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はてなキーワード: 大規模化とは

2018-02-07

コインチェック事件WebエンジニアSIerの融合の幕開けかもしれない

 Webサイト技術の高度化

Webでは単純にテキストサイトではない本当に色々なことができるようになってきた。

HTML5になって以降まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだ。

ここ5年くらいでデスクトップアプリに負けないレベルSaasも出てきた。

SlackYoutube生放送GoogleドキュメントGoogle mapカーナビ代わりにしている人もいる。

Javascriptも相変わらず日進月歩TypescriptやらNodejsやらReactやらVue.js Three.jsなど、もうテキストサイト付属品ではないことは明らかだ。

個人的にはWebGLアプレットを使わず3Dの描画ができるようになったのは衝撃的だった。

 コインチェックで露呈したWebエンジニアの弱点

そんなわけで、Webはどんどん急激に高度化し大規模化してきている。

ここまで大規模化していったシステムセキュリティ的にもシステム的にもこれまでのような少数のチームがちまちま作るには手に負えない状況に来ているんじゃないかと思う。

それが表面化してしまった事件が今回のコインチェック事件ではないか

コインチェックはおそらくWeb系のエンジニア主体でイケイケで開発したんだと思われる。

デザインハイセンスUXも洗練されてる感じがする。

ただセキュリティが甘かった、つまりシステムとしてセキュリティ内面)に問題があった。

これはまさにWebエンジニアの弱いところを突かれたといっても過言ではない。

 WebエンジニアSIer

それに伴ってWeb企業SIer化していくんじゃないかというのが私の持論。

全てとは言わないが、これまでのWebエンジニアの開発スタイルはどちらかというとイケイドンドンでできたらいいや使えたらいいやの精神でやってきたんじゃないか

これでは大規模なシステムになるとセキュリティ保守も難しくなってくるだろう。

大規模なシステムはきちんとオブジェクト指向で作ってテスト駆動ウォーターフォール式で開発するのが筋ってものだ。長期的な目で見れば理にかなっている。

今後高度化していくWeb対応するためにはそうやって作っていくべきだろうし、自然にそうなっていくだろう。

大規模なサービスに関わるWebエンジニア自然SIer的になっていくんじゃないか

Googleスライドとかスプレッドシートヤバいくらい複雑なシステムだと思うしハイクオリティだとおもうんだけど、どんな開発体制で作られたんだろうか気になる。

2018-01-13

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven Beethoven.jpg 基本情報 別名 楽聖 生誕 1770年12月16日頃 出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン 死没 1827年3月26日(56歳没) オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン ジャンル 古典派音楽 活動期間 1792 - 1827 ベートーヴェンのサイン ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 目次 [非表示] 1 生涯 2 作風 2.1 初期 2.2 中期 2.3 後期 3 後世の音楽家への影響と評価 4 芸術観 5 思想 6 人物 6.1 名前 6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー 7 死因また健康について 7.1 聴覚障害について 8 親族 9 弟子 10 代表作 10.1 交響曲(全9曲) 10.2 管弦楽曲 10.3 協奏曲、協奏的作品 10.4 室内楽曲 10.5 ピアノ曲 10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 10.7 宗教曲 10.8 歌曲 11 著作 12 伝記 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 16.1 録音ファイル 16.2 伝記 生涯 ベートーヴェン(1803年) 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。 1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。 20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。 作風 初期 作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。 中期 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 後期 1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。 後世の音楽家への影響と評価 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想 ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。 また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。 政治思想的には自由主義者であり、リベラル進歩的政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。 その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 人物 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。 基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。 名前 原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。 vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンフリーメイソンリー 詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照 死因また健康について 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。 ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。 1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 聴覚障害について 難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。 耳硬化症説 伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。 又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。 先天性梅毒説 「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 鉛中毒説 上載の死因また健康についてを参照。 メッテルニヒ政権説 ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。 有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。 デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。 完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。 親族 祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版) フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。 祖母:マリア・ヨゼファ 父:ヨハン 母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 弟:カスパール・アントンカール 甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。 弟:ニコラウス・ヨーハン 同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。 弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子 カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。 フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。 ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。 アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。 代表作 詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照 交響曲(全9曲) 第1番 ハ長調 op.21 第2番 ニ長調 op.36 第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13] 第4番 変ロ長調 op.60 第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13] 第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12] 第7番 イ長調 op.92 第8番 ヘ長調 op.93 第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13] 管弦楽曲 『レオノーレ』序曲第1番 op.138 『レオノーレ』序曲第3番 op.72b 序曲『コリオラン』ハ短調 op.62 交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91 『命名祝日』序曲 op.115 『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113 『献堂式』序曲 ハ長調op.124 協奏曲、協奏的作品 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12] ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 ロマンス第1番 ト長調 op.40 ロマンス第2番 ヘ長調 op.50 三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56 合唱幻想曲 ハ短調 op.80 室内楽曲 弦楽四重奏曲(全16曲) 第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1 第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2 第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3 第10番 変ホ長調(ハープ) op.74 第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95 第12番 変ホ長調 op.127 第13番 変ロ長調 op.130 大フーガ 変ロ長調 op.133 第14番 嬰ハ短調 op.131 第15番 イ短調 op.132 第16番 ヘ長調 op.135 弦楽五重奏曲 (全3曲) ヴァイオリンソナタ(全10曲) 第5番 ヘ長調 『春』 op.24 第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47 チェロソナタ(全5曲) ピアノ三重奏曲(全7曲) 第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1 第7番 変ロ長調『大公』 op.97 その他の室内楽曲 ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17 六重奏曲 op.81b 七重奏曲 変ホ長調 op.20 管楽八重奏曲 op.103 ピアノ曲 ピアノソナタ(全32曲)   第8番 ハ短調『悲愴』 op.13 第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13] 第15番 ニ長調 『田園』 第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2 第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53 第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13] 第26番 変ホ長調『告別』 op.81a 第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106 第30番 ホ長調 op.109 第31番 変イ長調 op.110 第32番 ハ短調 op.111 その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等) 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76 ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57 幻想曲 op.77 ポロネーズ ハ長調 op.89 7つのバガテル op.33 11の新しいバガテル op.119 6つのバガテル op.126 バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 歌劇『フィデリオ』 op.72c 劇付随音楽『エグモント』op.84 劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113 バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43 オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85 カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112 別れの歌 皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87 宗教曲 ミサ曲 ハ長調 op.86 ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]  修道僧の歌 歌曲 アデライーデ op.46 汝を愛す 鶉の鳴き声 新しい愛、新しい生 口づけ 追憶 懺悔の歌 モルモット(旅芸人) 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 op.98 曇りのち、快晴 著作 『ベートホーヴェンの手紙』 外山楢夫訳、新しき村出版部、1926年。 『ベートーヷンの手紙』 中西武夫訳、啓明社、1928年。 『ベートーヷン書翰集』 中西武夫訳、啓明社、1930年。 『ベートーヴェンの手紙』第1編、鈴木賢之進訳、音楽世界社〈楽聖書簡叢書〉、1936年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫 2579-2581〉、1940年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎選訳、岩波書店岩波文庫〉、1950年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫〉、1957年、改訂増補版。 - 附:

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

Beethoven.jpg

基本情報

別名 楽聖

生誕 1770年12月16日

出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン

死没 1827年3月26日(56歳没)

オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン

ジャンル 古典派音楽

活動期間 1792 - 1827

ベートーヴェンのサイン

ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次 [非表示]

1 生涯

2 作風

2.1 初期

2.2 中期

2.3 後期

3 後世の音楽家への影響と評価

4 芸術観

5 思想

6 人物

6.1 名前

6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー

7 死因また健康について

7.1 聴覚障害について

8 親族

9 弟子

10 代表作

10.1 交響曲(全9曲)

10.2 管弦楽曲

10.3 協奏曲、協奏的作品

10.4 室内楽曲

10.5 ピアノ曲

10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

10.7 宗教曲

10.8 歌曲

11 著作

12 伝記

13 脚注

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

16.1 録音ファイル

16.2 伝記

生涯

ベートーヴェン(1803年)

1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

作風

初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。

中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。

後期

1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

芸術観

同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。

ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。

思想

ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。

人物

身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。

当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。

潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。

ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。

聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。

これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。

メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。

彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。

パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。

コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。

名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。

日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

ベートーヴェンフリーメイソンリー

詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照

死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。

1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

聴覚障害について

難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。

耳硬化症説

伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説

「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

上載の死因また健康についてを参照。

メッテルニヒ政権説

ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。

有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。

デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。

完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。

親族

祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版)

フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。

祖母:マリア・ヨゼファ

父:ヨハン

母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。

弟:カスパール・アントンカール

甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。

弟:ニコラウス・ヨーハン

同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。

カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。

弟子

カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。

フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。

ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。

ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。

アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。

代表作

詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照

交響曲(全9曲)

第1番 ハ長調 op.21

第2番 ニ長調 op.36

第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]

第4番 変ロ長調 op.60

第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]

第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]

第7番 イ長調 op.92

第8番 ヘ長調 op.93

第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]

管弦楽曲

『レオノーレ』序曲第1番 op.138

『レオノーレ』序曲第3番 op.72b

序曲『コリオラン』ハ短調 op.62

交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91

『命名祝日』序曲 op.115

『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113

『献堂式』序曲 ハ長調op.124

協奏曲、協奏的作品

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61

ロマンス第1番 ト長調 op.40

ロマンス第2番 ヘ長調 op.50

三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56

合唱幻想曲 ハ短調 op.80

室内楽曲

弦楽四重奏曲(全16曲)

第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1

第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2

第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3

第10番 変ホ長調(ハープ) op.74

第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95

第12番 変ホ長調 op.127

第13番 変ロ長調 op.130

大フーガ 変ロ長調 op.133

第14番 嬰ハ短調 op.131

第15番 イ短調 op.132

第16番 ヘ長調 op.135

弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)

第5番 ヘ長調 『春』 op.24

第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47

チェロソナタ(全5曲)

ピアノ三重奏曲(全7曲)

第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1

第7番 変ロ長調『大公』 op.97

その他の室内楽曲

ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17

六重奏曲 op.81b

七重奏曲 変ホ長調 op.20

管楽八重奏曲 op.103

ピアノ曲

ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 op.13

第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13]

第15番 ニ長調 『田園』

第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53

第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]

第26番 変ホ長調『告別』 op.81a

第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106

第30番 ホ長調 op.109

第31番 変イ長調 op.110

第32番 ハ短調 op.111

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34

創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35

『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78

ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79

創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80

創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76

ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120

アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57

幻想曲 op.77

ポロネーズ ハ長調 op.89

7つのバガテル op.33

11の新しいバガテル op.119

6つのバガテル op.126

バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。

オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

歌劇『フィデリオ』 op.72c

劇付随音楽『エグモント』op.84

劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113

バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85

カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112

別れの歌

皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87

宗教曲

ミサ曲 ハ長調 op.86

ミサ・ソレムニス ニ長調 [12] 

修道僧の歌

歌曲

アデライーデ op.46

汝を愛す

鶉の鳴き声

新しい愛、新しい生

口づけ

追憶

懺悔の歌

モルモット Permalink | 記事への反応(1) | 03:05

2017-07-07

https://anond.hatelabo.jp/20170706222437

ネトウヨ発祥の画期は2002年日韓W杯だと言われているが、俺が2chに入り浸りはじめたのもその頃だった。中学生だったかな。

まとめサイトもまだなく、「2chはヤバくて危険サイト」といった空気ギリギリ残っていた時代だ。

その頃は「ネトウヨ」でなく「嫌韓厨」と呼ばれていて、そのとおり2chでは「厨」として扱われていた。

一部の板だけで活動していた連中(多分にネタ混じりだったろう)が、日韓W杯きっかけにして活動大規模化した。

それに影響されて、なんとなく韓国に対するネガティヴイメージが広がっていったのがこの頃だった。

でもまあ、まだ「韓国ってバカだねー」「日本相手してないのにねー」という、あしらうような空気だったと思うし、

無関係の板に乗り込んできて政治活動を展開する「嫌韓厨」はやっぱり嫌われ者だった。

俺もそういう雰囲気からネトウヨ文化を知ったので、韓国に対しても嫌韓厨に対しても、どこか冷笑的に見ているような感じだった。

もう一つの画期となったのが2005年

韓流ブームに対する反発、竹島問題の再燃、マンガ嫌韓流の発売など、世間的にも嫌韓空気が盛り上がった。

ネット上では韓国が何をパクっただとか、在日特権がどうだとか、虚実入り乱れた情報が絶え間なく供給され続けていた。

この頃にはもはや「あしらう」空気はなく、「同じレベルで殴り合い」だったな。

同じ頃に、はてなダイアリーを中心に「リベラル」なコミュニティを築き上げていたのがはてなで、

俺も、まだ出来立てだったはてなブックマークを使いはじめたりして、はてな文化に染まりつつあった。

個人的に印象深かったのが、最初期のまとめブログひとつであるワラタ2ッキ」が嫌韓ネタを取り上げはじめたこと。

嫌韓も随分とカジュアル化したな」と思った記憶がある。

知ってのとおり、はてなでは左寄りの論客が多かったので、高校大学くらいだった俺は、ますますネトウヨには嫌悪感を抱くようになっていた。

そのあと、2006年嫌儲騒動があって、ワラタ2ッキもなくなって、アニメゲーム系のまとめサイトがわらわら出てきたのが2008年頃だ。

2017-02-03

サブカル階層の失敗史

鉄道サブカル

2006年前後に激化した日本における鉄道好き文化聖地JR東日本での鉄道ファン同士の小競り合い。鉄道ファン若者が集まる駅で、その鉄道ファン排斥を呼びかけるヘイト集団が駅に押し寄せた。最盛期には100人規模の参加者がいたという。ギャル・不良系サブカルからの流れもあっただろう。

実際には、何十人ものヘイト集団が「お散歩」と称して鉄道オタクと押し問答を起こしたり、オタクとも何も関係なさそうな女子供におらつく動画画像を見たことがある。

ここで彼らの最大の課題が見える。それは、仕組みを妄信し、仕組みの上に根拠となる反論のできないデータがあると(「データの不在」というデータも含め)、それに「可視化された存在」をすり合わせることで物事確証するということだ。これは本当に反知性的な発想である

鉄道ファンヘイト場合は、まず日本型保守主義構造という「仕組み」を過信し、その仕組みの上に鉄道ファン社会性実績の不在というデータなきデータがあって、主張を裏付け現実実態としてヘイト運動大規模化を実現させたわけだ。しかし、彼らには最大の欠陥がある。

それは「サイレントマジョリティを知らないこと」である。世の中の多くの人は、鉄道ファンではないし、かといってヤンキーでもない。ましてや「私はミーハーです!」とデモを組んで主張してがなりたてることもありえないのである

鉄道オタク叩きに躍起になっていたヘイト連中は、自分たちの閉鎖的なネット空間の「一般論」が事実であることの根拠ヘイト行為動画拡散した。しかし、駅の利用者などは、ヘイトにはドン引きだったはずだ。

一方で、地上波テレビに一気にサブカル進出したのもあの時期だった。いわゆるオタ文化大衆化がここに始まった。マスコミ関係者もまた「可視至上主義」に陥っていたのだろう。

ちなみに鉄道オタク人口はある証券会社の調べによれば「オタク全体の3.8%(日本オタク人口が5200万人)」だというようだ。あまりにも少ない。膨大なサイレントマジョリティ日本国民は、鉄道を好きでもないが敬遠もしないし、それよりはヤンキーのほうが敬遠されるもので、レイシスト裏社会と同じくらい危険で嫌いである。

たぶん炎上するとは思わなかったんじゃないかネット原住民空間には健気な鉄道ファン話題は何一つ存在しないから、偏った反応だけが来ると。しか現実には、普段可視化されることのないサイレントマジョリティが眠りから目を覚ますこととなったのだ。

国民の反ロリコン・反不良感情

可視状態の過信」によるサブカル階層の失敗は今に限ったことではない。たとえばニコニコ動画などのネット原住民の中心空間には歴史カテゴリーにおいてヤンキー肯定する動画ゴロゴロ転がっている。これらは当初はサブカルたちが礼賛コメントを書きまくっていたが、相模原やまゆり事件以降は批判一色に染まった。

サブカルロリコンだけでなく、ヤンキーをも好む傾向があり、とりわけヤンキーについては肯定派どころか推奨派なのである普通人間であればSMフェチのMじゃあるまいし好き好んで威圧たりしたくないわけで、一般世論乖離している。しかネット原住民空間自体一般ではないのか黙認されてきた。

ところが、そのネット原住民空間が「ヤンキー排斥」「反ロリコン」を鮮明にしたのが相模原やまゆり事件千葉大生による女子中学生誘拐事件である。あの時期の前後に立て続けに相次いだロリコンヤンキーがらみの騒動もあって、反ロリコンヤンキー排斥世論が高まり結果的に「礼賛一色」のコメント欄が一気に批判に染まったのだ。サブカルなんてネット原住民空間でも少数派なのだ

そして反ロリコンヤンキー排斥騒動さえ何ヶ月も前になった今こうした動画にはさらに上からかぶさるようにサブカルの「肯定論」が再び増えつつある。最近トランプ炎上において支持者が強気姿勢を変える気配がないのも、ロリコンヤンキーと同じでほとぼりが冷めれば自分たちの主張を上塗りすることができるからだろう。

2016-10-26

上流工程お気持ち表明爆音上映

会議室の灯りがゆっくりと落とされる。没個性社会的協調を究むるスーツ達が長机とパイプ椅子腰掛けている。衣擦れの音はほんの僅かにしか聞こえてこない。均質な空間の前にプロジェクタの光が投影され、上着を脱いだ男──クールビズだ──がマイクを持って人々に声を発し始めた)

システム稼動開始70ヶ月という大きな節目を過ぎ、2ヶ月後には、運用6年目を迎えます

私も上流担当になり、技術の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、SEとしての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

本日は、技術オープン化が進む中、当システムもまたレガシーとなった場合、どのような在り方が望ましいかSEという立場上、既存システム構成に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います

入社以来、私は当システム開発運用を行うと共に、弊社開発組織の上流と位置づけられたSEの望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。運用担当者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる技術顧客の中にあって、弊社の開発部門が、いか技術オープン化し、いきいきとして社会に内在し、顧客の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています

そのような中、何年か前のことになりますが、2度の長期システムダウンを受け、加えてレガシー化による可用性の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように保守をしていくことが、弊社にとり顧客にとり、また、私のあとを歩む社員にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。経営観点から見て、幸いに顧客満足度は高くあるとは申せ、次第に進む当システム大規模化考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって顧客ニーズに応えていくことが、難しくなるのではないかと案じています

私がSE職務についてから、ほぼ2年、この間私は、弊社における多くの喜びの時、また悲しみの時を、顧客と共に過ごして来ました。私はこれまでSEの務めとして、何よりもまず部門の売り上げ目標に到達することを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として顧客の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。SE上流工程を担うと共に、顧客獲得の要としての役割を果たすためには、弊社が顧客に、SEという上流の立場への理解を求めると共に、SEもまた、自らのありように深く心し、弊社社内に対する理解を深め、常に社員と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、社内の各部署、とりわけ営業部企画部との交渉も、私はSE上流工程必要行為として、大切なものと感じて来ました。PG時代も含め、これまで私が上司と共に行って来たほぼ全社に及ぶ対話は、社内のどこにおいても、その部署理解し、その利益を地道に支える社員の方々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、SEとして大切な、顧客を思い、ものづくりに励むという務めを、顧客への深い信頼と契約をもってなし得たことは、幸せなことでした。

SE上流工程に伴う仕事の仕方が、開発工程や、そのマネジメントとしての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、SE多忙であったり、出張などによりその業務を果たし得なくなった場合には、運用自動化するクラウドを置くことも考えられますしかし、この場合も、SEが十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、当システム運用終了に至るまで責任者であり続けることに変わりはありません。

SE配置転換により、担当から外れる状況に立ち至った場合、これまでにも見られたように、当システムがダウンし、顧客満足度にも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの弊社の慣例として、当システム運用終了に当たっては、複雑な手続きが連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後プロジェクト報告に関連する書類作成が、1年間続きます。その様々な手続きと、新システムに関わる諸行事が同時に進行することから、当システムに関わる人々、とりわけ待たされる顧客は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります

めにも述べましたように、弊社経営陣の下、SE方針に関する決定権を有しません。そうした中で、このたび弊社の長い開発運用歴史を改めて振り返りつつ、これからSEがどのような時にも顧客と共にあり、相たずさえて当システム未来を築いていけるよう、そしてSEの務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちお話しいたしました。

経営陣の理解を得られることを、切に願っています

2016-06-08

東京保育所は無理だから田舎に作ればいい

そもそも保育所に預ける必要があるような貧乏家族が都会に住む時点で間違いだが、それでも住みたがる人は後を絶たない。

そんな貧乏家族のために場所代がやたら高い土地ボコボコ保育所を作ってたらいくら税金かき集めたって足りない。

から埼玉とか群馬とか栃木とか千葉田舎に数百人規模の保育所を作ってそこで面倒見ればいい。

子供を日曜の夕方に預けに行って土曜の昼間取りに行く。そうすれば親は平日仕事プライベートに集中でき、行政ハードルが高い都内保育所を作らなくて良く、保育所経営者騒音気にせず大規模化で高効率運営だし、子供たちは大自然の中でのびのび生活、早々に親離れするから自立して生きる力を得られる。

一億層活躍Win-WInじゃん。

2015-08-06

とうとう人類幸せに導くpgbouncer1.6が公開された

みんな大好きPostgreSQL

複数DBマルチテナントシステムを構築するなら忘れてはいけないコネクションプーリング

大量コネクションを扱うなら都度forkやpre-fork式ではちょっと辛い、イベントベースが好ましい。

もうお分かりですね。pgbouncer1.6の話題です。

PostgreSQL界隈では有名なコネクションプーリング実装が2つあります。 pgpool-II と pgbouncer。

ざっくり言うと高機能の pgpool-II に対して、軽量・大規模向けの pgbouncer という棲み分けがあると言えるでしょう。

pgpool-II は最近日本トレジャーデータ社の Prestogres ( https://github.com/treasure-data/prestogres ) という痺れるようなプロジェクトベースとして採用されていることで名前を聞いたことのある方もいるのではないでしょうか。

pgbouncer は少し古いですが LastFM( http://www.lastfm.jp/user/Russ/journal/2008/02/21/zd_postgres_connection_pools:_pgpool_vs._pgbouncer )の事例が有名でしょう。Instagram も使ってますネ。

pgbouncerは現行のバージョンは1.5系で、最新は1.5.5です。1.6系は8月1日リリースされ、複数DBマルチテナントシステムに向けた大規模な機能強化が行われています

この1.6系では複数DBマルチテナントシステム開発者にとって嬉しい機能がたくさん搭載される予定です。本番運用に投入する前に一足お先にリリースノートを読んで夢を感じましょう。

バージョン2013年ぐらいからリリースノートは準備されているのにさっぱりリリースされなくて関係者をやきもきさせていました。(想像

記事では以下のリリースノートをもとにザックリ読み解いたものです。

http://pgbouncer.github.io/2015/08/pgbouncer-1-6/

主要新機能

接続ユーザーパスワードハッシュDBからロードできるようになった

プーリングモードの設定をデータベース毎、ユーザー毎に設定できるようになった

データベース毎、ユーザー毎にコネクションの最大接続数を制御できるようになった

・新しいコネクション確立を避けるための DISABLE/ENABLE コマンドが追加された

・新しい推奨のDNSバックエンド c-ares が追加された

設定ファイルに include ディレクティブを追加した

ではリリースノートをそれぞれ細かく見ていきましょう。

接続ユーザーパスワードハッシュDBからロードできるようになった

新しく以下のパラメータが追加された

1.5までのpgbouncerは userlist.txt というテキストに静的に接続ユーザを書かなければいけませんでした。

これは動的に接続ユーザーが増えるようなマルチテナントシステムを構築するのに不向きという事です。

この機能はその悩みを解消するための機能と言えるでしょう。

プールモードデータベース毎、ユーザー毎に設定することができる。

タイトルがすべてを物語ってます。柔軟にできますねぇ('∀`)

ただ、私にはちょっと有用な利用シーンが思いつかなかったです。

たとえば分析ユーザーではトランザクションなんて使わないので statement モードにしてコネクションの消費を抑えたりできるという事でしょうか。

データベース毎、ユーザー毎にコネクションの上限を設定できる。

max_db_connections と max_user_connections という設定が追加されます

テナント毎にユーザーを分けているような複数DBマルチテナントシステムにとって必須といえる機能です。

特定ユーザーリクエストコネクションをすべて占有されてしまい、他のユーザーサービスできないという事態を避けることができるようになるでしょう。

新しいコネクション生成を防止する DISABLE/ENABLE コマンドを追加。

特定データベースの新しいコネクション確立を抑止・再開することができます

新しいDNSバックエンドとして c-ares を導入した。

c-ares名前解決の非同期化を行うためのライブラリです。c-ares名前解決をブロックしないし、いろいろな方式名前解決に対応している唯一のプロダクトとのこと。

名前解決をブロッキングしてしまうようではpgbouncerのような大規模向けシステムでは役に立たないのだというpgbouncerの強い意志を感じる。

というか、ドキュメントを見る限り pgbouncer は名前解決にかなりこだわりを持っているらしい。それだけそこが重要ということでしょう

個人的には困ったことがないのでそこまでだわる理由はよくわからない。)。

SHOW CLIENTS, SHOW SERVERS で remote_pid を出すようになった。

UNIXドメインソケットで接続しているクライアントと、TCPまたはUNIXドメインソケットで接続しているサーバーでremote_pidを取得できるようになりました。

tcp serverの場合、pid はキャンセルキーから取得できる。(?ドキュメントから意味が読み取れず)

キャンセルキーとは何でしょうね。ちょっとリリースノートから判断できませんでした。

pg_cancel_backend とかに使えるPIDだよという事なのでしょうか。

ネガティブDNSキャッシュのために dns_nxdomain_ttl を分割した。

DBの数なんてもはや何台あるかわからない。ホスト名の解決はもはやDNSで行っておるよという皆様にとって必須機能

…なのでしょうがちょっとこの機能必要となるようなシステムとはどんなものなのか、私も未経験なのでよくわからないです。

クライアントIPアドレスポートapplicationネームに追加する

この設定は application_name_add_host=on にすることで有効となる。

今や接続アプリケーション名がWebだとかBatchだとか区別できるだけで問題が解決するような時代ではない。

どのホスト(ポート)レベル区別しないと。という事なんだろう。

「おお、Webサーバーから死ぬほど重いクエリが飛んでる、今すぐ調べないと!で、どのWebサーバーよ?100台あるんだぜ」みたいなときに助かりますね。

設定ファイルに外部ファイル読み込みディレクティブを追加することができるようになります

設定ファイル大規模化してくると、切り出して整理したいという要望はどうしてもでてくるもの

データベース毎、ユーザー毎に設定できる項目が増えてきたので必要になったという事でしょう。

以上。

以降はバグフィックスとかクリーンアップだとかで自分はあまり興味がないので各自読むように。

本番運用突撃するPostgreSQL界の猛者の報告待ってます

2015-05-17

http://anond.hatelabo.jp/20150517233513

1部2部はいかにも80年代って感じで、合わなきゃとことん合わないと思うけど、シリーズの基礎だから読んどいたほうがいい。

3部はいわゆる「能力バトル」が確立されて少年漫画って感じ。エジプトまで行ってDIOを倒すというストーリーシンプル

4部はサスペンス風で毛色が違う。さまざまな能力が出てきて、戦闘にならない話もある。

5部は能力大規模化する。旅の目的がころころ変わってややこしい。

6部はさら能力が複雑化。ストーリー精神性が強調されて難しい。

2015-02-27

http://anond.hatelabo.jp/20150227111201

2000年代アイドルグループ大規模化へ、ロックバンドインディーズのオタ臭い方へ進んで、

どちらにも入れなかったガールズバンドは全滅してしまったという印象。

チャットモンチーとか頑張って欲しかったなー。

最近になると逆にロックバンドでも女性メンバーが入っているのが当たり前になっているが。

2015-01-28

http://anond.hatelabo.jp/20150127233249

システム開発場合建築等と違って人が増えると逆に仕事が進まなくなるという現象(いわゆるブルックスの法則)があるので、

大規模化すればするほどそれだけでプロジェクトは困難になる。

2015-01-12

同化政策を行っている国家

異文化との摩擦による問題に対し

マジョリティ自分たち倫理を掲げたデモ大規模化したことを見て

素晴らしいと言うやつがすごくキモイ

2015-01-09

サラリーマンに適した資産運用(前編)

さて、未来は読めないというのが基本姿勢にあるリアル志向の皆さんコンニチハ

たまに「まあライターも金稼ぎたいしな」みたいな記事があがるな。

資産運用」の話だよ。

サラリーマン資産運用、レッツカモネギという三題噺な。

ウルフ・オブ・ウォールストリート」は観たか

マーティン・スコセッシ映画はクセがあるのでファミリーにはオススメできねぇが、

ウォール街とはつまるところ「相手に買わせる」プロ集団に尽きると喝破したのが素晴らしい。

資産運用とは

まず、資産運用の話をするときに「余裕資金で」とか言うものは捨てて良い。

例えば、このご時世幸運にもボーナスで30万ほど「使うあてのない金」が入ったとしよう。

この金を「余裕資金だし、今話題ソシャゲ会社の株に」とあやふや理由でツッコむ。

まあ、2/3になったあたりで撤退できれば上出来だな。

手数料諸々込みで20万になった。

「負けた」10万円は、夫婦2人で2泊3日のグアム旅行ぐらいは行けたカネだ。

恐ろしく高いと感じるアニメBlu-rayボックスも、2~3個買えたな。

「余裕」資金なぞ、サラリーマンには存在しない。

それはオマエの稼いだ身銭だ。

資産運用いろはのイ

日本銀行券価値上下する

お金に色はないので、食費も教育費も娯楽費も、結局のところ同じ日本銀行券だ。

商社小麦の輸入でもしてりゃ胃に穴が空くぐらい理解してるだろうが、日本銀行券価値上下する。

昭和ヒトケタの1万円と、今の1万円の価値が違うというのは、なんとなく判るだろ?

日本銀行券は様々な事情で、買えるモノの量が変わる。

例えば、卵は物価優等生なんて言い方を昔はしたな。

これは、つまるところ「タマゴの価値は下落し続けている」というのと同じだ。

小規模な養鶏家が、集約され大規模化され超高効率スーパーに届くことで「価格」が同じに見えるだけだ。

まり、今月の給料は、10年後にも同じ価値を持つとは限らない。

中小企業は、借金駆動する

ごく当たり前の話をするが、中小企業を立ち上げて運転するには、カネがかかる。

想像しづらいなら、農業でも良い。

土地を借りる、機械を借りる、種や苗を買い入れ、水をやり肥料をやり虫を取り育て、収穫して、より分けてパッキングして出荷する。

まりスタートしてから実際にモノが売れてカネが入り始めるまで、タイムラグが有る。

大抵の企業間取引現金決済しない。普通は納品後2ヶ月遅れで入金されたりするもんだ。

で、だ。

未来に間違いなく収入があって、しかもそれが定期的な収入になって返済できる、と思った場合銀行はカネを貸す。

なぜ貸すか。カネを増やしたいからだ。それが利子(利息)というやつになる。

そして、中小企業側も、利益収入を増やす方向にツッコンだ方が、当然儲けも増える。

Amazonはあんなに儲かっているのに常に赤字だが、これは稼ぐよりも多く拡大しようとするからだ。

これを「設備投資」と言ったりする。

まり、「将来カネを増やすためにカネをツッコム」事を投資という。

資金を投じるワケだ。

銀行になったつもりで考える

例えば普通預金

アレは、オマエさんが銀行に「投資」している。

利子、ついてるだろ?すごく少ないが。

あれは「投資」のアガリだ。儲けだな。超少ないが。

預金保険機構、まあほ日本政府1000万までは保証してくれてるから気にすることは基本無いな。

じゃあ例えば、知らねえ奴が鯛焼き屋の開店資金として200万貸して欲しいと言ってきたらどうする?

まあ、断るよな。それが「投資しない」という判断だ。

息子が必死の顔でやってきたら、話ぐらいは聞くかもしれない。

それが、銀行のやってる「投資するに値するか検討する」つまり「与信管理」だ。

資産状況を確認する

資産、あるか?

人は石垣、人は城。オマエの資産は肉体だ。

これは人的資産と言って、計測しづらい。大抵無視される。

まあ、流動資産預金など、即カネになるもの)と、固定資産現金化に手間がかかるもの)とに分けられる。

企業では1年以内に換金可能かどうか、1年以上保持するかいくら以上かみたいな細かいとあるが忘れて良い。

サラリーマンは大抵の場合、ほぼ流動資産しか無い。

ローン組んで家買ってる?おめでとう。それは固定資産&長期負債だ。

カネ借りてコンバイン買った農家と同じだな。

コンバイン資産だが、銀行に残ってるローンは負債だ。借金だな。

サラリーマン資産運用

さて、日本銀行券価値上下するという話はしたな。

中小企業がカネを借りて運転するのはフツーだという話もした。

投資してないつもりでも「銀行預金」ってのは「投資だって話もした。

自分資産も振り返ったな。

と、なるとだ。

資産運用というのは、つまり流動資産」を「投資」することだ。

1000万未満だし政府保証もあるしで「銀行投資」というのも1つだ。

英会話を習って、自分投資だ!」ってのもアリだろう。

が、その「投資」、例えば友人から持ちかけられたものならどうだ?

「オレの英会話投資しない?3年後に給与アップするし年利2%で50万貸してくれよ」に、無条件で出すか?

担保はあるか、返す当てはあるのか、そもそも3年後に給与アップって甘くないか?とか与信審査するだろう。

そう、「サラリーマン資産運用」とは、つまり「オレ銀行」が投資先を精査して与信管理することだ。

投資投機だ言うからヤヤコシクなる。

オマエがカネを貸し付けるんだよ。

大抵のサラリーマンは、銀行にカネを貸してる。

銀行がそのカネを何に使うかは政府保証のお陰で考えなくて済む。

この銀行への貸付を引き上げて、他にカネを貸して、カネを増やす

貸す前に審査して、貸した後に予定通りか確認するのが「与信管理」であり「運用」だ。

まとめ

例えばTOPIX連動のETFを定期的に買う、それも良いだろう。

その商品が将来どう換金できるか審査したのであれば、だが。

銀行と違って、個人はカネを一度貸したら貸し剥がしみたいな引き上げが難しかったりする。

貯蓄型の保険とか、貸したカネを何十年か立つ前に返せって言うと、ずいぶん減る貸付先もあるな。

この、自分のカネをどこに貸し、その結果どうやって利子を取るか考えるのが、資産運用だ。

(後編では、なぜ消費者たる個人が投資するのか、どう資産管理するかの話にするつもりだが、予定は未定であって決定ではない)

2014-11-30

CDランキングオワコンなのはCDが昔オワコンになってるんだから当然

http://gogotsu.com/archives/1174

何をいまさら感があります

CDオワコンなのにジャニーズAKBがそれをハッキングして利用しているためにまだ続けられているまでです

ジャニの仕組みはわかりませんがAKBの仕組みについては考察しています

 AKBグループ秋元康とその仲間が握手会選挙ランキングハッキングするシステムを作り、バイラルを起こし100万枚を売ることでそれが大宣伝になっています

現在AKBは唯一100万枚を売る歌手というのが最大のプレゼンスになっていますがこれを維持するためには猛烈なドーピングが行われています

予約制の一対一個別握手会の他、一般向け全国握手会(これが普通に言われる握手会)、夏祭り/冬祭りアトラクションをやるのに握手券必要)、握手会参加者に対する抽選写メ会(握手会参加者の中から抽選写メ会があたる)などがあります

なんといっても核となる個別握手会に動員されるのはグループ全体300人で全国の大都市で一枚のシングルにつき5回程度開催されます

この大規模化前田篠田大島という圧倒的握手人気メンがあいついで退場したため、それを補うための拡大ともとれます

 AKBメンバーがこの握手会負担に思っているのは間違いないと思いますがほぼ全部のメンが握手会自分のところにたくさんの人が来てくれるように努力をしています

なぜなら握手会の人気がAKB内での地位の向上に直結するシステムからです。AKBTVでみると「なんでこんなブサイクな奴がいつも出ているんだ?」と思うことが多々あると思います

それはまちがいなくそメンバー握手会で絶大な人気を誇っているからです

 現在AKBセンターポジションHKT48の宮脇咲良は3年目16歳のまだ若手(AKBでは普通なかなか3年くらいではトップクラスの人気は出ない)ですが握手会で指原や渡辺以上の人気がありセンターに抜擢されました。

そしてこの握手会での人気の出し方は本人の天性のアイドル性があればいいですがそんなものがない大半のメンバーでも「公演でのパフォーマンスがよい、公演でのMC面白い」「ぐぐたすがたのしい」(渡辺や指原のような超人メンバーは以外は基本グーグルプラス毎日情報発信しています)という理由を誰かが発見してそれがネットを介して広まり握手会に向かわせ、その握手会で好印象を与えることで自分のファンにするという戦略とりま

 AKBシステムは高度なキャバクラと評されることもあります、まさにその通りでそのシステムが順調に発動していればオリコンランキングハッキングされ一位になるということだと思います

ここからCD関係ないAKBに関する私見ですが、今後さら札幌48ができることがわかっていますしかしま国内に5グループしかないのは少なすぎると思うのです。野球サッカーなどは各町に小さいクラブがあるわけでAKBもそのブランドで各町にチームをつくり例えば広島48や仙台48は当然として小山48や土浦48、も作るべきです。そしてメンバー自身から月1-2万の月謝を取ればいいのです。おそらく最終局面ではそういう方向に行くでしょう

2014-08-15

アベノミクス成長戦略って

アベノミクス成長戦略って、全般的中央大企業にばかり恩恵偏重しすぎな気がします。

例えば農業の成長産業化っていうけど、方向感としては、たかじんのそこまで言って委員会規制改革会議中の人長谷川氏が言ってたけど、兼業農家排除して、かわりにこれまた規制改革会議のなかの人のローソンやら住友やら大資本が、今やっている農業法人事業を拡大させようってことでしょ?

耕作放棄地もそうすれば解消するみたいな言い方だけど、大資本株主は条件が不利な中山間地の耕作放棄地を耕作するなんて許さないでしょうね。

まして兼業農家生活基盤は弱体化するわけですから先祖代々の土地を捨て、地方を離れる人も出るでしょう。

ますます地方ライフラインは、維持困難になり、集落消滅の加速度は増すでしょう。

さら農地規制も緩めて、流動化がすすめば、平野秀樹氏が山林について提起しているように、中華資本などが、日本の国土をさらに買っていくみたいなことも歯止めが効かなくなるでしょう。

現状が減退傾向なら、農業の成長産業化は成長どころか沈没ってことに繋がりかねませんかね?

そもそも成長なんてパラダイムが今後成立するんですかね。

少なくとも中央大企業偏重では、あり得ない気がします。

家族農業の延長における大規模化を促進させたり、産地単位での六次産業化による付加価値を高めたり、生活基盤の拠点が各地で維持させられる方式であることを優先すべきだと思うのですが。

2014-05-29

AKB48の例の事件って、人災だよ

どう書いても場所や個人の風評被害につながるのでぼかすけれども、

AKB48握手会刃物で切りつけられた事件について、芸能界によくあることみたいなのは全く違うというのを書いておこうと思う。

また、現在様々な握手会イベントが中止や延期になっているのは、(遅すぎたとはいえ)その判断は素晴らしいと思う。

テロに屈するのではなく、そもそも何の対策もしていないありえない状況の是正に繋がると考えるからだ。

時間がない人向けのまとめ

大規模化したのに警備が甘いままなのは主催者側のミス

今回のAKB48事件は、当然かけるべきコストケチった為に起きた人災

防げないテロ存在することと、防げたはずの凶行とは、分けて考える必要がある。

犯罪者が悪いに決まってる

どうせなんか湧くだろうから本題に入る前に当たり前の事を書いておくが、

当然、斬りつけるようなヤツが悪い。

刃物振り回すようなアレな人間が間違いなく悪くてそいつさえ居なければ良いというのは十分わかった上で、

でも、そういうキチガイは間違いなく一定数居る。

町内会長と外務大臣

本件、AKBファンかそうじゃないかで分けても意味は無い。

根底にはAKBファンにはキチガイ割合多いだろみたいな蔑視があると思ってるが、本題じゃないから省く)

テロの標的になるのは、目立ってるものだろうし、本質的対策が難しいというのはある。

ただ、程度問題というやつは当然ある。

町内会長のオッサンがスーパー開店挨拶で切りつけられた時に、犯人許すまじ、で終わるのなら良いが、

外務大臣のオッサンがどこぞの講演会挨拶で切りつけられた時に、犯人許すまじ、で終わったら正直困る。

警備は何してんだ、って話になってもらわなきゃ困る。

俺は安倍さんは嫌いだが、ぶら下がり取材にのこぎりでホイホイ切りつけられたら、国益を損なうと思ってる。

(外から要人とか来てくんなくなるだろ)

から、ファンが全部で10人の地下アイドル握手会と、CD握手券つけるAKB握手会では、当然警備の量・質共に段違いであるべきだ。

防ぎようのないテロと、防げたはずの凶行

テロはいけないので止めましょう、じゃ標語だ。

その上で、芸能界でも今まで多々あってきた凶行と今回の件は、どうすれば防げたかという観点で見直しがいる。

見直さずに握手会を行うのであれば、それは蛮勇ではなくて単なる商行為における人名軽視だ。あってはならない。

美空ひばり塩酸をかけられた、誰それが誘拐された、ファンが自宅に押しかけた。

から、「昔から芸能人ターゲットになってきて、今回のAKB握手会の凶行も同じだ」は正しいか。

正しくないのではないか。

移動時でもなければ私生活時でもなく、業として商売として行われている最中出来事だ。

犯罪者が悪いことに変わりはなくても、興行を行う主催者ミスとして責められるべきではないのか。

総選挙の時にステージに向かってモノを投げつけたわけではなく、直接触れ合えるタイミングで切りつけているのだ。

根本的に状況が異なる。

握手会」という業

ファンサービスという言葉がある。

例えばだ、北海道島本和彦サイン会をして、色紙に熱い言葉を殴り書きしているときにファンに切りつけられたとしよう。

ビデオレンタルショップで手荷物検査があるでなく、取り押さえるにも時間がかかったりするだろう。

いずれ漫画ネタとして昇華される日が来るかもしれないから、オイシイとかバカなこと言われるかもしれない。

この場合、それは一過性のものなので、警備の不備を指摘しても、あまり意味が無い。

もちろん島本和彦レベルのビックネームであれば警備を強化すべきとの声もあるだろうが、ファンとの触れ合いを大切にしたい作家の気持ちもある。

そもそも、殴りつけるなら兎も角、切りつけてくるような犯罪者が混じっていることなど、判ろうはずがない。

島本和彦は炎の漫画家であって、炎のサイン書きでは無い。

しかし、AKB握手会は違う。

事業商業などに使われる「業」とは、反復継続意味する。

会えるアイドル、という部分と本質的に異なり、アイドルと触れ合える機会が、偶然ではなく確実にある。

CDを書い、握手券を手に入れ、会場に行けば(体調不良などのアクシデントがなければ)、握手できるのだ。

年に数回、並ぶファンも総勢50人以下なんていう状況とは異なる。

もう一度言おう、そこに行けば確実に直接手と手を触れ合わせることができるイベントが、かなりの頻度で定期的に行われている。

彼女たちは、握手をするのも仕事だ。

アイドル警備体制

この手の話は、規模や頻度、人気やファン層を無視しがちだ。

セキュリティという観点で見た時、性別年齢職業地域などで、想定する警備体制見積もるのは当然のことだ。

文化ホールで年中行われるさだまさしコンサートと、ホテルで行われる美輪明宏ディナーショーロフトプラスワン地下アイドルイベント

のこぎりで斬りつけられるタイミングはそれぞれ違うし、警備体制を同様に論じることは当然出来ない。

ロフトプラスワン警備体制ジャニーズコンサートを行ってはいけないというのは、判るだろう。

差別的だというのを十分承知の上で言えば、美輪明宏クリスマスディナーショーに、のこぎりを持った今回の犯人が紛れ込む可能性は無視できるほど低い。

単純に行きづらいからだ。

さて、テレビAKBという名前で出る、CDも売っている、ファンも多い。

そんな相手に、1600円で直接触れ合えるイベントがある。

あの規模の握手会で、握手対象者ドル箱たるアイドルのもので、手荷物検査がザルなんてあってはならないのだ。

どうすべきだったのか

クリント・イーストウッド主演の、ザ・シークレット・サービスという映画をご存知だろうか。

あの映画では、ジョン・マルコビッチ金属探知機をすり抜けて銃を持ち込んでいる。

ポイントはそこではなく、アメリカ上流階級が参加するパーティーであっても、礼儀を尽くしたまま警備レベルを上げることができる点だ。

コストは当然かかる。

佐渡金山労働者のように、一旦全員裸にして、ケツの穴までチェックしてから入場させる必要はない。

手荷物を全て預かり、アクセサリー類は全て外させ、金属探知機ゲートを潜らせてから、手を洗わせて、係員立ち会いのもとで握手させる。

たったそれだけだ。

富士急ハイランドではアレだけの入場者が居るにもかかわらず、メガネはおろか時計まで外させてロッカーに入れさせる。

空港ではどんなことがあっても金属探知機をくぐらせる。

長机はちゃんと固定しているか

スタッフは何かあることが前提で構えているか

アイドルはとっさに後ろに下がる訓練は受けたか

アクリル壁とか言う前に、やるべきことは山ほどあるはずだ。

時間は今よりかかるだろう。会場も限定されるだろう。置き引きや荷物間違い、つけ爪や服装規定に関しても揉めるだろう。

だが、コミケコスプレ会場スタッフは乗り切っているし、準備会は柔軟に対応しながら当局規制を免れてる。

実質的に有料の商業行為である握手会で出来ない理由はないし、コストを掛けないのは良く言って怠慢で、悪く言えば人名軽視だ。

職業暗殺者を防ぐことは出来なくても、自暴自棄になった若者程度ならハジく警備体制になっていなければならないのだ。

簡単なまとめ

今回の事件は、当然行っておくべき対策を怠った為に、起こるべくして起きた事件であって、運営責任は重い。

防ぎようのないテロではなく、簡単に防げた凶行だ。

防ぐのが難しい高級車窃盗団いるからといって、鍵をつけたまま車を放置して良いことにはならない。

町内会長の講演と、国家元首の演説で、求められる警備レベルは異なるし、そのコストは省いて良いものではない。

もちろんファンが自主的にできることもある。

握手会にはできるだけ手荷物を持っていかない、時計を含めたアクセサリーは付けない、スタッフの指示には必ず従う。

そういったマナーが浸透すれば、そうでない人物を警戒すれば良く、スタッフの負荷は減る。それはアイドルの為にもなる。

(それをすり抜けるキチガイも当然でるだろうが、現状よりもずっと難しくなる。無策の言い訳にはならない)

蛇足。「握手」という風俗行為

わかりやすくするためにきちんと書くが、世俗や習慣、風習という意味ではなく、性風俗意味を持つ「握手」の事だ。

異性同性に対して何らかのサービスを行う物事は多いし、国や時代によってモラル風習も違うので、良い悪いは無い。

ただ、今の時代日本において、少女握手をさせるというサービスは、どこまで許されるのか?

はっきり書こう。AKBCD代金の何割かはこのイベントのために支払われている。

まり「会場に行って、1000円支払って、好みの女性握手をする」という商形態だとしたら、許容されていたか

いまはこれを、CD代金に含めることで有耶無耶に誤魔化している。

規模が小さい頃は、ファンサービスの一環という言い方もできるし、実際そうだろう。

大規模になり、十分にビジネスモデルとして回り、実態として握手券のためにCDを買う人間が増えてきた。

法律がなければ何をしても良いわけではなくて、何かあればすぐに規制がかかる。

握手会を無くさない為に、この業界トップランナーであるAKB運営は早急に自主規制を行う必要があるのではないか。

誠に残念だが、「ファンサービス」に戻すための努力をすべき時期に来ていると思う。

ほっとくと、ホント刑務所の面会室みたいな場所ガラス越しに手を重ねあわせるだけになりかねないと思う。

蛇足蛇足

アイドルなぞ賤業でメンヘルなので、斬り付けられる程度の覚悟はしておくべきと考える人がもし正しいとしても

商売人として運営アイドルコストをかけないのは、美術館が展示の目玉の国宝の壷を触れるように展示するレベルにありえない。

これは徹頭徹尾人間商品として扱う商売人がかけるべきコストをかけていなかったという、運営の話だ。

そんなコストを掛けてまで握手会は出来ないというのであれば、サービス残業がなければ潰れる会社と同じく、元々出来ないのだ。

正直な処、男性アイドルグループや、無名グループでは起きなかったであろう犯行だと感じるので、

女性子供など、斬り付けやすいと判断されがちな芸能人達の運営母体は、早急に対策をして欲しいと思う。

「ちびっ子タレント握手会で凶刃に倒れ死亡」とか、今後起きようもんならそれは間違いなく人災だよ。

2014-05-09

日本には職人しかいない

フリーソフトみて思った

小さくまとまってるソフトなら割といい感じなんだけど

結局小さくまとまってるだけ

それ以上のものとなると急にアメリカ製に頼るしかない状態になる

ソフト大規模化ができないよね

プログラマーの優秀さの問題だと思ってた

教育の問題だと思ってた

でも感覚で違うとわかる

マネージメントの問題だと

上に立つ人間の問題だと

そしてこれはソフトに限らない話だということも

2014-04-10

http://anond.hatelabo.jp/20140410183255

ぶっちゃけ野菜って余ってる?

結局、農作物って物価人件費の問題が大きいよな。

 

農家の人はさ、今以上に農家が儲かるために

野菜価格をあげる以外に、どういう道があると思ってるんですか?

これからは、物価は下がっていく時代から価格あげはむずかしいっしょ?

じゃぁやっぱり大規模化

 

俺たちIT屋 なんか手伝える?

2013-11-29

http://anond.hatelabo.jp/20131129170034

いや そういう問題じゃないだろ。

方式の問題じゃなくて1農家当たりの生産量が減反政策の影響で 少なすぎることが問題で

田植えと言っても手で植えているわけじゃないだろ。

ようするに1つの農家大規模化することが重要であって、小規模農業が多数ある状態での採算性なんて、直播きだろうが田植えだろうが変わらん。

 

問題はヘリコプターで直播きできないくらい 1農家あたりの耕作面積が狭い事であって、直播きかどうかじゃない。

ヘリコプターで直播きするくらいなら、どこぞのフェラーリ耕うん機を フェラーリ田植機にして 複数台リンク運転にして大規模に田植えしたほうが儲かるだろ。

 

そもそも決まった面積に田植えするなら、お掃除ロボットじゃないけど 自動運転で田植えだって出来るだろ。ポール立てて4隅を検知できれば 自動田植えできるんだから長方形田んぼにに田植えするなんて、

掃除ロボに比べたら自動化恐ろしく単純だろ。

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