はてなキーワード: 怨念とは
1997年に結成した彼らは、00年代V系シーンにおいて、その重厚なサウンドと自他への憎悪や怨念、そして寂寞の篭ったような世界観という強烈な個性から、多くのファンを獲得し邁進してきた。
そしてその世界観を自ら打破し、ロックやテクノ、メタル等の様々な音楽要素を取り込むなど、新たな個性として「多様性」を得た結果、今やファンも老若男女様々な層が増え、20周年の今年は日本武道館2days公演を納めただけでなく、更に年末にもう一度玉ねぎの下で大規模な主催イベントを控え、その日に向けて日夜怒涛のツアーやイベントに勤しんでいる。
私は、ファン歴で言えば中堅どころにあたると自負している。
もう十余年もムックの音楽に浸り、彼らのライブサウンドに酔い、最早生き甲斐やライフサイクルの一環として「次のライブに行くために、また彼らの音楽を生で楽しむために」と社畜生活に従事する日々。
長らく夢烏(=ムックのファンの呼称。ムッカーと読む)を続けてきて、もちろん不満に思う事や上がろう(=ファンを卒業しよう、追っかけをやめよう)と思った事も多々あった。
しかし彼らの最大の魅力は良くも悪くも「変化し続ける事」と「ファンを裏切る事」である。
何だかんだと文句を垂れ、貶しては「やっぱりムックは最高だ」と舌を巻く羽目になるからこそ、次の良い裏切りを期待して離れられずに、盲目的に好きであり続けている。
そして自身の周りの夢烏仲間も「だせぇwww」「無いわwww」「新アー写ぶっさwww」等と貶しては、生のパフォーマンスを拝んだり、新しい歌詞を読んで「やっぱムックいいわ…好き…かっこよすぎ…」と滂沱と溢れる涙を拭い、感涙に咽びながら新しい告知に躊躇無くクレジットカードを切っていた。
2008年夏にリリースされた19枚目のシングル、「アゲハ」。
このリリースをきっかけに、あるバンドのファンが怒涛のようにムックに流れ込んできた。
ムックと同じ事務所に所属する大御所バンド、L'Arc〜en〜Cielのファンである。
このシングルにはラルクのギタリスト、Kenが楽曲のプロデューサーとして参加している。
日頃ラルクの活動の無さに飢えているファンが、ラルクの片鱗を求めてムックの音楽に興味を持ったのだ。
ムックは元々、リーダーであるギタリスト、ミヤのワンマンバンドである。
幼い頃より音楽を嗜み、プロデュース、作曲、編曲等々多方面のマネジメントを行うミヤに対し、音楽のド素人から始まった他メンバー。技術的な部分から何から、3人はミヤに首を垂れ従い続けるのが常であった。
「メンバーもファンもひたすらミヤのご機嫌取りに徹するバンド」等とも称される事もあったし、夢烏を自認する私も事実そういうバンドだと自覚する。
なお余談だが、興味のある方は是非今年リリースされた「M」というインタビュー本をご一読頂けるといいだろう。
リーダーから何故出来ない、お前に期待しているのに、というスパルタ虐待親よろしく高いスキルを要求され、心身に支障を来たす者もいれば、トラブルを起こす者もいた、解散しなかったのが不思議でならないかつての殺伐としたムックが。
そして20年という歳月を経て、ようやく分かり合おうとし、ほんの少し分かり合えるようになってきた彼らの、ありのままの成長の軌跡が綴られている。
さて、そんなムックが、よそのアーティストにプロデュースを頼むだなんて。
当初は「は?ムックのサウンドが好きなのによそにプロデュースされるとか無いわ」という気持ちと「あのとんでもワンマンバンドがよそに力を借りるなんて、少しは丸くなったんだなぁ」という気持ちを抱いていた。
実際楽曲そのものは、これまでのムックには無かった新しいテイストが組み込まれ、彼らの「多様性」に新たな1ページが加わったなぁと感慨深かった。満足であった。
しかしそのシングル曲が含まれるアルバムツアーから、ライブ公演に違和感を覚えるようになった。
「アゲハ」と、同アルバム収録のもう1曲のKenプロデュース曲「空と糸」のイントロで、何故か、黄色い悲鳴が上がる。
V系というジャンル柄、ファンは盲目的に思い入れを持つ曲が各々あったりする。また歴史を重ねるごとに、昔の音源はだんだん演奏頻度が下がる。
そうした中で、たまにいわゆるレア曲を演奏したりすると、イントロの時点で泣き出したり、歓喜の絶叫を上げるファンは沢山居た。
何ならこのツアー中は100%演奏するし、シングル曲故に今後もセットリストに組み込まれる可能性は非常に高い。
私はただたた首を傾げる事しか出来なかったし、周りの夢烏友達もそうであった。
その正体に気付いた時には、奴らはすっかりムックに居座っていた。
あれは忘れもしない、某年の恵比寿リキッドルームでのライブ。
早めに着いた私は、グッズ販売の待機列で友人を待っていると、数人程前にやたら声の大きい2人組が和気藹々と歓談していた。
V系のファン=バンギャもある種のキモオタなので、声が大きいのもよくある事だと、会話をBGMにTwitterを眺める私の耳に、信じがたい台詞が飛び込んできた。
「ムックはチケ代が安いから、ラルク待ってる間の暇潰しにはコスパがいいよね」
「Kenちゃん、ゲストで来てくれないかな。Kenちゃん見たい」
先の台詞は百歩譲って許そう。
いくら盲目に、宗教的にバンドを愛するバンギャと言えども、複数のバンドのファンを掛け持ちする事はザラだ。
特に本命バンドの活動が乏しい場合、あの爆音の非日常空間が恋しいあまり、他のバンドに手を出す事はしばしばある。
そして本命バンドと比較して、やっぱり本命バンドが一番好きだという実感を改める事は私も多々ある。
ムックが一番好きな人達ばかりのアウェイ環境で、よくもまあ大声でそんな事がしゃあしゃあと抜かせるものだと少しイラつきはしたものの、気持ちは分からなくもない。
しかし猫も杓子も二言目だ。
そう言うのならばKenソロのライブに行けと。公演が無いならばDVDでも観ていろと。チケットに書かれた出演者をよく観ろと。貴様の目は節穴かと。ムックにラルクの片鱗のみを求めているのかと。
音楽シーンにおいて特に興衰の激しいヴィジュアル系というジャンルでは、新たなリスナーの獲得が今後の生死を左右する。だから、新しいファンが、殊に音源やグッズを購入し、ライブにまで足を運んでくれる存在が増えるのは大歓迎だ。
それでもムックの純粋なファンではなく、ムックを通して結局ラルクしか観ていない。カードだけ剥ぎ取られて、開封もせずに捨てられるプロ野球チップスのようだと感じられる、ムックが本命バンドの自分からすれば侮辱としか思えない発言だった。
気持ちは分からんでもない。ただせめてこの場においては、まっすぐにムックを観てくれないものか。とにかく不愉快で悲しくて仕方が無かった。
しかしムックは、みるみるそれらのファンを増やし、固定させていった。
その後もKenのプロデュースの機会も増え、ラルクメンバー絡みのイベントに参加し、オールナイトイベントなんかにも出るようになり。いつかの2人組が望んだ通り、ワンマンライブにゲストで現れるようにもなり。
気付けば、スタンディングのライブで友達とはぐれた時、自分の周りにいる人間は知らない空気を纏っていた。
先述の通り、私はファンが増える事は喜ばしく、歓迎すべき事だと思っている。
以前はモッシュピットに棒立ちで、ぶつかられ露骨に嫌そうな顔をしながらも近くで見たいからと動かない、危なっかしい新規ファンも居たが、最近はムックのノリに慣れたのかそんな人間も見かけなくなった。
ムックそのものをちゃんと観に来ているファンが増えた実感もある。
しかし、あれからずっと変わらずKenプロデュース曲で上がる黄色い悲鳴。
チケットのファンクラブ先行受付がある度に、既存の夢烏同士の規模を圧倒的に上回る人脈での人海戦術で、人数の何倍も申し込んでは、ひたすら身内に、余れば興味の薄い人間にまで回されるチケット。
「ムックは昔から、皆仲が本当に良い」「ボーカルさん可愛い、女の子みたい」「リーダーさんが人を殴るなんてありえない」という、誤解を超えて定着してしまった新しい解釈。
そして何だかんだ言っても結局、Kenが関わる話題が上がっては「Kenちゃん来ないかな」。対盤で未発表枠が告知されては条件反射で聞こえる「絶対ラルクでしょ」。
何より許しがたい、「今のムックの動員や売り上げは、ラルクに支えられているようなものでしょ」という、あまりにも乱暴で横柄な認識。
そして自分達が総意であり真実であるかのように振る舞う。いつしか私も、仲の良かった旧来の友人達も、周りを念入りに警戒してから遠慮がちに感想をぼやくようになった。
もちろん、いいファンと悪いファンがいるのは重々承知しているし、それは旧来の夢烏にも言える事だ。
それでも、メンバー間のトラブルや修羅場があったからこそ生み出された過去の楽曲やパフォーマンス。そして背景としてそれらがあったからこそ、紆余曲折と凄まじい努力を経たからこその「今の彼ら」が在るのに、「今の彼ら」しか切り抜かれていないようで悲しく思えてならない。
V系における2ちゃんねるのような某掲示板で、貢ぎやセフレ要員として簡単に繋がりを持てると、繋がり入門麺とまで称されたメンバーに対して、手放しで可愛いだの聖母だの褒めちぎる。
バンドの運営をほぼ全て自分を中心に回し、ステージでミスしたメンバーや段取りの悪いスタッフを一切の遠慮なく睨み付け、手や足を出す事もザラだった、田舎のヤンキー気質の抜けないワンマンリーダーを、優しいだのと聖人君子のように捉える。
先述のメンバー程よろしくなかなか女関係が汚く、今やすっかりほうれい線の強い老け顔に対してただただ馬鹿のひとつ覚えのようにかっこいいを連呼する。気持ち悪さが売りであり、コールアンドレスポンスとして罵声が求められるパフォーマンスに対してきゃー可愛いなどと場違いな歓声を上げる。
元よりお馬鹿キャラではあったものの、立派な一人の成人男性としてオフショットでは煙草を吸ったり、平均的な態度振る舞いである事は容易に見て取れるのに、そうであると押し付けんばかりにひたすらバカわいいなどと称する。
昔の楽曲も好きだけれど、暗いから最近の曲の方が好きだなどと抜かす。
汚い部分もひっくるめてのムックは今時のファンの中では息絶え、やがてムックの中でも無かった事にされるのだろうかと、一抹の寂しさを抱いた。
ファンの在り方は様々だ。貶し愛と呼ばれる、極端なツンデレのような愛し方をする者もいる。ガチ恋と呼ばれる、本気で結婚したいと考え必死に札レターを贈る者もいる。アイドルのように無条件に可愛いかっこいいと愛でる者もいる。
ムックが本命バンドの人間もいれば、他のバンドが本命だという人間もいる。
必死な人もいれば、緩く追っている人もいる。
十人十色、千差万別。色んな愛し方があって当然だし、「多様性」を強みとするバンドならばファンも多様であっていいと思う。だからこそムックは、色んなものを身につけ、色んなものを培い、色んなものを味方につけて、色んな道を歩んできた。
とりあえず、これからもムックに金を落とし続けてくれればそれで結構なので、頼むからせめてダイブする時は柔らかい靴で・アクセサリー類は外す・髪は括る・ステージにもフロアにも余計なアピールをせずさっさと転がって降りるの4点くらいは徹底をお願いしたい。
それと人海戦術チケ確保も程々にして頂きたい。激戦チケットとの交換カード用に、自分にとっては余計なチケットを申し込んで転売するのもほんとに勘弁して下さい。
あーあ、やっぱりラルクソ居なくなって欲しいな。何だかんだ言ったけど、やっぱ存在が無条件にただただムカつくし気持ち悪いわ。
さん付けとかたつえちゃん呼びもきしょいし、下手くそな小学生の夏休みの工作以下のお手製土産(笑)を「声かけて下さい!」とか拡散してるのも本当にきしょい。
それもラルクソの文化?男性アイドル追っかけてる夢女子腐女子のオタ中学生みたいですね。
ガチ恋も増えた臭いけど、やってる事だけじゃなくて身なりもオタ中学生みたいな糞ダサデブスだし、見た目も繋がるためのお金も何の努力もしてないから本当に見苦しい。
せめてまず痩せろよ。1人で2人分くらいスペース取ってるデブ本当に殺意沸く。
何食ったらそんなデブになるの?何処かの相撲部屋に所属してるの?ちゃんこが美味しいのは仕方ないだろうけど、ここは土俵じゃないんですよ。
万が一にも動員落ちたら1人でチケ20枚くらいは買い支える気持ちでいるから、ここらで一発ムックには炎上してみて欲しい。
でもさあ、こういう時にアイドルオタがほうぼうで夢中で書き出す
そりゃパフォーマーだけで運営できるものではないし、最初に資本を投下するのも事務所何だろうけど。
ベリで一人浮いているパフォーマーだった嗣永さんが、ベリ活動休止後もわざわざアイドル続けたくて慈しんだグループなのに。
嗣永さんの作った中身のない心地よい表象の世界をぶち壊しやがって。
あれだけ貢献した人の、どんな形であれ強い影響下にあったグループを、事務所が”一方的に「はい、おしまい」ってさ。
アンジュルムの時だって、結果的に成功してなんか有耶無耶になっている気がするけど、勝手に改名しやがって。
ティーンズをあれだけ握手だのライブだのでこき使っておいて、彼女からも主体性すら剥奪して、そんなのもう見ていられないよ。
ただただムカつくわ。
http://anond.hatelabo.jp/20170604204919
日本史の教科書をいくら見ても本当のところは理解できないんですよ。
なぜ北条家が坂東武士の頂点に立ち、鎌倉幕府を頼朝が作ったにも関わらず、北条がその後の支配権を握り続けたのか。そして戦国時代に「後北条家」が、北条家と特に関係がないのに成立し、関東の盟主足り得たか。源氏とは、北条とは何か。
北条は、坂東平氏の家柄である。坂東平氏とは、桓武天皇の血を引く、関東にやってきた平氏の総称であり、その五世である平将門が新皇を自称して、朝廷に対して関東の支配権を主張して反乱を起こし、敗れた後に祟りを起こして神となったことで、関東に決定的な影響力を及ぼすようになった。
平将門は神である。そこを間違えてはいけない。平将門の怨念とされるものは畏敬の対象として、現代人に対しても深く印象づけられているが、関東ではほぼすべての神社が平将門を祀っていたほどに力があった。坂東武士たちにとっては、平将門は実際に神であり、朝廷に反旗を翻し関東に独立した政権を、坂東平氏が頂点となって打ち立てることは坂東武士の念願であった。平忠常というそのへんの平氏が関東で反乱を起こしただけで一大ムーブメントになってしまうぐらい、平氏が関東を支配し朝廷から独立するという夢は坂東武士の間に広がっていた。元記事に書かれている関東の有力豪族、千葉氏、上総氏は、平忠常の子孫とされている。
そこにやってきたのが源頼朝である。源頼朝は清和源氏の事実上の嫡流である。清和源氏、桓武平氏といった用語を知らない人のために説明すると、天皇家は偉いわけだが、子孫がいつまでも皇族だと皇族が際限なく増えてしまい、現代で言う宮内庁の予算が際限なく増えてしまうので、どこかで平民になってもらわなければならない。平民になる時に、皇族には名字がないので、名字を与える必要がある。その時に、源、平の名字が与えられた。天皇の血を引くスゴイ人たち、という意味が源、平という姓には込められている。清和源氏は清和天皇の子孫で源姓を名乗った人たち、桓武平氏は桓武天皇の子孫で平姓を名乗った人たちである。
たとえば足利も、徳川も、本姓は源である。源尊氏、源家康が本名だ。なぜ足利とか徳川というかと言えば、源が増えすぎて区別の必要が出てきたというのもあるが、源というスゴイ名字を出すのは気が引けたから、という要素が大きいように思う。本当の名字は避け、住んでる所を名字にする、といったことをして、木曽義仲とか、足利尊氏とか、あるいは自分ででっち上げた徳川という名字を使った家康のような人もいる。これを説明するには、武士にとって本名にいかに大切であったか述べなければならないが、面倒だ。武士の下の名前は諱(忌み名、呼んではいけない名前)とされていたということを考えれば、上の名前もそれなりに大事だということはわかると思う。(そして信長様~とか秀吉様~とか言っている時代劇が全部嘘っぱちだということも分かるだろう)
平忠常の乱を平定しようとした、桓武平氏嫡流の平直方は、乱の平定に失敗するが、清和源氏の事実上の嫡流である源頼義を婿に迎え、領地であった鎌倉を譲り渡す。この時、鎌倉は坂東の源氏の拠点であると同時に、平氏と源氏の嫡流が交わった聖地という意味が生じた。そこから八幡太郎義家が生まれ、源氏の声望が高まり、その嫡流である頼朝を権威づけていく。
ここまでくれば、坂東平氏である北条家が頼朝を婿にとり、鎌倉を本拠地に据えた意味が分かるだろう。平家と源氏が交わり、鎌倉を拠点とするというのは故実に則った神聖な儀式なのだ。ちなみに、北条家が坂東平氏の由緒正しい血筋だというのはおそらく自称であり、フィクションである。だが坂東武士は将門の祟りの方が怖いので、血筋の細かい所は気にしないのだ。
鎌倉に作られた幕府は初めから天皇を中心とする朝廷と対立関係にあり、承久の乱で勝利することで朝廷の上位に立ち、皇位継承を操作するまでになった。それはなぜかといえば、平将門が朝廷からの独立を志向していたからである。平将門の怨念が実際に実を結んだのが鎌倉幕府である。頼朝の下で働いた北条、梶原、三浦、和田、千葉、熊谷などは、みな坂東平氏である。そして役割を終えた源氏はどこかに消えて、坂東平氏、北条家による支配が行われた。
そして戦国時代、後北条家の話になるが、後北条家は伊勢新九郎盛時、北条早雲によって立ち上げられる。伊勢氏は室町幕府の政所執事の家柄で、ものすごく偉い。ちなみに桓武平氏である。
室町幕府というのは北条家に牛耳られた鎌倉幕府を倒して出来た政権である。鎌倉幕府内の源氏で最高の血筋だった足利が鎌倉幕府を倒し、北条家はほぼ滅亡してしまう。そして源氏である足利は京都に朝廷とベッタリの幕府を作った。平氏による独立志向の関東の幕府から180度の転換である。
史実ではものすごく偉かった伊勢新九郎盛時であるが、実家が室町幕府の偉い家柄で、関東を牛耳りに来たというのは、いかにも坂東武士には都合が悪い。仕方ないので、先祖を辿れば同じ坂東平氏という縁にあやかって、北条の名を名乗ることにした。ちなみに名乗ったのは息子の氏綱の代である。そこで、おそらく後北条家のプロパガンダによって、歴史改変が行われ、謎の素浪人北条早雲が、下克上の嚆矢となり関東に覇を唱えたという、我々のよく知るストーリーが現れる。よく調べると、全てデタラメである。
これにより、なぜ後北条家が秀吉と争い、滅亡への道を歩んだかも分かるだろう。秀吉は関白、天皇の代理人である。天皇と対抗する存在である坂東武士にとって、秀吉に降ることは、平将門の祟りを招きかねない決断であった。そのため、天下の趨勢が決しても、徳川や伊達の援軍が得られなくても、単身で秀吉と抗い、滅びたのである。それだけ将門の祟りへの畏れや、坂東武士の誇り、天皇家という存在に対する対抗心が強かったのだ。
平将門は武士の始まりであり、武士のスピリットを体現する存在である。武士は武装し土地を守り、権力に抵抗する存在であると同時に、一族で争い、殺し合う存在である。その構図は徳川家康が武士を飼いならすことでご破産になり、そこにあった本質は見えにくくなってしまっているが、武士を知りたければまず平将門を見て欲しい。
東京で毎日往復1時間ちょっと電車に乗っているが痴漢冤罪の心配をしたことがない。
だが、職場でも友人でも、何人かに一人くらいの割合でものすごい怨念がこもった雰囲気で「電車のっていると痴漢にされる」と言っている人がいる。
そんなに可能性が高いんだろうか。
確かに身の回りの女性では痴漢の被害に遭っている人はそれなりにいるようだ(いちいち駅員や警察には届けないようだ)。
それだけ被害があるのなら、たまたま嫌疑が向けられる可能性があるのはもちろん理解できる。
しかし、だ。
冒頭に書いた友人や同僚は本気で心の底から「電車に乗っていると冤罪になる」「男を冤罪にする女はクソ」みたいなことを言っているようで、本気度が高いというか何というか……
正直なところを言えばパトカーが通っただけで警察を嫌う発言を始める中学生とか、そういうの通じる感情の動きがあるように見える。
関係者の誰もが羨むエクセレントベンチャーが、たった一年で醜い中小企業になってしまった。
トップの承認があるかのごとく偽装し、業務の引継ぎを進めて既成事実を作り、権力を握ろうとするマネジメント。
組織の一員となったことで自分も偉くなったと勘違いし、外注先をまるで下等民族のように扱うヒラ社員。
「ほんっと馬鹿だな」「死ねばいいのに」「電話かけてくんじゃねーよ」とか常に呪詛をつぶやく人間だとは。
あたしは有能、だから質問なんてしないし、そもそもわからないようにしか指示しない上司が無能で上司じゃないと。
「キミにこの仕事を任せるよ」イコールあたしの仕事、だからホウレンソウはしなくて良いと。
身近にドン引きされる空気を察し、他部署の女性陣とさんざん悪口を言いまくるランチでエネルギー充填してくる午後とか。
その毒素がインフルエンスした女性陣による陰湿なイジメが一因となって、
あるマネージャーが「周囲とのコミュニケーション不足」等を理由に試用期間で解雇された。
喧嘩両成敗なのか、表向きは予算の関係でその女性陣の一角も同時にリストラされたのだが、
それを免れた(ただ人事評価で僕にボロクソ書かれた)僕の部下は、
今日も新しく入った女性社員の同情を買うべく都合のいいこと吹聴して回る。
そして、背景を知らず同情した新入社員(といっても経験豊富な秘書サマ)は
こともあろうか僕の上司から管掌領域を奪おうとするマネジメントの部下なので、
それを耳にしたマネジメント間での蹴っ飛ばし合いがまた始まると。
堅苦しいルール不要、少数精鋭の各分野のスペシャリスト達が、あうんの呼吸で一丸となって目標達成。
さまざまな露出の依頼が来ても、そんなんダセーよと表舞台には一切出ない。
あの頃に戻れたらいいのに。
セブン-イレブンの加盟店で、シフトに穴を開けたパートタイム雇用従業員(俗称「アルバイト」)に制裁として減給していたということで、各所で報道されている。
当然だが、シフトを埋めるのは雇用主の責任だ。それなのになんでこんな気の狂ったことが行われたのか。そこに問題の本質がある。
「コンビニエンスストア」というもののほとんどはフランチャイズビジネスで、店を経営しているのは中小企業や個人事業主が多い。シフトに穴が開いて埋められなければ、オーナーとかその家族とかが入ったりする。もしも反対にオーナーがそれなりの会社だったとしても、正規雇用の従業員を応援に入らせたら本来業務に穴が開く。
コンビニに家族経営が多いのは、売上が少なかったら人件費を削れるからだ。売上が多ければ非正規雇用(俗称「アルバイト」、差別語「パート」)を増やせるとして、そういう「入れ食い」の状況は限られる。個人事業主やその家族は大概、雇用契約ではなくてあってもせいぜい委任契約だから、人件費を削れるし、労基法すらまるごと適用されるわけではない。
時給は固定費であるから、売上が少なくとも、掛かってしまう。売上比例で人件費が掛かる、代理店ビジネスとか請負契約とかフランチャイズビジネス(コンビニ本部(笑))とは異なる。「成果主義」(人件費を減らすための理屈)にあてはまらない。
儲かっている店ならば、シフトに穴があかないくらい多めに従業員を用意しもするかもしれない。そんな店は多くはない。また、物凄い不況と貧困で、少しでも多く入らせてくれと泣く従業員が少なくないので、オーナーとしては用意する従業員数を減らして一人あたりたくさん入れるようにする「温情」を働かせている店もあるかもしれない。
それで、穴が空くリスクが潜在的に高まる。穴が空いて、オーナーとか家族ぐるみで穴埋めをしてタダ働きとか予定が狂ったとかなると、その分差し引きたいという欲望というかわがままというか怨念というか、そういう主観的発想がでてきもするかもしれないわけである。
コンビニには、街の、寂れてどうしようもないような個人商店を再生したり、地域住人の需要に応えたり、そういった貢献をしていた側面もある。なんで自分とこの店が売れないかもわからない人とか、金融的信用がないから改装資金すら借りられないとか、借りても売れる保障がないからやれないという人とかがいる。そこにコンビニ本部があるお陰でオーナーや従業員の生計が助かっているという側面もある。(ただそれは過去の話で、いまはむしろオーナー募集してオーナーにリスクを付け替えてポンポン新店建てて、それでコンビニ本部が経営を成り立たせている面が大きい。上場すると、増収増益を強要され、店舗数拡大を期待される。)
しかし他方で、物凄い不況が何十年も続く中で、売価を削り粗利を削り、人件費を削り、賃金や雇用を削り、といったことが全国的に一般的になった。経済社会の退潮がコンビニビジネスを活況にしたのだし、コンビニビジネスというのは、物凄い不況と貧困の結果の一例にすぎない。
問題の本質は、コンビニのビジネスモデルにあるし、そしてそうしたビジネスモデルのときに末端にしわ寄せがいくような政治経済と、こうした階級化(ひとことでいえばイジメ、差別)を容認し推進しすらする日本人と社会の文化・慣習(江戸時代に確立されたもの)にある。
才能はない。
だが、凄いと褒められたい。
そんなオタクの醜き歪んだ欲求を利用し、人を集めているのが小説家になろうというサイトだ。
累計ランキングを見てみるとわかるが、9割近くが異世界転移・転生ものである。
だからなろうで受けるにはひたすら異世界テンプレに沿って話を書かなければならない。
一方で、テンプレに沿って書いてしまえば無名でも一定の人数には見てもらえる環境は整っている。
ちっぽけなプライドを持った人がテンプレを無視した小説を書いた結果底辺作者になり、その現実の過酷さに苦しめられる。
一見華やかななろうの底には、闇とも呼べる愚か者の怨念も存在しているのである。
事前のリサーチの結果、私はその闇をいち早く発見することができた。
彼等は身をもって私に教えてくれたのだ。
読者が喜びそうな要素もたくさん入れた。
確かに見てくれる人はいるのだ。アクセス解析によれば多くの人が見てくれている。
ちゃんとニーズは満たしている筈なのに、どうして。
私の中の不安はどんどん大きくなっていった。
「異世界転移もの書いたけどなんかすぐ脱出できそう」みたいなレスもあった。
4、だった。
小説を削除した。
いや、なろうで書いてる人の何割かは才能はないのだろうが、私はその中でも更にずば抜けて才能がないのだ。
思うに、数字上は底辺でも楽しく書いてる人は勝ち組なのだろう。
数字を求めて読者に媚びて、それで結果を出せない人間が真の意味での底辺なのだ。
さあ、楽しいクリスマスが目の前だ。
トイアンナ氏が4℃を好む女性をdisってほんまチョロいわーとかホクホク顔してるだろうから、カウンターを当てておこう。
きちんと解説するから、「なるほど、メリークリスマス!」と言って笑って忘れよう。
さて、あの記事は狙って公開している。
今年は、23(金)、24(土)、25(日)の連休になってる。
そうすると、2016年12月22日(木)はいわゆる週末になる。
すると、まさにドンピシャでホッテントリ入りして目に触れさせるなら、前日夜公開が良い。
だから、2016/12/21(水)に記事を公開し、はてブが集まって22日(木)の祝前日にトップに躍り出た。
通勤中、昼休み、帰宅時、全てのタイミングで呪いをかけようという執念を感じる。
相手と一緒にプレゼントを選ぶって人以外は、大抵は既に買っている。
当然、読む人の中には4℃のアクセサリーを買ってる人も多いでしょう。
「オトコも何も考えずに買えるから楽で良いよね」
「チャラい男がチョロい女に買ってやるプレゼントで喜べるのって幸せよね~」
既に、買ってしまっている。
違うのに買い直す時間もない。
プレゼントする方は「相手を思って選んだけど、NGなの?」と後悔し、
プレゼントされる方は「もしかして適当に選んだのかな?」と疑念を抱く。
狙った相手だけを仕留めるテロとしてパーフェクト。素晴らしいです。
disるときのテクニックとして、オススメを言わないってのがある。
例えば「4℃のアクセサリーは無いわ。せめてヴァンドーム青山ぐらいは」と書くと、共感を得られない。
どんなアクセサリーでも必ず嫌いな人がいるから、そのセンスもどうよ?って言われちゃうとバズれない。
だから、「どんな服にも合うとは言わせない」という強い意志でもってハート型をdisっていく。
そんなアクセサリーが似合うのは、ピンクとか女子大生とか、若くて可愛い子よね、と誘導する。
そして、そういうの私には似合わないわと普段から思っている人の共感を得ようとする。
これは、浅ましいのではなく、「私は特殊ではなく、そういう人も多いよね?」という叫びなのだ。
そういった自分の同類を巻き込まないように、ワリと丁寧にあのエントリは書かれている。
もちろん、仲間になって欲しい人を巻き込まない配慮もあるだろう。
でも、「あのブドウはきっと酸っぱい!」と言う時には、ブドウの描写はあまりしない。
「羨ましい」「妬ましい」「あの光景に入りたい」と「思われないように」クリスマスの風景を排除している。
さて、たぶん例のエントリで嫌な気持ちになった人は結構な数いるだろう。
なぜならば、4℃は店舗数が多く、ラインナップが揃っていて、店員の質も高い。
店員の質とは「慣れない人にも自分が選んだと満足して帰ってもらえる」という練度のことだ。
選びたい人には選び方を付き合ってくれ、決めている人にもそれなりに勧めることが出来る。
4℃でプレゼントを選んでおけば、悲惨なことになることは、まず無い。
(「彼女は花が好きだって言ってた」と仏花を買ってしまうみたいなミスをしないって意味だ)
まだ不安だろうか?
父の日に、娘が自分の貯金からネクタイをプレゼントしてくれたとする。
それがもしも安物で、下手したらキャラクターが入ってるような柄物で、派手だったとする。
大事な取引先には付けて行けないかもしれない。銀行の融資を申し込みに行くときも外すかもしれない。
でも、そのネクタイが自分の普段のスタイルに合わないからと言って、嬉しくなかったり、惨めな気持ちになるだろうか?
お父さんは赤いネクタイは似合わないんだと言ってたのによりによって赤かよ、コイツほんとダメだな、と思うだろうか?
普段会社につけていけないから困ったな、とは思うかもしれない。
でもそれは「貰っても嬉しくない」とは、違うんじゃないか?
(なお、逆の場合だと「贈り物」と「欲しいものを買ってもらう」ことの違いを理解するのは子供によって段階が違うので見極めは必要)
トイアンナ氏が4℃のアクセサリーを貰って喜ぶ女性をチョロいと感じるのと同じように、
今まで男から貰うプレゼントに満足したことがなくて可哀想だなと憐れむ必要はない。
今年のクリスマスは、きっと良いことがあるよ、と心から祝福しよう。
人類学者であり心理学者であるポール・エクマンは、洋の東西や文化を超えて、人間には普遍的な感情があると実証した。
人類は、怒り、嫌悪、怯え、喜び、寂しさ、驚きという感情を持ち、同じような表情をする。
だから、呪詛に呪詛を返す必要はない。喜びは万人に共通のものだ。
たまには、笑っても良いじゃないか。
如月生きてた
一旦は生き返った如月が深海せいかんとして正式に轟沈しました。
犠牲者はそれだけまずは青葉組の輸送船団の襲撃作戦から物語が始まりこっちは快勝してます。
そしてそこでカエリタイトという謎の声がこだまし如月がドロップします
そして復帰した如月ですが様子がどうもおかしいです。轟沈した時の記憶を明確に持っています。
そして肘には謎のアザがあり日を経るごとにどんどん体が深海せいかんに近くなっていきます。如月は相当荒んでいて以前とは別人です
そしてその字はいくら洗っても落ちません
そして帰りたいという謎の声がアイアンボトムサウンドの中央部から泊地にこだましてます。
そして同心円状にその中心部からどんどん海域の赤化が進んでいき後3日と7時間で泊地も汚染に巻き込まれることが判明した
そして敵船団は帰りたいという声が聞こえてくる海域の中心部に集結しようとしており
もし集結されたら二度と海域の突入ができないので的船団が集結する前に空有墓機動部隊が囮となり吹雪を中心とする船団が海域中心部に集結します。
敵の艦隊は空母姫や戦艦棲息姫が普通に出てきて普通に強いです。編成としては2015夏E6に近い
そして海域中心部に集結しようとした時吹雪を襲う強力な艦隊が吹雪を追い詰めましたがそこに変わり果てた如月が助けにきます
吹雪は最終的にカエリタイという声の発生源のものすごい光るポイントに来ました。
そこで待っていたのは帰りたいという思いで艦娘になった吹雪とは別に分離した忘れ去られた怨念で深海棲艦溶かした吹雪です
そして謎の光の空間に沈んでいく主人公吹雪は数々の艦が沈んで行った時の幻影とかを見せられて苦しみもがきながらもう一人の吹雪の闇に飲み込まれそうになる。
だが吹雪はもう一人の吹雪と敵対することなく大丈夫だからとひたすら連呼してもう一人の吹雪に寄り添います。そこで咲き誇る大量の彼岸花が印象的でした
最終的に吹雪はもう一人の自分を受け入れもう一人の吹雪は成仏してあたり一面の艦娘も光となって消えて行きました。その際に如月も成仏していきました。
まあ、思ってたほどひどくはなかった
ちなみに一部の艦娘は深海棲艦としての記憶を持っており加賀がそれにあたるそうです。
瑞鶴が帰ってこれるかもしれないんでしょっと言った時に加賀が二度と口にするなって
言ったけどそれほどまでに一時期深海化していた時のトラウマを引きずってます
はてな×小町は斗比主さんとかhagexさんとかいてよく見かけるけど、
はてな×inter-eduは見たことないので、まずはご紹介。
中学校以降の板では本人の学歴コンプが出まくりでニラニラするけど、
幼稚園・小学校の(特に学校特定の)板では親の学歴コンプが炸裂していて違う意味の恐ろしさがある。
たまにほっこりするあたり、まぁ学歴がらみの小町とか2chとか思ってもらえれば。
そんな中、ある小学校の板で「幼稚園からの子は学力が低い」という話が出た。
すると、そこの付属幼稚園を出たという方が「そんなことはない、上位層と下位層に分かれる」と書いた。
ちょっと気の毒になったので、うっかり
「私は他の一貫校だが、そこでも幼稚園の子は上位層と下位層に分かれてた」と書いた。
すると、「自作自演ごくろうさま」と言われた。今ここ。
自作自演じゃないけど、かといって「違います!STAP細胞はあります!」とか書くのはダメなんだろうな。
「顔真っ赤にして必死ねwww」と言われる未来しか思い浮かばない。
自分の子が私立に入って数年。少しは文章が私立親っぽくなってきたかな?
ていうか、この人自身がこの幼稚園にあこがれて、でも入れなくて、怨念しかないんじゃないのって気がする。
9年前の話で、知らないはてな村民のほうが多いだろう。
忘備録ついでに再掲しておく。
07/10/16
不妊の妻に子供ができたという趣旨のエントリが書かれ、ホッテントリ入り。
https://web.archive.org/web/20071016211304/http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071016/1192538763
07/11/06
これにはしごたんが噛みつく。文章に渦巻く怨念とルサンチマンの熱量は今の比ではない。
他人に理不尽なヘイトをまきちらす傾向は、この頃既にに完成している。
07/11/07
先のエントリを書たid:idiotapeが、ブログごと記事を削除。
id:idiotapeのエントリ数こそ少なかったものの、独特の筆致ではてな村ではそれなりに人気があり、今のコンビニ店長のような立ち位置に近かった。
これをきっかけとしてはしごたんの批判派と擁護派ではてな村が二分され、次々と関連エントリがアップされる。
はしごたんのエントリに擁護できる内容なんてあるか?と考える方もいるかもしれないが、現代の価値観をもって断じてはいけない。
この時代のはてな村には、モテない方々が世間への怨嗟を垂れ流す非モテという文化が未だ健在で、はしごたんの論理にもそれなりの正当性が認められたのだ。
ここから先を書くと増田ごと削除される恐れがあるため、暇な方は詳細は以下のリンクをたどってほしい。
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20071103/
http://d.hatena.ne.jp/shibata616/20071129/1196325433
余談だが、この事件に言及した当時のエントリの大半がブログやアカウント削除で閲覧不能になっており、インターネットのアーカイブ性の限界を感じた。
以下は、これらをつなぎ合わせる妄想です。いちど観ただけの記憶を元に書いているので、細部記憶違いの可能性もあり。苦手な方はお帰りください。
シン・ゴジラは現実の事件ではなく創作物なので、創作物なりの読み解き方ができるはず。
物語中、唯一の癒やし成分として登場するカヨコ(石原さとみ)による情報で、ゴジラは60年前に米国が杜撰に海中投棄していた核廃棄物が謎の古代生物の生き残りに作用して発生した新生物である可能性が示唆される。そのレポートをまとめたのが牧教授。超重要なのに、セリフの中にしか出てこず、回想シーンすらない人物である。
セリフの中にしか出てこないということは、セリフの中に出てくる説明や推測がそのまま牧教授の人物像の設定と考えていい。
ざっくりと箇条書きにすると
と、こんな感じ。
冒頭の無人ボートに残された「私は好きにした。あとはお前たちが好きにしろ」(だったっけ?)という捨て鉢なメッセージ。揃えて脱がれてあった黒い革靴。牧教授はあのボートから海に飛び込んで自殺したことは間違いない。ではなんのために?
パンフレットによると、映像には映らなかったが東京湾に出現した時点の第1形態はしっぽの長いオタマジャクシ型らしい。
出現時の順序は、次のようになっていた。
高温は急激な形態変化の副産物なので、最初の「謎の高温」は、形態変化が爆発的に開始したタイミングと考えられる。
ということは、当然それ以前、オタマジャクシ型の「前」があるはずだ。
これらのことに、古今の漫画的な「お約束」を加えると、ゴジラが他の生物を「取り込んで」成長することは明らかだ。
尻尾の先にあった別の生物らしき骨格は、ゴジラが吸収して未消化の(あるいは完全生物であるゴジラにとって不要と判断された)パーツと考えられる。
さて、ここから大きくハネてみる。
米国の沿岸で発生したゴジラ。これが「わざわざ」東京湾までやってきて爆発的に成長を始める。そして「なぜか」東京の中心(日本の中心)だけを執拗に狙う。
ここに「日本を憎んでいて、最近米国から日本に移動したマッドサイエンティスト牧教授」というピースを当てはめるとすべてがしっくり来るストーリーが作れる。
こうなっていたとすると、ラストシーンの尻尾→ゴジラが他の生物を取り込む設定→冒頭の無人ボートの謎が解けることになり、物語がきちんと閉じて気持ちいい。
この説に直接関係はないが、牧教授の遺書「君たちが好きにしろ」というのを深読みすると、牧教授が憎んだのは日本のすべてではなく、自分の研究をきちんと評価しなかった学会や官僚主義といったものだったかもしれない。現在の日本はどうしようもないから滅んだほうがいいが、ゴジラを乗り越えられるような日本に生まれ変われるのなら、それもまた良しといったメッセージのようにも思える。
こうしてみると、これを思い出さないだろうか。場所も鎌倉と芦ノ湖で近いし。
あっ、作者が同じだ!偶然だね!