はてなキーワード: 気概とは
四日ほど前に文春によりお笑い芸人EXIT兼近さんの前科がすっぱ抜かれ、瞬く間にテレビやイベントの出演が取り消されていくのを悲しい思いで見守っておりました。
『少女売春斡旋』の凶悪な字面に「は!?!!?」と驚愕したものの、ふたをあけてみれば貧困層出身の少年が学のない状態で知らずに犯罪を犯していた、という切ない話で、少女と言っても当時の兼近さんと同い年の十九歳、売春斡旋といっても『あくどい商売してたヤクザから離れて個人的に売春してた女友達に用心棒を頼まれた』が内実らしく、刑も罰金十万円で済んだそうです。
その辺の詳しいことは文春本誌の記事に書いてあるのですが、いかんせん見出しがセンセーショナルでちゃんと読んでない人からすると「幼い女の子を騙くらかしてウリやらせてたのか?」と思われかねないのが辛いところ。
以下要約書いてくださった方のツイート。↓
https://twitter.com/exit_mochiP/status/1169368952213889025
なので兼近さん本人もこのことに言及するツイートで「文春を買って読んでください」って書いているのですが、そういうとこ、そういうとこだよ……!とこちらは複雑な気持ちで頭を抱えました。後述しますが彼はヤバいレベルにピュアです。敵の売り上げに貢献するな。でも多分敵だと思ってないんだろうな。
さて、この騒動は様々な要素が密接に絡み合っているため擁護派も批判派もその辺ごっちゃに主張し合い、収拾がつかなくなっているきらいがあります。
「今更生してるからいい」「過去のことでも罪は罪だからテレビ出るな」「イケメンだから馬鹿な女が擁護してるけど女の敵」「とてもいい人なので応援したい」「前科があるならいい人ぶるな」「おもしろくないから消えろ」「おもしろいから頑張って」「そもそも貧困の問題」「これだから底辺育ちのDQNは」etc…
その人によって何を重視するかは違いますし、この手の騒動によくいる『別に本気で怒ってるわけじゃないけど人気ある奴を叩きつぶしたい』層もネット上には多いのであちこちで大混戦ですよ。
とりあえず事実としては、『現状兼近さんは法的になんら問題ない状態』です。
謹慎も謝罪も引退も必要ありません。八年前に処罰されたことで問題にケリはつきました。それを不服としている被害者もいません。
にも関わらず番組降板が相次いでいるのは、世間の感情が彼を許せるか許せないかがわからないからです。
ツイッターを見る限りは擁護派がかなり多いんですがヤフコメとか掲示板などは批判派が多いですね。テレビ局やイベント主催者としてはクレームが来る恐れがある人間を使いたくないと思うのはしょうがない。しょうがないんですが、私としては、もうちょっと真摯に倫理について考えてほしいと思ってしまいます。更生してる人の芽を潰すのが世間の総意になっていいのでしょうか。
結局のところ法律でカタがついている以上、この問題を語るにはどうしたって感情論になるのでここからは私の主観フルスロットルでいかせてもらいますね。
まずね、彼の境遇を考えればあれが罪だとわからなかったのは無理ないです。
極貧家庭で育ち、飢えた時は妹とわざと雨にふられて同情したご老人にご飯をもらうという技でしのぎ、高校中退して働き、周囲の人間がみんな半グレ系で反社会的なことが当たり前になっていた、という背景があったうえで、十八の頃に風俗店に勤めだしたんですよ。
風俗店というのはお金と引き換えに人間(主に女性)の体を性的に扱える店なわけで、建前上は生殖行為そのもの(いわゆる本番?)はないということになっているものの、悩める青年に北方謙三が「ソープへ行け(そして童貞を捨てろ)」とアドバイスしたことが有名であるように、実際は売春が行われているわけです。
私は日本では売春は禁止されていると認識していたものですから、堂々と繰り広げられるその手の話がしばらく理解できなくて、いくつか風俗店レポを読んでやっと「要は売春なんだな!?」とわかったんですが、いまだに何故あれが正規の商売として成り立っているのか納得はいってません。
私はこの世で一番ダブスタが嫌いなので、税金を払ってる風俗店だろうが個人の援助交際だろうが売春を認めてはいけないと思っています(弱い立場の人が傷つきやすいから)。
しかし、風俗店が許されている世の中で、学のない風俗店勤めの少年が、個人売春をする少女を手助けすることが罪だとわからなくても責められないです。だってやってることほぼ同じだもの。
まぁ法治国家である以上建前は大事であり罪は罪なので、彼が罰を受けたことに異論はありませんが、同情の余地はあるでしょう。少なくとも痴漢とか強姦みたいな積極的性犯罪と同列には並べられません。
兼近さんの話では、捕まって初めてそれが悪いことなんだと知った、ということでした。二十日間勾留され、同じく捕まっていたおじさんに字を教わりながら又吉さんのエッセイを読み、芸人という仕事に憧れを抱きその後上京に到ります。完全に小説のあらすじだった。映画化もしそうなぐらいドラマチックな生い立ちと理想的な更生ルート。
私がディレクターなら「兼近はいい奴だから」とか「たいした罪じゃないから」などというたわけた理由ではなく、「更生しており倫理的に問題ないから」と堂々と表明して続投させます。流されやすい世間のイメージが気になるのはわかるけども、誰か一人ぐらいそういう気概と倫理観を見せて欲しい。
ただまぁ、元々ネタがちゃんとおもしろい人達ですから、劇場はやっていけるみたいです。
あと芸人仲間からの擁護が物凄い。こんなに擁護されてる人初めて見た。一度だけ取材した先の店の店主とか一度だけ共演した人とかたまたまちょっと話した人とかまで擁護してて、兼近さんの人に好かれる力半端じゃないなと思いました。うん、いい子だものね……。
兼近さんってよく『いい奴』『いい子』と言われますけど、それって普通に想像するような性格の良さじゃないんですよ。箍が外れてる。あれは正直正しくない域の優しさです。自分の身を守らないで愛を振りまいてるんですもの。そんなの聖人か狂人でしかないじゃないですか?
酔っぱらって道に倒れてた女性をベンチまで連れてって座らせてあげて、靴が脱げてたことに気づいて引き返して取ってきてあげていた、みたいなわかりやすい優しさエピでは伝わりきらないヤバさがある。
私は長く彼を見てきたわけではない大変ライトなファンなので詳しくはないんですが、それでも色々ファンの間で物議をかもした発言を存じております。
例えばEXITのイベントのチケット転売について「転売屋さんも生活があって頑張ってるから」とか、前述した「文春を買って読んでください」とか。
転売への最終的な対策は『とにかく席を増やして価値を下げる』『とにかくサインを大量に書いて価値を下げる』になるあたり、人を規制するより自分が頑張ればいーやという思考が見て取れて、マジで……そういうとこ……。
最たる『優し過ぎて怖い』エピソードは親との関係全部ですね。テレビではめちゃ美談にしてましたけど、あれ言ってないこと沢山ある。
お母さんとはまだわかります。子供が飢えてるのに見栄を気にしておばあちゃんに助けを求めるのを許さなかったとか、兼近さんが家に入れたお金を恋人に使ってしまったとか、ちょいちょいどん引きエピはありますけども、子供四人をシングルマザーが育てるのは大変だったでしょうし、兼近さんもトイレの鍵を全部閉めるみたいな悪戯をしてよく学校に呼び出されていたらしいので「なんだかんだで育ててくれた」という感謝があるのかもしれません。
でもお父さんは……なんだ? 早々に離婚して養育費も送らずクワガタに入れ上げてた人という印象しかない……。それで息子が芸人として人気になりそうになると現れて、ツイッターアカウント作ってEXITのファンとやりとりしてほかの芸人さんとも絡んで特に悪びれもせずにこにこしてるのなんなんですかね。FBに「大ちゃんが稼いだ金を総取りできる日はいつくるのか?」とか書いてるのシャレにならん。
大体の人はこの手の親とは自立したらあまり仲良くしたくないと思うんですが、兼近さんはなんのわだかまりもないような笑顔で仲良くしてるし一緒にテレビ出て決めポーズするし「マンション買ってあげたい」などと言うのでこちらの情緒が乱れきります。そういう感じだから一部ファンがお父さんをちやほやするんですよ……いいのかそれで。いいんだろうな。悟りでも開いてるのか?
本当にね、この人保身という概念があるのか?と疑ってしまうぐらい無防備な部分が多くて、誰にも聞かれてないのに月給明かすし、住所明かして案の定侵入されて引っ越すはめになったのに引っ越し先の住所またうっかり言っちゃうし。
今回文春に探られた過去も本名じゃなければもうちょっと見つかり辛かったと思うんですよね……。相方さんは『りんたろー。』にしてて本人は自分のこと『かねち』って言ってるんだから芸名『かねち』でもいいじゃないですか? それを馬鹿正直に本名名乗って北海道に住んでたことも言っちゃって騒動前に「芸人にならなかったらなにしてた?」って聞かれたら「反社」って答えている……。
でもそういう人だから私は彼が大好きだし、きっと彼の身近にいる人達もそうなんだと思います。可愛いいたいけな子供で、かっこいい無鉄砲なヒーローで、冷めた賢明な苦労人で、明るく無邪気な道化者で、その全ての人格が危ういほどの優しさで統合されたのが兼近大樹。傍にいればいるほど好きにならずにはいられないんじゃないでしょうか。
文春記事直後のりんたろー。さんの表明文凄かったものな。さすが常日頃からかねちは太陽だと主張してる人だ。兼近さんもなんだかんだいってりんたろーさんのこと凄く信頼してるように見えますし、youtubeでもちょいちょい二人の世界で笑い合っているのが微笑ましくて好きです。
だからコンビ仲については心配してません。ファンはほぼ幻滅してませんし、劇場人気があるので収入も生きていけるぐらいには入ると思います。
でもテレビで彼らを見る機会は減るのかな、と思うと本当に残念でなりません。
日本のテレビ界とお笑い界の損失ですよ……あんなに優しくて明るくて平和な人達、今後出てくるのだろうか。爽やか美形を出せばいいってものじゃないんだ……かねちはかねちじゃないと駄目なんですよ。
彼の苦労ゆえの達観と優しさと儚さと人類愛が、機転の利く返しが、独特の豊かな感性が、セクシー系の女性に触れないようにする節度が、いかなる場でも怖気づかない度胸が、美しく華やかな容姿が、全てが好ましく最強でした。
犯罪を犯罪とも気づけない環境にいた少年が、あんなに明るく人を笑わせようとする人間になれたのは奇跡だし、その光をもっと輝かせて欲しかったです。
これから騒動がどう動くかわかりませんが、どうか彼の誠実な魂に見合った素晴らしい結末を迎えられますようにと願ってやみません。
(盛大に擁護しといてこんなこと書くのはなんですけど、芸人さんて「おもしろくていい奴ならええやんネタにしたるわ」みたいな芸人的身贔屓人情擁護することが多いのがちょっともやる。悪いことは悪いことなのでその辺でうやむやにするのはあまりよろしくはない……。
あと兼近さん、自分の中で整理ができてても世間<正義鉈をふるう曖昧模糊な思念の集合体>には伝わってないから、真面目な落ち着いた文章か動画で説明したほうがいいですよ……文春とかインスタはやめて……)
たまに、自分の人格は自分の身体という容れ物の中のデータのようなもので、人工知能みたいな私の元の意識が、やる気ない感じで遠隔操作でプレイしてるのかもなと思う。こういうこと考える時点で正常な状態の自分が、ちょっと変わった妄想に取り憑かれる自分を演じることに酔っているし、普通に心身ともに元気です。
なぜこういうことを考えるのかというと自分の人生にあんまり当事者意識がないからかもしれない、あんまり心の底からやりたいこととか好きなこととかもなく、なんとなく生きる私。服とかはまぁまぁ好きなんだけど、ドメスティックブランドを生活費を切り詰めて買いまくって、どんなシーンにも絶対着ていったり、しょっちゅうショーとか展示会に行くわけではない、セレクトショップで流行りを抑えつつも、無難で、自分のキャラに合っている服をよく買う時点で、他人の目線で服を選んでいる。ちなみに聴く音楽とか読む本も他人の目を気にしながら選ぶ傾向がある。
こんなんだから自分の心の底からやりたいことや決めたことを頑張りきれた経験もなく、基本的に毎日「家に帰って寝たい」と考えている私。まだ20代なのに、自分の人生を切り開く気概があまりにもない。
唯一、私が自分の身体と人格が本物だと、感じるのがセックスの前戯の時くらいである、他人に触れられて、見つめられて、その度にどんどんと身体の外でフワフワと浮いている意識が一気に身体に吸い込まれて、亡骸に命が吹きかけられるみたいな生々しい感覚が私を襲って、心の底から。したくなる。ただ、結局、行為の最後くらいで毎回また意識が身体から抜けて、自分がしてることを冷静に客観視する自分に気がつくのだけど。
そんな私も、流石に今のままではいけないと思って、自分の人生に当事者意識を持たせるために何かできることはないかとGoogleで「人生 当事者意識を持つ」で検索したら若干怖目の自己啓発的なウェブ記事が何個か出てきて「このこと考えんのやめよ」って思った。慣れないことはするもんじゃない。
いっそのことそう思い込んで全員56すくらいの気概を持ったほうが楽になれるのでは
だが深夜まで音楽かけたり防音の欠片も無い部屋で楽器の演奏する奴 てめーはダメだ
まず生きていく上で仕方ない音じゃないだろ
完全に周囲の迷惑より自分の娯楽を優先させている無神経さ、それが許せない。
ヘッドフォン使うなり何なりそういった配慮をしない人間のせいでこっちが耳栓常用による外耳炎で苦しむはめになるのは間違っている。許せない。
もう一つ疑問で仕方ない点がある
管理会社に苦情の電話を入れてもらったりこっちが壁ドンしたりすると数日間はおとなしくなるが、かならずまた同じ音量で迷惑をかけはじめる、という部分だ。
もうそろそろいいかな?じゃねえんだよ。同じ音量で同じ事をすれば同じ人間が隣に住んでいるんだからまた壁ドンなり苦情なり入るに決まっているだろう。
苦情を入れても壁ドンしてもまったく静かになるそぶりがない、というのなら、まだ理解できる。迷惑をかけている事は百も承知であり是正する気持ちはさらさらないという気概を持っている。それならわかる。
でもいったん静かになる、にもかかわらず再び全く同じ迷惑行為を開始する。なぜなんだ?
静かになるってことは、恐縮する気持ちは一応あるわけだろ?なぜ数日したら、今までの流れが一切無かったかのようにふるまうんだ。数日前の苦情なり壁ドンなりをすっかりわすれてしまうような身体的機能障害があるのか?
ここ数年、Twitterを見ると気が落ちることがある。些細な事象をすぐさま自分のことのように怒ったり悲しんだり、そこから喧嘩が発生したり、晒し合いになったり、いわゆるクソリプが多発していたりと、一方通行すぎる現場を多々目にして勝手に気が落ちる。
こんな社会になったのはなぜだろうと考える。そうすると「そういう人たちは加減を知らないのだ」という答えに辿り着く。令和、それは加減を知らない喜怒哀楽が当たり前になる時代なんだろうか。
半年ROMれの言葉でもわかるように、一昔前のインターネットは『ローカルルールも理解しない者は問答無用で叩かれる文化』があったと思う。それが良いか悪いかはわからないが、実際にローカルルールも読めない・守れない人間は9割がどうしようもなく、1割だけが天才だ。きっと9割の人間は、私生活でも他人を平気で傷つけているのだろう。ローカルルールがあることで、昔の2ちゃんねるはどうしようもない者を選別していたと感じる。
今のTwitterにはそういった文化がない。もちろんTwitterに存在する10年選手たちは概ねそれを理解している。しかし世間のビッグウェーブにより有能な選手は追いやられ、今Twitterの主導権は『加減を知らない者』が握っている。実際に10年選手たちは嘆く。そして諦めてこう話す、「世の中は加減を知らない者ばかりになった」。
加減を知らない者たちは、とかくバズる、共感者を増やす、フォロワーを増やすことを目的としている。だからどんどん過激になり、言葉は軽く、そして安くなっていく。
140字という限られた文字数のなかで、どれだけわかりやすく人々の感情を煽れるか。Twitterの手軽さは良い側面も多分に持っているものの、『大衆に』『ウケたい』という気の引き方が見えたとき一気に輝きをなくす。そしてそれを受け入れる者が大半になってしまったから、料理は140字のなかで【バズレシピ】などと紹介されるし、2ちゃんでも使い古された【悲報】などというワードが今でもはびこる。おそらくなんJで使われる猛虎弁もそうだろう。彼らは猛虎弁がTwitterに持ち込まれることを大変に嫌っており、猛虎弁はなんJだけで使うものというルールがあった。それがなくなり、今ではTVでも当たり前に取り上げられるほどメジャーになった。「まとめ民乙」と言うメンバーが圧倒的に減った、なぜならほとんどが当たり前にまとめ民で、自身がまとめ民であることに気づいていないからだ。
加減を知らない者たちは、わかりやすいトラブルや事件に食いつく。自分の感情を手軽に煽ってくれるからだろう。本質などもう関係なく、安い刺激で心を満たそうとする。たとえば年始に起こったNGTの事件は、まさに加減を知らない者たちの棲息地になっている。山口真帆を守りたいという気概は立派だが、見る限り大半の人間が山口の主張ばかりを信じ、山口を傷つける者を工作員と扱い攻撃している。完全なる一方通行だ。真相は出てきていないはずなのに、メンバーを『黒』扱いし問答無用で叩く。
先日犯人扱いされているメンバーが涙ながらに無実を訴えていたが、加減を知らない者たちにそれが届くはずもなく、さらにフルボッコにされるという地獄絵図を見た。この事件に関しては山口を持ち上げたTVやネットメディアも大いに責任があると感じるが、それでも受け手のリテラシーもあまりに欠落している。繰り返すが「真相は出てきていない」のだ。やすやすと騒がずに見守れないものか。検察は事件に関わったメンバーはいないと判断している。司法の判断すらも無視し、世論は「加減を知らない者」によって作られていく。それに怒り狂う少数の人間が同じ土俵に上がり、餌にされていく。煽り運転などのデマも止まらない。
こんな者たちに自分がターゲットにされたら終わりだ。だからほとんどの人間が関わらないようにする。しかし関わらないままでは加減を知らないモンスターはつけあがり、悪魔の証明をねだり、増殖していく。そんな人間たちを受け入れ、なあなあでやって行くのが正解だとは思わない。こんな哀しいモンスターを大量に生み出した社会に問題がないわけがない。それも抱えたまま、誰も指摘しないまま行き進んで、諸行無常などと言い、それでどんな末路が待っているのか。
誰か止めてくれ。私も止めるから、一緒に止めてくれませんか。こんな令和でいいですか?私は令和という元号は嫌いだけれど、生きるならなるべく良い時代にしていきたい。細かいことじゃなくていい、もう一度『加減を持つ者』を生きやすく。そして、『加減を知らない者』を救う社会を求めている。私もやるから、あなたもやって欲しい。お願いします。
表現の自由展・その後
考えたこと言いたいことは山ほどあるけど結局これです。
本来なら見た人に表現の自由とは何かを考える場を提供せねばいけないのに結局対立を煽ることになってしまった。
この時点で本来の狙いが達成されていないので失敗です。
互いの憎悪を増幅しただけそれはアートに求められる力ではない。
それも今回はトリエンナーレ。
単独の展覧会ではない。多くの作家が多くの場所で長期間にわたって「情の時代」をテーマに行われるのに「あいちトリエンナーレ2019=慰安婦像」というイメージがついてしまった。
想定が甘かった。行政に守るだけの気概もなかった。京アニのこともありタイミングが悪かった。
せめて今回のことで表現の自由はを守ることは生半可な覚悟ではできない。誰しもが表現の自由をもち、同時に批判することもでき、表現の自由を脅かす立場になるのだということを自覚してもらえれば幸いである。
暑気厳しき折柄、参議院選挙まことにお疲れさまでした。これで亥年選挙も、年末解散とかいう法螺が実現しなければ概ね終了、何人の同志が再び議席を得、何人の同志が涙を呑んだことでしょうか。一部には議席の食い合いに終わっただけという評もありますが、ともかくその努力には敬意を払いたいと思います。
戦勝気分に水を差すようですが、共同通信試算によれば、この参院選、同日選だったらもう一回2/3の議席を自公側に与えるような大敗北です。いえ、もちろん同日選だったらもうちょっとうまくやっていたでしょうが、それはいつもの死児の年を数える行為です、生産性がない。
独裁安倍政権が樹立されてから、彼らの主張するには国政選6連勝と驕っているそうです。とりもなおさずそれは野党系にとっては6連敗。いや敗北はないとおっしゃるかもしれませんが、打撃を与えるほどではありませんでした。思い出してください、あなた方は嘗て政権を取っていた。にもかかわらず、今や議会の1/3を抑えたことに狂喜乱舞して勝利と喧伝する、この精神的退廃は一体なんでありましょう。
加えてこの選挙で明らかになったのは、国民の政治不信が飽和点に達しつつある、という点です。左右のポピュリスト政党が急激に伸長したのはひとえに「もはや既存政党、就中旧民主党系が占める野党勢力は過去の経緯から全く信が置けない」という国民的な意志の発露です。これは少なくとも近代民主政治の信奉者としては看過できません。これが飽和点に達した時どうなるか、まさか過去に欧米に学べないとは言いますまい。
思えば、私たちはあなた方の政権に3年間耐えました。さらにあなた方が何も考えずにアベガーアベガーと玉砕選挙を繰り返し、空費したこの年月も耐えてきました。もう沢山です。
今度は私たちが要求する番です。せめて3年ぐらい「アベガー」を言わないで、粛々と政策論争をする、そのぐらいのことはしていただけないでしょうか。
無論悪の権化極右安倍政権からは今にもまして罵詈雑言が飛んできましょう。内調のハッカー部隊がネトウヨを煽って卑劣な攻撃を仕掛けてくることでしょう。それによって次なる選挙もまた劣勢に陥るかもしれません。しかしそれに対して歯を食いしばって只々無言の抵抗をする、憲法9条を正に生かすが如くの気高い精神性は必ずや国民に受け入れられましょう。同時にきちんとした政策を練り上げることで、次期政権の受け皿たる力があるということを示してください。
競うべきは政策であって、トップ屋が持ち込む怪しい不祥事のケツを嗅ぎ回ることではありません。そんなことは共産党にでもさせておけばいい。アベの首さえ取れればいいのですか?で、取った後どうするんですか?取った後考える? またこの前の3年を、劣化させて繰り返すんですか? 地に足の着いた議論はできないのですか?
次の参院選は3年後、総選挙は間に挟みますが、そこで勝っても参院の構成が変わらななければ何一つできません。ならば石の上にも三年、真っ当な言動というモノを見せてください。
繰り返しますが、もう沢山です。無論今までの運動律から逃れるのは困難でしょう。無責任な社会党の地位は確かに楽しいでしょう。分派行動をしたあいつらは憎いでしょう。結局は取れもしない一人区の擁立国盗り合戦は面白いでしょう。ぬるま湯に浸り続けるのは楽です。現に国民も今の体制というぬるま湯から暑いとも冷たいとも知れぬ次の湯に入ろうという気概は湧きません。ましてその湯の色すら、湯船が現にあるのかすら判然としないのです。そんな霧の中にそこに清水の舞台から飛んで入れ、とは誰にも命じられる謂れはありません。せめて湯がちゃんと入ってるのだ、ということは見せてください。そのために土台を作り、まきを割り、水をくむ、そういう作業をちゃんと見せることが必要です。
あなた方はこの間政権を嘘と妄想で簒奪した時言いました。「一回試させてください」と。我々は試し、そして失敗しました。
ならばこんどはこちらが言います。「一回、政策議論をちゃんとする道を試してください」と。あなた方はそれを容れる度量すらもう失いましたか?人に要求するだけですか?妄執の繰り言をいつまで続けるつもりですか?
今こそが、国政はちゃんと議論ができるのだということを示す最後のチャンスです。極右安倍政権は変わりません。ならば変わる一歩は社会の前衛である勢力こそが踏み出すべきです。
出来ないなら?ならば、滅びるだけです。しかし、それが単にあなた方だけの自死だけで済むでしょうか。あなた方が無残に死んだあと、その生態ニッチを埋める者が果たして何者か、良くお考えください。それが果たして我が国のためになるのでしょうか。
御英慮を期待しております。
このあと行政法と会社法のでっけえ試験があるが全く勉強していない。
ピ逃げを繰り返していたので全く頭に入っていない
いずれも必修なので詰んでいる
なんとなく死んでみたい
今、家庭が離散の危機にあること、バイトをクビになったこと、好きな人が人生に迷っていてなんの力にもなれなかったこと、持病の発作がまた増えてきて薬で対処しきれなくなってきたこと、身の回りのコンピューターが一斉に壊れてお金がなくなりつつあること、自分の猫背や喋り方や所作がガイジ丸出しで嫌なのにASDのせいで注意が持続できず全く治せないこと、躁鬱気味で食欲不振とドカ食いを繰り返してるせいで体重は落ちてるのにお腹だけ出てきたこと、何をしてもボーッとして爆速で時間が過ぎていくこと、こう書いている間にも好きな人の顔が頭をちらついて勃起が収まらないこと、などの悩みを抱えている
そりゃそうだ
他の人を頼っている時点でかいけつさせる気概がないようなもので生きていてもしょうがない
生活が怠い、面倒くさい
打っている間にも時間は過ぎ、単位が落ちる可能性は加速的に高まっている
人生に目的があったはずだけど自分がそこに入れているビジョンがどんどん見えなくなってきた
受け入れて貰える為の存在がない
存在がボヤッとしている
自分の色素がどんどん抜けていって、そこに色を足せる気もしていない
いるか分かんないやつにはいるか分かんない仕事しか務まらないだろう
僕は結婚する気がない
子育てを一度しか受けたことがないし、11歳も12歳も15歳も18歳も20歳も同じ人間からしか薫陶を受けてない
随分と誕生日を祝ってもらってなかった
好きな人に数年ぶりに祝ってもらったばかりか、本当に久々に誕生日プレゼントなるものをもらうことができた
嬉しくて嬉しくて、貰ったものを抱きしめて泣いてばかりだった
その彼女が人生を迷って塞いでいるところに心無い言葉しかかけられなかった
もらうだけ貰って突っぱねたクズ男とは僕のことだ
殺してくれ
人として好いているが、それは性的に好いているおかげで全部を肯定してしまう精神状態にあるからではないのか
チンコでものを考えているから彼女のことを尊敬する気持ちになるのか
その口で尊敬していますなんて言ったところでそれはまことのことばなのか
不正義ではないのか
不誠実ではないのか
そんなに失礼なことを僕が今しているなら彼女から離れたほうがいい
拒絶されて当然だ
でも離れるのなんて嫌だ
死んだほうがましだ
サークルの会長をやっているせいで急に失踪するわけにもいかない
人から受けた恩を完全に切り捨てられるほど薄情じゃない
そうしてしまうと本当に苦しくなるのが目に見えている
されて嫌なことができない呪いにかかっている
いじめられてた時に教師が先方にした説教が今、僕の首をティッシュの綱で締め上げている
一部の友人は悲しむかもしれない
僕が死なれたらどう思うか?
先輩が死んだ時に散々味わったあの気分を、他の連中にも味わわせるのか
また、の人もいる
バーカ
こんなに悩まなきゃいけないなら死んだほうがましだ
蕁麻疹が出るまで考えて禄に眠れなくなってんだ
生活が脅かされている
俺の身にもなってみろ
死なせてくれ
どうして死んではいけないんですか
苦しいのに死ぬ気も起きないのはなんでなんだ
倫理観が縛るならそれは誰の為にある
生きて帰ってくるな
横浜線を止めてこい
どうせ試験はDかRだ
泣いてんじゃねえようるせえハゲ
どっかに上げることをモチベにしないと文章も書けない愚かな男だよ
画面がみえねえ
うてないあらおわり
昨今の日韓関係で「輸出規制」という単語が出ると「輸出規制じゃない!優遇措置の取りやめだ!」と吹き上がる人が結構いるんだけど、ちょっと落ち着いてほしいなと思う。
そもそも規制というのは何らかの目的のためにルールを作ってルールに従って行為を制限すること。
交通事故を防ぐために赤信号では止まらないといけないというルールを作り、それに従って通行しない場合は罰則がありますよとすることで「好きにすすんでええやろ!」という自由な通行を制限するというのも法規制なわけです。
今回日本政府が始めた優遇措置の取りやめというのも、安全保障上の脅威になりえる物品の輸出については各種法律に沿って自由な取引を制限しますという「規制」の枠組みのなかで、友好国に関しては手続きを簡素化しますよという優遇措置があって、それをどうするかという問題なわけです。
優遇措置があっても3品目については許認可は必要なわけで、優遇措置があれば規制の対象外になるというわけではなく、優遇措置の有無というのは輸出規制の枠組みの中の話です。
で、経産省がやっている輸出規制は英語だとExport controlで、コントロールっていうのは規制の中でも最も直接的に省庁が行為を制限するやり方の一つです。
Export controlについては経産省は基本的に輸出管理という言葉を使ってきていて、今般の「輸出規制」問題の中でも官僚は常に輸出管理の問題という言い方をしているはずです。
大臣や官房長官はレクが行き届いていなかったごく初期の段階では多少表現に揺れがあったように記憶していますが、最近はちゃんと輸出管理と言うようになってます。
今回の問題は自由貿易体制の中で輸出国がやらなきゃいけない手続きの話ですよ、ということを強調するために(それ自体はまったくもって正しい)従来から用いている輸出管理という言葉を一貫して使っているわけです。
輸出規制というとどうしても数量規制や禁輸措置という連想が出てきやすいので、それを避けるための実に官僚らしい気のつかいかたで輸出規制という言葉を完全に排除しています。つまり印象の問題です(印象は大事です)。
許認可手続きというのが規制の典型的な一形態であるというのは重々承知のうえで、相手に誤解を与えたり付け入るスキを与えたりしないようにするために一言一句にこだわるというのは官僚の習性で、今回はいい仕事をしています。少なくとも国内ではおおむね正しく伝わっているので。
ただまぁこれをもって「Controlは規制じゃない!管理だ!」というのは変な話なのでちょっと慎重になりましょう。
今後問題の焦点になるホワイト国についてはExport controlの中のCatch-all controlsの中での例外措置です。例外なので、ホワイト国が仕向け地なら許認可不要→規制の対象外というやつです(後述するページに書いてあります)。
3品目の優遇措置の取りやめは許認可手続きが優遇措置の有無に関わらず必要だったのに比べて、例外措置の取り消しとなると今まで要らなかった許認可が必要になるということで規制の対象外から規制の対象になるということでちょっとだけ雰囲気が違いますが、まぁどちらもExport Controlの話ではあります。
で、Controlという言葉なんですが、これまで経済産業省はCatch-all controlを「キャッチオール規制」と言ってきました。(今でもhttps://www.meti.go.jp/policy/anpo/index.htmlの一番下の連絡先はキャッチオール規制に関する相談の窓口です)
なのでホワイト国はキャッチオール規制の対象外になるという説明になります。
・キャッチオール規制の概要→https://www.meti.go.jp/policy/anpo/anpo03.html
・上記ページの英語ページはないんだけど、輸出管理の概要について英語で書いたものは→https://www.meti.go.jp/policy/anpo/securityexportcontrol1.html
英語のページを見ればExport controlにはList controlとCatch-all controlがあって…みたいなことが書いてあって全部Controlなんだけど、日本語のページでは輸出管理にはリスト規制とキャッチオール規制があるという書き方で、Controlの訳語が管理だったり規制だったりします。
つまり規制と言うか管理と言うかは訳出の問題であって実態としては同じControlなわけです。
どう言おうが同じことなんだけど、今回の問題に関しては訳語にもこだわるぜ!っていう経産省官僚の気概みたいなものはブクマも結構ついた以下の文書で感じることができます。
・本日の韓国産業通商資源部による記者説明について https://www.meti.go.jp/press/2019/07/20190719009/20190719009.html
この文書の中では一切「キャッチオール規制」と言ってないのね。むしろ「規制」という文言すら一つもない。
従来、Catch-all controlに関してはキャッチオール規制と訳していたんだけど、今回はキャッチオール制度と訳してみましたってことですね。「規制」っていう言葉を使うと国内にも揚げ足取るやつがいて後ろから銃を撃たれかねないからね。官僚らしい気遣いにあふれたいい訳し方だと思います。
英語版はhttps://www.meti.go.jp/english/press/2019/0719_001.htmlで確認できるから対比してみてね。Catch-all controlとしか書いてないから。
今回の問題はExport Controlの問題であるので、それを輸出管理というか輸出規制というかは訳出の問題であって実質的な違いはない(経産省は輸出管理で一貫しているが、Catch-all controlについては若干揺れがある)
優遇措置の緩和もホワイト国からの除外もExport Controlの枠組みの中の話であるので、「優遇措置の見直しであって輸出規制の話じゃない!」と言うのは問題について正確な理解をしていないと思われる可能性が高いのでやめた方がいいです。
いざとなれば離党するくらいの気概はあるだろう
チケットとれなくてライビュでやっと双騎見た人間の感想なのですが、めちゃくちゃ口が汚いです。注意してください。
勢いだけでライビュ後のイライラ全部ぶつけてるので文章もおかしいと思います。
とうらぶと役者の人気を当て込んだ別作品じゃん。としか思えませんでした。
明け透けな本音言うと、チケットとれなくてよかった〜〜!!です。
いやほんと手数料込みで1枚1万円近くするチケットでこれ見せられたらずっと強めにキレてたと思う。
現に1部見終わった後からずっとイライラしてる。「は????」の連発。イライラしたせいかちゃんと見たのに記憶も危うい
ライビュ代で済んでまだマシだった。
賛成派に聞いて回りたいんですが、これ刀剣乱舞でやる意味ちゃんと説明できます?
このミュを通じて源氏兄弟が何を成したかとか何を表現したかったとか説明とかできます?
推しキャラとか推し俳優が出てるからって理由で認識ガバってません?2部がいつも通りだったからって誤魔化されてません?
いやほんと曽我るなら曽我るでもっととうらぶキャラがやらなきゃいけない理由をつけたりできたよね???
事前に言っとけよって思ったし説明なしで最初から最後までただの曽我見せられたこっちの気持ち察してほしい。
そもそも曽我物語を見たいなら2.5舞台で見ようとか思わねーーーーしまじで。
アレンジならまだわかるんだよ。
名作やら古典使うことで話の軸がしっかりしたり、観客に興味を持たせやすかったり話を理解させやすいとかあるから
でもこれは、これはあれじゃん。とうらぶ詐欺だし源氏兄弟詐欺だよ。
源氏兄弟が役になりきって見ると楽しい。みたいな意見も見たけど、そんな器用なことできんわ
曽我祐成役 髭切
曽我時致役 膝丸
として見るとか無理
でしかなかったよ
このミュを高く評価してる界隈の感想もチラホラ見たんですけど、全然納得できない。
ここからさらに口が悪くなるんですが、茅野さんのエンタステージのインタビューで
みたいな意見を述べてましたよね?
賛成派もそこを肯定的に受け止めてるんですが、こんなん見せられるなら正直別に分断されたままでよくね????としか思わないんですよね。
いや.5界隈が一部の演劇好きの人から割とボロクソに言われてるのは知ってるし、演出も演技が稚拙なところがあるのはわかってるんです。
学芸会って言われても分かる〜って思うくらい劇としてのレベルが低いと言われるのも分かるんですよね。
ただその分断について取り組んだ結果が双騎なら別に既存の演劇界とくっつかなくてよくない??としか思いません。
こんなん見せられたら2.5はあと10年くらいは独自コンテンツでいいと思うよ。
たしかに2.5舞台が乱発してる今、演出や演技力の向上とかは必要だと思うけど、その結果が源氏の双騎なら大間違いだとしか思えない。
演技力とか技術方面が界隈が賑わえば切磋琢磨して勝手に上がると思うし、いっそこのままガラパゴス化した方がよっぽど面白いものになると思う。
顔のいい男達が一生懸命2次元の世界を表現してるのが醍醐味なのに、今回の双騎はその前提を利用した裏切りだとすら思う。
みんなの好きな作品とキャラで新作作るよ!って見せられたのがただの別作品とか冷静に考えてダメでしょ。
そもそもだいたいの2.5俳優って他の劇団や舞台とかに普通に所属できるじゃん。
2.5以外の作品に出演とか普通にしてる俳優さんいるし、逆に演出や作家も普通に演劇関係やら映画関係から2.5に引っ張ってこれてるじゃん。
なんていうか2.5に関わってるスタッフが2.5界隈を低く見てるから出る意見じゃね?
もしそうなら一番ダメなやつじゃん。
ジャニーズJr.の腹筋太鼓を「めちゃやべー演出!!見てろよすごいぜ!!」って自信満々に言い切る滝沢秀明くらいの気概を持って取り組んで欲しい。
実際腹筋太鼓は意味はわからないけど勢いがあってカッコよかった。
結局ここまで書いといて何が言いたいかと言うと、もっとうまく刀剣乱舞と曽我物語を混ぜろよ!!!です。
今回の件はマジでしんどいから、私の好きなコンテンツを気をつけて取り扱って欲しいし、次の新作マジで頼むぞ〜!!という気持ちを表明したかった。
あと再演は多分大幅な改変でもない限りライビュでも見ません。
描きたい内容を単純化しつつわかりやすい折り目をつけ、誰でもついていきやすい速度でありながら明確な変化を持って描かれる最大公約数的なストーリーテリング。画面を広く使いつつ視点を大きく動かさないようにする雄大なカメラワーク。日常と幻想の間に半透明の敷居を置き両者をはっきり区別しながら横へと並べる非連続的な非日常性。これがいい意味での細田守らしさ。
ショタコンにしてケモナー。自意識過剰なキャラクター。誰もが承認欲求に飢えているという断定の元に進む構ってちゃんストーリー。全てを自分の口で説明してしまう自信のなさ。ヒステリックさと寛容さの両極端。これが悪い意味での細田守らしさ。
未来のミライを面白かったと言えるかの全ては、細田守の悪癖、性癖、嗜癖を理解した上で、その発露を作家性として消費することが出来るかにかかっている。逆に、そういったものに対して一切無頓着に、ただ何も考えずに綺麗な映像が流れる2時間のパラパラ漫画だと思って鑑賞するかだ。
未来のミライには細田守の内面”だけ”が描かれている。”だけ”である。この映画は主成分が細田守なのではなく、すべての成分が細田守なのだ。全スタッフの労力、作業は製作の過程で全て細田守分として返還されてしまう。そこに慈悲はない。この映画は全力で細田守であり、それ以外のものが含まれることは認められていない。実際、この映画の制作にあたってスタッフに細田家のホームビデオが見せられたというエピソードすらある。スタッフが「家庭」というものに描くイメージを、「細田家の家庭」というイメージで塗りつぶし、他の家庭から異物を混入されることを防ぐ徹底した管理体制である。
甘えん坊でわがままで自分を認めてもらいたくてたまらない子供は当然細田守であり、彼の成長を通して鑑賞者から贈られる称賛を求めているのも細田守自身なのだ。彼が作中では徹底して直接その苦しみを認められることがないのは、そういうふうに世界を見る細田守が細田守の中に居るからである。電車好きである点などは細田守の実子がモデルとなっている。彼にとってこの映画は自分の子供が成長する姿を通して「かつて自分が子供だった頃に成長したことを客観的に見ることになった」という事実を描いたものでもあるのだ。ケモナー成分を取り込んだりハチゲームでクネクネしていたりと(ショタコンケモナー向け)サービスシーンも多く、彼が主人公であるということは、細田守にとってはケモナーやショタコンであることが自己同一性の核であることを示す。
客寄せパンダとして使われまくったのに、出てくるシーンは意外と少ない。未来という名前、赤ん坊であること、婚期を逃すことを気にする発言、最終的にくんちゃんに血縁上のつながりを思い出させる役目、これらの要素から「男女の関係によって子孫を残すこと」のメタファー、ひいては「(ショタコンではなく)普通の人間として生きること」のメタファーであることが伺える。同時に「世間で受け入れられ、未来に繋がる作品」のメタファーでもある。最初にキャッチコピーとして登場し、最後のクライマックスにおいてただの細田守回顧録であった映画を一般向けの娯楽映画へと引き戻す役目を追っていることからもこれが分かる。
仕事人間であり、子供の親でもある細田守。一般的役割に対して性別が反転しているのはジェンダーフリーというよりも、それぞれに細田守に繋がる要素をもたせることで、どちらもを細田守にするためである。時折ヒステリックなのも妙に余裕ぶってみせるのも、自分たちが変わってきたと殊更に言うのも、全て細田守の独り言なのだ。
オスケモ。王子だったという発言は、細田守の中で最も大事なものがケモナー性癖だったことの暴露である。それにかつてという言葉をつけるのは、今の自分はそれを卒業したという自負である。
ホモホモしい外見、言動、であるのだがそれがハッキリと語られることはない。ここまで赤裸々にショタコンもケモナーも自己開示してきて、それをあえて語らないのは、細田守の中において自分のホモセクシャルへの興味がまだ疑問の残るものであるからである。逆に言えば「それすらも」赤裸々にスクリーンに映し出したのだ。
上で述べたようにミライは『普通の家庭』や『世間一般の価値観』のメタファーであり、それが細田ハウスに持ち込まれるのは、ショタに興奮だけしていればよかった世界の終わりを意味している。ミライファーストの生活を否定する姿は、一般向け要素を散りばめた映画を作らされてきた細田守の姿である。その中で雑な反逆に出ては怒られる。悪い意味で細田守らしい映画を作ってきたことへの反省と、それに対する怒りが描かれる。『自由にショタでケモいアニメだけやらせてくれ』、くんちゃんが繰り返すミライ否定発言はつまる所こういうことなのだ・
『雛人形を毎年1日ずつ出し続けていたら1年ずつ婚期が伸びる』という会話は、ずっと結婚できないということを意味している。それを片付けてミライちゃんが未来で結婚できるようになった。これは、細田守が自分の中で幼少期から積み上げてきた結婚感を今一度棚卸しして、普通に恋愛をして普通に結婚をする人生を受け入れたことを意味している。作中に置いて、未来ちゃんが過去にやってくるのは、細田守の中で過去の細田守と共に今の細田守が気持ちの整理をつけた経験を描いているのだ。そこに犬が加わっている理由は、それが彼の性癖に置いて重要な意味を持つからである。普通に見ていると何がしたいのかわかりにくいシーンも、このように整理していくと理解できる。これが未来のミライの面白さだ。
これもうそのまま細田守が自分の親に対して「心の中で」やっていたことです。自分が親になって子供を持つ身となってそれで子供の頃の両親の大変さとか知って感謝してーっていうアレです。そのままかよ!そしてその中で全部セリフにしちゃうのかよ!このシンプルさ!観客への信頼の無さ!そして自分の表現への自信の無さ!これもまた細田守なんですわー。自分がちゃんと愛されているか不安だとそのまま口にするのは、自分の映画がちゃんと観客に伝わっているのか不安だっていう宣言でもあったりするわけで。メタいぜー。
ホモホモしいアンちゃんとの初体験。遠くを見据えろと語られるが、そのさきに見えるのは廃墟。この道の先に未来はない。細田守も分かっている。ショタコン一本では子孫は残せない。アニメだって歴史に残らない。分かっている。分かっているけど、そうして進んだ先で結果を出したのが今の細田守だろ?そんな叫びが聞こえてくる。補助輪無しで突き進むには、遠くに廃墟を見据えなきゃいけなかったんだ。そうしてバケモノの子が生まれてしまったんだ……。
自分を見失ったとき、戻ってくるためには家族の名前を呼ぶ必要がある。自分に流れる血の繋がりを思い出す必要がある。そして、そのためにはミライを認める必要がある。ミライは「普通の家庭」「普通の価値観」のメタファーであり、自分がそれと深くつながっていることを認めることが、自分を取り戻すためには必要だと、最後の最後で認めることになる。途中からひたすらショタキャラメインで妙な話ばかりしていた映画が、ここで突然なんとも一般受けしそうなキャラと共にさもストーリーがしっかりとある映画であるかのような物語へと戻っていく。細田守の敗北宣言だ。人間としての細田守がここにいるには、彼の父親や祖父がショタコン一本で通さなかったからである。映画監督としての細田守がここにいるのは、デジモンやサマーウォーズといった一般向けに迎合した作品を作ってきたからである。自分が今ここにいるなかで、ケモナーであったことや、同性愛的な面を抱えていたことはたしかにあったが、それでも『普通』を受け入れてきたからだ。そう認めることで、見失っていた自分は取り戻される。そして、和解は結ばれた。ケモノやショタへと一度は預けられた細田守界の王位継承権は、最後には『普通の未来』へと託された。
凄まじい映画だった。「作家性の塊」と呼ばれる映画はいくらでもあるが、純度99%作家性の劇物はそうそうはないだろう。アニメ映画というと娯楽作品ばかりで、文学性や哲学性を謳っておきながら結局は娯楽作品に片足と重心は置きっぱなしにした作品ばかりな中で異彩を放っている。そんな世界にこんなものが現れたらそりゃ受け入れられないだろうな。ましてそれを作った人間の最大のウリ文句がサマーウォーズや時をかける少女なんていう痛快娯楽一般層向け作品なら。サマーウォーズや時かけ期待してこれ見に行ったら羊頭狗肉も良いところだって怒りたくもなるだろうな。
この作品には作家性以外を求めちゃ駄目なんだよ。日本の広告業界や映画業界はそれを頑なに伝えようとしなかった。そこは紛れもなくEVILだね。
ミライちゃんがただの客寄せパンダであり、その使われ方も「はいはいこのへんでパンダ投入すれば良いんだろ?」っていう態度で行われることに、細田守の中に渦巻いた鬱憤を感じ取ろうっていう気概を最初から持って見る分にはね、いい映画なんですよ。
そこは分かってあげて欲しい。
でも娯楽映画としては本当に駄目だけどな。俺はこれを娯楽として楽しむことは出来たけど、それは正しい意味での娯楽じゃなくて単に俺の見方が捻くれてて性格が悪いから娯楽に出来ただけだわ。素直な心の持ち主が素直に楽しめる娯楽映画を作った方が最大多数の最大幸福だよ。新海誠の君の名はと、細田守の未来のミライ。このコントラストはある意味美しいけどね。