はてなキーワード: 異端とは
ひとつ言いたい。
身体目的で近寄ってくる男達をなんとかしたいとかふざけたことを言っている女はクズだ。
言い寄ってくる男はみんな自分のことを身体目的でしか見てないからうんざりするだと?
馬鹿か。
男というのはそういう生き物だ。まずそのことを知れ。
そうじゃない男もいるかもしれないと幻想を抱くのは自由だが、そんなものは宝くじで幾億円当たるのと同じくらい馬鹿げた確率だということを知れ。仮に、本当に身体目的で女と接するのではない男がいたとしたらそいつは男として異端者であり、機能不全の欠陥品だ。そんな欠陥品を探し求めずにはいられない女もまた欠陥品だ。
世の中には蹂躙することや侮辱することだけが快楽という男も勿論いるだろう。
そういう男は確かにクズだ。だがそういう男としかめぐりあわせがないなどと言うのは単なる逃げ口上だ。
自分は悪くないと、思いこもうとしているだけだ。相手が常に悪いのだと、責任をなすりつけているだけだ。
男が身体目的でしか近寄ってこないのは、お前の魅力が身体以外にないからだ。
最初の目的が身体目的でしかなかったとしても、もうひとつふたつなにか魅力があれば、男は単なる性欲の捌け口という見方をし続けることはむしろできない。それくらい男はバカだ。単純だし、子供だ。結局最後まで身体しか求められないなら、その程度の女としてしか見ることができないんだ。
身体だけを求めているんじゃない。それはさっきも言ったようにデフォだ。
本質は、身体以外にお前に求めるものがねえんだよ。そのことを知れ。
どんだけ努力してきたのかなんて知らねえ。
男が嫌いなら必死でキーボードでも叩いて家で内職してろ。男のいないところで生きろ。欠陥品としてな。
それができないなら男はそういうものだと知った上で外に出て、男達と一緒に生きていくしかない。
自分を磨けよ。
それをせずに、あるいはした気になって、他人に責任を押し付けるのはよせ。
人間は誰だって、ひとりじゃ生きていけない。それに、男も女も、最後はお互いを必要とする。
必要としなくても生きていけるのは欠陥品だけだ。
裏切られたとしたら、お前はその程度にしか相手に認識してもらえてなかった。
それは相性かもしれない。でも少なくとも、努力が足りなかったってことなんだ。
無償で、見返りもなく、無限に愛を注いでくれる人なんて普通に暮らしてたらまず出会えない。
なぜならそういう奴はすでに誰かのものになっているか、もしくは誰のものにもなりたがらないからだ。
私はもともと無宗教だったんですが、
旦那様もそのご両親も、教区の神父さんもとても優しい方々ばかりで
わたしもこうなりたいなって思って決心しました。
それでいま勉強しるんですがどうしてもわからない事がありました。
旦那様に
イエス・キリストってマリア様から生まれたんだから人間だよね?
って聞いたら
うんそうだよ、でも神様でもあるよって答えが返ってきました。
神父様にも確認したんですが、
もうほんとわかんなくなって、
神様は神様で、イエス様はイエス様、だから私の中ではイエス様は神の子供で人間でいいやっていったら
ものすごい怒られました。
たしかに私はよく、年齢より若く見えるね、美魔女だね、って言われますが、
火あぶりになんかされたくありません。
私の考えってそんなにおかしいんですかね?
日向清人さんという英語教師がいます。NHKビジネス英会話の講師も勤め、著書もあり、慶応大学で英語を教えているという経歴的には申し分ない御仁です。
その彼がしきりに主張するのがワイングラスの持ち方。
日本では柄の部分を持つべきだという風潮が強いが、国際的にはボウルの部分を持つ人々が多いし、それがマナーだというのが骨子。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2013/06/post_55.html
http://web.archive.org/web/20091117060438/http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2009/11/post_55.html
オバマ、ブッシュ、ベルルスコーニなどセレブの写真を引っ張りだしてきて説得力を与えています。
感化された記事も多数
http://matome.naver.jp/odai/2137486003334108301
http://www.nomooo.jp/blog/?p=16119
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1237071067
ウィキペディアまで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9
アサヒビールに至っては記事を修正している
http://web.archive.org/web/20090710001236/http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/wine/know/manner/09.html
http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/wine/know/manner/09.html
しかし英語で"how to hold a wine glass(ワイングラスの持ち方)"とググれば明らかなように
https://www.google.com/webhp?hl=en#hl=en&q=how+to+hold+a+wine+glass&safe=off
正式には柄の部分を持つという主張が英語圏では普通に見られます。
日向センセーの記事に紹介された人物たちの中にも、「不適当に」ワイングラスを持っている例はたやすく見つかります。
ジョージ・クルーニー: http://jp.reuters.com/article/idJPTYE87R01020120828
エリザベス女王: http://www.telegraph.co.uk/news/features/3637378/State-Banquet-a-feast-for-all-of-the-senses.html
バチェレ(元?)チリ大統領: http://www.thepresidency.tt/events_and_ceremonies.php?mid=179&eid=585
ミシェル・オバマ: http://www.michellesmirror.com/2013_06_16_archive.html#.UpFmjCfRLHs
キャサリン英王妃: http://www.businessinsider.com/royal-baby-kate-middleton-and-prince-william-photos-2013-7
フアン・カルロススペイン国王: http://www.que.es/mejor/2009/fotos/rey-juan-carlos-cumple-anos/20100105/55445-juan-carlos-inauguracion-ciudad-del.html
ここで普通の知性ある人間だったらどのような結論を導き出すべきなのでしょうか?
「柄の部分を握るのがワイングラスの正式な持ち方だけどボウルで保持するのはマナー違反じゃないし楽しく飲もうよ」
ぐらいな論調に落ち着くんじゃないでしょうか。
「シャンパングラスであれワイングラスであれ、立っていようと座っていようと、ともかく、グラスはカップ状の本体部分を持つのが当たり前です」
「国賓を招いての晩餐会という、外交儀礼上、最も格式の高い場での元首たちの振る舞いからわかるとおり、カップ状の本体部分を自然に持つのが実は正統派であり、ステムを持ったりする方が逆に異端なのです」
などという独自研究を振りまき、それを真に受けてしまったワナビー国際人が自説を披露する事によって恥をかき、日本人の国際化はちっとも進まず、グローバルでエクセレントな英語教師のメシのタネは尽きないという一連のサイクルが展開されるのは誠に香ばしい限りであります。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2013/06/post_55.html
安部首相・金正日・ガーナのクフォー大統領を「ステム持ち」として欧米セレブの「カップ持ち」に対比させているのは味わい深いです。
「ステムホルダーが主流というわが国はアフリカの流れを汲んでいるのかも」
などというコメントは未開人の暗喩に富んでおり、「バナナ」たる帰国子女の面目躍如といえましょう。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2010/11/post_764.html
「呪文を日に5回の祈祷の度に唱えるとなれば,一種洗脳されることでしょう。神には絶対服従だと。事実、islamのアラビア語の原義はsubmissionと説かれますし、Karen Armstrong というこの分野の権威に言わせると、islam = surrender だそうです。そこに宗教指導者たちが神はアメリカが悪いと言っているなどと刷り込めば、こりゃ自爆テロでも何でもやるだろうなと感じます」
という事になるそうですが、ここで日向先生が引き合いに出しているカレン・アームストロングは専門が比較宗教学であり、
「どうして爆弾テロやハイジャックといった無垢の市民の殺戮が(起こるのか)?イスラムの是認するところとは大きく異なり、こうした殺人はイスラムの最も神聖な教えに反しています」
http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,175987,00.html
と断言しています。イスラム=降伏なんていうのは彼女の自説でもなんでもないし、かの宗教と暴力の結びつきを強調したいのなら山ほどネタは見つかるはずですが、日向先生ともなれば独創的な読解力の持ち主なのでしょう。英語話者に通じるかどうかは私も存じませんが・・・。
shall と will の使い分けなんてのも日向先生は得意なようです。
「契約書の場合は、本当ならSHALLはhave a duty toという意味のときだけ使うべきなのでしょうが、実際は細かく使い分けずに終わっています。例えば、私が法律事務所で翻訳をやっていた時代は、契約書の英訳はひとまずすべてSHALLを使ってしあげたものです(従って実に楽です)。その次のステップで、弁護士の中には自分のクライエントが関わる義務規定についてはSHALLをWILLに直したりする人もいましたが、たいていはそのまますべてがSHALLという形で使われていたとおぼえています。なおWILLを使ったからと言って規範的な意味合い、つまり「何々すべし」という意味あいは変わらず、単に語感として相対的に弱い感じがするという程度の話でしょう」
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2005/05/shallwill.html
"Did you know that "shall" is the most misused word in all of legal language?"
"Some suggest that lawyers are incapable of using "shall" correctly, so we ought to banish it entirely"
http://www.utexas.edu/law/faculty/wschiess/legalwriting/2005/05/shall-vs-will.html
などとほざいてますが、栄えある慶応義塾大学のスーパー講師である日向先生の言うことに耳を傾けた方が吉かもしれませんね(棒読み)
おまけ レディガガ(笑)
http://greatwinenews.com/lady-gagas-favorite-wines-revealed/
堀田善衞の小説『路上の人』( asin:4198618230 ) を読んだ。
13世紀のヨーロッパが舞台で、カタリ派と呼ばれるキリスト教の異端教派の十字軍による征伐を背景に、路上を放浪する中年の男ヨナがキリスト教世界を放浪する物語である。
読了後に知ったのだが、最近ジブリの森美術館で、もし映画化するとしたらという前提のもと宮崎吾朗氏が作成した絵コンテやポスターが展示されていたらしい。来年夏公開予定の新作がこの『路上の人』なのではという噂が流れているが、私はそれは到底できないと思う。もし映画化するとしたら、ジブリは子供向けアニメを届けるスタジオというイメージを完全に捨て去ることになるだろうなと思う。
『路上の人』というタイトルはキリスト教世界において安住する場所の無い東洋人である堀田善衞自身を指している。堀田の分身であるヨナの目線で、当時のカトリック僧院の生活をかいま見て、そこで当たり前のように行われている不正や腐敗を描き出す。そして、カトリック教会とは異なる教義を持ち、慎ましく暮らすカタリ派の信者が異端審問にかけられ、虐殺されていく様を描く。これは書籍に挟み込まれた堀田と誰かの対談において、堀田自身が述べているのだが、『路上の人』は「ヨーロッパへの異議申し立て」なのである。
ここで題材となっているカタリ派について、あまり作中では詳しく語られていないので、簡単な副読本として『カタリ派 ーー中世ヨーロッパ最大の異端』( asin:4422212206 )を読んでみた。これによると、カタリ派とは現世は悪によって生み出された地獄そのものであり、この世には一切の価値がないと考え、ただただ世界の終わりに神によって救済されることだけを願って一生を生きるという教義を持つ教派であるらしい。現世に生まれることは地獄に居ることと同じなので、生殖を目的とする性交を禁じている(ただしそれ以外の性交は禁じていないというところがユニーク)。カタリ派にとって死ぬことととは救済であるが、自殺は禁じられているので、信者はただ死が訪れることを希望として生きる。カトリック教会が特に問題視したのはキリストの人性を否定したこと、洗礼などのサクラメントの必要性を否定したことにあるようだ。
異端という考えは正統があるからこそ生まれる。宗教の正統性は日本人にはピンと来ない問題だからこそ、『路上の人』で描写される凄惨な異端審問の様子にやるせない気持ちが生まれる。
私がカラオケに行くときはだいたい1人であるが、似たような活動をする人間は似たような時間に活動しているようで、同じような歌を歌う人が隣になることが多い。カラオケは曲の切り替えに十数秒程度の時間がかかるのであるが、そういう時に、隣から聞こえてくる曲に引きずられて自分の曲を決めることがたびたびある。だいたいの場合、隣から聞こえてくる曲とまったく同じ曲を選択することはなく、たとえば相手が1990年のヒットチャートランキングの曲を選択したら、同年のヒットチャートから選ぶような感じだ。そうすると稀に、相手側からも似たような感じで曲を選択されることがある。一種の勘違いなのかもしれないが、そういう時は一体感と微妙な対抗心とが混ざり合って、どこか戦いめいた雰囲気が出てくる。
カラオケは車のような競争と違って勝ち負けは明確ではないのだが、それでも曲と曲の間の数十秒の間に聞こえてきた曲で「うわ、こう来たか!」みたいな気持ちになることもある。勝敗を分ける(と言っても勝敗は自分の中だけの話だが)要素は、私が選択した曲に対する相手の曲の選択の妙だけでなく、相手の曲の選曲順、歌の上手さ(を曲の数十秒の間に感じる)など様々なパラメータがある。
やったことはないが、首都高で自動車の競争をするのはこういう感覚なのだろうか。(湾岸ミッドナイトを読んだ程度の知識しかないが)示し合わせたわけでもなく、直接的な対話もなくそれでもなんとなく通じているような感覚なのだろうか。あるいは2人のキリスト教信者(プロテスタントとカトリック)が聖書の引用だけで互いに異端者認定をするような。そんな、独りよがりで、くだらない遊びをしている。
「プロテスタント」で気になってチェックしたところです。
プロテスタントには、エキュメニカル派(言うなればカトリックと近いトコ)と福音派の2つがあります。
三位一体を信じない、または聖書を改ざんしたところが異端となります。
複数の教派を超えた団体でしたが、かつてルーテル教会を追い出したため、「教派」分類の上では、完全に福音派の中に入ります。
「行ってはいけない教会」という話題によく「日本基督教団の教会」と出てきます。
何故なのかは知りません。しかし、ウチの教会に通うようになった人たちに聞くと、戒律派と呼んでもいいんじゃないのと感じました。
戒律がすごく厳しくて逃げてきた人を知っています。かなり行動主義寄りなので、まるでパリサイ人だ、と思ったことがあります。
学校もそういう感覚で運営されているのかちょっと気になりました。
まあ、私は東の人な上にエキュメニカル派なので無関係といえば無関係なんですけど。
仏教の学校でもキリスト教の学校でも、それぞれ週に1・2回それについての授業があるのは普通だと思います。
ただ、礼拝を義務化しているキリスト教系学校はエキュメニカル派の中では少数派なので、珍しい学校だと感じました。自由参加が普通ですよ。
「スペインは恐ろしい国である」と日本総研理事長で、評論家の寺島実郎さんが「世界」10月号で書いていた。
どこが恐ろしいのか? 寺島氏は15世紀の異端審問を例に引く。フェルナンド2世の時代になって、モスリコ(改宗イスラム教徒)の公開火刑など、その弾圧は凄惨を極め、それに震撼した民衆も隠れ異教徒告発へと変わっていった。
〈この大量殺戮と集団的狂気をスペイン人としてどう受け止めるべきか。宗教上の権威付けと「民衆」の無知が一体となって異端排除に向かうと異様な集団的狂気が爆発する傾向をスペインの歴史は何回か繰り返している。教義には融通無碍だが時代の空気には付和雷同するという意味でスペインは恐ろしい国である〉
寺島氏はこう書いていたのだが、こうしたスペイン人の特性は今でもそこかしこに見られる。つまり、お上の権威付けによって、時代の空気が醸成されると、何も考えずに付和雷同してしまう国民性だ。それに賛同していないものは「排除」しようという「狂気」も、だ。
くしくも、そうした国民性を改めて浮き彫りにしているのが五輪招致の熱狂ではないか。猫も杓子も五輪で騒ぎ、ちょっとシラケた目で見ていると、「異端児扱い」されかねないイヤ〜なムードだ。
しかし、この五輪招致はスペインの多額の債務をごまかし、「経済は順調です」と強調、不況に苦しむ国民を切り捨てた招致である。
狙いはお上の権威付けと商売で、マトモな人間であればマユをひそめたくなるのだが、多くの国民は権力におもねり、無邪気に付和雷同し、ハッと気づくと、「こうした招致はいかがなものか」という正論が異端になってしまっている。テレビを筆頭に大メディアが五輪の感動を押し付け、それに感動しないものは居場所がなくなるような窮屈さ。最先端都市を気取りながら、まさしく封建社会がいまなお、根付いているかのようだ。
http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-9879.html
確かにこういうことを書いて許されるとは思えない。
天職は見つけない方が良い
http://anond.hatelabo.jp/20130918010603
調べてみるとどうやら比較的新しい概念らしく「漁業法人化」という言葉は3.11震災後「漁業協業化」という言葉に変わりつつあるようだ
漁業法人化も漁業協業化も中身としてはほとんど同じで、法人格へ漁業権を移譲して人材の新規参入ハードルを低くするのが主な狙いみたい
当然、元記事でも語られているように税制対策や経費削減、融資にも効果的な選択で、保守的であると解説トラックバックが語るのが本当ならば漁村内では先進過ぎて異端的な考え方だったんだろうと思われる
更に元増田は科学研究をフィードバックする野望も持っていたようだし良い悪いは別として従来の漁師像とはぜんぜん違う漁師になろうとしていたようだ
一次産業の法人化が有望視される昨今で、業界のトップエリートが超本気で動き出すところだったわけだ
逃した魚は本当に大きいよなと
そういえば前、初対面同士の飲み会でクトゥルー神話の話になって、俺が読んだことないって言ったら全員に変な目で見られた。
「普通は中学、もしくは高校生くらいで触れておくべきものだろう……」みたいな事を言われて、びびった。
もちろん愛好家が多いのが分かるが、そこまで一般教養として誰もが読んでいるものor読むべきものでもないだろうに。
クトゥルーに関わらず、こういう事ってたまにない? 明らかに常識ではないのに「○○は常識だろ」的な事を言われて、「嘘?」って思うも何故かその場の全員はそれを常識として認めていて、
「うげ、変な常識を持っている集団に紛れこんでしまった。でも、この場では俺が異端なんだからここは静かにしておかないといけないな……」
ってなる時。まあ常識なんてものはコミュニティによって変わるわけだから、、あの世界ではあれが常識なんだろうし、俺が異端だってっていうのも間違いないんだろう。