身近な社会人達が、いざ仕事となると、ガラっと表情を切り替えて仕事モードにシフトしてゆくのが不思議でしょうがなかった。
あのモードチェンジは、社会人になったら勝手に身に付くものなのだろうかと思っていた。
そして同時に、いつも心のどこかで冷めてる自分には到底真似できそうもないなぁ、とも感じていた。
同時期にペルソナというゲームが発売されて、心理学にペルソナ(職能的仮面)という概念定義がある事を知った。
ゲーム内では「周囲の社会という外圧に対抗する為に人が用意する、対外的人格にして心の仮面」というような説明がなされていたけれど。
実際は少し違って。
職能的仮面とは、職務に従事する際に人が守る一定の行動様式と、そこから定義づけられる合理的な実務性を有した、無個性かつ社会的な擬似人格。
だいたいそんな様なものだった。
セーブポイントまで三十分かけて急ぎつつ、社会人のみんなが使うモードチェンジはこれなのかな、と思っていた。
時を経て社会人になり、長い事仕事をしてきて今改めて思うのは。
“職業というのは一種の狂気であり、それを内包する事で職務従事者たり得る”という事だ。
人は生まれつき何かの職業にすんなり適応するようにはできていない。
業務への適応は、きちんとした教育と、長くたゆまぬ修練と、多彩な実務経験と、それらすべての慣熟によって成される。
しかし、どうしても受け入れがたい一線、というものは確かに存在する。
それは人が人である以上、受け入れてはいけない、受け入れる事のできないものであると言ってもいい。
人は、部品にはなれない。社会の歯車にはなれても、本物の歯車にはなれない。
誰もが拒否反応を示してやまない、もはや狂気とも言えるほどの、人間性を否定するレベルでの職務への徹底。
そこまでする必要はない。
しかし、そこで受け入れられるかどうかで、異物であり続けるか、同化し得る存在であるか、が別れてしまう。完全に分かたれてしまう。
もちろん、人は職業そのものではない。職場と一体化すべきものでもない。
だから、異物であり続ける方が人の全うな感情としては正しいのだろう。今もそう思う。
しかし、異物であればいつまでも異物のままで、職場にはそぐわない場違い感を覚えたまま生きていく事になる。
その一方で、だからといって仕事や職務や職場と一体化するような共同幻想を抱けるほど、人は無機質ではない。
だからこそ、職場で熟練者から見せ付けられる職務への異常なまでの徹底ぶり、その受け入れがたい狂気をこそ。
少しずつ時間をかけてゆっくりと受け入れてゆく事こそが、職務従事者としての慣熟への道なのではないだろうか、と考えている。
どんな時でも笑顔で、愛想よく。モンスターにもにこやかに対処。タガの外れた依頼にも喜んで応え、相手の望む結果を導き出す。
3年目は拒絶しかなかった。
5年目は徐々に狂気を受け入れてゆく恐怖に苛まれていた。
7年目には、すべてが変わった。
時計がゆっくりと出勤時間を指し示すと。今日も私は心の中で叫ぶ。
(ペルソナァァァーーーー!!)
と。
以上が患者の訴えです。