はてなキーワード: 父権とは
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
ショッキングなのは、勤め先の店長に家庭事情を打ち明けるほどオープンで前向きだった男を、70回以上も滅多刺しにするような憎悪を向けるほどに、被害者が追い詰めていて、かつ、加害者が追い詰められてしまったということだ。そこまでしたのに、自分の居場所を見つけることもできなかったし、そこまでしたのに、被害者は彼を認めようとはしなかった。
被害者は自分が間男そのもののヒール役を演じた(それが父権者として当然のことであると確信していた可能性もある)ことによる当然の報いとはいえ)、もし加害者が抱えている闇にそれを打ち払うほどの光が差し込んでいれば、誰もそれ以上傷つくことはなかっただろうに。愚か者が愚か者を蔑み追い詰め、社会が両者を放任した結果、最も愚かな事態に至ってしまった。それほど積極的に社会に向けて自分の立場を主張していたのに、まったく何らの進歩にもつながらなかったわけだから。
自業自得と言うんだったら、事件だって自業自得だろう。人を煽り傷つけても(完全に想像だけど)本当に何の報いも受けずに済むと思う方がどうかしている。そうすることで社会に生じるのは利益であって損失ではないと考える方がどうかしている。
それを否定するのは、法治主義そして人は対等であるという考え方でしかないわけで、それを無視して行動するんだったら、その究極の結果を受け入れるのは当然のことではないか。むしろそのような奴にみすみす殺されるほどつまらない男だった自分を悔いるのが自己責任というものではないのか。まあ本当の悪人なら、みすみす殺されたりはしないだろうから、その点は不幸な出来事かもしれないけれども。
要するに極端な思想は極端な結果しか生まないということだ。極端な利益で捕らぬ狸の皮算用をしがちだけれども、そうせずに偽りの希望を捨てて本物の絶望に安堵する、無感動でも不感症でもない心の強さ、建設的に生きる前向きな精神を持ちたいものだ。
「弱者を守るには規律が固い方がいい」って完璧に事実でしょ……
オバマやヒラリーみたいな「弱者属性を持っただけのテンプラ弱者」は知らんけどさ
例えば毒親にメンタルやられたツイフェミにネオリベ的な自由なんか与えたところで、自由競争でボコボコにされて終わりじゃん、あの人らだって別に競争に参加して疲弊する自由なんか欲しくないのよ
誰が言い始めたのでしょうか。
「いわゆる、そうした日本の童顔・巨乳、でか尻、足細の女性キャラって、一昔前の言葉で、使うことにも躊躇しますが「奇形フェチ」だと思うのですよね。
昔の中国の纏足につながるような身体形成で、それは正に男性による女性のモノ化であり、人権・人格否定。」
色々思うことがあったので、自身の考えを整理するためにも書いてみました。殴り書きですみません。
まずこのツイートの背景を簡単に説明します。宇崎ちゃんが採用された日本赤十字社の献血ポスターにおける女性の体の描き方が以上に胸が大きく、つまり女性表象が現実を逸脱しており、これが性差別に繋がっているのではないかという議論が巻き起こりました。それに対して、巨乳を差別している、表現の自由が保障されているから良いのではないか、という意見がありました。
女性の「モノ化」とは?
性別という理由のみで性役割を固定され、女性が主体を失い、男性の理想となるような「モノ」を強制されることを指します。例えば歴史を見ていくと、性は戦争の道具に利用されていました。男性は戦争に行き、女性は家庭を守る。父権主義により女性は家庭に入り、男性の子供を産む道具つまり「モノ」として性役割を強制されるような歴史があります。
今回は、胸を過剰に表現することによって女性が男性の性的消費の「モノ」と化しているものを堂々と公開することは問題ではないか、ということを論点にしています。
→そもそも今回の批判対象はポスターの性表象になります。ですので、現実に存在するGカップの女性(どこからが巨乳かの定義は置いておきます)を批判しているわけではありません。また「奇形」と表現されているのは表象の結果的要素であり、作者の絵柄や萌え絵文化を非難するものでもないはずです。「なぜあえて胸を強調するような絵柄がポスターとして採用され、人の目に留まりやすい場所に掲示されているのか」が問題の本筋となります。
ツイッター上ではこの巨乳を奇形と差別したという話ばかりが広まり、これに対した反応をしている方ばかりを見かけるようになりました。巨乳が奇形だと間違った受け取り方をして、それを広めているのもここの人たちです。
→表現の自由は人権を守った上で存在できることは周知の事実です。
→あいトリで大きく問題にされていた昭和天皇の写真を燃やして踏みつける動画作品。これはそもそも天皇制を批判している、日本の象徴を侮辱しているという文脈で見ようとすると誤解を受けます。この作品を制作した大輔さんは「心の問題としての自画像」を取り上げ、変遷するイメージを天皇として表現しました。本来は世代によって変わる天皇のイメージと皇室タブーの議論へと接続される予定の作品だった。ただそれが上手く行かずに政治的文脈によってのみ判断されてしまいました。現代アートは問題を投げかける作品が多いです。ただその性質上、人間の負の感情からスタートすることが多い。私は表現の不自由展・その後を支持するわけではありませんが、展示が本来持つ意味に沿って機能せず、短絡的な思考により展示が阻害されたのは問題だと思います。これは余談なのですが、そもそも天皇は基本的人権をお持ちなのでしょうか。人権を制限されている制度が存在することを無視して、この動画作品を批判するのはどこか矛盾していませんか。天皇の人権について議論するならば、天皇制についてもきちんと議論するべきだと思ったのは私だけなのでしょうか。
→そのような絵柄を好む方も多くいることは理解しています。その愛好人口のある程度の多さ故に、女性的な要素である胸を強調するイラストは一定の支持を受けている。ただ忘れてほしくないのは、女性の性的要素が強調されたイラストを不快に思う人が存在するということです。今は女性の性的要素を強調しているのみですが、これが水着になったらどうでしょうか。もしエロやグロだったらほとんどの人が批判すると思います。場に適切か不適切かどうか。その線引きについて現在議論しているのです。
→存在し、受ける人が増加する事実を確認しているだけで、勧めているわけではないです。大事なのはこの背景に何があるかということです。胸を性的要素として日常に取り入れすぎてしまい、巨乳、つまり性的要素が強い人が結果的に性的な視線に晒される機会が多くなった。日常に取り入れすぎるというのは、今回のポスターのように市民権を得すぎてしまったことです。冒頭に戻りますが女性の「モノ化」により本来、個人的にやり取りされるはずの女性の性が、大勢とやり取りされることが問題になります。
この一連のツイートへの反応はどうしても本筋の論点とは違ったところへ議論が流れがちです。第三者が各所を切り取り、論旨をすり替えたツイートも見られ、大勢の人がRTしたりしています。これが最近話題のフェイクニュースかあ、と感心してしまいました。もちろん感心してる場合ではないのですが。情報の判断を誤ると生産的で建設的な議論ができなくなります。そもそも議論ではなく「でも私はー」や「でもこんな人もー」などのように個人的な感想や極めて稀な例を出す人もいます。感情や例外ではなく、一般的な例に則った議論を交わすことをお勧めします。私はこの議論に関しては肯定派にいますが、反対派の意見ももちろん聞きたいです。しかしそれは「胸を強調することに問題はない」「このイラストが公共の場に晒されることに問題はない」ことを証明する意見を求めています。
Twitterでまたロリ絵師が凍結されまくってるらしくて「規約で間違って二次元まで規制されてるのが原因」とか言われてるの見ちゃってさあ。そうじゃねえんだよ。欧米では法は人間つまり男性のためのものなの。児童は人間以下の動物なの。EUとNAのほとんどは年収四桁立ててもまだ頭九州男児なんだよ。
だからロリや動物という人間未満の存在を人間が肯定し消費する行為は御法度なの。同じ人間である実在している児童の保護なんて建前はまだ存在してねえの。日本は戦争でボコボコにされて年収五桁民クラスの倫理観が植え付けられてるじゃん? 九州男児だってそういう驕った父権発想は究極的には人を不幸にするってこと自体はきちんと理解してるじゃん? あいつらはしてねえんだよ。まだ。
言論の自由もさ、せいぜいが政権批判なんだよ。コンテンツが貧しいから。日本みたいに100人集めたらイラストレーター候補が5人出てくるみたいなアドプションはねえの。あいつらは絵も描けないし創作もできねえの。できねえってのはできねえし無いの。
でさ、何が言いたいかっていうと、欧米民は最近日本のロリ・ショタ・ケモの絵をすげー問題視してるんだよ。絵を。あいつらに「絵は言論だし児童も搾取してない」は通用しねえんだよなぜなら動物の権利は人間が保証するもんじゃねえから。
法的な面で男女同権を推進したリベラル・フェミニズムを越えて、ラディカル・フェミニズムが目指したのは暗黙の圧政を行う父権主義的な保守文化の是正だった。日本的な感覚で言うと、文化ってのはふわっとしたもので責任者が居ないわけだけど、欧米の場合は事情が異なっていて文化の責任者は宗教的な権威、当面の話で言えばローマ法王庁だ。
だからこそ、フェミのある時点のゴールは、法王庁から男女同権を認めてもらうことだったし、LGBTのゴールも法王庁からお墨付きをもらうことだった。日本人からすると奇妙に聞こえるけれど、そこに(当面のではあっても)終着点があるから、権利運動として終わることができた。全員が終わるわけじゃないんだけど、矛を収めるタイミングとでも言うべきものがあったわけだ。
日本には法王庁に相当するような「日本人全体の文化的基調を監督する、お墨付きを与える組織」が、一般的にはない(ことになってる)。だから闘争が終わらないし終結宣言も出せないんだが、唯一それに類似した機関が、東京都青少年健全育成審議会だ。ここは「父権社会がその暗黙裡の搾取精神を持って、あたかも女性が性商品であることを認めるようなみだらな商表現をしてきた」現在を、規制する能力がある組織だ。だから、この審議会で規制を強めれば強めるほど、ラディフェミ的には勝利度があがる。
今は我が国には第二の法王庁があるのだ! 最もこっちの法王庁は女性そのものの権利を保護も推進もしない。(ここではその正しさをとわないが)基本的に表現物を規制するだけだ。しかし、それが日本の学級裁判フェミニズムと最高に相性が良いのだ。ま、そんな東京都青少年健全育成審議会からみても最近規制してるものの多数はBLなんすけどね。
https://anond.hatelabo.jp/20180709194600
元増田です。鋭いコメントありがとうございます。本筋から少し外れますが、仰る事に同意です。
看護師を含め医療従事者の多くは、自分達の行為が、形式的には暴行罪、傷害罪、逮捕監禁罪といった犯罪行為の構成要件に該当する、患者の法益を侵害し得る行為であるという認識が「無い」
多くの看護師は、その認識が欠如していると思います。結果的に、日常的にそういう感覚のまま、人間性というかモラルの低下につながっていきます。
私なりに具体的な論理を補足させて頂くと、
看護師は刑法第174条という法律に規定されている「わいせつ罪」の行為、つまり「普通人の正常な性的羞恥心を害し」を患者に対して行うのも仕事です。(洗体とか陰洗とか直腸・・以下省略)
・性欲の興奮、刺激を来すこと
それが犯罪にならないのは、もう一つの構成要件である「善良な性的道義観念に反すること」でない純粋に看護行為の一環として行うこと、に患者が暗黙の社会的合意していることになっているゆえに法律違反という犯罪から特別に免除されていると言ってよいでしょう。
もし、「わいせつ」の最後の構成要件である「徒に性欲の興奮、刺激を来すこと」をした時点で看護から逸脱していることから「善良な性的道義観念に反すること」に抵触しかねない。看護師の職務行為は「わいせつ罪」と本当に紙一重の事を、社会からの信用「信頼を基盤として成立している」という事ですね。
必然的にこういった事について、医療従事者・看護師達は、無感覚になりがちです。
具体的には、ひと昔前に副業で風俗嬢をやる看護師達の事が議論となりました。
http://blogos.com/article/86641/
私の結論は、風俗売春行為をする看護師は、社会の人々からの信頼を毀損する ー 「看護はわいせつ行為と同じではないか」、「そんな事に同意した覚えはない」と。そして看護は、"看護を必要とする人々からの信頼なくしては存在しない"からして、看護師は風俗嬢として副業すべきでない、と(実際は、似たようなもん、と言ってバイト感覚でキャバ嬢・風俗嬢やる看護師が非常に多いらしいですが)。ゆえに、キャバクラ含む風俗で働くような看護師は免許を返上すべき、と。
また、
「パターナリズム」という言葉は父権的干渉主義などと訳されます。本人の意思にかかわりなく、本人の利益のために、本人に代わって意思決定をすることを意味し、父と子の間のような保護・支配の関係を指します。相手を無知な存在として扱うパターナルな押しつけ
患者が望んでもない医療行為を勝手に押し付ける、という問題です。患者の自己決定権の否定につながります。日本ではまだまだ「お医者様様・看護師様様」状態で、全然だめですね。一般、つまり患者側の権利意識が無さすぎます。
医療側がとる「あなたのことは何でも分かってる」とでもいうような態度はパターナリズムの典型ですね。パターナリズムは、パトレ(pater)つまり牧師・父性。つまりは、「子らよ、私の言うことを黙って聞き入れなさい。これは神からのお告げなのです。すべては子らの幸福のためなのだ」というやつです。医者が自分より目上の大人をまるで子供扱いしてしまう自己陶酔の状態。看護師なら「知らないでしょ、あなたの為なのよ、やってあげてるのよ」、という"上から"の態度をひけらかして患者を自分の思い通りにさせようとします。
英単語の「patronize ペイトロナイズ」という同じくpaterを語源に持っていて、直訳すると「保護者ぶるー>(転じて)子供騙しな扱いをする」となる。これは英語圏でも相手を侮辱する行為である。だから”Don't patronize me!”というのはよく聞かれるフレーズ。