はてなキーワード: 南側とは
中国にとって台湾を統合したいというのは至上命題というか最重要戦略だとは思う。
だけど、一方で、台湾沖のシーレーンを中国が扼することで日本の海路が阻まれたら
日本は石油をオーストラリア南側回りで輸入するか中国の顔色を窺い続ける必要が出てしまう
石油の輸送費の増大は物価やガソリン代に影響して、深刻な問題になるのは予想できる。
輸出入品は何も石油に限らないし輸出入先はシーレーン上の各国で西アジアだけではない。
だから日本、米国にとっては、台湾沖を敵とみなした国が掌握する事は許せない。
関係諸国は、そういう共通認識を持っているはずだし、中国が台湾を統合したいなら
日本を尖閣諸島問題などで刺激する事は、百害あって一利なしだったと思うんだよな。
むしろ日本を安心させて味方に付けて、中国が台湾沖を握っても被害はないよと安心させて、
出来れば日米離間し日中という枠組みを作るべきだった。
だけど、日米離間どころか、長年にわたって歴史問題や、靖国参拝、尖閣諸島問題で日本を刺激し続けたので
今や日本人の8割以上は中国は敵、アメリカに頼るしかないという認識を持つに至った。
敵にシーレーンを握られれば終わりと恐怖を持たせてしまった。この現状変更には50年はかかるだろう。
日米が組むことになればファイブアイズはもちろん日米側、QUADも日米側、勝ち馬に乗りたがってEUが加われば
色々考えていて、やっぱりこの件は
という案件だと思うのです。
若干今更感はありますが、思うところを書きました。
例えばスーパーの出入り口から段差をなくすとか、日々の生活に密着した施策はどんどん推進していった方がいいと思います。
ただ、「一応お客さんの出入りもできるようになっている」程度の裏口にまでそれを要求するのは正当なのか?とは思ってしまうわけです。
翻って今回の件ですが、SNSやメディア等で色々議論はあるものの、個人的に腑に落ちないのは「なぜ熱海駅ではだめだったのか」ということです。
駅員に「熱海駅まででもいいですか?」と聞かれて断ったということは分かっていますが、その前段階、旅行の計画を立てている時に、伊是名さんは「熱海駅ではなく来宮駅を選んだ」はずなのです。
旅行を計画する時、特に目的地がある場合は、普通そこのホームページを見たり周辺の観光案内を調べたりしますよね。
伊是名さんも当然調べたと思います。
調べるのはとても簡単で、来宮神社のホームページにもありますし、来宮神社を紹介する観光系サイトや個人ブログを見てもいいと思います。
そしてそのほとんどに来宮駅と熱海駅からのアクセスが書いてあるので、調べていて熱海駅からのルートに触れなかったとは考えられないのです。
つまり伊是名さんは「熱海駅ではなく来宮駅を選んだ」ということです。
もし熱海駅からのルートを知らなかったのであれば、来宮神社だから来宮駅だと思ったということなんでしょうか。
それは幕張メッセに行くのに調べないで幕張駅を使うような愚行なので、初めて行く場所でそんなことはしないと思います。
(初めだったのかは分かりませんが、そうでなかったら余計問題なのでおいておきます。)
来宮神社まで、来宮駅からは400m、熱海駅からは1.6kmです。
ではなぜ、伊是名さんは熱海駅ではなく来宮駅を選んだのでしょうか。
単純に近いから。
ただ、伊是名さんにとっては単純な距離よりも重要な要素がありますよね。
熱海駅は市の名前が付いているくらいですから利用客も多く、バリアフリー設備も充実しています。
駅の利用は問題ないでしょうし、車椅子でも利用可能なバス・タクシーの手配もしやすいはずです。
一方で来宮駅は、少なくとも伊是名さんにとっては「調べても分からなかった」レベルです。
そして、熱海駅から来宮神社に行くことを考えたら、熱海駅からの交通手段を調べますよね?
そうすれば今回のトラブルは起こらなかったんです。
(万一熱海駅が大きな駅だと知らなかったとしても、来宮駅を調べて熱海駅を調べないのは理屈に合いません。)
そのため、今回の件は「避けられたトラブル」と言うよりも、「ドラブルの起こりそうな方を選んだ」という印象が拭えないわけです。
ところで、来宮駅と来宮神社は徒歩5分程度と言われていますが、実は難所があります。
来宮駅の駅舎は線路の南側にあり、来宮神社は北側にあるんですね。
そのため最短ルートを通るには来宮暗渠という短いトンネルを通るのですが、そこの歩道が細く、ガードレールもあるため車椅子では通れないのではないかというほど狭いのです。
伊是名さんはブログで特に触れていませんでしたが、果たして歩道を通れたのでしょうか、それとも車に待ってもらって車道を通ったのでしょうか…。
最短ルートを通らない場合は、1.5kmほどアップダウンが激しく歩道が狭い道を歩くことになります。
時速2kmで45分かかるわけですから、結構な負担になるはずです。
伊是名さんは旅行先の条件として「移動距離が少ない」をあげていましたが、これは少ない範囲なのでしょうか。
来宮駅-来宮神社間のルートは知っていれば迷う道理がないのですが、トンネルにある小さい看板を見逃して通り過ぎてしまうと熱海駅に行ってしまいます(途中でおかしいと気付くかもしれませんが)。
一方、熱海駅からだとバス・タクシーで神社の目の前まで連れて行ってくれます。
数百円でも節約したいとか、迷うのも旅の醍醐味だという人であればともかく、そうでなければ健常者でも熱海駅から行った方が間違いがありません。
健常者であればスマホで地図を見ながら行けばいい、というのもあるんですが、車椅子利用者は「道はあるけど通れない」という事態に出くわした経験が少なからずあると思うんですよね。
電車なら駅員に相談すればいいですが、旅先の道路でそうなった場合のリスクは考慮するものではないのかなと思います。
「障がい者が気にせず外出できるのが理想だ」というのはその通りですが、現実のリスクを無視するのは違うと思うのです。
また真偽不明ですが、伊是名さんは来宮駅で降りた後、西にある熱海梅園に行ってから来宮神社に行ったと説明している人を見ました。
こちらの説であれば来宮暗渠を通っていないのは理解できるんですが、するとなおのこと、熱海駅から行かなかったのが不思議なんですよね。
対して熱海駅からバス・タクシーを使うと、熱海梅園の目の前まで連れて行ってくれます。
車椅子での移動を減らしたいのであればバス・タクシーを使うのが合理的です。
そもそも、最短ルートで直接来宮神社に行かないのであれば最寄り駅というメリットがなくなるため、来宮駅で降りる必要がないんですよね。
紛糾しているのは、結局これだと思います。
伊是名さんの言いたいことは「バリアフリーをもっと浸透させてほしい」で、それ自体は正当だと思います。
ただ、どう考えてもやり方はまずかった。
旅の計画段階で「合理的」な判断をしていれば起こらなかった問題なんですから、そこをフックにしてしまうと主張そのものが疑問視されてしまいます。
だから、今起こっている事は「誰が言おうが正しいことは正しいのだ」と「言ってることは正しいがお前が言うな」の戦いなんですよね。
熱海市の市議会では駅のエレベーター設置の議論が何年も続いており、その結果4つある無人駅のうち2つにエレベーターが設置されたそうですが、今回の論争、本当に必要でしたか?
要するに、熱海駅からバスを使えば来宮神社前ないし熱海梅園前まで行けるという「スロープ」があり、それは見えていたんです。
しかしバリアフリーの対応状況が分からない来宮駅という「階段」を伊是名さんは望んだ。
それがバリアフリー推進のためにあえてやったことなら、私は「言ってることは正しいがお前が言うな」と言います。
もし素で準備不足の旅行だったのなら、社会常識を身に付けて下さいと言います。
社会課題を世に問う目的であれは問題行動も有りだという考え方の先にあるのは、アメリカのBLM運動で起こった商店打ちこわしと略奪ですよ。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。
もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき、川上から、
「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。
「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛のおかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。
みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。
赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、
「何なにした。」とききました。
みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。
みんなもすっかり元気になってついて行きました。
「だれだ、時間にならないに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。
「お天気のいい時教室さはいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。
「しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。
「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。
ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。
それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。
「学校さはいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、
「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。
変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています。
そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。
すると嘉助がすぐ叫びました。
そうだっとみんなもおもったとき、にわかにうしろのほうで五郎が、
「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。
みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、
「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。
五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。
「わあい、けんかするなったら、先生あちゃんと職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。
たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。
風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。
「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。
みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。
「二百十日で来たのだな。」
「靴くつはいでだたぞ。」
「服も着でだたぞ。」
「髪赤くておかしやづだったな。」
「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。
「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」
「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポをかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。
みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、
「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。
すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。
二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。
するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。
みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。
「前へならえ。」と号令をかけました。
みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。
「直れ。」先生がまた号令をかけました。
「一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手の下駄箱げたばこのある入り口にはいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。
まもなくみんなははきものを下駄箱げたばこに入れて教室へはいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。
「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」
「わあ、おらの机代わってるぞ。」
「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」
「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」
そのとき先生がはいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんうしろで、
「礼。」と言いました。
みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。
「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。
「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんうしろからあまりさわぐものを一人ずつしかりました。
みんなはしんとなりました。
先生が言いました。
「みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道の学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」
すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、
「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。
ところが嘉助がすぐ、
「先生。」といってまた手をあげました。
「高田さん名はなんて言うべな。」
「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。
先生はまた言いました。
「きょうはみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」
みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿と宿題を机の上に出しました。そして先生が一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。
ところが先生は別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿も宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。
「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しますから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたからちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」
一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人おとなも扇を下にさげて立ちました。
「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。
すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。
「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。
「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。
「何ぶんどうかよろしくおねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分は玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。
運動場を出るときその子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。
「先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。
「そうです。」
「なんの用で来たべ。」
「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」
「どこらあだりだべな。」
「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」
「モリブデン何にするべな。」
「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」
「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。
「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。
「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。
風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。
次の日一郎はあのおかしな子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がして、いつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは一郎よりもっとそう考えていたと見えて、とうにごはんもたべ、ふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを話しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集まっていて、棒かくしをしていましたが、その子はまだ来ていませんでした。またきのうのように教室の中にいるのかと思って中をのぞいて見ましたが、教室の中はしいんとしてだれもいず、黒板の上にはきのう掃除のときぞうきんでふいた跡がかわいてぼんやり白い縞しまになっていました。
「きのうのやつまだ来てないな。」一郎が言いました。
「うん。」嘉助も言ってそこらを見まわしました。
一郎はそこで鉄棒の下へ行って、じゃみ上がりというやり方で、無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くと、そこへ腰掛けてきのう三郎の行ったほうをじっと見おろして待っていました。谷川はそっちのほうへきらきら光ってながれて行き、その下の山の上のほうでは風も吹いているらしく、ときどき萱かやが白く波立っていました。
嘉助もやっぱりその柱の下でじっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに長く待つこともありませんでした。それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの鞄かばんを右手にかかえて走るようにして出て来たのです。
「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、
「お早う。」とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。
それは返事をしないのではなくて、みんなは先生にはいつでも「お早うございます。」というように習っていたのですが、お互いに「お早う。」なんて言ったことがなかったのに三郎にそう言われても、一郎や嘉助はあんまりにわかで、また勢いがいいのでとうとう臆おくしてしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりに、もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。
ところが三郎のほうはべつだんそれを苦にするふうもなく、二三歩また前へ進むとじっと立って、そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきょろきょろ三郎のほうはみていても、やはり忙しそうに棒かくしをしたり三郎のほうへ行くものがありませんでした。三郎はちょっと具合が悪いようにそこにつっ立っていましたが、また運動場をもう一度見まわしました。
それからぜんたいこの運動場は何間なんげんあるかというように、正門から玄関まで大またに歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねおりて嘉助とならんで、息をこらしてそれを見ていました。
そのうち三郎は向こうの玄関の前まで行ってしまうと、こっちへ向いてしばらく暗算をするように少し首をまげて立っていました。
みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向こう側の土手のほうへ職員室の前を通って歩きだしました。
その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵ちりがあがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風になって、黄いろな塵は瓶びんをさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。
すると嘉助が突然高く言いました。
「そうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」
「うん。」一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。三郎はそんなことにはかまわず土手のほうへやはりすたすた歩いて行きます。
そのとき先生がいつものように呼び子をもって玄関を出て来たのです。
「お早う。」先生はちらっと運動場を見まわしてから、「ではならんで。」と言いながらビルルッと笛を吹きました。
みんなは集まってきてきのうのとおりきちんとならびました。三郎もきのう言われた所へちゃんと立っています。
先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけて、とうとうみんなは昇降口から教室へはいりました。そして礼がすむと先生は、
「ではみなさんきょうから勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生(と二年生)の人はお習字のお手本と硯すずりと紙を出して、二年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して、五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」
さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎が、いきなり手をのばして二年生のかよの鉛筆をひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは、
「うわあ、兄あいな、木ペン取とてわかんないな。」と言いながら取り返そうとしますと佐太郎が、
「わあ、こいつおれのだなあ。」と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとはシナ人がおじぎするときのように両手を袖そでへ入れて、机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、
「兄あいな、兄なの木ペンはきのう小屋でなくしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながら一生けん命とり返そうとしましたが、どうしてももう佐太郎は机にくっついた大きな蟹かにの化石みたいになっているので、とうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。
すると三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたが、かよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると、だまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の目の前の机に置きました。
すると佐太郎はにわかに元気になって、むっくり起き上がりました。そして、
「くれる?」と三郎にききました。三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように、「うん。」と言いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。
先生は向こうで一年生の子の硯すずりに水をついでやったりしていましたし、嘉助は三郎の前ですから知りませんでしたが、一郎はこれをいちばんうしろでちゃんと見ていました。そしてまるでなんと言ったらいいかわからない、変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。
「では二年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に25-12=の数式と書きました。二年生のこどもらはみんな一生
だいたい毎日いつも行っている夢の世界のどこかで夢を見る感じです。
私は北海道の小さな街の生まれで、例えばそこを天塩中川だとしましょう。
中川町の自宅付近はもっとも夢に見る場所です。自宅内や庭先、自分の部屋(床についている夢が多い)、町内会くらいの規模で夢の街を思い起こすことができます。
だいたい、自宅付近は不安な夢になる場合が多いです。時間に間に合わなかったり、課題をしなければならないのに家に戻らなければならなかったり。
小学校にいる夢が一番頻度が多く、ついで中学校、高校と続きます。
空間的には、中川町には南側に「佐久」という小さな集落があるのですが、ここもよく夢に出ます。
自動車で行く場合大きな橋を渡ると交通に便利なのですが(裏道あり)、この橋が渡りにくかったり、河川敷で何かしなければならなかったりして結構大変です。
天塩中川町の北方には、幌延とか豊富とか小さな街があり、最後に稚内に行きます。近隣の天塩町含めて、全部夢の中で訪れることがあります。
南方には音威子府村があり、美深、智恵文、名寄、風連、多寄、士別、剣淵、和寒で旭川にたどり着けます。
それぞれ夢の街があり、特定の入れる家がある感じです。水族館みたいになっている家や、お土産が売っている家、誰もいない家。
美深のあたりで天塩川を渡らねばならないのですが、たまに橋がないことがあり、難儀することがあります。
他にも特定の沢や川が記憶にあるようで、よくそこで作業をしたり、洪水や増水の被害にあったりします。ダムもよく夢に出てきます。朱鞠内湖とか。
歩きで移動するので、一回の夢で例えば旭川から天塩中川まではたどり着けたことは多分ないと思います。車を用いても手前の音威子府あたりが限界です。
おそらく、親が自営業で旭川や稚内までよく車で一緒に乗って行っていたのが記憶にあるのだと思います。
高校が旭川だったので、旭川の夢もよくみます。ショッピングモールとか。
大学は札幌で、駅の周辺がよく夢に出ます。ただ、配置はかなりランダムで、変なところにカプセルホテルがあり、馴染みの居酒屋も変な場所にあります。夢の中ではいつも同じ場所です。
大学生の頃の冬に、すすきので飲んだ後ずっと歩いて家まで帰った記憶が関係しているのかもしれません。
札幌駅から東の方に車で行くと、空港があります。新千歳空港なのでしょうか?
チェックインを済ませて飛行機に乗ると、東京かハワイに行けます。
最近ようやく、自分のマンションとその界隈が夢に出てくるようになりました。
子供の頃のメインだった場所の夢と比べて、不安な要素はかなり抑えられています。パンやお菓子を買いに行こうなどの夢です。
もちろんここから実家に帰るパターンもあります。たどり着いたことありませんけれど。
夢の中では小学校からすら帰れません。色々な事情で寄り道が発生し、途中の公園までが限界です。
最近は、札幌と旭川のマンションを両方借りたままになっていて家賃が大変な夢だったり、前の彼女と今の彼女と知り合いの女性と全員同時に交際していることになっており(大変!)、これはまずい、ととても不安になって朝目覚めて安堵することが多いです。
明日の朝目覚める直前に見る夢も、きっとこのどこかでの出来事になる(と私が認識しているだけなのかもしれないのですが)と思います。
首都圏にいくつかあるマイナー鉄道駅の一つ、西武池袋線・元加治駅。今どき駅前にコンビニがない。
昔はあったらしいが、近所の高校生の万引き被害が多く、閉店していらい復活していないそうだ。
駅は入間市と飯能市にまたがり、駅舎所在地は入間市。無投票で当選した市長は「元加治駅南口の開設」と、
飯能市にある「トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園」の観光地化を公約の一つに挙げている。市長就任後に知った。
そう、この駅は北口しかなく、駅南側のあけぼの公園に向かうには北口から降りて線路をぐるりと回る必要がある。
検索したら、この駅周辺の開発に強力に反対する市民がいるそうだ。
以前の藤沢駅・辻堂駅問題であり、新駅設置が決まった村岡新駅への反対にも通じる。
駅が2市にまたがって開発が進まないというも、横浜市と鎌倉市で押し付けあった大船駅周辺の開発と同じ。
大船駅は横浜市側に新たに乗り降りする笠間口を作って、ようやく形になった。
転居したから昨日まで知らなかったけれど、大船駅前の商業施設が完成し、今年2月23日から順次オープンする。
藤沢市は、工場撤退後、辻堂駅前を開発したおかげで、毎年転入者が増えている。
その成功を見て横浜市、鎌倉市はようやく腰を上げ、開発を加速させつつある。
入間市も、隣接する所沢市内各地の再開発の進展を見て、未着手の市西側に目をつけた。
30年もかけず、できるだけ早期に改札口を設置し、保育所や学習教室を核テナントとした駅ビルを誘致するべきだと訴えたいので、ここに書いた。
そもそも新宿・藤沢(辻堂)間、新宿・入間市(元加治)間、日中の所要時間はほぼ同じ。直線距離ならむしろ埼玉のほうが近い。
電車速度が遅いためで、西武線は小田急線を見習い、特急(有料)・快速急行・急行・各駅停車に再編してもらいたい。スピードアップも図ってほしい。
大人気の藤沢、対して、落ち目の横須賀、入間ほか。市が既存住民に忖度し、新たな街づくりを放棄したからだ。
リモートワークでプチ田舎にほど近い郊外に住むなら(津波・地震リスクはノーカウント)、現状、藤沢〜大船間がベスト。湘南の海はすばらしい。
その湘南エリアに入間ICからETC2.0割引適用で片道2050円(新湘南バイパス 藤沢IC)、最短54分で着くらしい。
神奈川・東京市部・埼玉南部まで合併すれば、海なし県は「海あり県」になる。車移動1時間なんて、地方では通常行動の範囲では?
今回の総裁選では菅さんの勝利がほぼほぼ確定しているけど、皆菅さんが総理大臣になることの大きな意味をまだわかっていない。
雄勝郡とは秋田県の南側、奥羽山脈のふもとに広がっている農村地帯であり、まあ一言で言えば陸の孤島である。
鉄道ファンにとっては、山形新幹線の新庄と秋田新幹線の大曲の間に取り残された在来線区間沿い、と言えば分かりやすいだろうか。
日本の近現代史を調べてみると、秋田県という場所は常に貧乏クジを引かされ続けてきた経緯がある。
戊辰戦争時には新政府に寝返ったにもかかわらず、明治時代以降は太平洋側の宮城・岩手と比べて冷遇され続けた。
国道4号線や東北自動車道、JR東北本線、東北新幹線は全部、福島・宮城・岩手の太平洋側を通っていて、秋田と山形は「裏東北」として無視され続けてきた。
いつの間にか秋田県は自殺者数日本ワースト、高齢化率日本ワースト、ネットでも秋田人の陰湿さは常に批判され続けている。
同じ東北地方なのに、仙台駅前の大都会の風景と比べると、秋田駅前はシャッター商店街になっているんだよね。
このように衰退一直線の秋田県だけど、ここにきてまさかの秋田県出身者の総理大臣誕生である。
東北地方出身者の総理大臣は今まで2名いたけど、どちらも岩手県出身者だった。
原敬は平民宰相と呼ばれ、鈴木善幸は東北地方のインフラ整備に尽力したが、菅さんはどんな実績を残すのだろうか。
岸田さんでは選挙の顔になれないし、石破さんはチー牛顔で総理に向いてないし、敵失の面もあるが菅さんにとっては7年間頑張って来たおかげで「東北地方の日本海側」初の首相になれることを喜びたい。
https://twitter.com/sukinisitemokei/status/1294097810787188737
この件が話題になっていたので和歌山市で起きているメガソーラー事業の数々について少し。
このままいくと冗談抜きで和泉山脈の南側が全てメガソーラーになってしまう。ちなみに和泉山脈以外の山は全て風力発電所になる。
https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/032000/taiyokojorei/gaiyo.html
実はこの縦覧中にもヤバい事業が結構あるので、それも含めて書いておく。
中身を読んだら審議会の意見書がかなり慎重なのが理解できると思う。というのも、隣接地にも同様のメガソーラー計画が別にある。
http://www.succeed-in.com/gk-wakayama/
この隣接地の件については更に裁判沙汰にもなっているのだが、和歌山県と市がやたらと強硬に反対している。
https://www.wakayamashimpo.co.jp/2019/09/20190904_88979.html
この手の土木工事が大好きな和歌山県と市にしては不審にも思えるが、この辺り一帯は90年代に和歌山版イトマン事件といっていいフォレストシティ問題の予定地だった苦い記憶があるのだろう。
住宅地なのかゴルフ場だのリゾート開発だとかよくわかんない開発計画だったのだが、開発会社の和興開発は前田社長が逮捕され、紀陽銀行の山口頭取以下の幹部たちが億単位のリベートを受け取ったのがバレて、県の企画部長は自分の土地を相場の数倍で買い取らせて国土法違反の罰金刑。ちなみに数百億円が使途不明で闇社会行き。
フォレスト事件が発覚し騒ぎになったのが1995年なのだが、2年後の1997年になると事態が急変する。
なんと驚き県知事の西口勇は紀陽銀行からいくら貰ったか知らないが、このデタラメな開発計画を許可したのである。この西口はグリーンダイヤモンド構想とか紀泉100万都市構想とか意味わからないことブチ上げてた本物のバカなので仕方ない。
当然こんな計画が上手くいくはずもなく開発計画書を作った東急建設がこの事業から撤退、和興開発は破産し、フォレストシティ計画は消えた。地元政界はどっかから流れた金を掴んでいたので共産党以外みんな推進派で、最終的にはうやむやに。
ちなみにネットにもリアルにも情報はほとんど残っていない。全国メディアが扱うには小さすぎ、県内メディアが扱うには大きすぎた。
さらに東側の岩出市山地区には根来開拓パイロット跡地にメガソーラーが完成している。
そもそも開拓パイロット事業というのは農業やるから国の土地払い下げてやるよって話だったのに、この根来開拓パイロットはじきに耕作放棄され、地元で眠る土地となった。
しかし岩出市曰く「開拓パイロット事業で一度農地にしたんだから環境も何も関係ないし、その後は何やってもセーフ」ということらしく、突如として太陽光パネルを敷き詰めたのである。
Googleの航空写真ではまだだけど、実際には既に完成している。
この事業はふじと台と和歌山カントリーを挟んで西側にあるバブル期に宅地開発で削った山をメガソーラーとして再利用しようという計画。
https://wbs.co.jp/news/2019/09/06/137724.html
ここがフォレスト跡地と違うのは、既に宅地開発しようと造成済みだということ。県条例がなければ余裕で完成していた。ギリギリ致命傷でセーフだった。
ここのヒドさはメガソーラー関係なしなので知りたい人はGoogleで検索だ
なんか島精機の会長だったかが、ここに人工スキー場を作るとか息巻いていたという話を聞いたことがある。できたのはトマト農園で、しかも既に潰れた。
仮谷と西口は地元のゼネコンから毎年数千万円のお年玉をもらっていたという話が有名なのでお察しください。逮捕されなかった理由もお察しください。
https://mainichi.jp/articles/20191010/ddl/k30/010/312000c
県立自然公園のはずの生石高原周辺や、ハイキングコースとして知られる深山渓谷、たくさんの蛍がいる貴志川流域の山という山に超巨大風車をバカスカ建てるという計画。
土砂が流出して蛍が全滅しようが知ったことではないらしいこの計画は、全部作ると深山渓谷から鏡石山辺りまで全ての山という山に人類が未だかつて作ったこともないような超巨大風車がやってくることになるらしい。
ちなみに紀南は既に手遅れになりつつある。
あのさ、いったいぜんたい和歌山が何したっていうんだ?
令和2年度の途中ですが、うまくいったことをまとめておこうと思います。
同じ大きさのタライを2つならべて片方を親魚もう片方を稚魚用にするというぜいたくにスペースを使う飼育法を採用しました。今までは、親魚はタライでも稚魚は小さ目の発泡スチロール容器やNVボックスだったりしたのですが、思い切って同じ大きさにしてみました。これは効果バツグンでした。稚魚の生存率が抜群です。場所を取るのでそれなりの覚悟が必要です。小さなプランタで植物の世話をするよりも畑で直に植えたほうが簡単なのと同じです。
タライは45Lを中心に36Lも使っています。水深的に36Lのほうが管理がしやすいと思います。
ちなみに1cmくらいになったら、稚魚槽から親魚槽へ移します。昨年までは、タマゴの採取時期別に稚魚は品種を問わずに大きさ別にごっちゃにしていましたが、成長後の品種ごとの選別作業もなくなり手間が減りました。
これを購入するのにかなりの覚悟が必要でした。45Lタライ2個分でとても大きいです。45Lに比べて少し浅めなので管理しやすいのがポイントです。圧倒的水量の暴力で水が汚れるまでに時間がかかるのが最大のメリットです。これを2個並べて、親魚と稚魚を別管理。とても管理が楽になりました。
昨年まではグリーンウォーター重視で中が見えないのを良しとしていましたが、本年は底が見えるグリーンウォーターを基準にして水替えしています。1/5の水を残し、残りを水道水で希釈していく感じです。
水作さんの水替え用の手動ポンプです。サイフォンの原理系のアイテム。これはすごい。もっと早く買えばよかったもの。水に入れる部分のパイプなどが細かく分解清掃できる優れもの。使えば使うほどわかる工夫の塊。ごみが詰まる部分の分解がしやすいとか排水ホース部分が細くなっていて徐々に水が排水されるとか使ってわかる一品です。水替えが楽しくなりました。
しかも、底に落ちた卵がフィルターで回収できるおまけつきです。ちょっと取りにくいのが難点ですが。
西日が当たらないところに水槽を置くという単純なセオリー。簡単なようで南中高度が刻々と季節変化する太陽を相手するのは難しいのですが、季節変動を最小限に抑えつつ、メダカのエサとなる植物性プランクトンを高温で殺さないように維持するために重要な法則です。
↑ 西 ┃ ┃ ┗━━━━┓ ■■■■┃ ┃ ←南 ┃建物 ┃ 庭 ┃ ┃ ┗━━━ ■■■■ 東 ↓ 凡例:■水槽
上の図のように建物で西日が遮られる場所に水槽を置きます。この場所以外に欲張って水槽を置くと西日の餌食となり、高水温による酸欠で死ぬ可能性が高いです。4つ並んでいるうちの一番南側の成長度が高いです。
水槽配置数の増加のために棚を作って水槽を3階建てにしていたときがありました。小面積に水槽がたくさん置けるのがメリットです。しかし、この方式は水温に深刻な影響を与えており、昼と夜での水温の変化が激しくなるのでした。水槽を地面に置くと最高水温と最低水温の変化の幅を抑える効果があったのです。重層配置はやめて、地面に置くことにしました。台に載せると水槽の管理がしやすくて便利なのですが、メダカ的には水温の変化が激しくてダメなようです。
越冬時も水槽の下に空気の流れがあると次々と冷たい空気が入って四方八方から水槽の水をどんどん冷やしてしまうこととなり氷結しやすくなるようです。姿勢がつらくても水槽は地面に置きましょう。
100円均一のセリアに産卵床が登場しました。昨年までは汚れ落とし用のハードスポンジを代用していました。これがペット用品売り場に使いやすい大きさにカットされた状態で12枚入りで商品化されました。使いやすいです。これを固定して浮かす「浮き輪」なる商品も売り場に登場しましたが、よく売れるのかレア商材化しています。その代わりにホームセンターの電材売り場で売っている、エアコンの配管の保温材を購入して輪切りにして使っています。
ホテイアオイは欲しい時に欲しい数がそろわないことと、冬の前の処分が面倒なので、やめました。越冬に成功したホテイアオイがあるのですが、さっぱり数が増えません。
必要なタイミングに必要な数がそろうので、稚魚槽への卵の移動がしやすいです。水曜日と土日のどちらかで約3日に一回のペースで採卵しています。
タライには塩ビパイプを使ったオーバーフロー機構を穴を開けて取り付けています。取付が間に合わないところも準備工事の穴だけはあけておきました。
ヤゴ対策の木材と網を組み合わせた凝った構造のネットはやめました。オーバーフローの取り付けで最高水面を水槽のふちよりも下げ、4㎜角の防風ネットを大きな洗濯ばさみで固定するだけのシンプル構造にしました。大き目のタライの場合はネットが中央部で垂れ下がるので、角材を渡してあります。
真南の西日の当たる場所での飼育や小さい水槽での飼育をやめたので、エアレーションをする必要がなくなりました。無理のない場所で無理のない水槽を使うと飼育設備がシンプルになってきます。
それぞれの水槽に入れていましたが、サカマキガイの巣窟なので、やめました。睡蓮だけ別のトロフネに入れて楽しんでいます。
水がクリーンになるということで底じきにしていたときがありました。が、これもやめました。水替えをシンプルにするためにベアタンク運用です。赤玉土はプランタで再利用です。
1cmくらいの大きさの溶岩石を入れていた水槽もありました。これもやめました。溶岩石は鉢底石として再利用されました。
稚魚水槽に入れていました。これも合理化の対象です。アナカリスはミナミヌマエビ水槽へ転用されました。
メダカ屋さんの飼育法を真似て買いましたが、水量が少ないので、利用中止。用途変更。製造元の意図通り、工具箱とか部品箱としての利用に戻しました。お店に納品される段ボール単位で取り寄せていたので、収納用にしたら同じ大きさの入れ物がたくさんそろってとても便利でした。
最後のほうはやめたことが多いですね。できるだけシンプルに簡単に飼育できる方法を追及していたら、ダブルタライのベアタンク式に落ち着きました。
概要は分かってるしニュースも追ってはいるから、情報としては知ってはいる
だが、正直、運動が求めている結果や変化が理解不可能すぎて怖い
例えば、南北戦争で奴隷制を支持していた南側の将軍だから撤去しろとか言い出すのを筆頭に
気に入らない銅像の全てを撤去させようとしてる勢いだし、果ては白人キリスト像の撤去まで要求している
アメリカの大学ではウィルソン大統領の名前が付いた建物や学部の改名までしようとしているし
チェスの駒が白黒だから差別的なゲームであるというような事すら言い出したかと思えば
ほとほと呆れる事にダークエルフが問題だとすら言い出す。どういう頭してんだろう。
略奪を正当化したり、制度を改正しないなら破壊すると暴力を示唆するだけでは飽き足らずに
アメリカ国民全員のバックグラウンドになっている文化や歴史まで破壊しようとする
そんなBLMってのが心底気持ち悪くて怖いし、この運動が日本にまでやってきて日本の白黒を表現とした文化などにまで
文句をつけてくることになるのではないかと想像すると寒気がする。
法律を改正しようとしたり、制度の改正を求めるのは理解できるし、そこまでなら応援も出来るんだけど、
略奪を抵抗運動であると正当化したり、銅像の撤去を求める時点で、あり得ない事が起こっていると思うし
黒人を奴隷として扱った過去があるからってアメリカの歴史や文化の気に入らない側面を欲しいままに破壊できる彼らが
AV鑑賞が趣味だと知ってる友達にもなんとなく話しづらいのでここに書いてみる。パンツ脱ぐ展開にはならないし無駄に長い。
スペック→22、彼氏いない歴=年齢、推しが三次元だからと身だしなみは一応気を付けてる俳優ヲタク
先輩と急に飲むことになって、隣県まで飲みに行ったんだが、気付いたら0時過ぎてた。先輩はかなり酒強いし、自分もそれなりなんだが、その日は割とお互い酔っていた。実はすでに最寄りまで帰れない時間だけど、奢ってくれた先輩(実家住みの男)にこれ以上甘えられないしと思って、とりあえず自分は半分くらいのとこまで帰れる電車に乗ったが、そこでふと財布を店に忘れたことに気付いた。ICカードには電車賃くらいしかないし、キャッシュレス決済を嫌って導入してなかったことをここで初めて後悔した。とりあえず電車は終点に着いてしまったし降りて、イートインできるコンビニで始発を待つかと思って30分ぐらい歩いてみたものの、椅子がなかった。しょうがないから駅前に戻ったら案外明るいしベンチあるし、ここで座って待っててもなんとかなるんじゃねと思ってたら、うとうとしてたらしい。
「死んでる?大丈夫?」って声かけられて起きたら、10くらい上に見える、眼鏡をかけた少し髪長めのスーツのお兄さんだった。「今日寒いしここにいたら死んじゃうよ」って言われて、事情を話すと、お兄さんは近くに住んでて会社の後輩と飲んだ帰りなんだけど、家に泊まりに来ると連絡してきた友達と連絡が取れなくて(どこかで飲んでて潰れてる?)困ってるらしい。コンビニのイートインを少し探した話をしたら、「南側のコンビニにあったかも」と言われて一緒に行ってみたけど、深夜はどこもイートインの椅子を撤去してるみたいだった。どうやらその駅は駅から近いとこに24時間営業のファミレスもマックもないらしくて、「とりあえずどっか行こう」ってお兄さんが自転車の後ろに乗せてくれて、自転車の2人乗りとか小学生以来だなと思った。ただその日はあまりに風が寒くて途中で歩こうとなって、商店街があるあたりまで歩いたけどw年齢聞かれて答えたら「一回り下とか宇宙人だわ」って言われて、お兄さんは34らしい。今私が金髪だから社会人とは思われなくて(髪色落ち着いてる時は社会人だと思われがち)、大学で何やってるとか就職はって話にもなって、私が進学するんだと言ったら研究対象の話を興味深そうに聞いてくれたのは嬉しかった。
そうこうしてるうちにカラオケの前まで着いて、お兄さんが中入ってくから着いて行ったら、深夜パック2人分を払ってくれた。受付で書いてた名字しか知らないお兄さんと2人きりとか大丈夫か?AV的展開にならないか??と一瞬思ったけど、その時けっこう眠かったので、とりあえず部屋入って寝転がらせてもらうことにした。お兄さんは相変わらず友達からの連絡待ってるけど来ないらしく、だらだらと喋ってた。お兄さんに名前聞かれたから「当ててみてください」って言ったけど、自分の名前珍しいから当然当たるわけなくて、教えたら「珍しい」って言われたりしてた。そしたら突然私が気持ち悪くなって、「吐きそう」とだけ伝えて、トイレに駆け込んだ。先輩と飲んでた時もちょっと酔ったかなと思ったけど、吐くほどだと思ってなかったからびっくりした。そしたらお兄さんがトイレの外から「〇〇ちゃんいる?大丈夫?」って聞いてくれて、「吐いたけど間に合ったから大丈夫です」ってだけ答えた。ちょっと落ち着いて、うがいしてから部屋戻ったら、お兄さんがドリンクバーで水用意してくれてて、1杯飲んだらまた持ってきてくれて、とても助かった。起き上がってるのしんどかったし、表情もヤバかったのか、何十分か寝かせてもらった。(その間何かされたのかはわからん)
途中でぺちぺちとお兄さんにほっぺたを触られて起こされて「5時になったら帰るわ」って言われて、その時で30分前くらいだったのかな。私は横になってたけど「もうちょっと飲みなよ」って水差し出してくれたり、熱ないかっておでこ触って確認されたりした。その後ちょっと元気復活してきたから喋ってて、「彼氏いないの?」「いないし、大学生なってからは何もないですね」「じゃあ好きな人は?」「5年くらい好きな人がいますね」「告白してないの?」「したけど振られ方が優し過ぎて諦められなかった」とかいう話もした。「おっぱい触らせて」とか言われたけどそれは断ったw
「あと10分だよ、人生でもう二度と会わないと思うし俺となんかしたいことないの?」って言われて、何を狙ってるのかよくわかんなかったから、「どういう系ですか?」って聞いたけど「あっち向いてホイとか」って言われたの面白かったw普通にしんどかったし「え、それは結構です」って言ったけどww「キスしていい?」って言われたのは「えー。っていうか吐いた後ですけど」「うわそれは嫌だわ。いや、いいって言ってくれたらしたけど」となった。
お兄さんが本当に帰るわって感じで立ち上がって、手を振られて振り返したら、「ちっちゃいねー」って手を合わせられたりもした。「持ち帰りたかったな」って言われたけど曖昧に笑って流した。(たぶんここでそういうノリに乗らなかったのは正解)そうしてお兄さんは帰ってった。
お兄さんには「帰れるなら早く帰ったほうが落ち着いて寝れると思うし楽だよ」って言われたけど、帰ってからもしんどくて、8時ギリギリまで寝てて、なんとか起きて電車乗ってバス乗って家に帰った。
いやまじで自分がこんなことするとは思わなかったなーっていうのが、率直な感想。もっと貞操観念とか倫理観とかしっかりしてると思ってたのにwAVは見るけどこういうことされたいとかじゃなくて、好きな俳優を見てるのと近い感覚で傍観者として楽しんでる感じだし。
しかしお兄さんが断っても無理やりしてくるとかいう人じゃなくて助かった。処女もファーストキスも守られた(はず)w本当は潔癖症だから普通に知り合いと飲んでてボディタッチみたいなのもしんどいんだけど、お兄さんにはまあ嫌悪感はなく、それよりも助けられたって感覚のほうが強かったのか。
まあでもとにかく、しばらく酒は飲まないし、財布は忘れないように気を付けようという教訓。
以前にも書いたが、観光地の混雑で苦しまない、土日の神田がオススメだ。
神田といっても日本に数多ある神田の中でも、泣く子も黙るターミナルステーション・東京駅と、世界のオタクの聖地・秋葉原駅に挟まれた神田駅のことだ。
平日でもそれほど混雑しない半端リーマンの街・神田だが、観光客が少ないどこほではない。そもそも街に人が少ないので、土日や祝日になるとまじでゴーストタウンになる。
駅を一歩出れさえすれば、タクシーの列もないし、キャリーバッグに妨げられることもなく、ベビーカーも押し放題だ。
夕方から営業を始める飲み屋もヤワな感じで、客引きの兄ちゃんも押しがいまいち弱いので、ちょい飲みのパラダイス銀河だ。(せんべろ系立ち飲み屋も多いぞ)
特に最近マスコミ(の一部)で「裏千代田」と呼ばれる神田駅の東側、昭和通りを越える地域(台東区浅草橋や日本橋馬喰町との境目、千代田のイーストエンド)はおすすめだ。
①お玉ヶ池
むかしむかし、この周辺に住んでいたお玉という美しい娘が二人の男性からの求愛に悩んだ末、池に身を投げた伝説の池。現在は、埋め立てられてしまっていて、場所も定かではない。
②千葉道場
幕末の剣豪・千葉周作の道場があり坂本龍馬もここに通っていた。岩本町交番の南側に「玄武館跡」の碑がある
江戸時代の牢屋跡で、吉田松陰の処刑地。吉田松陰に関する碑が立っている。
④十思湯
サウナで一汗流そう。第2、第4金曜日はふれあいデーのため入浴料100円。
ともかく、もしも観光地の人混みで疲れたら一度、神田に来てみるといい。
確かに観光で楽しめるほどの場所ではないが、ミニストップも数店あるから、イートインコーナーでソフトクリームでも舐めるといい。
そこで、観光地の混雑で苦しむくらいなら、土日の神田に来い、と言いたい。
神田といっても日本に数多ある神田の中でも、泣く子も黙るターミナルステーション・東京駅と、世界のオタクの聖地・秋葉原駅に挟まれた神田駅のことだ。
平日でもそれほど混雑しない半端リーマンの街・神田だが、観光客が少ないどこほではない。そもそも街に人が少ないので、土日や祝日になるとまじでゴーストタウンになる。
駅を一歩出れさえすれば、タクシーの列もないし、キャリーバッグに妨げられることもなく、ベビーカーも押し放題だ。
夕方から営業を始める飲み屋もヤワな感じで、客引きの兄ちゃんも押しがいまいち弱いので、ちょい飲みのパラダイス銀河だ。(せんべろ系立ち飲み屋も多いぞ)
特に最近マスコミ(の一部)で「裏千代田」と呼ばれる神田駅の東側、昭和通りを越える地域(台東区浅草橋や日本橋馬喰町との境目の、千代田のイーストエンド)はおすすめだ。
じゃあいったいそこで何を楽しめばいいのかと、諸兄(姉)は疑問をもたれるであろう。
①お玉ヶ池
むかしむかし、この周辺に住んでいたお玉という美しい娘が二人の男性からの求愛に悩んだ末、池に身を投げた伝説の池。現在は、埋め立てられてしまっていて、場所も定かではない。
②千葉道場
幕末の剣豪・千葉周作の道場があり坂本龍馬もここに通っていた。岩本町交番の南側に「玄武館跡」の碑がある
江戸時代の牢屋跡で、吉田松陰の処刑地。吉田松陰に関する碑が立っている。
④十思湯
サウナで一汗流そう。第2、第4金曜日はふれあいデーのため入浴料100円。
⑤検索中
ともかくだ。
確かに観光で楽しめるほどの場所ではないが、ミニストップも数店あるから、イートインコーナーでソフトクリームでも舐めるといいよ。
神田といっても日本に数多ある神田の中でも、泣く子も黙るターミナルステーション・東京駅と、世界のオタクの聖地・秋葉原駅に挟まれた神田駅のことだ。
平日でもそれほど混雑しない半端リーマンの街・神田だが、土日や祝日になるとまじでゴーストタウンになる。
駅を一歩出れさえすれば、タクシーの列もないし、キャリーバッグに妨げられることもなく、ベビーカーも押し放題だ。
夕方から営業を始める飲み屋もヤワな感じで、客引きの兄ちゃんも押しがいまいち弱いので、ちょい飲みのパラダイス銀河だ。(立ち飲み屋も多いぞ)
特に、最近マスコミ(の一部)で「裏千代田」と呼ばれる神田駅のイーストサイド(台東区浅草橋や日本橋馬喰町との境目の、千代田のイーストエンド)はおすすめだ。
じゃあ、いったいそこで何を楽しめばいいのかと、諸兄は疑問をもたれるであろう。
①お玉ヶ池
むかしむかし、この周辺に住んでいたお玉という美しい娘が二人の男性からの求愛に悩んだ末、池に身を投げた伝説の池。現在は、埋め立てられてしまっていて、場所も定かではない。
②千葉道場
幕末の剣豪・千葉周作の道場があり坂本龍馬もここに通っていた。岩本町交番の南側に「玄武館跡」の碑がある
江戸時代の牢屋跡で、吉田松陰の処刑地。吉田松陰に関する碑が立っている。
④十思湯
サウナで一汗流そう。第2、第4金曜日はふれあいデーのため入浴料100円。
⑤検索中
ともかくだ。もしも観光地の人混みで疲れたら一度、神田に来てみるといい。
確かに観光で楽しめるほどの場所ではないが、ミニストップも数店あるから、イートインコーナーでソフトクリームでも舐めるといいよ。
https://www.biorxiv.org/content/10.1101/351643v2
正確に読解できていなかったら申し訳ない
管理されなくなった竹が他の植物の生えた地域に侵略していくことが問題となっている。
この問題に対処するには、竹の移動を経時的に追うこと、または、侵略しているかを判別することが求められる。
本論文は、この問題を解決するために、Deep learningを用いて衛星画像データを竹とそれ意外に識別を試みる。
画像はGoogle Earthから取得し、著者らが3種類のTag付けを行った。このデータを元に学習を行った。
ただし、衛生画像を撮影した時期によって、精度が著しく損なわれるので、現時点では経時変化を追跡する課題は解決されていない。
竹林が徐々に他の植生の場所に侵略している。この問題を解決するために、まずどこに竹が生えているのかを識別するのがこの論文の目的。
この課題を解決するためにGoogleEarthの画像は適切なのか?言い換えれば、課題に対するシステムの必要要件が記述されていない。
この論文で提示している問題は、植物の侵略を判定する識別器をつくることである。故に、竹やぶと建物の境目になる部分が正しく識別されていることがこのシステムの必要要件である(多くの範囲が正確に識別されることは目標ではない)。
よみました