はてなキーワード: 職能とは
http://anond.hatelabo.jp/20140820015153
強くあらねばならないと思っている人は、自分自身の主体的な欲求や感情の存在を認められないんですよ。
欲求は、相手に知られると足元を見られるウィークポイントでもあります。だから「存在してはならない」。
他人にはあっても、自分には無いのが欲求や感情…という歪んだ認知をしてしまうわけです。
このタイプの人は「(私は)あいつを見ているとイライラする」ではなく、「あいつにはイライラさせられる」という言い方をしたり、
「私は面白いと感じた」ではなく「あれは面白い」と、原因を外部化して語ります。
私はこうしたい・私はこう感じたという部分を、存在しないことにしようとしてるんですね。
だから性欲についても「私は欲情した」ではなく「あいつに欲情させられた」、
つまりは「あいつが誘ってきた」というふうに認知が捻じ曲げられます。
その結果「痴漢!」と拒絶されると、本気でビックリして「裏切られた・騙された・ハメられた」と激怒してしまうんです。
こうした認知のゆがみというのは、個々人の「こうしたい」や「こう感じる」が邪魔な組織にとっては便利な特徴です。
外野から見ると「せっかく社会的評価を得られたのに、どうして痴漢で台無しにするんだろう?勿体ない…」と感じるところでしょうが、
そもそも「私は強くあらねばならない」と強固に思っている人は大組織に適応しやすく、性格的に出世しやすいんです。
(このタイプの性格なのに出世しないという人は、職能が無いとか、発達障害があるとか、別に問題を抱えているのでしょう)
女性から見て「私は強くあらねばならない」を抱えた男性が、配偶者として魅力的にうつるという問題もあります。
子供が溺れるなどの家族の危機的状況において、父親に英雄的な行動を"とらせる"のも「私は強くあらねばならない」だからです。
自分がどうしたいか、どう感じるかではなく、「弱い者が助けを求めているから私が助けるしかないのだ」という状況は、
自分の行動の理由を外部化したがる性格の人にとって、好ましいものになります。
ヒーローものが全世界的にウケるのも、それだけそういう男性と、そういう男性を好む女性が多いことの証左でしょう。
こうした歪みを改善するには、自分の欲求や感情の存在を、自分自身で認めることが重要です。
欲求や感情は「あっても良いもの」です。親に「泣くな!」「欲しがるな!」などと、欲求や感情を禁止されて育った結果、
親を内面化した大人になってしまうのですが、そうした禁止令を解くことです。
そうすれば「あの女に、尻を触りたいと思わされた」ではなく、「私はあの女の尻を触りたいと思った」と正確な認識ができるようになります。
それは欲求に責任を持つと同時に、主体性を取り戻すことでもあると思います。
skgctom
金色夜叉の像みたいな男女関係(ヤレヤレ系)を理想化してる人結構いるよなと思う。
無根拠な自尊心の高さ由来かと思ってたけど、抑圧の結果と考えると確かに頷ける
自尊心が低いからこそ防衛しようとして、恋愛への欲求を外部化・他責にした結果がヤレヤレ系。
恋愛への欲求が無い人は、恋愛の描写が出てこない物語を好みます。
gazi4
小さな子供は論理的思考が出来ないため、ちょっとしたことで認知がゆがむように出来ているんです。
一つの例で「みんなそうだ!」「いっつもこうなる!」と思いこんでしまいます。
大人になる過程で、そうした歪みが論理的思考によって改善される人も居れば、
歪んだ認知を補強する事例ばかりを執拗に集めて、犯罪者になってしまう人も居ます。
最近何でも親の育て方のせいにする風潮あるけど、何なのこれ?
原因は親にありますが、完璧な親など居ませんし、親が成人した子供の責任をとることは出来ないので、
自分の認知のゆがみを解決しなければならないのは本人だと考えています。
これまで通りに自分を騙し、好みの認知の歪みに逃げ込むほうが楽なので、大半の人はそれを続けるだろうというだけです。
性犯罪者に至っては、何度捕まっても続けるでしょう。
共感というのは、相手と自分とが同じように思う、という意味の事だ。
例えば満月を見て「美味しそう」と同時につぶやくことが、結婚のキッカケになることもある。
そう、今オマエさんが思った「あー、プラネテスね、良い漫画だったね」と思ったそれが共感だ。
そして、「何のことだ?なんか有名なエピソードか?」と思ったオマエさんとは、共感できていない。
このズレが、コミュニケーション能力の高低として語られるわけだ。
ズレの補正は、たゆまぬ蓄積で可能になる。
情報の伝達という意味で言うと、これほど無駄なものはないし、同じ「辞書」を持ってないと会話にならない。
「おはようさん」
「Buenas tardes!」
「たる?なに?」
みたいなのは特殊だとしても、結局のところ相手と同期もしくは共感できなければ、会話は成り立たない。
こういう会話ができるようにしてあげたいんです。今は
「暑いですね」「いやーホント最悪ですよね、さっき犬の糞ふんじゃったんですよ」
コミュニケーション能力の鍛え方を教えて欲しい
この場合、一つ目の会話は「暑い」という天候の話題で雑談としたいという「意思」があるわけだ。
しかし、二つ目の会話を「今日はなんとなく嫌な日」という「意思」だと捉えると、さほど違和感のある会話ではない。
つまり、こういう補足を入れると、だ。
という風になる。
後輩は、先輩からの「ネガティブな日だよなー」という雑談に共感し、正しく応答している。
ポイントは、先輩から見れば「俺はそんな話題は振ってねーよ」という所にある。
二葉亭四迷が、「Ваша」を「死んでも可いわ」と訳したのは有名な話だが、
結局のところ、相手に伝わるように「揃える作業」を会話の時には無意識に行っている。
コンピューターはそんな無意識を持っていないので、通信し応答するという手順を定め、プロトコルとして定義している。
空気を読む、というのが最たるもので、つまりその場におけるプロトコルを推定する能力なわけだ。
先ほどの「こういう会話」に「共感」した人達は、無意識に次のような手順を踏んでいると言える。
実は、「A(今日は通勤中暑かったな)」だったりすると、会話としてはズレがある。
「(今日は昨日に比べて外気温が)暑いですね」と「(部屋の中が)暑いですね」とでは、意味が違う。
でも、大抵「A(あれ?部屋のエアコンの話してる?)」みたいにズレは無視されたり、摺り合わせがなされる。
世の中には、雑談や指示の受け取り方、命令伝達から意思疎通に至るまで、あらゆる面で特化した人達がいる。
「貴方が森を歩いていると煙突が有ります。どんな煙突でしょう?」
みたいな性格診断がソコソコに流行ったり盛り上がる背景には、全員が同じ答えを返さない、
つまりは、「全員異なる辞書を持ち、全員違う思考回路を持ち、全員まちまちな経験を持つ」からだったりする。
ただし、大抵の場合は、おおまかに一致する部分がある。
例えば、「たまごっちが流行った」だとか「8時だよ全員集合は観ていた」だったりすると、世代間の差として判りやすい。
でも、「暑いですね」と話しかけたり、「A案とB案とどっちが良いと思う?」という問いかけに対しての返答が、
過去のその人物の経験則から、一般的でない回答が返ってくる可能性がある/そういうこともあり得るというのは、理解されにくい。
「8時だよ全員集合面白かったですよね」「そうですね、面白かったですよね」
こういう会話ができるようにしてあげたいんです。今は
ここまでで判る通り、会話というのはノイズが多い割に省略されがちだ。
だからこそ、推測混じりに会話を成り立たせる必要があるし、推測にミスが生じる理由は、ベースが異なるからだ。
雑談に関しては、そのズレを楽しむ余裕がほしい。
「暑いですねに対して、犬のうんこの話しされるとイライラする」ならちょっとカリカリしすぎだ。
そもそも「暑いですね」と話しかけて「そっすね」と返されて、何がしたいのだ。
だが、仕事となると話は別だ。
意思伝達にズレがあると、業務に支障がある。
(恐らく、注意や質問にずれた答えを返すという記述から、業務において支障があると推定して良いだろう)
「AとBのどっちが好き?」と聞くと
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~という理由で、Cのこと嫌いじゃないです」と返してくる。
辛抱強く最後まで聞いてから、「で、AとBのどっちが好きなの?」と聞くと
「あ!Aです、すいません」と答える。
これを、単なる雑談ではなく、業務担当者としてA案とB案のどちらが良いか、という質問だと考えてみよう。
ポイントは、先輩から見れば「俺が聞きたいのはAかBかどっちが良いかだよ」というところだ。
先ほどの雑談と同じく、「後輩側は正しく応答している」と仮定すると、これは「後輩の共感ミス」という事になる。
「(先輩は、グループでどれが嫌いか聞いてるのだな?そのグループで嫌いなのは無いけど、あえて言えばCで、でも嫌いってほどでも)」
という想像をしていると、仮定してみれば良いのだ。
ベースが異なる異文化と交流をする際には、相手に対する敬意と知識が必要になる。
しかし、世の中はさほど生きづらくは無く、「聞き方が悪い」と断じても意味は無い。
・コミュニケーション能力が絶望的に低いことを気付かせ、
・コミュニケーション能力を鍛える方法を教える
ことに決めた。決めたのです。
さて、さらっと「聞き方が悪い」と書いたのだが、
共感力が低い相手に「お前と俺と経験が違うし、職業上の文法も違うわ」と言ったところで、伝わらないだろう。
例えばだが、
という聞き方をすれば、聞く方からすれば必要な情報は得られる。
しかし、そういう聞き方をしない相手と、そういう遣り取りをする必要が有ることに気が付かせるのは、相当に難しい。
これは、「共感力のベースを鍛える必要がある」事に気が付かせ「共感力のベースの鍛え方」を教えるということだからだ。
本人はそんな必要があると思っていないのに、それと気が付かせるのは至難の業だ。
この中で出てくる「先輩」に対して、「オマエの聞き方が悪いんだよ」と「自分から気が付かせる」には、相当な技量が必要だ。
ハッキリ言おう。
「業務に支障があるレベルで、共感力というか、会話をする時の推測がミスってる」
「その推測ミスに、悪意がないことも判ってる。だけど、推測ミスは業務に支障が出る」
「相手が言葉にしないで当然わかって欲しいことが、知識として蓄積できていない」
相手はショックを受けるかもしれないし、意味がわからないという顔をするかもしれない。
何かズレがあるにも関わらず言葉が多いのは、意思疎通に不安があるからだ。
目と目で通じ合える間柄でないのならば、言葉にする必要がある。
質問の意図を咀嚼して、相手に確認を取ることで、共感力のベースが育つ。
教えたり質問したり注意したりする方は、何度も何度も変な理解をする相手に苛立つかもしれない。
しかし、その後輩は、そうやって聞き返さなければ、先輩には見えない頭のなかでそう理解しているわけだ。
この「相手の質問の意図を確認し、まず結果から返答する」というのは、ビジネスにおいてマイナスになることは無い。
メモにとれば、その相手はどういう聞き方をするかが、物理的に残る。
先輩は、後輩の育成具合をメモの数で把握できる。指摘もできる。
突然関係のないことを人に話しかけられてパニックに陥る人間もソコソコいる。
想像してみよう。
言葉の分からない空港で、突然現地人に親しげになにか話しかけられた時に、しどろもどろに英語で何かを返す自分を。
「なんだよ、今日は良い天気だなって話しかけただけなのに、変な旅行者だな」と相手は思っているかもしれない。
職場をそんなふうに捉える人間が存在する、ということをまず理解し、受け入れよう。
そして、「そういう時は、暑いですねって返すもんだよ。意味のない雑談なんだし」と言えば良いのだ。
「(なんだこいつ)」と頭のなかで思うだけでは、相手には決して伝わらないし相手の挙動は変わらない。
伝えても変わらないかもしれないが、伝えなければ絶対に変わらない。
健闘を祈る。
自分の推測にミスがある、あるのではないかということを、まずは認めよう。
キミのAPIには、致命的な欠陥がある。
相手がAやBを返してほしいことは分かってる。
が、それはワイドショーで
僕は本心を隠したまま、ウソを付いて相手に合わせることになる。
Gの方が核心に近いと考えたからだ。
考えすぎてコミュニケーション能力が低い人へ
日本では、職能と職責と職分とが、渾然一体と混ざり合って、なあなあになっている。
ソコソコに有名な話だが、外資なんかだと
「AとBと、技術者としてどちらが良いと判断するか?」と聞かれて
「Gの方が核心に近いのでは?」と返すと
「それを判断するのはオマエではない。で、AとBとどちらだ」とハッキリ言われる。
技術的な提言をする人間と、判断する人間、選択肢を選ぶ人間が、きちんとわかれている。
そもそも、「AかBか?」と聞かれて「本心ではAやBが問題ではなく、Gの方が核心に近いと考え」るのは、僭越なのだ。
なぜならば、上司が判断するよりもオレの判断が正しいという傲慢さの現れだからだ。
そして、「先輩が聞きたいのは、AかBかではなく、○○という問題の解決策なのだな」という推測にミスがあるのだ。
繰り返そう。
コミュニケーション能力が低いのは、相手のクロック数が低く、相手が自分の処理能力に達していないからでは無い。
プログラマーなら、「驚き最小の原則(Principle of least astonishment)」を思い出そう。
Excelでsum関数を使った結果、突如C列の出費だけを合計して出力されたら困るだろう。
繰越金や入金をも合計するのには、理由があるのだ。
勝手に推測されて(その推測にマシンパワーを使われて)は、困る。
ついやってしまうのであれば、先ほどのアクションを実行しよう。
精神論ではなく、難しい手順でもなく、聞き返すだけだ。
そして、大抵の場合は、
「いや、そうじゃなくて、AかBかは部長の判断で絞られてて、どっちかしか選べないから」
と言われて、「じゃあAですね。Gが核心だと思うんですけどね、部長も判ってないっすね」みたいに繋がるのだ。
もしくは、「そうだね、AかB以外でも解決策があるなら、それも教えて」と言われて初めて、Gの話をすれば良いのだ。
これが「会話」だ。
どうもコミュニケーションが上手くいかないと感じた時に、傲慢さを捨て、謙虚になり、内省する必要は「無い」。
上司が本質を理解せず、先輩は無能でレベルが低く、誰も自分の抽象化についてこれないと思ったままでも構わない。
情報量に差があり、推測にミスがあるのなら、補正をかければ良い。
「ライター」は「エッセイスト」でも「コラムニスト」でもない。もちろん、ときには発注に応じて、エッセイやコラムを書くこともある。しかし、その仕事の大半は、編集者が設定したテーマに則して、資料を読み、取材を行い、掲載媒体に必要とされる文章を書くことである。
ブログというのは、もともとの意味では日記を投稿するシステムであったはずだが、現状、日本ではエッセイや、流行のネタに反応したコラムを掲載する場として機能している。つまり人気ブロガーというのは、エッセイやコラムで人気を獲得している人、という意味であり、それがライターとしての職能の高さを証明することにはならない。資料を集め、読み込む力、取材力はブログの記事から窺い知ることはできないからだ。
さらにいえば、ブログにはリテイクがない。先にも書いたように、ライターの仕事は、「編集者が設定したテーマに則して」「掲載媒体に必要とされる文章を書く」ことなのだ。そうした、柔軟なコミュニケーション能力があるかどうかは、ブログだけでは判断ができない。
ようするに、「面白いブログの書ける人はライターになればいいのに」という、巷間よく目にする物言いは、端的に間違っている、ということだ。
……そんじゃーね!
身近な社会人達が、いざ仕事となると、ガラっと表情を切り替えて仕事モードにシフトしてゆくのが不思議でしょうがなかった。
あのモードチェンジは、社会人になったら勝手に身に付くものなのだろうかと思っていた。
そして同時に、いつも心のどこかで冷めてる自分には到底真似できそうもないなぁ、とも感じていた。
同時期にペルソナというゲームが発売されて、心理学にペルソナ(職能的仮面)という概念定義がある事を知った。
ゲーム内では「周囲の社会という外圧に対抗する為に人が用意する、対外的人格にして心の仮面」というような説明がなされていたけれど。
実際は少し違って。
職能的仮面とは、職務に従事する際に人が守る一定の行動様式と、そこから定義づけられる合理的な実務性を有した、無個性かつ社会的な擬似人格。
だいたいそんな様なものだった。
セーブポイントまで三十分かけて急ぎつつ、社会人のみんなが使うモードチェンジはこれなのかな、と思っていた。
時を経て社会人になり、長い事仕事をしてきて今改めて思うのは。
“職業というのは一種の狂気であり、それを内包する事で職務従事者たり得る”という事だ。
人は生まれつき何かの職業にすんなり適応するようにはできていない。
業務への適応は、きちんとした教育と、長くたゆまぬ修練と、多彩な実務経験と、それらすべての慣熟によって成される。
しかし、どうしても受け入れがたい一線、というものは確かに存在する。
それは人が人である以上、受け入れてはいけない、受け入れる事のできないものであると言ってもいい。
人は、部品にはなれない。社会の歯車にはなれても、本物の歯車にはなれない。
誰もが拒否反応を示してやまない、もはや狂気とも言えるほどの、人間性を否定するレベルでの職務への徹底。
そこまでする必要はない。
しかし、そこで受け入れられるかどうかで、異物であり続けるか、同化し得る存在であるか、が別れてしまう。完全に分かたれてしまう。
もちろん、人は職業そのものではない。職場と一体化すべきものでもない。
だから、異物であり続ける方が人の全うな感情としては正しいのだろう。今もそう思う。
しかし、異物であればいつまでも異物のままで、職場にはそぐわない場違い感を覚えたまま生きていく事になる。
その一方で、だからといって仕事や職務や職場と一体化するような共同幻想を抱けるほど、人は無機質ではない。
だからこそ、職場で熟練者から見せ付けられる職務への異常なまでの徹底ぶり、その受け入れがたい狂気をこそ。
少しずつ時間をかけてゆっくりと受け入れてゆく事こそが、職務従事者としての慣熟への道なのではないだろうか、と考えている。
どんな時でも笑顔で、愛想よく。モンスターにもにこやかに対処。タガの外れた依頼にも喜んで応え、相手の望む結果を導き出す。
3年目は拒絶しかなかった。
5年目は徐々に狂気を受け入れてゆく恐怖に苛まれていた。
7年目には、すべてが変わった。
時計がゆっくりと出勤時間を指し示すと。今日も私は心の中で叫ぶ。
(ペルソナァァァーーーー!!)
と。
自分はプログラマーで、多くのプログラマーと同じように、コードを書く行為そのものが幸せであり、いつまでもコードを書いていたいと思う。
だが30を越えて、今までいくつかの会社でサラリーマンエンジニアとして働いた経験を総合するに、
少なくともこの国でプログラマーで居続けるためには起業する以外の選択肢は無いのだという結論に至った。
普通にコードを書いて、スキルを磨いて、リリースを成功させていくと、やがて肩書きがついて雑務に振り回される日々が訪れる。
プログラマーにとって何よりも大事なのは連続した集中、それも出来るだけ長い時間だ。
昇進して部下が出来たり、質問される機会が増えたり、評価業務やら、上級職会議やら、採用面接やら、一つ一つは大した事が無くても、
出社時間は気が付けば断片化して切り刻まれ、一日に一時間続けて集中する事すら困難になってしまう。
もはや一日中コードを書き続けるような事は遠い夢になり、腕は鈍り、ますますコードからは遠ざかる。
これまで、本当に多くの人がそうやってコードを書かなくなり、緩やかにピーターの法則に吸い込まれていくのを目にしてきた。
そしていつしか、コードは昔取った杵柄を披露するだけのオモチャになり、やがて家族なんかが出来て、どうでもよくなる。
それはそれでいいだろう。
だが、どこまでいこうが、自分が書きたいのはパワーポイントやエクセルや論文などではない。実際に動いて、問題を解決するコードなのだ。
フリーランスになる事はこの問題を幾分か解決するが、下に述べる他の要因によって最善手ではない。
単なるテキストの塊から、継続的な自動化を行い、マシンの集団を操り、物事の新しい側面を露出させ、市場と金を生み出すことだ。
しかし、サラリーマンエンジニアであろうとする限り2000万円の年収を越す事はほとんど想像出来ない。
プログラマーとして平均の20倍の生産性を叩き出したとしても、報酬には重いフタがのしかかっている。
同じようにレバレッジを利用する投資銀行やらコンサルタントやら、金の流れを直接扱う職能に比べて、ソフトウェア開発者は恐ろしく不当に評価されている。
だが、結局プログラマーはプログラミングを書いていれば幸せなのだから、そのように容易に搾取する事が出来る。
一年後の状況すらまるで読めないこの業界では、学習を止める事がそのまま死に繋がる。
しかし、エンジニアのあるべき姿としてのスペシャリスト信仰のようなものは根強い。
ある技術に特化して一線に身を置く事は極めて重要ではあるが、技術が発展する限り、どのような専門知識も価値は保証されない。
しかし同じ場所に居続ければ、新しい技術を習得したり、全く関連の無い分野に挑戦することはいつしか"若い衆"の役目となってしまう。
挑戦や学習が趣味の領域に追いやられた時点で、エキスパートは本当に脆い存在になる。
そして、30代、40代、50代となって、エキスパートとして食わせてもらう以外の在り方もまた、想像出来ない。
独立がリスクであるように、全てのITエンジニアが置かれたこの状況もまた同じようにリスクであって、どちらにせよ誰も責任を取る事は出来ない。
エンジニアがエンジニアであろうとする限り、やる事は結局のところ他人の問題の解決だ。
相手が解決しようとしている問題を推察して、それに合わせてキャリアやらスキルを設計することになる。
どこか知らない所で仕事が作られ、それに合わせて自身を適合させていく。
どんなに有名で優秀な人間が集まるところだろうが、その構造は基本的には変わらない。
日本の大卒者は社会に出るまで、一貫して他人に選ばれるために他人が定めた問題の解決をする努力を強いられる。
だが、実際にやってみて本当に実感するのは、自分の夢を追うのは他人の夢を追うよりも一億倍やりがいがあるということだ。
面白い仕事を探して選ばれる事を願うよりは、自分が面白いと思う仕事を作って食えるようになった方が楽しい。
何よりもコードが書けるし、どうせいつかは死ぬわけだし、百万年も経てば全ては元通りになる。
まとめると、プログラムを書きまくり、能力に見合った報酬を求め、新しい分野を学習し続け、面白い仕事にありつきたいという願いを叶えるための手段として、
サラリーマンやフリーランスという生き方は絶望的に効率が悪い選択肢という事だ。
各種手続きやら事務やらのおまけは付くが、それすら問題解決の対象として、新しく学習していける限り楽しむ事は出来る。
なんといっても、プログラミングが好きなプログラマーというのはこの世で最も幸福な職業なので。
反応を見ていて、ちょっと言葉が足りていなかったり誤解を招いている部分があったような気がしたので、少し蛇足します。
どうも起業という言葉には一種のアレルギー反応みたいなものが有るように感じられますが、
僕が知る限り起業というのはある種の書類上の手続きを漠然と指すだけのものであって、
人を雇う事や、金を集めて大々的に事業を起こす事そのものを意味するものではないです。
個人事業主になってスタバでアプリを書いたり、手続き上の法人を作ったりするような話から始まって、要は雇われる以外の道を模索するみたいなことです。
仕事の対価を求める限り、結局解決すべきなのは他人の問題であり、最終的にそこをゴールにしなければいけないのは勿論同じ事です。
ただ、"他人"は雇用主や受注先だけではなく、ユーザーという言葉に置き換える事も出来ます。特に今の時代は。
そうした問題設定の起点を自分自身でデザインして定めるか、誰かに定めてもらったものを選ぶかのどちらかで言えば、
自分で定めた方がチャレンジングで面白いと感じられますし、実際にやってみない限りはその能力を鍛える事は出来ないと思います。
どんな形であれ、平均的には"起業"は失敗する方に賭けた方が勝ちます。
ただ、成功するとか失敗するとか、金持ちになるとか破産するとかは基本的にどうでも良い事であって、
現実を思い知り、おそらくは軽視していた営業や事務の重みに押し潰されつつあっても、
それ自身を効率的に肌で学ぶのはやはりやってみない事には分からなかった事で、そういう経験が得られれば良いものだと思います。
それに別に失敗したところで間抜けが地球上から一匹削除される程度の事で、どの道取るに足らない話です。
そうした事をどうでもいいと思わせる程、プログラミングは楽しいものです。
この話はプログラマーから見た効率の話で、実際に企業にあってもこうした事は問題にならず、幸せにコードを書いている人は一杯居ると思います。
ただ、本当に選択肢が無くなる前に、何らかの行動を自分から起こせ、守る者も少ないうちはそういう道に走った方が妥当と感じたという話です。
それに、そっちの方が面白くないですか?
色んな人やテキストがこの手の話をしますが、自分は実際にやってみて、本当にこれが面白いものだと納得しました。もちろん誰にも勧めはしませんが。
念のため
この記事はあくまでプログラマーが起業に追い込まれるだけの理由について述べただけで、
追い込まれた結果としてどのようなビジネスモデルや、ロードマップ、資金繰りに行き着いたか、誰のためにどのようなリリースをしなければならないのか、という話ではありません。
自分自身はまだそれについて書けるだけの材料も資格も無く、現在進行形で自分の金と体で実験をしているようなところです。
うまく生き延びたら、いつかその続きを書きたいと思います。
2.「グローバル化で俺らの代わり増え過ぎじゃねーの?それも加速してね?」
3.「職能の陳腐化早くね?ハンパなくね?昔はジジイになればなるほどスキルアップみたいな夢持てたけどさ、今やばくね?」
別に起業家批判してねーよ。ただ、オマエら起業家になれねーよ。俺も含めてな。労働法に守られてるんだよ、組織環境に守られてるんだよ。俺らはさ。
ってことを俺らのチッセー頭で考えた時に、結論、俺らはゆでがえるなの?
起業家は大好きだよ。尊敬もしてる。でも、これからの起業家が人を採用するかな??
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakaharajun/20140304-00033199/
1)聞かず屋
・とにかく人の話が聞けない
・聞いているようで全く聞いてない
→聞かず屋の職能が高くノウハウを持っているのであれば話を聞くべき。
2)評価屋
ないしは、その発言を、その場で「評価」してしまう
・「それ違うね」「ま、正しいと思うよ」と言ってしまう
→評価屋の分析力が高く、間違っている理由や正しい理由を論理的に説明できるのであれば話を聞くべき。
なんとなく間違ってる・正しいと言っているのであればメンバーから外すべき。
3)目立ち屋
・とにかく自分を「ビック」に見せようといきり立つ
・いつも「前面」にでてくる、前にたってる
・とにかく声がでかい、信じられないほど声が通る
→目立ち屋の職能が高くノウハウを持っているのであれば話を聞くべき。
4)否定屋
・敢えて、ネガティブなことを口にして、人を巻き込みグループを崩壊に持ち込む
・この場の存在意義を根底から「ちゃぶ台がえし」する星一徹的キャラ
・パワーが低いときは「すね屋」ともいういつも「すね」たり、斜に構えている
→否定屋の分析力が高く、ネガティブになる理由を論理的に説明できるのであれば話を聞くべき。
なんとなくネガティブなことを言っているのであればメンバーから外すべき。
5)断言屋
・他人が何を言っても、必ず「断言」でかえす
・全く「議論」や「対話」の余地がない
→断言屋の職能が高くノウハウを持っているのであれば話を聞くべき。
6)携帯屋
・いつも「携帯」を気にしている
・グループワークの時間に「RT」やら「いいねボタン」を押しはじめる
7)あさって屋
・議題やコンテンツと、常に違うことを口にする。
・常に「口に出す話題のベクトル」がズレており、「あさって」である
8)詳細屋
・臨機応変をもっとも嫌うので、なかなかグループワークが進まない
会議に参加する必要の無いルーチンワークに向いた人材なのでそこに回すべき。
9)意図読み屋
・ファシリテータ側の意図を、常に、先読みしてくる
・こちら側の度量や力量を、常に「試し」てくる、別名「試し屋」
「メンヘラは救えない」とか言う奴
きっと本当は寂しくてしかたがなくて、誰かの好意を餌食にしてやりたいとか、傷つけてやりたいとか、泣かせてやりたいとか、そんなドス黒いことばっかり欲しているくせに、誰かを傷つけたり泣かせたりできることで自分にも価値があることを確認したいくせに、「もうそういうのはやめたんだ」みたいな面をして生きていくことに腐心している。
すげー正直ー!と好感を持った。
男相手には母性を、女相手には父性を演出し、相手を子供に戻して主役にして話を聞いて理解者を気取り、相手が私で寂しさを埋めることに依存し始めたら飽きて、興味の対象は別のカモに移る。新しいカモ相手にまた理解者を気取りつつ、飽きられて傷ついている旧カモを遠目に観察して楽しむ。これを繰り返してきたので非常に共感した。ただ「私は人を傷つける能力がある!」ということを繰り返し確認したいだけだった。給与明細を見て「私はこれだけの収入を得るだけの職能がある!」という確認をするのと同じ。最後の方は「元々メンヘラではなかった人をどれだけメンヘラ化させ、どれだけ深く傷つけることができるか?」という能力ブラッシュアップの方向に突き進んでいた。一見健常な人にも"小さなメンヘラの芽"的な部分はあったりするので、それを見つけて育てた上で放りだす。
メンタルの不安定な人の弱さに浸けこんでセックスしたり、さんざんメンヘラの人を食い物にしておきながら後で関係がこじれて面倒になってから手のひら返したように「これだからメンヘラはこわい」とか言う男は死ねばいい。
これ、まつたけさん、やれるよね能力的には。「僕はやれるのにやらないであげているんだ!」っていう驕りがあるから腹が立つんじゃないの?
だから別にはじめからこっちのほうでなにも期待してないし望んでないし、むしろもっと言えば多分メンヘラの人たちのほうでそういう人たちにはわざわざよけいな口出しをしてきたり大きなお世話を焼かれたくないと望んでいる人って多いと思うから、変に「どれ、このしょうがないクズ共を俺様が救ってやろう」なんてクソ迷惑でしかない「善意」や「慈悲心」など起こされず、最初からおとなしく関わったりしなければもっと平和な人生が(お互いに)送れると思いますよ。
期待してるし望んでるくせに…。より上手く隠蔽する方向に進んでいる限り、カモにする・される関係から一生抜け出せないと思うよ。根治は不可能だと考えるのはそう思いたいだけ。カモにする感覚、優位に立つ感覚、「僕はやれるのにやらないであげているんだ!」の気持ちよさを手放したくないだけ。
たしかに院卒であることが必須だったりするような世界では、趣味とはいえないかもね。医者になるには医学部必須みたいに、好き嫌いに関わらず、その方面に進むためには通らざるを得ない道という意味では。
でも、その他の世界、つまり院卒であることが必須ではない世界の方が圧倒的に多数派でしょ。院なんかだと、わざわざアフリカみたいな辺境に行ってフィールドワークとかしたりするけど、ただ単にそういうのが面白そうだからやるだけで、別にそれが将来の職能のために必須だからやってるわけじゃない。だとすると趣味っていってもいいんじゃない?
別に趣味だからといって悪いっていってるわけじゃないし、修論書きあげたってだけで、がんばったんだな~って思うよ。でも結局趣味系の「○○検定」の1級もってます!ってのと同じようなもんじゃないかってのはいつも思うね。
1)使用言語を日本語に入れ替えて、国籍居留地を日本に入れ替えた、インド国立大学教授経験者の(=その能力を持つ)Aさんが日本で就職した場合その年収はいくらであるべきか?
2)使用言語をヒンディー語に入れ替えて、国籍居留地をインドに入れ替えた、日本ではコンビにバイトだった(=その能力を持つ)Bさんがインドで就職した場合その年収はいくらであるべきか?
もし1において生活レベルが上昇したのなら「国際労働市場において先進国は途上国を搾取していた」ってことだし、
もし2において生活レベルが低下したのならば「Bさんは日本の制度に保護されてたけれど過剰な報酬を得ていた」ってことでしょ、という話。
そうかぁ?そんな単純な話かね。
国の状況や文化によってどんな種類の能力が重要視されるかが違うってことは十分ありうるんじゃねーの?
たとえば、発展過程の建築ラッシュで有能な建築士がすげー高待遇になる国があったとしてさ、それで2の比較でそっち行った方が生活レベル上昇したからって
髪を切る習慣のない国がアフリカかどっかにあったとして、その国に行った床屋が食えなくなるのが「制度に保護されて過剰な報酬を得ていた」ことになるかい?
その比較で「先進国が搾取」だの「過剰な報酬」だのって言えるためには、同じ職能がどの国の社会にも同じ価値として受容されるっていう前提が必要だと思うけど
現実問題成り立たなくねーか。そんな前提。
こんなとこでクダ巻いても意味ないんだけど、煽られちゃった。
言いたいことわかるけど、エロ編はバカにしちゃーいけないよ。
借りポジ本ばーーーーーっかで、しかも、自分に自信がないから既刊本の成功例を寄せ集めた無難な丸め方しかできないくせに、さも企画編集した満足感で満たされてるっつー出版点数ノルマ達成したいだけだからと開き直りの境地にも到達できない、中身が全然ないパクり丸出しで恥の概念が瓦解している実質編集ワナビー系スカスカ脳ミソのエロ編が携わったなんとも後味が悪い工夫ゼロのエロ本が世の中に氾濫してたりで、エロ編全体が(社会的地位という意味じゃなくて)職能や仕事の詰め方で訝しがられても仕方がないっちゃーそーなんだけど、実際はね、でも、詰めてきっちりやってる人も割合いるんすよ。別にエロ本自由区みたいに派手でキャッチーでクリエーティブでサブカルチャー!みたいなものも今でもあるぜってのだけじゃなく、オーソドックスな編み方で地味でパッと見ありふれてるけど、予算と時間のがんじがらめのリミットの中で考え抜いていて、ドグサレ必滅エロ本と同時に読み比べると全然没入感違うわ、没入難易度超低いわなんて感慨をきっと抱いてもらえる、林立した性的指向の個別性プロブレムをかいくぐりながら最大多数をセックスファンタジーの奥地へ障害なくスムーズにアテンドするように設計されている無味を追い込んだ超絶技巧なやつもひっくるめて、やっぱ初期衝動を保ち続ける困難な自己管理に基づいたプロの編集力ちうのは、あたりまえだけど、低減傾向ながらも、エロ本の世界にもあるわけでして。そういうのが受け手にきっちり届いていないのは、編集のプロたちも時代の流れで産廃化してたり、編集やPRやエロ出版全体の読者教育(いいエロ本を見抜く目を養う)の努力と実力不足もあったりなんでしょうけどね。うん。
ホント言いたいことはわかるし、とにかくダメな方のエロ編出身のニュースサイター編集を沢山見てきたんだろうけど、エロ編ってひとくくりにしないでほしいのー。どうせひとくくりにするなら元旅行系ムック編集とかの方がいいんじゃないの? …と言ってみました!
http://anond.hatelabo.jp/20130510163712
労働基準法などの労働法を遵守した契約であったかどうかが争点となる。
「労働者には契約内容を判断する能力がなかった」かどうかは意思能力の有無が争点となる。
「労働者は騙されて合意した」かどうかは詐欺であったかどうかが争点となる。
契約の内容による。就業規則・労働契約において職能給による給与決定が定められていた場合に争点となり、職務給や業績給などそれ以外の場合は争点とならない。
市場原理に基づくので、賃金が低い企業は外部競争力が小さくなる。
「ウサギィの問題でなく論点であるところ」「ウサギィの問題でなく論点でないところ」は一般論か妄言なので取り上げることはしない。
個人的には、第一に「ウサギィの問題であり論点であるところ」の解決は法的に図られるべきであって、インターネットで論じるのは無意味であり、第二に「ウサギィの問題であり論点でないところ」は一意に解決される性質のものではないからインターネットで様々な見解が出る価値があるが、あえてウサギィと結びつけてどのように論じるかは後述の毀損の問題から注意すべきである、と思っている。
もちろん、これは無意味だから論じてはいけない、これは論じてもよい、などという主張はあまりに空疎な論説でそれこそ無意味であるが、懸念はどちらの場合でも論じ方によっては毀損に発展することである。特に最近は一部で議論が雇用問題から悪意に満ちたウサギィ叩きに変質しつつあるのが気がかりで、このままウサギィの名誉を著しく貶めるような言い回しだけが先鋭化すると要件としては重くなってくるのではないだろうか。名誉毀損は一種の逆ギレであるように捉えられ軽視されがちではあるものの、事実の指摘であるから問題ない、という立場は少なくとも名誉毀損の考えを理解していないんじゃない?かな?
志村けんのTV番組で、裸の女性が何人も温泉につかっていて、そこに主人公が一緒になって入る。それを見て、たまらなく下半身が膨張した。俺も一緒に入るところを想像しながら、夜、布団にこすりつけた。妄想の中で、クラスの可愛い女の子5人ぐらいと住むための部屋をつくって(ドラえもんの秘密基地みたいなやつで、小部屋が6つあり、中央がいわゆるヤリ部屋)、全員裸で暮らしていた。もちろんまだセックスがどういうものか知らない年齢だったので、裸でお互いの体をまさぐったり、キスしたりする程度の想像。いつかこういう場所で、女の子とたくさんイチャイチャしたいと思った。こういう部屋のことをハーレムというのだともう少し大きくなって知った。
はてなのよくある匿名日記と違って、今から話す話は、何かの共感を得て「よし明日から実践しよう」だとか、最初はダメだった作者がWEB関係で頑張って今は人並み以上ですだとか、色々あったけど明日結婚します、だとか、そういったスッキリするようなオチはありません。むしろ、スッキリしたいがために、これを書こうと思いました。
俺は今、無職の36歳で、独身、職歴多数、次に何をして食べていけば良いのか途方に暮れている。特別な職能もなく、その前に「夢(やりたいこと)」がない。
みんな夢があって良いな、とまず思う。こういうのやってみたい、こういうプログラム勉強したい、ネットでこういうサービスを作り出したい、そういうのがまるでない。今日はお鍋にしよう、という程度の軽いノリでも思いつかない。
もっと若い時、たとえば25歳ぐらいだったら、そういうノリで何かの夢を見れたのかもしれない。36歳。自分の向き不向きや、世界の辛さや、お金のために仕事することや、家族のないさみしさや、いろんなことを知ると、身体とは裏腹に心が重くなり、行動に移す前に、その夢想すらしなくなった。
そう考えていて、もしかしたら夢をかなえたから、次にやりたいことが見つからないのでは、と思った。スポーツ選手が夢をかなえて引退するみたいに。俺の夢は、ハーレムをつくること、たくさんの女の子とをセックスをしまくることだった。
童貞を卒業したのは大学3年の夏、21歳だった。やらずの二十歳で、相当こじらせていたんだと思う。ハーレムを作りたかった少年が、実際にセックスするまで10年以上かかった。
セックスを知ってから、ほぼ毎日、やりまくった。最初に付き合った女の子もセックスは嫌いではなかったから、会ってる時間の半分以上はセックスに費やした。その子と別れてからも、たくさんの女子に出会ってやりまくった。1年間に12人の女性と付き合ったこともあった。その時期から、いろんな女の子と付き合えば付き合うほど、心が重く苦しくなっていった。水中で酸素ボンベなしで泳ぎ続けるような感触。早く水面に上がった方が良いのに、20代の性欲のせいなのか、さみしいからなのか、俺はずっと潜り続けていた。でもこんなことを繰り返しても空しいだけだとはうすうす感づいていた。
仕事はどれも長続きしなかった。最長で3年。やりたいと思った仕事についたりもしたけど、諸々の事情で転職を繰り返してきた。俺に辛抱が足りないのも分かっている。ブラック企業ばかり経験したせいもあって、人の出入りが激しくて、辞めることに抵抗はなかった。
仕事はなくてもセックスがあったから、俺はひたすらやりまくって20代を終えた。同い年の友達が定職について、結婚して家族を作っていく中で、30代の半ばになった。
ある時、性欲がなくなっていることに気がついた。
広義の意味での性欲はもちろんあるんだけど、20代の頃のように何が何でもこの子とやりたい、というような強い欲望が微塵もないのだ。「歳のせいだよ」と言えばその通りなのかもしれない。でも、性欲のみを頼りにして突っ走ってきたから、それを失った今、何を目標として生きたらいいのか、日々の生きる希望がなくて、途方に暮れている。
小学生の頃の夢だったハーレムは、20代で実現していたのかもしれない。出会った女の子を口説いて、セックスする。申し訳ないけれど、最初は、女の子は言葉は悪いけれど今よりも「モノ」に近い感じだ。いやたぶん女の子が「モノ」というよりも、人間全部を「モノ」と思っていた。それは心の繋がり、相手を理解したい、相手の未来をちゃんと考えたい、といった想いが薄かったという意味での「モノ」表現だ。
ただヤル対象だった女の子が、20代後半から割りと真剣に付き合うようになって、同棲して、将来この子と一緒になるのかなと思った時期もあったけど、別れて、また違う誰かと付き合って、そうこうしているうちに、36歳になっていた。
オナニーはする。今は無職だからほぼ毎日。でも、生身の女性と関係を持ちたいとは思わない。思わないというか、持つまでの面倒くささ、持った後の面倒くささ、そういったものが大きすぎて、口説こうという意識が持てない。「セフレで良いじゃない」セフレだってしんどいよ、心をまったく無視して「モノ」みたいに扱えれば楽なんだろうけど、もうそういう気持ちにはなれない。綺麗ごとではなく。誰かと関係を持つというのは、誰かの世界を共有することで、その重さを持つのはかなりのパワーが必要なんだ。
夢はかなわない方が幸せなのかもしれない。
かなってしまったら、もう目標が無いわけだから、あれほど自分を突き動かしていた衝動がもう起こらないわけだから、毎日が凪みたいなもので、重苦しい朝を迎えて、ため息をつきながら起きて、公園に出かけて、ボーっと座ってる。精神科にも行って抗不安剤を処方してもらったけど、結局、未来を、道を決めるのは自分自身だから途方に暮れている。
織田信長の時代、人生50年だったら、このまま御隠居さんとしてあと15年ぐらい縁側で盆栽いじって若い人に「おなごを口説くとは」と講釈たれて生きておしまいにできたのかもしれない。でも、残りの人生、平均寿命が70としたらあと35年以上あるのだ。俺が生きてきた歳と同じだけの時間。長すぎる。
セックスさえ考えていればよかった時代は過ぎた。ハーレムはもう夢じゃなくなった。俺の次の夢。生きる目標。そんなもんなくたって、金が無くなれば食うために何かしらの仕事につかなきゃいけないわけだし、そうなるまでの、あきらめがつくまでの期間だってことも、薄々感じてはいる。
でも、それでも、っていうところだ。
***
ここまで長文を読んでくださった方がいたらありがとう。最後に。ここまで読んでくれたんだから、タメになることも書かないといけない気がした。たぶん若いころの自分がこれ読んだら、聞いてみたいこと。
「女の子にもてたいんですが、どうしたら良いですか?」
これだけです。
これは俺が師匠と仰ぐ人生の先輩がいて、その先輩曰く、片手間でもてたい言うんじゃない、と。「俺はもてるために24時間365日費やしてる。高校球児が全てをなげうって甲子園のためだけに白球を追いかけてるぐらいの意気込みで女を口説かないともてないよ」と。俺は納得して実践してある程度成果を出したし、たぶんきっと夢をかなえる近道というものはないんだと思う。夢さえ見つかれば、それが心底かなえたいと思う夢なら、きっとかなうよ。
心理カウンセラー、占い師、クラブのお姉ちゃん。俺の中では全部同じカテゴリ。
クライアントの話を聞いてそこから悩みや問題を引き出して解決のための助言を与えてくれるという職能。そして料金的なことも、人によって技術の差や当たり外れがありすぎるところも大体同じ。大学病院の臨床心理室や、メンタルクリニックのカウンセリング、占い館みたいなところにも行った。
抗うつ剤も抗不安薬もずっと飲んでて効果があった気がしたことなんか一度もない。カウンセリングでも、心理検査とか絵描いてなんか分析するやつでも、役に立つフィードバック返してくれたことなんかない。おうむ返しみたいないかにも教科書通りの喋り方してきやがって、お前は馬鹿か?何日も前から予約とって一時間一万円とか取られて、すぐに効果があるわけないよなと思いしばらく通ってみたけど、心底馬鹿らしくなった。認知行動療法の本読んで自分でやってた方がよっぽどましだと思った。
俺は孤独で話を聞いてくれる友達もいなくて、ちゃんと話せる相手が欲しかったんだ。占い館みたいなところへも行った。雑居ビルの一角で、ブースに仕切られたところに所属する占い師がたくさんいるところで、周りは女子高生とか女ばっかりだったが、受付でチケットを買って占い師のプロフィールを見て希望の人を指名するシステムだった。占いの技術とか一切どうでもいいから、楽しくおしゃべりできそうな若くて好みの顔の女の人を指名した。名前もたまたま前に一瞬付き合ってた彼女と同じだったりして、実際に会ってみても結構タイプだった。さすがに話はうまくて、こっちが話したいような話題をちゃんと引き出してくれるし、タロットとかそういうのもまあまあ面白かった。個人の携帯サイトを教えられた。そのうち新しい試みとして、一か月間メールで何度でも相談に乗ります、みたいな商売を始めたので、へーと思いつつ振り込んでみた。その頃は本当に俺の症状が酷くて気力がなかったから、最初何度かメールしていたが面倒になってやめてしまった。その時は一月で一万円か5千円払ったかな?占い館はもっと安くて一回二千円とか三千円だったと思う。
そういえばその前にもっと小さな占い館にも行ったんだった。「元気が出る」みたいな看板で宣伝出してたから、足を運んだんだけど、その看板の男性の占い師は不在で、代わりに新人みたいな陰気くさい顔のでかい女がいた。木の扉を開けてみたらランプみたいな照明で雰囲気出してて、伏し目がちで気持ち悪い笑いしてるから、マジでモンスターかと思ったよ。ダンジョンか、って。俺武器持って入らなくて大丈夫?って。で明らかにダメそうな感じだったけど一応せっかく来たから受けてみたの。タロットかなんか手に探り探りなんか話してくるんだけど、俺が見てても自信なさげだし、説得力ないよなって感じで。大学の人間関係で悩んでてとか話してみても、「クラスの人と友達ができないんですか?」とか聞かれて、いや大学にクラスとかねーだろ、と。まあ同じ授業の学生をクラスと考えても、この人は人になんかアドバイスするにはモノ知らなすぎるんじゃねーの?と思った。30分嫌々話して3千円とかだったと思うけど、あまりに酷かったから値切ったもん。「いや、今ので3千円はちょっと納得できないんですけど」って。まあそういう仕事だから、俺も話聞いてもらったからというか、全く払わないのもあれなんでたぶん千円負けてもらったんだったと思う。
それから数年あって、なんか俺はまた一つ挫折して。人生に絶望していて、毎日いつどうやって死のうか考えていた。でも死ぬ前に、綺麗な女の人と喋ったら元気出るかもしれないと思って、綺麗なお姉ちゃんのいる店に行こうと思ってネットで探した。といっても、安いキャバクラなんか行っても、別にギャルは嫌いじゃないけど、頭の悪い女と話題もあうわけないし、こっちが機嫌とったりしなくちゃいけなくて何も楽しくないだろうと思っていたので、そういう店は対象でなかった。昔、性風俗産業の女の人とメール交換したこともあったけど、そのときはそういう店も違うなと思っていて。ハプバーとかSMクラブとかも探したけどどこもピンとこなくて。たまたま何かのリンクを辿っていったら雰囲気の良さそうな店を見つけた。
そこは一発めで見つけたすごくいい店で、女の人もみんな美人でファッションもとてもセンスがあって。その店の一人の女の人に一目会ったときからすごく惹かれて、行く度に話し込むようになった。その店に行くのが楽しみで気力も少しずつわいてきた。気持ちの不安定なときは閉店までいて泣きついたりもした。最初は覚えてもらうために連続して行ったりしたけど、お金も続かないし何週間かあけて行くようにして、数ヶ月通った。ついにその人とデートするようになった。俺は水商売の女の人に騙されてるんじゃないかと疑心暗鬼になったりもしたけど、ご飯とかホテル代とかも俺が出してもらってることの方が多かったので金目当てで付き合うメリットもなかった。
彼女が自分で手がけているビジネスの話を聞いて、その生き方にも惚れた。彼女はモデルみたいなこともやっているし、美人で、正直言って男なら誰もが振り返るようなエロい身体をしている。今までにしたことないようなエロいこともたくさんした。彼女とは箱根や京都にも一緒に行ったし、新幹線の中でやったりもした。俺が全然名前も知らないような店のおいしいチョコをもらったり、いい店に連れて行ってもらったりした。別にセックスが目的で付き合っていたわけじゃなくて、俺は彼女のことを尊敬していたし、本当に好きだった。彼女に見合う男にならなければいけないと思った。彼女に言われて俺はちゃんと働くようになったし、未来に向けての計画も設計するようになった。
なんでそんないい女と俺が付き合えたのかは正直よくわからない。当時からわからなかった。俺はイケメンじゃないし、しゃべりもうまくない、オタク気質の引きこもりだ。本当に、二十歳過ぎて童貞だったし。彼女とのセックスの相性はすごく良かったと思うけど。今もどんなポルノビデオよりもエロい、彼女とした動画や写真が手元にある。
でも結局彼女に振られた。彼女の仕事が忙しくなって、だんだんメールも返してくれなくなって。最初のうちは全然電話しない俺に怒っていたのに。これまでの日々はなんだったんだ。夢か?幻か?ステマでもネタでもねーよ。彼女と別れて、俺は再び孤独になって、自分のろくでもなさに絶望している。もう一度彼女と一緒に歩いていきたい。俺の依存体質がいけないとはわかっているけど、別れてから今までやれるだけ頑張ってきたけどやっぱり辛いよ。
職場が合わず、休みが増えて、最大14万の手取りが9万円台になることが続き、
貯金も底をつき、さらに休みが増え、ついには全く職場に行くことができなくなって2週間になる。
社会人の肩書きを失う踏ん切りがつかず、まだ辞めては居ない、しかし出勤できない。今は休職扱いになっているのだろうか。
とにかく金がない。あても無い。
今のこの会社でやっていくのは無理だと思い始めた昨年末から転職活動をしているが、20社以上受けたのに落とされている。
足りないのは職能であると思う。大学で学んだことは何一つ役に立たなかった。
若い頃にもっと将来のことを考えて学部を選ぶべきだった。後悔先に立たず。
スパゲッティばかり食っており、野菜がほとんど食えていないので、この状況が続くと健康にも影響が出て、事態はより悪化しそうだ。
求職者支援訓練というものがあるらしい。無職でも自己負担額1万円強でウェブデザインやプログラミングを学ぶことができ、
月額10万円の生活費が支給されるのだそうだ。ぜひ利用したい制度だ。
しかし求職者支援訓練の対象者は雇用保険の受給資格が無い失業者のみ。
雇用保険に入っているのでこの制度は使えない。失業給付の11万5千円がもらえるだけだ。
そして失業給付は失業から三ヶ月後からしかもらえないので、来月から三ヶ月間、貯金ゼロの無収入になる。
完全に詰んだ。ガスと水道は払えたが、スマホと電気代は払う金が無いのでいつとめられるかもわからない。
http://anond.hatelabo.jp/20121228030144
企業にとっちゃ仕事ができさえすればそれでいいのよ。利益追求団体なんだからな。
だから新入りを採用する時も、意識だの志だのどうこう訊かれはするが、結局は仕事できる能力のあるヤツを選ぶ。選ばざるを得ない。
なのに、「仕事をこなす能力のある人」ではなくて「意識の高い人」が求められる人物像として求人票に書かれてるのはつまり、
“お前、この会社に入ったら相応の演技力も求められますよ”っていう意味なわけよ。
でいきなり話は飛ぶんだが、ペルソナ、っていう言葉がある。(ゲームの方が思い浮かぶかもしんねーけどさ)
心理学用語でいうところの「ペルソナ」という言葉には「職能的仮面」という訳があてられている。
このペルソナっつーのは、要するにその人が仕事をする上で意識の上に纏う仮面、みたいな意味があんのよ。
で、その仮面っつーのは要するに、実際に仕事に就いて、仕事を経験して、その上で仕事に必要なんだけど素の自分には持ち得ないモノを理解し、それを仕事中身につけておく為にかぶっておくお面、てことな。
もちろんこのペルソナってやつは何も無いところから一から作り上げていくわけだから、あのゲームみたいに「ペルソナアアアア!」とか叫びつつこめかみを銃で撃ち抜いて意識を切り替える、なんて便利な事はできない。
畢竟、お仕事を仕事と割り切って淡々とこなす事ができる(仮面を持つ)ようになるまでは、相応の演技力が必要となってくるわけだ。
よくない。なぜならば、それは今度は円高になれば消えて飛ぶ帳簿上の利益だから。
実際は、海外への支払いはドルはドルで消えるし、円に戻さずドルのままという事も多い。
本当に円に戻したのか、それとも、決算対策で、為替だけやったのかわからんし。
単年度の企業利益だけみれば、その通りかもしれないけれど、企業の継続性をみれば、グローバル企業がシェアを落としたという事は
ドルベースでの収益性が悪化したということだから通年でみれば、悪い指標だろ。
経営とか、国家とかは単位が10年だから、10年先まで円安か・円高かなんてわからないから、シェアとか別な指標で見るしか無い。
毎年シェアを落とし続けているが、円安だからOKなんて話はない。何かの拍子に円高に転んだら終わるような経営を経営とは言わない。
そういう意味では部長の給料は維持されてもいいけど、決裁権限が不必要ということを言っているので、本来は降格されるべき。
で、降格しているのに、給料が高いというのもおかしいし、ようするに、組織構造が誤っているのを給料だけでどうこうするのはむり。
部長が4人じゃ決まるものも決まらないし、名ばかり部長じゃ困るし、働いてないなら給料は出せない。
実質と組織が大きく乖離してしまっていて、その乖離している原因が、金融政策。いくらなんでも、組織として必要な権限の問題が一連の政策でズタボロすぎ。
で、海外でシェアを落としている原因が、その決裁権限を含め、ものが決まらない日本体質といわれている。
だが、金融政策を続けられると、リストラが進行せず、結局、日本企業が危うくなる。
給料なんかは、維持してもいいが、職能や権限は現実的にしなければならず、実質、両立は無理。
唯一の手段は、いわゆる 団塊の世代が猛勉強して、海外に負けないリーダーに急成長することだが、それは無理だろ。
40・50の選手に いまから、頑張ってもらうんに、金融政策が必要だとは 到底思えない。
日銀は寝てろ
というんじゃなくて、猫も杓子も一律の金融政策はやめてくれと。
http://anond.hatelabo.jp/20120927125347
結婚を以て「子づくり開始します」の宣言と受け取ることにしてる。
うちのような10人もいない所帯の会社だと、育休で仕事がリアルに回らなくなるので
結婚した時点で、育休に向けてのソフトランディングの用意を始めないと間に合わない。
責任のある兌換の効かないフロント案件からは外せるものなら外すし、業務の内容を徹底的に精査して
個人職能に委託されている部分を減らせる限り減らす。(とはいえ、どーしても残るんだが…)
そもそも、女性を雇うということそのものが、会社経営にとってリスクであるということが厳然たる事実。
極めて話しやすい人であれば「子どもどーする予定?」って聞いたりして、ある程度業務の最適化を図ることもあるけど、
セクハラ扱いされちゃたまらないし、そもそも子どもなんて望んでなくてもデキるときにはデキるもんなので、
最終的にこうする以外に手がない。
「子どもは作りません」って宣言する人も稀にいるけど、それでも出来ちゃったパターンも過去にあったしね。
結局、既婚女性は仕事のメインストリームから外れて貰わざるを得ない。あるいは、業務のノウハウを徹底的に他の人と共有してもらうかだね。
でも仕事ってノウハウだけでやれるもんでもないし、やっぱほんとにどーしてもそうなる。
子どもを産み、育てるということは社会が負担すべきコスト、会社が潜在的に抱える「義務のある」コストだと思っているので
ほんとに、このあたりはこれ以上要求されても困るところ。
「子どもは生みたいですが、手持ちの仕事は一つも手放したくなく、自分のノウハウも他人に教えたくありません。」
こーいうひとが…いるんだなホントに。というわけで、結局「女は雇いたくねえ」になっちゃうんだよな。
何度も言うけど、俺は女性を雇って育休をきちんととっていただくことは、会社が社会に向かって負担すべきコストだと思ってる。
だから、そのための用意に関しては…ちょっと見逃して欲しい。もちろん、不満はわかる。でも、潰れちゃったらあなたの仕事もなくなるわけで・・。
社会に出てこないでください。大人しく生活保護を受けてください。
これ発達障害ってより知的障害では。発達障害って普通に心弱いし傷つくよ。そしてこんなに一途なソルジャーばかりじゃない。こんな出来る奴はごく一部のエリート。ホントの話か?これ。ソース出せよ。 2012/07/14
発達障害者は、定型発達者よりも人を傷つけやすいです。不快感を与えることも多いです。発達障害者同士でもそうです。
そのことを理解していたら、別の発達障害者から傷つけられたり不快感を与えられることも「お互い様」と受け入れられるはずです。
自分が人を傷つけることは許容して欲しい、自分が別の発達障害者から傷つけられるのは嫌だ、
この主張が許されると思っているのならそれは発達障害ではなく反社会性人格障害なのではないでしょうか?
tnakashi25
羨ましい反面、風呂くらい入れよと思った時点でこういう所では働けないんだろうなと思う 2012/07/13
他の発達障害者を理解できない、受容できないと感じるのであれば、
定型に合わせて生きていくことを目指すか、生活保護になるしか無いと思います。
ymrl
すごく幸せなケースだと思うんだけど、こういう世界を作ろうとすることでアウトサイダーをすべて救えるかというとそうではないよなーと思った。この人も認めているけど排他的な世界になってる 2012/07/13
"こういう世界"以外の場所はたいてい、定型発達者がつるみ、非定型発達者を排斥しています。
ここで出てきた「発達障害者ONLYの職場」は、職能が高いことと、他の発達障害者を受容することを条件にしてメンバーに加えることで維持されている場です。
多様性を認めるということは、様々な排他の仕方を認めるということなのではないでしょうか。
コミュ力至上主義の問題は、コミュ力の無い人間を排斥する組織が流行しすぎて、職能の高い非コミュの活躍の場が失われていることにあります。
コミュ力の無い人間を排斥する組織があってもいいのです。ただ、それが流行りすぎると問題だということです。
排他的な要素が無いというのは、その組織に入れる人を選ぶ際の基準が無いということです。選考をするなと言っているのと同じです。
この職場にはますますのご発展を祈るけど金にならない技能を持ったアスペのほうが多いんだよなぁって言う現実を考えてしまう障害者の親類です/身内じゃ気づかない長所を教えてくれるコンサルでもあればいいと思った 2012/07/13
生活保護の一歩手前の施設が出来ると良いですね。
現状、職業適性の無い発達障害者を身内に持つ家族には大きな負担がかかっています。
発達障害者を集め、専門家が職業適性を見出し、訓練を行って適切な職場を斡旋すれば充分に社会で活躍できる人と、
障害者が居ることによる負担を身内にだけ押し付けるのではなく、社会に分散させる仕組みを作るべきです。
おもしろい。けれど、これは知的に高く、二次障害も起こしていない幸福な人たちだからできること。発達障害の中には軽度~境界域の知的障害を合併してる人が少なくない。 2012/07/14
CIA1942
結果としてみんな幸せになれてるという意味で素晴らしい。/「障害」って言葉を使うからややこしくなるんであって、「この人はこういう人だ」っていう理解で進めばいいなあというか。 2012/07/13
「風呂に入ってくれないから、夏場は体臭が酷い」などの実害を無視していませんか?
軽い発達障害なら「この人はこういう人だ」も可能でしょう。
実際、軽度の発達障害者には、定型発達者ばかりの職場やコミュニティで受け入れられている人も多いですしね。
本当に何をするかわからない、彼がなぜそのようなことをしたのか理解できない…。
何度もそのような思いをし、実害も被り、逃げることもできない、そういう状況を経験すれば「普通」のありがたみを実感できると思います。