ネット上の論争では理屈を弄ることを優先してしまいがちですが、理屈はあくまで理屈であって、人間はその言葉をありのまま放ったり受け取ったりする事は不可能です。
意識や感情というものは言語だけでなく個々人の経験や記憶からも想起されるものであって、一つの理屈や言葉を読解して思い浮かべる情景は人それぞれ違い、その時点で快と不快に別れてしまいます。
そしてその快や不快というものはロジックではなく、身体的な反応なのです。
それらを内面でどう処理するにせよ、この反応から逃れられる人はいません。
快を覚えた人はそれをより深めるために、不快を覚えた人はそれをなんとか回避しようと動きます。
私たちはそうした構造を通してしか現実を観測できません。その上で対話が成り立つ場というのは稀です。
どちらが論理的に正しいか、どちらが社会的な正義なのか、という観点は、政治や法律の領分です。
個々人という視点から社会を見るなら、それらはあくまでも「社会的に生活する上で必要な要素」ではあっても、「内面的に従わなければならない要素」ではありません。
人はしばしば自らと相反する言動を「自分が否定されている」と認識します。
ですが実際にはどの理屈や言葉を用いても互いに想定している相手や構造は異なりますし、理屈の上で勝とうが負けようがそれは政治的な綱引きの結果でしかありません。
私たちはネットを観測すれば避けがたく束縛されますが、それは必ずしも向き合うべきものではなく、その力に実効性はないと仮定しなければ生活できませんし、実生活においては無意識にそうしています。
身体的なストレス反応は現実として存在し、なんとかそれを発散しようとするのが人間だからです。
ネットに限らず、私たちは日常的にそうした反応を発信しています。
職場でつらいことがあれば美味しいものを食べたり、好きな趣味に浸って補おうとしているはずです。
それ自体は人としてなんら恥ずべきものではありませんし、他人のそうした現場を見たからといってネガティヴに捉える必要はありません。
つらかったんだな、苦しいんだな、と把握していればよいのです。
ネット上の論争に熱中する人は「もっと社会を良くしよう」「よりよい理屈を生み出そう」という熱意に燃えていますが、それは家族でも親友でもない赤の他人を介護するようなものです。
他人の生活を良くすることは自分の役割ではないことをまず自覚し、自分の快不快と真摯に向き合って精神的な安定を優先しましょう。
訴訟されそうだからって芋引いてて草