はてなキーワード: クラッチとは
まんじゅう要求BBAの増田を読んで俺も似た思いがあるので書く。
https://anond.hatelabo.jp/20220707214147
大学生最後の年、翌年から地元に帰って就職するので最後の長い自由時間を満喫しようと、バイクで野宿しながら2ヶ月半かけて日本一周した。
途中、紀伊半島でクラッチケーブルが切れてギアチェンジできなくなり自走不可能になって、バイクを押して歩いて海沿いの小さな集落にたどり着き、そこで数日停留した。
なんとかならないかとバイクをいじったがなんともならず、大阪のショップに電話して新しいクラッチケーブルを注文して、知り合ったおじさんの家に送ってもらうことになった。
バイクをいじってるとカブにのった郵便配達のおじさんが声をかけてきて、少しこれまでの旅の話などをした。
ケーブルが届くまで待つため、集落の人に了解をもらって集落前のビーチにテントを張って寝る準備をしてたら、昼の郵便配達のおじさんが車でやってきて、テントをわざわざ探し出して声をかけてくれ、車で家まで連れてってくれて、家族団らんの食卓にお邪魔させてもらい、一緒に晩ご飯を頂いた。
ごちそうさまでした、と帰ろうと思ったら、そのままお風呂はどうだとお風呂に入れてくれ、出たらパジャマが用意されてて「え?」と思ったら、もう布団を敷いてあるよと、そのまま翌朝の朝食まで頂いてしまった。
2日目の昼にガススタ事務所に招いてくれて笹寿司とコーヒーを頂いたり、息子さんの宿題を一緒にやったり、荷物が届かないからと車で一緒に運送事務所まで探しに行ってくれて、まだ無かったので切れたクラッチケーブルを溶接で直してくれた。
3日目に届いたので結局修理済ケーブルは使わなかったし、今ではそのバイクも手放してしまったけど、修理済ケーブルは今も大事にとってある。息子が大きくなったらこのケーブルを見せて思い出話をしたいな。
他にもガススタに来てた大阪から釣りしにきたおじさんの別荘に招かれ泊めてもらったり、ガススタの隣にある民宿のおばさんにずっとバイクを置かせてもらったり、たくさんのお世話になった。
こんな無償で優しくしてくれる人が大勢いるなんて、なんて暖かい集落なのだろうとびっくりした。
新しいクラッチケーブルが届き、バイクに付け、出発するときは、ガススタのみなが手をふって見送ってくれた。
しばらく走ったあと振り返ると、海ごしに集落が小さく見えて、みなの優しい顔が頭に浮かんできて、泣いてしまった。
就職して落ち着いた翌年の春、地元からお礼の手紙を皆に送った。
他にもこの集落から少し離れた別の集落でも、駅で寝ようとしたら汽車から降りきたおじさんに声をかけられ家で寝させてもらったり、近くの崖でヘルメットを落としてしまい別の集落の駐在所おまわりさんにヘルメットを貸してもらって街まで走って新しいメットを買いに行ったり、
北海道ツーリングでは地元漁師さんの家に泊めてもらって無人島(https://www.google.com/search?q=嶮暮帰島)(むかしムツゴロウさんが住んでた)まで漁船で連れてってもらったり、旅ではあちこちでいろんな方にお世話になった。
それから20年近くたち、たまにストリートビューで今あそこはどうなってるかなと見るんだが、あのガススタがマップに表示されない。
どういうことだ?と名前や地名で検索すると、閉業済みの情報が見つかった。
グーグルマップの口コミを見ると「ここのG,Sは親父さんが亡くなった為、もうスタンドはやっておりません。」
https://www.google.com/search?q=コスモ石油+亀井石油店+新鹿
実は日本一周の8年後、長期の夏期休暇をとってまたバイクで集落を再訪し、郵便局員のおじさんは(退職済みだったので郵便局でおじさんの家を教えてもらって)再会してお礼を言っていたのだが、ガススタのおじさんは不在で、息子さんにしか会えてなかったんだ。
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/bokuto/tabi/100801/05.html
その息子さんとは、ガススタのグーグルマップに口コミを投稿したら、それを見てメッセージを送ってきてくれて、その後や現状を聞いたりしたんだが、おじさんに会えないまま別れとなったのは今でも心にひっかかってる。
世話になった人には、会える機会があったら積極的に会っておいたほうがいいよ、という話。
他人の夢くらいつまらないものはない、というが、久々に文章化できた夢なので、あえて書く。
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大勢(といっても数人?)で集まって、何かしようとしている。何か作る?焼物を作ろうとしているみたい。
ある人の家に集まる。現実の知り合いのギタリストの彼だ。なぜ彼かは不明。皆、楽器などを持ち込んでいるようだ。
他にもバンド関係で知り合った人がいる。おそらく先日会ったボーカルギターの人だ。キーボードの女性もいたようだ。
家は、とても古い木造だが、部屋はやたら広い。広いが何もない。隅の方にめいめい、荷物を置き、皆で屯する。
焼物を作るのは別の場所なので、移動しようということになる。
床は入口から50cmくらい低いスロープになった部分があり、スロープの先の平らなところに便器がある。床は、艶のある色濃い木でできている。
便器の蓋も木でできており、便器をピッタリ隠している。金隠しが無い。
鍵が壊れている?
家の持ち主のギタリストの彼がやってきて、小さい金属の閂を嵌めてくれる。
トイレをどうしたかは不明だが、皆で外に出て、移動しようということになる。家から出て道路を渡り、その家を見ると、外観もかなりボロボロだ。
周囲の家も、ボロボロの家が多い。
一件、取り壊し中の家がある。重機が家の壁を壊していて中が剥き出しになっている。今出てきた家かと思い不安になったが、違ったようだ。
2台の車に分乗して移動。
自分が乗る車は、三輪トラック風の、前が細くなった車で、何かが褪色した薄いピンク色。
ほぼ一人乗り。
白いペダルと赤いペダル。白いのがブレーキ、赤いのがアクセルらしい。クラッチになったりもする。
シフトレバー。昔のバスのように長い金属棒の先に丸い球が握りとして付いているやつだ。
運転なんか随分していないので不安だったが、ギタリストの彼の大丈夫だ、という声に押されて運転を開始。
皆が乗る大きなトラックの後について行く。
車は妙にスルスル動くが、操作がよく分からず先行車から段々と遅れる。
道路の端に寄ってしまい、縁石のようなところに登り、煉瓦に囲まれた花壇になっている部分をそのまま走る。
そのうち自分の車が先行するようになる。
後ろを見ると、トラックが付いてくる。
自分は行き先も知らされていないのに、どうしようかと思っているうちに、目的地に着く。
最初にいた家と同じような部屋。
ボーカルギターの彼は別の作品を先に焼いていたようで、出来上がった、と言って周りのおが屑のようなものを払いのける。
30cm角くらいの四角い立体で、側面は左側が直角の台形で、いかにも焼いたような薄茶色をしており、紺色の素朴な線で絵が書いてある。数人で談話をしているような、そんな絵。
腰パワー王のところに腰パワーを授かりに行ってるんだけど
以前腰パワー王のところに行っていたときのことを思いだしたわ。
腰パワーを授かっても
まだ腰パワーが安定していないので、
腰パワー王がもう来なくて大丈夫ですよ!って言うまで腰パワーが定着安定しないのよ、
きっと。
そんでもう一つ、
まあ波のようにと言ったような例えばの例えがいいのかしら。
腰も歪みを直した波というのが股関節に、
まさにシワ寄せが来るのよ。
翌日股関節が痛み出すという、
腰を治したら
股関節に余波が出てしまうってことなのかも知れない最新研究の結果はそんなことは言ってないけど、
私的には
たぶんそう言うことなのかな?って思うのよ。
そんで、
腰パワー王に診察前
右の方でしょ?って
腰パワー王は問診とかヒアリングとか一切こっちの事はあんまり尋ねられることは無いんだけど、
分かっちゃうみたいよ。
壁一面メニューが貼ってあるベテラン大将が切り盛りしている家庭的な町中華の
そのたくさんのメニュー表は
それと一緒だなって思ったわ。
たまに行って何年か毎に何回も通っているのに
腰パワー王は前者の方なので、
首グキってやるとき緊張感が走る技を掛ける人たちなのかしら?
もし腰パワー王がいなくなってしまったら、
次どこに診てもらったらいいのかしら?って
不安になるけど、
きっとたぶん柔道整体師で検索すればきっとハッピーになれるかも!って今さらハッピーターン粉増量版が有ることに気が付いたような時と同じ気分よ。
ああ!そう言うことか!って
見掛けの派手さとは違って痛くないのよね。
まったくぜんぜん。
腰パワー王が腰パワー安定しましたもう大丈夫ですよ!って卒業証書をもらったら、
腰パワー王に直してもらった腰は大切にして労って使わなくちゃ!って2年ぐらいは思うんだけど
これはマジで繰り返したくないので
腰はもう痛いのはゴメンなので慎重に大事にしなくちゃって
そう思ったわ。
まだ卒業してないけど!
うふふ。
セクシーヤミーでいつ食べても美味しいところがタマゴサンドのいいところね!
もう世界はタマゴサンドだけで良いじゃん!っては言い過ぎだけど
私はそんな勢いよ。
あのたまーに行く足繁く通っていないパン屋さんのさ
レタスタマゴサンド売ってる!って車内から見えるところがまたいいところじゃない?
お店に行ってレタスタマゴサンドが売り切れだったら悲しいでしょ?
そのぐらいいいなって思うの。
買い物行けてないので全然デトックスウォーラーがイケてないわ!
暑くなってきたところもあるって言うから
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
マニュアル車(MT)の場合は、クラッチペダルを床まで踏んで、ギアを所定のポジション(ローギアかバックギア)へ入れて
アクセルをゆっくり踏んでいくと同時にクラッチペダルを徐々に緩めていき
そう簡単には踏み間違えないと思います。(この動作をミスするとエンジンストールし易いです)車庫入れ時や駐車場でノロノロと空きスペースを探している際など(AT車だとクリープのみで進んでいる状況かなと)は超低速なので、クラッチを切ってからブレーキを踏みます。
ちなみに、クラッチを切った状態(AT車でいうとDレンジからNレンジにした状態みたいなもの)だと動力がタイヤに伝わらないため、その状態で間違ってアクセルを踏んでしまっても、エンジンがブオーンと唸るだけです。
急発進はそのつもりでの操作が要るので踏み間違いでは、し難いでしょう。マニュアルだと坂道の下りでもオートマのような加速はあまりしません。適度なエンジンブレーキ動作となります。
急発進もクラッチペダルさえ踏めば発進しません。あまりないけど、ギャーを間違うとノッキングやエンストを起こします。マニュアル車の後ろで車間距離を適度に取らずにあおり運転みたいなことしていると、シフトダウンで急激な停止状態となることもあるので、追突しても、車間距離を取らなかったほうが悪いということにもなるので要注意です。ペダルの踏み間違いによる事故がMT車ではほとんどない理由は他にもあります。
ブレーキとアクセルの踏み間違いは、ほとんどの場合焦りや集中力の欠如から起こりますが、MT車では車を発進させるだけでも複雑な操作の組み合わせが必要なので集中力が必要です。
そのため、何かに気を取られてブレーキが緩みクリープで車が動いたことに焦りブレーキとアクセルを踏み間違えたりします。
つまり、AT車は操作が簡単な分 他の事に気を取られる確率が上がります。ドライビングポジションというか、座り方にも差があると思います。
MT車は両足でペダルを操作するので、ペダルやハンドルに対し腰の角度が必ず正対することになります。
さらにMTのシフト操作のために左手を常に使う必要がありますが、
AT車の走行中は右手のウインカー操作の頻度が高いだけでシフトもワイパーも操作頻度が高いわけではない。
両足両腕を使って操作しているとハンドルセンターから左右にズレると
すぐにバランスが悪く感じ修正しますが、右足と右手だけだと位置と方向のズレ認識は難しい。
このズレでアクセルとブレーキの空間認識に間違いが出やすいってこともあるとは思います。
あとは単純に
「後進時にMT車は腰を回転できず上半身だけで振り返るが、AT車は腰を回転させようが位置を変えようが動かせる」
着座の位置と向きが変わればペダルの認識間違いはすぐ起きると思います。
MT車がAT車に比べて安全ではないかといわれる理由の大きなところは踏み間違いではなくて。。。
「クラッチで動力を切れる為"暴走事故"が起きづらい」ということだと思います。
ATでもMTでも"瞬間的な踏み間違い"は大小あると思いますがどちらでも起きると思います。
ただし瞬間ではなくて感覚的に"短時間"に入る数十メートル、数十秒にわたる暴走は故意や故障でなければMT車ではありえないと言っていい。
よい事例としては「プリウス福岡暴走事故」ですね。病院に突っ込んだ有名な事故。
あれは300m以上暴走したのち病院に突っ込んだ。この事故は正常なMT車だと絶対に無いと言える。
300mもコントロールできず加速し続ける状態をMT車では想定して運転したことないです。先月納車されたスイフトスポーツのMTに乗ってますが、今のMTはクラッチだけじゃなくてブレーキも同時に踏んでないとエンジンかかりません。
これには驚きました。
昔、教習所で踏切内でエンコしたらギアを入れたままセルを回せば進んで脱出すればよい、と習った記憶がありますが、もうそういうのは昔話なんでしょうね。
とりまワイが知ってるやつをまとめてみる
ギンシャリボーイ ピンクフェロモン チョクセンバンチョー ハリウッドリムジン バーニングビーフ サバンナストライプ ジラフ ハリボテエレジー(無印 2.0 3.0) コンコン ピーピードーナッツ ジャンボナンプラー アフロマニア モヒカンパンク テンネンパーマ チョンマゲワンダー ギャランドゥ セーラームンムン メイドモエモエ アイラブナース アゲアゲアゲハ バージンフライト シンバシルドルフ ハリボテボーイ ハリボテフェロモン ハリボテバンチョー ハリボテリムジン ハリボテコンコン ハリボテジラフ ハリボテンガーZ ハリボテネイチャー キャメルクラッチ コモドペロペロ オージーホース カメジマン スーパーフェロモン ニンジャスナイパー シーワールド トロヤンホース UMA メカハリボテ FJクルーザー ギンシャリFJ フェロモンFJ チョクセンFJ ハリウッドFJ サンコンFJ カルキンFJ ハリボテFJ ドンブリボーイ ゲイシャクリスタル エスカルゴ レオタードレオタード ガソリンテンゴク オキシドール ギブメルソン タランティントレンティーノ グッドバーベキュー タンゴブルホーン ナイロビダンディ サバンナパーティ ロングハイネックス クビナガイノーネ ダンボウルガクエン ガムテイプマツリ パンパン マンマン ピーピーマヨネーズ グッドケチャップ ギガント ハナナガイノーネ スーパーストレート ジェントルハット テンネンガス テンネンスイ ホラガイサウンド フトコロガタナ アンドウ ギャル ガクランビート プリーツ ハードディスク ピーピーピーエイチ バリウムドリンカー アイラブドクター カマカマカマキリ サナギクラブ ニューパスポート デューティーフリー キンバリルドルフ ニッポリルドルフ エヒメオレンジ ヒッコシラクラク ブルーテイプ チャリ ガムテイプラブ ウマゾン ガムテイプセール ハリボテパンパン ハリボテマンマン ペンキ ガムテイプジケン オイルマネー コブイジリ コモドピロピロ コモドペラペラ タートルヘッド タートルネック ニンジャクライシス シュリケンチャンス シール マリンワールド エペイオス アテーナー
おう松さん
マツノマツクイーン ディープナルシスト チョロシコテイオー イチノキャット ハッスルシップ トッティデイ
ポプテピ記念
サブプライムローン ザリガニモービル タケショビンボウ ハリボテレガシー ポイズンニョッキ コナゴナアバラ イケノミズゼンブ ナンヤカンヤ カモノハシ モチゴメタケタ バナナオブパワー シリコンショルダー ハナゲウェービー ナナチコナナチ ヨガフレコマンド キングスピリット サブカルクソヒンバ ヤノサンブラック ニトロピピピッピ
を踏みます。フルブレーキングとは、クラッチペダルとブレーキペダルを踏み抜くことです。
万が一、右足でアクセルペダルを間違えて踏んでも、クラッチペダルを踏み込んでいるのでエンジンとギアは切り離されているから、エンジンは空転してものすごい音にはなりますが車は惰性で前に出るだけで加速しません。
体勢が崩れてクラッチペダルを踏めずに、ブレーキペダルとアクセルペダルを踏んだ場合、ブレーキペダルが優先されるのでエンジンが止まるか、クラッチが滑って煙がでます。
つまり、間違えてどの組み合わせでペダルを踏んでも、加速して100キロを超える暴走車になることはありえないんです。
マニュアル車は両足を放しても車が止まる
ギアがロー(1速)か2速に入っていれば、ブレーキ、クラッチペダル、アクセルのすべてのペダルを踏まなくてもエンジンブレーキがきいて車はとまります。
マニュアル車には、左足で踏むパーキングブレーキはありません。手で引っ張るサイドブレーキになっています。だから、助手席の人がいれば、サイドブレーキを助手席の人が引っ張ってハンドルを左に切るだけで車は縁石やガードレールに乗り上げて止まります。
ローギア(1速)に入れて、左足でクラッチを踏み続ける「半クラッチ」でズルズルと走る
クラッチペダルとアクセルペダルを放すと車はエンジンが止まって(エンスト)しまう
エンストした状態では、アクセルペダルを踏んでも車はまったく動かない
なので、安全なのです。
鑑定や価値測定の問題は非常に幅広いものである。人間にとっては、好意の返礼、物々交換、貨幣、信用、雇用、市場での購入など、あらゆる交換システムに関わってくる。また、強要、課税、貢ぎ物、司法上の刑罰の設定などにおいても重要である。動物の互恵的利他主義においても重要である。例えば、サルが背中を掻くために果物を交換することを考えてみよう。相互に毛づくろいをすることで、個人では見えないし届かないダニやノミを取り除くことができる。しかし、どれだけの毛づくろいとどれだけの果物を交換すれば、お互いに「公平」だと思える、つまり離反しないお返しになるのであろうか?20分間のバックスクラッチングの価値は、果物1個分であろうか、それとも2個分であろうか?また、どのくらいの大きさの果物であろうか?
血と血を交換するという単純なケースでさえ、見かけよりも複雑なのだ。コウモリは、受け取った血の価値をどのように見積もっているのだろうか。重さ、大きさ、味、空腹を満たす能力、その他の変数で価値を見積もるのだろうか?それと同じように、「あなたが私の背中を掻いてくれたら、私があなたの背中を掻く」という単純な猿の交換でも、測定は複雑になる。
大多数の潜在的な交換において、動物にとって測定問題は難題である。顔を覚えてそれを好意に結びつけるという簡単な問題以上に、そもそも好意の価値の推定値について双方が十分な精度で合意できるかどうかが、動物の相互的利他主義の主な障壁となっているのではないだろうか。
現存する旧石器時代初期の人類の石器は、我々のような大きさの脳には複雑すぎる面がある。誰が誰のためにどのような品質の道具を作ったのか、したがって誰が誰に何を借りているのかなど、彼らに関わる好意を記録しておくことは、一族の境界線の外ではあまりにも困難であっただろう。それに加えて、おそらく残っていない多種多様な有機物や、身だしなみなどの刹那的なサービスなどがあるであろう。これらの物品のほんの一部でも譲渡され、サービスが行われた後には、我々の脳は膨れ上がっていて、誰が誰に何を借りているのかを把握することはできなかった。今日、我々はこれらのことをよく書き留めているが、旧石器人には文字がなかった。考古学的な記録が示すように、氏族や部族間での協力が実際に行われていたとすれば、問題はさらに悪化する。狩猟採集民の部族は通常、非常に敵対的で相互に不信感を抱いていたからである。
貝がお金になる、毛皮がお金になる、金がお金になるなど、お金が法定通貨法に基づいて政府が発行した硬貨や紙幣だけでなく、さまざまなものであるとすれば、そもそもお金とは何なのであろうか。また、飢餓の危機に瀕していた人類は、狩猟や採集にもっと時間を割くことができたはずなのに、なぜネックレスを作って楽しんでいたのであろうか。19世紀の経済学者、カール・メンガーは、十分な量の商品交換から自然に、そして必然的に貨幣が進化することを初めて説明した。現代の経済用語で言えば、メンガーの話と似ている。
物々交換には利害関係の一致が必要である。アリスはピーカンを栽培してリンゴを欲しがり、ボブはリンゴを栽培してピーカンを欲しがる。たまたま果樹園が近くにあり、たまたまアリスはボブを信頼していて、ピーカンの収穫時期とリンゴの収穫時期の間に待つことができたとする。これらの条件がすべて満たされていれば、物々交換はうまくいく。しかし、アリスがオレンジを栽培していた場合、ボブがピーカンだけでなくオレンジも欲しかったとしても、運が悪かったとしか言いようがない - オレンジとリンゴは同じ気候では両方ともうまく育たない。また、アリスとボブがお互いを信頼しておらず、仲介してくれる第三者を見つけられなかったり、契約を履行できなかったりした場合も、運が悪いと言わざるを得ない。
さらに複雑な事態も起こりえる。アリスとボブは、将来的にピーカンやリンゴを売るという約束を完全に明確にすることはできない。なぜなら、他の可能性として、アリスは最高のピーカンを独り占めし(ボブは最高のリンゴを独り占めし)、他の人には残りかすを与えることができるからである。2つの異なる種類の商品の質と量を比較することは、一方の商品の状態が記憶でしかない場合には、より困難になる。さらに、どちらも凶作などの出来事を予測することはできない。これらの複雑さは、アリスとボブが、分離した互恵的利他主義が本当に互恵的であったかどうかを判断する問題を大きくしている。このような複雑な問題は、最初の取引と互恵的な取引の間の時間的な間隔や不確実性が大きいほど大きくなる。
関連する問題として、エンジニアが言うように、物々交換は「スケールしない」ということがある。物々交換は、少量であればうまく機能するが、大量になるとコストがどんどん高くなり、労力に見合わないほどのコストになってしまう。取引される商品やサービスがn個ある場合、物々交換市場ではn^2個の価格が必要になる。5つの商品であれば25個の価格が必要となり、悪くはないが、500の商品であれば25万個の価格が必要となり、一人の人間が管理するには現実的ではない。貨幣を使えば、500の製品に500の価格というように、n個の価格しかない。この目的のためのお金は、交換媒体としても、単に価値の基準としても機能する。(後者の問題は、暗黙の保険「契約」とともに、競争市場が存在しなかったことから、価格が近しい交渉ではなく、長い間進化してきた慣習によって設定されることが多かった理由でもある)。)
物々交換に必要なのは、言い換えれば、供給やスキル、好み、時間、そして低い取引コストの偶然の一致である。そのコストは、取引される商品の数の増加よりもはるかに速く増加する。物々交換は、確かに全く取引をしないよりははるかに効果的であり、広く実践されてきた。しかし、お金を使った貿易に比べれば、その効果はかなり限定的である。
原始的な貨幣は、大規模な貿易ネットワークよりもずっと前から存在していた。貨幣には、もっと早くから重要な用途があった。貨幣は、信用の必要性を大幅に減少させることで、小規模な物々交換ネットワークの働きを大きく改善した。好みが同時に一致することは、長い時間の間に一致することよりもはるかに稀だった。お金があれば、アリスは今月のブルーベリーの熟度に合わせてボブのために採集し、ボブは半年後のマンモスの群れの移動に合わせてアリスのために狩りをすることができ、誰が誰に借金をしているかを把握したり、相手の記憶や誠実さを信用したりする必要はない。母親の子育てへのより大きな投資を、偽造できない貴重品の贈与で担保することができる。貨幣は、分業の問題を囚人のジレンマから単純な交換に変えてくれる。
多くの狩猟採集民が使用していた原始的な貨幣は、現代の貨幣とは全く異なる姿をしており、現代文化の中では異なる役割を果たしており、おそらく後述する小さな交易ネットワークやその他の地域的な制度に限定された機能を持っていた。私はこのような貨幣を、本来の貨幣ではなく、収集品と呼ぶことにする。人類学の文献では、このようなものを「お金」と呼んでいるが、これは政府が印刷した紙幣や硬貨よりも広い範囲で定義されているが、このエッセイで使う「collectible」よりも狭い範囲で定義されている。また、曖昧な「valuable」という言葉もあるが、これはこのエッセイの意味でのcollectiblesではないものを指すこともある。原始貨幣の名称として他の可能性がある中で、コレクティブルという言葉を選んだ理由は明らかであろう。コレクティブルは非常に特定の属性を持っていた。それらは単に象徴的なものではなかった。コレクティブルとして評価される具体的な物や属性は、文化によって異なる可能性があるが、恣意的なものではない。収集品の第一の、そして究極の進化的機能は、富を貯蔵し、移転するための媒体であった。ワンパムのようなある種の収集品は、経済的・社会的条件が貿易を促進するところでは、現代人が知っているような貨幣として非常に機能的である。私は、コイン時代以前の富の移動手段を議論する際に、「原始的な貨幣」や「原始的な貨幣」という言葉を、「収集品」と同じように使うことがある。
人々、一族、あるいは部族が自発的に貿易を行うのは、双方が何かを得ることができると信じているからである。価値についての彼らの信念は、例えばその商品やサービスについての経験を積むなどして、取引後に変わることがある。交易の時点での彼らの信念は、価値についてはある程度不正確であるものの、利益の存在については通常正しいものである。特に初期の部族間貿易では、高額商品に限られていたため、各当事者が自分の信念を正しく理解しようとする強い動機があった。そのため、貿易はほとんどの場合、双方に利益をもたらした。貿易は、何かを作るという物理的な行為と同様に、価値を生み出した。
個人、一族、部族はそれぞれ好みが異なり、これらの好みを満たす能力も異なり、これらの能力や好み、そしてそれらの結果として得られる物について持っている信念も異なるため、貿易から得られる利益は常にある。このような取引を行うためのコスト(取引コスト)が、取引を価値あるものにするのに十分低いかどうかは別問題である。我々の文明では、人類の歴史上の大半の時代よりもはるかに多くの取引が可能である。しかし、後述するように、いくつかの種類の取引は、おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが誕生した頃まで、一部の文化にとっては取引コスト以上の価値があった。
取引コストが低いことで利益を得ることができるのは、任意のスポット取引だけではない。これが、貨幣の起源と進化を理解する鍵となる。また、家宝を担保にすることで、取引の遅延による信用リスクを回避することもできた。勝った部族が負けた部族から貢ぎ物を取ることは、勝った部族にとって大きな利益となった。勝利者の貢ぎ物を集める能力は、貿易と同じ種類の取引コスト技術の恩恵を受けていたのである。慣習や法律に反する行為に対する損害賠償を請求する原告や、結婚を斡旋する親族集団も同様である。また、親族は、タイムリーで平和的な相続による富の贈与の恩恵を受けていた。現代文化では貿易の世界から切り離されている人間の主要なライフイベントも、取引コストを下げる技術によって、貿易に劣らず、時にはそれ以上の恩恵を受けていた。これらの技術のうち、原始的な貨幣(収集品)よりも効果的で重要なものはなく、また初期のものでもなかった。
H.サピエンス・サピエンスがH.サピエンス・ネアンデルターレンシスを駆逐すると、人口爆発が起こった。紀元前4万年から3万5千年の間にヨーロッパを占領した証拠から、サピエンス・サピエンスはネアンデルターレンシスに比べて環境収容力を10倍にしたこと、つまり人口密度が10倍になったことがわかる。それだけではなく、彼らは世界初の芸術を創造する余裕があった。例えば、素晴らしい洞窟壁画、多種多様で精巧な置物、そしてもちろん貝殻、歯、卵殻を使った素晴らしいペンダントやネックレスなどである。
これらは単なる装飾品ではない。収集品や、その時代に進歩したと思われる言語によって可能になった、新しい効果的な富の移動は、新しい文化的制度を生み出し、環境収容力の増加に主導的な役割を果たしたと考えられる。
新参者であるH.サピエンス・サピエンスは、ネアンデルタール人と同じ大きさの脳、弱い骨、小さい筋肉を持っていた。狩りの道具はより洗練されていたが、紀元前35,000年の時点では基本的に同じ道具であり、2倍の効果も10倍の効果もなかったであろう。最大の違いは、収集品によってより効果的に、あるいは可能になった富の移動だったかもしれない。H.サピエンス・サピエンスは、貝殻を集めて宝石にしたり、見せびらかしたり、交換したりすることに喜びを感じていた。ネアンデルターレンシスはそうではなかった。これと同じことが、何万年も前にセレンゲティで起きていたのである。
ここでは、コレクションアイテムが、自発的な無償の相続、自発的な相互取引や結婚、法的判断や貢ぎ物などの非自発的な移転など、それぞれの種類の富の移転において、どのように取引コストを下げたかを説明する。
これらの種類の価値移転はすべて、人類の先史時代の多くの文化で行われており、おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが誕生したときから行われていたと考えられる。このような人生の一大イベントである富の移転によって、一方または両方の当事者が得られる利益は非常に大きく、高い取引コストにもかかわらず発生した。現代の貨幣と比較して、原始的な貨幣の速度は非常に低く、平均的な個人の一生の間にほんの数回しか譲渡されないかもしれない。しかし、今日では家宝と呼ばれるような耐久性のある収集品は、何世代にもわたって持ち続けることができ、譲渡のたびに相当な価値を付加することができたし、しばしば譲渡が可能になることもあった。そのため、部族は、宝石や収集品の原料を製造したり、探索したりするという、一見すると軽薄な作業に多くの時間を費やしていた。
富の移転が重要な要素となっている制度では、次のような質問をする:
1. 事象、移転された財の供給、移転された財の需要の間には、時間的にどのような偶然の一致が必要だったか?偶然の一致があり得ないことは、富の移転にとってどれほどあり得ないことか、あるいはどれほど高い障壁になるか?
2. 富の移転は、その制度だけで収集品の閉ループを形成するのか、それとも循環サイクルを完成させるために他の富の移転制度が必要なのか。貨幣の流通の実際のフローグラフを真剣に考えることは、貨幣の出現を理解する上で非常に重要である。多種多様な取引の間で一般的に流通することは、人類の先史時代のほとんどの期間、存在しなかったし、これからも存在しないであろう。完結したループが繰り返されなければ、収集品は循環せず、価値がなくなってしまう。作る価値のある収集品は、そのコストを償却するのに十分な取引で価値を付加しなければならない。
ハイブリット車の低速域のトルクはクセになる。もう一回なれたら、スバルの NA の低速なんかのトルクのスカスカ具合は、腹がたって仕方がない。逆にいうと、あのクイック感は神経が弱まって、つかみにくい高齢者は事故るだろうな、って思うけど。ハイブリット車はトヨタの THS2 系と、ホンダのデュアルクラッチなハイブリット車は、もう少し「オートマチックの低レスポンス具合」をエミュレートすべき。少なくとも、電源オフにしたら「スポーツモードがオフになる」ように、あえてアクセルの加速を減らすべき。詳しくないが、ヨーロッパ車の意識できないレベルのドッカンターボみたいな物理的なタイムラグは、安全を確保してきた仕組みだと思う。モーターは、アクセルに機敏すぎる。高齢者は下手に過去があるから、小脳エリアと大脳エリアの記憶のリライトにタイムラグがあって、前者の書き換えが高齢者はできてないと思っている。