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はてなキーワード: 父権とは

2020-02-11

フェミニズム界隈を巡っての反論

 日本フェミニズムが抱えている問題複数あって、煎じ詰めれば「思想善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。

 女性地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構

 しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果殆ど出ていないことに問題があるのである

 むしろ結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲から評価を下げてさえいるのが問題なのだ


 古来より女性男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。

 例えば、近代イギリス小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性自分を殴る男性を好んでいる。むしろ自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。

 このような記述は、文脈的に言えば主人公チャールズストリックランドタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場女性一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。

 また、自然主義人間本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想作家大家である近代フランスエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。


 このように、国の内外を問わず女性に対する男性から暴力というもの散見される。流石に、このような状況は現代において相対的改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。


 問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズム評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である

 具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?

 以下に論点を纏めていく。


1:フェミニズム議論ソフィスティケートされすぎており、一般女性男性認識に馴染まない


 古代ギリシャ劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。


 女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」

 と、戦争反対のため断固セックス拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである

 女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。

 このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代フェミニストらにも見られる。

 女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会地位を占めること――その権利回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀フェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。

 その運動社会において大きく効果を上げた。

 イランのごとき保守的国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体ベールで覆う必要がある。そのような規則女性利益担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体ベールで覆うことを一般的によしとしない。

 女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である

 性はそれまで女性自由にはならなかった。構造主義先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判推して知るべしだが、女性婚姻父権立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代存在していたのである

 自身の性を管理行使する権利が、婚姻不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性権利現代において拡張されたのである

 ここまではフェミニズムにおいて一般的な議論範疇である

 とは言え、問題はこの延長線上にある。


 女性自身身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネス喜劇に見られるように、女性自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性権利の実現が確認できる。

 しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。


1-2:性の解放性的搾取

 相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。


 当然、女性社会進出をする上で、女性自身の性を政治手段として用いることには、危うさが秘められている。

 そのような危うさをして、現代フェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。

 アイドル、性産業広告業芸術

 これらの分野における女性露出性的搾取危険を秘めている、と現代フェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。

 ここにおいて、深刻な二律背反が生じているのは明らかである

 女性スキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?

 残念ながら、この問題に明快な結論は出ていない。


 政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性女性という対照を想起させる。

 男性狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性狡猾である男性暴力行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性尊厳根本からなうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性尊厳考慮されることはない。

 昆虫動物らに見られる、コミュニティコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。

 男性狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。

 勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。

 その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。

 人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。

 我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。

 女性はその能力を大いに用いてきた。


 さて、端的に言って、性的魅力は女性能力である

 それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。

 性的魅力は疑いなく女性能力である女性自身尊厳担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。


 しかし、その能力女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。

 近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。

 例えば、大きな胸を強調したポスター女性の魅力が強調されてはいるが、不適切方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。

 この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。

 とは言え、ここが言わばロドスである


1-3:ソフィスティケートされ過ぎた議論

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。


 勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論錯綜するポイントがある。

 まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。

 女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。

 自分能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である

 例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。

 例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なライン身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。

 絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。

 これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである


 例えば、女性歌手楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

「媚び」はこの場合、不自然女性立場貶める行為であり、最終的な女性不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取対象であると、誰かが指摘する。

 例えば、写真家女性写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

 その「誰か」は、最終的に女性不利益を招くと指摘する。

 例えば、

 例えば、例えば、例えば――


 女性が魅力を発露すること、それが搾取対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性尊厳担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取対象とされてしまうこと。

 女性能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。

 能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益帰着すると、その誰かは指摘する。

 これが、フェミニズムソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である

 カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。

 このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代フェミニズムによって獲得された、女性自身能力や魅力を自身権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。


 能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。

 このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?

 勿論それは不可能であるフェミニズム矛盾にぶち当たっている。

 そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズム論理一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。


2:結論

 結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。

 その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである

 昨今のフェミニズム運動空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾解決することなくして、現代フェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。

 結論としては以上となる。

2020-02-10

フェミニズム界隈を巡っての反論

 日本フェミニズムが抱えている問題複数あって、煎じ詰めれば「思想善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。

 女性地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構

 しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果殆ど出ていないことに問題があるのである

 むしろ結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲から評価を下げてさえいるのが問題なのだ


 古来より女性男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。

 例えば、近代イギリス小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性自分を殴る男性を好んでいる。むしろ自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。

 このような記述は、文脈的に言えば主人公チャールズストリックランドタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場女性一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。

 また、自然主義人間本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想作家大家である近代フランスエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。


 このように、国の内外を問わず女性に対する男性から暴力というもの散見される。流石に、このような状況は現代において相対的改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。


 問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズム評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である

 具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?

 以下に論点を纏めていく。


1:フェミニズム議論ソフィスティケートされすぎており、一般女性男性認識に馴染まない


 古代ギリシャ劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。


 女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」

 と、戦争反対のため断固セックス拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである

 女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。

 このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代フェミニストらにも見られる。

 女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会地位を占めること――その権利回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀フェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。

 その運動社会において大きく効果を上げた。

 イランのごとき保守的国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体ベールで覆う必要がある。そのような規則女性利益担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体ベールで覆うことを一般的によしとしない。

 女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である

 性はそれまで女性自由にはならなかった。構造主義先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判推して知るべしだが、女性婚姻父権立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代存在していたのである

 自身の性を管理行使する権利が、婚姻不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性権利現代において拡張されたのである

 ここまではフェミニズムにおいて一般的な議論範疇である

 とは言え、問題はこの延長線上にある。


 女性自身身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネス喜劇に見られるように、女性自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性権利の実現が確認できる。

 しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。


1-2:性の解放性的搾取

 相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。


 当然、女性社会進出をする上で、女性自身の性を政治手段として用いることには、危うさが秘められている。

 そのような危うさをして、現代フェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。

 アイドル、性産業広告業芸術

 これらの分野における女性露出性的搾取危険を秘めている、と現代フェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。

 ここにおいて、深刻な二律背反が生じているのは明らかである

 女性スキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?

 残念ながら、この問題に明快な結論は出ていない。


 政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性女性という対照類推させる。

 男性狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性狡猾である男性暴力行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性尊厳根本からなうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性尊厳考慮されることはない。

 昆虫動物らに見られる、コミュニティコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。

 男性狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。

 勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。

 その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。

 人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。

 我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。

 女性はその能力を大いに用いてきた。


 さて、端的に言って、性的魅力は女性能力である

 それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。

 性的魅力は疑いなく女性能力である女性自身尊厳担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。


 しかし、その能力女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。

 近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。

 例えば、大きな胸を強調したポスター女性の魅力が強調されてはいるが、不適切方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。

 この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。

 とは言え、ここが言わばロドスである


1-3:ソフィスティケートされ過ぎた議論

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。


 勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論錯綜するポイントがある。

 まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。

 女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。

 自分能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である

 例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。

 例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なライン身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。

 絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。

 これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである


 例えば、女性歌手楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

「媚び」はこの場合、不自然女性立場貶める行為であり、最終的な女性不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取対象であると、誰かが指摘する。

 例えば、写真家女性写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性不利益を招くと指摘する。

 例えば、

 例えば、例えば、例えば――


 女性が魅力を発露すること、それが搾取対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性尊厳担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取対象とされてしまうこと――。

 女性能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。

 能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益帰着すると、その誰かは指摘する。

 これが、フェミニズムソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である

 カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。

 このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代フェミニズムによって獲得された、女性自身能力や魅力を自身権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。


 能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。

 このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?

 勿論それは不可能であるフェミニズム矛盾にぶち当たっている。

 そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズム論理一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。


2:結論

 結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。

 その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである

 昨今のフェミニズム運動空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾解決することなくして、現代フェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。

2020-01-26

選択夫婦別姓がなんでこんなに騒がれるのか分かった

そんなもんどっちでもいいだろと思ってた

名前変えるのが嫌なら、パートナー自分名前結婚してもらえばいいだけやんけと

両方変えたくないなんてそうそうないだろうし

面倒くさいとか言い出したら、結婚自体糞面倒くさい制度だし

ただ、名前をどう名乗るかなんてのは表面的な問題だった

要するに本質は、父権的な家族制度を壊したい勢力とその家族制度を維持したい勢力との前哨戦だったんだな

そりゃ自民は維持したいだろ

家族単位での相互扶助社会保証の基盤にしたい人たちなんだら

また、政治チャンバラごっこかよ

野党はそんなチャンバラやってないで本質勝負しろ

父権的な家族制度を単位とする社会制度を壊しま

これでいいだろ

2019-12-04

買い言葉

ショッキングなのは、勤め先の店長に家庭事情を打ち明けるほどオープンで前向きだった男を、70回以上も滅多刺しにするような憎悪を向けるほどに、被害者が追い詰めていて、かつ、加害者が追い詰められてしまったということだ。そこまでしたのに、自分の居場所を見つけることもできなかったし、そこまでしたのに、被害者は彼を認めようとはしなかった。

被害者自分間男のものヒール役を演じた(それが父権者として当然のことである確信していた可能性もある)ことによる当然の報いとはいえ)、もし加害者が抱えている闇にそれを打ち払うほどの光が差し込んでいれば、誰もそれ以上傷つくことはなかっただろうに。愚か者愚か者を蔑み追い詰め、社会が両者を放任した結果、最も愚かな事態に至ってしまった。それほど積極的社会に向けて自分立場を主張していたのに、まったく何らの進歩もつながらなかったわけだから

自業自得と言うんだったら、事件だって自業自得だろう。人を煽り傷つけても(完全に想像だけど)本当に何の報いも受けずに済むと思う方がどうかしている。そうすることで社会に生じるのは利益であって損失ではないと考える方がどうかしている。

それを否定するのは、法治主義そして人は対等であるという考え方でしかないわけで、それを無視して行動するんだったら、その究極の結果を受け入れるのは当然のことではないか。むしろそのような奴にみすみす殺されるほどつまらない男だった自分を悔いるのが自己責任というものではないのか。まあ本当の悪人なら、みすみす殺されたりはしないだろうから、その点は不幸な出来事かもしれないけれども。

要するに極端な思想は極端な結果しか生まないということだ。極端な利益で捕らぬ狸の皮算用をしがちだけれども、そうせずに偽りの希望を捨てて本物の絶望に安堵する、無感動でも不感症でもない心の強さ、建設的に生きる前向きな精神を持ちたいものだ。

2019-10-31

anond:20191031123257

権力を所持する者としての節度

権力っていうのは「節度」とかいもの基準行使するものじゃないよ。ノーブレスブリージュ、または父権主義的に「正義」を行使する「義務」と「権利」を有しているのが権力というもの

オタク」(の定義なんか知らんが)が権力を持ったら、まずバチェラージャパンみたいなものは真っ先に「性差別的だ」と排除されるだろうね。

2019-10-29

anond:20191029084818

弱者を守るには規律が固い方がいい」って完璧事実でしょ……

オバマヒラリーみたいな「弱者属性を持っただけのテンプラ弱者」は知らんけどさ

例えば毒親メンタルやられたツイフェミネオリベ的な自由なんか与えたところで、自由競争ボコボコにされて終わりじゃん、あの人らだって別に競争に参加して疲弊する自由なんか欲しくないのよ

それより自分が何もしなくても、ガチガチ規律規範自分恩恵を与えてくれるなら、そっちの方がずっといいわけ

結局、父権的なものそれ自体問題じゃなくて、ただ自分に優しくしてくれないか文句垂れてるだけなんだよね

巨乳奇形かいあほみたいな話

誰が言い始めたのでしょうか。

岩渕潤子さんの以下のツイート炎上しています

「いわゆる、そうした日本の童顔・巨乳、でか尻、足細の女性キャラって、一昔前の言葉で、使うことにも躊躇しますが「奇形フェチ」だと思うのですよね。

昔の中国纏足につながるような身体形成で、それは正に男性による女性のモノ化であり、人権人格否定。」

色々思うことがあったので、自身の考えを整理するためにも書いてみました。殴り書きですみません

まずこのツイートの背景を簡単説明します。宇崎ちゃん採用された日本赤十字社の献血ポスターにおける女性の体の描き方が以上に胸が大きく、つまり女性表象現実を逸脱しており、これが性差別に繋がっているのではないかという議論が巻き起こりました。それに対して、巨乳差別している、表現の自由保障されているから良いのではないか、という意見がありました。

女性の「モノ化」とは?

性別という理由のみで性役割を固定され、女性主体を失い、男性理想となるような「モノ」を強制されることを指します。例えば歴史を見ていくと、性は戦争の道具に利用されていました。男性戦争に行き、女性は家庭を守る。父権主義により女性は家庭に入り、男性の子供を産む道具つまり「モノ」として性役割強制されるような歴史があります

今回は、胸を過剰に表現することによって女性男性性的消費の「モノ」と化しているものを堂々と公開することは問題ではないか、ということを論点にしています

巨乳を「奇形」と決めつけるのは差別に当たるのではないか

そもそも今回の批判対象ポスターの性表象になります。ですので、現実存在するGカップ女性(どこから巨乳かの定義は置いておきます)を批判しているわけではありません。また「奇形」と表現されているのは表象結果的要素であり、作者の絵柄や萌え絵文化非難するものでもないはずです。「なぜあえて胸を強調するような絵柄がポスターとして採用され、人の目に留まりやす場所掲示されているのか」が問題の本筋となります

ツイッター上ではこの巨乳奇形差別したという話ばかりが広まり、これに対した反応をしている方ばかりを見かけるようになりました。巨乳奇形だと間違った受け取り方をして、それを広めているのもここの人たちです。

表現の自由保障されていないのではないか

表現の自由人権を守った上で存在できることは周知の事実です。

・なぜあいちトリエンナーレはよくてこれは駄目なのか

あいトリで大きく問題にされていた昭和天皇写真を燃やして踏みつける動画作品。これはそもそも天皇制批判している、日本の象徴を侮辱しているという文脈で見ようとすると誤解を受けます。この作品制作した大輔さんは「心の問題としての自画像」を取り上げ、変遷するイメージ天皇として表現しました。本来世代によって変わる天皇イメージ皇室タブー議論へと接続される予定の作品だった。ただそれが上手く行かずに政治的文脈によってのみ判断されてしまいました。現代アート問題を投げかける作品が多いです。ただその性質上、人間負の感情からスタートすることが多い。私は表現不自由展・その後を支持するわけではありませんが、展示が本来持つ意味に沿って機能せず、短絡的な思考により展示が阻害されたのは問題だと思います。これは余談なのですが、そもそも天皇基本的人権をお持ちなのでしょうか。人権制限されている制度存在することを無視して、この動画作品批判するのはどこか矛盾していませんか。天皇人権について議論するならば、天皇制についてもきちんと議論するべきだと思ったのは私だけなのでしょうか。

・近年の絵柄の傾向であり、デフォルメ範疇であるのでは

→そのような絵柄を好む方も多くいることは理解しています。その愛好人口のある程度の多さ故に、女性的な要素である胸を強調するイラスト一定の支持を受けている。ただ忘れてほしくないのは、女性性的要素が強調されたイラスト不快に思う人が存在するということです。今は女性性的要素を強調しているのみですが、これが水着になったらどうでしょうか。もしエログロだったらほとんどの人が批判すると思います。場に適切か不適切かどうか。その線引きについて現在議論しているのです。

乳房縮小手術をしろと言うのはひどくないか

存在し、受ける人が増加する事実確認しているだけで、勧めているわけではないです。大事なのはこの背景に何があるかということです。胸を性的要素として日常に取り入れすぎてしまい、巨乳、つまり性的要素が強い人が結果的性的視線に晒される機会が多くなった。日常に取り入れすぎるというのは、今回のポスターのように市民権を得すぎてしまたことです。冒頭に戻ります女性の「モノ化」により本来個人的にやり取りされるはずの女性の性が、大勢とやり取りされることが問題になります


この一連のツイートへの反応はどうしても本筋の論点とは違ったところへ議論が流れがちです。第三者が各所を切り取り、論旨をすり替えツイートも見られ、大勢の人がRTしたりしています。これが最近話題フェイクニュースかあ、と感心してしまいました。もちろん感心してる場合ではないのですが。情報判断を誤ると生産的で建設的な議論ができなくなりますそもそも議論ではなく「でも私はー」や「でもこんな人もー」などのように個人的感想や極めて稀な例を出す人もいます感情例外ではなく、一般的な例に則った議論を交わすことをお勧めします。私はこの議論に関しては肯定派にいますが、反対派の意見ももちろん聞きたいです。しかしそれは「胸を強調することに問題はない」「このイラスト公共の場に晒されることに問題はない」ことを証明する意見を求めています

まだまだ書きたいことはたくさんあるのですが、批判が噴出しそうなのでこのくらいにします。

2019-10-07

フェミニストの人って、結婚式新婦新婦父にエスコートされて新郎に手渡される様子とか耐え難い怒りとともに見ているんだろうか。あれこそ父権的、家父長的な家庭の権化な瞬間じゃん。いままで父の庇護のもとにあった娘が嫁いでこれから新郎庇護のもとに入りますって。

2019-03-26

女の不可解な運動夫婦別姓」「LGBT婚」

結婚制度をなくせばいいのになぜ遠回りなことを言うのか

それは女が平等を求めているのではなく父権を求めているからなんですね

2019-02-23

日本教育水準高すぎなんだよなあ

Twitterでまたロリ絵師が凍結されまくってるらしくて「規約で間違って二次元まで規制されてるのが原因」とか言われてるの見ちゃってさあ。そうじゃねえんだよ。欧米では法は人間まり男性のためのものなの。児童人間以下の動物なの。EUNAほとんどは年収四桁立ててもまだ頭九州男児なんだよ。

からロリ動物という人間未満の存在人間肯定し消費する行為御法度なの。同じ人間である実在している児童保護なんて建前はまだ存在してねえの。日本戦争ボコボコにされて年収五桁民クラス倫理観が植え付けられてるじゃん? 九州男児だってそういう驕った父権発想は究極的には人を不幸にするってこと自体はきちんと理解してるじゃん? あいつらはしてねえんだよ。まだ。

言論の自由もさ、せいぜいが政権批判なんだよ。コンテンツが貧しいから。日本みたいに100人集めたらイラストレーター候補が5人出てくるみたいなアドプションはねえの。あいつらは絵も描けないし創作もできねえの。できねえってのはできねえし無いの。

でさ、何が言いたいかっていうと、欧米民は最近日本ロリショタ・ケモの絵をすげー問題視してるんだよ。絵を。あいつらに「絵は言論だし児童搾取してない」は通用しねえんだよなぜなら動物権利人間保証するもんじゃねえから

ここはさあ、アジアボコし返さないとひょっとしたら止まんねえよ。それかガス抜きか。

2019-01-19

anond:20190119121106

からどうした

お前の保守的父権にまみれたふるまいを指摘されて発狂

2018-11-15

東京都青少年健全育成審議会法王庁匹敵する現在

法的な面で男女同権を推進したリベラルフェミニズムを越えて、ラディカル・フェミニズムが目指したのは暗黙の圧政を行う父権主義的な保守文化是正だった。日本的感覚で言うと、文化ってのはふわっとしたもの責任者が居ないわけだけど、欧米場合事情が異なっていて文化責任者宗教的権威、当面の話で言えばローマ法王庁だ。

からこそ、フェミのある時点のゴールは、法王庁から男女同権を認めてもらうことだったし、LGBTのゴールも法王庁からお墨付きをもらうことだった。日本人からすると奇妙に聞こえるけれど、そこに(当面のではあっても)終着点があるから権利運動として終わることができた。全員が終わるわけじゃないんだけど、矛を収めるタイミングとでも言うべきものがあったわけだ。

日本には法王庁に相当するような「日本人全体の文化基調監督する、お墨付きを与える組織」が、一般的にはない(ことになってる)。だから闘争が終わらないし終結宣言も出せないんだが、唯一それに類似した機関が、東京都青少年健全育成審議会だ。ここは「父権社会がその暗黙裡の搾取精神を持って、あたか女性が性商品であることを認めるようなみだらな商表現をしてきた」現在を、規制する能力がある組織だ。だから、この審議会規制を強めれば強めるほど、ラディフェミ的には勝利度があがる。

今は我が国には第二の法王庁があるのだ! 最もこっちの法王庁女性のもの権利保護も推進もしない。(ここではその正しさをとわないが)基本的表現物を規制するだけだ。しかし、それが日本の学級裁判フェミニズムと最高に相性が良いのだ。ま、そんな東京都青少年健全育成審議会からみても最近規制してるものの多数はBLなんすけどね。

2018-11-04

anond:20181104115539

これめちゃめちゃ人文的な意味批判必要そう、イスラム教圏の極端にパワーバランスの狂った父権主義に見える思想がどう確立したのか、家の中で何が起こったのか

anond:20181104073601

既存父権権力に擦り寄って加護を得て勝利」ってそれな。完全にフェミニズムの敗北ですやん。

それ結局、嫁よりも寵愛を得た妾が嫁の子供いびるとか、そういうのの類例ですやん。

2018-11-02

anond:20181101205330

キズナアイの話は、女性が聞き役というジェンダーロールを再生産するからいかん。

という主張から始まったわけですが、

女性セクシーな格好をするなら男を上手くあしらえる自立した強い女でなければならない、

弱くて清純ならブルカでもかぶってろ。

という女性像の押し付けパターナリズム結論回帰してしまうと、

そんな扇情的な格好だから狙われるとか、わざわざ渋谷にいったんだから仕方ない、

と同レベルに陥ってると思うんですが。

子供は、フィクションリアルの如何によらず、なりたい自分になればいい。

いろんな人やキャラクターが居るけど、それをあなた内面化する必要はない。

ということでは駄目なんですか?

やはり父権的に規制しないと?

2018-10-18

キズナアイ放火しようとした父権主義者の皆様方

…がパーカーに巨大な金色の綿棒乗っけたみたいな感じの慶應ボーイ婦女暴行に一切触れてない問題視してないむしろ賞賛してる説を見た気がするのですがどなたかザッと集計していただけます?

2018-10-12

anond:20181012090959

甘ったれるな。

男が男というだけでどれだけの暴力暴言社会圧に晒されてきたと思っているのか。

な~にが「女性限定勉強会を叩く人はこういう輩のこともちゃんと叩いてほしい。」だ。

お前が戦え。

男を叩いておきながら父権にすがりつくなよ、ゴミ虫。

2018-08-05

anond:20180805054420

女性だけの会社を作っても、市場顧客父権主義的・女性差別的だったら潰されてしまうんだよな

いくら優秀な組織でも外部の環境が悪いと失敗する

2018-07-09

医療現場における倫理パターナリズム

https://anond.hatelabo.jp/20180709194600

元増田です。鋭いコメントありがとうございます。本筋から少し外れますが、仰る事に同意です。

看護師を含め医療従事者の多くは、自分達の行為が、形式的には暴行罪傷害罪逮捕監禁罪といった犯罪行為構成要件に該当する、患者法益侵害し得る行為であるという認識が「無い」

 多くの看護師は、その認識が欠如していると思います結果的に、日常的にそういう感覚のまま、人間性というかモラルの低下につながっていきます

 私なりに具体的な論理を補足させて頂くと、

 看護師刑法第174条という法律規定されている「わいせつ罪」の行為、つまり普通人の正常な性的羞恥心を害し」を患者に対して行うのも仕事です。(洗体とか陰洗とか直腸・・以下省略)

わいせつ要件

・通常人羞恥心を害すること

・性欲の興奮、刺激を来すこと

・善良な性的道義観念に反すること

 それが犯罪にならないのは、もう一つの構成要件である「善良な性的道義観念に反すること」でない純粋看護行為の一環として行うこと、に患者が暗黙の社会的合意していることになっているゆえに法律違反という犯罪から特別免除されていると言ってよいでしょう。

 もし、「わいせつ」の最後構成要件である「徒に性欲の興奮、刺激を来すこと」をした時点で看護から逸脱していることから「善良な性的道義観念に反すること」に抵触しかねない。看護師職務行為は「わいせつ罪」と本当に紙一重の事を、社会からの信用「信頼を基盤として成立している」という事ですね。

 必然的にこういった事について、医療従事者・看護師達は、無感覚になりがちです。

 具体的には、ひと昔前に副業風俗嬢をやる看護師達の事が議論となりました。

http://blogos.com/article/86641/

 私の結論は、風俗売春行為をする看護師は、社会の人々からの信頼を毀損する ー 「看護わいせつ行為と同じではないか」、「そんな事に同意した覚えはない」と。そして看護は、"看護必要とする人々からの信頼なくしては存在しない"からして、看護師風俗嬢として副業すべきでない、と(実際は、似たようなもん、と言ってバイト感覚キャバ嬢風俗嬢やる看護師が非常に多いらしいですが)。ゆえに、キャバクラ含む風俗で働くような看護師免許返上すべき、と。

 しかし、看護師達は何が悪いと言って反発しました。

 また、

無条件に正しい行いだと思って、患者問答無用医療押し付け

 というのも、その通りで、これは、パターナリズムと言います

パターナリズム」という言葉父権干渉主義などと訳されます。本人の意思にかかわりなく、本人の利益のために、本人に代わって意思決定をすることを意味し、父と子の間のような保護支配関係を指します。相手無知存在として扱うパターナルな押しつけ

 患者が望んでもない医療行為勝手押し付ける、という問題です。患者自己決定権否定につながります日本ではまだまだ「お医者様様・看護師様様」状態で、全然だめですね。一般、つまり患者側の権利意識が無さすぎます

 医療側がとる「あなたのことは何でも分かってる」とでもいうような態度はパターナリズム典型ですね。パターナリズムは、パトレ(pater)つまり牧師父性。つまりは、「子らよ、私の言うことを黙って聞き入れなさい。これは神からのお告げなのです。すべては子らの幸福のためなのだ」というやつです。医者自分より目上の大人をまるで子供扱いしてしま自己陶酔状態看護師なら「知らないでしょ、あなたの為なのよ、やってあげてるのよ」、という"上から"の態度をひけらかして患者自分の思い通りにさせようとします。

 英単語の「patronize ペイトロナイズ」という同じくpaterを語源に持っていて、直訳すると「保護者ぶるー>(転じて)子供騙しな扱いをする」となる。これは英語圏でも相手侮辱する行為である。だからDon't patronize me!”というのはよく聞かれるフレーズ

 そして患者をpatronizeすることは、患者自尊心品位を奪い、患者の生きる気力すら奪いかねない行為です。

 しかし、日本医療現場では、未だに多いです。看護師側に認識が足りないから。

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