はてなキーワード: 公立とは
会社のひとつ上の先輩が、タイトルのような感じでとてもきつい。
仕事中とかにかかわらずニュースサイトを見ながら話しかけてくる。テレワークできない職種で残念。
内容は、はてなでよく見かける意見の真逆の思想で、私の考えと真逆でつらい。
「インフルエンザと比較しても全然死亡者少ないのをみんなわかってない」
「感染力と毒性は反比例なんだから、感染力の高い変異株は毒性が低いはず」
「年寄りが減ってくから高齢化の解決になる、自然淘汰じゃん」など。
緊急事態の出てる地域に住んでいるが、GW は旅行三昧だったようだ。
そして自民支持者だ。
「コロナ対策なんて誰がやっても変わんなくて、どうしようもないんだから政府を叩くのはおかしい」
ここ数年で株をやっており、結構儲けたらしい。
自民のおかげで株が上がったと思っているような話もしていた。
他にも、オリンピックもやれると考えているようだし、
窮状を訴えた医療団体について「普段は税金補助があるんだからこういうときくらい文句言わず働け」、
飲み会参加しないおじさんについて「ネットを見ずにテレビしか見ない人はこうなっちゃうかもね」とか。
わたしの見ているネットとは全く別の世界を見ているんだろうな。
先輩は経済雑誌とか日経とかが好きでよく読んでると自慢していた。
これらの媒体に感化されてるのか?ほぼ読まないからわからないけど。
先輩は仕事は普通にこなしているし、頭のいい国公立大出身なのだけれども、
こんなに考えが偏ってしまうんだなと残念に思う。
それとも、私自身がはてなとかに入り浸っているせいで逆方向に思想が偏りすぎているのか??
正しいことって何だろう、と先輩の話を聞いていてわけがわかんなくなってしまった。
先輩の考えが、先輩にとっての正しさなんだろうけども、
なんだけれけれども、間違っている、冷静に客観的に考えると正しくないと思ってしまう。
幸い身近にコロナ感染者は今のところおらず、仕事も続けられており、
ステイホームも苦にならない性格なので比較的困っていないほうだと思うが、
この先輩の話を聞くのが今一番つらい。
公立中とか学区選べない場合はどうかなって。ボロと新築じゃ生徒の落ち着きも違うのかなとか。
たとえば受験で入る国立中とか校舎ボロなとこもあるけど、いじめ問題はないんだろうかとか。
まあ校舎のきれいさと生徒の落ち着きとの関連なんて、調べようもないんだけどね。
それは思ったね。
一学級の人数もだいぶ減って、揉め事も少なくなっただろうし。
自分、一時期世間を賑わせたいじめが問題になった学校の出身のものです。
前提として荒れてる学校だった。
近くに国立の附属中があって、こだわりある子供はまずそっちに行ってた。
私たちの学校に来る子は家が近かったり、こだわりがなかったり、附属中なんか悪い意味で眼中に無い子達も多かった。
そんな学校だから、成績ももちろん低くて私たちの学校の価値観で言うと県で50くらいの高校に入る子はそれなりに頭がいい子、偏差値43.4が普通、55-は神様みたいな領域ぐらいには低かった。
クラスメートも1人2人は授業に参加しない子がいたり、30歳と付き合っていることを大っぴらに話す子やタバコ酒自慢も結構あった。
授業もできないから先生たちは口うるさいヤンキーグループを抑えながら授業するしかなくて、刺激しないように接してたらそれを馬鹿な中学生の頭では「自分たちは先生に認められた」と勘違いする奴らがあまり喋っていない俗に言う陰キャを構ってあげてる、という名目でのいじめをした。
それがいつの間にかおもちゃになっていじめに発展するのが決まりのコース。
いじめたヤツらにとって「自分たちは先生に認められた特権階級」って思っているし、先生たちも正直他の生徒が万引きや喧嘩やらで外部に迷惑をかけているから内の問題に構う暇なんてなかったと思う。
というか真面目そうに見えて万引きする奴らよりも分かりやすく問題を起こして馴れ馴れしく先生に話しかける彼らを先生は可愛い生徒と思っていたかもしれない
結果、兄弟の学年で問題になってしまってマスコミに大々的に報じられた。
元々あった先生の負担が倍増し何人かの先生が来なくなったし、ストレスや親が通わせたくないという意味での不登校の児童も多発した。
マスコミも過熱してて、休日の私服の私に「あの中学出身だよね?」と話しかけてきたりしていた。
いじめたヤツらは守られたりもして、さらに結束を強めたように見えたけど、親含む内部で罪の押しつけあいで最終的には分解した。
というか周りの生徒が孤立させてていじめグループ内でいるしかない状態だった。
教師に持ち上げられたから勘違いするいじめなんてするバカだったから、ほとんど高校も低い偏差値しか行ってなかった。
勉強してちゃんとした高校行っても同じ中学の人たちからのリークでばれたりするから孤立して退学したりもしたらしい
自分も中学を忘れようと高校は私しか進学していない高校に行ったけど、「あの中学校出身」と言われていて、友達は出来たけどいじめ事件の事を興味本位で聞かれたりした。
地元には悪い思い出がほとんどで、同級生も帰っていない人達が多い。成人式も半分しか来なかった。
故郷の思い出は息が詰まる思い出と自分がいじめのターゲットにならないかとビクビクした記憶だったり、高校の時の「あの中学出身」っていうヒソヒソ話と人を死なせる要因をつくったという罪悪感でぐちゃぐちゃになる。
強く生きて欲しい。
旭川のニュース見ないようにしていたけど偶然見ちゃって思い出したので整理つける為に書いておく。
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身バレ防止の為に兄弟がいじめが問題になった学年って言ったけど文章的に合わないところ多すぎた。
いじめで問題になったクラスは別クラスだけど、噂には聞いていて正直他のクラスよりまとまっていたクラスだった。
亡くなっていた子がスケープゴートになっていたのは外から見てもわかってたけど、皆自分が助かるためなら仕方ない、って感じだった。
よくいじめがあるクラスはまとまるって言うけどあれは自分がそのターゲットにならないように無理矢理合わせているだけ。見せしめと変わらないよね。
あと強く覚えているのはいじめた子の親がうちの家に電話してきて、うちの親に「マスコミに子を売ったのはお宅か?」と質問してきたりしたことかな。
近くに附属中があったからって書いたけど、うちの学校以外はみんな普通に過ごしていたし、成績も附属中よりも少し下だったけど、普通に過ごしていたから、本当にうちの学校のみの問題だったと思っている
今思えば小学校の時、附属中にいく生徒が皆一斉にやっていた習い事をやめて塾行き始めて、何となく附属中組と公立組に別れ始めた所から公立組は劣等感を感じ始めたし、そこから荒れる生徒もポツポツ出始めたな
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追記2
私の書き方が悪いから附属中ある公立校がみんな荒れてるって感じになってしまったけど。
現に1番その附属中に近い公立中学は平和で全体の成績も良かった。
私の学校が荒れたのは周りの中学生からみて「荒れている」というイメージの中学で、成績も低くてバカ中って言われていたからそれの劣等感もあった。
先生の質も良くなかった。
という流れ
体罰もどうだろう。
そういう先生もいたけど荒れてたままだったから生徒たちの根本の劣等感が消えないと意味ないと思う
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最近、秋田の学校でいじめを苦に自殺未遂があった学校の記事を見て思い出したことあった。
あれと似たようなことあったよ。
事件があったあと、問題になったクラスの人達が教室も別になっていた時があった。(理由は分からないけど調査とかマスコミ対策のためとかだと思う)
部活動もそのクラスの人達は全員不参加で登下校は親が送り迎えしていて、問題のクラスでそこそこ話していた子と会った時、「なんで私たちだけ」って切れていたんだよ
彼女は直接いじめには加担していなかったし、マスコミのために外にも満足に出れない日々だったし、親も親で彼女にいじめに加担していないかとか聞かれたりしたりしていたから、つい言っちゃったんだと思う。
彼女というか、そのクラスからすればいじめで亡くなった子は必要な存在で、求めてやっていたのに亡くなりながってって思ったんだと思うし、いじめの主犯たちは全員学校来ていなかったから「お前らのせいで」っていう悪意を向ける先もなかったと思う
あと学校内でも物凄いスピードで事件は広まったから学校全体で問題になったクラスの人達には話さない、顔を見ない、隔離されたクラスの場所には行かないなどの学校中総シカトみたいな雰囲気があって、学校というか地域全体で無視されるっていう気分で、それを言いたくなちゃったのも正直わかる。
話を戻すと秋田の子達もきっと学校中から「いじめをした人」っていう針のむしろの状態になっているんじゃないかな
自分を加害者って思えるのも強さが必要だし、いじめをして結束するメンタリティの子達にそんな強さがないからいじめた子を加害者だと思って攻撃したんだと思う
自分を守るために必要な事だとは思うけど、ただ繰り返すと本人たちにとっても良くないから、親とか周りが彼女たちをケアして早く自分たちが加害者だと思えるようになって欲しい
これは毒親持ちのオタク女子(23)から、惣流・アスカ・ラングレー(式波・アスカ・ラングレー)に送る、一方的なラブレターである。
14歳の時に、DVDでエヴァを見た。画面の中で、私と同じ年の少女が「エヴァパイロットではない自分には価値などない」と、心から真っ赤な血を流しながら叫んでいた。その姿を見て私は泣いた。彼女の機体にかけられた虹色の光に、そしてその身を裂くような苦痛に、私も一緒に襲われていた。
それが私と惣流・アスカ・ラングレーの出会いだった。
アニメ版、旧劇場版でのアスカは母親に存在を否定されたという過去があり、自分自身の存在をエヴァパイロットであることに依存している14歳の少女だ。とても愛らしく美しい見た目をしており、自分の培ってきた能力で他者を圧倒することを厭わない高飛車なその性格と内側に抱えた闇は、一瞬で私を虜にした。
アスカが私を虜にしたのは、私の状況が彼女に酷似していたからだ。もちろん私はアスカのような美少女ではないし、大学に飛び級出来るほど頭が良かったわけでもない。しかし一応、県のトップ高校に行ける程度には勉強はできた。父というモラハラ上司に四六時中監視され自尊心を根こそぎ奪われていた私にとって、勉強はプライドの拠り所だったのだ。それだけが、私の誇りだった。
だからエヴァパイロットであることを拠り所にしているアスカの気持ちは痛い程よく分かった。そしてそれを取り上げられる苦痛も、それがなければ他者と関わることができないという辛さも、何もかも。
それ故、高校から大学にかけて私は彼女を愛した。彼女と出会う前は派手だと遠慮していた赤も、彼女の色だと思えば愛おしかった。私のような地味な女には似合わない赤の小物がいつしか部屋の中に増えていった。
ランダムのラバーリストバンドの箱を開けて、彼女の機体をモチーフにしたカラーではないものが出てきた時は心底がっかりした。
「あんたバカァ?」という嘲りを含んだ声色も、その内側に抱えているものを知る私には愛らしく響いた。
『心よ原始に戻れ』を歌うときには、いつだって彼女のことを思い浮かべていた。
彼女の高慢な態度も、その華奢な身体に内包した闇の深さも、海風に髪がなびいたときのきらめきも、心が壊れて廃墟のバスタブに横たわっていたときの姿も、頑なに心を開かないところも、最後にシンジ君に対して「気持ち悪い」と吐き捨てたところも、惣流・アスカ・ラングレーを構成するすべてを、私は愛していた。
しかし新劇場版では、アスカは母親の因縁から解き放たれていた。加地リョウジを愛することもなかった。それどころか何のきっかけもなくシンジを愛し、レイに碇親子の会食を勧めるようお膳立てしさえした。
そんな彼女は私の目にはまるで安っぽいギャルゲーの物分かりの良いサブヒロインのように映った。アスカがシンジを好きになるきっかけが埋まったエピソード(瞬間、心、重ねてとマグマダイバー)は、新劇では全てカットされていたからだ。
好きになる理由がないのにどうして?やっぱりシンジ君を上げたいだけの話なの?最近流行りの異世界転生のように?くだらない、くだらない、くだらない!
アスカの扱いの粗雑さに腹が立った。
私は新劇のアスカを愛することはできなかった。私の愛するアスカは惣流の名を冠する彼女だけだ。胸を貫くような痛みを共有できる彼女だけが、真のアスカ・ラングレー。そう、思っていた。
が、シンエヴァで彼女が救済されたことを知ったとき、素直に涙が零れた。心の底から良かったと思えた。彼女の首にはもう、DSSチョーカーはないのだ。置いて行かれたという気持ちがなかったわけではなかったが、いつか私もそうなれるのだというエールのようにも思えて、映画館で静かに泣いた。
私もいつか、父の呪縛から解き放たれ、自分自身の人生を生きることができるだろうか?
遠くから、私を嘲笑う声が聞こえる。お前は必要ないと叫んでいる。お前など産まなければよかったと、感情的に叫ぶ声が聞こえる。女の癖にと嘲る声が聞こえる。雪の日に裸足で外を歩かされた記憶も、八歳の時に殺されかけて失禁した記憶も、寄生虫と呼ばれたことも、女のお前など中流の公立高校で十分だと言われたことも、受験した大学が一つしか受からず受からなかった分の受験料をどうするのだと土下座をさせられたことも、弟が父に刺されそうになり慌てて止めたことも、十八の時に父の頭をフライパンで殴ろうとするも喧嘩慣れしていなかったせいで肩に当ててしまい殺しきれなかったことも、成人式の時に着物代を一銭も出さなかった父に私の用意した貯金額があまりに少ないと文句をつけられたことも、なかなか消えはしない。それはどうしようもなく、私の一部だ。
でもそれもやがて遠い記憶の中に埋もれ消えていく。
私が、未来を見て歩き続けるのなら。
傷つくことを恐れず、他人と関わっていこうとするのなら。
父の呪縛を一気に解いてくれる何かなんて、ありはしない世界で私は生きている。でも私はそれでいいと思う。確かにそんなものがあったらいくら金を積んだっていいけれど、ありもしないものを求めたって仕方がない。
アスカ。私がいつか父の呪縛から解き放たれたら、一緒に日比谷の無印カフェに行ってくれないか。そこでお茶をしよう。ケンスケくんの話をしよう。呪縛から解き放たれたきみと、一緒に笑いたい。
そんなことを言ったら、きっときみは「気持ち悪い」と言う。でも構わない。「気持ち悪い」と言われるのを恐れずにきみに話しかけられるようになること自体が、私が呪縛から解き放たれた証なのだから。
アスカ、いつまでもきみを愛しているよ。ケンスケくんとお幸せに。
自分は民間企業にいて、障害者雇用された精神障害者と働いたことがある。
『精神障害者を雇うって、そんなに不安ですか 「身体」人気の一方で…コロナで問われる企業姿勢』(https://www.bengo4.com/c_5/n_12859/)で精神障害者を雇用について書かれていた。
うちの会社は障害者専門の転職エージェント経由で採用したらしいが、はっきり言って採用にお金をかける意味が無い。
学歴も職歴も、普通だったら採用基準に満たない人を雇っている。
事前に聞いている話だと、全員うつ病なのだが一緒に働くと、ADHD、アスペ、軽い知的障害としか思えない人ばかりだ。
・話が通じない。
・エクセルを使えない。(どれだけ時間をかけても、本を渡しても有料の研修に行ってもダメ)
・異常にミスが多い。
・異常に怒りっぽい。
・メモも取らず質問しまくって一緒に働いている人の時間を奪って生産性を下げる。
・ミスを指摘すると怒るし、一回指摘しないでそのままにしてみたら、チェックしていない方が悪いと言い出した。
おかげで、みんな関わりたくないから、押し付け合いが始まって職場の雰囲気が悪くなった。
とりあえず、もう一緒には働きたくないね。
そんな人が契約満了でクビになったので正直ホッとしている。
本人は契約社員から正社員になれるつもりでいたらしいから、契約満了を言い渡したときに会社で泣き喚いたらしい。
そもそも仕事らしい仕事を任せられなかったので、一日二回の社内便を郵便室から受け取ってくるだけしかしなかったので、困ることなんて無い。
泣き喚いた様子を見て、出社させたらまずいと考えたようで、在宅勤務を命じられた。ただ、PCも渡していないからやることもない。
仕事をしなくても、出社をしなくても契約満了日までのお給料は満額支払うということを伝えらしいので、もう出社することはなさそう。
障害者年金をもらえるなら、おとなしくそれで暮らしてて欲しい。
記事を読んでいて驚いたけど、もうじき法定雇用率が2.5%になるらしい。
そうなると流石についていけない企業が出てきたり、企業がお金を払って農園で働いてもらうみたいな人が増えるんだろうな。でも雇用率を引き上げても障害者ビジネスをしているところを儲けさせるだけで、本当に意味がないからやめてほしい。
そもそも外国相手にビジネスをしなければいけないわけだから、そこと同じレベルの施策にしてもらわないと困る。お荷物を背負わされた状態では苦しい。
公立の小学校だったら、クラスに一人二人やばいやつがいただろ。あれを職場に入れろってことだ。
中学校は私立や中高一貫という選択肢があるから、なるべく良い環境で学べるようやむを得ず受験する世帯が出てくる。結果公立校が荒れてますます格差が拡大してしまう。
みんな公立校に進学すれば、勉強のできる子、できない子、裕福な子、貧しい子……少なくとも世の中にいろんな人がいるとわかる。ずっとエスカレーター式の学校で、貧しい家庭を見ずに育ってきた政治家もいなくなる。
ストーリーは、北陸の「地方都市」から慶應大学に進学し、親が失業したので大学も中退して、水商売やらなんやらな女1と、
渋谷の松濤に住む婚活中のお嬢様(女2)の人生が一瞬クロスする、女同士の共闘(シスターフッド)をテーマにした社会派映画。
増田は地方公立高校から旧帝大進学。早慶も合格したけど蹴った。
だから渋谷に住む金持ちや、劇中で出てくる政治家一家のエグゼクティブについての描写がどれくらい正しいのか、分からない。
でも、地方出身の女1については、明確にリアリティがないと思った。
まず、地方の進学校から慶應に一般入試で入る人は、高校でトップクラス(上位10番以内)の成績の人だ。
もちろん大学デビューというのは多いので、大学生の時に化けたりするのも普通だが、女1には大学入学当初からそういうガリ勉臭さがまったくない。
あと田舎から旧帝大や早慶に行くような人は、エリート家庭とは言えなくても、その地域でそこそこな家の人が多い。
しかし、女1の弟はマイルドヤンキーで、描写される家庭も、「成績が良い子の家」感がまったくない。
そういうところの子供が、ガリ勉になり一流大学に進学することは、ほぼ有り得ない。
この映画は都市と地方の格差を描きながらも、地方の中にある格差を全く無視している。
地方の貧乏な家の子がガリ勉して慶應に行くなんてことは、実際にはほとんど有り得ないのに。
あと、慶應に行くぐらいだから、地域でトップの進学校に通っていたはずなのに、高校の同窓会に行ったら、バカそうな土建屋の三代目が出てくる。
要するに女1に関しては、まず田舎から一流大学に行った人のリアリティがぜんぜんないのだ。
出てくる人はセレブばかりなのに、思考が昭和。男は仕事、女は家。みたいなかんじ。
いや、東京の金持ちって、表層的にはリベラルで意識高い人が多いのでは?
あと、女2の婚約者の祖父が、興信所で身元調査したと、女2に告げるのもの有り得ないでは?
そういう身元調査していたとしても、表立っては言わないのでは?
表面的にはリベラルなこと言っているのに、内心では昭和な心を持っているとかならリアルなんだけど。
あと登場人物がみんな知的レベルが高いはずのに、本棚が映らなかったのも変。
本を読まない人しか出てこない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ec1d495b848a971128aff7c5fc0dedf1a2c92ee
共同通信社は30日、憲法記念日の5月3日を前に憲法に関する郵送方式の世論調査結果をまとめた。新型コロナウイルスなどの感染症や大規模災害に対応するため、緊急事態条項を新設する憲法改正が「必要だ」とした人が57%、「必要ない」は42%だった。内閣権限強化や私権制限が想定される緊急事態条項新設を容認する声が反対意見を上回った。長引くコロナ禍が影響したとみられる。
改憲なくとも法を生かせば緊急時に行政権限をフル活用できるはず、と思ってきたが、過去の公害の教訓を思い起こしてみると立法・行政の不作為が目立つ。
憲法の制約で権限がないのではなく、あっても使わないのが問題だった。そこにメスを入れるには、行政立法を指導する上位の規律が必要で、「今まさに緊急時だシフトチェンジしろ」
と行政や立法に促す仕組みが必要なのでは。それはひょっとすると憲法の役割なのかもしれない。
という趣旨。
+++++++
「内閣権限強化」、これは橋本行革の結果、小泉政権が内閣官房の強化の恩恵を受け、その後、安倍がめちゃくちゃにした経緯から
公害立法の歴史を振り返っても、現行の規制権限は決して弱くはない。立法の余地もある。
実際60年代から70年代にかけて、深刻化した公害に山ほど立法を制定、70年はとりわけ公害国会などと呼ばれた時代もあった。
そうやって公害を克服しようとしてきた歴史の教訓をみても、現在の感染症コントロールの問題が、憲法改正でしか解決しえないとは思えない。
だから、問題はできることをしない、立法不作為・行政権限の不行使のほうで、それを改憲論議にすり替えるのはおかしい、という意見も納得できる。
しかし。
改憲の世論が盛り上がるのは、だからこそ逆に、一理あるのかもしれない、とも思う。
もちろん、行政・立法の性善説に立てば。。という留保はつくが。
というのも、水俣病を例にとって、公害の被害を振り返ってみると。
なぜ今日に至るまで長年、放置されてきたか。長年の放置もさることながら、振り返ると、初期の対応のまずさが際立つ。
漁業法による禁止措置と漁民への補償、食品安全法による有機水銀に汚染された可能性のある魚類の販売禁止、
すべて見送られた。つまりすでに対応可能な法的ツールがあったにも関わらず、被害が拡大した。
こうした行政権限の不行使が最終的に裁判で争われ、最終的に結審したのは2004年。
国は高度経済成長をとめたくないがゆえに、規制権限を行使しなかった、というのが結論。
1970年代、公害の社会問題の深刻化を受けて山のように公害立法が制定されたが、それ以前の問題として
そもそも1950年代、すでにある水質二法等で権限行使できただろが、という。
法の不備ではなく、繰り返すが、すでにある法を使いこなせなかった行政の責任が厳しく断罪されたわけだ。
ここから導き出される本当の教訓というのは、規制権限があったにもかかわらず
なぜ初期の対応がこれほどまでに、被害者をないがしろにしたものになったか、という問題。
そこには、何か異常な事態が発生したときに、立ち止まって物事を考え直す、
シフトチェンジの仕組みが欠落していたともいえるのではないか。
かつて辺見庸は、地下鉄サリン事件の際に、丸ノ内線の駅構内で、人々がバタバタと倒れているなか、
通勤している乗客が枕木でもまたぐかのように出口へ向かった光景について
非日常的なことを目の前にしても、脳が適切に処理できず、
惰性で日常の論理で動こうとする「慣性(イナーシャ)」が働いているといったが、
ここ一年を振り返ってみると、そういう政治的な意思決定がかなりよくみられた気がする。
この問題が解決されない限り、改憲による緊急事態条項の検討など、全く意味をなさない。
日本は、意思決定の仕方、会議の仕方を根本から見直したほうがいい。
いや、だけど一方で、
緊急事態条項のようなシフトチェンジのトリガーがないからこそ、漫然と経済優先で動いてしまうのか?という疑問も頭をもたげる。
どっちなのだろう。
そんなことを思い出したのは、さっき、尾身会長のインタビュー記事を目にしたからだ。
尾身茂氏が語った「マスクを外せる日」「3回目の緊急事態宣言なんて聞く気になれねぇ」への意見 | 文春オンライン
――東京都墨田区や長野県の松本医療圏など、基幹病院と支援に回る地域の病院や医師の連携が回っている地域の取り組みも報じられているが、厚労省は、こうした体制づくりのため各地の医師や民間病院に強い指示が出せないものか。
尾身 医師や病院に対して国が強い指導力を発揮する英国のような仕組みとは違い、日本の厚労省というのは公立や民間などさまざまなステークホルダーの意向を尊重する必要があって、上から目線ではいわない。平時はそれも大切ですが、危機の局面ではどうなのか。この機会に考えてみる必要はあります。
――医療提供体制の拡充やワクチン接種準備で、国民が納得するだけの結果を示せないことに国民は苛立ちを感じている。強権的なイメージが強い菅義偉首相だが、結果を示せない理由は?
尾身 それは政治のことだから、私にはわかりません。ただ、総理大臣は、いろいろなことを今、四方のことを考えなければいけない立場にあるんでしょう。そう思います。
これが明確な意思決定メカニズムとして組み込まれていないことが、水俣病の初期対応の問題ともつながっているように思えた。
それを可能にするのは、規制権限の強化と行使、という既存の立法・行政機構のあり方の、もうひとつ上段の制度として構築する必要があるのかもしれないといえなくもない。
改憲への渇望というのは、案外、そういった視点で考えることも可能ではないかとふと思った。
危機対応専門の省庁を創設する、というのもひとつの方法。非常時のガバナンス体制を整備する。
米国のFEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)のように。
そうすれば、現在の河野太郎のような感染症の素人が新型コロナウイルスワクチン接種推進担当大臣として奮闘する、といった話もなくなるはず。
彼はおそらく、急に任命されて困っただろうが、実質やれることを模索した結果、
ロジ担当となり下がってしまっているように見受けられる。住民の心配に答えるのは基礎自治体の役割だ。
危機管理のプラットフォームができれば、アメリカのファウチ博士のように、
集団免疫獲得に向けた仮説を立て、何%の接種があればOKで、ワクチンの効果が切れる前の接種完了を逆算してスケジューリングする。
目的とロードマップを国民に示したうえで協力を仰ぐという、専門家による意思決定がベースとなったリーダーシップが重要だ。
ガバナンスの基本は、法、規則基準、科学的な予測を明示した意思決定を行うことだ。
これは世界銀行の借用だが、世銀では途上国の行政改革支援の際に、ガバナンスを以下の4要素で因数分解して
説明責任(財政とリソース)、予測可能性(法的枠組み)、透明性(情報公開)、参加(連携)の4つ。
テーマ出しした瞬間、近年の日本がどの分野でもガタガタになっていることがわかる。
いずれにしても、緊急時のガバナンスの訓練を積んでゆくことが大切で、こうした組織を立ち上げることには意義があるだろう。
現在の菅政権は、こうしたガバナナンスの観点から落第点であり、
首相が何を考えているかわからず、結局、リーダーの一挙手一投足に注目が集まる意思決定となっている。
急に決心して、緊急事態宣言を発出したりやめたりする。このように国民から予測可能性を奪うやり方は国民から自由を奪うのも同然だ。
国民からすれば、知らず知らずに国のリーダーシップに注視せざるを得なくなり、いつの間にかリーダーシップの問題に錯覚してしまうが
本当は危機管理はリーダーシップの欠如の問題ではなくて、ガバナンスの問題だ。リーダーが誰であれ、ある程度、やるべきこと、基準が決まっていて
どのように対応するかが決まっていること、この予測可能性が確保されることが大切。
国民にとって予測可能でなければ、国民自身が計画を立てられず、急に決断されても、ついていけいけない。
(水木しげるの漫画で、上官が急に玉砕を決心したので部下の大半が付いていけず、結果として敗残兵として生き残った兵士に、すでに全員立派に玉砕したことになっているのだ、として、ラバウルの本部が改めて玉砕を命じる、という話がある。日本人のリーダーシップを象徴する話だと思う。)
緊急時へのシフトというのは、なにかしらリーダーとして発動するトリガーが必要なのではないか。
そこに非常時へのシフトチェンジが記載されることにも意義があるのかもしれない、という考えに傾いてゆく、そういう世論の動きもわかる。
もちろん、そんな非常時に平和ボケして判断の鈍いおっさんが首相だったらなんの意味もなさないが、誰かがシフトチェンジを発動しなければならない、
それが立法や危機管理のプラットフォームづくりだけでうまく機能しないのであれば、ある意味、大統領的な権限を期待する傾向が出てくるのは自然なことのように思う。大統領の権限というと、合衆国建国当時まで振り返ると、当時の議論のなかで、リーダーの聡明さ(アリストクラシー)というのは、欠かせない条件だったように思う。
日本の政治社会にそんなことを期待できるのか、と考え始めた瞬間、改憲には激しく首を横に振らざるを得ないのだが。
そんなことをインタビューの印象として持った。
大学の入学金を求める期限が早すぎるために、入学しない大学に30万円ほどの入学金を払う場合がある。滑り止めの私立の合格を押さえていて、国公立大の結果を待っているが、国公立の結果が出る前に私大の入学金納入期限を締め切ってしまうというスケジューリングになっていることが多い。もし国公立大に受かっている場合、入学しない私立に入学金を払うことになる。
この現状を問題視し、入学金の納入期限を遅らせることを求める著名活動を大学生の有志が行っている。そして、その活動に対する評価が、Youtubeのコメント欄とヤフコメでくっきり別れているのが興味深い
このことを報じるTBS NEWSのコメント欄では、大学生の運動を評価するコメントにいいねが集まってる傾向が強い。「もう自分とは無関係な問題なのに活動できるのは偉い」と大学生を評価するコメントや、「入学金を払ってくれた親に感謝している」などといったコメントも多く、大学生やそれに近い若い世代のコメントが多い印象も受ける。
https://news.yahoo.co.jp/articles/49fefa700f5fd265c24d7ba5b3065a405157664f
それに対しヤフコメは否定的だ。「大学は入試にかかる費用を回収しないといけない」といったコメントや、「入学金を払いたくないならそもそも受験するな」「払うもん払わずに入学する権利だけ得るのは虫がよすぎる」などのような、よくも悪くも大学側の立場からのコメントが多く、冷笑ぎみなコメントも目につく。
Youtubeのコメント欄の傾向は何となく理解できるが、ヤフコメのようなコメントを評価する人はどういう層なのかよく理解できない。ヤフコメユーザーは中年男性が多いことが分かっているが、子供の学費や養育費の問題は、学生本人だけでなく中高年の層にとっても問題なはず。ヤフコメのボリューム層にも受け入れられそうな運動な気もするが、そうでないということは、「世間知らずな若者が自分勝手な活動をしている」と感じる人が多いのだろうか。
個人的には入学金はもっと先送りにするべきだと思う。ぶっちゃけ、このようながめつい方法で集められた金を、大学当局が適切に使っているとは思えない。
うちの大学も教室の座席をカラフルにしてスマートなコロナ対策(笑)とか言ってオナニーしてる割に、貧弱なwifi環境の問題は一向に改善せずオンライン講義に支障をきたし続けている。
当時マッチングアプリって単語はなかったような気がするけど、お見合いサイトはあった。相手を条件で検索する機能ももちろんあった。
その頃の条件と、実際に会った時のチェック項目。
年齢→自分±5
年収→300万〜
タバコ→不可
ギャンブル→不可
見た目→マジメ
初婚
親とは別居
県内在住
持ってる常識が似てるかどうか
家事はできるか
交際人数(ない方が好み)
娘が大好き。
そうすれば学校に来ても授業中は寝て放課後になったらバイクで暴走し夜になったら後者の窓ガラスを割るような連中がいる学校と、そういう人間の数がぐっと少ない学校の2つにぐらいは分けられるでしょ。
聞きかじった知識で中学受験を語るアホはすぐ見落とすんだが、マジで一部の公立中学校は民度終わってるからな?
そこに行きたくないからって理由で私立中学を受験せざるを得なくなった子供の多さたるや。
中学受験の動機として最大のものは、無受験で入れる学校のレベル(民度)が酷すぎることに対して絶望なのよ。
そこを理解しろってアホに言ってもしゃーないんだけど、そういうアホがいることは置いといて、この問題の解決方法がお受験しか無いってのは大きな問題だ。
勉強ができる人間からしたら、将来に絶望してアンパンを吸うだけの装置になったやつらと同じ空間で授業受けてもソイツらが逐一アホな質問したり、授業外ではソイツらの反社行為に巻き込まれていい迷惑。
落ちこぼれからしたって、小学校で習ったことを覚えきれてない人間なんていない前提で進む授業なんて意味不明で、寝るか荒らすかしかなくなって不良の道に進む以外なくなってしまう。
中学受験の偏差値55程度なんて、小学校のテストで全部100点取れるだけでも受かるレベルで、そんなのは受験してないグループの中にもゴロゴロいる。
でも、彼らは受験してないってだけで偏差値取らせたら30や20になりそうな落伍者と同じ空間に閉じ込められるわけ。
逆に落伍者からしても、そういったさっさといいとこの私立にでもいっちまえばよかった秀才くん・天才くんと比較対象にされて必要以上にクズのレッテルを貼られるだけ。
みーんな不幸なのよね。
「中学校に受験なんて不要!!!」ってのは完全に間違ってるね。
逆だよ。
つーかさ、絶対権力者でえばりちらしてるだけの教師がノリで作ったお手製テストに向けて勉強するよりは、受験とそれの途中経過として受ける全国模試に向けて勉強するほうがやる気出るっしょ。
小学校の教師の作るテストなんて「授業で印象に残っている思い出をかけ」で教師にゴマすったら点数がボーンと跳ね上がるようなしょーもない代物じゃん……。
https://togetter.com/li/1706314
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1706314
普段はさちょっとした言葉尻をとらえてこれは差別だとか共感力が足りないといって発狂しまくってるわけじゃん?
ところが、こいつら田舎だとか偏差値低い人間には露骨にマウントかましてくるんだよな。
今回も教育を受けてない子供をゴブリン呼ばわりする悪趣味なまとめに対して
嬉々として乗っかって誰一人それをたしなめようとしない。
差別ってさ。
生まれた時点でどうしようもないことを取り上げて
不当にその人間を貶めたり不利な状況に追いやることだろ。
男女問題だの車いす問題で差別良くないだの言ってたら鼻で笑ってやるわ。
元のまとめこれただの性悪説じゃん。
そうですそれこそが問題の根幹です!
いいですか?
いわゆるFラン(フリーランク)でも「試験当日入試会場に来る」「受験番号と氏名を書く」「最低限の内申点を取る」「親が入学手続きをする」という4つの関門を攻略しなければなりません。
「そんなの出来ない奴うちの小学校には1人もいなかったけど??」と思った人は単に学区が恵まれていただけ。
そもそもそういう地区では「ひまわり学級」を一箇所に固めているからそういったFラン未満の生徒が可視化されにくいだけです。
Fラン未満の生徒が存在する小学校・中学校はたしかに存在するんです。
「授業中にオナニーを始める」「割り算どころか足し算が出来ない」「文字がそもそも読めない」「親に完全な育児放棄を食らっている」そういった存在がクラスにいるのです。
そして教師がそういった本当の問題児の対応に追われると、クラスの治安を維持することさえ難しくなります。
なまじっか力が強くなってきた中学生が、ロクな管理もされずに退屈な空間に閉じ込められれば、そこで産まれるのは暴動・イジメ・薬物への逃避といった数々のインモラル。
想像できない人もいるでしょうね。
学区によっては公立中学校であってもなんとか親を説得してFランク未満の生徒にはそれに相応しい場所を勧めようと動いてくれてますから。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/topisyu.hatenablog.com/entry/2021/04/28/073000
>> 中学まではすくなくとも公立に通ってほしいんだよな。いろんな人が世界にいることを知ってほしい。 <<
公立中学行ったくらいでいろんな人が世界にいることを知れるとも思えないし、私立にだって貧しい家庭以外のいろんな人がいる。
本当に見せたいならボランティアに参加したり、世界中を旅して現地の人と交流する機会を作ればいい。
>> 子供が受験勉強をマネージする能力がないから親がマネージするしかないって受験の意義ないやん。自己マネージの経験積ませるのが受験ってやつでしょう <<
ほとんどの大人は自己マネージなんかできないから上司からマネージメントしてもらっている。
公立中学の先生は全く頼りにならないし理不尽だし、内申書というクソシステムがある。
全員当たりとは言わないが、当たりの先生に出会う確率が全く違う。
同級生の質も同様。
その親の質も同様。
ホワイト大企業とブラック零細企業では、素晴らしい上司、同僚に出会う確率が違う。
それと同じだ。