はてなキーワード: 異端とは
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
「男は男を、女は女を好きになるのがふつう」
男と女の関係なんて信じられない。世界を「逆転」させた映画が全米で話題 http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20140730/E1406650835497.html
現在、日本語字幕付き版が8/1までスターチャンネルのwebサイトで限定公開されている。以下あらすじ、及び結末に触れるため、未見の方は取り急ぎ見てみてほしい。
この作品では「全世界の標準が同性愛者である」「異性愛者は異端として迫害される」といった世界を描き出し、
つまり既存の価値観をただ単純に逆転することによって同性愛者へ進行形で行われている差別の残酷さを浮き彫りにしている。
同じつくりをした作品としては最近ではアバター然り、第9地区然り。
主にSF映画にありがちな、最初から”価値観の逆転”を前提とした舞台設定のもとに広げられる、
異端である『異性愛者(=ブリーダー)』の少女・アシュリーは作中で、周りと異なり異性を愛してしまう自分に気が付く。
ふとした一言からそれが周囲に知られることになり、彼女はクラスメイトにとって侮蔑の対象と変わる。友を失い、得かけていたパートナーから拒絶され、
親族の理解も得られない。周囲すべてが自分を認めないことに耐え切れず自死を選ぶ。
作中にむごたらしく描かれる差別・暴力行為。迫害といっていいそれらは、すべて現実の同性愛者自身の体験を元にしたものだという。
作品の大半を占めるそれらは具体的に、執拗に描かれる。からかいと嘲笑。止まない蹴り。メール、ネットを利用した侮辱、名誉の棄損。
そのすべてがアシュリーの視点に切り取られ、悪と偏見に満ちた不快なものとして視聴者に与えられる。
彼女は誰からも理解されることなくその命を散らす。「異性愛者は地獄に落ちる」と神に明言されながら。
昨晩妹とこれを見て、浮かんだ疑問はふたり共通していた。
それは「ここまで惨たらしく暴力を描くのならば、そもそも同性愛者・異性愛者を逆転する意味がどこにもない」というものだ。
たとえば作中世界が異性愛者が大多数というこの世界と地続きのものであり、アシュリーが異端としての同性愛者であったとしても、
リアリティが付加された暴力に基づく「差別はいけない」という強烈なメッセージを与えられるところまで、
更にいえば、余分な設定がなくなることでプラスになる効果も当然生まれる。
たとえば映画中、男女が言葉を交わすシーンが幾つか登場する。当然彼らはアシュリーを異端視する側、つまり同性愛者である。
観賞中、彼らの会話が発生するたび「こいつらはどういう関係なんだ?」「それはタブーなんじゃないのか?」と幾度も首をひねってしまった。
アシュリーが異性と手を繋いでいたことがもとで差別を行っていたある女のキャラクターが、アシュリーを捕まえるべく共に駆けだすシーンなども同様だ。
ではなぜ、わざわざこのような設定を使ってまで世界を置き換える必要があったのか。
話題性か? それもあるだろう。突飛な設定は当然大きな観賞動機に成りうる。この設定の上でどのような物語を展開するのだろうか?と。
だが「同性愛者が当然の世界で、異性愛者となった少女」という設定を聞けば、「ああ、同性愛者への差別を見せたいんだな」とすぐに気付いてしまうはずだ。
ゆえにそれは強い動機とは成り得ない。
では何のための世界かといえば、何のことはない。攻撃のためだ。
作品中、暴力は極めて陰惨に、かつ念入りに描かれる。ほぼすべてのシーンがアシュリーへの迫害であるのだから、それは当然のことだ。
ここまであからさまに不条理な痛みを伝え、かつ死をもって閉じることで物語を「年若き美少女の悲劇」として完成することで生まれるメッセージ性とは何かといえば、
「お前たちはこれだけひどいことをしている」
「お前たちの不理解がわたしたちを苦しめる」
いまここにある現実に対する、問いを投げかけることのない一方的な罵倒。
映画の中、それによって苦しめられていたのはほかでもないアシュリーではないか?
確かにこの映画は、「STOP!同性愛者差別!」といった、何の実情も伴わない、くだらないフレーズの印刷された、
男同士、女同士が手を繋ぎ抱き合うポスターよりも数万倍も意義のある作品だ。
だがこうした喚起映像が「ただしい」のだとすれば、その最終的なかたちは、
視聴者の顔をモデリングした俳優が理由もない暴力に絶え間なく晒され続ける映像を見せ続けるものになるはずだ。
確かにおぞましいインパクトを残すことだろう。見た者の考えも変わるかもしれない。が、そこに相互理解が生まれることは決してないはずだ。
それは互いの喉元に刃物を押しつけ合うことと何の違いがあるんだ?
セブンスコートが一位だの二位だのに入る辺りフリゲの主要な客層がよく分かる。
ちょっと普通の作品に飽きたけど、普通じゃない作品には免疫がほぼない中学生とかだ。
まあそれも当たり前っちゃ当たり前なんだよな。
お金があったらコンシューマーゲーム買うだろうし、
多少お金がなくても人生経験があれば洋ゲーも和ゲーもお安く仕入れる方法が今はたくさんある事を経験的に知ってる。
だから「無料」に釣られるのは基本ある程度年齢の低い連中になる。
そして散々手垢のついた「異端」に惹かれるのも、今まで王道の作品にばかり触れてきた若い連中だ。
当然なんだ。
当然っちゃ当然なんだ。
暑いからガリガリ君たべてるって言ってる同期がいて、自分はガリガリ君食べたことないことをふと思い出した
そのことを伝えたら嘘乙とか言われ悔しくなった。
ガリガリ君ってCMとかでコンポタージュ味だとか意味分からない味だしてるからそういう異端な人向けなアイスだと思ってたんだけどちゃんとしたソーダ味とかもあるんだね。
でもガリガリ君は男の子だ。そういう性癖はあいにく持ち合わせていない
高校生位からはクーリッシュが大好きだった。クラスの女子からクーリッシュをもらって初めて食べて大好きになった。その子も好きになった。
でもガリガリk(略)
社会人になってからはアイスよりビールを好んだ。松下奈緒が大好きだ。
リッチしよ♪
れっつあのにます
宗教的とかご大層なことじゃなくてただオタクの本質に選民的なところがあるだけ。
別に異端追放でも何でも無く単なる尻尾切りだしねそういう行動は、悪いことしたらそいつはオタクじゃない・優れてるのだけが本物のオタクって理屈さ。
オタクから犯罪者が出れば「アイツはオタクの面汚し!アニメは犯罪とは関係ない!」とか言って異端追放するし、
お前みたいな(他人と違う経歴を持つ人間は何かしら問題あるんだろ、と色眼鏡で見る)人間がいるから、日本じゃそれが不可能なわけだけど。
いや、日本は異常だよ。
実際日本で飛び級制度があったって殆どが利用しないだろ。苛められるのが目に見えてるから。
同じくアメリカじゃ小学校でも普通な留年なんかも日本ではさせない。長期入院して出席日数足りないケースなんかでも強引に進級させる。でないと苛められるから。
低出生とか発達遅延の子の小学校入学を1年遅らせる、ってのも日本じゃ相当の覚悟でもって行わなければならない「重大な決断」扱いだ。
制度上は普通に認められている高校浪人だって殆どの子はしない。
大学だって18歳から精々20歳くらいまでに入学しなければならない。
なんで女はディズニーランドが好きなんだ。
そんなに好きか。なぜそんなに好きなんだ。
ディズニーが好きっていえば可愛いとか思われると思っているのか?
ディズニーの何がいいのだ?
あんなに人間が一箇所に集まる場所で一日歩きまわって死ぬほど疲れるくらいなら
家で 24 のシリーズ1 を最初からぶっ続けで見たほうが 100% 有意義だ。
それにしてもわからん。なんでだ、ディズニーの写真撮れば可愛いとか思ってんのか?
ディズニー?別に好きじゃない、混んでるし。みたいな女と付き合いたい。
俺の中でディズニー好き=女の子、ゆるふわ女子みたいな法則が出来上がってしまった。
ここからは完全に偏見だが、ディズニー好きじゃない精神的に出来た女と話がしたい。
俺は異端なのか?そんなことはないはずだ。
排外主義にも二種類あって単に他を廃するやつと自分の中に潜む「異端要素」をも廃するやつがある。
日本の場合は自制的排他主義が強いと思うね。その最たる例が日本と一見似た真面目な気質をしたドイツ人である。
ドイツ人は「懇切丁寧に相手に説明しないと伝わらない」ことを前提としてものを話す。
これは日本人からすればくそ真面目に映る部分であるが、欧米人からすればそういった部分は別にくそが付くほど真面目じゃないのね。
無個性という言葉があるけど人間そんな単純じゃないから無個性になんてなれるもんじゃない。
必ず集団の中には個性的な人間が出てくるものだし、1人1人を見てもね、必ずなくて七癖どこかに個性がある。
そこを己をも削り節のごとく削っていくとシンプルイズビューティフルのつもりがガリガリのダイエッターのようなことにもなりかねない。
もはやライフイズビューティフルのような世界だし(うまいこといった)、ビューティフルマインドのような人間も出てこない。
もっとも排他という行為自体にドMなまでの自制が待ち受けていがちなのは言うまでもないが。
結局のところ欧米的な個性尊重の流れでいくと差別を撤廃するしかないし、そう考えると日本という土壌は差別と親和的といえる。
それに日本で差別反対といったらしばき隊であるとか精神障害者と強く結びついてしまうのが実情で、
何か新しいことをして差別化を図ろうとする際にどうしても消去法でものを考えねばならない。
その方法は我々日本人が「オトナになる」(社会への適応性を高める)過程で一本槍の方法を学んでいくのである。
確かに日本社会への適応性を高めるという点ではオトナであるが国際舞台ではあまり役に立たない槍過ごしかたと言えるかもしれない。
国際舞台の話に対してアレルギー反応を起こして「ここは日本だぞ」と言っている場合かどうかは、やがて時の流れが教えてくれるだろう。
はてなって真面目に正論ぶちかました所で、全然ブクマ数が伸びないわけよ。
んで、極端な内容や煽った内容、炎上を狙った釣りのブログに対しては
新参が見ると、なんだか殺伐としてるなあと思って近寄りがたいし、
そんで、PV数や注目集めるために上述のブクマ釣り記事ばかり量産されて
負のスパイラルなわけ。
わかっててそうなるんだから、はてブユーザーのモラルってちんカス以下だよなと思う。
そんなサービスどんどん人が離れていくし、来年にはもう1000人くらいしかユーザーいないんじゃない?
誰でも知ってる正論なんか、誰が読みたがるかね。それなら異端の方が面白い。誰も書かなかった正論を書いてくれたら喜んで読むさ。
正論っていう書き方が精神論みたいで悪いと思うけど、要は「正しい情報」ということですよ。
面白ければ、正しくない情報でも飛びついて、ホットエントリー入りして、その正しくない情報が流布してしまうという
こういうのが良くないという意味ですよ。
じゃあ正しいって言える人はだれなの?jkondo?naoya?
有名な人が言えば正しいことで、そうでなければ正しくないの?
正しい事〜 って言うと こんなこというやつはダメ
そんで、どうでもいい釣り記事に群がってるんだから、バカだっていってんだよ。
でもキュレーションサービスとして考えたら、キュレーターなしで成り立つわけないだろ。
本質を見ろ
だってその"正論"って素人調理の料理みたいに、生焼けだったり、花が無かったりで目を引かないだもの。商売と同じで魅せ方や必要な相手に届けないと。
まさにその通りで、結局は営業力なんだけどね。
でもその営業で、詐欺に近い詐称を行っても、それでいいんかいという話ですわ。
お客様が満足ならOK? 満足してんのかね本当に。
完全に憶測だよなって、憶測以外の何があるんだろういったい。
俺は預言者か。
2013年に倒産した会社だって、何年前からやってたと思ってんだって会社はゴロゴロあるよ。
期待、、、なのか。それは言うとおりかもしれない。
某netcraftのように、夢を見過ぎなのかもしれない。
ブクマにせよPVにせよ水モノなんだから気にしない方が精神衛生上よろしいかと。本当によいものなら、細く長く読まれたりするわけで。
本当に良いもので、誰にもしられずひっそりとしているものなんて、
世の中にくっさるほどありますよ。
で、あなたは他人の書いた「真面目な正論」にブクマしてるの? / 相手のエモーションを掻き立てるには、「正論以上の何か」が必要なんだよな。
しまくってるんだよなあ。
そして案の定ブクマ数は伸びない。
この増田自体が考えなしに煽ってる系記事なのは、実験か何かか?/来年1000人はさすがに極端すぎでしょ…。私のアカウントの削除賭けてもいい(そもそもアクティブユーザ1000じゃいる意味ないし)
勝手に消してろ
それをしてほしいが、はてな的にはブコメ&ブクマを切り捨てることができない。
毒親で可哀想ね、とは思うけど、こういうエントリによくある優秀な自分アピールがほんとウザい。
こんなに頭いいのに親のせいで…とか言いたいんだろうけど、そんなに優秀ならさっさと親を克服するための活動を始めろよ。みんなから同情を集めたって、どうせ何もする気ないんだろ?
大体、他のトラバにもあったけど親なんてお前より先に死ぬんだぞ。そしたらお前はどうするつもりなんだよ。殉死でもすんのか?
さっさと親を捨てるか、それができないなら両親宛に「お前らの育てた子供は何も残さずお前らより先に死にました。無意味な子育ておめでとう」くらいの遺書を遺してさっさと死ね。
かれこれ2年ほど前に受けたWAISの結果が予想外に130を超えていて、ずっとこれを話題にしたくてもやもやしていた。自慢したい気持ちもあるけど、むしろ珍しいものが手に入ったからいじくり回したいという気持ち。具体的には他のIQ高い人(増田には自分より高い人がいくらでもいそう)と話をして、自分のやるような思考の癖や感じ方が、似たようなIQを持つ人と共通する部分があるかどうか、群指数の値を比較しつつ確かめたり、高いIQについてよく言われている話を事実と思うかどうかヒアリングしてみたい(よくIQが20違うと会話が成立しないとか言われてるけどあんなん嘘っぱちだと思う。むしろ自分は大抵の人より頭が悪いと感じる)。まあメンサとかいうグループに参加すればいくらでもリアルで会えるみたいだけど、ああいうのは尻がムズムズするし金も掛かるみたいなのでパスしたい。
つーかフィクションで「IQ180の天才」とか出てきたりするから、普通から外れるラインは150くらいからだろうと思ってたんで、自分のIQが分かってから相場を調べてびっくりした。やっべー俺って異端?とかオッサンの枯れた中二心が目覚めそうになったわ。これ10代だったらヤバかったかも知れん。ただまあ130以上とかいう御大層なIQでどんな実績をあげたのかと聞かれれば何もない。一応大学は出てはいるけど4流5流のレベルだし、まともな仕事に就いてはいるけど、そこでうまくいかずに死にそうになって心療内科に駆け込んだのがWAISを受けたきっかけだったしな。IQで測れる能力なんて実社会で必要な能力とは全然違うということは身をもって分かってる。そもそもIQ130ってのは50人に1人程度だそうなので全然異端じゃない。クラスで一番になったから天狗になってるとかそれくらいの話。
しかし自分のIQが高くて云々、という話を書くのは難しい。ネットで時々、WAISの結果について自虐やら誰にともつかない相談のような体で「俺は言語理解が136なのに作動記憶が103しかなくて…つらいです」とか書いてあったりするけど、ああいうの見るとつい「それ数字出す必要ないよね」とか思ってしまう。低いと言っても103もあれば平均以上なんだから、問題は群指数間の差な訳で、「俺は言語理解と作動記憶の差が33もあって…」と書けばいいじゃん、さり気ないつもりで数字出してきて自慢かよ、と。んで自分ではそういうことはやるまいと思っていたら全然自分のことを開陳する機会がなくて参ったので開き直ってこう言うエントリを書いた。なんかもうすごい本末転倒。
記名で書くのは恥ずかしい、自分勝手なファン心理なのでここにこっそり置いておく。
自分が憧れていた同性(ここではヒーローと呼ぶ)が結婚したりすると少し寂しい気分になる。これは憧れの異性、つまり自分のアイドルが結婚した時に感じる悶々とした気持ちとは少し違う。
自分は、30歳を軽く過ぎても独身のままで、学生時代と同じように、いや、よりマニアックに自分の文化系趣味に没頭して楽しそうにやっている人に憧れる。彼らは高尚な人間だが、社会からは少しだけはみ出し者だ。そんな異端な人間が、尾崎豊のようにぶざまに吠えることなく、社会と自分の折り合いをうまくつけてやっているところがカッコいい。つまり自分は単純ばかなロックスターが嫌いだ。もっと複雑な心を持っているのに、マトモな職について日中は真人間のように働いている人はたくさんいる。それなのに簡単にドロップアウトしやがって。
まあそんなことは置いといて、自分はヒーローのそんな生き下手そうなところが好きだ。経済的に余裕があり、社会的な地位もある、それなのにどうしても臭ってしまう体臭のような生き下手さが好きなのだ。この臭いがしない人はどんなに良い人でも信頼できない。心の底で疑ってしまう。
そして、ヒーローには近づきたくはない。幻滅するのが嫌だからではない。少しでも馴れ合ったら崩れてしまう繊細な感情があるのだ。
だから影ながら応援していた。素知らぬふりをして、心の中で「もっとやってくれ。もっとやってくれ!」と思っていた。
そんな人が結婚した。お相手はなかなかの美人だが、家庭的な雰囲気のある女性だった。亭主の趣味にも寛大で、足りないところを補うしっかり者という印象だ。それを聞いてビックリした。あんなに自分のために時間を使っていた人が結婚するなんて、と思った。ただ矛盾するようだが前からヒーローは非モテであってはならないとも思っていた。女性にモテないことからくる負のエネルギーを趣味に活かすタイプの人が苦手だからだ。そのタイプの人間は年をとって性欲が減退するに連れてセンスも減退してしまう。なので、モテてもモテなくても変わらずに趣味に没頭できる人が良い。
ああでも結婚するなんて。わかっている、結婚したから丸くなるわけではないだろうし、結婚しても趣味を謳歌する人はたくさんいる。だけどそれを奥さんが「うちの夫はいつまでたっても子供で~」みたいに笑顔で惚気でもしたら?耐えられない。そんなの耐えられないよ。この感じに似たものを経験したことがある。学生の頃、女の子と夢見心地でデートした後、実家に帰宅した時に感じるイヤな生活感だ。「遅かったじゃないどこ行ってたの?ご飯早く食べてね」の感じだ。それまで視界の上の先にぼんやり見えていた美しい願いが、何十年も続く古びた生活の重みによって地に落ちて割れてしまう、あの感じだ。つまり悲しいのだ。やるせないのだ。
そろそろ認めないと。赤の他人に自分の理想を押し付けても仕方ないのはわかっている。ただそれに時間がかかってしまっただけだ。これで最後にしよう。祝福しよう。心の中で、こっそりと祝福しよう。自分なりの愛を込めてこんなふうに祝福しよう。
「ああ生き下手な僕のヒーローよ、おめでとう。そして永遠に生き下手なれ。」
さて、今週末はどのidをご飯に誘おうかな?
やれやれ貧乳好きな俺はマイノリティだねつらいわーニッチな好み持ってる俺マジすげーリスペクトだわー(チラッチラッってのが透けて見えるから。ワンナウト。
書き方は乱暴だけど、この部分だけなんか分かる
そういう人たちが各自でどう思ってんのかは置いといて
そういう人たちに遭遇するたびに自分は「うわっ」て感じになる
胸が大きい小さいとか
背が高い低いとか
痩せているとかいないとか
そういうことに対して悩みを抱えてる人たちが心情を吐露したりする時
そういう悩みに対して「自分はいいと思うけどな」ってコメントをするような人たちがなんか苦手
例としてあげると
「自分は可愛いと思うし、大好きだし、全然悪くないと思うし、むしろ素敵な個性だし――(褒め殺しの系譜)」
「そもそも良さが分かってない奴はどうかしてる(憤慨の系譜)」
「そういうのが好きな自分みたいな奴のところに来てくれればいいんだけどなあ(願望の系譜)」
「自分は好きで好きでたまらないし、むしろその方がソソる(興奮の系譜)」
「そういうのが大好きな自分は異端なんだろうか(中二病の系譜)」
っていう感じだけど、そういうのを見聞きするたびに滅入る
そういうノリに慣れなくてちょっと胸がざわつく
「自分だけはわかってますよ」って思ってるかのような印象を抱いてしまうし
あからさまに「自分は別にいいと思うけど何か?」みたいな煽る感じを出してる人は特にざわつく
余談だけど「そんなのより自分の方がずっと辛いんだけど?喧嘩売ってるの?(攻撃の系譜)」にもざわつく
おっぱいの好みの話に戻るけど
1.貧乳がいい
3.貧乳の恥じらってる感じがいい
みたいな流れもざわつくし、もう飽きた
あと、巨乳好きと貧乳好きっていう主張の人たちがぶつかり合ってるときに
「結局のところ大きいのも小さいのもどちらも等しく良いものだ」みたいな話が出てくるのも滅入るようになってきた
マンネリだけでは説明できない「うわっ」って感じを抱くようになった
http://anond.hatelabo.jp/20140421200127
ごちうさだけは許せない
作者のKoiさんやこの作品のファンに個人的な恨みがあるわけではない
それでもこの作品を許すことはできない この作品が流行る社会が許せない
Koiさんの絵に出会ったのは"秘書これくしょん"内のキャラであるニット帽秘書を友人に見せられたのが最初だ
その友人はいたくKoiさんの絵を気にいっていたが、私は正反対の感想を抱いていた
まず目が大きい
次に等身が低い
更に身体が貧相
はっきり言おう、私はこの手の萌えアニメっぽさ全開のペドい絵柄が嫌いだ
私は水薙竜さんや五十嵐藍さんや宇木敦哉さんの絵のようなあっさりとしていて萌えアニメっぽさが薄く、清潔感がある絵柄が好きだ
だからといって私にはこんな個人的な好みを理由にKoiさんの絵柄を批判する権利は無い
けどやっぱり、理解できないのだ
日本人が生卵を食べることを理解できない外国人のごとく、私は理解することが出来ないのだ
だから私はこの友人が
「このKoiさんが描いた"ご注文はうさぎですか?"は絶対アニメ化する!!」
と言った時に思わず
「秘書これくしょんとか言うマイナーなソシャゲのキャラのイラストレータの描いたこんな何の目新しさもないほのぼの日常系の4コマが絶対にアニメ化するわけねぇ!!!」
と言い返してしまった
割と大声で全方向に喧嘩を売ってしまったことはこのときちょっと反省した ごめんなさいKONAMIさんKoiさんマンガタイムきららさん
でも叫ばずにはいられなかった
オチもクッソ弱いし奇抜さもないしキャラがかわいいだけのずーーーっと同じ雰囲気の単調な4コマなんだもん!!!!
こんなんどこにでもあるやん!!!これより先にアニメ化すべき作品もっとあるやん!!!!
絵柄も面白さも理解できない私にとってこのごちうさはこの世界の頭上に浮かぶ巨大な異物のようだった
ここまで20余年生きてきて培われてきた感性と人格が全力でこの作品を否定する しかし世間にはこれを礼賛する人間が多数いる
ひょっとして、俺がおかしいのか?
ごちうさのかわいさを理解できて、面白さと思えることが当然のことで、それを否定する人間は異常であり許されるべきではない世界なのか?
頭上に浮かぶごちうさは、私にこんな悩みの影を落としていた ごちうさは癒しなんかではなく、常に自分を否定する大きな悩みの種だった
しかし、少しは楽観的に考えていた
「流石にこれがアニメ化するわけないだろう……」と
ゆるゆりやAチャンネルのストックも溜まっているだろうし、他にもっと面白い漫画があるだろうし
ところがどっこい
このザマである
http://twitter.com/search?q=%23gochiusa&f=realtime
この瞬間、ごちうさは正義となった
同時に、私は異端となった
嫌いなものを嫌いと言えないポイズンなSNSの世界において、私の肩身は猛烈に狭くなった
ことごとく好きな作品は流行らず、ごちうさのような理解できない作品ばかり流行る
しかし、たとえ孤立したとしても私はごちうさを認めるわけにはいかない
ごちうさを認めることは、自分を否定することになる
だから私はごちうさと闘い続ける
キルミーが哲学なら、ごちうさは仇敵だ
「そんなの人の好みなんだからわざわざ人の好きなもの否定しなくていいだろ」
と思う方もいるかもしれない
けど俺はごちうさのよさが本能レベルでわかんないの!!!!!!
まわりの人間が突然「雑草おいしいよぉ」っていって雑草食いはじめたらどう思う?????それが全国レベルで流行ったらどう思う?????友達みんな「雑草いいよね……」「いい……」みたいな会話ずっとするんだよ????人それぞれだからで片付けられる?????愚痴らないで我慢できる?????
Koiさん、めっちゃ塗りと背景キレイなんだからそのまま等身上げて目小さくしてリアル調にして少し切ない青春系の漫画描いてくれ 頼む
アニメ製作各社、もうかわいいだけの日常系は十分だ 好きっていいなよとか君に届けとかヨスガノソラとか毎週ワクワクさせてくれる恋愛モノのアニメをもっと作ってくれ 頼む
こうしてくだらないワガママを増田に書いているうちにも、ごちうさファンは増えていくのであった
世知辛い世の中だ
それはそれとして、あやねるかわいいよね