はてなキーワード: 迷路とは
・貯金箱
・手で彫るハンコ
・エプロン
・ポケットティッシュ入れ
・フェルト小物
・豚汁
・ラジオ
・点描(点だけで絵を描く)を描いて、学校のしおりの表紙になった
・電気糸ノコギリを使って板をくり抜き、クリリン型パチンコを作った
・石の塊を彫ってオブジェを作り、なんか賞をもらった
・画用紙を使って、ビー玉で遊べる立体的な迷路を作った
・写生大会で、なぜか割り箸で線画を書くという縛りをさせられた
・体育館にみんなの写生画が貼られ、それぞれ評価順に金、銀、黄色のラベルを貼られた。今考えるとちょっとひどいかも
・写生大会で神社を描いてたら、時代劇の撮影が入って移動させられた
・ラジオを作るか盗聴器を作るか選べて、盗聴器を作る人もいた
遠い未来、人類は究極の監視社会を構築していた。日常生活から親密な時間まで、人々の生活のあらゆる面が監視され、記録されていた。政府は「公共の安全のために必要」と主張するが、多くの市民は懐疑的だった。
ある日、ボブという名の不器用な政府職員は、監視システムから逃れようとする反抗的な市民グループの監視を任された。ボブは熱心だが、どこか抜けていて、ミスをしがちな職員だった。
グループの活動を監視していたボブは、誤って監視システムの不具合を引き起こし、誤動作させてしまう。突然、街中の監視カメラにボブの顔がライブ映像で映し出されるようになり、ボブは恐怖を覚えた。
パニックになったボブは不具合を直そうとしたが、事態はさらに悪化した。この不具合は他の都市にも波及し、人々は自分のプライベートな瞬間が映し出されることに気づき、混乱に陥る。
事態が制御不能になるにつれ、ボブは自分の手に負えないことを悟った。監視していた反抗的な市民たちと手を組み、監視システムを完全に停止させるため、荒々しい冒険の旅に出る。
監視システムを停止させようとするボブと反乱軍は、さまざまな困難や障害に遭遇する。
まず、監視システムのメインコントロールセンターにたどり着くには、迷路のような官庁街と地下トンネルを通り抜けなければならない。
ところが、そのコントロールセンターは、武装した政府職員が巡回する厳重な警備が敷かれていた。
しかし、ボブが誤ってアラームを作動させてしまったため、連鎖的に捜査官たちに気づかれてしまう。
必死の脱出で、ボブと反乱軍はハイテクな変装、偽の身分証明書、さらにはホバークラフトなど、あらゆる種類のガジェットやギズモを駆使して捜査官から逃れることを強いられた。
ある時は、監視システムをハッキングするための試作品を盗むために、政府の研究室に侵入しなければならなかった。
そして、その旅の間中、彼らを何としても阻止しようとする政府のエージェント・チームが執拗に追いかけてきた。
しかし、ボブと反乱軍たちは、監視システムを停止させ、人々に自由を取り戻すという目標を決して見失うことはなかった。
そして、彼らの努力と決意は実を結んだ。監視システムを停止させ、その背後にいる腐敗した役人を暴くことに成功したのだ。
そして、最初はしがない政府のエージェントだったボブは、監視とコントロールによって抑圧された世界の希望と勇気の象徴として、人々の目に映るヒーローになった。
そして、監視社会の市民は、ボブとその仲間たちの不運にも善意ある努力によって、真のプライバシーと自由を享受することができたのだ。
塵も積もれば山となるで、ボブと反乱軍は国民から英雄として讃えられた。政府はこの事態を計画的なテロ行為と言い逃れようとしたが、圧倒的な証拠があり、市民はそれを受け入れなかった。
監視システムが解体され、その実施に関与した政府関係者が裁かれたことで、社会は再生し始めた。人々は互いにつながり、社交し、プライバシーを楽しむようになった。
ボブは、ある種の有名人になった。行く先々で人々が彼を呼び止めて自撮りをし、彼の姿がTシャツやポスターにプリントされ、街中に溢れた。
当初、ボブはその注目度の高さに圧倒され気味だった。しかし、時間が経つにつれて、彼は自分の名声を楽しむようになった。プライバシーと自由の大切さを説く講演家として、全国を回るようになった。
監視システムについては、再建されることはなかった。その代わり、政府はより伝統的な法執行や情報収集に投資するようになり、侵略的な技術ではなく、人間の知性や探偵業に頼るようになった。
結局、監視社会の人々は、プライバシーと自由はどんな犠牲を払ってでも大切にし、守るべき貴重なものであるという重要な教訓を得た。そして、すべてはボブという名の不器用な政府エージェントの不運から始まったのである。
そもそもだ。
モロッコってどこにあるんだ?
誰も知らない、俺も知らない。
だからここで覚えよう。
じゃあモロッコはどんな国か。
かの有名なサハラ砂漠だ。
スペインは踊ったり牛と戦って楽しそうにしてるのに、南にあるモロッコは砂漠。
ひどくないか?
じゃあ砂漠ばっかりで何食べてんだ?
これはみんなも知ってるアレだ。
タジン鍋だ。
昔なんか流行ったよな。
蓋が尖った変な形のシリコン容器に野菜とか肉とか入れてレンチンするやつ
あとはクスクス。
聞いたことはあるだろ?
あとはこれだけ覚えてたらいい
・旅行に行くなら、シャウエンという青い街と、世界遺産のマラケシュと、迷路の街フェズに行けばOK
これだけでも覚えて帰ってくれ。
(追記)
モロッコをアラビア語で書くと、「ملكة المغربية」
ベルベル語で書くと、「ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ」
ベルベル語なんて初めて見たよ
twitterで見ただけでも最低3箇所女子専用トイレが消えて、共用トイレからはサニタリーボックスまで消えているらしいが、誰も排除しないトイレで女子トイレを消すのは本気でどう言うつもりなのだろう。
迷路のようなワクワクする入り口のトイレや木の外壁の森の小道などトイレに行くまでに死角を作っていく危険な設計が多いのも気になりすぎる。
『渋谷区の公衆トイレ、女性専用が消えて共用トイレ化の理不尽…現地訪問した本誌女性記者の違和感とは』
https://smart-flash.jp/sociopolitics/225151
『渋谷に行った時に男性トイレ(大便器+小便器)と多目的トイレしかなくてあまりにも驚いて思わず写真を撮ってしまったんだけど、女子トイレを無くす方向って意味分からなさすぎる。
https://twitter.com/AZcoAZ/status/1633087272278179840?t=-2gB7v--HSNR-cP_jXuB8w&s=19
『今日も所用のついでに鍋島松濤公園に。こちらも女性専用トイレはありません。区はこの公園で女性専用トイレが設置できる場所があっても設置しませんでした。私は区長が男女共用を推進する方針にした結果女性専用トイレがなくなったと思います。設置できるところを無くしたのはおかしいと思いませんか?』
https://twitter.com/sudaken_shibuya/status/1633739619601874944?t=ZZIK2ZGg6VHV1MCHupkoSw&s=19
『「渋谷区トイレ環境整備基本方針」は誰も排除しない、インクルーシブなトイレ環境を実現することを目的とした基本方針です。』
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/shisaku/ku_keikaku/toire_2018.html
身長くらいの高さの壁でできた迷路に入って、「迷路はどちらかの手をずっと壁にくっつけて歩いていれば迷わずに出口にたどり着く」と分かっているんだけど、なぜかグニャグニャとしていつまでも出口にたどり着けなかった。
午前、午後1回ずつ頭痛薬を飲んだけど効かなかった。多分、首周りのコリが原因の頭痛だったんだと思う。
午前中は頭痛に合わせて左側の鼻筋の骨が痛んだ。午後は、まぶたがずっとヒクヒクしていた。けいれんではないと思うけども。
そろそろ生理が近いせいか、色々なにおいが気になる一日だった。職場の誰かの体臭(たぶん60代男性のものだろう)、他人の弁当、自分のハンドクリーム(ロクシタンのエルブダーブル)など。
1人のカメラ好きとしてスマホの利便性は物凄く良い。
何なら総合力としてはデジイチ(レンズ交換式ミラーレスデジタル一眼カメラ)や360°カメラは著しく劣ると個人的には評価している。
最近のスマホカメラの画質は非常に良くなったと痛感するし、カメラ好きだからと言って常にデジイチを構えているわけではなく、何なら日常的な利用頻度はスマホカメラが最も高い。
ただやはり、カメラ専用機にはカメラ専用機の強みがあるのもまた事実で、この強みを知ってしまうとスマホカメラで日常的な撮影から入学式などの式典、アミューズメント施設での思い出記録までカバーできるなどとは口が裂けても言えない。
スマホはやはり総合力が高いだけであって、カメラ専用機のシチュエーションに合わせ特化できる仕様はカメラ専用機の強みであると言える。
従来方式のレンズ交換式デジタル一眼レフカメラ(一眼レフ)の規模縮小がカメラ業界でも決定的となったことはカメラファン界隈では「ついにこの時が来てしまったか・・・」と様々な想いが巡っている。
後継となるデジイチやミラーレスと呼ばれるレンズ交換式ミラーレスデジタル一眼カメラは今後プロシーンであってもどんどん普及していくことだろう。
いわゆる標準画角と呼ばれるフルサイズ換算35mm前後〜50mm前後(APS-C換算23mm前後〜33mm前後)をカバーできるレンズを常にデジイチへ装着しておいてシチュエーションに合わせズームを活用して撮っていくのが良い。
可能ならばレンズ内蔵の光学式手ブレ補正機能が付いているものが望ましい。
子供が生まれてからカメラに目覚める親は少なくないが、これからカメラを購入しようと考えているならば自分の子供が保育園幼稚園の年中(4歳前後)へ至っているかどうかで実は変わる。
これ何故かと言うと行動の活発さ、というかワンパクに遊ぶようになると移動距離と速度が変わるからなのだ。
イメージしやすいところで言うと、生まれたばかりの新生児やハイハイ程度しかできない乳幼児、フラフラと歩くことしかできない離乳食前後の幼児はカメラで捉えるのは簡単、当たり前ながら物理的にそう動かないので撮りやすい。
しかし年中くらいに達すると知能と同時に運動能力もそこそこ向上しはじめてカメラで追うのがちょっとずつ大変になってくるのだ。
駆け回るし、ジャングルジムみたいなのに登ったりするし、キックバイクや自転車へ乗れるようになったりする。
つまり、自分の子供があまり動かない年齢ならばじっくり撮影できることが多いため、レンズにズーム機能は必要がなく、それならばお昼寝などの暗いシチュエーションでも明るく撮影できたり、背景が美しくボケるズーム機能の無い単焦点レンズを選択したほうが安上がりなのだ。親が近寄るのでズーム機能使わないからね!
逆に子供が活発に動くようになった年齢ならば様々なシチュエーションへ対応できるようにズーム機能があったほうが都合良く、ズーム機能が無い単焦点レンズだと困ることが増えてくる。
例えばサードパーティレンズとして定番のSIGMAで単焦点レンズとズームレンズの双方の販売価格を確認すると、その両方とも約5万円からライナップしているがF値と称されるどれだけ明るく写せ、そしてボケるか?という数値を見ると同価格帯では単焦点レンズの方が有利だ。
暗いことの多いお昼寝シーンやお誕生日会でケーキに灯るロウソクを吹き消すシーンなどでは明るく写せる単焦点レンズを使いたいだろう。暗かったらそもそも写らななかったりノイズが物凄く乗るわけだし。
カメラのボディ本体が約10万円からライナップされている現状を考慮すると、レンズ1本を追加で約15万円、子供の成長に合わせて利用シーンを考慮しレンズを選択することで安上がりにカメラを始められるというのはカメラ購入で失敗したくない入門者として知っておきたい情報だ。
スマホでも同様のことが出来るものの多くの人が経験しているだろうが暗い場所でスマホ動画を撮るとノイズが物凄く乗る。
それは最新のiPhoneだろうがPixelだろうがXperia、Galaxyとか関係がなく、ナイトショット機能が搭載され始めたとは言え今度は物凄くブレるのだ。
この原因はスマホカメラへ搭載されるレンズの明るさとイメージセンサーの面積にあり、最近のスマホカメラのイメージセンサーは1インチ面積を持つこともあるがレンズ交換式カメラの入門機へ採用されやすいAPS-Cサイズのイメージセンサーは1インチセンサーと比較して約1.7倍もの物理的な面積の差がある。
イメージセンサーの面積が大きいということはそれだけ受光できる面積を稼げるということであり、単位時間あたりの受光量も増やせるということだ。
それはどういうことか?と言えば、ソフトウェアや近年流行のAIが撮影データを補完する部分を少なく出来るという意味であり、ノイズというのは撮影データの補完へ失敗した粗が出た結果なので、APS-Cサイズセンサーなどを持つレンズ交換式カメラは暗い場所でも明るく綺麗に撮りやすいことへ繋がる。
ただ撮れていれば良いのであればスマホカメラでも良い。しかし子供の表情をハッキリと残し綺麗に撮りたいのであればデジイチの強みが発揮できるのだ。
綺麗に撮りたいという需要は子供の節目節目に起こるものだし、レジャーなど特別な日でも望まれることだろう。
デジイチは明るく撮れるし背景もボケてエモい動画が作れる。
何ならカメラ向けの外付けマイクとかも販売されているので発表会での合唱とかも高音質で撮れたりもする。
こういうの考えると沼になる。
カメラに目覚めた親ならば必死になるイベントの代表格である運動会や発表会。
筆者の経験から結論を示そう。
フルサイズ換算100mm前後〜450mm前後(APS-C換算70mm前後〜300mm前後)のズームレンズが最低限必要。
気をつけて欲しいのは"最低限"という部分だ。
このズームレンズの選択というのはかなり環境に依存するもので、子供が通っている保育園幼稚園学校の施設の広さによって変わってくる。
しかしながら経験則上、フルサイズ換算で100mm前後〜450mm前後未満のズームレンズじゃ絶対に倍率が足りないというのは断言できる。
スマホなんてもっての外だ。倍率足りないしブレるしデジタルズームで画質が粗くなる。
理想を言うならフルサイズ換算50mm前後〜300mm前後、フルサイズ換算150mm前後〜600mm前後をカバーできるズームレンズが2本あると幸せになれるだろう。
ただし予算がそこそこ必要なので多くの人はフルサイズ換算100mm前後〜450mm前後のズームレンズを選んでおけば何とかなる可能性が高い。
スマホやフルサイズ換算35mm前後〜50mm前後のズームレンズで何とかしようとすると間違いなく米粒のようにしか子供が写せないのでこういう機材での撮影は絶対に避けるべきだ。誰も幸せにならない。
これはカメラを始めた親ならば誰しもがぶつかる難問である。
しかしこれも筆者はある程度解決している。
伸縮が容易に行えるカメラショルダーストラップとキャプチャースタイルクイックリリースだ。
伸縮が容易に行えるカメラショルダーストラップとして代表格は「DIAGNL Ninja Camera Strap」、キャプチャースタイルクイックリリースの代表格として「PeakDesign Capture」が存在する。
ただしこれらは代表格なだけあって比較的高価な部類のカメラアクセサリーであり互換品やインスパイアされた製品が多数存在するので予算に不安があるならば互換品やインスパイア製品で良いだろう。
筆者のオススメは「HAKUBA スピードストラップ」と「FALCAM F38 Quick Release system for shoulder strap」だ。
伸縮が容易に行えるカメラショルダーストラップは移動するときはストラップを縮めてカメラがブラブラと振れないようにするもので、子供が急に駆け出しても対応しやしやすくなる。撮影するときはサッとストラップを伸ばして撮影へ移行できる。
キャプチャースタイルクイックリリースはカメラ本体を直ぐに三脚へ取り付けられるクイックリリースプレートを活用して身体へ身に着けられるようにしたもの。FALCAM F38 Quick Release system for shoulder strapはカメラショルダーストラップへ取り付けられるキャプチャースタイルクイックリリースで瞬時にカメラを取り出したり仕舞い込んだり出来て子供への対応が迅速に出来る。
今まで手持ちで移動したり、いちいちカメラをカバンから取り出していた親御さんが居るなら劇的に子供の対応が楽になるカメラアクセサリーなので導入を強くオススメするぞ。
カメラアクセサリーにはトップハンドルというものが存在する。形状の詳細はググってくれ。
ググった人はわかるだろうが、つまりはカメラを運び構えやすくするハンドルなのだがコレがまた子供の撮影、特に動画撮影で非常に役立つ。
スマホであっても既に子供を動画撮影した経験のある者ならばわかるだろうが、親よりも身長の低い子供を撮影する場合は中腰とならなければいけないシーンが多発する。
しかしカメラトップハンドルがあるとカメラの上部から握る形となるので腰への負担が物凄く軽減されるのだ。
たいていの人は素直に両手を下へ降ろすと手のひらは自分の膝の高さになるけれどカメラトップハンドルは手を降ろすだけで自然に膝の高さで撮影が可能となる。
いや本当にカメラトップハンドルを使ってみないと理解してもらえないのだろうけれど仰々しい見た目となる代わりに圧倒的な撮影のし易さが手に入る。
シャッターや動画撮影開始はスマホのリモートコントロールアプリかBluetoothリモコンを使うと容易に切れる。
ちなみにカメラアクセサリーとしてケージリグを導入するとカメラトップハンドルの選択肢が広がる。
まだまだ平均一般人へは普及していないと言って良い360°カメラ、事実として360°カメラの情報記録量はヤバい。
データバイト量が多いという意味ではなく、360°全周を撮影してしまうために撮影者の表情から周囲の環境まですべて画像・動画として収めるので、その場の空気感と言うか何と言うかあらゆるものが記録されるのだ。
これまでのカメラは前面の風景を撮影すると撮影者の表情なんてわからなかった。
別に360°すべてを残さなくとも良い。例えば巨大なモニュメントがあるとするだろう、巨大なモニュメントの全体像を写真として収めるにはある程度は巨大なモニュメントから離れて撮影する必要があるけれど360°カメラは全周を撮影するため通常のカメラよりも接近して撮影できてしまう。それを後からトリミングする。
例えば巨大なクリスマスツリーとか大鳥居とかシンデレラ城とか、通常のカメラを使っている他の観光客よりも近くで撮影できるのだ。近いので他の観光客が写したい風景を身体で隠してしまう可能性も低くなる。当然ながら子供と一緒に巨大なモニュメントを収められる。
動画撮影でも強い。近年の360°カメラはアクションカムとしての機能も有するため手ブレにも強く。アミューズメント施設で子供が四方へ駆け回るようなアトラクションとかでも子供を見失わず記録できてしまう。
迷路とか、四方にあるボタンを素早く押せとか、ボールがいっぱい入ってるトランポリンとか、そういうアトラクションで360°カメラによる動画撮影は本当に強い。
しかも後から欲しい範囲だけ切り出して360°じゃない動画にも出来る。子供だけを収め続けている動画とか作れるわけだ。
防水ケースへ360°カメラを納めればプールでも海でもスキー場でも活用可能で、今まで通常のカメラでは撮影しにくかった環境や固定された画角では収めにくかった環境でも思い出の記録が可能なので360°カメラの登場は本当にカメラに於いてのテクノロジカル・シンギュラリティと言って差し支えないと思われる。
それが学校の発表会なのか、友人との遊びなのか、結婚式なのかわからないが、いつかそんなことを言い始める日が来るのかもなと考えて日々撮りためている。
生後1日目から出せる、笑った顔も泣いた顔も、成功したときも失敗したときも出せる。
99.999%が親のエゴでやってることだけれど、それでもいつかもしかしたらと子供が言い出す日を今か今かと思って待っている。
辞書的に言うと、オープンワールドとは「巨大でシームレスな3Dマップ上で完結するゲーム」のことである。
ゲームにリアルを求めるならば必然的にオープンワールドになる。
だから「なぜオープンワールドにする必要があるのか?」を考えるよりも、
「なぜ昔はオープンワールドじゃなかったのか?」を考えるべきだ。
プレイヤーの行動に制約を課して、直線的(リニア)なゲームに仕立てた。
逆に言えば「プレイヤーの行動に制約を課さない」というのがオープンワールドの本質なのである。
オープンワールドが志向するのは「制約の無さ」つまり「自由度の高さ」である。
ここではオープンワールドゲームをいくつかの種類(というよりは世代)に分類してみたい。
まずはGTAに代表されるような「行動の自由度が高いオープンワールド」である。
シームレスなフィールドが用意されて、プレイヤーはその中でさまざまな馬鹿馬鹿しい行為を実行できる。
たとえば当時は「通行人を殺せること」が自由の象徴とみなされていたりした。
しかし、それは「メチャクチャやるとスカッとして楽しい」というものでしかなく、
通行人を自由に殺せることがゲーム性に深く関係しているわけではなかった。
ゲーム自体は「フィールドに点在するミニゲームをこなす」程度のもので、それは「シームレスなゲーム体験」とは言い難かった。
次にスカイリムに代表されるような「物語の自由度が高いオープンワールド」である。
フィールド上でそのままイベントが進行したり、フィールド上に構築されたダンジョンをそのまま攻略できたりする。
RPG的なストーリー進行とシームレスなフィールドとが深く結びついているため、
プレイヤーはどのようにストーリーを進行するかを自由に決めることができる。
ただしリソースの足りない状態でこれを作ろうとすると、イベントやダンジョンがリニアな作りのままで置かれ、
結果として「リニアなゲームを繋ぎ合わせただけ」「イベントの発生順を選択できるだけ」に堕してしまいがちである。
そしてアサクリに代表される「移動の自由度が高いオープンワールド」である。
移動の自由度が高い、すなわち、壁に登ったり、空を飛んだり、崖から飛び降りたりできる、
ということは、そのゲーム攻略が「リニアではない」ということである。
たとえば迷路があるとして、その壁を登って越えられたら、客は迷路で迷わなくなる。
だから客が壁を登れないようにして、製作者があらかじめ決めたルートを進ませる。
それがオープンワールド以前の「リニアな作りのゲーム」である。
そうしたリニアな作りを避けるために、オープンワールドは移動の自由を保証する。
「見えない壁」を撤廃する、というのがオープンワールドの最も重要な条件なのである。
現実世界のように広大な、膨大な情報量を持ったフィールド上で、プレイヤーが本当に自由に行動できる。
そんな理想のオープンワールドを実現するには、まだまだマシンパワーもマンパワーも足りていない。
未だにオープンワールドには制約が多いし、開発も大変だろう。
別に東京じゃなくてもいいが、政令指定都市と呼ばれるような大きな街で生まれ育った人はその土地特有の閉塞感を感じたことがあるのだろうか。
私が生まれ育ち出ていった場所はそれはもう田舎で、袋小路のような、出口が見えない迷路のような、息苦しさを感じさせる場所だった。
経済的に文化的に発展しておらず、昔から住んでいる人は僅かな希望も持たず氷が溶けて薄まった酒を舐めるような生活をしていた。
たくさんいたはずの同級生のほとんどは故郷を捨て、もっと人がいる場所へ移住したらしい。
田舎から出てきた人が決まって言われるのが「えぇ〜自然豊かで羨ましい。いいところじゃん」といった羨望だ。
出てきた身からすると苦笑いで受け取めるしかない。しかし、ふと思った。
田舎出身者同士で話すとき、地元の閉塞感について共感を得ることは多いが大都市で生まれ育った人たちにもこういった感覚があるんだろうか。
電車が通っており、買い物へ行くのにも選択肢が豊富で、人がたくさんいる土地で産まれ育った人にも故郷を捨てたくなるほどの閉塞感が。
ネット上の論争では理屈を弄ることを優先してしまいがちですが、理屈はあくまで理屈であって、人間はその言葉をありのまま放ったり受け取ったりする事は不可能です。
意識や感情というものは言語だけでなく個々人の経験や記憶からも想起されるものであって、一つの理屈や言葉を読解して思い浮かべる情景は人それぞれ違い、その時点で快と不快に別れてしまいます。
そしてその快や不快というものはロジックではなく、身体的な反応なのです。
それらを内面でどう処理するにせよ、この反応から逃れられる人はいません。
快を覚えた人はそれをより深めるために、不快を覚えた人はそれをなんとか回避しようと動きます。
私たちはそうした構造を通してしか現実を観測できません。その上で対話が成り立つ場というのは稀です。
どちらが論理的に正しいか、どちらが社会的な正義なのか、という観点は、政治や法律の領分です。
個々人という視点から社会を見るなら、それらはあくまでも「社会的に生活する上で必要な要素」ではあっても、「内面的に従わなければならない要素」ではありません。
人はしばしば自らと相反する言動を「自分が否定されている」と認識します。
ですが実際にはどの理屈や言葉を用いても互いに想定している相手や構造は異なりますし、理屈の上で勝とうが負けようがそれは政治的な綱引きの結果でしかありません。
私たちはネットを観測すれば避けがたく束縛されますが、それは必ずしも向き合うべきものではなく、その力に実効性はないと仮定しなければ生活できませんし、実生活においては無意識にそうしています。
身体的なストレス反応は現実として存在し、なんとかそれを発散しようとするのが人間だからです。
ネットに限らず、私たちは日常的にそうした反応を発信しています。
職場でつらいことがあれば美味しいものを食べたり、好きな趣味に浸って補おうとしているはずです。
それ自体は人としてなんら恥ずべきものではありませんし、他人のそうした現場を見たからといってネガティヴに捉える必要はありません。
つらかったんだな、苦しいんだな、と把握していればよいのです。
ネット上の論争に熱中する人は「もっと社会を良くしよう」「よりよい理屈を生み出そう」という熱意に燃えていますが、それは家族でも親友でもない赤の他人を介護するようなものです。
他人の生活を良くすることは自分の役割ではないことをまず自覚し、自分の快不快と真摯に向き合って精神的な安定を優先しましょう。
()内は出典だが間違っている可能性もあるので注意して
Google マップで見れば一目瞭然だと思う
1フロアが迷路のようになっていておもちゃが所せましに陳列されてる
個人店のような乱雑さではなく、ショッピングモールの一室だけを切り取ったかのような明るい店内
360度見渡す限りおもちゃが置いてあって、心を曇らせるものは一切ない
多分、パワースポットの観光に来た人のように2,3周くらい周囲を回ってたと思う
こういうことを言うと、「男は大人になっても子供じみた事ばかりしている…」と冷ややかな目で見られる事だろう
でも大人になりたくてなったんじゃないんだから、独りでいるときくらい良いじゃないか
心が老ける一方じゃないか…
何はともあれ、嫌な事を少しの間忘れられた
聴牌状態で四方から飛んでくる麻雀牌をよけて当たり牌をとるゲームや格ゲーキャラを応援して戦わせるゲームなどやったことないことをやらされている感が面白い
目でクイズの問題を読みながら、迷路を解き、時間経過で入れ替わる問題を読みなおしたり、ボタン自体が迷路内を移動するのに対応したりとわけわからんマルチタスク感が楽しい
基本的には2人用だけど、遊んでいるのを見てるだけでも笑える
ただ2作目の『スーパー野田ゲーWORLD』に入っている横スクロールシューティングを両端からスタートで対戦ゲームにした『ナガイアス』はこれ新しいゲームジャンルじゃない?と思うくらいには単純で面白かった
くだんの少年革命家については声援も石も投げる気はないので全く私とは無縁な存在なのだけれども、ニュースサイトの見出しなどで『反対する人はアンチで嫉妬している』と書いてあったわけですよ。
だから文句を言ってくる、自分に反対の意見を言う人は自分を引きずり落とそうとしているのだ。そう考えている訳か。
だが、世の中で彼の行動に反感を持ち、あるいは反対する人のいくらかはどちらかといえば彼を『可哀想な子』とみてやしないか。
それで老婆心から学校に行けとかいう言葉が出るのだ。子供にはできるだけ幸福になってほしいという純粋かつ無責任な善意から。
おそらくここに互いの齟齬がある。
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振り返って、彼があのスタイルで得たものや積んだ経験はそりゃ、素晴らしいものだろう。
だが、人生とは一筆書きで迷路を解いているようなものなので、とうぜん凡百の人々が普通に経験できたことを彼が取りこぼしたことも多かろう。
彼には普通の学校生活が与えられなかった。それがいい、悪いではない。
可哀想でも素晴らしいでもない。誰でも持つ一人だけの人生経験に貴賤もない。
学校に行って絶望する子もいれば、学校に通う生活を渇望する子もいるだろう。
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実際にプレイした訳ではないけど面白いと噂で聞いた同人エロゲーの一覧を書いてみるの一覧
以上、終わり
以上、終わり
…やっぱり出来が良い同人ゲー多すぎるって!