はてなキーワード: ストレス反応とは
俺も「泣けば許されると思ってるの?」という言葉は無意味だと思うけど、
男性と女性で泣くことの意味合いが違うのは覚えておいてもらいたい。
増田の泣くことに対する感覚は多分、男で言うと噛み締めるとか、高頻度でよくあるストレス反応か何かなんじゃないかと思う。
でも、男性にとって泣くという行為はもう本当に深刻な事態が発生した時だけなんだよ。
家族が死ぬときとか、自分の心が壊れたときとか、もう本当にどうしようもない時だけなんだよ。
成人男性で泣いてる人あまり見ないし、泣いてるときはよほどやばい時なのはこれが理由。
元彼と関わるとなんで軽く鬱みたいになっていったのか。
早押しクイズみたいに。評価が高速で断定的であればあるほど頭の回転が速いと考えているようだった。
優越の欲求自体は私の中にも存在するし、それが無ければ大学受験や就職活動を乗り切れていないようにも思う。
エナドリ飲むように、優れていたいとか勝ちたいとかいった感情に酔っぱらうことで戦えるという一面はあるけど、それが人生のすべてではない。
勝つことが全く意味がないとも思わず、人生のなかの重要な一部であるとも思うけど、プライベートの人間関係に持ち込むのは相性が悪いから使い分けが必要だと今の私は考える。
しかし優勝劣敗が物理法則のようにこの世のすべてに当てはまるような世界観を手放さない人だった。
身長が低い男性や、肥満体型の男性など、女性受けがよくなさそうな容姿の同性の友達とつるんでいた。
彼女ができる可能性が低そうな友達の前で、自分が彼女持ちであることをマウント要素にしつつも、私がブスでなければもっとマウント取れたのにという不満を持っていた。
友達の前で私の容姿を馬鹿にしていた。おそらく友達に可愛い彼女ができて、「負けた」と感じたら元彼は発狂していたと思う。でも知りうる限りそんなことは起きなかった。全く女に縁がない男の具体的なイメージとして今でも彼らの姿が頭に浮かぶ。
この人のそばにはいたくないと思って別れてほしいと言ったら、すぐに別れてくれたけど悪評を流された。
訂正して回る気が起きなくて共通の知人がいるコミュニティからも逃げた。小学生のときにいじめられたことあるんだけど、それとは比較にならないほどのストレスを受けた。ストレス反応の身体症状が出まくった。このときの対人関係ストレスを上回る出来事はその後起きてない。
それ以降、伝聞の悪口を信じなくなった。その噂は丸々嘘の可能性もある。
なんで元彼と付き合ったのか。
行儀が良いコミュニティにいたのを、ブスだから私には誰も欲情しないと思っていた。男性のストライクゾーンの広さについての理解が浅かった。お互いが唯一の存在になるという女性向けコンテンツにありがちな関係性幻想に染まりすぎだった。
最初に露骨に口説いてきたのが元彼だったし、私に勃起する人がいるんだと感動した。
(これを若いブス狙ってレイプすりゃいいんだなと解釈する人間が湧きそうで本当に嫌だ)
「俺に欲情して強引に露骨に口説いて彼女になる女はいなかった。ブスにはそういう男が湧くのに。やはり女はイージーモード」と呪われそうだ。
買って済む話ではないことはわかる。ホストに貢ぐための金を得るために必死な女の時間を買うことでは解消できない種類のもの。
私大の陽は怖いけど受験勉強を真面目にやった芋なら大丈夫だろうみたいなポジティブ方面の偏見、安心感を持っていた。単純化は愚か。怠惰。
元彼の両親は偉い父親と専業主婦、うちは二馬力だったので家庭に関する感覚が全く違っていた。
元彼は父親に強要された価値観に苦しめられているように見えたけど、父親の価値観をインストールして母親を馬鹿にしているようにも見えた。
「親によって苦しめられ歪められた人を恋人が救う話」というコンテンツの影響を受けてきたオタクだったから、初めての恋人との関係を美談に仕立て上げていたが、元彼は私にまったく救われていないし、そもそも私に救われることを望んでいたか。私が空回っていただけの可能性が高い。元彼の望みは「整形ではない可愛い処女の彼女ができて高カーストの男からも羨ましがられるようになる」辺りのほうが本質的だったのではないかと思う。
管理職なのに仕事を覚えず全体のスケジュールも把握せずお客さんとの交渉もままならないし仕事を任せたり相談することができないので仕事面に関してはできるだけ触れない触れさせないようにしていました。
そのうちにやることがないと思い込んだのか何なのか知らないが上司はお気に入りの可愛い女の子には毎日セクハラするようになりました。
そんな上司の人間的に信用できない行動言動が積もり積もってストレスになり、私の頭がおかしくなってきたのを感じたので母親にこの事を相談しました。
身内に相談してどうにかなる話ではないのですが、自分だけの主観で感じていることなのでこの事が他人もどう思うかを聞いて冷静になりたかったところもあります。
でも案の定話を聞いてくれた上司よりも年上の母親も私と同じ気持ちだと言ってくれました。
やはり上司は無能なセクハラオヤジでこれは自分だけの問題ではなく職場全体の問題になるから別途対応する部署に相談しなくてはなと、面倒だなと思っていると母親が一つアドバイスをくれました。
「毎日その人の顔が写っている写真に“いなくなれ!”と願っているといなくなるよ」
それを聞いた時は娘を気遣っての母親なりの冗談だと思っていました。
しかし私は上司の言動行動へのストレス反応で無自覚に狂っていたのです。
職場のシステム上プロフィールに顔写真が出るようになっているので、私はその話を聞いてから毎日プロフィール写真の上司に向かって“頼むからいなくなってくれ!”と強く願うのが日課となりました。
そんなことを数日続けた結果、この上司は本当にいなくなりました。
会社全体で色々とあった時期ではあるので、私が願ったからいなくなった訳ではないと思います。
ただ、私はある事を思い出したのです。
昔、私はの家は家庭崩壊寸前まで追い詰められたことがあります。
今振り返ればよくある同居からの嫁姑問題だったのですが解決に至らず母親が私たちを置いて突然実家に帰ってしまったこともありました。
子供にとって家が安心できる場でなくなり毎日不安で怖かったのを漠然と覚えています。
そんな終わりの見えない毎日がある日突然終わったのです。
祖母が突然亡くなったのです。
後味は悪いですが問題の元凶がいなくいなったのでその後徐々に家庭の不和は完全にとはいきませんが落ち着きを取り戻しました。
ただ今でも不思議に思っているのですが、高齢とはいえ祖母に持病や体が弱い、入院等の話を聞いたことがないのです。
コロナ前まで毎週のように飲みに行ってた友人たちとの縁がこのまま切れてしまいそうな気がしていてしんどい。
増田 女。既婚 0歳子持ち
友人A 女。既婚(友人Bの妻) 子なし
友人B 男。既婚(友人Aの夫) 子なし
友人C 男。独身
2020年春まではほぼ毎週のように飲み会をしていたが、コロナの流行から開催が難しくなり、会う機会がめっきり減った。
友人CがAB夫婦のご近所に引っ越したため、増田抜きでの飲み会開催がしやすくなったようだった。
友人Aが友人Cと同じ会社に勤めるようになったため、さらに増田抜きでの飲み会開催がしやすくなったようだった。
会わない間に友人たちが競馬と麻雀を始めてハマったらしく、たまに会っても話についていけないことが多くなった。
2021年に結婚したが、感染増加が落ち着いたタイミングで遠方の実家に挨拶に行くことになっていた。
増田の実家はコロナにうるさいのでそれまでの不注意で感染するわけにもいかず、飲み会を再開している友人達には「結婚の挨拶が済んだらまた参加するから」と断っていた。
実家への挨拶が済み「もうコロナ無視して飲みに行ってやるぞ」と思ったタイミングで私の妊娠が発覚した。妊娠中は常に体調が悪く、外出もままならない日がほとんどだった。
今は比較的都心部に住んでいるが、もうじき郊外(都心まで約2時間)に引っ越すことになるため、ますます会う機会が減りそう。
夫婦でコロナに罹った際、友人ABCに頼って食料の購入などをサポートしてもらった。
私の就寝中に夫が荷物を受け取ったのだが、その際の態度が悪かったらしく数ヶ月後にCから「あの時の旦那の態度にモヤモヤしている」、Bから「確かにあの態度は色々してあげてたAがかわいそうだった」というようなことを言われた。
(どうやら夫はちゃんとお礼を言わなかったらしい)
出産報告後に友人Cから子どもの名前を聞かれ、「まだ家族に伝えていないから」と報告を渋ったところ「どんな関係の親族か知らないけど今度から困った時はその人に頼れば?」と怒られた。
妊娠後期のしんどい時期に「そろそろ産まれた?」と友人Cから連絡がきたことがある。
医者からは「難産になるだろう」と言われており初産で日々不安でしょうがない中で、出産をエンターテインメントとして消費されている・急かされているように感じ、大変嫌な気持ちになった。
本人にはそんな意図はないのだろうと思い指摘しなかったが、ちゃんと怒ればよかったと思っている。
また、【増田の夫が好かれていない】と【産まれた子の名前をすぐに伝えなかった】件は、出産のちょうど1週間後に言われたものだった。心身共に大変な時期であることくらい容易に想像がつくだろうに、わざわざ言ってくる無配慮さにわざと私を傷つけにきているのだろうかと思ってしまい大変腹立たしかった。
関係に波風を立てたくなかったのでこちらが謝罪したのだが、夫の件はともかく、子の名前を実両親より先に伝えなかったことを謝罪するのは正直意味が分からないし、数ヶ月経った今も思い出してめちゃくちゃムカつく。
このような経緯で、それまで仲良くしていた友人たちとの間に急激に距離があいてしまった。
情けなくもこんな些細な事柄で彼ら(特にC)のことを考えるとストレス反応が起きるようになってしまった。今は「育児で忙しい」などと理由をつけて、連絡が来ても数日後に返すなどしてあまり考えないようにしているが、本当はそこまでは忙しくなくラインの即返信くらいはできるので嘘をついていることにやや罪悪感がある。
一度わーーっと怒ってみたらスッキリするのだろうけど、きっと友人たちも私に対して何かしら思うことがあるはずだし、今後物理的距離ができて今まで以上に会いにくくなることを考えると言葉を飲み込んでこのままフェードアウトして年に数回連絡を取る程度の関係に落ち着けるのが大人なのかなと我慢している。
彼らとの関係が終わったら他に馬鹿話のできる友人はいなくなり、新居のご近所さんと無難な世間話をするだけの主婦になってしまうのだと思うとすごく寂しい。
ネット上の論争では理屈を弄ることを優先してしまいがちですが、理屈はあくまで理屈であって、人間はその言葉をありのまま放ったり受け取ったりする事は不可能です。
意識や感情というものは言語だけでなく個々人の経験や記憶からも想起されるものであって、一つの理屈や言葉を読解して思い浮かべる情景は人それぞれ違い、その時点で快と不快に別れてしまいます。
そしてその快や不快というものはロジックではなく、身体的な反応なのです。
それらを内面でどう処理するにせよ、この反応から逃れられる人はいません。
快を覚えた人はそれをより深めるために、不快を覚えた人はそれをなんとか回避しようと動きます。
私たちはそうした構造を通してしか現実を観測できません。その上で対話が成り立つ場というのは稀です。
どちらが論理的に正しいか、どちらが社会的な正義なのか、という観点は、政治や法律の領分です。
個々人という視点から社会を見るなら、それらはあくまでも「社会的に生活する上で必要な要素」ではあっても、「内面的に従わなければならない要素」ではありません。
人はしばしば自らと相反する言動を「自分が否定されている」と認識します。
ですが実際にはどの理屈や言葉を用いても互いに想定している相手や構造は異なりますし、理屈の上で勝とうが負けようがそれは政治的な綱引きの結果でしかありません。
私たちはネットを観測すれば避けがたく束縛されますが、それは必ずしも向き合うべきものではなく、その力に実効性はないと仮定しなければ生活できませんし、実生活においては無意識にそうしています。
身体的なストレス反応は現実として存在し、なんとかそれを発散しようとするのが人間だからです。
ネットに限らず、私たちは日常的にそうした反応を発信しています。
職場でつらいことがあれば美味しいものを食べたり、好きな趣味に浸って補おうとしているはずです。
それ自体は人としてなんら恥ずべきものではありませんし、他人のそうした現場を見たからといってネガティヴに捉える必要はありません。
つらかったんだな、苦しいんだな、と把握していればよいのです。
ネット上の論争に熱中する人は「もっと社会を良くしよう」「よりよい理屈を生み出そう」という熱意に燃えていますが、それは家族でも親友でもない赤の他人を介護するようなものです。
他人の生活を良くすることは自分の役割ではないことをまず自覚し、自分の快不快と真摯に向き合って精神的な安定を優先しましょう。
Web会議での疲労感は“音質の悪さ”が原因。NTTデータ経営研究所とShureが検証
株式会社NTTデータ経営研究所およびシュア・ジャパン株式会社(Shure)は13日、両社が共同で実施した、Web会議における音質の違いが身体へもたらす影響を検証する実証実験の結果を公開した。
新型コロナウイルス感染症の拡大にともない、日常的なWeb会議の実施など働き方が大きく変化している。その中で、対面会議より疲れる、オンラインだと内容が理解しにくいといった声も多く見受けられている。両社ではこれらの要因の解明に向け、「オンライン会議の音質が生体ストレス反応に与える違い」を検証する実証実験を行なった。
その結果、主な影響として、音質が悪い会議では、内容が理解されないだけでなく、参加者にストレスを与えることが確認できたという。加えて、ストレスの原因として特に認知機能に対する負荷が高まる傾向があり、負荷が継続することで認知機能が低下し、理解力など会議に必要な能力が鈍くなると考えられること、さらに、内容が理解できないことによるストレスが会議後半にかけて蓄積されることも分かったとしている。
これに対し、実験を指揮したNTTデータ経営研究所の磯村昇太氏は、Web会議の音質がもたらす、無視できないレベルのストレスの存在が証明されたとしたうえで、生産性がよりよい労働環境の用意に向けては、Web会議の音質にも注目すべきだろうと述べた。
また、Shureの大友裕己氏は、今回の実験によってWeb会議後の疲労感の正体を突き止められたとし、今後も増加が予測されるハイブリッド会議に向けて、空間規模や会議の目的にあわせた音響システムの選定/利用は、参加者のストレス低減だけでなく生産性向上にも貢献できると述べている。
これは間違いなくありそう
トランスジェンダーの人たちの権利擁護には賛同だけれど、医師による鑑別も手術もなく、自分がそう役所で名乗りさえすれば
性自認は「女性」であると認められて女性のプライベートなスペースに公式に女性として立ち入ることができるという考えに
どうしても本心からは賛同できないでいる。表立って語ることはないが。それでも差別主義者になりたくはないので
ネット上では #トランス女性は女性です と主張して、風呂もトイレも同じ女性として平等に使えるべきという意見に賛同している。
あるトランス女性に、女性専用車両もレディースデーも差別だから許せないと言われて
それでどうなったかというと映画館のレディースデーは比較的女性が多いからこれまでは安心して利用できる機会だったけれど
違う割引を利用しても同じ安心感は得られないので、そもそも映画館に行かなくなった。電車は乗らざるを得ないが。
動物実験の実験結果は、研究者の「性別」で大きく変わることがよく知られている。
実験用のマウスは男性研究者の存在や、その匂いを感じるとストレス反応を引き起こすらしい。
人間間でもそういうことはあるのではないだろうか?あくまで理念として #トランス女性は女性です ということばに
まず、にほんしねをやってくれと言ったのは別の人
そして、「にほんしねをやってくれ」というのは一言一句その通り書いてくれという意味ではなく、前回保育園落ちたを書いた人みたいに本音を言ってくれという願望である(とこちらには読める)
で
謝ることでお前さんのストレス反応が減るだろうので
或いは減ると言う文言がお嫌いであれば謝って丸まって居ろと言うぐらいの価値観の
アップグレードを与えてやる
で
お笑い番組の真似だなと思えればそれで市民権なんて言う感覚を与えてしまう悟性についての反省も無しに絡みはじめたお前さんが謝る番なのは明らかにしておく
腹の大きくなってきた妻にすれ違いざまに接触し詫びることもない人たちに怒れない。妻が妊婦であることを知りながら、デザートにラム酒を忍ばせた飲食店に怒れない。職権を拡大解釈して後輩をいびる老人に怒れない。行列に割り込んでくる中高年男性に怒れない。マスクもせずにすれ違いざまに痰を吐いてくる男性に怒れない。
俺は穏やかで柔和な人だと評価され、自身もそのように在りたいと願い、日々を慎ましく生きている。しかし、どれだけ争いごとを遠ざけていても回避できないものもある。
そのような時に怒髪天をつき、言い分を声高に主張することができたら、どれだけ心地の良いことだろうと思う。パブリックな場所で怒鳴る人を観察すると、どうも理由などよりも感情が先立っているように感じる。「○○が☓☓なので腹が立つ」というのではなく先ず「は?ムカつく」からのクラウチングスタートというか。粗野だと感じる一方で、彼らの直情的な行動を羨ましく思うところもある。
まず、声帯を温めずともあの音量の怒声が出る、というのもかなり羨ましい。また得てして公共の場で怒声を上げる人は流暢で、私が日々愛用している「あー」だの「うー」だとかのフィラーが入る余地がない。怒り方がさまになっている。
俺は反射的に怒りを発露させることはないし、たとえ怒りを覚えたにしても即座にリミッターをかけてしまう。そういう思考の癖がある。自らが直接的に被害をこうむった事でさえ、反射的には怒ることができない。ただ、後々事実を洗い出しては「ああ、あれは大分辛かった」と胃を痛めて反芻するばかりである。身体的なストレス反応を伴って、ようやく自分が憤っていることに気づくが時既にお寿司、怒りを伝えるべきストレッサーはもう目の前にいない。「ああ、また言えなかった」と虚無感だけがつのり、風呂場に独り言を蓄積させるばかり。
俺が現在進行形で心底恐れているのは、いざという時に妻、ひいてや子のために怒れないこと、脅威に立ち向かえないことである。また、俺のこの怒れない性分を子供が学習し継承してしまうことも恐れている。優しい子に育ってほしいと思うが外圧に対する選択肢が、いのちをだいじに一択の俺のような者にはなって欲しくない。多少の野蛮さは積極性と裏表だとも思うし、たまたまにはガンガンいこうぜと柔軟にやって欲しい。とりあえず、嫌なものを即座に嫌だとちゃんと言える強さを身に着けてほしい。
はあー、ほんまどうしよ。怒る練習しないといけないよな。とりあえず冒頭に列記した件は、ここ2週間の出来事です。増田で呪っても1mm足りともこの怒りは届かないんだろうけど、お前らほんとクソだかんなー。まじでつい増田書いちゃうくらいムカついたんだからなもう。ぶつかり男たちは謝れマジで。
休みの日はただひたすら一日中眠り続けているという日々が続いている。
自分がひたすら眠り続ける時って昔からストレスがひどい時だからたぶん今もそうなんだろうな。
毎日仕事しかしてないからストレス源はたぶん仕事なんだろうな。
とは思うんだけど、仕事がストレス源というのが受け入れられない。
新卒なんだけど、今の仕事はずっと憧れてた職業だし、周りの人はみんな良い人だし、すでにそれなりのポジションを任せてもらってて責任はあるけどやりがいがある。そもそも働くことが楽しいし仕事に行きたくないと思ったことがないんだよね。
でも身体が勝手にストレス反応をおこしてる。休日ひたすら起きれないし胃は痛いしすぐ消化不良なるし。すごく鬱陶しい。邪魔されてる気分。
ストレスだよって友達に言われる。身体が反応してるんだよって。
いや言いたいことわかるけど、別に仕事が嫌なんじゃないんだよな。仕事は楽しいんだよ。もっとやりたいくらいなのに。夢でも仕事してるくらいなのにな。
まぁでも休みの日にやろうかなと思ってたことが眠り続けたせいでできないと時々へこむよね。ダメ人間だな〜ってなる。そろそろ部屋を掃除したい片付けたい。買い物に行きたい。
1週間くらい前の出来事です。
しばらくは、振り返るのもシンドかったのですが、ようやく気持ちも整理出来てきたので書きます。
院内ではBLSやACLSの講義をしていたりする機会もいただいていました。
さて、その日は勉強会の帰り道でした。
帰りの電車、あと少しで最寄駅というところで、すぐ近くで「倒れた!緊急停車!」と大声が。
どうしたのかと思って、近づくと、明らかにヤバい色の顔色不良で明らかに異常な呼吸。引き攣るような、死戦期呼吸みたいだ。
数名が必死で座らせようとしていましたが、両肩を叩き、意識レベルを確認すると刺激にはほとんど反応なし。
私は「こういう時には、とにかく胸骨圧迫!」と習っていましたし、教えてもいました。
ある日の院内研修の際には新卒の子からの質問で「心停止でない方に間違って胸骨圧迫をしてしまっても大丈夫でしょうか?」というお話がありましたがその時の私は"誤って胸骨圧迫をしてしまっても、血液の流れに支障はありません。緊急の場面で、心停止を正確に判断することは困難です。心停止かどうか判断に迷ったら、躊躇せずに胸骨圧迫を開始して下さい。"と説明していました。
参考URL http://www.j-circ.or.jp/cpr/qa.html
ところが、私が寝かせて、「異常な呼吸ですし、橈骨も触れませんから胸骨圧迫を始めます」と胸骨圧迫を始めようとすると、中年男性数名に大声で「いやいや!息してるから!こういう時は心マなんてしなくていいよおー!」と怒鳴られるように言われ、半ば羽交い締めにされるように止められてしまったのです。
すると、もう、私は、その場の空気に飲まれ、なにもできなくなってしまいました。
いや、ただ、私がハッキリと言えばよかったんです。
「これは必要なことなんです。この呼吸、顔色は、きっと普通じゃありません。胸骨圧迫はもしかすると必要ないかもしれませんが、メリットがデメリットを上回ると感じています。」と。
でも、私は止められたことがとてもショックで、身動きがとれなくなってしまったんです。
それで、何もできなくなってしまったんです。
その場の空気では、まるでとんでもない悪いことをしていたのは私の方みたいでした。
私は目の前で止まる寸前の呼吸をみながら、遠巻きにみているだけでした。
よき援助者であろうと日々を過ごしてきた何十年かが崩れ落ちたような気分でした。
それに、止めた男性の方々はニヤニヤしながら、馬鹿にするような目で(もちろん、被害的な感情が溢れていたので認知が歪んでいた可能性も高いです)私をみているような気がしました。
その時の私は複雑な気持ちが溢れ出して、足がガタガタと震えていました。
「ああ、もう私は病院以外の場所では、もうBLSなんて怖くてできない!」としか思えなくなっていました。
怖い。苦しい。恥ずかしい。
情けない。助けてほしい。誰か。
そんな気持ちが溢れ出していました。
病院ならハリーコールをかけて、先生が来るまで出来ることをやればいい。
でも、ここでは私は何もできない。
「エラそうに院内講師とかしてたけど救急のトレーニングなんか意味がないのだ…」とその時は思ってしまいました。
誤解されそうですが、私は止めに入った方々を非難しようとしているわけではありません。
それよりも、何よりも、私は、私自身に強い嫌悪感を感じたのです。
…そんな私の支えになったのは、同業者のパートナーや友人、オンラインでのお知り合いからの声かけでした。
この場を借りてお礼を申し上げます。
本当にいつもありがとうございます。
(ちなみに急変された方はなんとか微弱な呼吸を維持しながら、抱えられるようにして電車を降ろされるところまでは確認しました。)
(胸骨圧迫がその方に本当に必要だったかどうかはその時点ではわかりません。)
(繰り返しになりますが、私は止めに入った善意の方々を非難する意図はありません。)
さて、救急現場に救急車が到着するまでの間に偶然現場に居合わせた者をご存知の通りバイスタンダーと言います。
"バイスタンダーが一次救命処置を実施した際のストレスに関する検討"という調査では、その結果として「多くのバイスタンダーがさまざまなストレス反応を経験していた。また,その体験を他者に話して,自分の気持ちを理解してもらいたいと考える者が多かった」と述べられ、また結論としては「BLS 教育において,BLS 実施によるストレスとその対処法に関する教育を考慮する必要がある。さらに対策の一環として,相談を受けるシステムを整備することが有用であり,急務であると考えられる」ということが考察されています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsem/16/5/16_656/_pdf
その他にも、"航空機内での心肺蘇生の実施により心的外傷を負った1例" 総合病院国保旭中央病院神経精神科 大塚祐司(宇宙航空環境医学 Vol. 44, No. 3, 71-82, 2007) http://plaza.umin.ac.jp/~GHDNet/08/cprtrauma.htm
では、読むだけ胸が苦しくなるようなCPRの描写がされています。
私の体験は、航空機の事例に比べれば、些細なことだと思います。
今の私は、みんなに優しい言葉をかけてもらい、聞いてもらい、気持ちもあの時に比べれば落ち着いてきました。
今は、"自分がまたいつか急変の現場に立ち会って「BLSが必要!」と思ったら、どこででも出来ることをやらなくてはならない。それは「自分が傷ついたような気持ちになったから放棄していいもの」ではない。むしろ、誰でもやるべきことだ"と思えています。
でも、その時は本当に怖かったのです。
あるいは、それは集団における正常性バイアスなのかもしれません。
こんなに情けなかった私の話を。
それはきっと、誰かの役に立つと思います。
自分ができることは何か。
そして、次に院内外で急変に遭遇した際には、私はもっとしっかりと立ち回りたい。
私とその場の方のためにも。
この文章は、そうした決意のために書きました。