はてなキーワード: 父権とは
mochinki スーパーの買い物袋と子どもとベビーカーを全部抱えても平気な筋力とリーチの長さは、育児にとても役立つよ。
kijtra 向いてるかどうかで判断しちゃうと、女性より育児に向いてる男性もいるだろうから平行線だよ。
hiroshe 前提がステレオタイプ過ぎ。全然当てはまらないケースも今はたくさんあるで。
strbrsh うちは多分父母ともに子供と過ごす時間は半々くらいで持ってると思うんだけど、最近はお父さん好き!みたいな感じで、好意の比重は行ったり来たりしてる。妻も俺も得意不得意あるので、補い合えてるんじゃないかと。
catbears そうかも知れないし生物的に実際そうであっても、それを超えて機能するために社会があるわけで苦手な側は克服する手段が必要でそれを選べる豊かさと機能はあるはず。
konayama 出産直後で満身創痍の母親より体力のある父親の方が長時間抱っこや夜泣きに対応できるし育児に向いているのでは?
napsucks 新生児期は睡眠時間ズラして夫が夜中に哺乳瓶でミルクをあげると妻は6時間眠れるのでメンタル破損防止になる。空腹で泣く前に哺乳瓶を突っ込むドリームフィードをすればほぼ手間もない。手抜きしてラクラク育児!
vkara そんなことはない。世の会社が社畜欲しさに母親に押し付ける社会を作っただけ。妊娠出産で苦しまなくても、養子とかで血のつながりはなくてもちゃんと愛して育てられる。
c87 頑張って抱っこしてた夫によくなついてますけどね
yoru_zi 「自分以上の命であるように、我が子を慈しみ大切に育てる」妊娠中、鬱すぎてそんなこと微塵も考えられなかったよ。全ての女性がそんな感性持ってるわけじゃない。男性の方が慈しんでるパターンもあるよ。
adhd1978bba えー。10ヶ月大変に自分を呪い、子を呪い、産むしかなくて産んだ人を知ってる。慈しみってなんやねん。「手術無しでおろせないか」みたいな日々の人もいるよ。男性保育士で有能な人いっぱいみたよ???
nami-hey75 粉ミルクなどない時代には太古の昔から母親が乳を与えなければ死んでいただろうけど、現代ではどちらが乳を与えようと栄養さえ摂取出来れば赤子は死なない。よって性別は関係ない。
vndn 筋力があった方がいいだろうから、傾向で言ったら男性の方が適性が高いのではないかと思う。
yako_baum 育児は向き不向き関係なく子がいたらしなきゃいけないものだから、問いにならない。私だって向いてないなぁと思いながら10年以上子育てしてる(なぜ3人産んだ)(本文読んでない)
liif 10ヶ月お腹にいたから男女差あるって乱暴すぎな理論な気が。やむなき事情や選択で母乳あげない母親もいるし。向いてるかどうかは個人差の方が男女差より大きい気がする。
alt-native 性別関係なく 少なくとも自分は向いてないと思っている。
matchy2 仮に女性のほうが育児にむいているとして、必ずしもむいているひとだけに押し付けられるものではないと思うのだけれど
villoxu “男性の筋肉質で堅い腕より女性の柔らかみのある腕に抱かれる事を好む。"については幻想な気がするし、筋肉質なほうが抱くのに向いてそう。
damehobbyanimelike-913 なるほど抱っこ紐やベビーカーも代用品ですね。カンガルーにでも子育てをさせるのがよいかと……科学の力ナメんな
issai1010 うちは母乳以外は全部夫がやるくらいの気持ちで(とはいっても実際は6割くらい)やったけど、寝るときはパパにくっつくし外ではパパと手をつなぐし転んだ時の第一声は「パパ~泣」だよ。嘘だと思うならやってみ?
akashi735 あなたの感想ですよね。ウソつくのやめてもらっていいですか?ってやつ。うちの息子は0歳から今までずっとパパっこ。
Phenomenon がっつり育休取ったけど「おっぱい出ない」以外では同意できないな。出産で体力落ちてる女性より男性のほうが体力的に向いている気さえするよ。
hope_ring 母親が育児放棄気味で父親が引き取った例を知っている。性差による傾向はあるかもしれないが個人差っぽい
mkotatsu もし男が育児するのが当たり前の社会だったら「男の方が育児にむいてるよね。力持ちだし、感情的で子供の情操教育にぴったり」て言われてると思うわ。人類のこの周りに合わせた雑さが地球で覇権取った秘訣だと思う
monacal 母乳以外は父親でも何とかなる、と男性による育児漫画でよくみる。育児は体力勝負なところもあるし2人がかりでできるならそれに越したことはない。何より出産直後の母親は全治1ヶ月の重症みたいな状態だし。
wildhog 子供と荷物とベビーカー抱えて階段登ったりするのは男の方が得意かも
wdnsdy 個人的には、父親の方ががっちりしてて安定感があって高さもあったから、父親に抱き上げてもらう方が好きだったが…父親の方が25センチも高いから普通に眺めが良かったし。子供は柔らかい方が好きってどこ情報だよ?
ayumun 父子家庭全否定だな。粉ミルクが無い時代は山羊の乳とか米の研ぎ汁を飲ませてたので、増田の理論だと人類男性よりも山羊や米の方が育児に向いている事になるな。
Domino-R 生物学的な比較なら、家事育児は結局は体力仕事なので男の方が向いてる。経験的には抱っこは嫁よりオレの方が上手かったぞ。ただ問題は誰がやるかより、どれだけ(周囲が)サポートできるかだがな。
Nigitama 0~4歳くらいまでは腕力が必要なので、平均を取るなら男性のが向いているのでは?
chikayours 産後体力のない母性よりは力仕事が可能な点においては男性のが育児に向いてるのでは。他人の生命を維持するために要するタスクを覚えて実行することにおいては障害がない限り男女を問わないと思うよ。
kagecage ここのブコメを見ると「男性が育児において不利というわけではない」ということがよくわかっていいな。/夫の方が繊細な気配りができるので育児向いてるだろうなーとは思っている。
masanoT 身体的なところもあるかもしれんけど、それ以上に自分が育児することを前向きにとらえているかの方が大きいよ。自分に向いてないって思ってる人は単純にめんどくってやりたくないんだよ。
chi-Haya 最初は誰でもいいけど少ししたら長くいる人のことが好きになるという話がある。母が一緒のことが多いから、母が有利?になりやすいだけ。母乳じゃないとダメなら母乳飲めない子は死ぬと言う生物学的選択があるはず。
hedgehogx アジアでは男性が育児する風習が結構あるので1度行ってみるといい。
exaray 「違いがあるかどうか」と「役割分担を完全に区別せねばならないほどの有意な違いがあるかどうか」は全然別の話ですよ。「違いの有無」ばかり見て、「違いの程度の問題」を無視してはいけません。
L3msh0 まだこんなこと本気で思ってる人がいるんだという驚きがある。
studymonster 性差が大きな意味を持つ分野もあるけど、育児に関して言えば個人差と経験が大きいと思う。子煩悩の夫の育児スキルは私より高い。お腹の子を慈しむのも夫の方が上で、妊娠中の私のガサツな行動はよく叱られていた。
wakuwakuojisan 向き不向きは個人差でしかなく性別差ではないと思う。というか仮にそうでなかったとしても政治的正しさとしてはそういうことにしておかないと「男の方が仕事に向いているから」って理由で賃金格差も正当化されちゃう
misomico 多くの点で、性差は個人差を超えない
moandsa 傾向はあるかもしれないが個体差はもっと大きい。だいたい慈しんでとかそんなロンマンチックなもんない。切られた傷と寝不足と乳首痛いだけ。体力ある人が適任。
differential 私の母は子供も育児も嫌いで我が子だから仕方なく育てたと言ってたよ笑。孫にも興味なかった。性別より個体差の方が大きんじゃないかなぁ。子を虐待する女も掃いて捨てるほどいるでしょう?
shields-pikes お前は日本会議かなんかの父権主義カルト信者か。/乳児は完全ミルクでも立派に育つ。男性にできない育児家事なんて存在しない。懐くかどうかなんて、接触時間の長さ次第だよ。育児に本気で時間を割いてないだけ。
noki_e 事実ではないですね。有害な言説なので二度と言わないでほしい。我が家では幼児の危険予測と安全確保やら遊び相手も駄々を宥めるのも寝かしつけのゆらゆらも夫のが全然上手いよ馬鹿にすんじゃねえよ
Fuggi 否。むしろ女性は一般に情動・共感力が強すぎて新生児育児に向いてない。赤ん坊が大泣きしてるのは不満があるからだが、母親を責めてるわけじゃない。感情を切って必要なことだけする男性の方が向いてる。
amematarou 女性が向いてるんじゃなくて、女性はホルモンやメンタルの作用で子育てに命がけで取り組むが、男性は一歩引いて見ている。結果、女性がやりたいだけやるので女ばっかりになる。別に向いてるんじゃない。
sin20xx "自分以上の命であるように、我が子を慈しみ大切に育てる"は所謂呪いの言葉な。男性でも女性でも一定の割合で子供に無償の愛を注げるのと同じで男性同様に女性にも我が子ですら愛情が湧かない人もいる。それが現実。
greenbuddha138 性差より個人差の方が大きいことは知っておくべき
kaishaku01 女で母性本能ゼロなので、こういう意見を見るたびに自分がろくでなしに思えてつらい。子供は一生懸命育てているしかわいいが、確実に向いていないと痛感する。
ginga0118 母親はお腹の中にいる頃から繋がっていたのでよく赤ちゃんの鳴き声でなにを欲してるか分かると言うが、あれは嘘だ。単なる経験による気配りによるもの。嫁より俺の方が子供の言いたいことは分かっている。
quick_past ぜんぜん違う。男性が男性の世界を守るために女性をなんとしても家に閉じ込めたい。そういう偏見を補強するための詭弁だよ。本人が望んでもやらせない上に、ちやほやされなくなるぞと脅す。それが君等だ。
esbee 増田、ワイ育休取得したけど、別に変わらないよ。ほっといたら死ぬんだからやれる人がやるしかないんだよ。それが女性であるべきというのは原始時代の発想で、文明社会である自覚があるんなら否定せなあかん
ameshonyan そうかね?うちの娘はマッチョなパパに高い高いしてもらったり体使った遊びしてもらうときが一番ご機嫌だよ。それぞれが得意なことを分担するのがいいんじゃないの。
kerokimu 子供が懐くのは単に世話して愛情を与えてくれる人だからな気がするが
camaci_mv おれ育休とって母親が働いてるあいだガッツリ育児したけど、2歳になる息子氏はかなりパパっ子ですよ。「父親に育てられた子は不幸」という萩生田発言は根にもってる(唐突な政権批判)
yomichi47 初乳後はミルクで大丈夫、実践済。妻は子の泣き声の意味を理解出来ず、自分が全対応したので子供達は私の抱っこじゃないと寝なくなったし、私宛にしか泣かなくなった。結論、赤子の要望に対応できる方が向いている
pptppc2 未来人です。「アンドロイドに育てられた子供は人肌の暖かさを知らないから冷たい人間に育つ」などという差別が未来でも後を絶ちません。このような考え方はこの増田のような人間が発端であると考えています。
atahara 筋肉のある男性の方が子供を長時間抱っこ出来るし、元気な子供に付き合って遊ぶのも体力のある男性の方が向いてるとも言える。この辺は個人差の方が大きいよ。
el-condor 「事実」と言うに足るだけのデータを持っているなら学問的価値が高そうなので公開宜しく/ヒトの本能支配の弱さを考えると、個人差の方が余程大きそう。
vanillayeti あのね、女だって産んだ瞬間から母性本能ダダ漏れになるわけじゃないんだよ。女だって最初の出産子育てはわからないことだらけだけどやるしかないからやってるだけ。女もあなたと全く同じ人間なんだよ
abinosuke 「授乳しながら寝落ちすると子供を死なせてしまうリスクがあるから身体に授乳器官を備えた女性は育児に向かない」なんて事だって言えるよ。育児環境はそれぞれ違うから向く向かないなんて発想は無意味だと思う
nowa_s 子育てしたことないけど、もしすることになったら、行動にムラがあってガサツでうっかり屋で人の気持ちが分からない自分(女)より、何かと行き届いててマメで几帳面で人をよく見てる夫の方が向いてそうだとは常々思う
grdgs んなこたあない。この増田は女を家庭に押し込め、男が社会的強者の位置を譲りたくないという意図があるようにしか見えないね。
tvxqqqq 下方婚して夫にガッツリ育休とってもらって自分は仕事復帰したけど、うちの家庭だと乳以外の面では「長い時間一緒にいた人間を好む」が答えだったよ。夫の育休期間は夫がいないと泣いてた。
mayumayu_nimolove 男女で分ける考え方が良くないんだよ。男でも保育士とかいるだろ。性別関係ない。で、何でこの考え方がいけないかって言うと、女なんだから、男なんだからって性別で押し付けられちゃう社会。わかる?
Yutorigen 身体的特徴の差と見せかけつつ殆ど精神論じゃねーか。男性にマウントを取りたいのか女性に育児を押し付けたいのかは知らんが黙っとけ。
t-tanaka 「向いている側だけがやる」という考えが根本的に間違っている。子供は必ず複数の大人で育てなければならない。向き不向きば関係なく,育児は全員でやるんだよ。
そうですかね?「男性の育児能力は女性に劣る」とは考えにくいです
2.能力的に多少
まず、「女性は10か月以上」からの件はただの精神論で客観性に乏しいです。
また母乳を高評価するのは良いんだけど、それは乳児期の授乳という年代的にも分野的にも限られたものとなります。
子どもは柔らかい肌を好むから女性の方が育児能力が高いは出典不明です。仮にこれが大きな差であったとしても0歳1歳程度にしか関係がないのではありませんか。
逆に言って女性の優位性と言うのがこの程度しか出てこないならば女性は育児に向いているというのは買い被りである可能性が高いように思います。
ステレオタイプでしょう。
男性でも育児に向いてる人もいるし女性でも育児に向いてない人もいる。
ここまで見た傾向として
という傾向が分かった。ブックマーカーの意見を統合すれば「育児の上手い下手に性別は関係ないが、体力と筋力の方で男性の方が有利」という事になった。
それはそうと、百合オタクとかTLオタクの人の百合作品紹介やTL作品紹介文を、私は読んでみたいなぁ。
両方読みたいです♪
これかー。西森路代
https://twitter.com/mijiyooon/status/1194369092636958720
私がこんなこと言うすじあいもないんだけども、匂わせって、無邪気に自分の気持ちがあふれるだけならいいけど、そこに微量でもマウントが入ってるとかぎ分けちゃうもんなんだろうなって。
んでこんなこというと、フェミなのにミソジニー…みたいな感じもあるかと思うけど、男性をめぐって自分のほうがより知っている愛されている、みたいなことでそれ以外の人に知らしめたいという感覚のほうが、ミソジニーを基本としていると思ったりもする。
男性をめぐって女性同士は競い合うものっていうことを内面化している人はもちろんいて、自分もそういう考えに毒されていたこともあったけど、たぶんそんな気持ちは実はいらないのではないかって。
周囲の人に影響を受けるので、父親がそんな風に母親と娘を競争させる感じに持っていく人とかに育てられると、未就学児でもそんな感じになってたりするのを見たことがあって。お母さんがすでにライバルなの…。村上龍が父権の高い男に育てられた娘はモテる女になるみたいなこと言ってたけどこれかって。
(略)
あとまわりまわってもとに戻るけれど、結局はミソジニー内面化させていることは、男にとっては都合がいいわけで、そういう都合のよさ(それは女性がそうというわけではないよ、だって内面化させられてるんだもの)を選んだっていうことが、今回のざわつきの元なんじゃないのってね。
(略)
これは野生のフェミニスト
https://twitter.com/hd_dondon/status/1195989080154075136
某アイドルが匂わせする相手と結婚した件、前にあったUV◯Rworldのやつみたいな「男性アーティストが女性のファンを見下している」に当たるミソジニー案件だと思ってたから、フェミニスト自認の人たちが女性ファン批判の方に流れてるの見て驚いてしまった
「男性ファンが女性アイドルに処女性を求める」ことと「女性ファンが男性アイドルに偶像性を求めること」って背景が異なると思うんだけど、そこを無視して男も女も一緒!みたいにするの、ミソジニストのやり口と変わらないと思うんですが
別に女性無罪論を唱えたい訳じゃないけど、アニオタによるジャ◯ーズの女オタク叩きって昔から酷かったし(今回も見た)、あの手の話題が殊更荒れるのって「イケメンが好きな女性」に対するミソジニーも含まれてるからじゃないかって常々感じていたので。
みんな今のジェンダーフリーの流れってどう思ってるの?
私は賛成だし、このまま進んで50年後がどうなるのか楽しみにしてる。
今の当たり前がどんどん古くなるって面白い。
ということで未来を見てた幕末維新の男たちみたいに(おっとジェンダーバイアスを強調する表現だ)、
*
東京ディズニーランドでも園内アナウンスの「レディースアンドジェントルメン」を「ハローエブリワン」に変えるらしい。
男女を区別しないセリフ。今流行りの、というか世界が向かっているジェンダーフリーの一環。
私はジェンダーフリーには賛成。
「男らしく」「女らしく」を規定されて、違和感をもってきたから。
「男だから~しなさい」「女だから~しなさい」がなくなるのは嬉しい。やっと時代が追いついてきた。
そのほうが効率がいいからだろうけど(グループ分けして思考停止すれば、考えなきゃいけない対象が減る)、
もう元には戻らないだろう。
いまの足かせは、40代以上の頭が古いこと。
昭和の価値観にどっぷりつかって成長したから、急には変えられないのはわかる。
森元首相の発言問題や、炎上しているいろんなジェンダー関連の問題を見ていても、たいてい40代以上の旧世代。
ということで予言。
<現状のジェンダーバイアスの例>
・昔話:「桃太郎」→「桃花子」バージョンもそのうちできる?それか「桃人」
・少年漫画全般:男はバカで単純でエッチで目的に邁進する → そう思うとエヴァが新しかったのは少年漫画然とした主人公ではないから碇くん。
・少女漫画全般:女は可愛くあって男に好かれて守られて恋愛して結婚したらゴール
・サザエさん:お父さんの「バッカモン!」という怒鳴り → もう父権を強権発動する時代ではない → そう思うとシン・エヴァは(略)
・TVCM:男の乗る車はでかくてかっこいい、女の乗る車は軽自動車。
・レースクイーン:今でもいるの?
・男女別のトイレ → 飛行機のトイレとか小さな喫茶店は区別がないから、大きなトイレでも男女別がなくなる。
・履歴書の性別記入欄 → アメリカとかもうないんだっけ? 面接でも性別確認の禁止。「更衣室の問題が」とか「制服の種類の確認が」とかもなくなる。
・伊勢丹メンズ館 → 名称変えるか、もう男女で分けない。デパートのフロア分けもなくなる。単なる「化粧品売り場」「洋服売り場」→そもそもデパートはなくなる?
・男のネクタイ → 女もネクタイするか、ネクタイそのものがなくなる。てかネクタイってそもそもなんなん?
・本屋の「男性著者」「女性著者」の棚 → この区別は今でも意味わからん。男女に当てはまらない作家はどこに陳列されてるの?ブックオフみたいに全部一緒になる。
・女性専用車両 → この問題は難しいけれど、おそらくなくなる。
・「美人社長」「美人起業家」なんかの「美人**」 → イケメンとか美人とかの男女別の外見表現はなくなる
ジェンダーフリーが進んだら、表現行為は難しくなるかもだけど(「男」というキャラ、「女」というキャラの共通認識がなくなる)、
どうしていくかは私達の腕の見せどころだね。
というか産みたいかどうか問うこともせず障害者に強制的に不妊手術してたから衝突したんやで。
個人主義的な産むかどうか自分で決める権利であるうちはいいが、フェミニズムはやはり女性による父権主義に陥る傾向があってこういう賢い我々が押し付けてでも女性が不幸になるような出産を阻止してあげなければならないというような考え方に走りがちなのが怖いところ。
まず、『ダークナイト』は、フロイトの「自我・超自我・イド」の図式に当てはめると解釈しやすい映画です。
そもそもジョーカーってなんなの?というと、病院のシーンでハービーに言っていたように、「混沌の使者」(Agent of chaos)です。
ゴッサムに秩序をもたらそうとするハービーやバットマンに対して、人々の怒りや不安(防衛本能)を煽り、本能的衝動にしたがって行動させることで街の秩序を崩壊させようとするのがジョーカーです。
ここでの秩序とは何かというと、「父権制的な権力」を指します。
これは、明治時代など、近代以前の家父長制でも見られる、父親や「家」といった道徳や社会的信用に基づいて人々を従わせる権力を指します。
近代以前の社会では、家長同士の信頼によって地域コミュニティに必要な産業や社会制度が賄われており、それらの秩序を犯した者がいた場合、例え家族であってもその命を差し出す必要がありました。
父親のもたらす権力・秩序が個人の自由に優越していた時代です。
一方、近代の市民革命以降は、主権者が一般市民(国民)に移ったことで、上記の「父権制的な権力」に個人の自由が優先されるようになります。
コミュニティの構成員の間でも格差があったり、それぞれ価値観は異なります。
するとどうなるかというと、それぞれの権利の拡大やコミュニティの方針を決める上で争いが起きるようになります。
この原動力が、ジョーカーの象徴する「人間の生理的欲求・本能的衝動」です。
『ダークナイト』の公開された2009年はアメリカがイラク戦争の泥沼にどっぷりハマっていた時期で、ジョーカーの爆破などテロ行為と合わせて、この映画をイラク戦争批判と見る人もいました。
私はこの映画がイラク戦争批判だとは思いませんが、「人々の防衛本能によって事態が混沌に陥った」という点では共通していると思います。
イラク戦争の発端は、アメリカを攻撃する大量破壊兵器がイラクにあり、「先制攻撃」の対義名分で侵攻、泥沼に陥りました。
この映画でもそうで、人々が防衛本能によって親しい人物を裏切り、ジョーカーに加担することで一連の計画・悲劇は進みます。
終盤もジョーカーが市内に仕掛けた爆弾から逃げるために船に乗り込んだ一般市民が船内の爆破を免れるために、囚人船の爆破との二択を迫られる展開となります。
終盤の二択のシーンは、人々が社会的信頼や道徳(善)に基づいた振る舞いをすることで危機を免れるわけですが、ここでも生存本能を脅かす不安(本能的衝動)と社会的信頼(父権制的権力)の葛藤が起きているわけです。
この二者の葛藤を説明する概念が、フロイトの「自我・超自我・イド」です。
これらの概念は、父親のしつけを通じて内面化された父権制的権力と動物的欲望・本能的衝動の葛藤の間で揺れ動く人間の自我のありようを表すものです。
この三者の関係を表すものとしてよく触れられるのが、ギリシア悲劇の「オイディプス王」やこの寓話を受けた「エディプスコンプレックス」の概念です。
エディプスコンプレックスの概念によると、幼児期の男児は母親との結婚を望むが、父親と結婚しているため、その願望が叶うことはない。この時、男児に母親との結婚をタブーとする父権的な「規範」(秩序)が生まれ、男児は精神的な去勢を経験するとされます。
要は、母親と結婚したい男児の欲望と、それを男児のモラルとして彼の心の中で禁止する父権制的な権力との間で葛藤する男児の自我の揺れ動きを表しているという話です。
実際、この映画では、ハービーは社会的信用を守る地方検事で、ブルースの幼なじみであるレイチェルの恋人役です。
ブルースのレイチェルへの性欲を抑圧し、彼自身が望む秩序を体現する存在で、ブルースの「超自我」の象徴と言えます。
一方で、ブルース自身に目を向けると、幼い頃に両親を奪ったギャングに、自分自身の幼児期のトラウマである「コウモリ」のコスチュームで私刑を加えることで、彼らに自分と同じ畏怖(トラウマ)を植え付けようとしています。
ブルースが「コウモリをシンボルに選んだ理由」と「なぜシンボルが必要か」(逐次制裁では模倣犯が出るため、模倣犯が出ないよう、悪漢を怖がらせる、畏怖の対象となるシンボルが必要と考えた)は、前作の「バットマンビギンズ」でブルースによる上記そのままの説明があります。
つまり、「ブルース自身が彼の超自我(父親の象徴)であるコウモリになろうとしている」という話で、先述のエディプスコンプレックスにある、父親の座につこうとする男児の精神と合致します。
また、ブルース自身の葛藤として、彼は街に秩序をもたらすという公益性とは別に、Mob(ギャング)への個人的な恨みで制裁を加えている側面があり、この個人的な恨みが暴走してしまうのではないか、そもそも自身の行動はただの私刑(リンチ)ではないかという懸念がついて回っています。
ジョーカーが焚きつけようとしているのは、ブルースのこの個人的な怒りです。
ブルースがMobの制止と社会秩序の実現という社会道徳ではなく、個人的な怒りでバットマンの活動を行なった瞬間、彼はただの犯罪者になります。
ジョーカーの目的は、このバットマンの大義名分を取り払い、自分やスケアクロウなどの怪人や、Mobのようなゴロツキと変わらない存在に陥れることです(この企てに成功したのがハービートゥーフェイス)。
取調室でのバットマン・ジョーカーの尋問シーンで“You complete me.”(プロポーズの慣用句です)と言っていることからも分かる通り、ジョーカーはバットマンが半ば自分と同じ本能的衝動で動いていることに気付いています。
(だから、“You and I, are destined to do this, forever.”となる。)
長くなりましたが、パーティーシーンについて。
このシーンでは、老紳士が父権制的道徳を象徴する形でジョーカーに反抗したため、ジョーカーから“You remind me my father, I hate my father!”(お前見てると俺の父親を思い出すんだよ、大っ嫌いな父親をな!)と反感を買います。
ここでレイチェルが止めに入り、ジョーカーが口元の傷の由来を話しているのが、この場面の一番重要なポイント。
ここで何をしているのかというと、レイチェルを象徴的な意味で自分の女にしようとしています。
というのは、上に書いた通り、ジョーカーはバットマンの片割れです。
すると、ジョーカーにもレイチェル的な存在がいてよい、いるはず、という話になります。
それがジョーカーが”D’you know how I got these scars?”で始める「傷の由来の話」に出てくる「ジョーカーの悪妻」です。
レイチェルをこの悪妻に重ねているのは、逸話に入る前に“I had a wife, very beautiful, like you.”と言っていることから分かります。
ではその悪妻がどのような女性かというと、レイチェルのように慈愛に満ちている反面、ギャンブル狂で、口を裂かれた彼女に寄り添おうとしたジョーカーを拒絶した女性です。
ハービーと同じ検事職にあり、貞淑さを象徴するレイチェルとは真逆の存在です。
ジョーカーのしようとしたのは、レイチェルを自分の別れた悪妻と重ね、彼女と同じ傷をつけることで、レイチェルをその悪妻と同じ側に落とすことです。
おそらくこの逸話自体は嘘です。この場面以前にもGambolのシーンで傷の逸話がありますが、別の話をしています。病院のシーンでハービーに「俺が計画して動く男に見えるか?」(”Do I look like a guy with a plan?”)と言っていることからも、彼がポジショントークしない人間であることが分かります。
レイチェルを殺したり、ただ傷物にするのではなく、その前にこの逸話を挟むことで、その傷は彼女へのマーキングの意味を持つようになり、シンボル的な意味でレイチェルはジョーカーの女に堕落します。
彼女はやがてジョーカーにさらわれて殺されてしまいますが、面白いのは、その時ジョーカーが指定した彼女の居場所です(実際にいたのはハービーですが、言葉の上で彼女と結びついていたのが重要)。
ジョーカーは彼女の居場所を“She’s at avenue X, in Cicero.”と指定しています。
Ciceroとは、共和制ローマ末期の弁論家・政治家・哲学者で、彼の政治思想で理想とする統治機構は「共和制」でした。
「共和制」は、国家主権が人民に存する統治機構で、国家元首(王)により支配する独裁制とは対立する統治機構です。つまり、父権的制的権力とは対立する概念。人民の動物的本能に公共善による秩序をもたらそうとするもので、超自我とイドの調和が取れた状態と見ることもできます。
つまり、超自我とイドの葛藤に揺れるブルースが、本来身を委ねるべき安息の場所にレイチェルがいた、と比喩的に表現されているのです。
(その場所にハービー(父親)を置いとくあたり、徹底してジョーカーは底意地が悪い)
とまぁ、パーティーシーンは、これらの葛藤の舞台となる場面です。
直前でスリロ判事・警察長官が殺されて、ハービーが殺されればゴッサムの司法庁崩壊でその王手がかかっていたり、それを阻止すべく大急ぎで対応するブルースと迫るジョーカーのサスペンスだったり、ヒースレジャーのセリフ回しだったりで見所がいっぱいある、個人的にも好きなシーンです。
俺は自民党ではないから真の理由があるのかは知らないが、夫婦別姓を導入したら家族が崩壊しそうだというのは常識的な予見だと思うよ。
別姓導入したら家族が崩壊するエビデンスがないっていうけど、影響はないってエビデンスもないんだぜ。
例えば離婚率なんてそもそも要因がたくさんあって増減の原因の特定が難しいんだから。
別姓の国で家族が成立しているのだって、血縁とか父権とかで家族の絆をやってるわけで、
日本で別姓導入したらどうなるかの参考にはあまりならない。(それぞれの国の文化や事情ってやつだぜ)
俺はそうゆう認識だから、家族の絆に影響がないというのは楽観的過ぎるし、影響があるというのが常識的な推測だろうと思うよ。
別姓派は家族観への影響はないってエビデンスを出すわけでもなく、
家族観など壊れても構わないと明言するわけでもなく、
家族観へのケアをセットにして別姓を導入しようというわけでもないんだよなあ。
そりゃ何十年でも実現しないよ。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。