたいです。
ご忠告ありがとうございます。また、DMのお返事に貴重なお時間を割いて頂きありがとうございます」
メッセージの内容について言及するつもりはない。尚、最後のメッセージは今日送ったものだ。
「そこまで強くこだわりをお持ちになられるのであればこの小規模なbot程度へのアピールではなくもっと大きなものへのアピールをされてはいかがですか?
あなたのその考えは誰にも届きません
拡大解釈をされる方のようなのでこちらも同様にさせていただきますと、今の世の中どんな言葉をとっても差別やハラスメントになります。ならあなたも同様に誰かの目に入ってそういった印象を持たれてはいけないでしょうから文字を発信すべきではないですね
そもそも差別というのは差別になるであろう対象の人ではなくあなたのような無関係なのに敏感になって勝手に大暴れする人が規模を広め無関係な人がバカにするキッカケを作るケースが多いと思われます。
もう1つあなたの考えをそのまま使わせていただくと、↑を使って異性愛者にしようといった内容にすれば異性愛者をネタにして笑いものにしよう差別しようという風に捉えられますでしょうか
差別をそこまで気にしない側の意見を率直に申し上げさせていただきますと、あなたのような人が一番差別対象となる方にダメージを与えています。
理由は上記に加え、頭のおかしい人がいるとあなたのような人にスポットライトが当たるからです。普通に過ごしていればいいんじゃないですか?
ホモという言葉がネタとして使われるようになったキッカケとして代表的なのは「真夏の夜の淫夢」でしょう。しかし同じような「ガチムチパンツレスリング」シリーズの出演者は日本人が作品をネタにしていることに感謝さえしています。
その2つを並べた時にどのような印象をお持ちになられますかね。
わざわざ自分でホモをターゲットにして差別しようと思うならこんなふざけた手段とると思いますか?ホモ以外のパターンを含めると思いますか?
あなたは視野が狭すぎます。その堅すぎる頭を1度ミキサーで粉末にしてゼラチンと混ぜてもう1度固形にしたらどうですか。
そもそもですが、異性愛者が同性愛者、自分は興味など全くないのにそういった対象で見てるかもしれない人と一緒にいるのは簡単なことではないでしょう。あなたも嫌いな人から好き好きって言われたら気持ち悪いでしょう。
住み分けをすることが重要なのであって受け入れろという押しつけは返って居場所を奪うだけです。
あなたのような人は水と油がきれいに分離してる中乳化剤を混ぜようとするそんな人です。
頭のお花畑に水やりするの忘れずに。
花が咲いてもいらないので持ってこないでくださいね。」
————————————————————
色々と疲れた。
一時はDMの内容をTwitterで公開しようと考えた。しかし私のフォロワーは関心を示さないだろうし、セクシャリティで言論の立場に立っておられる方々もこんな小さなことには興味はないはずだとして止めた。
インターネットにはそれこそ無数にホモネタがあるが、私のように無駄に正義感を発揮してもおそらくなんの意味もない。自分のやっていることの無意味さにただ虚しくなっただけ。もう放置して、勉強に集中しようかと思う。
ホモネタって面白いかな。後輩が淫夢は楽しいっていうんだ、全然差別じゃないって。
私が間違っているのかな。
追記
増田を書いたことで、気づかないようにしていた自分の未熟さを強く感じさせられました。
小さなことを一つ一つ意識し、そのうえ力も知識も不足している今では意味がありませんよね。固執するのではなく、物事を広く見れるよう勉強に今は集中することにします。いい諦めになりました、ご指摘くださった皆様ありがとうございました。
単純なカプ論争ではないことは既にhttp://anond.hatelabo.jp/20160508140654で指摘されてるので繰り返さないけど、仮に単純なカプ論争としたところで問題があるでしょ。
たとえば、ハリポの結末がロンハーなことが判明した7巻以降では、ハリハー派の人の大半は「まあ公式がそう言うんじゃしかたない。ハリハー妄想は薄い本でやろう」って割り切ると思うんだよね(pixiv見るとマルハーとか色々な可能性があるよ。まあそれは余談)。その段階でハリハーにしなかった公式ふざけんなとかやってたらアンチだし今からでも変えてくれとか言ってたらクレーマー。
でも4巻くらいの段階で(つまり、ロンハーという未来が読者にはまだ見えていない段階で)、「ロンハーにしてくれ運動」とかあったら顰蹙じゃない? ふざけんなって感じしない? アナ雪騒動で怒ってるのはそういう人たちだと思うんだけど。
(ハリポを例に出すのはちょっとこの文脈では問題があるかもね。あれ、1巻が出た段階でオチは決まってたわけだし、原作者がハリハーの方がよかったんじゃないかとか言ってるしw)
「映画でレズビアンが非業の死しか遂げないのはもううんざりだ! 幸せなレズビアンカップルが出てくる映画を作ってくれ!」ならわかる。これに反対する奴はホモフォビアで片付けてくれて構わない。アナ雪公式が続編で新キャラ出してカップリングを確定させるのもまあ別にいいだろう。これへの反対は、まあ、ハリポでのハリハー派やリリカルなのはでのクロはや派みたいな人たちが文句言うくらいはあるだろうけど、普通のファンはそこまで気にしないんじゃないかな。でも、「映画の中で○○というカップリングを確定させてくれ運動」みたいなのがtwitterで社会運動っぽく盛り上がるのは上の2つとは全然違う話だよね。受ける反撥の大きさが同じなわけないよね。
アメリカのファンダムには血で血を洗うようなカップリング論争とかないのかねえ。もしくはあんまり一般のアニメファンに知られてないのかねえ。そういうセンシティヴさがあれば出てこない発想だと思うんだよなあ。
うんうん、わびさびが足りないよね。その点はわかる。
「俺の恋人を死なせるわけにはいかん」みたいな事を言うのだけど、現実の恋愛関係ってLGBT関わらずわざわざ”恋人”とか”愛している人”って表現をアピールするように使わないでしょう。
それはそうだね。
でもドラマなら恋人同士という設定をしたなら定番のセリフに思えるけど。
だからこそ、LGBT、LGBT言われる前から男性同士や女性同士の恋愛についてそんなに批判的ではなく、漫画も普通にあった日本からすると、
海外映画やドラマ、活動家が求める”登場人物がLGBTをアピールするような行動、発言”が、現実の恋愛とは乖離していて露骨、気持ち悪く見えるのかもしれない。
現実の日本はかなり批判的に思えるけど、、、同性の結婚が全然許可されないよね?拒否する必要全然ないのに。
ヘテロの恋人が恋人アピールするような行動・発言が同じように気持ち悪い、もしくは百歩譲って、気持ち悪いけど見慣れた、あたりならセーフ。
ヘテロは普通・よくある、とか言い出したら、アウト(ホモフォビア)