はてなキーワード: 「東京」とは
大学から東京に出てきて、就職して10年弱、5年くらい前に大阪に引っ越して暮らしている。
梅田という街は最近再開発がものすごく、日本で一番近代都市っぽい感じになっている。
梅田はあくまで街の一つであって「東京」と比較するのはおかしいと思う。
比較するなら新宿、渋谷、池袋、有楽町・・・とかそういうところと比較するべきでしょ。
まぁでも、都市一つ一つで見ても梅田の再開発っぷりは凄まじく、恐らく東京の全都市よりも都市としての集約度は上だと思う(高級感は銀座が上だが)
でも大阪全体で見たとき、本当に東京を超えて日本一かというと、全然そうじゃないんだよね。
梅田級の都市は本当に梅田だけで、2番手のなんばは小さな新宿の規模だし、天王寺はまさに上野って感じ。
梅田が10としたら、他の都市は5~7くらいで、東京は6~9の都市が数多くある。
「君の名は。」を観た。映画としては面白かったが、監督の東京至上主義的発想がにじみ出ていて気分の悪い作品だった。以下ネタバレこみでどこが気持ち悪かったか書く。
まず、三葉が飛騨に住んでいるのに東京の話ばかりするところが気持ち悪い。飛騨は一応岐阜の一部であり東海地方である。テレビも名古屋のニュースが入るはず。ならば、まず三葉が向かうべき都会は東京ではなく名古屋のはずである。もちろん、東京と名古屋では都市の規模に明確な差があるけれど、「カッフェ」はたくさんあるし雇用も最低限はある。実家の様子を見に行くことを考えれば名古屋に就職するという選択肢も考えられるはずで、そこがすっぽり抜け落ちているのが不思議だ。小説版では三葉が名古屋のことを「大きな田舎」と表現する場面があるらしいが、当たり前だが飛騨よりは名古屋のほうが何倍も都会だ。三葉たちが困っていたのは「カッフェ」がないこと、雇用がないこと、訳のわからない因習があることだ。それらから逃れるためだけならば東京ではなく、岐阜市なり名古屋市なり富山市なり近くの地方都市に引っ越せばいい話である。(岐阜や富山は雇用が少ないかもしれないけれど)三葉が「田舎」を脱出したいという気持ちはわかるが、その向かう先が「東京」である必然性は感じられなかった。
次に、三葉たち糸森村の若者たちが最終的に三人とも上京するというのが気持ち悪い。繰り返し書くが、三葉たちが「田舎」から脱出するなら名古屋に引っ越すという手段もある。それなのに三人が三人とも東京に出てくるのはなぜなのか?また、百歩譲って名古屋が飛騨と同じレベルの「大きな田舎」だとして、「田舎」に彼らが残らなかったのはなぜか?糸森が消滅したとして、その地元に愛着があるなら欠点はあれど飛騨に残るという考え方も抱けたはずだ。特にテッシーは親父が土建屋でその跡を継ぐという選択肢も考えられたはずであり、岐阜で就職することもできたはず。東京に行った三葉と地方に残ったテッシーという対比もできたのに三人とも上京してしまうというのが腑に落ちなかった。
そして、彗星が墜落したあとの三葉とテッシー夫婦以外の糸森町民の姿が描かれないのも気持ち悪い。町は半分くらい吹っ飛んだが避難は完了したはずで、三葉の妹やおばあちゃん、親父さんは生き残ったはずである。それなのにせいぜい三葉の親父さんが週刊誌に載ったことがわかるくらいで妹やおばあちゃんの後日談はない。あたかも彗星によって三葉たち以外の糸森町民は抹殺されてしまったかのようだった。また三葉たちは生き残ったが、糸森という文化は彗星墜落によって消滅してしまった。これは瀧が過去を改変する前も後も実は変わっていないように思えた。田舎の文化や田舎に残った人たちを瀧は実は救えていないのではないか。
(そもそもおばあちゃんや妹は生き残ったのかという疑問もある。ラスト付近で瀧が彗星の被害について振り返ったとき、彼は「突然の避難訓練によって、奇跡的に『ほとんど』の町民が生き残った」といった。この言葉からわかるのはあの彗星墜落によって少なからず死者が出ていたということである。その死者の中にテッシーの親父や三葉パパや四葉が入っていた可能性も後日談が描かれなかったから十分ありうる。神社や土建屋といった「田舎の因習」の象徴である彼らを監督は観客にはわからない形で彗星で消し去ってしまっていたのかもしれない。)
①「君の名は。」の世界には「東京」と「ど田舎(=飛騨)」しか存在しないのが気持ち悪い。地方都市の存在を無視している。
②若者たちは必ず「東京」へ行かなければならず、彼らが抜けだしてしまった「ど田舎」は描く必要がないという思想が気持ち悪い。東京は必ずしも「地上の楽園」ではないし、若者たちが抜けだしても飛騨に残った人たちの生活は続いている。「田舎」は「東京」へ向かう若者たちの踏み台ではない。
この二つは監督の「東京至上主義」から出てきているのではないか。東京以外に日本に都会はなく、あとは全て「田舎」である。「都会(=東京)」は素晴らしく、「田舎(=東京以外)」はくそったれであり、若者は必ず上京しなければならない。自分は新海監督のファンではないので彼が今までどういう映画を撮ってきたかよくしらない。だけど、「君の名は。」を自分なりに解釈するとこういうメッセージがあるように思えて仕方ない。そしてこの発想は「東京以外」にすむ自分としては非常に気持ち悪い。セカイ系だなんたら言われてる人らしいがその手の批判もむべなるかな、と思ってしまうような映画だった。
・追記
一部ブコメに返信
「miruna 軽井沢の田舎のボンボンにはTOKYOがあんなキラキラに見えるんだよきっと。ファーストフードの豊かさを無視してブルジョア高校生がクソ高いカフェでお茶してトラットリアでバイトするんだから。」
これは全くその通りだと思います。自分がなんでこんな増田を書いたかというと恐らく新海監督は長野のご出身(それも関東圏にかなり近い)なので都会=東京なんですよ。彼の原体験にはど田舎(長野)と都会(東京)しかない。近くに札幌や福岡、名古屋のようなそこそこ都会な都市がない。だから地方都市をぶっ飛ばして若者がみな東京にすい寄せられていく話を書いたんだと思います。でもそれは福岡や名古屋、札幌のほうが東京より近いエリアでは微妙に事情が違ってくるはずなんですよね。だから本当はご自身の出身である長野東部を舞台にされたほうがしっくりくると思います。
「Phenomenon あんだけ飛騨を美しく描いてるのにその解釈②はないんじゃない」
この点については「星の降る夜に”『君の名は。』(ネタバレ) - 私設刑務所CHATEAU D'IF http://chateaudif.hatenadiary.com/entry/2016/09/09/232626」というエントリーが自分以上にわかりやすく解説しています。
“ 新海誠本人の田舎への郷愁は景色のみで、ヒロインの言う「都会に行きたい」、東京大好きが本音というところだろうか。彗星には世界が滅びる鬱映画『メランコリア』的な破壊衝動も感じる。人が死ぬ必要はさらさらないけれど、場としての田舎は滅び去れ! 災害描写は3.11メタファーなのだが、滅びるのが予言通り、みたいな乱暴さもあり、ババアの教えや伝統芸能が、街が救われることプラス自分の恋愛のために存在した、というのはすごいナルシシズムだ。 ”
“ ヒロインや友人ら主要登場人物はみんな東京へと去り、親以上の世代のその後は語られないあたり、まさに「親殺し」の物語であったとも言える。”
「メランコリア」は未見なのでよくわかりませんが、自分は「君の名は。」を観て「アクシズが墜落してしまった逆襲のシャア」みたいな映画だなあ、と感じました。人は死ななかったわけですが、彗星の落下自体を「奇跡」で回避できなかったということは、実はかなり絶望的な映画なのではないか、と。彗星の落下は自然現象ですが、その落下を設定したのは監督自身です。彼には田舎の人間(若者以外)を全て抹殺したいという願望があったのでは?少なくとも私は田舎に対する愛着は感じられませんでしたね。
とにかく自分は事実誤認(四葉や彗星の死者数)をたくさんしているということもわかったので、もう一度見返したいと思います。そしたらまた追記を書くかも
シン・ゴジラの真価は、これから広がるであろう一見さんによる批評の中にこそ有る。
つまり、「満点からマイナスされうる特撮映画」が帰ってきた、と言う意味だ。
1週間ほど前に話題のゴジラを見に行った。面白かったは面白かった。
が、事前ハードルが上がりすぎていたのか、粗(に私には見えた)の部分が結構気になってしまい、正直世間で言われている程に「大傑作」にはあまり見えなかった。
確かにその通りで、それは欠点だ。
それは、長年特撮ファンが受けたくても受けられなかった指摘だ。
「まあ、子供向けの怪獣映画にしては良く出来てたよね」という感想からの脱却。
「対象年齢を考えても酷い」とか「大人の視聴に耐えうる人間ドラマ」とか
そういった「オヤクソクを共有している視聴者」向きの話じゃない。
つまり、「ファインディング・ドリーと比べて」とか
だからこそ「大傑作」であり、それ故に「まあまあ面白かった」という感想が併存しうる。
最近は「ゼロからプラスして積み上げる特撮映画」しか無かった。
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)特撮部分は良かった」
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)ドラマパートはヒドイ」
みたいな「邦画の予算規模で制約の多い特撮映画において」という限定が常についていた。
粗はある。荒削りでもある。
それでも恐らくは邦画の現場における特撮映画のベストを尽くした映画だと思う。
それは特撮ファンなら邦画の環境に絶望せずに希望を見いだせる一筋の光であるし、
一般人から見れば、「怪獣映画だけど面白いらしいよ」と観に行ける映画になってる。
「日本の特撮映画として100万点」のシン・ゴジラで終わるならソレまでだ。
でもきっと「世界の映画の中で70点」のシン・ゴジラだと評価してもらえる。
怪獣を通じて、日本の災害を正面から描き、国のあり方をポリティカルな視点から捉える。
世の中は稼いだものが正義で、投資してもらえるのは評価された作品だけだ。
その意味で、きっと一般人からみても、投資に一口のれる出来じゃないだろうか。
ダシに使ったので、不満点に共感しつつ、違う視点を提供しておくよ。
映画観に行った後のファミレスでダベってる感じで読んでもらえればと思う。
(人は感じたことが全てであり、反論しようとは思っていない)
主人公の矢口が会議中に巨大生物に言及するのだが、この時点で矢口がそう判断に至った材料は精々ネットの動画程度であり、あそこでアレを「生物」と考えるのはかなり不自然だ。
シン・ゴジラの主人公格である長谷川博己演じる内閣官房副長官の矢口蘭堂は、
竹野内豊演じる内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)の赤坂秀樹から
「会議は結論ありきで進んでいる。かき回すな」と助言を受けている。
また、エレベーターの中で、立場が上の人間に対して「楽観やこうあって欲しいという願望が、先の大戦で何百万人も殺した」とワリとハッキリ苦言を呈している。
矢口は生物と断定しているのではなく、「巨大生物の可能性を俎上に載せないのはマズイ」と判断しているのではないだろうか。
(ネット上の映像がフェイクであれば、それを作った人間の動機がテロで無いことを確認するまで安心しないタイプ)
ニュース映像での「巨大生物の尻尾」について、ニュースの真偽を問うシーンがないのは映画の都合だと思う。
ニュースの第一報だと見るのが妥当なシーンだし、それならアレは何のジョークだと笑うのが現実的ではなかろうか。
同種の別個体については、検討は並行で続けているが、映画の都合でカット、じゃないかな。
別個体だとすると、観客は「ゴジラ対究極生物なのか?」という疑念を抱きながら観ることになり集中力が削がれる。
(一つは倒れるマンションから逃げ遅れた家族、一つは溢れた川から逃げる男性、もう一つどこかで同じことを思った気がするが覚えていない)
たぶん、残りの一箇所は、自衛隊の戦車が潰れるシーンか、注入第一部隊の全滅の部分じゃないかな。
マンションの荷物を詰めていてマンションごと押し倒される家族、川からの逃げ遅れ(たぶん画面の奥側に向かって走る男性)は、
災害の描き方の問題で、ゴジラによる人死を描いているわけではないと思う。
あの一連のシーンで感じる「いまどこに災害が近づいてきているか一般市民には把握できない」という恐怖は演出として一貫していると思う。
(状況把握のしようがなく、気がついた時にはもう遅いという恐怖は、5年たってやっと直視できるようになった映像だと思う)
病院とか今まさに災害の現場は出てこず、災害が通り過ぎた後の映像だしね。
密室と俯瞰した映像に寄る災害描写は、予算制約を逆手に取った脚本の作り方の問題であり、
その意味で「巨大不明生物がなぎ倒したビルにも当然人が残っている」というのを伝える手法に限界があったのかな、と思う。
ほぼあの家族しか直接の被害は確認できないのに、それ以後の緊迫感は違う。
だけど、アレ入れて欲しくない、というのも判る。
浮いてると思うよ。これはシナリオの歪みが集中してるせいだと思う。
これ、後でちょっと付記するけど、「シナリオの都合の上で」リアリティラインは高く見えるようにしてあるんだと思ってる。
例えば、東京駅前に当然あるはずの広大な敷地について劇中一切言及されていない。明らかに不自然。
筋論として、日本が米国に頼り、米軍が日本国内で武力行使する、という流れのハズ。
仮にも主権国家に対して、他国が熱核攻撃を短期間に強行する理由がない。
日本が壊滅するまで自由にさせておき、主権が及ばないところに出てからの攻撃になるはず。
ちょっと日本以外のまとまりが良すぎるというか、世界があまりにも日本に対して冷淡すぎる。
「ゴジラを生み出したのは、牧元教授という日本人では?」という点、
外務省や駐在武官を無視して政権が直接軍事について外交を行うと言う部分を抑えると
祖母が原爆による被害者であり、日系人でアメリカ政権に対して一定の譲歩を引き出しうる通常外交ルート外の存在は、
石原さとみ演じる米国大統領特使のカヨコ・パタースン以外であっても、
やっぱり荒唐無稽に見えるだろうし、どうしても浮いてしまうのは仕方がないと思う。
彼女はシナリオの不備による歪みを一手に引き受けて浮いているのだと思う。
まあ、じゃあどう直せば良いかって言うと、アメリカ側を描くには予算が足りなそうだな……
ゴジラに原子炉載せて、排熱への対処(生存本能)で進化するって道筋つけると、焼却 or 凍結ってのは判りやすい。
シナリオの都合でアメリカに熱核攻撃を担わせると、日本が特撮的な花である爆発(焼却)を使うのは難しい。
そもそも「カタルシスを得られない」ということそのものが、演出意図なのではないかなと思う。
一応、血を流すことから排熱に血流を用いているのではってのは合理性があるし、血液凝固材も30種類?試して効くのは確認してる。
元素変換する相手ならどこに投与しても一緒って意味では、口に見える部分に引っ掛けて体内注入するってのは効果的とも思う。
仮定に仮定を積み重ねて、地味な作業で原子炉の終息にもってくってのは、福島第一原発事故対応への直喩だろうし。
「ショボい」処理で、しかも「まだ終わってない」ってのを、東京駅に凍結させたゴジラで示しているのでは、と。
(政府が冷温停止を宣言したのも、冷やし続ける必要があるってのも、同じ構図だよね)
加えて、ヤシオリ作戦に関しては、矢口の陣頭指揮の部分にも中途半端さに違和感があり、これまで徹底して「対策室で対応する政治家」を描いてきて、結局最後は「主人公が現場の陣頭指揮を取りに行く」というのを描くのか、というのに少し落胆した。
一応は、逃げ遅れた人がいるかもしれないけどやる?とか、線量が予定よりも多いけど続行するのか?とか、判断はあったと思う。
どっちかというと、多分最初に感じたであろう「え?総理大臣は逃げるの?残らないの?」みたいな感覚を
「いや、指揮官は後方に控えてないと死んだら終わりだから」に観客の気持ちを変えたかったんじゃないかな、と思う。
それでもまあ、良くあるヒーロー映画みたいにゴジラに触れるような最前線までは最後まで行かないし、良かったんじゃないかな。
(良く言われる「陣頭指揮」を観客がどう捉えるかが、映画を見た後で変わったのではないか)
正直に言えば、予算の都合で、東京のみの話にしないと収拾が付かないと思う。
「福島第一原発事故」が「東京駅」で起こったとして、煽りじゃなくて日本としての機能がどうなったか考えるとゾッとする。
その俺の思いと重なるが、何度も「経済的」な話が出てくる。
経済的には莫大な損失とか、熱核攻撃を受けて世界から支援を受けないと復興できないとか。
損得勘定で熱核攻撃を仕方がないと受け入れる「論理」と、象徴的な意味で核攻撃を受け入れられない「感情」との対立軸にも見える。
「国」とは何なのかを観る人に問うシナリオになってたんじゃないかな、と。
まあ観たひとに届かないのであれば、そりゃ成功してないわけだけど。
まあ、観たひとに届かない思いは独り善がりなワケでダメなんだと思うけど、
最初に書いたように、そういう「普通の映画のダメ出し」してもらえるところにシン・ゴジラの価値がある。
と、思うわけで、やっぱり気になる点を俺も最後に列挙して置こう。
熱核攻撃をあの付近で行うことに対して、日本人が触れないってのはあり得ない。
「彼らはここがニューヨークでも同じことをするそうだ」とはセリフにあるけど、あれ「ワシントン」じゃないんだよね。
(あくまでも経済の中心であるというセリフであって、象徴的なんだけども)
突然地上にさまよい出た、排熱の為に進化した、冷却のために海に戻った。
突然さまよいでることも、デタラメに動くのも、再冷却の為に海に戻るのも災害っぽい。
進化の方向性として陸上に特化してしまったとして、海水を捨てて地上に出てくる理由が不明。
牧元教授が好きにした結果、ゴジラを生み出して、意思を方向づけたなら判らなんでもないけど。
(配偶者を原爆で亡くし、国と核を憎んだ牧元教授なら、先の大戦の直接の責任者である国の象徴にまず向かい、その後アメリカ上陸を目指すのは理にかなっている)
途中、スパコンの計算能力貸して欲しいって海外の研究機関に依頼するときに、
一旦「ウチの技術を盗むかもしれないから断ろう」みたいなセリフがあるんだけど、
もしも「間に合わなかったら首都が熱核攻撃を受ける」みたいな状態なら、
「ひとを信じよう」みたいなのんびりした話にはならないと思う。
(秘密裏に国連安保理が熱核攻撃を容認するって、日本は外交力ゼロってことになる)
(そうすると、フランスと裏取引する外交技術との整合が取れない)
シナリオが福島第一原発事故を念頭に置いてるからなんだろうけど、
ゴジラに対して調伏(焼却or冷却)しか選択肢が無くなってるのに違和感がある。
保護が無理、退治が難しそうなら、通常は追い出しの手段を検討するんじゃないか。
餌で釣るのか、行動パターンを読むのか、押し返すのかは別にして。
追い出しにリソースが避けないって言う描写は欲しかったかな……
(これはほとんど「他の個体についての言及がない」ってのと同じポイントだな)
映画を見ながら、実際に災害になったらどう逃げようか俺は考えた。
かなり踏み込んで災害を描いてるような気がするけれども、どうかな。
1週間ほど前に話題のゴジラを見に行った。面白かったは面白かった。
が、事前ハードルが上がりすぎていたのか、粗(に私には見えた)の部分が結構気になってしまい、正直世間で言われている程に「大傑作」にはあまり見えなかった。
この一週間ほど感想記事などをいろいろ巡ってはみたが、いくつかの批判記事もあまり共感できる内容でも無かったので、ひとつ増田にでも吐き出してみる。なお、いろいろと確認の意味も込めて昨夜もう一度シン・ゴジラは再視聴している。
という訳で以降シン・ゴジラへの不満点を列記する。
まず冒頭の10分か20分くらいで気になった部分。主人公の矢口が会議中に巨大生物に言及するのだが、この時点で矢口がそう判断に至った材料は精々ネットの動画程度であり、あそこでアレを「生物」と考えるのはかなり不自然だ。この時点では矢口は単なる夢想家レベルである。
演出意図としては「唯一真実にリーチしている主人公」のように見えるのだが、それならもっと巨大生物という予測に納得感が無ければ意味が無いように思う。もし矢口をそうした「夢想家」的キャラクターとして描く意図があったのならば納得がいくのだが、以降は基本的に「有能な政治家」然と描かれるのでそれも考えづらい。
基本的に高いリアリティラインで進む映画のため、このシーンで不自然に映画の先を予測した発言があるのは違和感が大きかった。さらにそれに続く、会議室で尻尾のニュース映像が流れるシーンがその印象を後押ししていて、あの映像だけであれを「巨大生物の尻尾」と判断できるというのもかなり不自然に思う。映画の進行のためにさっさと登場人物全員に対象を「動物」だと認識させたい+ゴジラの全体の姿をここでは見せたくない、という意図からああいったシーンになったのだろうが、やはり不自然は不自然だ。
比較的序盤のこの2シーンで、「映画の都合で登場人物の理解力直感力が劇中で変動する映画では?」という疑念が生まれてしまった。
ゴジラに対する登場人物のリアクションとしては、最終形態が現れたシーンでも、あれだけサイズも形態も変化していれば、別個体の可能性への言及があっても良かったのではないだろうかと思う。ここでも映画の進行のため、そうした選択肢を登場人物に不自然に与えていなかったように感じられた。特に「あらゆる可能性を」と発言していた矢口が最後まで同種の別個体の存在に言及しなかったのが不満として残った。
・人の死の描き方について
ネットでは「死がちゃんと描かれていない」「いやアレでちゃんと描かれている」という論争がいくつかあったようだ。
個人的には全体を通してあくまで被害を俯瞰的に描いていたのは面白かったと思う。「対策ルームに篭って黙々仕事をする政治家」が主人公という映画なので、むしろ現場の被害をことさらクローズアップせずに描いたのは正しい。
が、むしろそれならその描き方を徹底して欲しかったという不満があり、2,3箇所ほど不自然に急に人死にがクローズアップされたシーンがあり、そこが「ちゃんと死を描いていますよ」というアリバイ作りのシーンに見えて正直気持ち悪かった。
(一つは倒れるマンションから逃げ遅れた家族、一つは溢れた川から逃げる男性、もう一つどこかで同じことを思った気がするが覚えていない)
この点はあまり大きな不満という程では無いのだが、どうにもモヤモヤとしてしまった部分だ。「全体としては面白いとは思うのだが、細かい不徹底が気になってガッカリしてしまった」というのはシン・ゴジラ全体に対する不満でもあるので、その意味でも言及しておいた。
これは褒めている人の中でも言及している人がチラホラ散見されたが、カヨコのキャラクターはリアリティラインを高めに設定しているこの映画の中で明らかに一人浮いているように感じられてかなり気持ち悪かった。正直ここまで不自然に浮いたキャラクターをこの映画に投入した作劇意図がよく分からない。
とある感想で、「カヨコの突飛なキャラクターによりリアリティラインが下がったために、その後のヤシオリ作戦が受入れやすくなっている」という説明があったが、ちょっと納得しづらい。ヤシオリ作戦はかなり無茶な内容の作戦ではあるものの、劇中の他の展開で「これしか残された作戦はない」という納得感は十分作れており、カヨコの存在が無くても十分受け入れられたと思う。そもそも、対ゴジラ作戦のリアリティラインと登場人物のドラマのリアリティラインとは(相関してはいるだろうが)別の話であり、突飛なキャラクターがいるからと言って突飛な作戦が受入れやすくなるものだろうか? 単に「不自然に浮いたキャラがいた」というだけに見える。
全体通して極めて「大人」な登場人物で物語が進んでいるだけに「なんでこんなキャラクターを入れて雰囲気ぶち壊すんだろう?」と感じた。
・ヤシオリ作戦について
当のヤシオリ作戦についてであるが、例の無人在来線爆弾など独特のケレン味の魅力は確かに素晴らしいとは思うのだが、最後の決着の味気の無さが気になった。有り体に言うと「ショボい」。
意図自体は分かる。派手な秘密兵器などを使うのでなく、人々の地道な対策奔走による勝利を描きたかったのだろう。だが、結局それと特撮的な絵の盛り上がりとバッティングしてしまっているのは悪手だったのではないか。もっと同じ演出意図を満たしながらも、絵的に迫力あって盛り上がる「決着」を描く方法が何か無かったのだろうか、というのがどうしても不満。
注入量を読み上げる緊迫感あるシーンで、「放水した分を全て飲んだ計算して大丈夫なのか?」「そもそもあの生物「口からモノを飲む」という習性自体あるのか?」などの疑問が脳裏をよぎってしまったが、そうした疑問ももっと絵的な盛り上がりがあれば勢いで誤魔化されていたのにな、と思うので、ここも「悪くは無いんだけど、もう一歩足りないなあ」と感じた部分。
加えて、ヤシオリ作戦に関しては、矢口の陣頭指揮の部分にも中途半端さに違和感があり、これまで徹底して「対策室で対応する政治家」を描いてきて、結局最後は「主人公が現場の陣頭指揮を取りに行く」というのを描くのか、というのに少し落胆した。せめて矢口本人が言うように「自分が現場にいる事で出来た微妙な判断」が描かれていればスッキリはしたかも知れない。まあそれをやると矢口がヒーローっぽくなりすぎるきらいがあるのでまた違うんだろうなとは思うのだが。
・「国」のアピール
別に「国威掲揚だ」とか「日本スゴイきめー」だとか言うつもりは無いが、そうでなくても妙に「国」や「日本」のセリフに唐突さというか、無理やり挿入した感があって首を捻った。矢口の「皆休まず熱心に仕事してくれる」から「この国はまだまだやれる」のセリフに繋がるのに飛躍を感じる。前段階として「政治家としてこの国に失望しかけていた矢口」という描写でもあればドラマとして納得しやすくはあったのだが、そういう個人ドラマをフォーカスする映画では無かった。「ニッポン対ゴジラ」というテーマのために無理に接続した感がある。
また、これも同意見を多少ネットで見られたが、総体としての「日本」とゴジラとの戦いを描くのがテーマであるのであれば、あそこまで「東京」のみの話に終始したというのはどうなのだろうと思う。劇中でモブのセリフに地方軽視へのエクスキューズ台詞があったが、正直言い訳程度にしか感じられず、物語として組み入れられてはいなかった。話を2時間にまとめることを考えれば、そこまで舞台を拡散させるのは難しいというのは分かるが、映画全体で「日本」や「国」を強くアピールしていた事との整合性がとれていなかったように思う。
他、細かい部分は置いといて、強く気になったのは以上の点だ。
「細かい事を気にしすぎ」と言われるかも知れない(というか知人に話したらそう言われた)が、気になってしまったのだから仕方ない。面白かったは面白かったが、改善できそうな部分、徹底されていない部分がチラついてしまった、というのは何度も繰り返す通り。「大傑作」の評に期待して見に行ったため、「ここがクリアされてないのか…」というガッカリが先行してしまったきらいはある。
リアルの知人と言い合いになっても後味悪いので、増田で一通り吐き出させてもらった。以上。
<追記>
続きと種明かし
先に言っておきますが、これは別に地方の方を馬鹿にするような意図などは含まれておりません。
予めご了承のうえ、興味を持たれた方はお読みください。
ちなみに書いている人間は東京生まれ東京育ち、親戚もみんな東京という生粋の江戸っ子です。
東京の人は冷たいっていうし……
水道水はまずいし……
とか、いろいろあると思います。
確かに東京はひとがめちゃくちゃ多いです。
朝の山手線(特に池袋・新宿から渋谷・品川方面に向かう電車)や、
そのせいで買ったばかりの鞄の形が思いっきり崩れたり、
乗降客の押し合いへしあいでバッグの取っ手部分が壊れたこともあります。
同じく新宿の靖国通りをまたぐ交差点なんかもひとがたくさんいますよね。
こんなにたくさんの人間がどこから出てきたんだー!! と思ったりもします。
麻布で一人暮らしをしている友人は、9畳ワンルームの部屋で家賃が12万だと言っていたので驚きです。
だけどひとつだけ物申したいのです。
いわゆるメディアに出ている「東京」って、23区のなかでも本当に一握りで
「渋谷区」「新宿区」「港区」「千代田区」「中央区」辺りだと思うんですね。
そこは本当に人も多くてごみごみしていて、確かに慣れていない方なら歩くだけで疲れるような場所でもあります。
「杉並区」「練馬区」あたりは住むにはもってこいとも言われるのんびりとした場所です。
メディアによって切り取られた一部しか見ていらっしゃらないような気がするんです。
さて、話は変わりますが。
以前私は仕事の関係で数か月間A県はB市の某ビジネスホテルで暮らしていたことがありました。
一応伏せてはおりますが、このB市とは
福岡県で言うところの博多市のような場所です、といえばニュアンスが通じますでしょうか。
もちろん出張ということで、A県支社の方々と触れ合う機会もあり、楽しく過ごしておりました。
そして初めてのB市、有名ないわゆる歓楽街でも楽しい思いをさせていただきました。
A県はごはんもお酒もとても美味しいし、B駅周辺はすごく栄えていたので、
このままA県で暮らすのも楽しそうだなあ~なんて思っていました。
そして出張が終わる直前、会社の方々に送別会を開いていただいたのです。
数か月という時間でみなさんと懇親を深め、緊張や遠慮もなくなってきていたため、私を含め周囲の方々みんなが結構酔っぱらっていたときに、ある言葉を言われました。
よくよく話を聞いてみると、
その瞬間、飲んでいたお酒がすーっと身体から抜けていく感覚がしました。
私は東京が大好きだし、自分が住んでいる都市を誇りに思います。
それは他の県にお住いの方も変わらないことでしょう。
だけどどうして東京だけ、面と向かって馬鹿にされることが許されるのでしょうか。
例えば私が東京を馬鹿にされたときに「A県も住むとこじゃないですけどねw」なんて言ってしまったら総叩きにされていたことでしょう。
東京の人は冷たい? そうかもしれませんが、優しい人だっています。
東京は住む所じゃない? 実際に住んでいる人が1,362万人もいます。
東京には緑がない? 新宿御苑や浜離宮など、都心の方が緑豊かな場所もあります。
他県の方となにも違わないんです。
他県の方がご自身の住んでいる県、あるいは市区町村に郷土愛を持っているように、
それを否定されることはとてもさみしく辛いことです。
少し考えていただければわかることかと思いますが、東京なら悪口を言っても良いという風潮、これはいったいどうしてなのでしょうか。
東京を崇めろなんて言いません。
はーいはーいはーい、俺も俺も俺も!
ざっくり言えば、良かった(ざっくりすぎ)。
もう一度見に行きたい。
近年、そういう映画にはとんと当たってなかったので。
ただ反面、疑問点や、ちょっとリアリティーに欠けたかなという点も。
この映画のすごいところは、そういった点すら減点要素にはなりえないところ。
以下に記す。
(※個人の感想です)
なんというか「トーキョー対ゴジラ」のような印象。
「ニッポン対」っていう割には、東京(と関東地方)以外の土地が不自然なくらい出てこない。
5秒くらいインサートされる「ヒロシマ」「ナガサキ」の写真くらいじゃない?
よその土地が出てくるの。
中盤、ゴジラくんったら東京のど真ん中であれだけ盛大に火吐いてるから、キー局の機能は失われてしまってるはずなのに
何事も無かったのかのように放送が続いている。
(例えば、「最終兵器彼女」なんかだと、テレビ放送の機能なんかは失われていく描写だよね)
だけど、そういう描写はない。
別に無いなら無いで、ストーリーテリングの上で絶対不可欠というもんでもないし、構わないんだけど
この映画が紐つけられる「3.11」以降という文脈でいうと、首都一極集中型のこの国で
首都が機能を失ってしまったときどーするの?っていうこの国の弱点がなんの議論もされずに残されているという問題がありまして、
そこに関する見解が何も提示されていないという腑に落ちなさは少々残りました。
(とはいえ「3.11」云々は作り手側が喧伝しているというより、受け手が勝手に関連付けてるだけとも言えるので、
・東京に原爆を落とすという国連(アメリカの傀儡)決議がされたときに、登場人物の誰もが怒りに震えてるんだけど、
個人的にはあまりその怒りを(日本人なのに)自分のものとしては感じられなかった。
「ヒロシマ」「ナガサキ」に続く、3発目の原爆をこの国に落とそうということに憤っていらっしゃるようですが
1発目、2発目とは状況も意味も違うので。
もちろん生死という概念すら凌駕している可能性のある最強生物に対して原爆というある種レガシーな兵器が通用するかという
疑問はあるんだが犠牲者を計画の段から見込まないといけない「ヤシオリ作戦」よりも、原爆投下の方がはるかにスマートなやり方のような気がした。
むしろ、Hatenarとして折に触れて見聞きする機会のある「東京対地方」論で、いつも散々にこきおろされる「地方」にいる身としては
「ざまあみさらせトーキョー民!おごりくさった天罰じゃ!!」くらいのことは感じました。スッキリ!
…というくらい、「東京」と「地方」が分断されてしまってる現状、
やっぱり「ニッポン対」っていうよりは、「トーキョー対」にしてくれた方がすっきりするな。
けど、街が壊されていく様子とか、人が逃げ惑う姿、この映画の核と言える描写のリアルさはシリーズ随一だと感じた
(とくに船が積み重なっていく様子とか、押しつぶされたマンションの中にいる住人が流されていくカットとか)。
当方は東日本大震災が発生した時に震度1すら観測されなかった西日本の街に住んでいて、「3.11」という言葉にあまり
リアリティーを感じてなかったんだけど、
そんな人間でもこの作品を見て、あの日の記憶からは逃げられないんだと感じた。
それほどあの地震が残した爪痕は大きいということを思い知った。
お台場が燃えている→東北が被害激しいらしい→津波が来るぞ!逃げて→(絶句…)→原発が危ないらしい!→ハーイ/
ここまで24時間未満。パソコンの前に噛り付いて動けなかった。
実際、関東大震災の記録も集めてみると範囲も広いし、被害も東日本大震災に匹敵するほど大きい。
にも関わらず、この3.11が日本人にとって特別大きく感じるその理由は、
①ビデオ技術(ここでは単に映像なのではない、フィルムではなし得ないほどの情報量をもつメディア)が開発されて
②リアルタイムでその映像をやり取りできるほどの高速ネットワーク回線というものがそろった後の時代において、
この国が迎える、初めての破局的な災害だったからだという側面もある。
そういえば911が起こるまで、200mを超えた高層建築が実際、どんな風に崩れるかなんて人類の誰一人として想像できなかっただろう。
そういう意味では初代ゴジラ以降、60年余の間に人類がアーカイブしてきた全ての映像が、庵野秀明という最終アンカーの目を通して
https://twitter.com/minowanowa/status/702485090937384960
尊師は「東京」を「ソウル」に置換すればおっけーにもちのろんとライトな感じに言っておられるが。
いや確かに韓国人も都会で消耗しているかもしれない。田舎暮らしを夢見るかもしれない。
だがしかし、そういった意味合いで出版したいのではないだろう?
単なる推測で恐縮だが、韓国人が「東京pgr」するためにもってこいのタイトルだから、出版したい!と言っているのではないだろうか?
つまりは志高き尊師の大切な本がぬわんと反日の本として韓国の書店で並ぶのだとしたら…?
何を言ってるかわかんねーだろーが略
そんな未来はまちここまっちんぐ!絶対に阻止したい!だめ!ぜったい!ぐりーにー!
俺の力ではこの未来を止めることなどできぬ!ハゲ子先生に直訴するに限る!田中正造ばりに直訴したいでごんす!恐縮です!
追伸 いやはやで笑ったら負けですぅ
例えば、オリンピック、ワールドカップの様に世界的なイベントが少ない気がする。
さっぽろ雪まつりも素晴らしいのだが、世界的には中国の大連氷祭りの方が知名度が高いと思う。
コミケ… は盛り上がっているとは思うが、一般層(子供連れてとかハイカルチャーの評価に耐えうる)から見て難しいので、その内、英語系のメディアに、アダルトイベントを国策を上げて応援する異常な国日本という記事が出るだけの話は時間の問題であるので論外だろう。(決してコミケが悪いと言ってるわけではないが、そういう性質のイベントだという話)
本線に戻ると、よいお祭りなどもたくさんあるのに、例えばスペインのトマト祭り、牛追い祭りに比べると世界の認知度が低い気がする一方で、かなまら祭りだけはやたらと知られているのも、なんだかなーという感じ。(逆に日本人の方がかなまら祭りにはあまり行ってもない、尻もしないというところではないだろうか)
映画祭・音楽祭・ファッションウィークも日本でもやっているが国際的な知名度はほとんどない。
コスプレなんかは単独イベントでアダルト性を排除すれば世界でもトップクラスのイベントになれるポテンシャルはあると思うのに、ちょっと残念だ。
それこそ寿司職人ワールドカップを日本で開催してもいいくらいだ。
なぜこうなるかというと、もともとイベント毎にビジネス性がなく、日本の場合とりあえず「東京」に来ればなんでもできるという環境のせいなのではないかとも思っている。
モントルー・ジャズ・フェスティバル、フェットドゥラミュジック、サンバカーニバルなどと比肩しうるいろんなイベントを是非日本からも胸を張って出てほしいものだ。
##トラバもらったので追記
・甲子園はなるほどいいなと思ったのだけど、甲子園はオラが街の高校生を応援したいという日本の土着のコンテキストがイベントに強く付与されてしまう気がして、そうなると世界的なプッシュはなかなかハードルがあるのかなと。
・漫画賞の話に関しては、全く同感で別のポストで書こうと思っていた所。(中身は一緒)
・CWCはトヨタカップの頃を少し覚えてるなぁ。確かに盛り上がっていた。ただ今回の投稿は海外のコンテキストでのイベントを「誘致」するという話ではないので、ちょっと別の議論だとは思うけど。誘致に関してはそれによって国威発揚が必要な新興国やオイルリッチのアラブとかにまかせておけば良いのかなーと。
・増田だとこのレベルでもネトウヨみたいと言われるのは正直困ってしまうが、ブコメは多分違うんじゃないかなぁと。政治色の強いものはブコメはそもそもあんまりID付きだから見ないわないしね。国境のなく且つユートピアに暮らしたいならどうぞご自由にとしか。
http://d.hatena.ne.jp/yahara/20151017
元の記事がトンデモであることは言うまでもないけど、米の価格を素人がぐぐって出すのはちょっと厳しいと思う。
ブログで、「生産者から卸業者へ売られて」いるとする価格と「中小の米卸が(略)く搗精代込みで1kg180〜190円という超低価格で外食へ投売り」を直接比較しているが、卸業者への価格と卸業者からの価格では当然後者の方が高いので直接比べてはいけない(しかし、コンビニの仕入れは卸売り業者から買うだろう。中抜きできていれば話は別だが、その場合流通コストをコンビニが自前で抱えていることになる)。コメ固有の話じゃなければ、一般的には例えば2割とか卸売業者が持って行くものではないか。
「大阪コメ先限年間平均価格」をwikipediaから出しているが、そもそも「先限」の価格の意味する所が理解・説明できているのか。直接比較していいのか。wikipediaの同じページの「東京」の方は2014年(平成26年)の年平均が9,340.70、大納会日で8,030で、だいぶ安く、1kg180〜190円との一致度はかわるがどうか。そもそも直接比べてどうするのかという話だが。参考にhttp://www.zenbeihan.com/data/ の米に関するマンスリーレポートを見てもらえば、推移がもっとはっきりわる(先物で7000円台の時期も見つかる)。こちらのマンスリーレポートには先物でない、毎月の銘柄別の価格が出ている。26年のいくつかの月の分レポートのこちらの欄を見ると、全体感としてはもっとずっと高い(でも、8000円台もまれにある)。さて問題だ、実際の取引価格はどれが近いだろうか。
そもそも一般に、長期大量取引契約の価格って市場価格と乖離していてもおかしくないのは一般論で、大抵は市場より安めになるものと思われるが、米だとどうか。
…ちなみに、米業界に近い知り合いは7000円代というのはいまどきの相場観としておかしくないと言っていた。が、もちろん、生産者の売値とコンビニ業者が仕入れる価格は違うはずだというのは前述の通り。米のように銘柄等で値段が相当違うもので、コンビニはどれを使っているのか。少量高級品とかはそうそう使わないと思うが(コンビニ店頭とかで銘柄を宣伝しているような場合を除けば…)。
さんざん煙に巻いて結局値段についての正確な情報はここまで書いてない。コンビニがいくらで買っているかは正確な情報を入手することはたぶん困難だろう(一方で業界人ならそれなりの推定値は出せるだろう)。ところで、ここで別の観点でどんでん返しをする。というか、なんでそこに気づかないのか不思議なレベルなのだが、
「コンビニおにぎりに使用されるコメは1個当たり80グラムほどですから」を基準に元記事達は重量単価をさんざん計算している。
コンビニで売られているおにぎりの重量は、ぐぐると100g~110gぐらいの数値が出てくる。具や包装を除くと80gというのも「直感的に」おかしくない。が、「流通米」の重さと「炊いた米」の重さがだいたい同じぐらいだと思うのか。炊いたら水を吸って重くなる。どのくらい重くなるかというと、ぐぐると2倍以上程度という数値が色々出てくるが…。つまり、この観点にだけ着眼すると、米を炊くのにもコストはかかるに決まってはいるものの、人件費等を除いた(除いていいのかという話しはあるが原価原価と除いたような話を元記事がしているからそれに従う)原材料費という観点では安くなるだろう。元記事が全て間違えているようだが、その点については値段がもっと下がる話なのだ。
さて、本当の「コンビニおにぎりの米部分の材料原価の相場はいくらか」。あなたはわかるだろうか。もちろん、わかったところで元記事のトンデモがかわるわけではない。
TOKYOのTをロゴにするっていう発想自体は別に、悪くは無いと思うんですよ。
扇子や桜はわかりやすいモチーフだけど、それって凄く古典的で。
大正時代だったら良かったのかもしれないけど、今の日本人は洋服を着るし、東京はビルばっかだし。
かと言ってニューヨークのような、ザ・都会じゃないし、パリみたいに整ってるわけでもない。
「1964」から進化した「今の東京」を具体的なモチーフで表すのって至難の技。
海外から見た具体的でナウい日本文化といえば、アニメ、漫画、ファッション?
さすがにそれをモチーフにしちゃったらそれこそ国民に怒られる。
個人的には「円」って今も昔も日本っぽいよね、と思ってるけどそのへんはおいておいて、
で、東京。東京ってなんか、すっごい独特な場所だと思うんです。
海外の人たちの反応を聞く限りでは、他の国にはないような何とも言えない変な場所。
高層ビル群があるかと思えば、路地裏には小汚い定食屋が並んでて、
大きなデパートが並んでるのに、突然神社やお寺が現れて。場所によっては屋上に鳥居があったりして。
スクランブル交差点があって、うるさいモニターの下で演奏してる人達がいて、ちょっと歩けば広い公園があって。
日本人からしてみれば何てことはない日常の景色を外国人が珍しそうに写真撮ってて。
なんかそういう今っぽいカオス感が「TOKYO」ってものの中に内包されてる気がしてて
東京でもとうきょうでもトーキョーでもなくTOKYOだよなあ、みたいな。
だからまあ「TOKYOのTをモチーフにロゴを制作する」っていうのはアリだと私は思います。
欧文書体って一杯あるけど、その歴史みたいなのはすんごく奥深くてですね。
日本語と違ってとても幾何学的な字体なので、読みやすさ・美しさ・強さ、あらゆる観点で計算されつくしていて。
今から新しいフォントを作ったところで、昔からある伝統的な書体には何をどうしたって敵わない。
で、選ばれたのがDidotとBodoni。というか、「モダン・ローマン体」と呼ばれる種類の書体。
佐野氏が「これを元にしました」とか言っちゃうから話がややこしくなるんだろうけども、
DidotやBodoniを元にした書体なんかそりゃもう大量にあるし、
世の中の活字は手書きのものを除いてしまえば漏れなく「元ネタ」がある。
(遡りまくった先にあるのが2000年前にローマに建てられた「トラヤヌス帝の碑文」と呼ばれる石碑に書かれたTrajan)
美術というよりは数学みたいなもので、美しく伝統的な書体を元にしつつ、
その時代や使用目的に最適化された書体を「新たに作り上げている」のですね。
で、今回はそれがオリンピックのロゴであったと。言うことですね。
蛇足なんだろうけど、好みだけで言えばあのエンブレムは別に好きでもなんでもないです。
円を意識して右下に下げたセリフの片割れ、あってもなくても私には円には見えないし。
黒のインパクト強すぎだし。9分割が逆に気持ち悪いような気もするし。
パラリンピックと並べれば、まあアリかなあ、ぐらいの。これから先の展開に期待というかんじです。
私も招致の時の桜のマークは好きでした。あれを使えばいいとは言わないけど。
長々と失礼致しました。
http://anond.hatelabo.jp/20150709205200 の元増田です。
こんな勢いでホッテントリに入った経験がないので、多少うわついている。
何となく書いただけなのに。
ブコメやトラバもいろいろと興味ぶかく読んだ。鋭いものもあれば、頓珍漢なものもあった。
まあ、埼玉出身といっても、両親ともに埼玉出身ではなく、別に埼玉に住みたいわけではなかったけれど主に経済的事情により埼玉にマイホームを構えたような〝移民”家庭に生まれ育ったので、埼玉人としての自覚も誇りも乏しいのは事実だ。
両親はいまだに海を恋しがっている。
それでも、出身を否定されるのは気持ちがよくないものなのか、煽り耐性のなさを自覚しつつ、ついつい元のエントリにいろいろ追記してしまった。 我ながら大人げない。
一部コメントでも指摘されているが「いいところ、悪いところ」といいつつ、読み返すと過分に「いいところ」よりの内容になっていることに気付く。
そもそも、書き出しの時点で明確にすべての構成を意識していたわけでもないので、結果としてそうなっただけなのだが、なぜそうなったのかといえば、「思ってたよりいいところ」モードでふわふわしている状態だからだろう。
なにしろ、来る前は散々「お前みたいな軟弱モンは大阪に向かない」と言われたし、自分でも「あんな下品で荒っぽくて汚そうな街にはあまり行きたくない、ってか自分みたいなものがいって大丈夫か」と正直思っていた。
来てみたら、想像していたほどではなかったわけである。ギャップというやつである。
もっとも、大阪のほうがオイラをどう思っているのかは、いま今一つつかみかねているが。
悪いところだっていくつもあるが、それは「事前に想像していたこと」を強化することはあっても、覆すことはなかった。
だから、あえて書くまでもないという心理が働いたのだろう。
それに、わざわざ「やっぱりこんなにひどかった」を書いて溜飲を下げるよりも「意外にこんなところがよかった」を見つけていったほうが人生は楽しい。
「コイツのいう埼玉は、俺の知っている埼玉と違う」という視点からのブコメもあったが、それは埼玉県の特性に原因があると思う。
埼玉県は求心力が乏しい。多くの県民が東京のほうを向いているからだ。
西武線、東上線、埼京線、京浜東北線、大宮以北の高崎線・宇都宮線、伊勢崎線それぞれの沿線住民がそれぞれに自分なりの「東京」と結びつき、沿線住民相互の交流はそれほど密ではない。
このことに気付いたのは高校時代だ。どの沿線から通っているかで、明確なカラーが存在していた。
「東京のことをあんまり知らない」という指摘もあったが、それもこのことと関連している。
そもそも東京は広すぎる。埼玉から通いながらすべての東京を網羅するには、膨大な時間とエネルギーが必要だろう。
実際、知らない東京はたくさんある。
東京にあこがれる関西人に中目黒のことを聞かれたって、よくわからん。
ここで、「もっと埼玉を知りたい」にならないのが「埼玉移民」の子孫のサガだろうが。
個人的には「土井善晴センセ」に着目してくれた人がいたのがうれしかった。
実をいうと、こちらに来るまでセンセが大阪の人だというのを知らず、勝手に京都のイメージを持っていた。
大阪だと知ってから、テレビで拝見して、なんか「ああ、自分がメディアで刷り込まれいたのと違う大阪が動いている」という気がしたのである。
そういえば、「土井善晴的なものの源流は米朝師匠」というコメントも見かけたが、「なんだかんだいって米朝師匠は神戸出身。大阪は松鶴師匠や」という意見も聞いたことがある。
この辺については、ぜひ関西の方に伺ってみたい。