はてなキーワード: 迷路とは
メインだけクリアしたかったのに、RPGのせいでレベル補正が強すぎてサブをいくつかやらざるを得なくなったせいで無駄に時間食った
本家ボダランに比べてワイバーンやらゴブリンやら歩ききのこやら異形の敵が多いのはよかったんだけど、
人間と違ってすげー素早かったり小さかったりするからウザさしかなかった
あいてがねらってる線と自分の立ち位置をずらしてもそれ補正して正確にあててくるからまーじうざい
キャラはティナ好きだからまあいいけど、ストーリーはつまんなかったなー
あるあるプラス最後にティナをからめて親子のあったか会話みたいなのを少しだけ入れたってくらいで
あと本家ボダランと違ってエリア間をつなぐワールドマップがあるんだけどこれもまー操作性が悪い悪い
落ちてるものもまともに拾えないし(巻物のこと。まじで拾えねえ)
ジャンプもできないし
移動もクソ遅いし
ドロップいいものにするには特殊なアイテム集めないといけないってのもクソ
260個ってなんだよバカか
そういうのなくてもぽろっといいもの落ちることがあるのがボダランのいいとこだったのに
実質強制させんなや
地球防衛軍ほどじゃないけど
持ち運びできる数制限も相変わらずきつすぎ
あと拠点でのアイテム売買がすぐできるのはいいとして、倉庫と弾数拡張の場所がすげー離れてて移動めんどいのはマジでゴミだわ
クリア後はひたすらいいもの掘るだけって感じで裏ボスもいないっぽいし
いや先に進めたり強い敵たおすために強い武器を集めるんであって、
→唄を忘れた金絲雀は 赤い緒紐でくるくると縛められて砂の上 かはいさうにと妹が涙ぐみつゝ解いてやる、
→唄を忘れた金絲雀は 象牙の船に、銀の櫂、月の海に浮かべれば、忘れた唄をおもひだす
発表順は正史の方が先
家庭がゴタゴタして詞なんて書いてる場合じゃないよなという時期の心境を書いている
→今夜きみをつれていくよ 真夜中にむかえに行く
ぼくの好きな真珠色の 肌が光る 月明り
命をつないだ糸が しずかにほどけていく
→森へおいで 森へおいで ぼくはきみを泣かせない
森へおいで 森へおいで きみを不安にさせない
ぼくと遊ぼう 約束どおり 森へおいで ぼくの
→ここでは誰もが口癖のように こうつぶやいている いつか河を越えて
→ここでは誰もが口癖のように こうつぶやいている any day any way
被差別部落は「河向こう」と呼ばれ、これはその意を汲んで被差別層から抜け出すことを願う歌であり改変を要求されタイトルも変更
曲目
Google翻訳のアプリを利用して画像から文字を取得したため、曲名、歌手名が正しく表記されていない場合があります。
蒼い星くず 加山 雄三
青葉城恋唄 さとう 宗幸
アケミという名で十八で 千 昌夫
あざみの歌 伊藤 久男
あじさいの雨 渡 哲也
あの鐘を鳴らすのはあなた 286 和田 アキ子
雨 1256 三善 英史
雨の御堂筋 欧陽 菲菲
逢わずに愛して 内山田洋とクール・ファイブ 13
22 小柳ルミ子 漁火恋唄
射手座の女 敏いとうとハッピー&ブルー 232 愛しき日々 堀内孝雄 40
命の花 大月みやこ 383
祝い酒 坂本冬美 26
455 門脇 陸男 祝い船
ザ・ピーナッツ ウナ・セラ・ディ東京 355
松原のぶえ 461 男なら
おもいで酒 小林幸子 195
想い出の渚 ザ・ワイルド・ワンズ 199
お嫁においで 加山雄三
松原のぶえ 305 おんなの出船
悲しい色やね 34 上田正樹
がまん坂 18 北島三郎
北の漁場 41 北島三郎
京都の恋 196 渚 ゆう子
くちなしの花 462 渡哲也
圭子の夢は夜ひらく
369 藤圭子 恋あざみ
高山厳 152 心凍らせて
343 森山良子 この広い野原いっぱい
伊東ゆかり 197 小指の思い出
酒よ 36 ジジサン
さざんかの宿 大川栄策 88
サチコ ニック・ニューサー 481
里がえり 嶋三喜夫 1278
435 河島英五
田端義夫 483 十九の春
大橋 純子 155 シルエット・ロマンス
ジジサン 90 酔った歌
杉良太郎 47 すきま風
60 谷村新司 1 森田公一とトップギャラン 若者 小林幸子 1280 雪泣夜(せつないよ) 小柳ルミ子 48 瀬戸の花嫁 森進一 1281 セビアの雨 ジローズ 7 「戦争を知らない子供たち 平和勝次とダークホース 360 宗右衛門町ブルース 北海道民謡 1561年 ソーラン節 内山田洋とクール・ファイブ 2 そして、神戸 49 五木ひろし そして・・・めぐり逢い 布施明 50 そっとおやすみ にしきのあきら 187 空に太陽がある限り 増位山太志郎 283 そんな女のひとりごと 増位山太志郎 157 「そんな夕子にほれました 上田正樹 301 たかこ 真木 柚布子 1282 黄昏のルンバ
トワ・エ・モア 480 誰もいない海
三船和子 198 だんな様
五木ひろし 442 契り
敵は幾万 1570年 軍歌
時の流れに身をまかせ テレサ・テン 63
和田アキ子 160 どしゃぶりの雨のなかで
内山田洋とクール・ファイブ 191 長崎は今日も雨だった
ザ・タイガース 164 花の首飾り
165 はしだのりひことクライマックス 花嫁
167 佳山 明生 氷の雨
釜山港へ帰れ 67 渥美次郎
ブルー・シャトウ 169 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
箱崎晋一郎 抱擁 142
北海道民謡 北帰行 365
骨まで愛して 大泉逸郎 96 孫
75 北島三郎 まつり
坂本九 83 見上げてごらん夜の星を
伍代夏子 441 水なし川
渡哲也 51 みちづれ
シャオ・リンシュウ 419 昔の名前で出ています
香西かおり 260 静けさ
藤あや子 377 むらさき雨情
やっぱすきやねん やしきたかじん 84
山 北島三郎 378
雪の進軍 1575 軍歌
夢追い酒 76 渥美次郎
夢の夜 181 南こうせつ
「結局のところ誰も責任など取れないのだ」というのはふと俺の口をついて出た言葉なのだが、それなりの真理だと思う。後輩アナウンサーの自死について後悔の念を滔々とテレビで垂れ流す、というような記事を見たが(いつの話だかは知らん)、自らの浄化の道具として使いつつ「失った人を忘れない」なんて言うのは人間らしく優しく弱く醜いなと思う。かく言う俺も、他人は他人である、という突き放しができるほど強くはなく、実際には交わったり重なったりしない人生であることは認識した上で、関わりたいと常に感じているのだ。つまり我欲である。欲というとどうしても醜く響くが、やりたいからやる、という開き直りでいいんじゃないかというのが最近の境地である。何がしたいって、頭を使いたい。俺に知性というものがあるのであれば、知見と知恵と経験と想像力をすべて動員して、彼女の役に立ちたいと思う。頭を使うというのは実はかなり快楽を伴う作業で、小一で自由帳に迷路を描き、低学年から『頭の体操』を読み耽り、ルパンよりホームズに憧れた俺は、頭脳的解決というやつがしたくて仕方ないのかもしれない。これも子供っぽい欲だが、役に立つならなんでもいい
思い出す光景がふたつある
お昼休みにマジックショーをやろうと思い立ち、図書館で借りたマジックの本を見ながら技を覚え、友達にも教え、立ち位置や発表順までを監督し、自作のポスターで宣伝をしてクラスのみんなに見てもらっていた頃のこと。漫画を書いて友達に見せたり、画期的な迷路を作って周りの席の子に回したり、独特の通貨を作ってそれがクラスでちょこっと流行ったりしていた頃のこと。手を挙げて合唱の指揮者をしたり、習ってもないのに嘘をついてピアノの伴奏の役をもらい、泣きそうになりながら練習をしてなんとかなったりした頃のこと。
当時強く気にしていた自分の容姿の一部についてを揶揄する言葉をデカデカと黒板に書かれたり、何も事情を知らない教育実習中の若い男の先生を巻き込んで授業中に見た目についての悪口を全員に晒されてクスクス笑われたり、LINEグループやamebloで写真を回されたり、無視や仲間外れは普通にあり、とまあいわゆるイジメをちゃんと受けていた頃のこと。じんわりと時間をかけながら、「目立つことややりたいことを主張するのは避けたほうがいいな」「人の目や評価を気にして上手に生きた方がいいな」と思うようになっていった頃のこと。「しゃしゃんなブス」とよく言われていた。「しゃしゃってはダメだな〜」とよく思うようになっていた。小学生からの明るい自分が尾を引いて、親とか周囲に泣きつくキャラじゃなかったので(自分はそういうキャラじゃないと押し付けていたのは自分なのだけど)、自分の気持ちに合う曲を歌詞で探してはそれを何度も聴きながら自分の部屋でよく泣いていた。そのような悦に浸っていたとも言えるのでちゃんと中学2年生でもあったよ(ケツメイシとかサンボマスターとかSuperflyとかにお世話になっていた、その節はありがとうございました)
本題に入ると、ここ数年の私は後半からの人生が、つまりいじめ期後の人生が、今の自分を作っているように思っていた。人に気を遣ったり、組織や団体など周囲への奉仕行動をとることが多いのはなぜか?というようなことを就活の自己分析で考えた時に思ったんだよ、
"過去のいじめの辛い経験が、人の目を気にする、つまり人への想像力や立ち振る舞いを作り上げて、結果として良い経験になったんだ"とガチで思っていた。
結構マジで思っていてそれを誇らしいとすら思っていたのだけど、それが最近ガタンと音を立てて完全に違う考えに姿形を変えた!
いじめの経験は、本当に要らなかったと思う。だって言いたいこと、というかそんな考え方を持っているやつが言いそうなことって全部こうだ。
「いじめは捉え方によっては良い経験にもなり得るので、今いじめられている人もいつかそれが経験に変わる日まで頑張ってください」だ。
馬鹿げている。イマジナリーマイベビーを想像して、その子が同じ経験をした時に私は同じことを言うのだろうか?「考え方を変えてごらん」とか言うのか?そう我が子に説く時の私はどんな顔をしているんだろうか?
あの経験がなかったパラレルワールドの人生の自分を想像してみる、想いを馳せてみる。
今の自分も一応好きなところはあるのだけど、そっちの自分はもうちょっと豪快で自信があり、面白いやつだったんじゃないかと期待なんかしてしまう。何か大胆なことをしたいと思う瞬間に必ず聞こえる「しゃしゃるとまた嫌われるよ」という声が、聞こえない人生だったんじゃないかって思うんだよ。
それはそれで困ったこともあっただろうな。うまくいかないことだって今以上にたくさんあるかもしれない。こんなふうにありもしない世界の自分に得体の知れない期待をしているが、それがアホらしいのもよく分かりながら書いている。
でもひとつ言えるのは、どっちの世界がどうだったなんてマジでわからない以上、そんなたらればの話だけであんなクソクソクソ気持ち悪いイジメの経験は意味のある経験だったんだなんて、あっても良かったなんて絶対に絶対に思わなくていいってことだ。
もっと傷ついて良かった、不登校にだってなってやっても良かった。大騒ぎにしてやってもよかったんだ。
別にこれで今から性格が変わるわけでもない。そして変えたいわけでもなく、いま自分が自分なのはそれはそれでいいんだけど。
ただ、なんか訳もわからず立派な綺麗な箱にしまっちゃった思い出の蓋を開けて、「あれは本っ当にクソだったよなぁ?」と過去の自分にひとことだけ言ってやれるようになった。いつか我が子や周囲に悪意ない言葉でトドメを刺すかも知れなかった自分を想像して少し胸を撫で下ろす。それだけ!
俺が体験したのは「とにかくその時たまたま正解ルートに進めた所を伸ばしていくしかない迷路式のスタンプラリー」だ。
ジャンプアクションの突破において手段が間違っているのか、道が間違っているのか、自分が下手なだけなのか分からない場面が多々ある。
行く必要のない幽霊物質の先を必死に進んでから何もないはずがないと残り時間必死に探索して、結局そこは別の入口から入るしか無い場所を遠くから眺めるだけのマジックミラーの外側だったと気づいたことさえある。
バラバラのピースが最後に一気に繋がる快感と言ってしまえば聞こえはいいが、本当にバラバラにピースを拾わされるので、次のピースがどこに落ちているのかさえ分からなくなる。
正解のはずの道の前で引き換えしたせいで次へ進む鍵が揃わなくなったことも何度もあるし、何もないただの雰囲気要素に光を見出したことも何度もある。
もしクリア前にDLCを購入していたら、きっと自分はそれぞれを中途半端に進んだ果てに全くなにをどうしたらいいのか分からなくなっていただろう。OuterWildsは攻略順を自由に選べるゲームなんかじゃない。
断じて違う。
攻略できる所から必死に手探りで答えを探し、どうしても道が分からなくなってからダメ元で世界を0からめぐり直すのを何度も繰り返すゲームだ。
ヒントと答の順番が逆転してしまったせいで探索が逆走を始めることさえ何度もあった。
このゲームでキレイにピースが順番通りにはまったと感じたのなんて、あの星をカメラに収めたその瞬間ぐらいだ。
それ以外はバラバラの導線を後になってから手作業で繋ぎ直して「こういう風に辿らせたかったのかな?俺は無理だったけど」と想像してやることぐらいしかできなかったよ。
綾辻行人の最高傑作『十角館の殺人』ついに実写化 内片輝監督×八津弘幸脚本で3月配信 | マイナビニュース
https://news.mynavi.jp/article/20231221-2845699/
いや、ドラマは楽しみにしているよ。
脚本が『おちょやん』の八津弘幸さんなら、よほど変な演出をしなければ、間違いなく面白くなるはず。
それはいいのだけれど、『十角館の殺人』って、なぜか小説そのものも変に神格化されていて、「最高傑作」とか主張する人がいるのって、ちょっと違うんじゃね?って、ずっともやもやしている。
推理小説としての「館」シリーズのできを評価すると、『時計館』が、推理小説という枠を超え、小説としても飛び抜けた傑作で、『水車館』『迷路館』が続き、それと同じかちょっと落ちるぐらいのところに『十角館』があって、『黒猫館』『人形館』、後はお好きにって感じだと思うんだよね。
時計館>>水車館・迷路館≧十角館>黒猫館・人形館>>>暗黒館・びっくり館・奇面館
『十角館』は新本格ムーブメントというものをつくり出した(のだよね?)という歴史的意義は認めるし、その観点から神格化するのは全く問題ないのだけれど、
その観点に引きずられて、『十角館』という小説そのものも神格化している人は、おっさんおばさん(というか、おじいさんおばあさん)の戯れ言というか、老害そのものだよなって思っちゃうね。新本格ムーブメントの台頭というものにリアルタイムで触れておらず、自分が(推理)小説を読むようになったときには、「新本格」という枠がすでにできていた世代からするとさ。申し訳ないけれど。
@KingRiku
過去 2 つのゲームを見れば、オープンワールドでは物語が非常に困難であることは明らかです。 不可解なダンジョンに重点を置いた、ストーリー性の高い直線的なゼルダ ゲームが懐かしいです。@nz605
オープンワールドは問題ではありません。 作家はそれに適応し、全体的なバランスを保つのに苦労しています。@PyroPuff777
人々はすぐにオープンワールドを非難しますが、おそらく開発者が関心を持っているのは物語ではないのではないかと考えたことはありますか? 青沼がゼルダのゲームにおいてストーリーは二の次であることをはっきりと述べたように。 また、この不可解なダンジョンのこと自体が愚かです。 誰もあなたに簡単な方法でダンジョンを完了することを強制していません。 自分にとってそれを難しくしたい場合は、先に進んでください。 常に不必要に複雑なダンジョンだけのゲームは良くありません。 人生のどんな状況でも、人は常に最も抵抗の少ない道を選びたいと思うでしょう。 それだけの挑戦が必要な場合は、パズルのみをベースにしたゲームをプレイしてください。少なくとも探しているものはすべてそこで手に入るからです。 人々はノスタルジーのためにこれらのゲームをひどく誤解しています。 完璧だとは言えませんが、多くの批判は単なるノスタルジーに基づいています。@マルチハードコア
@PyroPuffs777 ゲームをより楽しくするためにプレイヤーが自分自身に制限を課すことは決してあってはならない@heroinhero
@PyroPuffs777 あなたが言ったことの内容は無関係です、なぜなら私がそれから得たのは 1 つの大きなレイトン教授の広告だけだったからです。 私はそれを認めます。@hododod246
ゼルダのゲームには強力な物語がありませんでした。 あなたはこれらのゲームを優しい/ティーンエイジャーの頃にプレイしたので、物語が強力だったと思います。 いつも浅かったです。@PyroPuff777
@MultiHardcore 同様に、ゲーム全体が楽しみたいように楽しめるのであれば、ゲームは難しいものであってはならず、誰かの欲求を満たすためだけに特別な方法で作られたものであってはなりません。 過度に複雑な体験をしたい場合は、それができる方法でプレイするか、単に難しいパズルに焦点を当てたゲームをプレイしてください。 そんなに難しくないよ。 この種の不満などは非常に些細なもので簡単に解決できますが、人々はただ文句を言いたがります。 本当にゲームを批判したり批評したりしたい場合は、ストーリーテリングの手段という点で自由に使えるものはすべてあるにもかかわらず、ストーリーやプロットがいかに浅薄で未開発であるかについて話してください。 または、特定のバグや全体的な技術的問題が修正されなかったという事実を批判します。 簡単に解決または回避できる問題について文句を言わないでください。@alibabaschultz352
@hododod246 そうですね。 Botw はおそらくゼルダ ゲームの中で最高のストーリーを持っていると思いました。 それは多くを言うわけではありませんが、それはまともでした。 人々はペースが気に入らなかったのですが、それは公平なことです。@MrWanton16
@alibabaschultz352 それはMMかWWだと私はまだ主張しますが、Botwは面白かったです。 TOTKがbotwと同じようにストーリーを語ろうとしているように感じるが、物事の構造が最初に間違ったフラッシュバックを取得するため、彼らが試みているすべての蓄積が本当に台無しになるため、本当に傷つけられたと思う@Braxmegaman
@hododod246 「強い」と「深い」は同じではありません。 古いタイトルが十分に示しているように、アートを楽しむために複雑である必要はありません。 必要なのは、誠実であり、程度は低いものの、適切に実行されていることだけです。@Little1Cave
@PyroPuffs777 初めてクリアしたゼルダ ゲームが時のオカリナ 3DS だった人としては(数年前にブレス オブ ザ ワイルドをプレイし始めてから)、いいえ、プレイヤーの好みは単にノスタルジーに根ざしているわけではありません。 そして、それをそのプレイスタイルを望む唯一の理由として押し出す人は、さまざまなプレイヤーの好みに無知であるか、意図的にそれについて不誠実であるかのどちらかです。
@pebphiz
@hododod246 ただし、シンプルであることが必ずしも悪いわけではありません。 ゲームキューブのゼルダには、それらのゲームにぴったりのちょうどいい深さを持つ素晴らしいストーリーがありました。 Tears of the Kingdom は、より複雑にしようと試みていますが (そして失敗しています)、ゲームのオープンな性質があらゆる点でその種のプロットに反して機能します。
「魔王?秘石??」はともかく。 誰もが道化師になって地獄に行ったり来たりしたシーン、5人目の賢者がいるに違いないと誰もが「気づく」シーンはこれまでで最も愚かだった、なぜなら彼女はすでにゲームの半分で私と一緒にいたからです。 他の登場人物はリンクが乗り回している巨大ロボットに気付かなかったのだろうか? このゲームは単にそれ自体のオープンエンドの性質を考慮していないため、適応するか、古いスタイルに戻る必要があります。@AlterBridgeJericho
物語はゼルダの長所ではありませんでした。 良いのは『ムジュラの仮面』と『トワイライトプリンセス』の2本だけだと思います。@マルチハードコア
@PyroPuffs777 私には、ゲームの効果がないと思われる部分について文句を言う権利があると思います。 これらのパズルはプレイスルーごとに 1 回しか解決できないため、満足のいく解決策が得られない場合は、そのパズルとの関わりが永久に損なわれてしまいます。@ドルゲシュ
これはまさに真実です。 実は私は『BOTW』のストーリーが大嫌いで、ゼルダのゲームはどれもストーリーテリングが下手だとばかり思っていましたが、『スカイウォード ソード』を最後までプレイしてみたら、そのゲームのストーリーとキャラクターがとても心に残りました。@vivid8979
@MultiHardcore Fun は主観的なものです。OoT の水の神殿を愛する人もいれば、それを嫌う人も、それについてミームする人もいます。重要なのは、チーズ化は開発者によって与えられたオプションです...何かをチーズ化することを選択した場合は、そうすべきではありません 簡単だと文句を言う...
それは、ダークソウルには魔法や召喚獣が必要ない、OP が多すぎるからやめるべきだと文句を言っているようなもので、ゲームを簡単にするものであり、さまざまなゲームプレイの機会を提供するオプションとして存在します。
@grantroodbeen1316
@hododod246 彼らは決して強くも深みもありませんが、誠実であり、少なくともある程度の多様性を持たせようとしています(OOTのアダルトストーリーは耐えられません)一方、新しいタイトルでは、ほぼ完全にプレイヤーがいないときにプロットが発生し、 たとえ浅い話であっても投資が大幅に削減されます。@a_o_o_o_o_
物語? ゼルダ ゲームに物語が登場したのはいつですか? ストーリーが進んでいくと、それらはかなり標準的です。
@tanzolo4487
物語性の高いゼルダ ゲーム? 🥲強い物語性のあるゼルダをプレイしましたか
@dericandkhristy
@vivid8979 2 つのチーズの前にマウスを置くと、1 つは迷路の後ろに、もう 1 つはそこにただ座っているだけですが、マウスは常に簡単なチーズを取ろうとします。
正直に言いましょう。 😂
それは、簡単なチーズが長期的には充実しているという意味ではありません。@dirmuidtherat
@PyroPuffs777 「ダンジョンを簡単にクリアすることを誰も強制していません。」 これは意味のない発言です。 ダンジョンは何をやっても簡単です。 簡単にできるように設計されています。 自ら課した難易度 (ハートの数が少ない、武器が弱いなど) は、実際にはダンジョンを難しくするものではありません。@zenvultra4457
@PyroPuffs777 すべてのゲームをイージー モードでプレイしていると思いますか?@hododod246
@Pebphiz私はそれらが単純だと言っているわけではありません。 私は彼らがただ悪かったと言っているだけです。 先ほども言いましたが、あなたは子供の頃、または十代の頃にこのゲームをプレイし、良い物語だと思いました。 他のスタジオと比べて、ゼルダのストーリーやナレーションは単なる素人でした。 ゲームキューブ時代には、MGS2、MGS3、GTA San Andreas などのゲームが登場しました。 ゼルダの物語はこれらのゲームに比べればほんの小さなものです。 そしてそれはまさにその逆です。 古いゲームは複雑にしようとして失敗していました。 両方から始めて、彼らは努力をやめ、最も重要なことに集中しました。 探検し、プレイヤーに自由を与えて冒険をすることができます。
@nechocat1234
@hododod246 あなたは本当に、最も評価の高いゲームのストーリーの 1 つをゼルダと比較して、比較してゼルダのストーリーが悪いと言っているだけです@pebphiz
@hododod246 ゼルダのストーリーがどれほど悪いのかわかりません。 単純さだけではないとしたら、具体的に何が問題なのでしょうか?@The_Admiral_Angel
誓って言いますが、オープンワールド ゲームでは良い物語が語れないと言い続ける人は、ゼノブレイドのタイトルをプレイしたことがありません。
@TitForce
@MultiHardcore まあ、それはまったく真実ではありません。
@TitForce
@dericandkhristy それは良いたとえではありません。 ゼルダのゲームをプレイすることは、生存について考える必要がなくなる時点でのものになります。 ネズミにとって、チーズを手に入れることは生存本能にすぎません。
@jonasking9587
@reklem2
@PyroPuffs777 申し訳ありませんが、人々は最も抵抗の少ない道を進むでしょう。 それは自然の法則です。 報酬が同じであれば、人は余計な努力をしません。@capgangchannel6309
Totk は間違いなくすべてのゼルダ ゲームの中で最高のストーリーを持っています。 どちらのストーリーも非常に単純だったことに同意します。 しかし、totkは本当に素晴らしかったです。
@tylercoon1791
@The_Admiral_Angel X を除けば、ゼノブレイドは実際にはオープンワールドではありません。 確かに広いエリアが与えられていますが、それでも定期的にゲートが設けられています。 何度ゲームをプレイしても、ゼノブレイドを通過するたびに、ガウルからエーテル鉱山、サルトル湿地、マクナまで移動し、その間のコンテンツを体験する必要があります。
@The_Admiral_Angel
@tylercoon1791 これは基本的に従来のゼルダ ゲームと同じ直線的なストーリー構造ですが、理由は異なります。 特定のアイテムが必要な場合もあれば、特定のキャラクターと会話する必要がある場合もあります。
@a_o_o_o_o_
@Braxmegaman 100%これです。
私は、「良い」と「複雑」を同等に扱う人々にとてもうんざりしています。 古いゼルダのゲームには「深い」プロットはありませんでしたが、それが彼らを惹きつける理由ではありませんでした。 人々は、強力なストーリービート、ゲームの過程にまたがる楽しいキャラクターアーク、そして「次に何が起こるのか?」という質問を楽しみました。
作家たちは物語をオープンワールドの公式に「適応」させましたが、それによって私たちが得られたのは、「実際には関与していないこれらの断片的な記憶を見つける」ことであり、(再び)探しに行くときにこれらの小さなミニストーリーアークがあることを確認することです 神獣や TotK の主要な「ダンジョン」の 1 つですが、それが以前に何かをした理由と結びついているように感じることはほとんどありません (「これを X 個完了する」以外)。
私は BotW と TotK の両方を楽しんでいますが、私のお気に入りまたは理想のゼルダ ゲームとは程遠いです。
グルースが卑怯ないじめっ子から勇敢なヒーローになるまでの旅から得た感情...
これらのことはオープンワールド方式で可能ですが、あまりにも「制限」したくないため、プレイヤーが忘れる可能性が高いものに大幅に薄められています。@tylercoon1791
@The_Admiral_Angel そうですね、でもゼノブレイドでオープンワールドの物語を盛り上げようとしていたように見えましたが、ゼノブレイドはオープンワールドではありません
@RPmp4ow
54分前
@capgangchannel6309 TotK は最高のストーリーを持っていました 瞬間* ストーリー自体は BotW との関連だけでなく、独自のゲーム設定内でも機能しませんでした
むかしむかしある東の島に、立派なピカピカの家が建ちました。
はたけをたがやしたり、さかなをとったり、器用なものは便利な道具を作ったり商売をはじめたりしました。
時が経ち、大きくなった子供達は自分の部屋を作ることになりました。
立派な元の家は建て替えるのが大変なので、それぞれが自分の都合に合わせて部屋を増築することにしました。
立派な元の家にくっついた、たくさんの部屋ができました。
部屋はあまりにたくさんだったので、どこへ行くにもまるで迷路のようにあちこち迷わないといけませんでした。
それでも子どもたちはそれぞれ自分の部屋の増築をつづけました。しだいに子供たちは、はたけやさかなとりや道具作りや商売よりも、増築に夢中になっていきました。
さらに時が経ち、立派な元の家は少しずつ傷んできました。雨漏りしたり、ネズミが穴を開けたり、窓が割られたりしました。
子供たちは屋根をなおしたり、穴を塞いだり、窓を直したりしましたが、元の家を建て替えることはできませんでした。
それでも子供たちは自分の部屋の増築を続けました。もう迷路どころかもつれた毛糸玉のように複雑になった家では、子どもたちがお互いの部屋を行き来することさえ難しくなりました。
もっと時が経ち、子供たちは老人になりました。老人になった子供たちは、これまでずっと増築ばかりしていたので、自分たちの子供は少ししかいませんでした。
元の家はあいかわらず雨漏りしたりネズミが穴を空けたり窓が割られたりしていますが、老人になった子どもたちはもうそれを直すことはできませんでした。
増築した部屋で育った少しの若い子供たちは、もつれた毛糸玉のようにこんがらがった家の中を歩き回ることは怖くてできません。
元の家が傷んでいても、どこへ行って何を直せばいいかもわかりませんでした。
もっと時が経ち、今度は増築した部屋が傷みはじめました。老人になった子供たちは、病気になって立てなくなりました。
少しの若い子供たちは、家を直したり、老人になった子供たちの看病をしてばかりいるので、自分たちの子供は少ししかいませんでした。
よく知らない道で歩いてて、ちょっと前に同じ方向に向かって人が歩いてるとする。
するとその人が引き返してきた。周りからも察するに行き止まりだったのだろう。
さて、この時はどうするのが良いのか。
合理的なのは自分もすぐに引き返すことだ。行き止まりだと分かっているのに進む合理性は全くない。
しかし実際そうするのは躊躇われる。
なぜなら、引き返すと前の人の動きを判断に使ったと認知されてしまうからだ。
行き止まりで引き返すというのは道を間違えたということに他ならず、それを認識されるというのは恥ずかしいと思わせてしまうかもしれない。
他者の行動を観察し、それを基に自身の行動を選択することは、人間社会で生きる我々にとっては当然のことだ。しかしその一方で、自分の行動が他者によって観察され、評価されることはどこか居心地の悪さを感じさせる。これは、我々が他者からどのように見られるかという意識、すなわち社会的な評価に対する恐怖からくるものだろう。
それゆえ我々はあえて進めないと分かっている道を歩き、あたかも自分で見て行き止まりであることを知ったかのように振る舞うのだ。
だが、その日は何故か自分の中の反逆心がムクムクと湧き上がってきた。なぜ自分は無駄な労力を使ってまで、自分のプライドを守る必要があるのだろう?そして、なぜ自分は他人の目を気にして、自分が正しいと分かっている行動を避けるのだろう?
思い切って、私は歩く方向を変えて引き返すことにした。しかし、そのとき足元に気付いたものがあった。それは、地面に書かれた大きな文字で「迷路です。頑張って出口を見つけてください」と書かれていた。そのとき、私は思わず大声で笑ってしまった。
つまり、ここは意図的に設けられた迷路だったのだ。前に歩いていた人が引き返してきたのも、自分が進めないと思っていた道が行き止まりだと思ったのも、全部この迷路の一部だったのだ。それを思うと、自分が今まで無意味な恥を恐れ、他者の視線を意識しすぎていたことに気づいた。
私はひとりで大笑いしながら、道なき道を進むことにした。今度は他人の視線を気にせず、自分の感じるままに、迷路を楽しむことにしたのだ。
そしてまた、歩き出した途端に思い浮かんだ。この迷路は、実は人生そのものではないかと。たまに迷いながら進むこともあり、時々引き返すこともある。それでも、それが全て自分自身の道であり、それを恐れずに進んでいけば、必ず出口、つまり目的地にたどり着くことができる。
そんな思いを抱きながら、私は楽しげに迷路を進んだ。そして突然、行き止まりに向かって歩いていた人がまた現れ、今度は「こっちが正解です!」と声をかけてきたとき、私は思わず大笑いしてしまった。人生の迷路は案外シンプルなんだな、と。そして、どんなに迷っても、他人の視線を気にせず、自分の感じるままに進んでいけば、いつか必ず出口にたどり着くことができるのだと、改めて確信したのであった。
いい話になった。終わり。
出発予定日前日の2007年7月6日、夕方にその報せはファンの間を衝撃と共に駆け抜けた。
現役アイドルの恋愛の是非などについてはここでの言及は避けるが、とにかくバスツアーで飯田に会えることを心待ちにしていたような熱心なファンにとっては最悪のタイミングでマスコミにすっぱ抜かれてしまったのだ。
SNSも今ほど普及していなかった時代、当時の最大手BBSのハロプロファンが集う掲示板は大荒れに荒れた。*1
意外にも(?)ツアーを当日になってキャンセルするようなファンは少なかったらしく(いなかったとは言っていない)バスツアーは決行。
出発時までシークレットだった目的地は千葉県野田市にある清水公園と明かされ、また到着後から参加客のBBSでの実況で明かされるツアーの全容が「1人19,000円の会費にそぐわないのでは?」と、参加しなかった住民たちに衝撃を与え、そして以下のような現在まで語られるコピペとなっていった。
メインはバーベキュー用のソーセージと肉(肉は1人1枚。ソーセージは1人1本。)
8人テーブルに1.5リットルの烏龍茶一本(キッコーマン製)。よくあるサントリーのではなく。
デザートはバナナ切り落とし(約7名のテーブルに付き3本分のバナナ切り落としが皿に盛られて用意された)。
お楽しみ企画は寂びれた遊園地に在りそうなジャンボ迷路。食後に行われた。
時間が推していた為に、約半数のヲタをジャンボ迷路に放置したまま迷路出口で次のイベント開始。
ビールは別売(一杯500円?)
自分から積極的に見る事は無かった映画だけど友人に誘われたので他の複数の友人と一緒に見てきたので感想とか思った事を書く。
「マリオの映画」というコンセプトであろう映画で、そのコンセプトに対しまあちゃんと仕事をしている映画であると思った。
マリオと言えば任天堂の色々なゲームで登場するキャラクターでありドンキーコングが最初で映画のタイトルにもなっているスーパーマリオブラザーズで爆発的に有名になり、他作品だとマリオカートあたりが有名で他にも色々なゲームに登場している。その色々なゲームでのお約束・ネタふんだんに取り入れており冗談でなしに1分に1個とかそういうレベルでネタが出てくるので元ネタを知っている人ならば終始ニヤニヤできるだろうしそのネタを探す楽しみもあるのではないかな。そういった元ネタをふんだん使用した上でストーリーは良く言えばオーソドックスとか王道の話にそつ無くまとめているので安定感があったのではないかな。なので、好きなゲームメーカに任天堂を屈託無く挙げられる人ならば傑作として楽しめる映画なんじゃないかなと思う。
さてそこで自分にとってはどうだったのかという話になるのだが、自分は任天堂に対してまあこうなんというか複雑な感情を持っており「好き」かと言われたら確実に「好きじゃない」とは言えるがそう単純なものじゃなくてですね。小学生の頃にファミコンが出てきてからゲームが趣味だった自分は当然スーパーマリオは遊んでるし面白くて良いゲームだし、最近だってスプラトゥーンとかゼルダとか(自分は遊んでないけど)素晴らしいゲームを出しているメーカだって事は認める。認めるんだけどなんか任天堂とは合わないんよねえ。なので、まあ「なんで見たんですか?」と言われるかもしれんが見て思ったのが「マリオの映画だなあ」という感じ。
さてここでマリオを知らない人が楽しめるような映画だったのかを考えてみた。そんなやつ居るんか?と感じる人も結構居るかもしれんが、例えば自分はファミコン世代でゲームも漫画もメジャーなのだったら履修してきた感はあるんだけど、ポケモンが微妙に世代が違くて学校の同級生の友人達も現役でポケモンをやってた人がほぼ居ない感じであった。なので自分はポケモンの知識はピカチュウは電気鼠、モンスターボールに収容する、進化する、ぐらいしか無い。なので世界的に有名なマリオも自分の少し上(具体的に言うと50代以上)の世代だとマリオについての知識が、ゲームのキャラ、キノコを取ったら大きくなるぐらいしか無い人も結構多いと思うんよね。で、そんなマリオを知らない人がこの映画を見たら考えたのだけど、マリオのお約束ってゲーム的に見たら受け入れられるんだけど映画的に見ると結構違和感があるんじゃないかなと思ったのよね。例えば土管が異世界を繋ぐトンネルってのは良かったと思うのだけど、王国の城への道で迷路のように繋がっているってのは良くわからなかったのではないだろうか。他にもゴリラの国の案内人(ゴリラ)がバナナの皮を捨てて後ろに居たカートがその皮で滑って事故を起こしてしまう場面もマリオカートのお約束を知ってれば理解出来るが知らないと只のクソ描写になってる気がする。こんな感じでゲーム内のお約束を再現した場面はいくつかあってゲームを知ってるのなら良いけど知らなかったら「?」が出るような場面が結構あったのではないだろうか。自分はマリオを知っていたので断言はしにくいのだが。
あと、気になったのが最近のコンテンツでは少なくなった謎に不快なことになる場面がいくつかあって、例えば序盤のマリオの扱いが軽視されている点で辞めた会社の社長から軽視されるのはまあ良いとしても、実の父親からダメ息子扱いされるのは確実に年齢が20代は行っているマリオに対する態度としては結構キツかった。まあアメリカ映画の「ダメな僕が頑張って活躍する」の前振りなんだろうけどさ。あと前述のゴリラの国バナナの皮事故もマリオカートのお約束を知っててもレースでやるならともかく普段の時でも只のクソ描写なのでは感ある。あと、ゴリラ国の王様が普通に不快な嘘をつくもの意味がわからん(元ネタからしてそういうキャラ?)。
あとは、コメディがベースだけどアクションも描きたいってなった結果なんだろうけどデフォルメ気味のキャラで可愛い感じなのに割と暴力描写がしっかりしてるのでなんかエグさが逆に強調されてる気がする。(誰がやってたか忘れたけど)馬乗りになってマウント取って殴る描写があったんだけど、効果音とかもバシッとリアル系なので割とエグい感じになってたと感じた。他にもそんな感じで暴力描写がわりとエグくね?と感じることがあったと思う。
まあだいたいこんな感じで終わりかな。最後に、映画前にやってた任天堂のCMで、子供を中心にいろんな人がswitchでゲームを楽しんでいるのを延々と写してたやつ、ありゃ酷いプロパガンダだなって友人と一緒の感想になったのは面白かったわ。