はてなキーワード: 便宜上とは
<自己>
自己とは、個人が持つ様々な物事に対する捉え方・考え方の総体の事。
(便宜上、「一つの事柄に対する捉え方・考え方」を“部分”と呼ぶ事にする。)
私の持つ“部分”は、過去・現在の人達から受け取ったものとそれらから生み出されたものであるため、
類似する“部分”同士は単一の人に固まり易く、私と同じ“部分”を持つ他者を見つけたならば、
その他者はもっと多くの私と同じ“部分”を持っている可能性が高い。
私の“部分”は世界中の人々の中にある。
私の肉体は私の“部分”が繁栄するのを補助する。
私の肉体が失われるという事は、私の“部分”の繁栄の補助をやめるという事。
私の肉体が死んでも、私の“部分”は生き続ける。
子供のこと、自分(親)の所有物と思ってんだよね。ペットと変わらないんだよ。
人権を有するにも関わらず自分でその権利を主張することが難しい状態の存在であること、保護者として率先して守っていかなければならないということ、そして何より便宜上子どもとか赤ちゃんとか呼ぶだけで同じ人間であるということがわかってない。
だから平気で写真をラインのアイコンに使ったりするんだよ。今自分が鼻水とよだれ垂らして寝てるときの顔写真を親にラインのアイコンとして使われたらどう思うんだよ。
「左利きの人と同じくらい居るらしいよ」と言ってる本人もクィアである可能性はあるんだけどね。
実際どれくらいいるのか精確に観測できるわけじゃないから、仮に自分自身がそうであっても、左利きの人と同じくらいいる「らしい」としか言いようがないわけで。
だいたい左利きの人が身近な範囲でどれくらいいるのかもよくわからないだろ。
完全に矯正されててわからない人、文字を書くのとお箸だけは便宜上右を使うようにしてるせいで気づきにくい人もいる。
カミングアウトしてる人もいるし、特に隠してはいないが言って回ることもない人もいるし、完全に隠してる人もいる。
隣に一人レズがいて自分もレズだったとわかったって、友人女性30人のうち5人が左利きだったらレズもちゃんと5人いるかはわからない。
30人中2人が確定しただけで3人は不確定だし、もしかしたら左利きは隠れ左利きを含めたら10人いるのかもしれないし、左利きが5人で確定としてレズが8人いない保証はない。
全員にインタビューして回って左利きとレズの人数が確定したとしても、その友人関係に性格や価値観でバイアスがかかっていないとは限らないので、世間一般にどの程度どんな性指向の人たちがいるのか完璧に把握はできない。
人の気持ちにとやかくいう趣味はない、という意味で全面的にその通りだと思うけど
>だって、どう考えても男性に対するセクハラであり性的搾取でしょ。
ここで突然話が飛躍してる。
突如見知らぬ誰かに用意された「セクハラ」「性的搾取」って言うパッケージされた武器を取り出したみたいな不自然さ。
そんなことは(煽りではなく)一般的な知性を持つ人間ならわかること。
なぜそれを飛び越えて聡明であろう貴方から不自然な言葉が飛び出したのかと言えば、おそらく洗脳されているから。
「意味を理解していなくてもこの言葉を掲げればとりあえず正義を主張できるようになってます」って感じで人らから受け取った言葉なんじゃないのかな。
あなたの言ったセクハラ、性的搾取って言葉はその人らにとって都合のいい意味にいつでも書き換えられるようになってて
世間にその言葉が溢れかえると、無数の発言のニュアンスを自由に操作できるようになってる。
セクハラって言葉が以前のように機能しなくなったのは実感として知ってるよね。
ハラスメントはそれを感じた本人が主張し助けを求めるための言葉だったはず、それが今となっては人を殴る棒だよ。
相手の苦悩を自分のことのように感じられる貴方ような人からそんな棒が飛んでくる不自然さ、便宜上洗脳という言葉を使ったけど何かしらの歪みがあるんじゃないかと思うよ。
自分の抱えてるトラブルに対して突然「俺は貴方の味方だ!」と叫びながら相手に殴りかかる見知らぬ他人が現れたら絶対事態が悪化するよね。
そんなことは理解しているはずだからこそ、自分で意味を定義できていない言葉を使わないで貴方の言葉で応援してあげて欲しいよ。
※フェイク込みかつ突発的に書き殴った文章なので、多少矛盾が生じていても見逃していただきたい。
それはまるで、見えないくらい遠く離れた川の対岸の、それでも同じ世界で生きている人を見つめるような、そんな奇妙な感覚だった。
突然だが、私は8月某日に2回目のワクチン接種を済ませた。3月ぐらいからずっと待ちに待った瞬間で、油断せず感染防止対策は引き続き頑張るぞとは思ったものの、やっぱり心中を占めていたのは無事に終わったことへの安堵だった。
そんな気持ちのまま、自分のTwitterアカウントでフォロワー(ほぼリアル友人しか居ない)へ接種の報告と、その後の副反応の経過を書き連ねていった。医療従事者を除けば仲間内では接種が早い方だったこともあり、何かの参考になればという思いからだった。
フォロワー達からいいねされた通知がちらほらと届く中、それに紛れて見知らぬアカウントから、とあるリストに入れられた通知が届いた。その名も、「ワクチン接種済み」リスト。なんだこれと思いリストの詳細を表示すると、リストに追加されているのは私のような一般人らしきアカウントもあれば、議員さんやジャーナリストの方の公式アカウントなんかもあって、リスト化されたアカウントには一見なんの接点もないように見えた。
ただ、リスト名がリスト名なので早々に見当はついた。少しリストの中身を遡ってみれば、私と同じようにワクチン接種報告のツイートが確認できた。文字通り、ワクチン接種済みのアカウントをリスト化している。アカウント数はおよそ300くらいだった。
この時点で有識者の方々はあ〜……と嘆息しているかもしれないが、その時の私はまったく気が付かず、というかお前は誰やねんwとノータイムでリスト作成者のホームへと飛んだ。
リスト作成者の彼ないしは彼女(なんとなく男性っぽかったので便宜上彼と呼ぶ)は、イベルメクチンを個人輸入し、コロナはただの風邪という主張の書かれたFacebook投稿のスクショをツイートし、ワクチンは人口削減のための陰謀などといったツイートを頻繁にリツイートしていた。つまるところ、陰謀論を信じている人だった。
ここに来てようやく自分をリストに入れた相手の正体を知って、当然のように私は混乱した。マジでこういうの信じる人いるんだって言うか、こんな、フォロワー数2桁の末端アカウント(しかも明らかに実名でもなんでもないオタク垢)を、わざわざ見つけ出して監視する意味はどこに? そりゃ鍵かけてないから誰でも見られるんだけどさあ!
怖いもの見たさで少しだけ彼のツイートを遡ってみたが、どれも混乱をもっと酷くする内容でしかなかったので、そっと自分のTLに戻った。フォロワーが推しの尊さに涙を流していて、なんだかとても安心したのを覚えている。
さて、ここから取るべき手段として一番良いのは、相手をブロックしてしまうことだった。ブロックすれば相手のリストからも自動で削除されるらしいとGoogle先生に教えてもらい、早速実施しようとしてふと、その手が止まった。
なんで彼はこんなリストを作っているのだろう? え、陰謀論で脳が溶けたような相手にそんな明確な理由を求めるな? ……本当にそれでいいのか?
おもわずブロックする手を止めてしまったのは、先述したとおり何故こんなリストを作ったのかが分からなかったからだ。だからと言って直接聞くのも高確率で地雷踏みそうで怖い。なので、少しだけ彼が何をしたいのか考えてみることにした。
私がワクチン2回目を接種した8月某日時点で、少なくとも1回接種した人数はおよそ5700万人、うち2回接種済みはおよそ4000万人だった。ワクチン接種数は後追いでちょこちょこ追加されるので、今見ればもっと多い数字になっているかもしれない。細かい部分はさておいて、私をリストに入れた時点で、彼は5700万人のうちの300人を監視していた。つまり、1回以上接種を済ませた人の約0.000526%を監視しているわけだ。思ったより小数点以下に0が多くて計算方法をミスったかと思ったレベルの割合の人々を監視して、果たして何がしたいのか?(というか本当にこのパーセンテージ合ってるよね?)
ここまで考えて、ある考察が頭を過った。よくあるワクチン陰謀論の中に、ワクチン打ったら2年後もしくは5年後に死ぬという説があった。少し常温で放置しただけで使えなくなる儚いワクチンに期待しすぎwと私は笑い飛ばしたが、彼なら信じていてもおかしくない。もしかして彼は、それを確かめるために目についた接種済みアカウントをリストに入れて監視しているのでは? だとしたらこのリスト、そんな長期計画で運用されてんのか……。
ただ、この説も理由が分かっただけでなんだか釈然としない。仮に数年後に死ぬのが本当だとして、0.000526%をリストで監視する必要など無い。だって、現時点で1回以上接種済み人数は日を追うごとに増えているし、2回目接種済みの割合も既に全体の50%を超えている。更に言えば、先陣を切ってワクチン接種を推し進めたイスラエルや欧米諸国などでも一部伸び悩みこそあるが接種率は高い。それらの人々が数年後にバッタバッタ倒れていったら世界の一大ニュースだ。各国政府はそれを隠蔽するんだ! という主張もあるかもしれないが、この場合は隠蔽する側の政府も多分死んでるし、SNSの浸透した日本で過半数の人がバッタバッタ死んでいったら流石に隠し通せるわけがない。
つまり、私を含めた接種済みリストの人々がTwitterを更新しなくなったのが確認できたところで、その頃にはリストの何百倍もの人々が死亡したニュースで溢れ返っているわけだ。ああリストの人たちも死んだんだな〜、以上の情報は得られないだろう。
ここまで考えても、彼が何をしたいのか分からない。数年後死亡する説云々は置いておいて、単にワクチン接種後の経過観察をしたいだけかもしれないが、そのモニタリングは厚労省がやっているし、なによりサンプルに問題があるように思えた。前述したとおり、私は実名でTwitterをやっておらず、正確な年齢も公表していない。性別はツイートを見ていればなんとなく分かるかもしれない。得られる情報としてはおそらくの性別と、65歳以下であることと(まあ20〜30代くらいというのは読み取れるかも)、打ったワクチンがモデルナ製であることくらいだろうか?
統計学については全く素人かつ数学の苦手な文系人間の考えで恐縮だが、統計的なサンプルを見繕うにあたって、こういった年齢・性別などのパーソナルデータは正確なものであるべきではないだろうか。また、ツイートからは読み取れない基礎疾患の有無や喫煙者か否かなども、ワクチン接種後の副作用という医学的な事柄であれば尚更必要な情報だと思っている。違ったらごめんなさい。
リストに入れられている人の中にはもちろん、議員さんを始めとする実名でアカウントを設けている人も含まれているが、私のような有象無象のアカウントも含まれている時点で、より不正確な統計データになっていると思う。ますます彼の目的も、そのための手段も理解できなくなっていく。
彼は何を思って、リストを作成し、私をその中に入れたのだろう。この広いTwitterランドの中から、私を見つけ出した人のことが純粋に知りたかったのかもしれない。気がつけば私は、混乱の中で撤退した彼のホームにもう一度アクセスしていた。私のツイートも確実に見ているんだから、逆に私が彼のツイートを見たっていいだろう。
彼のアカウントのbioは攻撃的なものでなく、よくある時事ネタも含めて呟く個人アカウントといった趣だった。あまり詳しく記述するのも良くないし、彼のアカウントが特定されるのはなんだか居心地が悪いので詳細は省くが、アイコンもヘッダーもごくごく普通のものだった。ただ、その下に広がるのは陰謀論と陰謀論と陰謀論。頻繁にリツイートをしているせいで、彼本人のツイートが見つけられない。それでも、メディア欄でようやく見つけた彼のツイートからは、彼の日常が垣間見えた。指定日配達が日時通りに届かないかもしれなくてヤキモキし、朝食と共に自分で淹れた紅茶を楽しみ、時に自宅での晩酌の写真を上機嫌でUPし、庭で育てた草花を慈しむ。もちろんその数十倍は読んだだけで頭痛を引き起こすような陰謀論ツイートで埋め尽くされていたが、それ以外は本当に、ごく普通の人だった。
それと、彼がマスクを頻繁に購入している様子も見てとれた。反ワクチンだけど反マスクというわけではないのか……陰謀論信じている勢も多様だな……と感じ入ると同時に、彼もまた不安なのかもしれないと少しだけ思った。
このコロナ禍で、不安を感じなかった人などどれくらい居るのだろう。私ももれなく不安で、とにかくステイホームするしかなく、実家の家族や遠方の高齢の親類がどうか感染しませんようにと祈ることしか出来なかった。インターネット上には様々な情報が溢れていて、コロナウイルスは26度のお湯で死ぬとかいうふざけた情報なんかも蔓延した。26度ってそもそもお湯じゃねーだろ。
冒頭で記述したとおり、私はワクチン接種ができる日をずっと待っていた。それは自分の命のためでもあったが、それ以上に自分の周りの大事な人へ感染させたくない気持ちが強かったからだ。だからこそなるべく早く自分が打って、その様子をレポートすることで接種を迷っている家族や友人の後押しになればと思った。幸いにも職域接種にて早めに接種する機会を得られ、望み通りレポートも出来た。まあ、まさかそれが理由で監視リストに入れられるとは思いもしなかったけど。
ワクチンについての情報は、なるべく正確なものをと思い厚労省のものを主に参考にした。また、Twitter上で医療従事者の方のアカウントで発信される情報も参照していた。なるべく医学的な根拠のある、エビデンス付きの情報が欲しかったからだ。ありがたいことに、私が参照したアカウントの方々は信じるに値するエビデンスを付けて情報を発信していてくれた。でももし、それらより先にYoutubeやFacebookでばら撒かれている陰謀論に触れていたら? もし、それらを信じ込んで家族や友人にその情報を発信していたら? きっと私は、今の私とは正反対の人間になっていたと思う。
私と、私をリストに入れた彼と、それほど大きな差があるとは思えなかった。この不安が渦巻く世界で、私は私の信じたいことを信じ、彼は彼で信じたいことを信じている。彼の信じた情報が多くの人に陰謀論と断じられているだけで、得た情報が違っていたら、意味不明なリストを作っていたのは私の方だったかもしれない。
彼について色々と語ったが、私の意見としては陰謀論は良くない、というか悪い。たしかに何を信じるかは人それぞれだが、自分の発信した陰謀論によってワクチンを打たなかった人がコロナ感染で死んでしまったら、それは発信した自分のせいだ。論拠も無い個人の発言を鵜呑みにする方が悪いという意見もあるだろうが、だからと言って不正確な情報を提供した側が無罪なわけない。致死量の毒の入った飲み物を安全だよと手渡して、相手が飲んで死んだら信じた方が悪いなんて、理屈が通っていない。陰謀論を信じるということ自体は否定しないけど、その中身とそれを流布することの悪性は否定させてもらう。
もっとも陰謀論信じている勢にとってはその毒入りの飲み物こそワクチンなわけで、お互いにどこまでも理解し合えないと思うと少し悲しくなる。これが多様性ってやつなのか……。
最新の彼のツイートを見るに、何周か回ってマスクをし三密を避けようということになったようで、本来の感染症対策を粛々と推し進めていくらしい。何のためかはちょっとよく分からなかったが、ワクチンを打たない人の行動としては正しいんじゃないかと思う。完全に終息するまで続けることが出来るならだけど。
長々とお気持ちを書き殴ったわけだが、私はこれからもたま〜〜〜に彼のツイートを確認しに行くと思う。理解できない存在であることは間違いない。彼にリプを送ることもなければ、逆にリストに入れることも無いだろうけど、なんとなく私を監視している期間中は監視し返したいと思うのだ。もしかしたら、いつか彼が陰謀論から脱却する瞬間を見て溜飲を下げたいだけかもしれない。……あの調子じゃあ一生そんなこと起こらなさそうだけどね。
ひろゆきが位置エネルギーで批判されたことにまだ納得がいってないらしく、またTwitterで喧嘩を始めているので少し書く。
ひろゆきは自覚していないようだが、実は説明がかなり下手である
その原因は以下の3点:
今回の「位置エネルギーは嘘」発言に関して、まずひろゆきの前提知識は
・中学で「高いところにあるものは位置エネルギーが大きいので落ちた時のダメージが大きい」と習った
・中学で「位置エネルギーU=mgh」の公式を丸暗記させられた
この前提のもと、ひろゆきは
・高いところにあるものは重力があるから落ちてきて地表にダメージを与えるのであって、位置エネルギーという謎の概念を持ち出さなくてもいいのでは?
・hを大きくすると物体が宇宙空間に行くが、そうなると物が落ちてこないので地表へのダメージが0になる
と考え、「位置エネルギーは便宜上導入された本来不要な物」と結論づけた
この結論がおかしいのは、我々の前提知識とひろゆきの前提知識が違うこと、またひろゆき自身の誤解によるものである
・宇宙空間では無重力であり、地球の重力が働かないと思っている
・位置エネルギーU=mghは様々な仮定の下で成り立っていることを知らず、普遍的なものだと思っている
U=mghは、重力による力F=-mgが一定であり(地表近く)、地球と対象の物体しか存在せず、他の星やその重力による影響が無いと仮定した時に導出できる
ひろゆきのように宇宙スケールで考える場合、重力による力Fは地球からの距離rの2乗に反比例するためF=-GMm/r^2になり(Mは地球の質量、Gは重力定数、rは地球の中心から物体への距離)、位置エネルギーU=-GMn/rとなる
したがって、物体の高さrをどれだけ高くしようとも地球の重力のみが働くので、無限時間待てば物体は必ず地球に落ちてくる
さらに重力が距離によって突然消えてなくなることはないので、ひろゆきの言う「重力圏」の外でも重力は働いている
「突然落ちてこなくなってエネルギーが0になる」という発言は、これらの勘違いが生んだ明らかな誤りである
中学でU=mghを覚えさせられた人にとって、位置エネルギーが計算を楽にするための謎の概念に見えてしまうのはしかたがないので、「位置エネルギーなんか使わず重力で落下ダメージを説明すべきだ」という結論に達してしまうのは少し納得できるが、場のポテンシャルや力を学んだ人にとっては何を言っているか分からなくなるので、結果としてひろゆきとそれ以外の人とが分かり合うことはない
ひろゆきは「頭の悪い人にもわかりやすく説明したつもりだが、なぜ分からないのか」と配信で愚痴っていたが、ひろゆきの前提知識が特殊すぎるせいでそうなっている
位置エネルギーひとつを取ってみても、背後には様々な仮定や理論が存在する
それらを完全に無視して、中学の時に習っただけの知識から独自の解釈や物理学を発展させるのは非常に良くないので、まずは勉強をし直すことをおすすめする
ひろゆきが頻繁に言っている「位置エネルギーではなく重力で説明」という表現がなぜおかしいのかが分かるようになるまで勉強し理解することができれば、それを他の物事にも応用し、世界をより深く理解できるようになると思う
なんか世の中非効率だな~と思うので、もしも俺が新しく国を創るならこんな感じにする予定。
他なんかある?
タイトルのとおり。
昨年予定していた結婚式・披露宴が延期→中止になって、前撮りと家族のみの挙式を行った。
もともと式を挙げたかったのは私というよりうちの親・祖父母なんだけど、私自身も仕事でいろんな企画を行うことが多いので、打ち合わせや段取りの9割以上は私が行った。
打ち合わせは夫婦で出席するけど、夫や両家の親といろいろ話して計画表を書いたり、演出を提案したり、各種リストを作ったりするのはほぼ全部私。
プランナーさんや花屋さん、カメラマンさんと電話やメールをするのは完全に私。
実際の打ち合わせのときは和気藹々と夫婦で話すけど、「じゃあ次回までにこの項目を」みたいなやつを全部私がやってた。書いてて思ったけど9割どころじゃないなこれ。
別にそんなに結婚式に憧れがあるわけでもなく、仕事も忙しい時期で面倒だな…と思ったこともあるし、何よりコロナ禍でいろんなイレギュラー・変更点があってそれなりに大変だった。
それでも前撮りは楽しかったし、夫の格好いい姿も見られたし、当日もひっそりとしたセレモニーだったけど家族に感謝の気持ちを伝えられて概ね満足したし、「やってよかった!」と素直に思った。
挙式後、専用サイトに写真データがアップされるので、それをレイアウトしてアルバムをオーダーする。(よくあるフォトブックのサービスとほぼ同じ)
思った以上に綺麗な写真で、出席人数の少なさも感じさせず(友達や親戚の写真がないのはやっぱり残念だけど)、祝ってくれた家族の表情もよく写っていてとてもよかった。一生懸命頭をひねって、バランスよく写真をチョイスし、いちばんいいレイアウトを考えた。
そして。つい先日、完成したアルバムが届いた。
夫はほとんどネットショッピングを利用しないので彼宛に荷物が塗届くことは珍しい。
「(夫)さーん、宅配です」と呼ばれて「なんだろう?」と受け取りに行き、差出人が結婚式場の運営会社だったので「え???」と感じた。
一瞬でいろんな考えが浮かんでは消えたけど、まず直感的に、一気に蔑ろにされたように感じた。
打ち合わせのとき、確かに毎回二人で行ってたけど、私が主体だったじゃん。
「両家」・「夫婦」のことだけど、それでも明らかに「窓口」としては私だったじゃん。
正直、今まで「妻の車を買いに行ったのに営業担当者は夫にばかり話しかける、資料を渡す」「共働きで(なんなら妻のほうが稼ぐ)マンションを買うのに(以下同様)」「夫はきちんと名前で、妻は『(その)奥様』と呼ばれたり書かれたりする」というつぶやきを見るたび、「別にえーやん、気持ちは分かるけど便宜上…とか、その業界では実際にほとんどが夫メインで理にかなってるとかでしょ」と思ってた。
自分が同じような経験をして初めて分かる、ということは世の常だけど、まさにそれだった。
なんだかなー。
式場からはこれまでもいろんな郵便物が届いてたけど、いつも「山田 太郎様・花子様」と書かれてたし、見積書や請求書もその宛名だったから、当然アルバムもそうだろうと思ってた。
(ちなみに、話が前後するけど、式の代金は私名義でとりあえず一括入金してる)
「式の後、ご住所の変更はありませんか?送り先はこれでよいですか?」と、それだけ訊いてくれたらよかったのに。
もしくは今までどおり「太郎様・花子様」でよかったのに。(ここで「妻が下側じゃん!」と言うつもりはない)
一年半くらいの積み重ね(ちなみにプランナーさんはじめ、スタッフさんとは円滑だったし嫌なことを言われたこともない)やまだ記憶に新しい思い出が、最後の最後に思わぬ形で少し苦くなった気分。
ただの気持ちの整理、書き残しなのでこれ以上の議論は要らないし式場に文句を入れるつもりもないけど、夫婦を相手に仕事をするみなさん、少しだけでも頭の隅に置いておいてもらえたら嬉しいです。
性別を転換する理由がその性の権利を得るためならば、変えるべきは個人の性ではなく社会であろう。もちろん身体の変化そのものを必要としているならば話は別である。女として扱ってほしい、男として扱ってほしいの男とは、女とは一体何を指しているのか。例えば元の性別を理由に何かを拒否された時、「男として、女として認められていないと感じる」という訴えをしばしば見かける。理想とされる対応、模範的な対応が性別によって決まるのは性別のらしさに囚われている考え方である。ある性別専用の権利を獲得出来ず不利益が生じた場合、それに対応する必要があるが、それは必ずしも同じでなくてもよいのではないか。
例えば、女性用のトイレに入りたい理由が「男性のトイレに入ることによる苦痛を避けたい」のであれば多目的トイレでその問題は解決され、さしあたって多目的トイレの普及が社会のすべきことである。だが女性用のトイレに入ることが女性だと認められるかというと疑問が残る。誰に認められたいのだろうか。法?法は戸籍を変更すればその性を認めるということになる。手続きに関する問題は解決すべきだろうが、ここで女性用のトイレに入れる権利を保証することがトランス女性を女性と認めるということにはならない。そもそもトランス女性というくくりがかなり広い状況を定義しており、「男の見た目で女子トイレに入れば怖い」というような反応が出てくるわけだが、この状態では女子トイレに入る権利を得たとしても、周りの人が女性だと認識してくれるわけではない。どこまでいってもトランスジェンダーというくくりから逃れることはできない。
トランス男性、トランス女性という呼び方を消してしまいたい人もいるかもしれない。ただの男性であり、ただの女性だと。だが男性あるいは女性というくくりが存在したままであることには疑問を抱かないのだろうか。その区別を消し去ることが出来ないのは、身体の性が消えることはないからだ(個人レベルではその限りではない)。もし今後、全ての人から生殖の機能が失われるのならば性に関する問題はかなり消滅してしまうのにと思ってしまう。
身体の性ではなく心の性の問題だ、と言われるとそんなものはないと言いたい。心に性は必要ない。身体の性にあった心の性がそもそも備わっているとも思わない自身の性に必要な機能を失ってしまった人の心のありようが変わるわけでは無い。性別とは肉体によっての便宜上のものでしかなくそれ以外の一切のことに性別という考え方を持ち込むこと自体を否定したい。
筆者の立場は、心の性を否定しているという点では心はどちらでもないという状態に属しているといえるかもしれないが、そもそも心をどちらかに決める必要あるいは利点を見つけることが出来ない。身体の性による恩恵や害を否定することは出来ない。それは事実である。だが心の性というものによる恩恵や害は解決可能だ。したいことをすべきでありそれが出来ない社会は間違っている。だから必要ない。今は必要かもしれないが、必要でなくなる社会を目指している。
性に関する問題において性的指向が残っている。生物としては身体の性では無い方というのが普通だが、(普通とはなんだ、という意見は尤もである。だが大多数がそうでなければ人間という種は絶滅する。別に絶滅でもなんでもしてしまえという立場なので、これは価値としての判断ではない)人を愛することに何か基準を設けても仕方のないことであるのでそれと心の性はやはり関係ないと思われる。
それでも心の性は必要なのか?もちろん今はまだ、それが救いとなることも無視できない。だからいつか、心に性というナンセンスな考え方を持ち込むことがなくなればいい。
漫画『ルックバック』の一部表現が不適切だとされて変更された。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/shonenjump_plus/status/1422029631507427331
残念である。
表現が人を傷つける力と人を救う力は同一であり、分割することができないものだと私は考える。(救うなんて表現はおしつけがましいし、そもそも表現の価値は人を救う事とは限らないが、便宜上こう言う)
たとえ短期的には傷つける部分だけを削り救う部分は残すことに成功したように見えても、長い目で見れば、次の誰かの作品まで踏まえてみれば、傷つける力を弱める試みは必ず救う力までも弱めてしまう。
過去50年の間に許されなくなった表現はあるが、100年前200年前よりは許される表現は増えていて、だから私たちは色々な表現に心を動かされる現代にいる。
許されなくなった表現がもっと少なければ、もっと豊かな現代になっていただろう。
だからルックバックの表現が許されないとされたのは残念である。
このような表現への抑圧を問題視する立場から何ができるだろうか。
出版社であったり圧力団体であったり政党であったりに掛け合うこと、コロナを考慮した上でのデモを行う事など、社会運動や政治運動はもちろん有効である。
だがそれに付け加えることとして、表現活動をすることを私たちみなに望みたい。
たとえ不適切だとか不道徳だとか言われそうだと思っても、必要だと思った表現は盛り込んだ作品を作り、発表しよう。
抑圧された時に余裕があるならつっぱねればよいが、大変そうならしれっと取り下げてもいい。
叩かれても折れない覚悟なんて、たいていの人間は持てないし持つべきじゃない。思いついた表現を世の中に放り投げる気軽さ、見る前に跳ぶ思い切りさえあれば十分で、着地でミスろうが安全ネットにからまって笑われようが問題ない。
あなたの表現が誰かの目に入ったならば、それを取り下げようと蒔かれた種は消えない。
表現の自由への道は、自由を目指して倒れた作品たちの上に作られる。だから殺されたって価値がある。
そしてしばし休んだなら、また何かの名義で、何かの媒体で、作品を出せたら最高だ。
あれだけブルマーについて調べたのだから、しばらくはブルマーに対する知的関心も収まるだろう。そう思ってはいたものの、何となくツイッターでブルマーと検索したときに、ヨーロッパの女の子のブルマー姿を目撃し、疑問が再発した(画像はこちら。フェチの人のアカウントにつき注意)。結局、東欧のブルマーの普及っていつからだったんだ?
以前の調査でも、チェコやポーランドにもブルマーが存在していることまでは調べたが、言語の壁もあり画像検索にとどまっていた。ならば、まとまった時間が取れたことだし、しっかり調べてみるべきではないだろうか。元々チェコ文化には文学や音楽を通してなじみがあることだし。ドヴォルザークいいよね。
社会主義政権下では、制服を着て体育の授業に出るのが義務であった。
体操服としての制服は、第一共和国時代(1918-1938)にはすでに一部の学校やソコル(後述)で必要とされていたが、社会主義の時代になって初めて一斉に普及し、広く統一されたものとなった。
男子は白いタンクトップに赤い短パン、女子は短い袖に青いスエットパンツだった。この強制され対象は階級のない社会主義の未来の象徴だった。これは1965年、チェコの3回目のSpartakiada(東側の体育祭、後述)のためにデザインされ、70年代から80年代にかけてが最盛期であった。1985年のSpartakiadaではチェコ国旗の三色を再現するため、赤いブルマも導入されたようだ(ここは誤訳かもしれない)。
女子の短パンはお尻の周りゴワゴワとまとわりつき、ウエストは高く、太ももにはゴムが入っていた。ブルマーによく似ているが、体育の授業のたびに太ももに跡がつくくらいきつかったという。
ちなみに、この時代の運動靴は後に普段使われたり、バレーダンサーがはくようになったりしたそうだ。のちに、ポーランドなどに輸出もされたらしい。
Jednotný cvičební úbor: noční můra děvčat za socialismu - ExtraStory
https://www.abczech.cz/Jednotny-cvicebni-ubor-P7035300.html
プラハで創設された民族的体育運動協会。現チェコの国民性の形成に重要な役割を果たしたと言われる。元々はハプスブルク家からの独立を目指す意図を持っていた。
ソコル設立の動きは他のスラヴ系民族にも波及し、1908年にスラヴ・ソコル連盟が設立された。チェコ以外にもスラヴ諸国の連盟が加入し、1912年にはプラハで全スラヴ・ソコル祭典が開催される。1926年には180,000の観客を収容可能なマスゲームの上演のためのGreat Strahov Stadiumが完成。
両大戦間にソコルはより発展するが、ソビエト連邦では活動を禁止された。ナチス下では解散させられるが、戦後協会は再建される。しかし、共産党政権下では東欧諸国のソコルは事実上活動を禁止され、協会は国外で活動を継続した。1948年にプラハで開催されたソコル祭典の集団演技には98,000人の学童と273,000の会員が参加し、2週間にわたって行われた大会の中で共産主義政権への反発が露にされた。
チェコスロバキアではソコルの活動が停止した後、社会主義的な演出を施した「Spartakiada」というマスゲームを中心とした体育大会が1955年から5年ごとに行われるようになった(後述)。
なお、もともとは同じユニフォームの着用、マスゲームの参加は過去には民族主義による開放感をもたらしていたが、関心が多様化した社会ではそれらの行為は拘束として受け止められているそうである。現に、上から国民を教育しようとしたこの運動はあまり成果が出ず、徐々に管理主義的になっていったという。民族の自由を求める戦いも、完全にクリーンというわけでもないらしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%AB_(%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8D%94%E4%BC%9A)
ソビエト連邦がスポンサーになったスポーツの大会である。ソビエト連邦はもともとオリンピックに対抗し、これを補完しようとしていた。国際Spartakiadaは1928年から1937年に5度開催されたが、のちにこれは東側ブロックの国ごとのイベントになった。名前はスパルタクスから来ており、プロレタリア国際主義を象徴する。貴族的・資本主義的な(古代)オリンピックとの対比になっている。
その後、チェコでは大規模場マスゲームを指す言葉にも転用された。これは先述のGreat Strahov Stadiumで5年に一度開かれた。規模は非常に大きく、1960年は75万人が国中から参加し、200万人がイベントを目にしている。
1955年から5年ごとに開かれたが、1970年はプラハの春で中止、1990年はビロード革命で中断され、小規模な形で再開した。
1994年以降ソコル祭典は6年ごとに開かれているが、祭典のマスゲームやパレードに参加する会員の多くは過去のソコルに馴染みが深い高齢者で占められているらしい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Spartakiad_(Czechoslovakia):title]
もちろん出ない種類の情報もたくさんある事は知っている。
1つのソースに頼るのは良くないので複数のソースをあたって、自分の考えをどんどんまとめる事ができる。
これが人相手の相談だったりすると相手に「相談を持ちかけた責任」が発生する。
極端な事を言えば相手の気に入る「答え」を出す必要があるし、そうでない答えに対しては相手を説得する義務が生じる。
また、世の中大抵の相談は相談という名のコミュニケーションであり雑談であり、
心の安寧を図るための行動である事も私は知っている。
しかし「自分のメンタル安定」などという極めて自己中心的で他人に何の利益ももたらさないものに
さらに言えば自分は雑談による気分転換の効果がとても薄いので費用対効果が低いので積極的に利用したいと思わない。
これは自分だけに適応されるものであって、自分が相談を受ける側の場合は当てはまらない。なぜか。
暇だと余計な事を考えてしまって良くないのだけど、動く気力も無いのでこんな読みづらく性格の捻くれた文ですら無いクソを打ってる。
なんかコメントの反応で話の趣旨がズレたものが多くない?「ハーフの子供だから漢字とカタカナ混じった名前だった」ってそりゃ日本国籍を持ってれば漢字とカタカナ混じりの名前つけられるでしょ。外国籍の子供の名前はカタカナか漢字でしか日本の役所に届け出できないことを元Twitterでは問題視していて、日本生まれ・日本育ちの特別永住者の在日外国人の子供の名前に使える文字は日本国籍と同じように「漢字・カタカナ・平仮名」全部を使用可能にしてくれっていうのが主張な。
FUNI@ストリート大学さんはTwitterを使っています 「日本の制度にミドルネームはないので言葉とサーナの間にスペースは空けられませんと念押しが… 飲みましょう しかし海外で生まれた妻はミドルネームがOKです 今後日本生まれ日本育ちの外国人もひらがなで「もち」とか名付けたい人もでてくるとおもいます 名付ける権利くれ https://t.co/ZVlVdjNU1y」 / Twitter
https://twitter.com/Funi2222/status/1404428507816464389
外国籍の子供なら母国語での表記が「本名」であり日本語表記は便宜上のものでしかないからいいのでは、とは思うけど日本の特別永住者は歴史的経緯が複雑で今でも差別が続いてるから考慮しなきゃいけない
>だから、スポーツ競技としての公平性と反差別・人権とで、どちらが重大で優先されるべき問題かと言えば、圧倒的に後者だろうという話を、繰り返ししているわけ。
わからんやつだな。
俺は、なんで後者になるなんて話が自明になるんだ、と言ってるんだよ。
もっと言えば、それはお前のお気持ちで、興味の問題だろうと言っている。他にあるのか?
>スポーツ競技は人権という土台に上にあるべきで、人権に反しても競技の公平性を優先するなどということはありえない。
そんなことないよ。だってお前の言うとおりにしたら、土台の上にのせるスポーツが無くなるもん。ありえないのはお前の言う内容。
便宜上の公平性がなくなったら、そのスポーツで勝負する意味がないからな。女子スポーツが存在しなくなるって話はトランスジェンダー関連で言われる話だよ。
※便宜上、女の子のエッチな絵を男性向け、男の子のエッチな絵を女性向けと表記します。他意はありません。
また、母国語や教育環境が異なる外国人とかLGBTの人とか特殊性癖については度外視してます。
蹲踞は「そんきょ」と読む。
イメージしにくければ「蹲踞」で画像検索すればお相撲さんの蹲踞姿勢が出てくる。
エロ画像のタグ、属性、ポーズに「エロ蹲踞」というものがある。
股間を足で隠さない、むしろ強調するように開脚する姿勢なのでまあエッチな、ニュアンス的にはドスケベ系のワードである。
私が蹲踞という言葉を知ったのは中学生の頃、体育の授業では男子生徒だけが柔道をやっていた。(女子は何か別のことをやっていた)
現在、柔道を含む武道は必修化しているらしく、女子中学生でも柔道をやる人はいるだろうが、
少なくとも私の学区内で公立中学に通う女子生徒は最近まで柔道をやらされていなかっただろう。
指導要領のことは詳しくないのでわからないが、男子体育教員は柔道に特化した人というわけでもなかったので、
教員個々人の語彙ではなく指導要領なりなんなりに蹲踞のことが書いてあるのだろうと思う。
何が言いたいのかというと、蹲踞という言葉、その意味、読み方を知っている人というのは、男性のほうが圧倒的に多かったのではないか、ということだ。
全ての男子中学生が蹲踞について真面目に学習するわけではないと思うが、少なくとも女子中学生と比べてこの単語自体に接するチャンスは多かったはず。
「蹲踞/そんきょ」と言われてぱっとあのポーズが浮かぶ人間や、そもそも「蹲踞」が読める人間は男性のほうが多いはずである。
相撲においても昨今土俵の女人禁制が取り沙汰されている。なら相撲用語としての蹲踞にも男女で接する機会の差はあるだろう。
なら、エロ蹲踞というワードも男性向けのエロでよく使われるワードなのではないか?
とりあえずさっき(2021/06/11 PM18:00)、Pixivで「エロ蹲踞」と検索したら男性向けの絵しか出てこない。
「エロ蹲踞 ホモ」とか「エロ蹲踞 ゲイ」、「エロ蹲踞 BL」でググればまあ出てくるが、女性向けの絵を描いている男性だったりするし、どのサイトでも母数が少ない。
このポーズ自体はドスケベなので男にさせる構図の絵も多いと思う。
特におしりに何か挿す場合、M字開脚よりおしりが上がっている分なにかと便利なはず。
でもなんて検索すれば出てくるかわからなかった。(私はヘテロ男性なので別にエロ蹲踞してる女性向けの絵を見たいというわけでもないのだが。知的好奇心。)
騎乗位が近いのだろうが、騎乗位はセックスの体位でキャラクター個人のポーズとして使うのは違う気がする。
また、いわゆる中二病の症状によって読み方や意味を知っている人がやたら多い類のワードではない。(例:粉塵爆発など)
もはや教養として知っている類の言葉だと思うのだが、男性向けの絵ではあたかも見る側が読み方を知っているかのようにタグ付けされていたりする。
教育の中で男子生徒だけが接する機会の多い単語であり、そのまま男性がマジョリティである男性向けの絵などに使われるようになったのではないか。
あるいは今後、女性生徒も柔道に接する機会が増える中で、女性がマジョリティである女性向けの絵などでも使われるようになるのではないか。
教育における男女の違いが、そのまま男女それぞれが主体の文化圏で語彙の違いになっていく。エロ蹲踞の言葉からそれが読み取れるのではないか。
ということを仕事中に考えていた。
背丈から足のサイズまで女性の平均値とほとんど同じ身からすると、そもそもほとんど全ての競技のレギュレーションで男女別に競技がわけられていることそのものに理不尽さを感じています。それを性自認でわけると変わっていっている現状にはそれ以上の相当の理不尽さを感じます。
生まれもった特性のそれぞれの競技に対する不均衡への是正措置としてのレギュレーションであるはずのそれを、何も関係がない性自認へ摩り替えるのは正直に言って全く道理が合わないと思います。スポーツと性自認に関係なんて一切ない。客観的な測定値、例えば身長や体重、またはより詳細にテストステロン値等でクラス別にわければいいだけの話です。
私個人としては性自認なんてものはこの世にそもそも存在しないので、性の同一性という概念は有り得ないと考えています。自己で認識する自己へのラベルという概念は自分でこしらえた檻でしかなく、そんなものはある方がおかしい。性自認なんてものは国家や宗教への帰属意識と同様にして生きる上で全くもって不必要なのでいらない。いらない概念は存在しない。性自認なんて無視して個々は男装していいし女装していい、だれとでも性行為をしていい。だれとでも結婚していい。さらには何をしてもいい。そんなものは当たり前の話で、その自由に性自認なんて訳の分からない中間物は必要ない。酒飲み話で男とか女とか言う分にはいいけれどオフィシャルな場所でそんな未定義語を使う意味がない。ここまでは自明でしかない。
私は女装が好きで、レディースしか着ていません。今も髪が長いですし大抵レディースの服しか着ていません。でも女であるつもりはないです。しかし、わざわざ男である気もありません。
自分が何者であるかは自分が世界へ起こす、または起こした行動によって定義されるべきであって、個々の人間が自分をどう認識するかなんてどうでもいいとしか言いようがありません。個人の脳の中でだけ起きていることなんて、世界で起きていることではないのでそんなものは実在しない。男女とは他者へ便宜上貼り付けるラベルであり、自己へ敢えて貼る必要は断じてない。
性別という概念が公の維持のためにある一定程度必要だと言うのならそうなのだろう。そもそも他者へのラベルとしてのそれを私は否定しない。しかし、どちらにせよスポーツのレギュレーションに性自認を入れるべき道理はない。より現実的なレギュレーションを追い求める義務がある。自分の性別なんてものも幻想なんです。性別があるのは他者だけです。自分には性別なんてものはありません。