はてなキーワード: 必然とは
綺麗な差別は差別ではないと線引きをはじめたら禍根を残すのは間違いありません。
女性専用車両だけではなく世の中にはあらゆる差別構造があります。
ラブライブは元から癖のつよいアニメで、合わない人は無理してみんでもいいのよ。なぜか自分に合わない作品を見続けて文句言う人がいるけど、周りがみてるからと言って自分もみなくていい。強くなってくれとしか。
個人的にはあのシリーズはベンチャーマインドと人間の善性を強力に肯定していく寓話作品だと思っているので、現代の閉塞した不寛容な社会に馴染めず疎外感を感じているような今どきの子にはすごく沁みると思う。
反面、現実に適応してうまいこと生きている人にとっては胡散臭すぎキラキラすぎる茶番に見えるのだと思う。それを後押しするように演劇やミュージカル的な作り方を狙ってしているし。
とはいえ実際その作風でムーブメントを巻き起こした実績が前作から続いているのだから、それをメタに取り入れたサンシャインの作風自体も熱狂的で浮世離れした雰囲気を帯びるのは必然。
それをそういう作品として素直に楽しむことができないのだったら相当苦行だろうと思う。
脚本が巧妙だから毎話泣かされる可能性がある、視聴にエネルギーと心構えを要する作品だっていう面もあるしね。
もしアイドルものというガワの部分のせいで純粋に楽しめなくなっているだけであれば、同じ脚本家が描いている今期アニメの「よりもい」の方を勧める。
平成の世に青森の山村で生を受け、田舎者としてのアイデンティティを育みながら高校を卒業。現役で都内の大学の文系学部に入学し、初めて覚えたお酒やタバコ、麻雀に塗れて遊び呆けること4年、かつて純朴たる津軽っ子だった私は3度目の留年の危機に晒され、平穏無事に3度目の留年が確定したのが、つい先月のことだった。
入学時、私が胸に抱いていた”憧れの大学生活”とは、椎名誠の作品に見られる”酒に振り回される共同生活”や、森見登美彦の作品のような、”汚い豚小屋みたいな下宿”に住まうことであって、このように退廃的な大学生活を希求して一人暮らしを始めてしまったが故に、大学の単位はことごとく落とし続け、すべからく留年を3度、他人から見たら紛れもない奇行に突っ走る人間となってしまった。しかし自分でさえこの行為を”そろそろヤバイな”と感じ始めたのは、精神的な成長の一歩と数えて片付けるよりは、むしろ目の前にある現実的な要因を検討するべきであり、その要因とは単純明快、自分と同期の女の子、つまり今年卒業する女の子に愛の告白を断られたからである。しかも2人。
恋の終わりの始まりは1ヶ月前に遡る。春休みに入ってから、いよいよ卒業する同期の友人たちの事を考えていたら、お互いが学生であるというまたとない機会に一度飲むべきとの結論にたどり着き、この4年間何がしかの付き合いがあった友人たちに”酒を飲もう”と、DMの配達員ばりに無差別にメールを送りつけた。多様な返事、または声無き返事が返ってきた中で、”暇なお前を相手にする時間は無いよ”と、事実暇な私に対する軽蔑を露わにする内容もあれば、”暇だけどいいや”と、私への嫌悪を隠そうともしない内容までもあった。そんな辛辣な電子のやり取りにおいて、慈善事業の一環なのか、この私と酒を酌み交わしたいと申し出る者も数名いた。ありがとう、ありがとう。君らだけが友人だ。では飲もうじゃないかと、ここ1ヶ月間、相手を代わる代わる酒宴を開いていた中で――20代前半の青っちい我らである。若い男女が杯を重ねれば当然のように――情事は常に避けられない。この1ヶ月、何度かの姦通があり――これもまた必然――、男女が淡い恋の色を見出すこともあった。一度ならず、二度。つまり、私はこの1ヶ月の間で二度の恋を経たのだった。そして、既に明かしているが、二度フラれた。
恋の遍歴に関しては誰も興味無いだろうし、思い出すだけで地獄の業火のような苦しみに焼かれるので、端折って私が敗北を喫した台詞まで飛ぼう。それは、二人とも――まるで示し合わせたかのように――、全く同じ文言で――ホントに示し合わせたんじゃないだろうかと疑うほど――、「増田君、卒業するの3年後でしょ?私そんなに待てないから、ごめん」と。なんという悲劇!私が自ら求めて送った退廃的な学生生活の終着点は、モテないという事実だったのか!一人目まではよかった。仕方あるまい、次に進もうと、滑稽なまでに楽観的な自分を保つことが出来た。しかし二人目まで同様の言葉を吐いた時にはもう、私の精神は切り刻まれてバラバラになり、じっくりコトコト煮込まれて、三留陰気クソ野郎のシチューが完成した。こんなドロッドロで塩っ辛いシチューを食べたがるバカ舌の妖女は今後現れるのだろうか。私は二人から留年を理由にフラれたことによって、自分の恋愛市場における価値の低さをようやく認識するに至ったのだった。
”留年したからフラれた”というのは本質的には”将来性が無いからフラれた”という事実に直結している。確かに私は”将来性”なんてなんの根拠も無い信仰みたいなものでしか無いと考え、”俺は今なんだよ”とツッパリ続け、この4年間、それを育む行為を一切放逐した生活を送ってきた。この事実は自認しているのだが、まさかこんなにも早く、”将来性”のビハインドが影響する年齢に達するとは想像もしていなかった。三留って世間的に見てかなりヤバイんだなと自認するには二度の恋の敗北が無ければあり得なかったというのも、またヤバイのだが。
恋愛市場の非情な一面とは、同年代の男女の需給が年齢によって一致しないところである。男はいつまでも恋を求めるが、女性はそうではない。どこだかの著名な先生が言っていたが、女性は大学を卒業するタイミングで、男を評価する視点を”恋愛”から”婚活”へとスライドするらしい。すなわち男に求める要素が変化する。それも驚異的に。私がここまで絶望しているのは、奔放な大学生活において比較的モテる立場にあったのが、加齢に伴う恋愛市場の変容によって、唐突にオケラ級にモテない立場にすり替わったからである。未だに自分はモテると信じたいのが本音だが、実際に同期の女の子からしたら、私はオケラだ。彼女らからしたら、将来性なんて一ミリも感じないだろう。私も感じていないのだから。
私は高をくくった羽ばたく鳥であったが、恋愛市場の神の見えざる手は飛ぶ鳥をはたき落として、地面にめり込んだ私は三留オケラ野郎として慎ましく穴でも掘って生きていくことを余儀なくされている。人生つら。
会社にもよるけど競争社会だと必然そうなるよね。極端な話だけど、一番を目指して男女混ぜて競争するようなものだし。
将棋を男女混ぜるとか、オリンピックを男女混ぜるとかね(私は興味がないので混ざっても良いけど)
だから女性が男性同様に働きたい、ってのをみると、へー、そうなんだ、5年後おんなじこと言ってるかな、と思う。生理の時とか大変じゃないのかな。あまりきつくない女性なら大丈夫かな(もちろん優秀な女性がいるのは理解してるし活躍もしてる、ただ総体としてみるとハンデはないですか、と)
これまでのシューゴさんの態度を顧みるに、今回も改善の余地は見られないであろうことは想像に難くない。
監督降板をチラつかせたくらいで大人しくなるような人格でないことも分かっていた。
実質的に、今回は降板のための“分かりやすいキッカケ”を得るためにシューゴさんを呼び出していたのだ。
「シューゴさん……」
「ふん、せえせえするぜ。上からはアニメを碌に知りもしないくせに口を出され、PCクレーマーやオタクからはつまらん粗探しばかりくる。その肩の荷がやっと下りた」
重役たちが“そのつもり”だったように、シューゴさんも“そのつもり”だったのだろう。
日々、アニメのことを考え、アニメを作っていたシューゴさんにとって、それ以外のことはノイズだった。
それを気にすることを強要される位なら、いつでも引導を渡してくれて構わないつもりで臨んでいたのだ。
「フォンさん、よかったな。これからはオレとお偉いさん方の間で板ばさみにならなくて済むぜ」
「ワタクシは……」
「フォンさんは純粋にシューゴさんが降板したことを残念だと思っているだけですよ」
「オレが降板するのは既に決まったことだ。若干ムカついて悪態はついちまったが、肩の荷が下りたってのも本音なんだ」
しかし、重役やシューゴさんたちがそれで良くても、父たちは納得できない。
するわけにはいかなかった。
なにせ『ヴァリオリ』におけるシューゴ監督という存在は、独楽でいうならば“軸”だ。
アニメがたくさんの人間の力によって作られているとはいえ、軸なしでコマを廻し続けることは困難だろう。
「シューゴさん。俺たちが撤回する方法を何とか模索してみます。ですから、いつでも戻ってこられるよう準備だけはしておいてくれませんか」
父たちの説得に、シューゴさんはイエスともノーとも答えなかった。
だが未練がないといったら嘘になる。
ましてや、長年の仕事仲間に「戻ってきて欲しい」と直に言われ、それを無下にもできない。
「自分たちでやれることをやりたいって言うのなら、勝手にすればいいんじゃないか? だが、成果が出るかどうか分からない、出たとして時期すら未確定のもののために、悠長に待つほどオレは我慢強くないぞ」
つまりシューゴさんが次の契約を得るまでという、条件付きでのOKサインだ。
「よし、そうとなったら早速行動に移りましょう!」
「そうですね……あ、シューゴさん。監督を降ろされたことについて、ブログとかに書かないでくださいよ」
物事において、波風が全く立たないなんてことは有り得ない。
「それ、もう少し早く言って欲しかった」
屈託のない返事に、父たちは青ざめた。
韓国って北朝鮮との南北融和を推し進めようとして反日してるけど。
もし韓国と北朝鮮が併合されたら「韓国が核保有国家になる」という事を考えていないんじゃないかな?
北朝鮮を支援しているのは中国だし、中国と北朝鮮に過剰な配慮をしているのが日本のマスゴミ。南北併合された韓国は中国の支配が強まるのは必然。
あまり聞かない名前なので情報がとても少ないが、悪化した人の統計データによると
なのであと15年ほどで自分の寿命がくるものと思って、ここ数年間生きてきた。
子供の頃、20歳はとてつもなく遠いところにあるものと感じていた。
30歳、40歳が今は遠くに感じているが、きっとあっという間なのだろう。
自分は人生に対して何かストーリーを求めていたのかもしれない。
他人から見て素敵だなとか、尊敬してもらえるような、そんなストーリーのある人生を作っていくことを無意識に想像していた。
世界史は高校時代の授業で年間の90%以上を爆睡して過ごしていたが、この世界について知りたければ世界史は必然と必要になると言うことを知った。
世の中は知らないことだらけだ。働きながらではあるが、少しずつ身につけていきたい。
人生にストーリーを求めてしまうのは、「人生」というものが自分に何かを起こしてくれるんじゃないか、とか、そんな甘えの気持ちがあるのだろう。
もう一度あの増田を読んでみよう。
これは全くの正論だと思う。各世代が自分より10〜20歳下世代の常識を正しく内面化させる事は多分出来ないと思う。その上で社会を回して行く中心層が下世代に移行した場合は、上世代が社会の在り方から外れて行くのは、程度の差こそあれ、ホボ必然なのだろうと思う。これは基本的に遥か昔から繰り返されて来た必然というか恒例の出来事なのではないだろうか。
ただ直近20年の日本とそれを取巻く環境変化の大きさは、長い歴史の中でも類を見ない種類の物なので(戦争/疫病/災害以外で緩やかに人口減少して行く事態は多分相当珍しい)これに連動して、様々な局面で「以前の行動の意味が消失する」みたいな事が起き、ストレス含みの衝突が顕在化し易くなっている。というのはある様な気がする。
10年〜20年前に当然とされていた「教育/商売/家庭/性差/対人関係/etc...」の「社会を構成する主要な価値観」がことごとく崩壊し「次世代にそれ等を継承するメリット」自体が消滅する中で、旧世代と次世代との接触がストレスしか生まないタイミングに差し掛かっているんだろうと思う。想像でしかないけど、明治初期とか、太平洋戦争終結直後、とかも、似た様な現象が起きていたのでは?という気がする。
今というタイミングはそれくらいにインパクトの大きい「変化の局面」なのだろうな。とは思う。自分も40にさしかかるオッサンなので、ここ最近の変化の速度には相当戸惑っているが、ここから20年くらいはゴタゴタが続く気がするので、今の30代も、今の20代も、各々10歳下から疎まれ蔑まれる未来に直面するのでは?という予感が凄くする。大変な時代だな。と思う。
昔は絵を描く趣味はイラストか漫画が普通だったが、俺はドット絵や16色CGを描いていた。昔のパソコンはファミコン以下の絵しか描けなかった。使える色も少ないし制限も多い。しかしその制限の中で絵を描くのが面白かった。制限がその機種の個性にもなっていた。使える色は多いけど解像度の低い機種、解像度は高いけど16色をやりくりする都合でセピア風っぽくなりがちな機種、CG性能は良いけどFDDでは役不足な機種、簡易アニメが作りやすい機種などなど。FDDが普及してCGが保存しやすくなり、高級品だったマウスも安売りで買った。
イラストや漫画ではなくドット絵やCGを好んだのは、何度でもやり直しが出来る事と、画材の出費が無いからだ。当時のCGソフトのアンドゥ機能は1回しか後戻りできないものが多かったが、そもそも解像度の低いCGなので時間さえかければ幾らでも描き直せた。実は紙のイラストも練習してカラーインクなどを買ったりもしたが、失敗すれば紙1枚が無駄になる事が大きなプレッシャーに感じた。ホワイトなどで修正するほど仕上がりは汚くなっていく。CGならばやり直せるしゴミも出ない。
就職先もゲーム会社を選んだが技量もなく不採用で、しかしCGをやめるという発想はなく、同人CG集を買うようになり、俺も同人でドット絵やCGを描くようになっていった。
…ここまでインターネットのイの字も無かった頃の話。
90年代の中ごろには「草の根BBS」というものも増えて、電話代を気にしながら上手い絵師のCGをダウンロードした。
恥ずかしながら俺も幾つのサークルさんにお声をかけて頂き、ドット絵やCGや素材を作った。
90年代の同人事情というと、絵柄には個性があって当然という時代だった。絵を見れば作者がわかる。芸風とも言えるほどだ。デッサンの歪みなどはさほど神経質ではなかった大らかな時代で、初心者がしばしば眉毛を描き忘れたアニメ絵を描いているのも微笑ましかった。当時の同人でのアニメ絵は趣味性と個性を主張するアイコンだったように思う。
当時の同人での絵師はまだCGより紙に描くほうが普通で、マウスをカチカチ鳴らして絵を描く人は案外と少なかったようにも思う。上手い人はとんでもなく上手くて真似できないレベルだったのと、俺より下手な絵師も多かったので、俺は落ち込む事もなくCGを続ける事が出来た。
90年代半ば、Windowsが話題となりインターネットも流行し始めた。この頃ようやく現在のCGイラストの元となる環境が世の中に広まったわけだ。解像度の制限が(殆ど)無いフルカラー(最低でも256色)のCGイラストが描ける環境が整った黎明期だった。FDDには圧縮しても10枚程度しか保存できなかった事もHDDが当たり前になった事で解消された。
当時ようやくスキャナが一般的になり始めた頃でもあったが、まだまだ高級品で、アナログ画材の出費も惜しんでいた俺には手が出なかった。ハンディスキャナを買ったが歪んで使い物にならなかった。
この頃からCGイラストを描く事の楽しさが薄れ、苦労が付きまとうようになった。
そもそもWindowsが動くPCが高級品だった。専用ソフトも高いし、フリーソフトは殆どなかった。CGソフトもイラスト専用のものは少なく機能も貧弱だった。
俺の個人的な事情では同人での活動が次々とトラブルに見舞われる事が続いた。参加したゲーム制作の中止が複数重なったり、同人ゴロの被害にあったりした。
しかし一番の苦労のひとつは、理解され難い事だったのかもしれない。
PCで絵を描いてもPCが無ければ見れない。親からは1日中パソコンに向かっているうようにしか見えない。世間ではしばしばアニメやオタク趣味が悪者として魔女狩りが繰り返され、時代もアニメ絵ではなくポリゴン絵に移り変わっていった。…自分以外の何かを言い訳にしたい気持ちも大きいが、理解されない事をする苦痛が結構大きい事も事実だ。
16色とかの制限の多い時代には才能の乏しさはあまり目立たなかった。描ける絵には限界があり、その最適解を探し出す事がドット絵だった。カラーパレットをどのように振り分けるか、どの色をタイリングで済ませて色数を増やすか、1ドット未満の線をジャギー消しの手法で描き、ブラウン管の光度差で滲ませる、才能ではなく技術でどうにかできた。しかし色数がフルカラーになった事で俺は途方に暮れた。CGは技術ではなく才能こそが全ての世界になった。インターネットがどんどん一般的になって、上手い絵師だけが評価される世界になった。…それが当たり前だという事を認めるのに何年もかかった。
00年代になると、90年代に人気だった絵師の多くが姿を消した。フルカラーで90年代の彩度の高いイラストは古臭いものとなりつつあったし、個性もさほど求められなくなったからだろうと思っている。90年代に人気だったプロのイラストレーターの苦労も時々目にするので、90年代に人気だった同人絵師が姿を消したのも必然なのだろう。
00年代の俺は才能の無さは自覚していたので、当時流行していた3D-CGを始めた。当時の宣伝文句は概ね「絵の描けない人でも出来る!」だ。貯金を切り崩して六角大王や海外製3Dソフトを買い相当練習したが、結果は失敗だった。数年我慢してMMDを学べばよかった。俺は才能だけでなく時代を読む目もなかった。
2010年代、ドット絵の需要も懐古趣味しか無くなり、CGイラストは毎日毎日物凄く上手い人が出現し、俺はCG-TIPSを検索しては真似をしてなんとか時代に取り残されないよう苦労し続けた。しかしCG-TIPSを学んでいて気付いたのは、CGの塗り方の流行は結構短いスパンで変わってしまうという事だった。俺がなんとか使いこなせるようにあった頃には他の誰もがもっと上手く使いこなしていて、なんとか追いつこうとしているうちに次の流行に変わっている。CGがネット上に溢れかえっているから、目新しいものが求められ、俺のような才能の無い微妙な絵はネットノイズでしかなかった。
最近では長年CGを見続けてきた俺には誰が描いたのかまったく判別できない絵が増えてきてゾッとしている。とてつもなく上手いけど他の上手い人の絵と見分けがつかない絵。これはテレビアニメの多くがそういった傾向なので誰のせいでもない事だが、。
そして物凄く薄く繊細な塗り。フルカラーなのに明度差が微妙にしか違わない繊細なグラデーションは16色のカラーパレットでCGを覚えた俺には到底無理だ。こんな絵を目指さなければ人目を惹かないのかと思うと心が折れそうになる。しかし他人のCGからスポイトでカラーパレット拝借なんて出来ない。絵の才能だけでなく色彩センスもない俺自身が恨めしい。
上手い絵師には嫉妬心もわかず、ただ自分の才能の無さを思い知らされるばかりだ。
本当に絵の上手い人の特徴はとにかく早い事だろう。イメージを迷うことなく描画する才能がある人ほど上手い。
俺はイメージが貧相だしラフを描いている時も悩んで時間がかかる。出来上がるのはピンボケの絵にしかならない。
俺にとってCGは既に同人ではなく個人的趣味でしかなく、楽しいという気持ちも無い。苦労であり苦痛でしかない。しかしいまさらやめるわけにはいかない。色々な事を犠牲にしてきたのに、やめたら本当に何も残らなくなってしまう。同世代の人はみんな趣味はほどほどに、結婚したり出世してしっかりした人生を歩んでいる。いまさらCGやめたって人生で得られなかったものが手に入るわけでもない。歳を取って健康も不安が付きまとうようになってきた。いつ死んでもおかしくないが、死ぬ前に下手糞な絵の制作データは消去したい。
最近は愚直にデッサンの練習をしているが、デッサンに固執すると絵の魅力が薄れる感じもあって苦労している。正直に言うともう絵を描く事が好きではない。そんな底辺中年絵師の俺が誰に向けて描けばいいのか。ネットには上手い絵が溢れすぎていて需要なんてない。上には上がいる世界では下の物は叩かれるだけの存在だ。自分の為に描こうにも、俺が見たい絵さえググれば出てくる時代だ。
じゃあやめろよと言われるだろう。やめたら俺どうすればいい? 他には何もないんだ。
先日から始まったアイドルマスターSideMの3rdツアー。数万円詰んだが当たらなかったのでとりあえずLVにいった。アイドルマスターSideMは去年末にアニメ放映を終え、なんとなく今はそこそこ勢いがあるジャンルな気がする。
まずアイドルマスターSideMとの思い出を語りたい。話の本筋とはそんなに関係ないかもしれない。
私はアイドルマスターシリーズに本家アニマスからハマった。その時既に放送は終了していて、TSUTAYAで借りたDVDを一気に視聴し、ストーリーや設定に引き込まれた。ただの萌え豚アニメではない、れっきとしたアイドルアニメだと感じた。
本家キャラのカードが欲しいがためにデレマスを始めて、私は当時不遇だった健気で頑張り屋さんで没個性な島村卯月にハマった。デレマスが初ソシャゲだったが、ポイントSRを集めたりとそこそこ頑張って続けていた。しかし、島村卯月が報われて声が付きCDが出てアニメ化が決定し、なんとなくデレマスはもういいかな、という気になっていた。ふと、女性向けがあれば友達にも勧められるしハマってくれるかも、私ももっとハマれるかもと思ったりもした。しかし、Jupiterの事件のこともあってアイマスシリーズで男性アイドルはもうないだろうな…と思っていた。
だがそのときアイドルマスターSideMが発表された。驚いたがJupiterが正規に活躍出来る上に、待ちに待った女性向けアイドルマスターシリーズの発表だ。もう発表の時点でこのゲームにハマろう、と決めていた気がする。
ゲームは始まった瞬間終わってしまった。一番周りの気持ちが盛り上がっていて、話題性にも富んでいた時に長期メンテナンス、サービス開始の遅延…。サービスを再び開始した時にはすっかりsideMの話題性は無くなっていたように思う。それでも腐ってもアイドルマスターシリーズ、突拍子もないアイドルの過去や女装アイドル、BL紛いの関係のアイドルだったりとサービス再開直後もそこそこは盛り上がっていた。
突拍子もないキャラ設定には私も当初から不満はあったが、デレマスで慣らされていたためかやめるまでには至らなかった。始まったばかりだからか、女性向けだったからか、初めてソシャゲでとれた上位報酬が桜庭さんだったこともあって、無課金でも走ればとれるんだ!と学習して遊ぶに気もなれた。
sideMはネタゲームとしては面白かったし、逆にそのネタゲー感が他の女性向けと違って良かったのかもしれない。
けれど、当初は1度で覚えられなかったりあまり好きになれないキャラもいた。その1人がカフェパレードの卯月巻緒で、ケーキチという設定からして法子がウケたからってその二番煎じキャラかよ、と思っていた。三つ編みや編み込みのキャラは好きだったため外見はタイプといえばタイプだったが、男キャラだと思うとどうなのか自分でもわからなかった。
それが一変したのはゲーム内の雑誌を開けてからだ。咲ちゃんや巻緒の雑誌を見て、見た目がこんなにかわいいのに少女漫画の男役のようなイケメンだということを知り、ギャップで巻緒に落ちた。カフェパレの雑誌をあけ、個性豊かすぎる面々が継ぎ接ぎだらけの家族のように過ごしているその様子におちた。カフェパレというユニットにこめられた、自分らしく幸せになろう、といったメッセージ性を感じ、そこから私はめでたくカフェパレ箱推し巻緒Pとなったのだ。
サービス再開してしばらくして、イベントのバランスだったりハブイベが出てきたりあまりにも渋いガシャだったりと問題も頻発して、その度に一喜一憂した。受験を挟んでいたりなどして離れる時期もあったが、カフェパレのイベントで2枚取りをしたり、ドラスタに声がついたニコ生をリアル視聴して興奮したりと、いわゆる自分がこのコンテンツを育てているような錯覚は気持ちよかった。
sideMの1stライブに当選した私は、初めてアイドルマスターのイベントに現地参加をした。この時はこのユニットたちに意味があるなんて全く思わなかったし、2ndではあとのユニットがきっと出るだろうと信じて疑わなかったから、純粋な気持ちで参加できた。とりあえずサービス当初からずっと追いかけてきたゲームのライブに参加できることが嬉しかった。
1stライブは最高だった。長い時を経て揃ったJupiter、新人なのにジャンルを盛り上げようと頑張ってくれているドラスタ、クオリティの高いダンスを披露してくれたW、あまりにもインパクトのあったSEM…、その他諸々…。とにかく涙が出たし、声優ライブを批判的な目で見ていた私だったがとても感動したのだ。声優さんたちってすごく頑張ってくれてるんだなあと思った。カフェパレが出なくても、当然のように2ndがあると信じていたし、そう信じさせてくれるような1stだったから満足だった。
格差を意識したのは、ハイジョーカーは箱イベなのにカフェパレは分断イベが多かった時だろうか。総選挙はワクワクしたが、蓋をあけてみればハイジョ一強で、なんとなくこのコンテンツに不安を感じた。
その後カフェパレにも声がついて、あれよあれよというまに2ndが決まった。1stがとれたからと油断していたら抽選は外れたが、詰んでなかったのでダメージは少なかった。しかし、初日LVに参加したものの、楽しくなかったのだ。それもそのはずで、私はSLをカフェパレあたりから買ってなかったのだ。オリピなんて当時一枚も買ってない。ちょうどその時が受験で離れていた時と重なっていたのか、プライベートが忙しかったのか…。とにかく初期に比べて生活のsideMへの比重は少なくなっていた。
それでも二日目はカフェパレが出る。最初から二日目が私にとってのメインだったので、二日目に期待を寄せていた。
結論から言うと私は二日目LVに参加できなかった。単純に自分のチケット手配のミスで。担当アイドルの初披露を見れなかった、このショックは大きく、しかしこんなことでショックをうけるオタクの自分にもいい加減嫌気が差してしばらくsideMから離れようとした。しかし、その日のライブでアニメ化とアプリ化が発表された。アニメ化アプリ化は純粋に嬉しかったし本当に楽しみにしていた。
けれどしばらくして上がったアニメのキービジュアルにはカフェパレがいなかった。
エムステが始まって、勝手にデレステのようなアプリを期待してたからかやり込み要素のない音ゲー、代わり映えのない立ち絵、今時フルボイスじゃない…、謎のゲームバランスだったりとヘイトがたまってしまった。
けれど3Dでアイドルが踊るのだけは本当に嬉しくて、ご祝儀だったりこれからのアプデへの期待も込めてそこそこ課金はした。
ただSSRを何枚集めてもイベントを走っても、カフェパレのストーリーはまだない。カフェパレ箱イベントはエムステにはない。私はカフェパレの関係性が好きだったのに…。
アニメ放映が近づいても、キービジュアルにカフェパレがいないことがずっと腑に落ちなかった。2クールやって、途中から全ユニット出るんだよね?とか、2期があるはず、とかキービジュアルには出てないだけだ…とか。
そしてアイドルマスターSideMのアニメが始まった。友人との誘いを断ってまでリアルタイム視聴にこだわり、正座待機して見ていた。楽しみでもあるけど、親のような気持ちというのが大きかったと思う。でもあんまり期待していなかった。カフェパレが出るかどうかもわからないし、期待しすぎると痛い目にあうのがsideMだったからだ。
けれど、最初のEpisode Of Jupiterに期待ではなく予想をうらぎられた。
これが、あまりにも良かった。
泣いたし興奮もした、こんなにアニメが愛に溢れてるなんて…と驚いた。
アニメの出来自体は良かったと思う。けれど、なにか物足りない。EOJと違って、アイドルをしてる感じがないのだ。ユニット内で完結していることが多すぎる。ファンに伝えたいことは?どうしてアイドルになったの?無難にまとめようとして、魅力が伝わりきらない…そんなように見えた。EOJとどうしても比べてしまい、Jupiterは思入れもあって設定も作り込まれていたから面白かったのかな…と思ってしまった。(あとSEM回は文句なしに面白かった)
最終話が近づくにつれ、Twitterも荒れてきた。グッズ展開にも、全てにおいてアニメ組とそれ以外で格差ができてしまった。アニメから入ったアニメ組ユニットのPが楽しんでいて、サービス開始からいたアニメに出てないユニットのPが楽しめないでいる、そんな図が確かにあった。勿論私も典型的な後者だ。
アニメの話がつまらなければヘイトが溜まるし、面白ければなんでここに担当がいないのかとヘイトが溜まる。アニメ組のユニットも大好きだったのに素直に応援出来ない。楽曲格差、グッズ格差、アニメ展開との解釈違い…。
そして何故かリアルの2ndライブがsideMのファンやそれ以外にも強く受けていたように思える。アイドルマスターの若手声優の登竜門となっているところは好きだったし若手声優のことは応援していた。けれど、どうしても声優とキャラを同一視する流れについていけなかった。
そんなに若手声優をファンが持ち上げる…、まあ若手声優は囲ってあげないといけないのかもしれない、そう思っていた。けれど、あるときの某若手声優のニコ生でのイキリ発言。悪気があったのかどうかはわからないが、先輩声優は苦笑いしていたように見えた。その人にもストレスがあったのかもしれないけれど、その人がキャラと同一視されやすく、sideMのファンから持ち上げられることが多い声優だったからなんだか無性に腹が立った。
自分のことをアイドルかなんかと勘違いしてないか?私が好きなのはキャラであって声優じゃないのに…と落ち込んでいる私をよそに、だいたいのファンが声優とキャラを同一視して楽しんでいた。声優から作品にハマるのはいい、声優ファンなだけで作品にそんな興味はないのもいい、けれど声優と作品をごっちゃにするファンのせいで声優が自分をアイドルと勘違いするのでは…とおもっていた。逃げ場を求めて2chを探すと、声優のアンチスレが沢山出てきた。私だけじゃない、と安心したのもつかの間で、アンチスレでは声優を蔑称で呼び、人格的なこと、容姿のことについて攻撃的な悪口がたくさん書かれていて、ついていけなかった。人格を攻撃したい訳でも容姿を攻撃したい訳でもない。ただ、声優さんにキャラを、作品を、そのファンを大切にしてほしいだけ。ファンに声優とキャラを同一視してほしくないだけ。そんなことしたいなら、今流行りの2.5次元のミュージカルにでもいけばいい。
我慢出来なくなったのは、アニメが終わって年明けの担当ユニットのラジオだろう。当然楽しみにしていた。でも率直な感想を言わせてもらうと仲悪そうなオッサンたちがぐだくだつまらない話をしてるだけに聞こえた。エムステで配信されてたユニットで演じるラジオみたいなのを期待した訳では無いけど、理想と現実の落差。よくこんなのをキャラと同一視する人がいるな…と、アニメに出ずエムステのラジオもなく、やっと担当の仕事だ!と思ったラジオがこんなのだったショックが大きかった。声優や運営との温度差を感じたのだ。
気がつくと3rdが近づいていた。3rdライブについても不満はたくさんあった。EOJで好きなのにライブに行けないファンの悲しみを描いた癖に、それを現実でやるのかと。アニメ化する前とした後のライブをなぜ一緒のとこでやるのかと。声優とキャラを同一視する風潮は嫌いでも、sideMのリアルイベントはファンとしてもどうしても行きたい。なけなしのバイト代で何万かかけてシリアルを詰んではみたが勿論全部落選だった。ガシャで爆死する何倍も辛かった。
そのときに某ソシャゲがそういえばアニメ化して、放映するという情報を掴んのだ。アイドルものは基本的に見るので、アニメを見ることにした。それがきっかけでそのソシャゲも前にアンインストールしたのを再インストールした。
そのときアイマスに飽きていた訳では無い。むしろモバエム、エムステ、デレマス、ミリシタ、その某ソシャゲ…と私の中でソシャゲ全盛期だったと思う。アイマスアプリの体力回復待ちのつもりで始めた某ソシャゲだったが、昔詰んでいたのが不思議なくらいさくさく進められて、いきなり沼に落ちてしまった。そのアプリの一番の特徴として、作り込まれたストーリーが印象的だった。アイドルマスターシリーズはなんとなく、あえて設定を作り込まないでファンの解釈に任せているところがあるが、そのアプリはその逆だった。
そのアプリにハマっている最中に3rdライブがやってきた。知っての通り、つい最近の話だ。3rdライブは楽しかった。情熱が落ち着いたお陰か期待しないで見れたし、いい席だったしLVでも楽しめた。ただ、やっぱり声優のことでなんとなく、場面場面でもやっとしてしまうことがあった。
例をあげれば投げキッス。男性アイドルのライブならわかるけど、私はキャラが好きでこのライブにきている。声優が好きな訳では無い。声優が出ているだけ。いや、声優が好きだとしても声しか好きではない。仕事を尊敬しているだけでしかない。なのに、オッサンの投げキッスをアップで見せられる。
例えば挨拶。キャラが好きなだけなのに、キャラ声でもない地声で、オッサンに俺たちをここまで連れてきてくれてありがとうとか言われる。
例えば歌。アイマスの能力値と実際の能力が一致しないのなんてわかってる。ダンスやビジュアルなんて声優に一切求めていない。でも、歌だけは声の範疇なんだから頑張らなきゃいけないところなんじゃないの?と思ってしまう声優さんが何人かいた。
3rdライブが終わって、キャラの絵で声優の掛け合いを描いたレポが多く出回った。声優の掛け合いについてみんな熱く語っていた。こんなにアイドルマスターsideMって声優ありきのものになってしまったんだなあ、と他人事のように思った。
そうしてストン、と何か諦めがついたのである。あのころのsideMは、もうないのだと。
誤解されないように言うが、声優が嫌いなわけでは全くない。歌下手だな…とか演技下手だな…と思う人がいても新人だったら仕方ないと思うし感じ方にも個人差がある。問題は、どれだけ作品とキャラとそのファンのために献身的に自分を殺せるかどうかだけだと思う。けれど、声優の自己主張を良しとして、むしろそれを喜んで受け入れてるファンの存在が目立ったのが一番辛かった。でも、声優さんにもファンにも何も罪はない。私がただ、ずれているだけだだから。
声優ありきの、ライブありきのジャンルとなってしまうのが辛かった。だって私が一番このジャンルにハマったのは、キャラに声がついていなかったときだから。キャラに声がつくのはすごく嬉しかった。曲が増えるのはとても嬉しかった。だから自分がこんなことになるとは思わなかった。
声優についての考え
アプリへの不満
改めて感じる設定の粗さ
これらに嫌気がさしていた私が、某ソシャゲにハマったのは必然だろうか。
某ソシャゲは、ストーリーがフルボイスでしっかりしていた。音ゲーが面白かった。曲が、アニソンキャラソンっぽくなく、本物のアイドルソングのようだった。私の好きな作曲家が提供している曲もあった。アニメ化が決定してもまだライブを行っていなかったことから、ライブありきのジャンルではない安心感があった。ストーリーではちゃんとアイドルものに欠かせないファンが出てきた。キャラがファンのために頑張っていた。アイドルになりたい理由がはっきりしていた。キャラクターの感情表現に臨場感のあるシナリオ。空白の補完に疲れていた私は、綿密に練り込まれているキャラ設定だったり伏線多めでリアルなストーリーに惹き込まれたのだ。
これでも随分文章を消した。こんなまとまりのない文章でも、言葉にしてみたら少し気持ちの整理がついた。ここまでTwitterで言ってきたこととほぼ同じことを語りました。Twitterでこんな感じのアカウント見かけたらそっとしておいてください。
文章の中でsideMの声優さんやファンについての文句が垂れたが、結局のところ自分がジャンルの流れについていけなかっただけで悪者なんかどこにもいないことはわかっている。アニメだって2クールやって全員出したところで格差をなくすのは不可能だっただろう。
次にハマれるジャンルが見つかって、sideMとプラスな気持ちで距離をとれることが嬉しい。某ソシャゲがなかったら、モヤモヤした気持ちのまま他にハマれるゲームもなくずるずると続けてはヘイトをためていたかもしれない。だから良かった。これからも応援くらいはさせてね。
土曜開催というのもあって、同行予定者が急遽行けなくなって、周囲に声かけたけど見つからなくて余計もやもやしたんだ。
行けなくなったことよりももっと前から分かってたらなっていう意味で。先行であっても1ヶ月ちょい前で、業界によってはそれだってだいぶ厳しいよなぁと。
もっと大きい、チケットがなかなか取れないっていうジャンルも見かけるけど、お金が出せるってことはそれだけ相応に責任も伴っている人が多いだろうからせめて って思ってしまったよ。
増田さんの言うとおり、前々から分かっている方に参加が増えるっていうのは必然な人もいるだろうからそれは一緒くたにしなくて良いんじゃないかなって思う。
いろいろ重なって去年の年収がちょっと大台に乗った。そんなにもらってたのかと思った。
給料が増えてた自覚がなかった。なぜなら使っていなかったから。生活にかかるお金は給料が増えようと増えまいと変わっていなかったから、その認識がなかった。
一応家計簿はつけていたけど、支出ばかり見ていたなあ。必要なお金を引いて今月はいくら残るって部分は見てなかった。通帳もちゃんと記帳しているけどただぼんやり数字が増えたな、使い道がないな、としか思ってなかった。
そう、使い道がない。
趣味は読書。あと昼寝。長風呂も好きだが、肌が弱いから温泉はあんまり。いくつかゲームもしている。課金はほぼしない。これまでの合算を平均しても月300円はいってないと思う。
ファッションとかインテリアとかアクセサリーとかは全然…じゃないけどほぼ全然と言っていいくらい興味がない。清潔感があってTPOに合っていて着ていて自分も相手も不快じゃないなら何でもいい。
とりあえず寒波に備えて防寒インナーを買い足しに行った。持ってるけど。まだ着られるけど。でもまあ最近寒いし増やしてもいいかなってようやく思えたから。そう思うのにも時間がかかった。
ユニクロでシャツを選びながら服って高いなと思いながら何でこんな風に思うのかを考えて、幼少時代の経験の根深さのせいかもと思った。
ゆで卵の作り方とか玉止めの仕方とか初等教育で教わったことって力強く自分の身に根付くけど、同じように幼少時代の経験が自分の根幹に残って将来にわたって思考や人間性に大きく影響する。当然のことかもだけど、その環境を離れてもずっと残って自分の基本になってると思うと恐ろしい。正直ちょっとおぞましい。
たぶん特段貧乏な家じゃなかったと思うけど、親はお金を使わない人だった。費用対効果とかメリハリとか将来に向けた貯蓄とかだったのかもしれないけど、子供はそんなこと知らん。
道具は壊れるまで使うもので、衣類は破れるまで着るもの(小4くらいまでは靴下は穴が開いても繕って履いてた)。機能性や効率は存在しない。
生活は我慢、楽は我が儘、外食はすべて贅沢、楽しいも贅沢、苦労と工夫が美徳。
生活はすべて苦労の上に成り立っていて、その他は塵芥レベルにしか存在せず、そしてそれを(それすら)楽しむのは罪悪である。ましてや自由などは塵芥レベル以下でも存在しない。
主観だから偏ってるかもしれないけど、自分の認識としてはそういう家庭だった。
兄弟がどう思っていたかは分からない。兄弟は自分より良い扱いを受けていたからたぶんまた違う印象だと思う。
ともかく、自分にとっては靴下でも下着でも新品を買ってもらえるのは本当に特別なことで、普通の普段着も誕生日プレゼントになり得ていた。だから何でもないタイミングで新しい自分だけの服を買ってもらえたときは、嬉しくて嬉しくて、毎日でもそれを着たいと思ったくらい。
…こうやって書き出してみると、どこのフィクション世界の孤児院か刑務所かって感じだな。自分にとっての現実でした。
そんな中でも本だけは十分に買い与えられていたから、いまでも本だけはどれだけ高価でも買ってもいいものになっている。だから趣味の読書もためらいなく続けられている。…いや、これは必然の結果かも。でも普通に読書好きだし楽しいからいいや。最近はデュマの椿姫がよかった。
もちろん教育として良い面もあった。物を大事に使うとか食事は残さないとか、そういうのはいいことだと思う。
でもたかだか1000円程度のインナー1枚買い足すのに、持ってるのに勿体ないかもって少しでも考えちゃうのはどうなの。
外出先ですごく疲れているのに、お茶の1杯を飲みにお店に入るのを迷ってやめるとかどうなの。
お金を使うことに後ろめたさがある。ケチとか節約とかいうレベルじゃない。最近ようやく、もしかしてこれはちょっと異常なのでは?と気づいた。
実際がどうだったか、今現在がどうかは別として、自分にとってお金は常にないものだ。
だから給料が上がってもお金があるという認識は生まれないし、お金がないのだから使い道も生まれない。
本当はたぶん、使い道はいっぱいある。
くたくたになってるカーディガンとか、袖がべろべろに伸びてるパーカーとか、筋が入ってくたびれてきた革靴とか、バッテリーが持たなくなってきたスティック型掃除機とか、生地の真ん中が大きく割けてる布団とか、ヒビが入って異様にギシギシ鳴るベッドとか。
新しいものを求める気持ち以前に、今使っているもので買い替えが必要なものがたくさんある。大きいものから小さいものまでリストアップすれば本当にたくさんになると思う。
でもそれさえためらってしまう。マメに充電すれば使えるしとか、中の綿が見えてても眠るのに問題ないしとか思って、本当にどうしようもないレベルになるまで先延ばしにしてしまう。効率悪い。分かってる。
過分はもちろんよろしくないけど、もう少し自分にお金をかけてもいいはずだと思う。自分の快適さや楽さを買っていいと思う。全然悪いことじゃない。
自分で稼いだお金を自分の生活を整え豊かにするのに使って何が悪い!
生活は我慢じゃないし、楽は我が儘じゃない。苦労だけが美徳でもない。幼少期の呪縛からそろそろ解き放たれたい。
ハティの最期の舞台を読んだ。解説で犯人当のミステリとしては簡単な部類かもしれないって書いてあってびびった。結構わかんなかったよ。思い返せばずばり犯人その人を描き表している部分があったけども。
大概のミステリがそうなんだけど、作中で犯人の名前が確定するまで作者の手の内で踊らされる糞雑魚読者です。
さておき、本作の内容について。最近の実社会の諸問題にも結構当てはまるけど、意図しない邪悪さが大概の悲劇の根底にはあるんだなあって思い知らされた。
殺されるハティは顕著だけれど、他の登場人物もそれぞれ罪深い我欲を持っている。とんでもない高校教師のピーターは言うまでもないけど、その妻のメアリにしたってもうちょっと夫婦間の接し方ってのがあるんだろうって思った。まあ介護やら仕事やらで大変なのはわかるんだけど。
この小説に登場する人物がみんな有してる罪深さって、ある種どうしようもないところに根差しているところがあるからしんみり来る。不倫の問題もそうだけど、他社への無理解とか、周りを無自覚に馬鹿にしているところとか、一本芯が通り過ぎている性格をしていたりとか、読んでいるとそうならざるを得ないよなあとか、そうなってしまうのもわかるわあって思わされてしまうから、一概にみんなを批判できないんだよね。
よく言えば主要人物はみんな肉付けがしっかりしているってことで、そういったどうしようもないところが人物に人間らしさなり人間臭さを与えているんだけど、それ故に軋轢が生じて問題に至ってしまうってのはさみしいなって思う。仕方がないことなのかもしれないし、そもそも軋轢の一切ない社会ななんてどんなデストピアだよって話なんだけど。
ただこの作品は、犯人が殺人さえ犯さなければ悲劇の度合いが幾分か軽くなっていたのかもしれない。人殺しはやっぱり駄目だからね。でもなあ、ハティがとんでもない怪物だから、こんな最期になるのも必然だったのかもしれない。
田舎町では異彩を放つとても賢い高校生で、他人が求めている反応をコミュニケーションの最中に読み取り活用できる天性の女優なんだけど、ものすごく邪悪なんだよね。愚かだといってもいい。
自分が被っている仮面がどれだけ罪深いか最後までわかってなかったんじゃないかと思う。自覚はしていたけど、認識がちょっと甘かったんちゃうんかな。
…がありますか。私はある。
だから「最近嫌がらせにより筆を折ったとある同人作家にまつわる話題」が流れてきた当初こそ、自身の当時を思い出して心が痛んだものだった。
けれど、そのことを激しく嘆くツイートや、学級会のようなリツイートが回ってくることに対して次第に違和感を覚え始めた。
「悲しい、酷い」「私たちから作品を奪わないで」などと、まるでご自分こそが悲劇のヒロインであるかのようなツイートをしているあなた。
あなたはその作家に対して、今までに一言でいいから「自分の言葉」でメッセージを伝えたことがありますか。
「これからは好きを伝えていかなくちゃ」などと、ご自分に陶酔していらっしゃるあなた。
あなたはそうおっしゃった後、誰でもいいから居なくなってほしくない作家に何かしらのアクションを送りましたか。
タイムラインを眺めている限りの狭い世界ではあるけれど、私にはどうもどちらもほとんど無いように思えて仕方がない。
言葉とはすなわち「力」だ。
「面白かったです。次も楽しみにしています」の短い文でも、☆や♡、スタンプのぽち押しより何倍もの力になって作者の次の糧になる。
逆に言えば、嫌がらせや文句も「作者に直接届けられる言葉=力」だ。
悲しいかな、刃のような言葉はたった一つでも、100の優しい言葉よりも何倍もの力をもって人の心を抉ってくる。
それでも、「優しい言葉、嬉しい言葉」の記憶があればまだ反芻して耐えられるけど、それをも超える攻撃がきたら終わり。ジ・エンド。
作家業食べているわけでもないし、趣味でそこまで辛い思いをしたくないと諦めたら捨てるのは簡単なこと。
あとから「あなたのことが好きだった」と言われても、嬉しくないとまでは言わないが「一番つらい時に聞きたかった」と考えてしまうのは必然だと思う。
このあたりはあくまで私の経験であって、件の作家さんの心情がどうだったのかは知る由もないが、似たような思いを抱いておられても不思議はない。
…まあ、ぶっちゃけてしまうと、作者本人でもなくまともに交流したことも無いただの外野のくせに、悲劇のヒロインぶってる奴は相当気持ちが悪いなってことなんですけどね。
「今度何か新作が出たらその時こそ」だの、「今はまだ勇気が出ないから、今は勇気を蓄える期間♡」なんて言ってる時点で手遅れ。
今まさに挫けようとしている作家には届かずに終わるでしょうね。
ツイートでは次回作の構想を呟いているあの人も、次に参加するイベントを吟味しているあの人だって、元気に見せているだけかもしれないのに。
流れて来たツイートで見かけたけど「明日もこの作品が読めるとは限らない」、まさにそれ。
それが嫌なら動け、それだけ。
おおっぴらに悲しんでいいのは、ちゃんと動いた人間だけ。